二次創作 仮面ライダーアギト RIDERs on……??
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 真夜中を過ぎた、時間の妙の仕業だろうか。

 津上 翔一と、彼の駆るホンダVTR・ファイヤーストームの周囲には、車両どころか自転車一台、見当たらなかった。

 交差点の信号が、青に変わる。

 ぽつんと響いた排気音を置き去りに、ファイアーストームは、滑る様に走り出した。

 街灯の光暈が、闇中を糸引く様に、背後へ、背後へと消えていく。

 バックミラーをちらり見た津上は、背筋を軽く引き伸ばすと、アクセルを心持ち緩めた。

 煽り煽られのスピード競争が、嫌いな性質では決してない。

 でもこんな時は、わざとのんびり走りたくなる。

 ま、特別急ぐ用事でもないしねぇ??夜気にのほほんと言い訳しながら、津上は一つ、ギアを落とした。

 エンジンが応え、視界の流れがスイッチする。

 幾つかの光暈が、駆け飛ぶ様に、津上を追い抜いていった。

 頭上の陸橋が途切れ、バイザー越しの視界にふらりと割り込む、艶やかな月の姿。

 綺麗だなあ、と、吐息を漏らした刹那だった。

 強い衝撃と共に、腰がぐん、と持ち上がった。

「!?」

 ひっくり返った津上の視界に、完全にロックした後輪が映る。

 もっとスピートを出していれば、タイヤを視認する前に、津上の体は吹っ飛んでいただろう。

 しかし気紛れに、スピードを落としていた事が、災いした。

 このままでは、前方の地面に叩き付けられ、縦に回った車体の下敷きになる。

 地面に向かって、のめっていく衝撃。

 その一髪の間に、津上は、鋭く叫んでいた。

「変身ッ!!」

 シートから浮いた腰に、オルタリングが出現する。

 グリップから引き剥がされた掌に、生体装甲が浮かび上がった。

 撓弾。

 指先だけで、グリップを強引に繰り寄せた津上は、伸びきった足で、タンクをぎしりと挟み込んだ。

 ブレーキを握り締め、目一杯にハンドルを切る。

 同時に、強引に捉えた車体もろとも、渾身の力で体を捻った。

 ファイヤーストームのままだったら、シャーシが捩じ切れていただろう。

 しかし津上の力に共鳴したファイアーストームも、愛車から相棒へと、変身を遂げつつあった。

「くっ!!」

 常識外れの膂力が慣性を削ぎ、宙を飛びかけたマシン・トルネイダーのサイドボディが、地面に叩き付けられた。

 そのまま、派手な火花を噴きあげて滑る。

 自重と車体、生き残った慣性の抵抗、その全てを支える津上の踵が、アスファルトを削り込んだ。

「停まれええっ!!」

 軋んだサスが、一際大きな悲鳴をあげて。

 盛大な破壊音と、耳障りな擦過音が途絶した。

 幾筋ものブラックマークと、派手に掘り返されたアスファルトの残骸の果てに、異形と化したマシン・トルネイダーと、津上の姿が浮かび上がる。

 津上は鋭く、息を吐いた。

 耳の奥に、己の鼓動が蘇る。

 トルネイダーもろとも、津上はその場に、ぐしゃりとひっくり返った。

「停まれ……た……」

 横倒しになったマシンから、片足を引き抜き、ほんの少しうずくまる。

 アギトの力が使えなかったら、今頃はきっと、死んでいた。

 本当に、突然の出来事??津上は、横倒しになったままの、トルネイダーを見た。

 幾多の修羅場を、共に潜り抜けた相棒との念は、今は途切れたままになっている。

 暫し呼吸を整えて、津上は、意識を寄り合わせた。

「トルネイダー?」

 一つ、呼びかける。

「う、うわっ!!」

 撓弾、滅茶苦茶な応えが、頭の中に雪崩れ込み、津上は慌てて念を断った。

 以前、MS?01掃射の盾になってくれた時でさえ、明瞭な応えがあった。

 なのに、今の念は混乱どころか、全く意味を成していない。

 錯乱、という言葉が、津上の脳裏を横切る。

「どうなってんだろ……」

 津上は、頭を振って呟いた。

 そもそも、葦原のギルスレイダーや、木野のダークホッパーと違い、津上のアギトの力を受け、その意のままに動くトルネイダーに、独立した意思は無い。

 それは逆に、津上の意にそぐわぬ挙動を取る事は無いし、トルネイダーのトラブルが、津上の察知を逃れるはずは無い、という事だ。

 そして今、反芻してみても、不調の兆しに覚えは無い。

 津上は、トルネイダーを引き起こした。

 恐る恐る押してみたが、タイヤが前後とも、完全にロックしていて動かない。

 念さえ通じれば、禁忌の手段も強引に取れるのだが、錯乱の原因が判らない限り、再び探りを入れるのは怖かった。

 ひょっとしたら、自分の持つ進化の力が、また何か奇跡を引き起こしたのかもしれない。

 こうなると、アギト最高峰の力も迷惑以外のなにものでもないが、とにかく一旦、落ち着いて、事を確かめたかった。

 幸い、葦原が居候しているバイク屋が近い。

 掘り返され、無惨に荒れ果てた路面をなるべく見ないようにしながら、トルネイダーを持ちあげようとした、その時だった。

「事故を起こしたな?」

「!!」

 津上は、背後を振り返った。

 多重車線の真中に立つ、ヒトらしき影。

 ふらふらと揺れるソレを、月の光が撫でつけている。

 只人には無理だろうが、アギトの複眼なら、充分識別可能な光量だった。

「直してやる。見せろ」

 言い放った影が、ふらりと歩み始めた。

 ちょっと大柄だけど、日常当たり前にすれ違う、黄色人種に違いない。

 アンノウンのような嫌な臭いはせず、むしろ妙な惹気を感じた。

「失礼ですが……貴方は?」

 にやりと笑った男の右目が、光を増して瞬いた。

 津上の全身が、総毛立つ。

 間違いない。

 男は今、アギトの力を発揮した。

「あんた……」

「これで判ったろう。俺はお前の敵じゃない。そのバイクの中に宿ってしまった、バグを抹消したいだけだ」

「ばぐ?」

「判らないなら、いい。俺に任せろ」

 津上の異形に戦慄きもせず、男は普通に近寄ってくる。

 カウルに手を伸ばされて初めて、津上は慌てて、その手を払い除けた。

「ちょっと待って! 勝手に触らないで!」

 舌打ちが、耳に障る。

 男は右目を押さえると、苛々と言い放った。

「壊す訳ではない。構造を解析して……」

「俺の大事な相棒なんです! 勝手に探るような真似は、止めて下さい!」

 行く手を遮った津上の肩に、男が手をかけた途端。

「ぐっ……!!」

「あ、ちょっと!」

 不意に、男の膝が崩折れた。

 そのままくなくなと、アスファルトにうずくまる。

 元々浅そうだった呼吸に、笛のような音色が差し始めていた。

 舌打ちを呑んだ津上は、男をひょいと抱き上げた。

「う、うわっ!?」

「バイクより、あんた自身が大問題でしょ」

「なっ……」

「暴れないで。道路の真ん中に放置じゃあ、皆の迷惑だ」

「や、やめろ、この……化け物が!」

 叫んだ男の右目が瞬き、両腕にあった重みが、刹那に消失した。

 振り仰いだ津上の、ワイズマン・オーブが瞬く。

 現れた時と同じように、男の姿形はおろか、匂いも惹気も、何もかもが消え失せていた。

 単純な脱出方法なら、今の津上の知覚を逃れる術はない。

 きっと『移動』ではなく、何処かに『転移』したのだろう。

 アギトの力を駆使したのなら、それもまた、充分可能だ。

 冷ややかな月の光だけが、何も変わらず降り注ぐ。

「何だよっ……嫌な奴!!」

 アギトの力を持つ者は、どうしてこう皆、大上段な出方をするのか。

