マンジャック #15
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マンジャック

 

第十五章 母

 大野達を乗せた車は、最土家の爆発からまさに間一髪で逃げ果せた。成木はいったい何を仕掛けたのか、その爆発は鉄筋造りの最土の家が吹き飛んでしまうほどの凄まじさだった。

 それほどの危険から助かったのはこの上もない幸運だ。とはいえ運転席の原尾は、その事を素直には喜べなかった。大野の膝の上に抱かれている園子の心の内を思うと...。

 一刻も早く病院へ...。今の彼女のせめてもの思いはそれしかない。

 

 園子は爆発の瞬間、意識を取り戻していたのだった。それはあたかも、その時間に自分の家が無くなることを知っていたかのようだった。

 彼女は大野の肩越しに、しっかりと自分の家の最期を見ていた。多くの破片を吹き上げて飛び散る爆炎の中に、自分にとって大切な何が混じっているのか、彼女は小さいながらもよく心得ていた。だからこそ、瀕死の状態に措かれてなお、その目はまんじりともせず、遠ざかってゆく彼方を見つめていたのだ。

 張り詰めた彼女の心はしかし、ある角を曲がって、それが視界から消えたときに切れた。吹き上げる黒煙となっていても、あの家はやはり、彼女にとって絆であったのだろう。

 わたしも...。園子は微かに思った...。

 

 大野も園子の様子を見て、逃げ果せた昂揚感が瞬時に払拭させられていた。

 今、大野が触れている彼女の背中からも、その命の火が消えようとしているのが分かる。自分の中の何かに堪えようとする、背中の微かな震えが弱まってきたからだ。

 普段の大野なら、そんな園子をなんとか生かそうと必死になっているはずだ。

 だが、急速に血の気が引いてゆく園子の顔を見ながら、大野自身にも奇妙なことに、彼の心は急速に乾きだしていた。そして、その心は禁忌な想いに揺れだしたのである。

 この子は死ぬのか...。大野は虚ろに反復する。そして彼の自問は、あろうことか最悪の想いへと徘徊してゆく。

 どうなのだ?...この子にとっては、いっそこのままの方が...。

 大野の脳裏に閃いてしまう、そんなネガティブな感情。それは彼女が、その小さき身体を己の血で真っ赤に染めていたためか。そして彼女が、その身いっぱいに孤独を表出していたためか。そしてなにより、そんな姿が彼の中の何かとだぶったためか。

 大野の迷いはそのまま彼を表すのだろう。彼のこれまでの苦労、経験、生き方全てを...。

 

 大野はふと原尾を見た。

 彼女とて園子の状態を薄々感じているだろう。だが、にもかかわらず彼女は、車を駆る手を休めない。いやそれどころか、速度を増していさえする。そして音をたててカーブを曲がる度に、その心が大野にも染みてゆく。

 大野が驚いたのは、原尾が涙を流していたことだ。

 彼の瞳に映るのは、原尾の必死の想いであり、その想いがまた、彼に何かをだぶらせて...。

 献身...懸命...自己犠牲...愛情...。

 大野ははっとした。憑き物が落ちたように頭のもやもやが吹き飛ぶと、再び自身の右腕に園子の感触を感じる。

 女の子が死ぬ!

 

「しっかりしろ。」大野は原尾の警視庁データの記述を記憶から引っぱり出してもう一度叫んだ。「死ぬな! 園子ちゃん!!」

 しかし園子は反応しない。僅かに丸めた背中は、彼女の心が外界と拒絶している事を示している。

 諦観がこの子を覆っているんだ。大野は思い、焦る。この子はこれから生きていくことを拒もうとしている。いやそれだけじゃない。あまりにも大きな悲しみのために、人そのものを拒もうとしているのだ。

 この子には心の糧となるものが必要だ。孤独を癒すものが...。

 大野は上着のポケットに手を突っ込んで中を探った。確か...確か...。

 

「園子ちゃん、これを持つんだ!」大野が呼びかけつつ、園子に何かを手渡した。

 人形だった。

 最土家に飛び込んだとき、クールの銃を避けるために座り込んだ部屋の片隅にあった人形だった。特に深く考えるでもなく、最土家での騒動が終わったら園子に渡そうと思って拾っておいたのである。あまりにも多くのことがあったために、すっかり忘れていた。

 大野は園子に人形を握らせた。折れた腕には過酷な仕打ちだろうが、優しく包み込むように抱えた腕は、無意識にせよ彼女が自分の一番のお気に入りを認識したと考えて間違いない。

 そして大野は呼びかける。園子が、まだ生きなければならないと思わせる言葉を。

「元気になるんだ。お人形さんが悲しむぞ。

「生きるんだ! 君はお姉さんだろう!!」

 

 血の気は引いたままだったが、人形を掴む園子の腕の力が、僅かだけ強くなった。園子の頭が、少しだけ大野の胸に預けられた。

 園子は助かるだろう。そんな予感が大野をよぎる...。

 だからだろう。大野は、喜びに顔を泣き笑いさせている原尾に言った。

「やっぱり俺は...、残酷な男だ...。」

 

 クールは気がついた。

 彼は道端に転がるようにして倒れていた。最土家の爆発にもろに巻き込まれ、向かいの家の塀に叩きつけられたのだ。

 爆発は一瞬で、火災こそ起こしていなかったが、既に最土の家は形をとどめていない。

 クールは五感を飛ばして状況を認識する。何カ所かの骨が折れ、出血もかなりのものだったが、とりあえず命に別状はないようだ。

 彼はようやく、動けそうなまでに回復したことが分かった途端、立ち上がった。急がねばならない。いくら閑静な住宅街とはいえ、野次馬はすぐにもやってくるはずだからだ。

「ぐっ!」

 とはいえ、あまりにも体力を削られた。クールもそれを認めないわけにはいかなかった。自ら撃ち抜いた胸の傷が、大野に殴られた腹部の疼きが、敗北感を増幅させ、苦々しい思いが彼の身体を熱くする。

