あやせたんの野望温泉編 加奈子side
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 京介と一緒に入っている混浴露天温泉。

 あたしは京介の好みの女のタイプを聞いていた。

 ぐちゃぐちゃした自分の感情に蹴りを着ける為に。

 この恋を諦められるように。

 でも……。

「でもさ、メルルイベントでのプロ意識とか、ブリジットちゃんを本気で守ろうとした姿とか見て……俺、お前のことを見直したんだぜ。加奈子はスゲェって」

「ほ、本当かっ!?」

 あたしは聞いてしまった。

 京介があたしを凄いと言ってくれた言葉を。

 それを聞いてあたしはどうしても自分を抑えられなくなっていた。

 湯の中から勢い良く立ち上がって京介を見る。

「京介……どうしても聞いて欲しい話があるんだ」

 京介の手を強く握る。

 あたしはもう自分の気持ちを抑えることが出来なくなっていた。

「な、何だ?」

 京介はあたしを見ながら動揺していた。

 その時になって気付く。

 あたしはまっ裸で京介の前に立っていることに。

 でも、今はそんなことに構っている場合じゃなかった。

 あたしにはどうしても京介に伝えたいことがあった。

 深呼吸を2度、3度しながら息を整える。

 言うべきことは決まっている。

 ううん、あたしが京介に言いたいことは元々一言しかない。

 後はそれを、正面からぶつけるだけだった。

 そしてあたしは、人生で初めてその言葉を本気で発したんだ。

 

「あたしは、京介のことが好きなんだぁ〜〜っ!」

 

 それはあたしの人生で初めての本気の愛の告白だった。

 

 

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あやせたんの野望温泉編 加奈子side

 

 

 あたしの家は所謂複雑な家庭ってヤツだったりする。

 両親の仲がすんげぇ悪くて家の居心地が果てしなく悪い。なもんで、漫画家をやっている姉貴のマンションに転がり込んで世話になっている。

 その姉貴は人気漫画家らしいんだが、やたらオタクっぽいものばかりを描いていて正直作品には全く興味が沸かない。

 マスケラとかいうのが代表作らしいのだが、冥界がどうとうか天使がどうとか設定と展開が厨二病過ぎて付いていけない。セリフもくどいし。バカ極まるメルルの方がまだ良い。

 勿論突然転がり込んだあたしを何も言わずに置いてくれていることには感謝している。

 けれど、代わりに姉貴はあたしにあまり関心を示さない。何て言うか、姉妹らしい会話を交わしたことがほとんどない。うん、一緒の家に住んでるのに話をほとんどしない。

 そんな感じなのであたしにとって家族ってのはどうも変な感じのするものだったりする。

 親子仲、兄妹仲の良い桐乃のとこの高坂家が羨ましく思えたりする訳だ。

 まあ、そんなんだからというか、元々がそうなんだかは知らないけれど、あたしは人間を真正面から見るのが苦手だ。好意を向けるのも、好意を向けられるのも好きじゃない。

 といっても、勘違いして欲しくないのは、あたしはチヤホヤされるのは好きだ。飯を奢られたり賞賛されたりするのは人並み以上に好きだ。

 けど、愛情をぶつけること、愛情をぶつけられることになると話は全く別になる。そういう感情を抱くのも、抱かれるのも気分が良くない。

 恋に恋するなんてあたしにはぜってぇ理解できない。だってよ、恋して愛してその先に何がある?

 あの両親のドロドロしたいがみ合いを毎日見せられてよ。あんなん見せられたら誰だって愛なんて幻想だって思うようになるぜ。世の中で必要なのは愛じゃなくて利害だって。

 で、あたしはその悟りに従って他人を出汁にしようと生きてきた訳なんだが……

 

 恋、してしまいました。

 

 いやぁ、我ながら驚いたね。

 まさかこのあたしが恋しちゃうなんてね。

 しかも相手は金持ちでも、ハイソでも、イケメンでもない冴えない平凡男だなんて。

 この来栖加奈子さまが冴えないダメ男に報われない片思いをするなんてよ。

 ほんと、笑っちゃうぜ。

 

 あたしの恋した相手、それは同級生の兄貴だったりする。いや、その事実を知ったのは後からなんで、より正確には一時期あたしのマネージャー勤めていた男だ。

 最初はどうとも思わなかった。冴えない使えないマネージャーとしか思わなかった。けど、あたしの仕事ぶりを誰よりもよく認めてくれた。あたしのファン1号だって言ってくれた。きっとあたしという人間を初めて正面から受け止めてくれた人間だと思う。

 自分では金、顔重視だと思っていたが、どうやらあたしはありのままの自分ってヤツを受け入れてくれる男が好きらしい。ステータスは二の次だったのだ。

 とはいえ、出会ったばかりの頃のあたしは利害重視の金持ち、社会的地位の高い奴に付きまといと思っていた。

 だからその男、高坂京介のことを特に意識することはなかった。

 そんなあたしが京介を男として意識するようになったのは昨年の秋頃から。

 意識したきっかけは……これと言った理由はないんだが、強いて言うなら会う機会が増えたから。 イベントの度にマネージャー役として来てもらっている。

 で、意識し始めたら、後は坂道を転がるようにっていうか、まあ、ドンドン惚れちまった訳だ。この来栖加奈子さまともあろうJCがよ。まったく去年までのあたしに鼻で笑われそうな事態だ。

 