 むかむかと憤りながら、トルネイダーのグリップに手を掛ける。

 撓弾。

 一筋の念が、津上の頭に瞬いた。

『ボクの名は、ツァル。敵意は、無い……』

「!?」

 反射的に、津上は一歩、退いた。

 グリップに触れた手を、目端に見る。

 いつの間にか、トルネイダーは自立していた。

 スタンドは、上がったままだ。

 バイクの中に宿ってしまった、バグを抹消したいだけ??消えた男の声の名残が、耳の奥をくすぐる。

「……何なんだよっ、もうっ……」

 津上は、月を仰いで吐き捨てた。

 トルネイダーの突然の制御不能、そしてアギトの力を駆使する見知らぬ男が現れ、相棒に、何かが宿った事を告げて。

 そして今、実際に、相棒とは明らかに異質なナニかが、ツァルと名乗って応えた。

 只人なら、そろそろ正気を疑い始めても、おかしくない頃合いだろう。

 しかしそれを言うなら、俺の人生そのものが、非常識の塊だし。

 津上の中で、何かがかちりと切り替わった。

 とにかく、何かが起こってしまったのだ。

 恐らく、この身ノ内に息衝く、アギトの力に絡んだ何かが。

 良い事か悪い事かは判らないが、それだけ判れば充分だ??津上は、深く息を整えると、再び意識を寄り合わせた。

 ワイズマン・オーブが瞬く。

 トルネイダーの中に宿った、ツァルと名乗るナニか。

 それを刺激しないよう、今度はできる限り穏やかに、ゆっくりと。

 カウルに浮かぶ龍の目が、きらりと光って瞬いた。

 

 

 

 

 

 余分な獣脂をさっぱりと焼き落とし、絶妙のタイミングでサーブされた、香ばしい獣肉。

 家庭では精製不能、巨大チェーン店の総力とプライドを懸け、とっくりと仕込んだ特製タレに、それをじゅうっと浸し込み、存分に絡ませて引き上げる。

 織り重なるコクの香りと、底無しの深い味わい。

 つやつやの白飯と一緒にかっこむ度、世の憂さや切ない疲弊が、吹っ飛ばされて消えていく。

 夕食時の焼き肉店は、騒々しく繁盛していた。

 客層の大半は、家族連れやカップルだ。

 店員達の掛け声の合間に、酔っぱらいの笑い声や、小さな子供の騒ぎ声が、あっちこっちで瞬いている。

 その最中、数時間前から奥の座席に入っている男二人??氷川 誠と葦原 涼??は、ただ粛々と肉を焼き、黙々と食べ続けていた。

 完璧な正座を僅かも崩さず、トングを握りしめた氷川は、最後の肉をつまみあげると焼き網に移し、空になった皿を、傍らに積み上げる。

 それをちらりと見やりながら、葦原は箸を持った手で、傍らにある烏龍茶のグラスに手を伸ばした。

「葦原さん」

 突然、氷川が呟く。

 葦原は黙ったまま、ぴしゃりと手前に箸を置き、改めてグラスに手を伸ばした。

 葦原がこの町に舞い戻ってから、既に数カ月が過ぎている。

 いくら氷川のやる事とはいえ、これを歓迎の宴と宣う気は、まあ、ないだろう。

 なのに数時間前、バイトしているバイク屋の店先に突然現れ、焼き肉をおごるというから、葦原はてっきり、また何かあったのかと思った。

 だから黙ってついてきたというのに、この招待者。

 様々な肉を完璧に焼き上げる事に、がっちり気を取られてしまい、肉を焼き始めてから、一言も口をきかない。

 普通なら、肉を焼きながらでも、ある程度の話はできるものだ。

 まあ、この箸で豆腐も掴めぬぶきっちょな男に、話しながら肉を焼けというのは、少々酷な話??なのだろうか?

 烏龍茶を舐めながら、葦原は溜息を吐いた。

 心なしか、時折行き交う店員が、こっちをちらちら見ている気がする。

 腹はまだまだ余裕だし、ポチは、おやっさんが面倒を見てくれている。

 ねぐらに待ってる女が、いる訳でもない。

 しかし何が哀しくて、野郎二人で黙りこくって、夕飯を食わねばならんのか。

 せめて酒が入れば、とも思った。

 が、つい面倒くさくて、バイクに乗ってきてしまったのが、またいけなかった。

 バイク、店に置いてくりゃよかった??葦原はグラスを干しつつ、もう一度、溜息を吐いた。

 肉の脂が炭に滴り落ちて、小さな炎を熾す。

 程よく焼けた肉をトングで突つき、頷いた氷川は、それをひょいと葦原の皿に移した。

「さ、どうぞ。遠慮しないで、どんどん食べて下さい」

 駄目だ、こりゃ??葦原は、大きく息を吸い込んだ。

「……すっげー有り難い事なんだけどよ」

 ふと、我に返ったようだ。

 葦原の視線に気づいた氷川は、慌てて居住まいを改めた。

「す、すみません。折角、お仕事の後に付き合ってもらったというのに……」

「それはかまわねぇよ。けどよ……」

「いや、かまいますよ。エクシードギルスの力を持っているとはいえ、葦原さんも法律的には一般人。そんな方に協力を仰ぐのであれば、警察官としてそれなりの配慮が……」

 トングを握りしめ、氷川の自己批判が続く。

 溜息を吐いた葦原は、焼き網上の食べ頃の肉を、自前の箸で取り上げた。

「あ、ちょっと、葦原さんっ!」

「もういいからっ! オレに何か話があって、ココに連れてきたんだろ? 肉は自分で好きにやるから、早く全部話しちまえ! サツの持ってくる話なんざ、どーせろくでもない事に決まってるがな、腐れ縁に免じて聞いてやるよ!」

「ろくでもない事……ではない可能性もあるんですが、どうだろう。自分的には、結構大事なような気がしなくもなく……」

 再び、氷川は考え込む。

 いよいよ駄目だな、こりゃ??肉を頬張りながら、葦原は、ポケットから携帯端末を取り出した。

 掛け持ちバイト先のスイミングスクールで、子供達にたかられせがまれ、始めたゲームを起動させる。

 当然、マナー違反だの行儀が悪いだのと噛み付いてくるかと思ったが、しかし氷川の反応は、全く逆のものだった。

「その音楽……こないだ逆輸入された、【デスコロニー】というゲームですね?」

「なーに、ちょっと暇だったんでな」

「意外です。そういうものは、嫌っていると思っていました」

 ツッこみ処が向こう三軒違っている上、こっちの言動意図も、完璧に漏れ落ちている。

 お前の頭の笊の目は、どこまで荒い??と続けかけて、葦原は、ふと顔を上げた。

「ちょい待て。お前の口から、そんな名前が出てくるとはな……お前も遊ぶのか?」

「いえ、自分は嗜みません。ですが道場の子供達が……」

「道場? 柔道とか合気道とか?」

「剣道です。自分は剣道が得意なので、非番の時、よく一般の方にボランティアで剣道を教えるんですが……」

「それにしちゃ、全く中んなかったな」

「…………何がです」

「いや、横槍すまねぇ。続けてくれ」

 すんなり通じた処をみると、この件は、やっぱり気にはしていたらしい。

 微妙にゆがむ口角を悟られないよう、葦原は、軽くそっぽを向いた。

 そんな葦原をじっと見て、氷川は、一つ小さく咳払う。

「自分は、太刀より小太刀の方が得意なので」

「ふーん」

「……で、そこに来る子供達が、流行っているゲームの、色んな話を聞かせてくれるんです」

「は、お前みたいな奴にまでか」

「きっと、大人と対等以上に話せる手段を持っている事が、嬉しくて仕方ないのでしょう」

「甘ったれてんなあ」

「一応、練習が始まる前には、全て預かりますけど……ですがそのゲームは流石に、子供が遊んでいいものとは思えなくて」

「甘いぞ、お前。道場なんだろ? 中身云々より、ゲーム機なんざ持ち込んだ時点で、さっさと取り上げて尻の一つでもひっぱたいて……っておい、まさかコレの話で、オレは呼びつけられたのか!?」