 だがなにより彼を打ちのめすのは、最土の頭脳が失われたこと。

 それは今回の作戦の失敗を示し、ひいては彼の野望が挫かれたことを意味する。

 

 クールはふと左腕に付けた小型無線機を見た。ミンとエルヴァの識別信号が消えている。

 クールは無言で無線機のバンドを変えて、アジトに合わせた。

「ブリッジか。ミンとエルヴァが死んだ。お前とジオで二人の遺体を回収しろ。」

 だが、その返答はすぐには帰ってこなかった。識別信号は出ているから、故障ではない。何かあったのかと思ったとき、返答が帰ってきた。

「...やぁ...クールかい...。」

やけにうるさい轟音と共に、ブリッジではない男の声が聞こえてきた。

 火が燃えているのか。それにこいつは...。クールは無線機に向かって言った。

「ギルバートか...。そうだな。」

 無線機の先で感心したような声。

「...良く判ったな。だが、俺が応答していることで、何が起こったか察しが付くんじゃないか。」雑音の中でギルバートは冷笑する。

「...万丈が来たんだよ。あんたの仲間は全滅したぞ。」

「転移防止スーツは無役だったのか。」

「...いやそうでもなかったようだ。が、あいつは集団転移を使って攻撃してきたんだよ。」

「集団転移...。」クールはその言葉を反芻する。

「...そうだ。多人数を一人の人間が遠隔操作できる研究。あんたなら、その価値と恐ろしさが判るだろう。」

 ...。クールは何も言わない。

「...相手が悪かったよな。ここももうすぐ焼け落ちる。あんた達の理想とやらも潰えたってわけだ。」

 

 氷の男が、死にかけているバケモノに尋ねる。

「俺は何故負けた。最強の身体と、最強の仲間を持ちながら。」

「あの二人にか?」ギルバートは、プリンスホテルでの事を思い出して言った。

「くくく。お前があの二人に負けた訳か。」挑発するようにギルバートは続ける。

「あの二人には、求めている物があるのだ。

「おっと。お前も追及しているものはあるって言いたいんだろう。確かにそうだ。お前にも究極の軍隊を作るという表向きの理想がある。だがその先はどうなのだ。」

クールは何も言わない。肯定しないが、否定もしない。

「あの二人は求めているのだ。それが何かは俺の知ったこっちゃない。だが奴等は共に、求める物のために前進しているのだ。」ギルバートは核心をついた。

「最強の身体、最強の部下達を要しても、前進する者にお前は勝てんよ。」

 クールの顔は相変わらず変化がない。だが、言葉だけは思わず漏れた。

「集団転移...それか。」

「どうかな。だがもう少し彼らに付き合ってから死んでも遅くは無いぞ。」ギルバートは不敵に笑った。

「俺は奴等を追うことは出来ん。」

「忘れたのか?」ギルバートは意外だと言わんばかりの声。「お前は俺のお仲間を持っていったじゃないか。」

 無言のままのクールを無視して、彼は最期に言った。

「地獄でいくらでも待ってやるよ。くくく。」

 ギルバートの含み笑いは、雑音が増す中に埋もれていった。

 

 確かにそうだ...。クールはギルバートの言葉に答えていた。だが、あれは、燃えてしまったのだ。

 クールはそう思っていた。車内の弾薬の暴発、最土家の爆発と、二度の破壊に見舞われて、なお形を留めているはずがない。

 しかし、それなら何故、彼の脚は車に向かっているのか。

 言うまでもない、彼の無意識は、今もってそを求めているからだ。

 

 廃墟になった最土家の塀の角を曲がると、クール達の乗ってきた車の残骸が見える。車は爆風でひっくり返っていた。その時には、クールは既にその鉄塊を力づくでこじ開けてでも、求める物を探すつもりになっていた。

「!」

クールはそれを見て、目を剥いて驚いた。

 それは鉄塊の脇に、無傷で転がっていたのだ。

 まるで彼を待っていたように、微笑みさえ浮かべて。

 

 彼らが求める物。それが何かは俺には判らない。クールは再び胸中に湧出しだしている何かを感じながら思った。

 それを手にしたとて、自分に益があるかも判らない。

 だが...。

 クールは歩きだした。彼女を持って。

 

 大野と原尾は駆けていた、園子を載せて通路を滑る手術台に付き添って。

 彼らは最土家から一番近い病院に風よりも速く到達するや、事情もそこそこに園子の手術を要求したのだ。初めはこの些か乱暴な来訪に呆気にとられ、怒気を含みかけていた病院のスタッフも、園子の容態が尋常でない状態であること、大野の言った、”ジャッカーにやられた。”という言葉を聞いたことで態度を変えた。

「死ぬな。園子ちゃん。」

「頑張るのよ。」

語りかける大野達だが、口調がさっきより穏やかなのは、その声が園子に届いているのが分かるからだろう。大野にはさっきまで、折れていても彼の腕を掴んでいた園子の手の力強さでそれを確信していた。