 そして、あたしは思い知らされた。

 この恋は実らないと。

 告白して振られた訳じゃねえ。

 でも、わかるんだ。

 京介には他に好きな女がいるって。

 だから、桐乃とあやせから何気なく情報を集めた。

 そうしたら、京介には以前彼女がいたことがわかった。夏休みの終わりに別れたらしいが、京介はその女がいまだに好きなのだ。

 残念だけど、あたしにはそれがわかってしまう。こんな言葉を自分に使うのはバカらしくて嫌なんだが、恋する乙女だから。好きな男の好きなものぐらい見えてしまう。

 それが見えないのはよっぽどの自己中盲目女だけに違えねえ。あやせはその典型だが。

 そんなこんなであたしは自分の想いを持て余しながら、かといって玉砕して果てる覚悟も持てずにだらだらと月日を過ごしていた。

 

 そうこうしている内に年が明けた。

 京介がクリスマスや初詣に誘ってくれるんじゃないかって密かに期待していた。

 けど、そんな誘いは当然の如くなかった。

 まっ、考えてみりゃ当然の話だった。アイツにとってあたしは単に世話の焼けるクソガキ。それ以上の存在じゃない。

 電話が掛かって来ないことであたしは自分の立場を再確認してしまった。

 そんな訳で元旦早々憂鬱な気分になってベッドに塞ぎ込んでいた。

 で、そんな時だった。携帯がメルルのテーマソングを奏で始めた。

 ほんのちょっとだけ期待しながら携帯を手に取る。

 ディスプレイには『新垣あやせ』と表示されていた。

 ガッカリすると同時に、世の中こんなもんだよなと納得しながら通話ボタンを押す。

 面倒に巻き込まれないといいなあと思いながら。

『加奈子、明後日からモデル仲間で温泉慰安旅行に行くから準備をしておきなさい』

 やべぇ。コイツ、ほんとにやべえ。

 新年早々の電話で挨拶もなしに初耳の旅行への参加を命令形で伝えてくるなんて。

 マジあやせって感じだ。

 あやせは昔から独善の塊みたいな奴だった。でも最近じゃ善すらもう消えうせてただの唯我独尊女に成り果てている。恋愛ってのはやっぱ恐ろしいほど人間を変えやがる。あやせの場合は完全に悪い方に進化しちまっている。

 ちなみにあやせが好きなのは京介だ。本人は決して認めようとしないが、露骨なツンデレって奴だ。

 その意味であやせは恋のライバルに該当する。けれど、アイツはそういうのとはちょっと違う気がする。あたしにとっての恋のライバルはまだ見たことがない京介の元彼女で……って、そんなことを今考えていても仕方がない。

 旅行の件についてもう少し詳しく聞いておかないとな。

「温泉慰安旅行って何だよ? そんな話、事務所から聞いてないぞ」

『………………え〜と、ほら、アレよ、アレ。サプライズ旅行を事務所が用意してくれたのよ。費用は全部事務所持ちだから悪くない話でしょ?』

 ぜってぇ嘘、だな。

 となると、この旅行はあやせが仕組んだものとみて間違いない。

 大金投資して旅行を自演自作までして何を得ようとしている?

 いや、考えるまでもねえな。10万単位の金を使ってまであやせが得ようとするものなんて一つしかねえ。

 あやせの目的を確かめてみることにする。

「アイツは、マネージャーは……京介は来るのか?」

「…………お兄さんが呼ばないと加奈子が参加を渋りそうだから呼んでおいたわ」

「ふ〜ん」

 決まりだ。

 あやせは旅行中に京介を落とす気だ。

 旅行参加を強制した癖にあたしが渋りそうだから京介を呼んでおいたとか、言い訳にしても図々しい。あたしをエサに京介を召喚する気で間違いない。

「で、モデル仲間ってのは一体誰なんだよ?」

「加奈子と私、それから桐乃とブリジットちゃんの4人よ」

「……京介も合わせて5人分の旅費捻出とは随分壮大な自作自演劇だな」

 あやせの奴は相当に本気だ。

 けれど、ここであたしが行かないという選択肢を提示すればあやせの計画は霧散する。

 京介の見た目の好み(中身じゃないことが重要だかんな!)があやせであることを考えると、温泉、泊まりというイベントの組み合わせは危険だ。

 あやせの色気に京介が陥落する可能性はある。あの女、思い詰めるととんでもねえことをしでかすからな。卒業とか進学とか一切無視して妊娠ゴールとか本気でしかねない。

 となれば、断るのが得策。あやせのフィールドで戦うのは得策じゃない。

 でも、でもだ。

 京介との旅行はあたしにとっても千載一遇のチャンスだ。

 このまま時をダラダラ過ごしてもこの先あたしに目はない。

 だったら、この旅行に賭けてみるのも手なんじゃねえか?

 いや、ここで乗らなきゃあたしは絶対に後悔する。

 ここは、攻めるべきだ!

「へへっ。タダで温泉たあ楽しそうじゃねえか」

 あたしは敢えてこの誘いに乗ることにした。

 これが最大にして最後のチャンスになるに違いないと信じながら。

『それでね、諸事情があって、加奈子たちにはバスで行ってもらって、あたしとお兄さんは電車で後から追い掛けようと思うの』

 そしてもう戦いは始まっているのだと心に強く噛み締めながら。

「明後日の朝にはちょっと野暮用があってよぉ。悪いが、あやせたちは先に出発してくれ。あたしと京介は電車で行くぜ」

『ええ〜〜っ!?』

 あたしのこれまでの人生で最大の大勝負になると心に再度唱えながら。

 

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 1月3日。旅行当日。

 あたしは20分遅れて待ち合わせ場所である千葉駅に到着した。

「よぉ。あけおめ」

 右手をチィッスと伸ばす。

「ことよろ。遅刻して電車逃した分際でその挨拶か?」

 当然のことかもしれないが、先に到着していた京介は機嫌が悪かった。

「寝坊しただけだ。男なら細かいこと気にすんなよな。まったく人間が小せえなあ」

「俺が飲み物準備する時は1分でも遅いとイライラする癖に何を言ってんだか」

 京介の白い目が突き刺さる。

 京介の怒りもよくわかる。

 正月3日の内房線なんて1本逃せば次は1時間後だ。つまり、次の電車まで1時間待たないといけないのだ。

 けど、あたしにだって遅刻したのには理由がある。

 京介には寝坊なんて語ったけれど、それは事実じゃない。

 今日は学校がある日より早く起きた。約束には無茶苦茶間に合う時間だった。でも、遅れた。それは何故か?