「最近、津上さんから、連絡はありませんでしたか?」

「は?」

 確かに、早く話せとは言った。

 しかし何の脈絡もなく出てきた名前に、葦原は思わず、氷川の視線を真っ正面から見返してしまった。

 氷川が、身を乗り出してくる。

「真魚さんから、何も連絡はありませんでしたか? 彼女も随分、心配しているのですが」

「……急かしたオレが悪かった。順を追って、説明してくれ……」

 やっとの事で、本題に辿り着いた。

 話を始めた氷川曰く、夜中にテスト勉強していた風谷 真魚の夜食リクエストを叶える為、買い物に出掛けた津上が、夜が明けても戻ってこないらしい。

 焼き網の上で、焦げかけた肉をさらいながら、葦原は呟いた。

「バイクに乗ってったのか?」

「ええ。そして早朝、その復路と思われる道路に、激しい損傷が発生していたのを、交通課の者が確認しています。ちょうど、津上さんが走行していたと思われる時間帯と、一致します」

 トングを握りしめたまま、氷川は腕を組む。

「美杉教授は学会に出席していて不在、太一君も心配しているらしく。昼頃、相談という形で連絡を受けました」

 何処かの席で、宴会でも始まったのか。

 盛大な爆笑と、賑々しい店員の声が、雑踏の声音に紛れて聞こえてくる。

 白飯と肉をかっこみながら、葦原は呟いた。

「まさかと思うが……」

「そう思って自分も確認したのですが、損傷現場にも美杉家近辺にも、アンノウン反応は検出されませんでした。真魚さんも、おかしな気配はしないというし、この件に奴らが絡んでいる可能性は、現時点では無いと思われます」

「ふーん……」

 味噌汁の椀を手に取りつつ、葦原は、首を傾げた。

 氷川と違い、津上は元々、流れ者である。

 現れた時と同じように、突然消息を絶ったとしても、全く不思議ではない。

 しかし、何も言わずに姿を消した、という処が、葦原の中で引っ掛かった。

 津上が姿を消す時は、自分の店の管理方法やら世話をしている菜園の維持方法やら、妙な自作料理のレシピやらを事細かに書き残し、周囲に散々挨拶しまくり、こっちがウンザリするほど恐縮しつつ、バイクにまたがり、華やかに手を振りながら姿を消す??そんなイメージしか湧いてこない。

 どういう事だ?

 肉を焼き網に乗せながら、葦原は呟いた。

「あいつの考えてる事って、いまいちよく判らねぇからなあ……まあでも、オレは何も知らねーよ? ここ最近は連絡もないし、してもいない」

「そうですか、了解しました。それじゃあ、自分はこれで」

 突然、氷川は伝票と、傍らのコートを取り上げる。

 目を瞬かせた葦原は、そのコートの裾を捕まえた。

「おい待て。おごってくれるんじゃなかったのか?」

「はい、勿論。ですからこの伝票は、自分が……あと五人分程追加しておけば、問題ないでしょう?」

「いや、そりゃあそうだけど、お前、焼き肉だぞ? 残りは御一人様でどうぞって……」

 そりゃないだろう、と言いかけた時だった。

「おんやー? ひがわぐんらー、こんなとこにいたのらー!!」

 上機嫌な高笑い。

 それと共に女が一人、座敷に転げ込んできた。

 呆気にとられた葦原と氷川を無視して、上り框に腰を掛け、ぽんぽんと靴を脱ぎ散らかす。

 美人という訳ではないが、どことなく小ちゃくて、可愛らしい。

 惜しむらくは、ともに勢い良く吹き込んできたのが、艶やかさとも甘やかさとも縁遠い、瘴気にも似たアルコール臭。

 思わず腰を浮かせた氷川と葦原を、座敷の奥に押し込む様に、女は四つん這いで上がり込んできた。

 氷川が、我に返る。

「お、小沢さん!? なんでここに……って、もうっ、できあがっちゃってるじゃないですか!」

「おほほほほ、くるしうないくるしうない」

 小沢と呼ばれた女は、へろへろと腕を伸ばし、氷川の頬をぺちぺちと撫でる。

 その様子が、葦原の記憶の一部と重なった。

「ああ、えーっと……お前は確か、氷川の上司の酒樽女だったか」

「あやっ! やきにくだー、やきにくー!!」

 小沢 澄子は、今まで氷川がいた場所に陣取ると、皿に置かれた箸を取り上げ、うきうきと肉を焼き始めた。

 とてもじゃないが、外国の大学で博士号を取り、縦割り万歳の男社会で、アギトと同等の戦闘力を持つG3ユニットを完成させた希代の才女には見えない。

 その幸せ全開な笑みの向こうでは、氷川がせっせと、脱ぎ散らかされた上司の靴を拾い集めている。

 葦原は、思わず吹き出した。

「お前も大変だな、氷川ぁ」

「冗談じゃありませんよっ、もうっ!」

 ローヒールを抱えて怒鳴る氷川を背に、葦原が焼いていた肉をさらって頬張った小沢は、にやにやと笑う葦原を見据えた。

「ずがたかいぞよ、ひかえおろう」

「は?」

「……そしてよくみたら、まえにみかけたきんぴらであったらら」

「キンピラ?」

「金髪とちんぴらをかけてるんでしょう」

 すかさず解説してくる氷川に、目眩にも似た憐憫を覚える。

 そんな葦原には眼もくれず、靴をきっちりとそろえた氷川は、小沢の側ににじり寄った。

「さ、小沢さん。もういいから帰りましょう。自分ももう帰るところで……」

「なにをいうー! きんぴらにばかにされらまま、かえるわけにはいかないらー! けっとうらー!!」

 そして何を思ったか、上り框にもそもそと這い戻った小沢は、ごそごそと縁の下を探り始めた。

「ちょっと小沢さん、何する気ですか!」

「…………」

 最早、言葉も無い。

 そんな葦原に向かって、突然身を起こした小沢は、手にした何かを、ひょいと投げつけた。

 たまたま手にしていた箸で、飛んできた物体を受け止める。

 手入れは一応されているが、よく見ると、傷だらけのローヒール。

 氷川が、今度は葦原ににじり寄った。

「葦原さんっ、箸で靴なんて……行儀悪いですよっ!」

「それは先ず、メシ食ってる人様に靴を投げつけた、てめぇの上司に向かって言うべき事だろ、コラ」

「てぶくろがなかったろよー。らからかわりらろ」

 てへっ、と、小沢が笑う。

 撓弾、吹き出した葦原は、小沢と一緒に腹を抱えて笑い出した。

「は……ハラが……腹がいてぇ……」

「というわけでひがわぐんっ、なまびーる! じょっきあるだけもってこーい!」

「小沢さん、もういいから帰りましょう、彼は今から夕食を……」

「ふほほほほ、きんぴら、にげるかや」

「はあ??」

「くつなげられてうけないとあらば、わらしのかちらー、きんぴらのしはらいらー!」

「酒が脳に回ったな? オレは涼だ。葦原 涼っ! 覚えてねぇのかよ!」

「ほほほ、よいよい、きんぴら。くるしうない、はいをもて」

「言っとくがな、オレはお前の下僕どもとは違うぞ。女だからってな、泣いても許してやらねーぞ!」

 最早、二人の眼中に自分など無い??凶悪なまでに盛り上がった葦原と小沢を前に、氷川は溜息を吐いた。

 不幸中の幸いは、今夜ばかりは、小沢に杯を強要される事は、なさそうだという事。

 しかしこの後の処置行程を、葦原だけに任せて帰る訳にもいかない。

 少々不謹慎な話だが、SAULに非常招集をかけて、この座敷を完全封鎖してしまいたい??がちゃがちゃと運ばれてきた生ビールを、水のように飲み干す小沢と葦原を見て、氷川はがっくりと肩を落とした。

 

 

 

 

 