 やがて医師と看護婦に回りを囲まれた園子は手術室の前まで達し、大野達の入るわけにはいかぬ境を越えた。

 園子から見えなくなったことを知って、原尾はゆき過ぎようとする主治医の腕を掴んで止めた。

 不安と真剣がないまぜになったその表情を見て、主治医は優しく言い残したものだ。

「大丈夫。成功しますよ。あの子は生きたがっている。」

扉が閉まった。

 生きたがっている、か...。大野はかつての自分と照らして、どう見たのだろう。

 

 大野と原尾は立ち尽くした。特に大野は、こういう時に原尾にどう接したらよいかが分からず、戸惑っている。とはいえ、彼は今しなければならないことを忘れてはいない。

 頭を掻きながら大野は切り出す。

「あの。マキちゃん。いいかな。」

 はっとする原尾、こくんと頷く。大野はそれを見て、ばつが悪そうに続ける。

「俺、君が対特の一構成員に過ぎないことや、君が今謹慎中であること、あまつさえ無断で外出中の身であることを承知で頼みたいことがあるんだけどさ。」

 ぐさぐさと原尾の胸を刺す言葉だ。よろけながらも彼女は答える。

「な...何です。いったい...。」

 大野は、ちょっと口ごもった挙げ句、ままよと切り出した。

「関東一円にね、戒厳令敷いてくんない。」

 

「話を聞いて下さいよぉ。」

鉄格子の中で情けない声を出して喚いている男がいる。馳太一だ。

「うるさいな。いい加減静かにできんのか。」

髭の巡査が一喝した。その口調から、かなり苛付いていることが読みとれる。

 馳が気が付いたとき、彼は既にこの牢の中にいた。言うまでもなく、クール隊のアジトであった洋館の近くに寝っ転がっていた不審人物として、同地区にある派出所に連行されたのである。

 凄惨な状況にあった洋館敷地内の死体の群の中で、唯一の生存者である馳は、普通であれば重要参考人として本庁に回されるのであるが、おかしなことに本庁との連絡が、少し前から一切つかなくなっていた。同地区担当の警官達はやむなく現場処理を優先させる事にし、馳は命に別状がないのを幸い、巡査の見張りだけでこの地にひっ捕らえておくおことになったのである。

「そんなこと言わないで、ね、僕は対特のメンバーの馳太一って者なんですってば。」

 また馬鹿なこと言ってる。定年も近い巡査は、蓄えた髭を撫でながらうんざりして思った。この男はさっきから何度同じことを口走っているんだか。

「大それたこと言うもんじゃねぇ。」巡査は宥めるように言った。「だいたい対特のメンバーともあろう者があんなとこで寝転がってるわけないだろ。」

「ぐっ。」痛い所を付かれて、馳も詰まってしまう。

 一般に、対特と言えば超一流のエリート集団だという認識が広まっている。事実はどうあれ、そんな機関にこんな情けない若造が所属している訳がない。と、巡査が思っても無理はない...よね。

 

 原尾は病院内のはずれで、携帯無線を耳にあてて相手が出るのを待っている。

「どうしたって言うの? データベースにはアクセスできてたじゃないの。」

原尾が苛ついているのは、事が彼女の思っていた以上に、現在陥っている事態が迅速な対応を要していたからだ。

 何事かと言うまでもない。戒厳令の行使についてである。

 

「ば...馬鹿なこと言わないでよ。」

大野の提案を聞いたとき、彼女は呆れた声で反論したものだった。

 だが、対する大野も一歩として引かなかった。

「全っ然本気だよ。俺は。」そして、続いて一気にまくし立てた彼の言葉は、原尾の反論を抑えるに充分だったのである。「もし集団転移が行使されたら、一昼夜もしないうちに都民全員が成木一人の意志によって動かされることになるんだぞ。」

 

 成木の行き先が判らない以上、この東京周辺において、集団で行動しなければならないような場所は、徹底して監視する必要がある。それは関東地方の全警官を総動員してでも為さなければならないだろう。そしてそんな当局側の不穏な行動を市民に納得させるためには、集団転移の恐怖をマスコミを通じて知らせる他はない。そしてそれでもなおパニックを起こさないためには、戒厳令を発令するしかないのだ。

 だがそんなこと、原尾にどうして出来るのか。

「21号特令があるだろう。」

大野は原尾に言ったものだ。そして、対特の中でも最高の権限発動力を持つ同令を、それ故に最高機密扱いになっている同令を、何故大野が知っているのかを原尾が口に出す前に、大野は言った。

「21号特令で、内閣に直接指示を出すんだ。早くしないと、成木に東京ごと乗っ取られる!」

 

 原尾は、かなり待たされた末に出てきた相手と、電話越しに激しくやりとりしていたが、ある瞬間で呆然として、そのまま通話を切ってしまった。

 頭を垂れて原尾は大野の近くに行った。が、大野は電話口の先での対応の結果が、どうだったのかは事前に知っていたようだった。

「駄目だったんだろ。発令は...。」

 原尾は驚きで目を丸くするも、何とか答える。

「内閣どころか...21号特令も今では名ばかりになってしまったわ。」

 大野は頷く。そして、自分が駄目だと判断した答えだとばかりに、顎をしゃくって原尾の視線を誘導する。

 そこには、待合い室用のTVが置いてあった。中では混乱した構図ながらも、多くの人間が路上に仰向けに倒れ、白衣を着た救急隊員の持った担架が行き過ぎるのが映し出されていた。

「都内の全TV局と、警視庁でアルカガスが撒かれたそうだ。」大野は苦々しげに言った。「クールだな。人工転移を手に入れたその脚で、国外逃亡を図ろうとしたんだろう。交通機関を狙わなかったのはあいつらしい判断だ。」