 遅れた理由1。服選びに時間が掛かった。

 あたしもモデルまでやってるJCだし、格好を気にするのは当然の理由だよな。

 結局、一番時間が掛かったのが勝負パンツ選びだったけどな。赤いレースパンツで京介をメロメロにしてやるつもりだった。

 遅れた理由2。わざと遅れたかった。

 あたしは電車が1時間に1本しかないことを調べて事前に知っていた。だから、電車に乗り遅れれば京介と2人きりの時間が1時間増える。

 その結論に至った時、あたしに待ち合わせの時間通りに駅に到着するという選択肢はなくなった。

 あたしは時刻表を見て電車が走り去ったのを確かめてから京介の前に顔を出した。

 

 

 こんな風にしていじらしく京介との2人きりの時間を確保したあたしだったが……。

 

「なあ、京介はホモなのか?」

「グエホェッ! ゲホェッ!!」

「汚ねえなあっ! 顔に少し掛かっちまったじゃねえかっ!」

「んあこと言ったって、お前が俺をホモかなんて事実無根のことを言うから驚いたんじゃねえか!」

 

 何時間も一緒にいたのに京介との距離をまるで縮められなかった。

 

「こんな可愛いJCと車内で2人きりだって言うのにオメェ全然意識してねえし」

「あのなあ、俺は仕事で来てるんだぞ。女の子と2人だからって浮かれてられねえよ」

 

 京介はこんな可愛いあたしと一緒にいるのに、手も出さないどころか意識すらしねえ。

 挙句の果てには……

 

「あたしのパンツだよ、パンツッ! あたしの勝負パンツを京介は見たんだろっ!」

「見た……つうか見えてたな」

「じゃ、じゃあ! 何かないのかよ!」

「何かって?」

「JCの、しかもプロモデルの勝負パンツ見たんだぞっ! 飛び上がって天井を突き破るぐらいの喜びのリアクションがあっても良いだろうが!」

「そう言われても……加奈子のパンツじゃなあ」

「あっ、だが同じ女子中学生のパンツでもあやせのパンツが見えたら喜び踊り狂って電車の窓から転落するかもしれないな」

「あやせのパンツだと喜び踊り狂うだと? フッザケンナぁあああああぁっ!」

 

 京介の為にせっかく履いてきた勝負パンツは何の功も奏さなかった。それどころかあやせと比較されてバカにされただけだった。

 それであたしは腹が立って京介にへそを曲げた。

 そんなこんなで2人きりの移動という絶好の好機を生かすことができなかった。

 

 

「かなかなちゃんは京介お兄ちゃん狙い、なんだよね?」

 旅館の部屋に着いた早々、同室のブリジットがとても素敵な爆弾発言をかましてくれた。

 ニッコニコな笑顔であたしを見るブリ公。コイツはガキの癖にやたらと恋愛話が好きで嗅覚も鋭い。やっぱ、気付かれていたか。

「え〜と……それは、だな」

 返答に困る。

 あたしはあやせみたいに自分の想いを第三者にひた隠しにするつもりはない。

 けれど、あやせと桐乃に知られるのはヤバい。恥ずかしいとかそんな次元じゃなくて、生命の危機。そう、その言葉がピッタリの状況に陥る。下手すると殺されかねない。

 恋バナ大好きなブリ公の口からいつ桐乃やあやせに伝わるかわからない。

 けど、最近あやせらがあたしを見る目に警戒が含まれている。だから、もうバレているんだろうなとは思う。自分でも浮かれてるよなと思う時があるし。

 なら、隠しても無駄か。それに、あたしは今回の旅行に全力を賭けてるんだ。

「ああ、そうだ。あたしは今回の旅行で京介と恋人同士になってやるぜ」

 桐乃の言う所のリアル洋ロリに決意表明をする。

「わぁ〜。それじゃあわたしとかなかなちゃんは恋のライバルだね♪」

 ……なんか、予想外の方面から宣戦布告されました。

「ぶ、ブリ公も京介のことが好きなのか?」

「うん♪ 今回の旅行を通して京介お兄ちゃんの恋人になれたら良いなあって思うの♪」

 さすがはグレート・ブリテン人。発想が東洋の島国とは違う。11歳なのにすげぇ。

「これで京介お兄ちゃんを狙う恋のレースは、わたしとかなかなちゃんの一騎打ちだね♪」

「あやせや桐乃も京介を狙っているだろ?」

 あたしの想いに気付いているぐらいだから、当然あやせたちの想いにも気付いているだろうに。何故に一騎打ち?