「ありがとうございましたー」

 店員の挨拶が、背後で響く。

 一足先に店を出た葦原は、大きく体を引き伸ばし、夜の空気を思いきり吸い込んだ。

 後少しで、閉店時間を迎える店の駐車場に、車の影は一台も無い。

 照明も、既に半分程まで落とし込まれ、あれだけあった人影も、とうに絶えてしまっている。

 時折響く、車道を走る車の音が、遠い潮騒の様だ。

 このままスパッと、バイクで帰れたら??バイク置き場に置かれた愛車を、ちらり見た途端。

「飲酒運転じゃないですか! 駄目ですよ、葦原さんっ!」

 振り向くと、酔い潰れた酒樽女をおぶった氷川が、暖簾を分けて寄ってきた。

「オレの事より、てめぇの背中のお荷物を、何とかすべきなんじゃねーの?」

 やっと静かになった女は、氷川が着ていたコートを着せて貰っている。

 呑み比べの終盤戦を思い出し、思わず噴き出した葦原を、氷川は冷たくねめつけた。

「笑い事じゃないですよ、葦原さん。あんな無茶な呑み方して」

「いやあ、わりぃわりぃ。つい本気になっちまってよ。でも、そいつスゲーな。肝臓だけ、アギト化してんじゃねぇのか?」

「今のうちに、覚悟しといて下さい。きっと次から、執拗に付け狙われますよ」

「はあ?」

「小沢さんの辞書に、負けという言葉はありません。負けたら勝つまでやり返す人です」

「いい事じゃねぇか。返り討ちにしてやるよ。毎晩でも付き合ってやるぜ」

 酒精の巡りが、心地よい。

 葦原は顎を上げると、一つ小さくせせら笑った。

 何時も鋭い氷川の目つきが、さらに一段、冷え込んでいく。

 やれやれ、またお説教か??と、身構えた時。

 氷川はスーツのポケットを探ると、取り出した紙切れを、葦原に突き付けた。

 思わず受け取ってしまった葦原は、印刷された小さい数字をちらり見る。

 中々、結構な合計金額。

 脳裏に、嫌な予感が瞬いた。

「……何だ、コレ?」

「今回の、あのお店での支払いです」

「……ほ、ほう」

「今回はその程度で済みましたけど、次からは葦原さんが、勝っても負けても支払いをする事になりますから」

「ちょっと待て。どうしてそういう話になる」

「小沢さんの靴を、受けとめちゃったからですよ」

 何か、嫌な思い出でもあるのだろうか。

 溜息と共に、氷川の視線が、虚ろに宙を彷徨った。

 葦原の全身が、ざっと粟立つ。

 淡々と、氷川は続けた。

「葦原さんが先に潰れれば、当然小沢さんの勝ちで、支払いは葦原さん。万が一、小沢さんが先に潰れたら、人事不詳の故を以て、葦原さんが支払いを済まさざるを得なくなる。そういう事です」

「お、オレの知った事かよ……そのまま置いて帰ってやるっ」

「そんな事して、小沢さんに何かあれば……いや、小沢さんが何かしでかせば、余計面倒な事になりますよ。責任持って、最後まで付き合っておく事をお勧めします。傷は小さい方がいいでしょう?」

「何だよそれっ、そんな馬鹿な話があるか! お前の上司だろ、何とかしろ!」

「勤務時間外での付き合いならば、上司じゃありません。そう、女王様……と思っておいた方がいい」

 氷川がふっ、と自嘲した。

「自分達が何故、諾々と『下僕』でいるのか。理解してもらえる、いいチャンスかもしれませんね」

「こ、この野郎っ、ヤな言い方しやがって……」

「とにかく、自分からはもう、何も言う事はありません。強いて言うなら、頑張ってとしか……」

 宣告が、ふつりと切れた。

 顔をあげた葦原は、その視線の先を追う。

「あれ、は……」

 氷川が、ぽつりと呟いた。

 目の前に広がる、無人の、広々とした駐車場。

 そこを泳ぐかの様に、何かが、こちらに近づいていた。

 即座に人と思い切れなかったのは、その妙な挙動と、歪な姿形のせいだろう。

 身長は、恐らく二メートルほど。

 外人なのか、鎧でも着込んでいるのか、やけに大きく見えるのは、夜闇の中で見ているせいか?

 しかもそんな巨体が、一歩足を踏み出す度に、ぐらりぐらりと揺れている。

 葦原は、眼を凝らした。

 その全身に脈々と息衝く、エクシードギルスの力。

 アギトの突然変異体と位置づけられたその力の特徴は、能力顕現の柔軟性にある。

 サナギからの脱皮に例えられる、変身過程を経ずとも、かなりの域まで、その力を正しく駆使できるのだ。

 そのヒトにはあり得ぬ暗視の力が、巨体の詳細を炙り出した時。

 葦原は、我知らず叫んでいた。

「あ、アギト……津上じゃねーか!」

「ええっ!?」

 氷川が、驚きの声を上げる。

 それが何かを刺激したのか、大きな頭が、ゆらりと大きく傾ぎ始めた。

「やべっ!」

 撓弾。

 呻いた葦原が跳ねると同時に、アギトは棒立ちのまま、頭から地面に倒れ込んだ。

 葦原の体が、100キロ近い巨体の下に、辛うじて滑り込む。

 生木を捻る様な音が、頭を支えた右肩に奔った。

「うぎっ!!」

「葦原さんっ!」

 氷川が、側に駆け寄ってきた。

「畜生っ、さ、騒ぐんじゃねぇよ!」

「しかし!」

「大丈夫だって。この程度、何て事ないっ……」

 巨体の下で身を捩り、葦原は呻く。

 氷川は息を呑んだが、しかし葦原自身は、半ば安堵すらしていた。

 この場の誰もが、完全に気を抜いていたのだ。

 もし滑り込んだのが氷川だったら、入院するような怪我になっていたかもしれない。

 しかし自分ならばこの程度、本気で何ともないと、言い切れた。

 腕が骨ごと、斬り飛ばされる衝撃。

 風穴の空いた喉一杯に、血と海水が流れ込んでくる苦痛。

 そんな思い出に比べれば、こんな怪我など、まだ温い。

 歯を喰い縛った葦原は、渾身の力で、津上の下から這い出した。

 吹き出す冷や汗を乱暴に拭い、大きく息を吸い込む。

 外れた肩周りの組織がパニックを起こし、強烈に荒れ狂っていた。

 その一つ一つを整理しながら、元通りになるよう念じる。

 その姿を見届けて、氷川は、小さく頷いた。

 葦原の怪我に関して、今の自分にできる事は無い。

 背中の小沢を落っことさない様に気を付けつつ、氷川は、倒れた津上の側に膝をついた。

 クロスホーンが全開になっているのに、その力の余波が、ほとんど感じられない。

 常識外れを更に上回る、桁外れのエネルギーを、全て身ノ内で使いきっているという事か。

 細切れの浅い呼吸に合わせて、胸のワイズマン・モノリスが、不規則に瞬いている。

 そして何か探しているのだろうか、赤い複眼がふらふらと揺れ動き、虚ろに宙を彷徨っていた。

「大丈夫ですか、しっかりして! 津上さん!!」

 呼び掛けに、応えはない。

「やばいな……普通じゃねぇぞ」

 肩をつなぎ直した葦原が、津上の側に、膝をつく。

 二人の姿が、その複眼に映り込んだ刹那。

『氷川 誠さんと……葦原 涼さん、ですね?』

 硬質の牙を備える顎から、聞き慣れた津上の声が響いた。

「えっ?」

 しかし氷川も、葦原も。

 二人は同時に、目を瞬かせて固まってしまう。

「津上さん……じゃ、ない?」

「いや、津上だろ。こいつは津上だ」

「でも……」

 氷川は、葦原を見た。

 今の語りは間違っても、津上のものではあり得ない。

 見間違いじゃないか、と言いかけて、氷川は慌てて口を噤んだ。

 葦原の持つ様々な力は、嫌という程知り抜いている。

 例えここが、山の中の真闇であったとしても、その意識が正しくある限り、間違う事などない。

 しかし、そんな葦原の眉根と断言に、氷川は、戸惑いの色を見て取った。

 普段の朴念仁っぷりからは、及びもつかない事ではあるが、そこはそれ。

 洒落や酔狂で、刑事になった訳ではない。

 困惑する二人をよそに、横たわった津上が、再び語り始めた。

『あの、突然申し訳ありません。この方は、津上 翔一さんに間違いありません。そしてこの津上さんはボクに、貴方達二人に事情を話し、助けを求めるよう、助言をくれました』