 皮肉なものだ。大野は思った。敵対していた筈のクールが、偶然とはいえ成木の行動を支援する形になってしまったのだから。

 打ちのめされるように立っていた原尾が、それでも何とか続ける。

「ひょっとしてここでもプロットは、殺人ガスの予定だったんじゃないかしら。」

「どうもそうらしい。」

 うわっ。ち、ちょっとここNGね。

 あ、あらためて...。打ちのめされるように立っていた原尾が、それでも何とか続ける。

「どうすればいいのか見当も付かなくなってしまったわ。市民に情報を知らせる手段はなくなってしまった。もし強引に知らせたとして、パニックを止められる力ももう無いんだもの。」

 最悪だ。大野は思った。成木の居場所も分からないんじゃ。

 だが実は、意外な人物がそれを知っていたのである。

 

「でもやっぱり本当なんですよ。」馳はもう一度牢屋の中で叫ぶ。「信じて下さいよ。」

 馳をして必死の行動に駆り立てるのには、訳があるのだ。彼は突然気付いてしまったのである。操乱が、彼に憑いていた時に彼の頭の中に残した残留思念から、操乱がいったい、何処に帰ったのかを。

 普段であれば依童自身に気付かれるようなそんな大きな思念の痕を、操乱ほどのジャッカーが残すことは無い。が、集団転移を手にしたという事実の大きさが、彼をして興奮を抑えきれず、感情の強弱によって刻印されることの多い思念の残像を、依童である馳にすら判る程に馳の脳内に痕跡付けてしまったのである。

 それは勿論、馳自身が成長したということも言えるのであろうが、そんなことが巡査に判るはずもない。巡査は再び始まった男のシュプレヒコールに呆れて、パトロールに出かけようとする。

「待って。僕には本庁に大事な...伝えなくちゃならない事があるんだ。」

僕しか知らないこの事実を、僕は原尾先輩に伝えなくちゃならない。馳は、スタンガンを突き立ててまだ少し痛む腕ながらも、無理して格子を掴んで哀願する。

「猫の手でも借りたくなったら出してやるよ。エリートさん。」だがしかし、巡査はそのまま出ていった。

 現状において唯一成木の行き先を知っている者が、それを大野達に報らせる手段は、こうして絶たれてしまったのだった。

 

 原尾を助手席に乗せて、大野は彼の車に戻っていた。車の中に置いておいた予備の電池を腕に取り込むことによって、彼の左腕はようやく息を吹き返していた。だが、それが彼を喜ばせることはない...。

 闘う準備が出来ても、エンジンが再び起動しても、彼にはどうすることもできない。敵の居場所が分からないのだから。

 絶望感が彼を覆う。今の状況は、一度はその身に成木を取り込むことすらしながらも、易々と取り逃がしてしまった彼の責任であろう。それを口に出せば原尾は弁護してくれるかもしれないが、他の者が何と言おうとジャッカーを逃がしたことは大野にとって失策なのである。彼はハンターなのだから。

 だから、その失敗を償うために、彼は彼の脳裏に閃く内なる成木と対峙する事を決意していた。それが彼にとってどんなに苦しいことか、彼自身が一番判っているのに...。

 

 原尾は、運転席の大野が長い長い沈黙を保っているのを、黙って見ているほか無かった。彼女にも、今の状況を好転させる手段が思いつかなかったからということもあるが、大野の心象が深い悩みの内にあることを読み取ればこそでもある。

 だが彼女は、大野がこのまま引き下がるとは思えない。そう言う一抹の希望を宿らせる何かを、大野は持っているのだ。それ故、彼女は未だここに留まっているのだ。

 大野が再び口を開いたのは、そんな時だった。

「ちょっと時間をくれるかな。」

 

 長い沈黙の後のことだった。大野はそれだけポツリと言って、傍らの原尾の方を向いて彼女の答えを待った。

「え?」原尾は言葉の真意が読みとれないために少し戸惑ったが、どのみち大野がする事を反対する理由はない。「い...、いいわよ。」

 大野はその返事を噛みしめているようだった。目を閉じて、彼はシートを少し倒した。そして大きく深呼吸をしてから、話し始めた。

 

「俺が、五才の時だったな。もう二十年以上経っちまってるが...。

「俺の父はある商事会社の部長、母はピアノの講師をやっていた。父は忙しくていつも遅かったから、ろくに遊んでくれなかったな。母は家が仕事場だったから、構ってもらえないということはなかったんだが、会えない時間の方が多かったんだよな。まぁ、詳細は別にいいか...。で、そんなある日のことだった...。」

 大野の話は続く...のだが、彼の語りで展開を進めてゆくのはちょっと面倒くさいので、著者の視点で彼の過去の回想を肩代わりして綴りたいと思う。

 大野は自分の幼い頃の話を続ける。そこで語られるのは、五才の時の大野の姿...。

 

 五才の大野はその日、いつもと同じように自分の部屋で遊んでいた。友達は近所にいないので、今日も彼は一人でミニカーや飛行機の模型などで遊びながら、己の内の想いを広げていた。彼の時間の多くは、そうして過ぎてゆくのだ...。

 二部屋向こうから、ピアノの音が小さく流れてくる...。どこかの小学生に教えているのだろう。仕事と家庭の区切りはしっかりつける彼の母のこと、その音が流れている限り、彼が母に会うことは許されないのだ。美しい調べがたゆとうている時はそのまま、彼にとっては自分が母を求める声も届かないことを意味している。