「あの危ないお姉ちゃんは京介お兄ちゃんの実の妹なんでしょ? 京介お兄ちゃんは良識人ぶった小心者のヘタレだから妹には手を出せないよ♪」

 グレート・ブリテン。マジパネェ。俺妹の根幹に挑戦してきやがった。

「あやせさまは、いつも空回るか脱線したまま突き進む人だから恋のライバルって呼ぶには役不足なんだよ♪」

「まあ、そうかもしれないけどよ……」

 今後歴史は真面目に勉強しよう。イギリスすげぇ。パネェ。

 

「それでかなかなちゃんは具体的にどんな作戦を立てているの?」

 ブリ公はやたらと目を輝かせている。ほんと恋バナ好きだな、コイツは。

 けど、だ。作戦、かあ。

「特に何も考えてねえなあ」

 一緒に旅行に来さえすればどうにかなると思っていたのは算段が甘すぎた。何よりあたしは京介と2人きりの3時間で何一つ進展させられなかった。

「え〜っ!? 何も考えてないの〜? それじゃあ、何もしなくてもわたしが京介お兄ちゃんのお嫁さん決定だよ〜」

 ブリ公の中の設定では、初期状態で京介からの好感度MAXらしい。

 京介がそういう性癖の奴ならば小学生ブリ公の優位は絶対だろう。だが、京介はそんな奴じゃないと信じたいし、もしそんな奴なら……ちょん切ってやる。

「じゃあ、あたしは京介と2人きりになれるよう段取りを作らねえとな」

 あやせや桐乃と一緒に動いていたんじゃ2人きりにはなれない。

 単独行動をまずは心掛けるか。

「京介お兄ちゃんを誘うの?」

「そう、だな。……その内に」

 待ってるだけでは現状と何も変わらない。自分からもう1歩踏み出す勇気が必要なんだと思う。

 けど、今のあたしは鈍感で乙女心を踏み躙った京介に怒っている。そんなあたしからいきなり京介を誘うってのも変だろ。

 とりあえず様子見だな。

「ふ〜ん。それで、かなかなちゃんはこれからどうするの?」

「とりあえず一休みしてから、景色でも見て回るとするかな」

 しばらくのんびりしてから行動に移りたい。

 あたしは畳の床に寝転がった。

 と、あたしの耳は探知した。忍び足で擦り寄ってくる人影を。

「ハァハァ。ブリジットちゃん。ハァハァ。ブリジットちゃ〜ん♪」

 犯罪者の欲望の吐息と声を。

「ブリ公、今すぐ散歩に出掛けるぞ」

「うん♪」

 あたしにはこの旅行中にやらねばならないことが2つある。

 1つは京介と恋仲になること。

 そしてもう1つは妹分とも言うべきこのブリジットを性犯罪者の手から守ること。

 やること多いな、本気で。

 

 

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「あやせは桐乃の管理をもっとしっかりしろよな」

 桐乃にブリジットが捕まる前にあたしたちはこっそり庭園の方に移動した。それからあやせの携帯にメールを打っておいた。これで桐乃はあやせが退治してくれるだろう。

 お仕置きで部屋の中が壊れたり、桐乃の犯行でブリジットのパンツや服が盗まれないことを祈りながら庭を眺める。

「パンツもシャツも着替えとお風呂道具は一式全部持ち歩いているから大丈夫だよ♪」

 ブリ公はメルルがプリントされた手提げ袋をあたしに向かって掲げた。

「オメェ、意外と逞しいよな。っていうか、心読むなよ」

「かなかなちゃんが何を考えているのかわかり易いだけだよ♪」

 ブリジットはパッと花が開いたような明るい笑顔を見せた。

 うん。強くなったな、ブリ公。もう教えることは何もねえ。

「かなかなちゃんから教わったことは何もないよ♪」

 ほんと、強くなった。涙が出るぐらいに。

 

「さて、これからどうすっかな?」

 花も咲いていない庭園をのんびり眺めて回る趣味はない。

 外に出て10分。早くも飽きてしまった。

「じゃあわたしは温泉に行ってみるね♪」

 ブリジットは瞳を輝かせながら言った。日本のアニメに深く傾倒しているブリジットにとって温泉というのはとても興味を惹く対象らしい。

「桐乃には気を付けて行って来いよ。あたしは外の方をもうしばらく散歩してから入る」

「うん♪ じゃあ、またね」

 ブリ公は笑顔を見せながら駆け去っていった。

 一方であたしは玄関の方に回って、先ほど見た崖へと向かった。

 

「これは落ちたら一発でお陀仏だな」

 崖の上から遥か下方にある水面を覗き込んでみる。

 この高さ、落ちたらまず助かりそうにない。

 観光客用に低い柵は設けられているものの、夜とか無造作にこの辺を歩き回るのは危ないかもしれない。

 落ちたら諦めがつく高さなのも確かなのだが。

「って、あたしは人生に疲れて死に場所を捜し求めている中高年ババアじゃねえっての」

 首を横に振りながら崖の淵から離れる。

「さて、これからどうすっかな?」

 桐乃はブリジットに夢中みたいだが、あやせはいつどう動くかわからねえ。何しろこの旅行を企画したのはあやせだ。何か壮大な仕込みがあると見た方が妥当な筈。

「早めに動いた方が良いのは確かだよな」

 状況ははっきりしている。先手必勝。この考え方に集約される。

 けれど、先ほどの車内の一件があってあたしの方からはアクションを起こし辛い。

 だから、自分から探すのではなく出会ってしまったら行動に移ろう。

 そう決めた。

 で、行動の指針が決まった所で何をしようか?