「いや、その……」

『そこで重ねて申し訳ないのですが……御二人に、この津上さんと、ボクの兄の保護を、御願いできませんでしょうか?』

 葦原は、氷川の方を見た。

 律儀に背中の小沢を庇いつつも、完全に固まってしまっている。

 ま、そうだろうな??葦原は、小さく息を吐いた。

 この目の前に横たわるアギトが、本当に津上 翔一だった場合。

 葦原や氷川を相手に、こんな下手に出るはずがない。

 天真爛漫な性格と、露骨な主夫的趣向に隠されてはいるが、根本的には、かなり質の悪い毒舌家なのだ。

 津上の体から、津上の声が聞こえる。

 しかし語りだけが、明らかに津上のものではない。

 奇妙な目眩を覚えかけて、葦原は、頭を大きく打ち振った。

 痛みの残滓を堪えつつ、津上の肩をぐいと掴むと、その顔を改めて覗き込む。

「おい津上。オレだ、御指名の葦原 涼だ。判るか? しっかりしろ、何があった?」

『残念ながら現在、津上さんは、話ができる状態ではありません』

 アギトは、僅かに首を振った。

 弱々しい周囲の灯りが、赤い複眼を舐める様に反射する。

『信じ難い事でしょうけれど……今、津上さんの体をお借りして話しているボクは、df_zal_0。ツァルと呼ばれている、自律制御型のプログラムデータです。少し前、兄の作った【世界】から脱出し、津上さんの力と体を借りて、ここまで逃げてきました』

「体を……借りて、って……??」

 氷川が呟いた刹那。

 津上の体が、がたがたと震えだした。

「つっ、津上さんっ!?」

「おい、どうした! 津上っ!!」

『追いつかれた! 追跡者、が……』

「追跡者?」

 葦原の呼び掛けを無視して、津上の声が叫んだ。

『気をつけて! 兄の、プログラムが……ボクを抹消する為に、アギトの力を得て、この次元にレンダリングした存在……物理的な、こ、うげ、き、がッ』

 津上の喉が、ごほっと鳴った。

 そのまま沈黙し、だらりと脱力する。

 恐らく、意識を無くしたのだろう。

 舌打ちを堪えた葦原は、掴んだ肩を、そっと地面に横たえた。

「氷川くん、氷川くんっ」

 泥酔していたはずの小沢が、氷川の背中で声を上げる。

 氷川は、背後を振り向いた。

「降りられますか?」

「うん。降ろして」

「津上さんを、お願いします。ちょっと……様子が変です」

「判った」

 今までの酔乱が嘘のように、氷川の背から降りた小沢は、津上の傍らにひざまずく。

 妙な不満を噛み殺しつつも、葦原は、氷川と共に立ちあがった。

「おい、氷川」

「はい?」

「れんだりんぐって、何だったっけ?」

「一般的には、専用に組まれたデータプログラムから、音や文字を生成する事を指す、はずですが」

「今、コイツ……この次元にレンダリング、って、言ったよな?」

「自分にも、そう聞こえました」

「なら……オレの聞き間違いって訳じゃあないか」

 首の骨を一つ鳴らし、葦原はゆっくりと、周囲を見回した。

『追跡者』に『レンダリング』、『物理的な攻撃』、おまけに『アギトの力』。

 要は、アギト絡みの何事かで、具体的に喧嘩できる何かに、追われて逃げていたんだな?

 頭の片隅で、嫌な予感が渦巻いた、その時。

 視界の隅を、何かがかすめて蠢いた。

「氷川」

 葦原の指が、宙を指す。

 しかしその先には、弱々しいピンスポット照明と、闇に奥まって広がる駐車区画しかない。

「あそこに、何か……」

 その声に惹かれたのか、薄く残った照明の中に、ふらりと何かが現れた。

 青いパーカーに黒いTシャツ、そしてカーゴの短パン。

 そこから伸びる細やかな手足と、恐らく自分達の腰までも無い背丈。

 性別までは判らないが、その作りを見るに、小さな子供と見るのが妥当だろう。

 薄い灯りが、小さな顔に、真っ黒な影を投げかけている。

「……ガキじゃねぇか」

 氷川は、目端に葦原を見た。

 何時ものように呟いてはいるけれど、その声音にはくっきりと、疑いの色が差している。

 確かに、こんな時間に、子供が独りでこんな場所を歩いている事を、普通とは思えない。

 葦原が、一歩を踏み出す。

 氷川は奥歯を噛み締めると、腕を伸ばし、その動きを遮った。

「葦原さん、下がって」

「はァ?」

「貴方、一般人でしょう」

「い、一般人って……」

「確かに貴方は普通じゃありませんが、一般人に変わりはありません。治安維持を担う立場の人間ではない」

「氷川……」

「それに葦原さんの言動は、相手の闘争心を煽ってしまいます」

「えっ?」

「もし、あの子……いや、アレに敵意が無かったら、どうする気ですか。自分が行きます」

「……オレともあろうものが、しんみりして、損したよっ」

「しんみり? 粗野な言動が煽る危険性を、指摘しただけです」

「……何でオレの周りには、こーいう腹の立つ野郎ばっかが集まるのかね……」

「言って欲しいですか? 類は友を呼ぶって」

「勝手に行って、やられてこいや!!」

 言い放った刹那。

 葦原の脳裏に、妙な疑問が瞬いた。

 オレは何故、あのガキを危険視しているのだろう?

 それは直ぐに、思い出せた。

 そいつが危険である事を、知っているからだ。

 額に、嫌な汗が浮かぶ。

 氷川は僅かな笑みだけを残し、奇妙な子供に向かって歩み始めている。

 その背中と、さらに向こうに見える、子供の姿。

 嫌な予感が膨れ上がり、その中で、何かがうぞりとたゆたった。

 ここまで見えて判っているのに、一番必要な部分が、不鮮明にぼやけている。

 葦原は、前髪を掴んだ。

 目を閉じて、ゆっくりと考えたかった。

 しかしそれを強く止める衝動が、鼓動と絡んで鳴り響く。

 その激しい焦燥を判る事ができたなら、氷川は、その場で止まっただろう。

 しかし氷川は、子供と真っ直ぐ対峙すると、膝に手をつき、身を屈めた。

 周囲の灯りが、深く色濃い影を作って、表情が判らない。

 氷川は、ゆっくりと話しかけた。

「自分……いや、僕は、氷川 誠と言います。警察官です。判るかな?」

 声が、聞こえたのだろうか。

 子供がキリキリと顔をあげた。

 大きく見開かれた、ヒトの眼球。

 しかしその目に、自分の姿が映っていない。

 いや、水晶体には映っているのだが……?

 氷川は大きく息を吐き、肌の粟を押し殺すと、ゆっくり片手を差し伸べた。

「君のお名前を、僕に教えてくれますか? お父さんか、お母さんは……」

 と、言いかけた刹那。

 子供の顎が、かくんと落ちた。

 白く浮かび上がる綺麗な歯列が、視線を強く惹き付ける。

 そしてその奥にひしめく、漆黒。

 氷川の目が、瞬いた。

 おおよその生物の口腔内に在るべき、活気を帯びた薄紅色の生体組織が、真っ黒に欠落している。

 周囲の弱い灯りが作る、濃闇による錯覚だろうか?

 そしてその穴底から、粘りの中で空気が沸き立つ、歪な音が響く。

 撓弾。

 差し伸べた氷川の手を打ち払う様に、葦原が、二人の間に飛び込んできた。

 目を見開いた氷川の体が、あらぬ方向に突き飛ばされる。

 同時に、子供が吐き出した大量の液体が、葦原の腕を直撃した。

 強烈な灼音と刺激臭が、辺りを一気に圧倒する。

「ぎっ……」

 葦原の喉に、暴発した呼吸と声がつっかえた。

 何だコレは。

 オレは何をされた?