 周りの人が、彼と心を通わせない。彼は独りに慣れていたが、それでも、ふっとそんなことを思うとき、いつも小さな疑問と不安が幼い心を揺さぶる。

 人は、僕を嫌っているのだろうか...。

 さっき動かした、月の映像が映し出されるブリキのロボットが、ようやく彼の足下に達した。彼は両手でロボットを拾い上げるや、その顔を見る。

 四角い顔に四角い目、日本人向けに愛嬌のある顔に仕立てられているその人形の顔は、彼の眼差しを受けとめてはくれるが、見つめ返してはくれない。

 四角く閉じたその口は彼に決して挨拶をしてくれることもない。

 人を欲する大野の内なる想いは、なればこそその男に聞かれてしまったか...。

 

「...ちゃん...。一色ちゃん。」

大野はびっくりした。ロボットが話しかけてくれたのかと思ったのだ。だがいくら彼でも、それがある筈のないことであると思う分別はある。

 彼は見回した。何処から声がしたのだろう。

「一色ちゃん。」

 大野はもう一度叫ばれた自分の声に、今度こそそちらに顔を向けた。

 男は、大野の部屋の窓から覗き込んでいた。三十がらみであろうか、無精ひげを生やした顔にぎこちない笑みを浮かべて、大野に微笑みかけている。

「誰?」驚きもせず、大野は不思議そうに男を見つめた。自分の名を呼ばれたので、警戒心が解けたのである。

「一色ちゃん。」男は、表札で確認しただけの名前を連呼する。「ちょっと、こっちに来てくれないかな。」

 大野の家の裏側に面したところに彼の部屋はあるので、表の通りから男は死角になっている。二人の邂逅に気付く者はいない。

「おじさんは君に話があるんだよ。ちょっとこっちに来てくれないかな。」

 大野は座り込んだままじっとしている。どうしようか迷っているのだ。

 この人は誰だろう。大野は思う。お母さんを呼んでこようか。でも、仕事中に呼んだりしたら怒られるだろうし。

「知らない人と...話しちゃいけないって...。」

 男は大野の言葉のどこかを読み取る。そして目敏く思うのだ。脈がある...。利用できる。

「そんなこと言わないでおくれ。」男は言う。「ひとりぼっちの一色ちゃんと、お友達になろうとしてきたんだから。」

 友達。

 大野の胸に、奇妙な暖かみをもってその言葉は響いた。彼にとってその言葉は、はっきりとは判らなかったがとにかく、欲しかったものだったのである。

 大野は立ち上がっていた。無意識にと言ってもいいくらいにいつの間にか。

 彼は男に近寄っていく。漠然とした誘惑が、彼をそんな行動に駆り立てる。

 男は顔に笑みを浮かべたまま、大野が近づくのを見つめている。彼はどうして大野の心が判ったのだろう。どうして大野の心の空虚さを見抜いたのだろう。どうしてそこにつけ込めると思ったのだろう。

 

「それは今となっては知る由もないことだけど、次の瞬間、俺は憑かれていた。」大野は原尾に言った。「そしてそれが俺にとっての、初めてジャッカーなる者との出会いだったんだ。」

「!」

原尾はようやく大野の行動の意図を理解した。大野はイド催眠を自分に掛けているのだ。それも、意識を覚醒させたままで。

 大野がその話をしている間、原尾の了解のコミュニケーションを全く無視して語り続けた。その様から、決して普通の意味での昔語りを彼がこんな状況下でしているのではないことは理解できた。だが、まさかイド催眠だとは。

 先述したように、イド催眠とは深層意識中を探り出す為に、己の意識をサイコダイブに集中しなければならない。しかも普通のイド催眠は、かなりの知識と経験を積んだ施術者のナビゲートによって行われる。でないと、富士の樹海よりも錯綜した脳という迷宮の中で永久に漂い続ける羽目に陥りかねないからだ。

 なのに大野は、自分一人で、しかも意識を覚醒したままサイコダイブを行っているようなのだ。

 それは大野がこれまで、一匹狼のような形でジャッカーハンターとして生きてきたことに起因するのだろう。誰にも頼ることのない生き方が一人でのイド催眠を思いつかせ、いつ襲われるかもしらぬ闘いの状況が、覚醒しながらのサイコダイブを必要としたのだろう。

 し、信じられない。原尾はその神業といえる危険行為と高度な技術力に、舌を巻かざるを得なかった。

 では何故原尾が、大野がイド催眠を掛けていることに気付いたのか。それは大野の話が、原体験に基づくものだったからである。

 記憶とは連想を基盤として固められてゆく。ある人にとって”初恋”と言う言葉は”学生時代”を連想させ、その”秘めたる想い”と共に浮かんで胸を熱くさせるようなものだ。(例えだよ例え。)そして原尾が先程行ったイド催眠に於ける例をとっても判るように、ジャッカーの記憶はジャッカーの記憶が集中している場所に集められるのである。

 大野は自分の中に成木が憑いたときの行動の軌跡を見つけるために、自分の中のジャッカーとの出会いという原体験を反芻して、そこから成木に近づこうとしているのだ。大野の昔語りの本質はそこにある。

 原尾の閉じた心を外に開かせた転移療法士が、彼女にとってのジャッカーとの原体験であった。彼女はその幸福な出会いを心の糧として、己の一生の方向性を決めたのだった。

 では、大野にとってのジャッカーの原体験とは、いかなるものなのであろうか。

 