 

『じゃあわたしは温泉に行ってみるね♪』

 

 ブリ公の先ほどの言葉を思い出す。

 せっかく温泉に来ているのだし、桐乃がブリジットの入浴中を襲わないとは限らない。

「ひとっ風呂浴びるとするか」

 やることを決めて旅館内へと戻る。

 

 着替えを取りに部屋に戻ると、畳には拭き取られた血の痕があった。

 テーブルの上の茶菓子が割れていた。

 何も置かれていない部屋なのでわかり難いが、ここで確かに戦闘が勃発したようだった。

「桐乃は逃げたか、それとも天に召されたか」

 桐乃の安否を考えながらバッグから着替えを取り出す。

 黒のスケスケ。あたしの勝負パンツ第2弾。今日は……頑張る。

 旅館で支給されている浴衣を手にとって浴場へと向かう。

 

 少し歩くと浴場に到着した。

 でもここで問題が生じた。

 女湯の入り口の前には立て札が立っており『清掃中』の文字が書かれている。

「何だよ。掃除中かよ」

 部屋に戻ろうと回れ右をする。けれど、何かおかしいことに気付いた。

 あたしは部屋からここへ来た。だが、部屋にも廊下にもブリジットはいなかった。

 ということは……。

「ブリ公の奴、漢字読めねえしなあ」

 ブリジットは浴場内にいるに違いなかった。

 暖簾を潜って中へと入る。

 脱衣場、そして女湯内には人の姿はない。

 けれど、脱衣かごの一つは使われていた。ちょっとだけその中身に目をやると、メルルがプリントされた袋が見えた。

 ブリ公のもので間違いなかった。

 ということは、ブリジットは混浴露天温泉の方にいるに違いなかった。

 で、今になってふと思い出す。

「そういやブリ公。混浴って何だか知ってんのか?」

 面倒くさい説明はあやせに全部任せるようにしている。けれど、そのあやせ自身は京介攻略で頭がいっぱいに違いねえ。となると、説明していない可能性が高い。

「面倒なことになってなきゃ良いんだが」

 衣服をすばやく脱いで、バスタオルを体に巻きつける。

 それから足早に女湯、そして中を通って温泉へと向かった。

 

 女湯と外を繋ぐ扉を開けて温泉がある屋外へと出る。

 少し歩くと石で縁取られた露天温泉が見えてきた。

 そしてあたしはそこで思いも寄らない光景を目にすることになった。

 

「ちゃんと聞いているの、京介?」

「はい、聞いております」

 

 石の上に正座してお説教を受ける全裸の京介。

 その京介を説教している旅館の仲居らしき長い髪の若い女。

 

「旅館のお姉さん……京介お兄ちゃんも十分反省しているし、あれは冗談だったんだからもういいよ〜」

 

 そして、仲裁を取り成そうとしているブリジット。

 この三者があたしの目の前にいた。

 何がこの温泉で起きたのか推理してみる。

…………京介にラッキースケベが起きて、ブリジットが悲鳴でも上げて仲居に怒られる展開になった。そうとしか考えられなかった。

 ブリジットも京介を庇っているぐらいだし、裸を見られたとかそういう類の事件だろう。京介が小学生相手に性犯罪を行うとは思えないからな。妹とは違って。

 京介に助け舟を出してやろうと思って3人に向かって歩を止める。だが、あたしの歩みはすぐに止まった。

 

「ちゃんと反省しているの?」

「はい、しております」

 

 仲居のお説教を受ける京介はとても幸せそうな表情をしていた。

 京介がドMだとかそんな話がしたいんじゃない。

 ただ、アイツがあの若い仲居を見る目がとても優しいっつうか、生き生きしてるっつうか。要するに、あたしにもあやせにも向けねえ幸せオーラが篭った瞳を向けている。

 あの2人、以前からの知り合いであることは間違いない。そう言えばあの仲居、お客様じゃなくて京介って呼び捨てにしていたしな。

 

「とにかく京介はこの一件の責任を取りなさい」

「はい」

 

 それにあの仲居の喋り方はフランク過ぎるし高圧的だ。やっぱりこれは2人が元々知り合い、しかも相当親しい仲だ。

 あの女、一体誰なんだ?

 そして、あたしは知りたくなかった真実に遭遇してしまった。

 

「わたし、知ってるよ。こういう時、日本では男の人は責任取って女の人をお嫁さんに貰うんだよね。じゃあわたし、京介お兄ちゃんのお嫁さんになるね♪」

「そのお願いだけは絶対にダメよっ!!」

「俺とこのお姉ちゃんはもう既に結婚の約束をしているんだ。だからブリジットちゃんとは結婚できないんだ」

 

 3人に背を向けて脱衣場へと戻っていく。

「畜生……いきなりラスボス登場なんてそんなんありかよ」

 足取りは重い。果てしなく重い。

 気付いちまった。

 あの女が、京介の元彼女で間違いないって。

 しかも実際は元カノなんて終わった関係とは全然違え。

 あの2人、まだ互いに好きあっている。

 結婚云々はブリジットを丸め込む為の方便にしても、京介たちは目で会話していた。2人の阿吽の呼吸ってヤツを図らずも見せ付けられちまった。あたしには出来ない真似を。

「あたしはまだ……告白さえもしてねえんだぞ」

 負けを認めてしまわないように、涙が零れないように顔に力を込めながら温泉を去っていった。

 

 

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 部屋に戻って来て体育座りしながら落ち込む。

 京介と元カノのことを考えると頭が白くなって来る。

 あやせは元カノがこの旅館で働いていることを知っていてわざわざここへ来たのか?

 そうだとしたら、豪気過ぎる。

 知らずに来たのか?