 ぐらぐらと揺れる視界に、激しく泡立つ己の右腕と、棒立ちの子供が映る。

 殴られた訳でもない、触れてもいない。

 なのに何故、こんな、腕が。

 口角から溢れる、己の吐瀉物もそのままに、子供の面が自分を見て??確かに笑んだ。

 腹の底で、何かが、ぶつりと弾け飛ぶ。

 それは腕の拷痛と混じり、喉一杯に詰まった悲鳴を掻き消した。

「ンのやろおおおおおおおおおっ!!」

 葦原の背を覆う、被服が一気に裂け飛んだ。

 激怒の咆哮と共に、背を裂いて飛び出した、二筋の紅い爪??ギルススティンガー??が、子供の腹をぶち抜く。

 その衝撃に、小さな踵が宙に浮いた。

 翻った紅い爪は、小さな頭を、四肢を、形の残った体幹を、一瞬で微塵に刻む。

 血肉の代わりに爆散した、光の破片。

 それを浴びた葦原は、そのまま、腕を抱いてくずおれた。

「ぐう、うっ……」

 ヒトが焼けてゆく、頭のよじれるような臭い。

 それが、自分の腕から立ち昇っている。

 あの時に、気づくべきだった。

 あのガキからは、生き物の生臭さも、ロボットの溶剤臭もしなかった。

 何の匂いもない、小綺麗で、都合の良さだけ貼り付けたモノの、不自然さ。

 見た目の記憶じゃない、この存在の不自然さに、気がつくべきだった。

 これが罠なら、仕掛けてきた奴は、今頃大笑いしているだろう。

「畜生っ!」

 歯を喰い縛り、庇った左手を引きはがす。

 直撃を免れたはずの左手が、ぶつぶつと泡立っていた。

 どうやら、触れるものを片っ端から、溶かしていくらしい。

 腕から噴き上がっていた白い泡沫は、今や真っ赤に染まっていた。

 粘って糸をひく何かが、腕からずるりと垂れ落ちる。

 ヤバい。

 このまま全部、溶けてしまうのだろうか。

「うっ……」

 眼を強く瞑った葦原は、地に額を叩きつけた。

 また、馬鹿な事しちまった。

 他人の事など、ほっとけばよかった。

 奴は何なんだろう、氷川は、津上はどうしたんだろう。

 この腕、治るだろうか。

 肩は直ぐに治ったのに、再生がかからない。

 早く治さないと、こんな処を襲われたら、ひとたまりも無い。

 もしまた、奴みたいなのが来たら!!

 動かないと。

 立たないと。

 早く、腕を、治して。

 立たないと!

 浅い呼吸に、切れ切れの悲鳴が混じる。

 動きたくてもがく葦原の、にじんで歪んだ視界の端に、駆け寄ってくる氷川の姿が映る。

 撓弾、頭の中が冷えきった。

 この、馬鹿!!

「ぐうっ……」

 渾身の力を振り絞り、葦原は呻いた。

 翻ったギルススティンガーが、駆け寄ってきた氷川の足下に突き立つ。

「わっ!」

 踏み止まった氷川は、それでも葦原に向かい、手を伸ばした。

 その手を、もう一筋の紅い爪が、猛々しく遮る。

「あ、葦原さん! 何するんですか、止めて下さいっ!!」

 抗議に増して、紅爪が威嚇する。

 仕方なく退る氷川の目に、顔を上げる葦原が見えた。

 土気色の面に、穏やかな笑みが浮かんでいる。

 赤黒く泡立つ腕を隠すように、葦原は、再び腕を抱き抱えた。

「……近寄るんじゃねーよ、馬鹿。お前まで、怪我すっぞ」

 威嚇するスティンガーと競り合いながら、氷川は声を荒げた。

「何言ってるんですか! 早く手当をしないと、腕が……」

「いいって! これくらい、オレ独りでどうとでもできる!! それより津上の……」

 と、突然。

 氷川が、大きな一歩を踏み出した。

 まるで何も無いかのように、眼前で威嚇を続ける紅爪に、まっすぐ突っ込む。

「なっ!」

 回避が、遅れた。

 危うく眼を潰しかけ、身をくねらせた紅爪が、氷川の頬に当たる。

 氷川の頬に、赤い筋が刻まれた。

 連なる爪に触れた肘の、脛の被服が切り裂かれ、ぱくりと口を開けていく。

 傷から滲んだ血を無視して、氷川は黙って寄ってきた。

「馬鹿野郎っ、来るなって!」

 紅爪が身を翻し、改めて威嚇しようと迫る。

 氷川の拳が、それを力一杯、払い除けた。

 さくりと斬れた手の甲から、重々しく血が飛沫く。

 時にはアンノウンすら萎縮させた、ギルススティンガーの威嚇が、全く効かない。

 氷川の鼻先を斬り落としかけた紅爪が、泡を食って翻った。

「馬鹿野郎っ、何考えてやがる!」

「それはこっちの台詞です! 自分の腕なのに、判らないんですか!? どうにもなってないじゃないですか!」

「うるせぇよ! 余計なお節介を……」

 と、撓弾。

 氷川の体がするりと動き、葦原の肩を掴み締めた。

 短い悲鳴と共に、葦原の体がねじ伏せられる。

「氷川くんっ、これを使いなさいっ!」

 ためらいつつも、威嚇を続ける紅爪の向こうから、小沢の声が響いた。

 振り仰いだ氷川に向かって、小沢が力一杯、何かを投げつける。

 真っ赤に染まった氷川の掌が、二本のペットボトルを掴み取った。

 氷川が、微笑む。

「ありがとうございます、小沢さん!」

「私は店に行って、責任者に説明してくる! 緊急区域閉鎖の準備、G3ユニット非常召集、津上くんと葦原くんを、警察病院へ運ぶわよっ!」

「了解っ!」

 走り去る小沢を目端に見ながら、葦原をねじ伏せた氷川は、ペットボトルのキャップをひねった。

「葦原さんっ、腕っ!」

「だ、大丈夫だって、これくらい……それよりオレから離れろって、危ねぇだろっ!」

 最早、問答すらない。

 氷川は葦原を地面に押しつけると、その上腕を引っ張った。

 熱湯を浴びせた氷菓の様に、溶け崩れた腕に青ざめたのは、ほんの一瞬。

 氷川は歯を喰い縛ると、ペットボトルの中身を、葦原の腕に、勢い良くぶちまけた。

 涙混じりの絶叫と共に、触れるもの全ての恐怖を呷る紅い爪が、その背中に消えていく。

「てっ……てめぇ、何すんだっ……」

「喚かないで下さいっ! 直ぐに傷を治せる力があるからって、こんなの、放っといていい訳無いじゃないですか!!」

 反射で逃げる葦原の上腕を、強引に掻い込む。

 手加減も容赦もない。

 清冽な水を傷にぶちまけ、その勢いで、変質して剥がれかけた血肉を洗い落としていく。

 吐き気混じりの、声にならない絶叫が、再び宙に響き渡った。

 ごぼりと大きな音を立て、ペットボトルが空になる。

 もう一つの栓を開けようとしたのを見た葦原は、ねじ伏せられた下で喚いた。

「判った! もういいから……大人しくすっから、もう止めろって……」

「悪いが、止めませんよ。どうしても嫌なら、自分を殺して止める事です」

「大丈夫だってば! オレが気ぃ失ったら、次の奴が……」

「安心して、失神して下さい。G3ユニットの非常招集がかかった今、何があろうと、自分が葦原さんを守ります」

 葦原の目端に、血で汚れた氷川の顔が映る。

 ペットボトルのキャップが外れ、聞く者の背を捩れさせる絶叫が、辺り一面を震わせた。

 空になったペットボトルを置いた氷川は、葦原の体を起こし、胸倉を掴む。

 ぐにゃりと重くヨレたが、それ以上の抵抗はない。

 焦点の合わない葦原の目を覗き込み、氷川は断固と決めつけた。

「いいですか、葦原さん。貴方の性格は理解しているつもりですが、もう少し、自分達と一緒にいて下さい。今の接触で万が一、兄とやらが、エクシードギルスの力に目をつけたとしたら……この状況下では相当にまずい。それに、その肩と腕……きちんと手当をしないと!」