 五才の大野はその瞬間、自分の体内に起こった不思議な現象に、不安と戸惑いでいっぱいになった。

 ど、どうしたんだろう。身体が...。僕の身体が急に動かなくなった。

 痺れているのか。おかしくなったのか。大野は動揺している。

 そんなとき、耳からではなく、別の場所からの声。

 おや。寝てないなんて珍しい奴だ。

 さっきの男の人の声だ...。大野は悟った。でも、何処から聴こえてくるんだろう。

 お前の心の中さ。俺はお前の脳味噌に直接語りかけているんだ。

 ど、どうなってるの。どうしようっていうの。大野は何が何だか判らない。

 ちっ、面倒なことになっちまったな。普通は俺が転移した瞬間、そいつの心は眠っちまうのによ。

 男はぼやく。だが大野には、男のそんなぼやきすら感じとれる。

 でも身体は俺が乗っ取ったみたいだな。そんならまぁいいや。仕事にかかろうか。

 し、仕事? 何するの。怯えた大野は男に尋ねる。

 うるせぇな。強盗に決まってんだろ。俺は他人家の人間にとり憑いて金目のものを頂戴しておまんま食ってんのさ。男は面倒くさそうに大野に言った。

 人にとり憑く...。男は、そこで少し考え、当時ようやく言われ出した新語を、自慢げに言ったものだ。

 俺はマンジャッカーだからな。

 大野はその言葉の持つ響きを生涯忘れないだろう。

 マンジャッカー...。人に憑く者...。

 

 大変だ。大野は事の重大さを理解した。男は悪い奴だったのだ。大変だ...。

 そうこうしている間にも、彼の身体は男の意志のままに部屋を抜け出し、家の中の金品を物色し始めた。

 自分はどうすればいいのか。どうすればこの男を追い出すことが出来るのか。大野は必死で考えを巡らす。お母さんに報らせなくっちゃ。助けてって、表で叫ばなくっちゃ。

 大野は知らなかった。ジャッカーに自分の考えは筒抜けであることを。

 そうか。男は言った。お前の母親に聞き出すのもいいな。

 ガン! 大野は頭を撃ち抜かれたような衝撃に心が震えた。自分の犯したミスの重大さを痛感したためだ。

 ピアノの音は暫く前から止んでいた。それは、ピアノの教師であった女性が母になることを示す...。

 男は大野の身体を進ませて、台所に向かった。そこでは、母が食事の支度を始めていた。

「お母さん。」男が大野の口から呼びかけた。

 振り向いた母は、我が子に対する慈愛で満ち溢れていた。その時の彼女の美しさを、大野は長じても瞼に焼き付けている。

「大変だよ。お母さん。」振り向いた母に、男が言った。「泥棒が入って、お金を持ち出そうとしたんだ。」

 大野の母は息子の言葉に仰天した。大変だ...。

 彼女は居間に駆けた。大野の言うとおり、かなり散らかされている。通帳や、貴重品は大丈夫だろうか。彼女は寝室に向かうや、タンスの引き出しを開けてそれが無くなっていないかどうかを調べた。

 あった。彼女はひとまず安心した。が...。

「そんなところにあったのか。」

 母は息子の奇妙な言い方に怪訝な顔をしたが、警戒しているわけではない。そこに大野が近づいていく。だからこそ、大野の心はますます絶望感に浸っていく。

 何とかしなくては。何とか。何とか...。

 大野の動きが止まった。

 母が近寄ろうとする。違う、違うんだ! 大野が声を発した。彼の懸命な気持ちが、奇跡を起こす。彼は叫べたのだ。

「触らないで!」

 母は止まった。

 何かの力に抗いながら、大野は必死に言葉を発する。

「お母さん。...逃げ...マンジャッカー...!」

 当時はジャッカーなどと言う言葉の、まさに黎明期。母もその言葉に馴染みのない普通の暮らしをしていたから、それに対して反応が鈍いのは宜なるかな。だが、彼女も常ならぬ息子の異変には気付かぬ筈がない。その息子が触るなと言うのだから、よほどのことなのだろう。

「よ、良く判らないけど、待っていて。お医者さんを呼んであげるわ。」

言うと、彼女は電話に走っていった。

 なっ! 驚いたのは男だ。何だこのガキは。

 男が驚くのも無理もない。彼はこれまでに何回も転移していたが、転移中に被転移者(依童という言葉はまだつけられていなかった。)が意識をはっきりさせていること自体経験がない。それにも増してこのガキは、マンジャッカーの俺を押し退けて身体の制御を取り戻しさえする。

 しかも男にとって更に危険なのは、大野の母が救急車を呼ぶらしいことにある。そんなことをされたら、この家の裏庭に置いてある離魂体を確実に見つけられてしまう。ジャッカーにとって、それは正に致命的だ。

 ちぃっ。その男とてジャッカーだ、彼はありったけの精神力でもって大野を押さえ込んだ。元々一瞬でも制御を取り戻したこと自体が出来る筈のないことであれば、大野は忽ち深層心理下にまで吹き飛ばされる。

 このままでは身の破滅だ。我の強い男は思考が短絡的だ。男は離魂体の危機に直面したことで、既に殺気立っていた。

 男は大野の身体を台所に突進させると、母が直前まで使っていた包丁を手にした。とって返して、男は母の元に向かう。

 あぁ! 大野は男の行動を止められない。いつもは少しでも近づきたい母に、一歩向かう度に今は恐怖がいや増して...。

「ええ。三丁目の角の本屋さんを曲がったすぐの所です。お願いします。息子の様子が変なんです。マンジャッカーとか、妙なことを口走って...。」

電話口で大野の母は説明している。そこにゆっくりと近づく大野。

 やめて、やめて。お母さんを殺さないで。大野は無我夢中で意識を駆け上がっていく。

 ぐっ。男は再び、大野の身体の制御にストレスを感じだして驚きを隠せない。

 こ、このガキ、何て奴だ。

 今や精神力の勝負だ。往く者と帰す者。殺そうとする者と生かそうとする者の闘いが、小さな体の中で繰り広げられている。

 母を守ろうとする意志。

 自分の命を助けたい本能。

 母が受話器を置いたとき、大野は彼女の目の前で硬直していた。電話の置いてある居間は和室であるため、母は中腰になって電話を掛けていた。つまり今、二人の目線は同じ位置にある。