 そうだとしたら、不幸過ぎる。

 どちらにせよ、あやせの野望は水泡に帰すのは間違いなさそうだった。

「かなかなちゃ〜ん♪」

 ブリジットが戻って来た。何だかとってもご機嫌そうに見える。

「随分嬉しそうだな」

 こっちはやる気が減退し切っているというのに。

「だって、今度京介お兄ちゃんにパフェをご馳走してもらえることになったんだよ。これってデートだよね♪」

「ブリ公は元気だな」

 先ほど、京介から結婚を約束していると聞かされたばかりなのにデートと口走るとは本当すげぇ根性の持ち主だ。

「Never Give Upだよ、かなかなちゃん♪」

 ブリジットは流暢なネイティブの発音をしながら微笑んだ。

「京介お兄ちゃんは結婚した訳じゃないし、わたしだって振られた訳じゃない。諦めることなんて何もないよ♪」

「本当、逞しいな。おめぇはよ」

 呆れて溜め息が漏れ出る。けれど、ブリジットを見ているとひとりで負けた気分になっている自分がバカらしくなって来る。

 そうだな。あたしだってまだ負けた訳じゃねえ。あの仲居の方が1歩……いや、2歩3歩先を進んでいるだけだ。何よりアイツらは別れちまったんだし。そう、今は付き合ってない。

そうだ。うん。あたしはまだ負けてなんかねえ。

「わたし、知ってるよ。日本のアニメだと、こういう不利な恋愛をしている時は愛する男の人を寝取っちゃえば勝てるんだよね♪」

「……おいっ」

 何を恐ろしいことを言い出すんだ、このガキンチョは?

「それでかなかなちゃん。寝取るってな〜に?」

「……ブリ公はまだ知らなくて良いよ」

 ガキにエロ知識植えつけるとは視聴規制は一体どうなってんだ?

 大きな溜め息が漏れ出た。

 

 

 ぼぉ〜としながら時間を過ごす。

 時計を見ればそろそろ4時を指そうとしていた。

「なあ、少し散歩にでも行こうかと思うんだが、ブリジットはどうする?」

「う〜ん。わたしはここで宿題やっているね」

 ブリジットは鞄から引っ張り出した冬休みの宿題とにらめっこをしている。

 ブリ公の奴はインターナショナルスクールじゃなくて、普通の公立小学校に通っている。日本の文化と社会をより深く吸収する為とか何とかで。

 だが、1年前に日本に来たばかりのイギリス人少女が日本語で授業を聞くのは大変だ。あたしが英語で授業聞けと言われているのと同じだからな。

 で、結果としてブリ公は他のガキの何倍も勉強をする生活を送っている。宿題するのにも日本人のガキに比べて何倍も時間が掛かるから。

旅行の最中も勉強しているのはそういう脈絡だ。ちゃんと勉強してる分、あたしよりよほど偉い。

「後でわかんない所は聞けよな。天才かなかな様が特別に教えてやっかんな」

「うん♪」

 ブリ公の勉強の邪魔にならないように部屋を出る。

「小学生の勉強……あたしにわかるか?」

 勉強も真面目にやんねえとな。

 そんなことをフト考えた。

 

 

 庭に出てしばらくの間、何をするでもなくのんびりと過ごす。

 あやせの奴はさっき、トレーニングウエア姿で外を全力で駆けていくのが見えた。

 何をするつもりか知らないが、残念なことであるのはきっと間違いない。

 本当、最初はあやせが最強の恋のライバルだと思ってた時期もあったんだがなあ……。

 ちなみに桐乃は部屋でグルグルに全身を縛られて放置されている。

 一見、その風景だけ見ると犯罪の被害者のように見えるが、実際には性犯罪の加害者だ。ブリ公の勉強が終わるまでは放っておこう。

 で、京介に関しては部屋にも庭にもいない。

 また風呂に入り直したのかもしれない。裸で説教されてたし、体冷えただろうからな。

「どうすっかな?」

 と、その時、掃除機を手にして廊下を歩いている若い仲居の姿を目にした。

「アイツ……京介を叱っていた女」

 そして多分京介の元彼女。

 その姿を見て、あたしはジッとしていられなかった。

 気が付くと走り出していた。

 懸命に後を追い掛ける。

 玄関付近でようやく追い付いた。

 荒い息のまま後ろから声を掛ける。

「あ、あのよお……」

 京介の元カノ?は立ち止まり、次いで振り返った。

「何か、御用でしょうか?」

 間近で見るとすげぇ美人だった。切り揃えた前髪に長い黒髪。和風美人っていうのか。そういう感じの女。年はあたしと同じぐらい。

 あたしには及ばないものの、あやせや桐乃並に整った顔をしている。

 けれど、表情を作ることに慣れていないのか、笑顔がぎこちない。顔に無用に力が入っている。モデルにはなれないタイプだな。

 って、相手を値踏みしている場合じゃねえ。

 何か、言わないと。

 …………って、何を言えば良いんだ?

 追い掛けるのに夢中で何も考えてなかった。ど、どうするか?

 

「えっと、風呂ってどっちだ?」

 何で全然関係ないこと聞いてるんだよ、あたしはよっ!

「大浴場は通路を左に進んで頂けるとございます」

 風呂の位置なんて知ってんだよ。

 そんな話がしたいんじゃないっての!

「えっと……そうじゃなくてだな」

「はい?」

 元カノ?は首を捻った。

「だから、その、なんだ。アンタの、名前を教えてくれっ!」

 何かまた無茶苦茶言ってしまった。

「私の名前、ですか?」

 元カノ?は怪訝そうな顔をしている。いや、おかしいのはあたしも十分わかってる。だって、今のあたしはどう見たって挙動不審だ。あたしが男ならイエローカードは固い。

「そう。アンタの名前が是非知りたいんだっ!」

 この仲居さんはあたしの部屋の担当じゃない。普通なら名前を知る必要はない。こんな所で声掛けるのはナンパ目的のチャラ男ぐらいのもんだと思う。

 でも、だけどあたしはどうしても元カノ?の名前を知っておきたかった。だってよ、元カノ?って記憶しておくのも何か変な感じじゃねえか。

 何しろこの女はよ……あたしの最大のライバル、目標なんだぜ。

「私はこの旅館で仲居を務めております五更瑠璃と申します。以降、お見知りおきを」

 五更瑠璃と名乗った女は深々と頭を下げた。

 旅館の従業員と客。それがあたしと瑠璃って女の関係。

 それは間違いじゃない。だけど、あたしが望む関係じゃない。

 あたしは、この瑠璃って女と京介を巡る関係になりたいんだっ!