「……判った……」

 一言呟くのが、精一杯だったようだ。

 葦原の全身が、だらりと緩んで動かなくなった。

 

 

 

 

 

 津上と葦原を、警察病院の特別緊急処置フロアに託してから、少し経つ。

 壁時計の秒針と競争するように、小沢は階下の待合室で、持ち出し装備を確認していた。

 小型通信機のステイタスを確かめ、接続したインカムのスイッチを入れる。

「尾室くん、聞こえる?」

『入電、確認しました。感度良好』

 病院駐車場に停まったGトレーラー内部で、オペレーターを勤める尾室 隆弘の声が聞こえた。

「よし。配置は?」

『G3?X氷川さん、警察病院の特別緊急処置室にて警戒待機中。そして先程、北條さんが緊急閉鎖区域に到着した模様。現在G3?X2装備で、捜査展開中』

「了解。変化が出るまで、そのまま継続待機」

『了解』

 どうやら、店の方も間に合った??小沢は、安堵の息を吐いた。

 どのような存在であれ、口から溶解液をぶっ放す化け物が、出現したのだ。

 葦原には気の毒だが、初めての対峙が自分達だったのは、この上無い幸運だったと言わざるを得ない。

 替わって北條が、その禍中に飛び込んだ事になるが、装備班に、アルカリコーティングを徹底するよう指示している。

 溶解液の質が不明である限り、単なる気休めにしかならないが、例え直撃を喰っても、一瞬でやられる事は無いはずだった。

 一時発行された、病院内の通行許可書を胸に付ける。

 やがてドアノックと共に、真島 浩二が姿を見せた。

「お待たせしました」

「ちょっと、お久しぶりだわね。随分、立派になっちゃったじゃない」

「これでも、下っ端なんですけど」

 苦笑した真島が、術着の裾を引っ張って見せる。

 苦笑を返した小沢の側に寄った真島は、椅子に座って、手に持っていた携帯端末をいじり始めた。

「忙しそうね」

「ええ。ま、術中の呼び出しなんて、いつもの事ですから」

「術中って……ひょっとして、手術の?」

「さて、先ずは氷川さんの裂傷ですが」

 さらりと流した真島が、端末の画面を見つつ、呟いた。

 その様子が師匠格とそっくりで、小沢は、噴き出しそうになる。

 幸い、真島は気付かぬまま、理路整然と話しだした。

「葦原さんの攻撃意図が、鈍っていたせいだと思われます。見た目より、深刻ではありません。傷は固定したので、もう問題はないでしょう」

「そう、良かった。できれば、少し休ませてあげたいんだけど、この状況ではね。で、葦原くんは?」

「やはり、重度の火傷を負っていました。氷川さんからも話を伺いましたが、氷川さんの処置が無かったら、右腕は今頃、跡形もなくなっていたと思います」

「元に戻る?」

「麻酔で痛みを落ち着かせたら、再生の兆しが現れました。時間はかかるでしょうが、今までの経験則上、完治は可能だと思います」

「上等。津上くんは?」

「むしろ、そっちが問題です。さっき撮った、津上さんの頭部CTなんですが……」

 真島は端末のキーを叩き、それを小沢に渡した。

 モニターに映った頭部CTの画像は、故障を疑いたくなる程、どこもかしこも真っ赤に染め抜かれてしまっている。

 覗き込んだ小沢が、眉をしかめた。

「見てるこっちの頭が、痛くなりそうね」

「ええ。津上さんの場合、一般常識で判断するのは危険ですけど、例えて言うなら……パソコンの暴走状態と似ていますね」

「暴走?」

「ええ。性能の低いパソコンに、違うOS下で作った超大容量のデータを突っ込んで、無理矢理動かしている状態……それが一番、近い状態のような気がします」

「その、大容量のデータっていうのが……」

「お話を聞く限り、『ツァル』と名乗ったモノだと思います。今、コンタクトを試みてるんだけど……」

「なるほど。ハードウェアたる津上くんが、ハングアップ寸前で巧くいかない、と」

「ええ。早く何とかしないといけないんですが、これ以上の負荷をかけても、最悪、津上さんの脳神経が焼き切れてしまう可能性があって」

「ふーむ」

 小沢は、腕組みした。

「こうなってくると、津上くんがどういう方法で、ツァルをインストールしたかが気になってくるわね」

「単純に考えるなら、アギトの力を利用して、という事でしょう」

「…………」

 黙の翅虫が宙を過り、真島は、顔を上げた。

 小沢の大きな目が、鳴らんばかりに瞬いている。

 真島は、恐る恐る呟いた。

「あの……僕、何か変な事、言いましたか?」

「ううん。あんまりあっさり納得されて、ちょっと変な気がしただけ。もし私なら、発言者にバケツ水ぶっかけるレベルの話よ?」

 小沢の面差しが、大丈夫?と尋ねている。

 真島は、思わず苦笑した。

「津上さんという一個のヒト個体に、多重人格の類でない、完全に別個体の意識が介在する……漫画にしたって、手垢のついた急場凌ぎのお話です。けど僕は以前、葦原さんに僕自身の、アギトの力を渡した事がありますから」

「ああ……」

「客観的な説明は難しいんですが、僕の中に残る力の残滓が、葦原さんの力と共鳴するイメージというか……そういった感覚を利用したというなら、充分あり得ますよ」

「何だかロマンチックね。お医者さんの言葉とは、思えないわ」

「アギトの力は当然ですが、実際はヒト自身、その能力を全て把握するどころか、解明すら、できていないのが現状です。ならば実体験として、一つの人体に二つの独立した意識が宿った出来事があったとしても、僕は否定はしません……珍しいとは思いますが」