 逃げて。大野の叫び。

 くっ。男の罵詈。

 この状態のまま、お母さんが逃げればひとまず安心だ。大野が思ったとき、男が奸智をみせる。その精神を全て、包丁を持つ左腕に流し込んだのだ。局地的な精神の集中は、その部分の制御を完全に男の元に掌握させた。

 

 振り上げられる包丁。

 鈍く光るそれは、屈んでいた母の胸に突き刺さった。

 

 あ...。

 大野が声にならぬ声を吐いた。

 この腕が、僕のこの腕が、お母さんを...。眼前の映像を理解するにつけ、大野の思考はようやく動き出した。

 あ。あ、あ。僕が...。

 ああああああああああああ。悲しみを表す声が重なる。それは止まることなく大野の中で反響を続け、ある瞬間、声はとうとう、声帯に達した。

「ああああああああああああ!!」大野の絶叫。

 その時だ。大野は自分の中で何かが弾けたのを感じとった。それが何かは判らないが、今の悲劇が発端となったことは間違いがない。

 そして彼に、それまでとは違う、新しい力が、沸き上がってきたのだ。

 母を刺した左腕、そんな自分の腕と、そこに潜む男に対する絶対的なまでの嫌悪感。その想いはやがて、怒涛の勢いを為して細胞の一つ一つにまで達した。そして細胞は、己に入り込んだ異物に対して、一斉に排除の波動を出した。

 拒絶波だ。

 男は大野の体調の突然の変化に、当初何が起こったのか判らなかった。だがすぐにも、そのあまりの激痛に叫ばざるを得なかった。

 があああああああぁあぁあああ!

 男はパニックになった。何だいったい。このガキは、どうなってるんだ。

 痛みの頻度は治まるどころかいや増す一方だ。男は激痛から逃れたいあまり、大野の体内を這うようにして逃げる。痛みが少しでも少ないところに行こうと、その精神の全てを左腕の先端の方に進ませてゆく。

 左腕に...左腕に。この腕がお母さんを。出ていけ、出ていけ...出ていけ!

 大野の激情が極点に達した。拒絶波が臨界に達し、体内の細胞が異物への最期の攻撃を行う。

 異物との心中、暴発である。

 自発的な一部細胞の自殺であるアポトーシスとも、傷んだ細胞が崩壊するネクローシスとも違う、速度も規模もけた外れの爆発を、男が入り込んだ左腕の細胞一つ一つが決行したのである。

 肩口の肉が弾け、瞬く間にそれは大野の左腕全体に広がっていく。

 男の断末魔の叫びが、骨を通じて大野に伝わってくる。だが大野はそれでもなお絶叫を止めようとしない。腕を失う激痛にすら勝る男への嫌悪感が、拒絶波の暴走を抑えることを許さない。

「ああああああああ!!!」

 爆発! あらゆる細胞が弾け、大野の左腕だったものの全てが吹き飛んだ。

 

 静寂。

 母は倒れていた。彼女は微かに残った意識で、息子の惨状を見て取った。

 大野は彼女の前に、呆然と立っていた。左腕は既に無く、左肩の付け根からは大量の血が流れ出している。

「大丈夫?」母は言った。己の命が消えようとしているのに、それでも大野のことを想うのだ。

 献身。自己犠牲。そんな言葉を大野が知る由もないが、母の想いが彼を正気に戻したことは間違いない。

「痛いよ...。お母さん...。」

 大野は、母の傍らに倒れ伏した...。

 

 原尾は泣いていた。

 大野は話し始めたときと同じ、淡々とした語り口で言った。

「救急車が駆けつけた時、母は既に死んでいた。俺は母にしっかりと抱かれていたらしい。自分の胸の傷も構わずに、俺の肩を押さえていてくれたから、出血が致命的にならなかったんだそうだ。そうそう。俺にとり憑いた男の離魂体は、裏庭でヴァンパイヤになっていたってことだ...。」

 大野は前を向いて、宙に視線を漂わせたままだ。

「親父はその後、俺を養ってはくれたが、可愛がってはくれなかった。俺の中に母の面影と、その母を殺した男の影を両方見ちまってたんだろうな。そんな親父も、数年前に死んじまって、それからはずっと一人でハンター稼業ってわけさ。

「どうだった。これが、俺が母殺しの男と呼ばれるゆえんさ。」

 何て事なの...。原尾はあまりのことに声も出なかった。大野のマンジャッカーに対する原体験は、彼の生涯の中でも最大の悲劇とイコールだったのだ。大野はハンターをしている以上、ジャッカーに憑かれたのは一度や二度ではあるまい。原尾の悲しみが止めどないのは、大野がその度に今と同じように、ジャッカーの手がかりを掴むためにイド催眠によって母の死を再現しなければならなかったろう事が察せられるからだ。