「あたしも名乗らないのは良くないよな。あたしの名前は……っ!」

「来栖加奈子さまでいらっしゃいますね。よく存じていますわ」

 ……先手を打って、あたしの名前を告げられてしまった。でも、何で?

「何で、あたしの名前を? 宿泊名簿ってやつか?」

「あなたのイベントには桐乃に連れられて何度も参加しているもの。名前ぐらいは当然覚えるわよ。三次元メルルさん」

 背筋が凍り付くような冷たい声。そして瑠璃の瞳が怪しく光った気がした。

 コイツ、桐乃の友達だったのかよ。しかもオタク関係の。

 ということは京介の奴、妹の友達に手を出したということか? ふてぇ野郎だ。

 いや。いやいやいや。

 それで良いんだ。

 桐乃の友達が京介の彼女になったということは、同じ立ち位置にいるあたしにも同じチャンスがあるってことだし。彼女が妹の友達って最高だよな……。

「下の妹がメルルの大ファンなのよ。それで一度貴方のイベントに連れて行ったら大喜びしていたわ」

「そりゃどうも」

 調子狂う。

 それに、なんだ。

 瑠璃はあたしを前から知っているのにあたしは瑠璃のことを何も知らないのも何か嫌だ。いや、別にあたしと瑠璃は友達でも何でもねえから知る必要もないんだけどよぉ。

 とにかく、あたしも瑠璃について知らねえと。

 

「そろそろ仕事に戻りたいのだけど、良いかしら?」

 瑠璃は掃除機を再び手に持った。

 このままじゃ何も話せないままファースト・コンタクトってヤツが終わっちまう。

 一つだけでもはっきりさせておかねえと、ダメだ。

「なあ」

「何?」

 最初の挨拶の時に比べて随分とぞんざいな態度。愛想もないし言葉遣いも悪い。けれど、おかげで口を開き易くなった。

 そしてあたしは、最も聞きたいことを一つだけ尋ねてみた。

「なあ、アンタは今でも京介のことが好きか?」

 瑠璃が本当に京介の元カノなのか確認も取っていない。

 けど、温泉での京介のあの表情を見る限り瑠璃が京介の元カノに違いない。

 だから、瑠璃の気持ちが知りたかった。

「そんなことを聞いてどうするの?」

 瑠璃の瞳が細く鋭くなった。

 敵意、ううん、悲しみと怒りが篭った瞳だった。

 あたしは瑠璃の触れちゃいけない部分に触れてしまった。それを瞬時にして悟った。

 でも、今更後には引けない。ううん、引いちゃいけない。

「あたしは京介が好きなんだよ。だから、元カノだったアンタのことが気になるんだ」

 あたしは正直に質問の意図を述べた。

 冬とは思えないほどに全身から嫌な汗が流れ出てきた。

「そう」

 瑠璃はそれだけ述べるとゆっくりと歩き出した。

「お、おいっ! ちょっと待てよっ!」

 瑠璃は振り返らずに歩き続ける。

 あたしは慌てて前方に回り込んで両手を広げる。

「あたしは自分の想いをぶつけたんだぜっ! アンタも何か言えよ」

 無茶苦茶な理屈なのはわかってる。でも、それでも瑠璃の気持ちが知りたかった。

「別に貴方が誰を好きかなんて私は訊いていないわよ」

「そりゃそうなんだけどよお……」

「それに私はライバルと馴れ合うつもりなんてないわ」

 瑠璃はあたしを避けながら歩き出してしまった。

「へっ? えっ? ライバルって? ……って、おい!」

 瑠璃はもうあたしの方を振り返らなかった。

 けれど、瑠璃の言葉に含まれた意味に気付いた。急に足が動かなくなる。

「やっぱり瑠璃は今でも京介のことが好きなんじゃねえか」

 最強のライバルの存在を確認して、安心して、気分が落ち込んだ。

 

 

-6ページ-

 

 瑠璃が今でも京介を好きだと知ってすげぇ気分が重くなった。

 ライバルという表現をしたってことは、あの2人はまだよりを戻してはいない。けれど、京介に何とも思われていないあたしより有利な位置にいるのは間違いなかった。

 旅行で一気に進展の筈が、強大な敵に遭遇してしまった。こちとらまだ手も繋いでいない間柄なのに、いきなりラスボス登場させんなっての。ゲームだったらサイト炎上だぞ。

 本気で気分が滅入る。

 そんなだから気分転換に風呂に入ることにした。

 さっきは結局入れなかったし丁度良かった。

「せっかくだから、露天風呂の方に行ってみるか」

 せっかくだから野外に出てみようと思った。

 けれど、露天風呂は混浴のみ。

 どんなエロ親父が入っているのかわからないことを考えると混浴風呂には行きにくい。

 と、扉の手前で躊躇している時だった。

 

「みんなも露天風呂に入ってくれば良いのになあ」

 

 京介の声が聞こえてきた。

 その声を聞いてあたしは凄く焦った。

 混浴風呂に男がいるっていう問題もある。

 でも、それ以上に驚かされたのは、声の主が京介だっていうことだ。

 そしてあたしは2つの相反する気持ちに悩まされていた。

 1つは露天風呂には行かずにこのまま女湯に戻ろうとする気持ち。そしてもう1つは瑠璃に負けたくないという対抗心だった。

 ごちゃごちゃと煮え切らない感情があたしの頭の中を引っ掻き回す。思考は少しもクリアじゃない。でも、口は勝手に開き、体は勝手に動いていた。

「そうか。わかった」

 自分でもよくわからないまま、露天風呂に向かって歩いていた。

「加奈子?」

 あたしの姿を見て京介は驚いていた。

 そりゃそうだろう。あたし自身が自分の行動に一番驚いているのだから。

 どうしちゃったんだ、あたし?