 端末の端が、アラームと共に瞬いた。

 小沢が、端末を真島に返す。

「呼び出しじゃない?」

「ですね……ちょっと失礼。直ぐに戻ります」

 弾むように立った真島は、瞬く間に部屋を出ていった。

 それを見送った小沢は、通信機のスイッチを入れる。

「尾室くん、状況は?」

『アンノウン検知システム、作動していますが……出現率は、ゼロに近い状態ですね』

「焼き肉屋の方は?」

『北條さんが確認していますが、やはり値は似たような状態です』

「そう……」

『小沢さんの見聞きした事を疑う訳ではありませんが、焼き肉屋より、そちらの方が問題なんじゃないでしょうか』

「やっぱり、そう思う?」

『聞こえたんでしょう? 追跡者、って。お話を聞く限り、一番危険な場所は、津上くんの周囲であるような気がして、仕方が無いのですが』

「まあね」

 通信機を目端にちらり見ながら、小沢はふと、口をつぐんだ。

 この尾室という男、ラボで梯子から降りていた時、存在に気付かず、頭を踏んづけてしまった事があるくらい、影が薄い。

 しかしそれ故なのか、時折こっちの思う事を、的確に読んでくる時がある。

 ある意味、我の強い北條や氷川には無い、底知れなさを感じる時があるが??しかし、小沢は首を振った。

 今の真島の話に、思った以上のインパクトを感じていたようだ。

 気の合う部下を持てたという事、特に今は、それ以上の事を考えている場合ではない。

「ふむっ」

 わざと大きく鼻を鳴らし、小沢はインカムに指を添えた。

「よしっ。尾室くんっ」

『はい』

「北條くんに通達。焼き肉屋の緊急区域閉鎖を解除して、こっちに急行する事っ」

『了解』

「後、検知システムの索敵レベル強化。レベル……」

 撓弾。

 部屋のドアが、派手な音を立てた。

 振り向くと、開いたドアから顔を出した看護士が、忙しく室内を見回している。

 その忙しなさと、青ざめた顔色に、小沢の背筋が引き締まった。

 ドアの向こうから響いたのは、呼び声だろうか。

「……失礼」

 たった一言を残し、看護士は踵を返すと、音高らかにドアを閉めた。

 インカムから、尾室の声が響く。

『小沢さん?』

「そのまま待機」

 ドアを開け、外を見る。

 待合室の斜向いにある階段を、制服姿の警備員が、焦りのままに駆け上っていった。

 一髪もためらわず、小沢は、待合室を出る。

 何喰わぬ顔で階段を目指しつつ、小沢はインカムに触れた。

「尾室くん、検知システムの値は?」

『……変化、ありません』

「検知システム索敵レベル7。北條くんを大至急こっちに呼んで。処置フロアで、何か騒ぎが起きてる」

『只今ガードチェイサー2で、警察病院に急行中。後12分で到着予定』

「急いでね。私、様子を見てくるから」

『りょうか……ええっ!?』

 尾室の驚声を無視して、小沢は階段を駆け上った。

 踊り場をぐるりと回り、緊急処置フロアに出る。

 特異な病症を呈した患者を専門に診るフロアは、特殊な強化ガラス壁に仕切られ、全ての様子が一目で見渡せる、はずだった。

「あ、あれっ?」

 小沢は、思わず声を上げた。

 目の前の空間が、無くなっている。

 神経質なまでに清潔で、充分な光に満たされていたフロアが、ごっそりと、見渡す限りに無くなっていた。

 一歩一歩に気を配りつつ、フロアに歩み寄る。

 ブロアースペースと、二重に仕切られたガラスドアの前で、警備員と看護士達が、おろおろと困っていた。

 単なる停電なら、自家発電が作動しているはず。

 通信機の周波数を切り替えた小沢は、中で警備しているはずの、G3?Xに語りかけた。

「氷川くん、聞こえる? 氷川く、きゃっ!!」

 撃ち抜かれるような雑音が、小沢の耳を直撃した。

 思わず、インカムを引き毟る。

「な……何なの? 一体……」

 暫く耳を押さえていると、通信機の受信ランプが瞬いた。

 恐る恐る、再び付けたインカムから、緊張した尾室の声が聞こえてくる。

『こちら尾室。小沢さん、氷川さんの……G3?Xのトレース信号が消失しました。レッドアイザーの通信・画像信号共に切断。リセット、再起動……不能!』

 腰のホルスターから、グロッグを引き抜く。

 新開発の、対UK特装弾が装填されている事を確認し、弾倉を戻した小沢は、淡々と言い放った。

「速やかに、G3?Xとの通信を回復させなさい。但し、トレーラーから出ちゃ駄目よ……念の為、ね」

『了解』

 そのまま強化ガラスに寄った小沢は、爪先で、ガラスをそっと突ついてみた。

 冷ややかなまでに硬い感触は、通常のソレと変わりない。

 しかし、どれだけ目を凝らしてみても、その中がどうなっているのか、見透かす事ができなかった。

 煤煙を目一杯詰め込んだ様な、艶の無い黒の空間。

 ドアの側では相変わらず、警備員と看護士達が、指をくわえて戸惑っている。

「フロアの管理責任者と警備担当者! 居るなら、話を聞かせて欲しいんだけど!」

 警察手帳を掲げながら、小沢は、警備員達に歩み寄った。

「あんた、警官か! よ、良かった……」

「どうしたの? 何かあったの?」

「それが……この先にある、処置室の中にいた人達が、消えちまったって……」

「消えた?」

 冷や汗を浮かべた警備員が、すがる様に話し始めた。

「処置室にいた人達、全員さ。ついさっき運び込まれた、アギト化した意識不明の患者一名と、腕を怪我した金髪男。真島先生と、青い装甲を着込んだゴツいロボットが……監視カメラを見ていたんだが、突然……」

 階段を、誰かがばたばたと駆け昇ってくる。

 躍り出てきた看護士が、喘いだ吐息を呑み込んだ。

「こっ……」

 小沢はすかさず、警察手帳を突き付ける。

 そんな権限は欠片も無いのに、いつの間にか、小沢がその場を仕切っていた。

「警察よ。何かあったの?」

「け、警察? でも、いくら警察でも……」

「処置室の件は、今、その警備員さんから聞いたわ。その件?」

 言いよどむ看護士の肩を軽く叩き、にこりと微笑む。

 虚を突かれた看護士は、小沢に向かってまくしたてた。

「ち、違うんです。こっちは第四手術室が……」

 警備員が、色めき立った。

「困ったな、こっちもそれどころじゃないんだよ!」

「で、でも!」

 背の低い小沢の頭上を、無軌道な会話が飛び交う。

 ちっとも要領を得ない??小沢は無理矢理、二人の間に割って入った。

「二人とも、ちょっと、お・ち・つ・い・て! 看護士さん、そっちは何があったの?」

「じ、実は……第四手術室で執刀していた、執刀医の先生が、その、篭城、というか……」

 警備員が、目を瞬かせた。

「医者が……篭城?」

「え、ええ。状況モニターで、定時確認しようとしたら、真っ暗で……モニターの故障かと思ってオペ室行ったら、何故か、その……」

 口ごもる看護士に、小沢はにっこり微笑んだ。

 ここで怒鳴りつける程、人付き合いを知らない訳ではない。

「どうしたの?」

「手術室に、入れなくなっているんです」

「入れない?」

「非常装置を作動させても、扉が開かなくて……どうしようかと思って……」

「ドアの故障なら、業者を呼ばないと」

 うなされた様に、警備員が呟いた。

 ドアの故障、か。

 その程度だったら、いいんだけど??小沢は、看護士に言った。

「その手術室に、連れてってもらえ……きゃっ!!」

 と、腰の辺りを、鋭い振動が襲う。

 不意の攻撃に、思わず飛び上がった小沢は、慌ててポケットに手を突っ込んだ。

 そして自分のものではない、しかし見覚えのある携帯端末を掴み出す。

 場所柄の条件反射か、その場にいた全員の視線が、小沢に集中した。

「し、失礼っ……」

 慌てて、端末を確かめる。

 確か、氷川くんが使ってたモノじゃなかったっけ?

「う……」

 小沢は、呻いた。

 深酒の果てに、今まで色々、ヤバいものを失敬しては詫びてきたが、流石に、コレは初めてだった。

 きっと、コートを羽織らせてくれた時だろうが、後でこっそり戻しておかないと。

 ポケットに突っ込み直そうとして、光るディスプレイをちらり見る。

 着信:真島 浩二。

 一髪もためらわず、通話ボタンを押すと、凄まじい雑音が聞こえてきた。

「もしもし……もしもし!?」

 返事は、無い。

 しかし、刺々しい騒音の向こうから、頼りなげな音声のようなものが、途切れ途切れに聞こえてくる。

 小沢は、着信音の設定を上げた。

 微かな声音が、辛うじて聞き取れる。

『……しもし? 聞こえ……か? 真島です。僕は今、葦原さんと……ど……』

 雑音が競り上がり、声がどんどん埋もれていく。

「もしもし? 真島くん!?」

 通話が、途切れた。

 発信者側が、切ったのだろう。

「……どういう事?」

 白く光るディスプレイを眺めながら、流石の小沢が、蒼白となった。

 

説明
 命を懸けた激闘の末、未確認生命体・アンノウン宗主の審判を退けたアギト達。
 時が過ぎ、当時戦ったアギトの内の一人である津上翔一は、夜中のバイク・クルージング中に、交通事故を起こしかける。
 何の予兆も無いまま、制御の及ばなくなった愛車に戸惑う津上。
 その前に突然、アギトの力を操る見知らぬ男が現れ、バイクに宿った不思議な意志を、抹消したいと告げる。
 愛車を見知らぬ男に探られる事を嫌った津上が断ると、その男は倒れかけた。
 しかし、津上の手助けを振り払い、男は消える。
 一人憤る津上だったが、その愛車には、確かに不思議な意志のようなモノが宿っていた。
 津上は躊躇ったが、やがて意を決し、不思議な意志とのアクセスを試みる。
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