「あなたは...。」原尾はそこで言葉に詰まった。

「俺は全く変な奴だろう?」大野が自虐的に言う。「そんなジャッカーと、どうして関わり合うような事をして食ってるんだろうって。

「ハンターになるしかなかったんだよ。拒絶波なんていう力を生かすには...、俺が生きていくためには...。」大野はまだイド催眠の途中であるが、涙が頬を伝ってしまう。「皮肉なもんだろ。ジャッカーが俺を社会の中で普通に生きる術を奪い去ったのに、そのジャッカーがいるお陰で、俺は社会の中で生きる場所を与えられているんだから。」

 ああ。原尾は胸が締め付けられるような思いに駆られる。この人はなんて哀しい人なのだろう。自分にとって悲しみしかもたらさないであろうジャッカーとの闘いを、人生の最初から否応なく運命づけられてしまっていたなんて。

 選択の余地のない地獄の未来を歩まねばならなかったこれまでと、更に歩まねばならないこれから...。この人はどうして生きてきて、どうして生きていくのだろう...。

 原尾は思わず、大野を抱きしめていた。大野の口からこれ以上哀しみが漏れないように。大野の哀しみを少しでも和らげるように。

 

 大野がそれに反応している。サイコダイブから浮上してきているのだ。

「止してくれよマキちゃん。離してくれないか。」

 原尾は力を緩めた。イド催眠が終わろうとしていることを悟り、サイコダイブの方に影響が出ることを畏れたからだ。

「俺は自身がないんだよ。自分の意識に...。」大野は呟くように言う。「俺は五才の時にジャッカーに憑かれた。そしてそのジャッカーは、俺の体の中で死んじまった。だから...。

「俺は...、その状態のまま長じたのさ。俺の中に、別の人格が居るかもしれないという不安を持ったままでね...。ほら、河合が言ってたろ、俺が自分と同じ匂いを持っているって。あれはきっと、俺の中にジャッカーの匂いを嗅ぎ取ってたからなんだよ。」

「違う...。」原尾は呟いた。「違う...。」

「だから...。俺に優しくしないでくれ。」少し力を込めて大野は起きあがった。原尾は力を抜いていたので、すぐに彼は彼女の胸から抜けることができた。

「俺は、自分が人を暖かく想うとき、自分の中の暗黒面が、その人を俺に渡すまいとするんじゃないかと思えてならない。俺は自分が、ある人を母と同じように感じるとき、その人を殺してしまうんじゃないかとさえ思うんだ。」

 苦しげに、大野は呟いた。

「俺は...、残酷な男なんだよ。」

 違うわ。イド催眠からの浮上のバランスは特に難しいので、今の大野にうっかり話しかけることは出来ないが、原尾は心の中で呟いていた。

 違うわ。ソーニャ・河合はそんな事であなたが成木に似てると言ったんじゃないわ...。それに私も...。

 

 大野の目が開かれる。はじめはゆっくりと、そしてある瞬間、カッと開かれた。

 バン!

 大野がシートから飛び起きた。彼がイドから上がったのだ。

 彼は刮目したまま、みつけた事実を口にのぼせた。

「ロンド・バリだ!!」

 そして原尾にまくし立てる。

「奴はロンド・バリに集まる人々を使って集団転移の効果を試そうとしている! マキちゃんすぐに検索してくれ、東京近辺で今日行われるロンド・バリの場所とその規模を!!」

 原尾は閃くものがあった。そしてそれが意味するところはすぐに、彼女の顔に恐怖を浮かばせていく。

「どうしたんだ。」大野は急く。

 原尾はその事実を、興奮を抑えるようにして語るのが手一杯だった。

「検索するまでもないわ。馳君のレポートにあったもの。今日六時半から、池袋サンシャインの第二タワービルで、ロンド・バリとしては最大規模の劇が行われるそうよ。会場の収容人数は750人を越えるわ。」

 大野は事の重大さが理解されてくるにつれ、原尾が三十秒前にしたようにみるみる顔を曇らせた。今は六時。間に合うかよ。

 それでも大野は、暖機していたエンジンを思いきり吹かした。ぐずぐずしているよりも行動だ。

「行くの? 助けは期待できないわよ。」

「だから行くのさ。間に合わなかったら、750人が敵になるんだ。」

 黄昏た空の下を大野の車がゆく。明日の朝日は、果たして何人が見ることが出来るのだろうか。

 

 また人が来た。今度は団体か。

 操乱は、緞帳の脇から覗きながら思った。彼の視界の先には、円形を為すホールが横たわっている。

 成木との示し合わせで準備に回った操乱は、今日このイベントに次々と人が来るのを見て、大いに満足していた。

 これで成木が来さえすれば、準備はもう整ったようなものだ。

 何の準備か。言うまでもあるまい。集団転移を行うための準備だ。

 集団転移はその要素体となるべき対象である人間達が多い程その力を増すのだ。ゆえに今の状態は、彼にとってこの上なく好もしい状態であるといえるのだ。

「おい。」

 突然後ろから声をかけられて、操乱は飛び上がらんばかりに驚いた。慌てて後ろを振り返る彼は、そこに男の姿を見つけた。

 男は痩せぎすの身体にあっさりしたTシャツ一枚の出で立ちで、斜に傾いた薄笑いを浮かべている。

 操乱はその男に見覚えは全くなかったが、そのことなど別段構いもしなかった。

 その男自体を知らなくても、その男が昏く、殺意に満ちた眼差しを湛えていたからである。

 操乱は客達の気を逸らさないように、緞帳を開けて見せた。

「見なよ。ぞくぞくと人が集まってるぜ。」

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第十六章へ続く

 

説明
精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。
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