「隣、入るぞ」

 あたしは湯に入る前にバスタオルを外した。

「へっ?」

 京介が間の抜けた声を出す。

 そしてその視線はあたしの体に釘付けだった。

 その時になって気付く。

 ああ、あたしは裸を京介に見られてるって。

 それはとても恥ずかしいことに違いなかった。

 けれど、今のあたしは考えがごちゃごちゃし過ぎていて、自分のことなのに他人事としか思えなくて。

 だから、京介に裸を見られていること自体は正直どうでも良いことだった。

 

 湯船に足を入れて、京介の隣に入る。

「結構温まんなぁ、露天風呂って」

 軽く息を吐き出す。

 あたしの左腕は京介の右腕に触れていた。

 京介に触れると何だか落ち着いてきた。頭の中のぐちゃぐちゃが収まった。

 京介の顔を見るだけで、ちょっと体が触れるだけで悩みがなくなる。

 やっぱスゲェよ、京介は。

 って、ぐちゃぐちゃが収まった途端、今度は恥ずかしさが込み上げてきた。

「あんま、こっち見んなよ。あたし裸なんだし恥ずかしいじゃねえか」

 男と一緒に水着も着けずに入浴ってとんでもねえことしてないか、あたし?

「す、スマン」

 京介があっさりとそっぽを向いた。スゲェ疎外感を感じる。

「あんまりそっぽ向くなよ。あたしがまるで魅力ないみたいで傷付くじゃねえか」

「す、スマン」

 京介はあたしに直接顔は向けないが、完全に無視している訳でもない角度に首を納めた。

 この反応、一応はあたしを女として意識してくれていると見て間違いはないだろう。

 電車の中ではちっとも反応してくれなくて腹が立ったが、ほんのちょっとだけ安心した。

 余裕が出てくると改めて自分の気持ちに気付く。

 あたしは京介のことが好きなんだって。

この冴えないボンクラが大好きなんだって。

 京介には瑠璃っていう決まった女がいることはわかっている。

 でも、やっぱりそれでも諦めきれない。

 

 だから、諦めるきっかけが必要だった。

 

「あのよぉ、京介に……き、聞きたいことがあるんだ」

 

 あたしは京介の手を強く握りながら尋ねた。

「じゃあ、よぉ……どんな女が好みなんだ?」

 

 あたしが好みじゃないと言われればすっきりするんじゃないかと思って。

 でも、あたしの思惑は大きく外れることになった。

 

「でもさ、メルルイベントでのプロ意識とか、ブリジットちゃんを本気で守ろうとした姿とか見て……俺、お前のことを見直したんだぜ。加奈子はスゲェって」

 

 あたしは京介を諦めることが出来なかった。

 それどころかより深みへと嵌っていってしまった。

 そして、あたしは唱えた。

 

「あたしは、京介のことが好きなんだぁ〜〜っ!」

 

 あたしを泥沼へと陥らせる愛という名の自壊呪文を。

 

 

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 あたしは遂にしてしまった。

 京介に愛の告白を。

 胸がバクバク音を奏でていた。顔が熱い。息が苦しい。体中から汗が湧き出て止まない。頭が朦朧とする。

 40度近い熱を出して寝込んでいた時と近い状態だ。

 告白ってこんな恐ろしいものだったのかよ。

 逆ナンでバカでスケベなオヤジたちに好きって言っていた時は何とも思わなかったのに。

 畜生。何て重さだよ。

 本気で辛ぇぞ、これ。

 愛ってヤツはよぉ、本当、あたしに辛い思いばかりさせやがる。

 ほんと、ほんとに気分が悪いっ!!

 

「え〜と、その、なんだ。加奈子が俺のことをそんな風に思っていたなんて知らなくて……その、なんだ。今まで失礼な態度を取ってきて、その、ごめんな」

 神妙な顔をしながら京介に頭を下げられてしまった。

 違う。

 あたしが聞きたいのはそんな謝罪の言葉じゃない。

 そんな言葉が聞きたいんじゃない。

 大体、京介が謝る必要がどこにある?

 失礼な態度を取ってきたのはあたしも同じだ。いや、あたしの方こそ最悪な態度で京介に接し続けてきた。

 なのに、何故謝ろうとする?

 それじゃあまるで……まるで……

「それでさ、その……」

「いい。今はまだ、何も言わないでくれ」

 首を横に振りながら京介の話を制する。

 続きなんて絶対に聞きたくなかった。

 嫌だ。

 愛が破綻する瞬間なんてもうコリゴリだ。

 あたしの両親みたいな気持ち悪い関係になるのは絶対に嫌だっ!

 何で、何で愛なんて世の中にあるんだよっ!

 何を考えてあたしは告白なんてしちゃったんだよ、バカっ!

 

「頼む。もうしばらくで良いから……夢、見させてくれないか?」

 京介の肩を掴んで訴える。

 喉の奥から得体の知れない気持ち悪さが込み上げて来る。

 最悪だ。最悪。

 毎日毎日愚痴愚痴と喧嘩を続け、けれども世間体の為だけに離婚しないあの2人の姿が思い浮かんで来る。

 あたしが家を出て行くと言った時に反対も引き止めもしなかった2人の姿が。

「えっと……その、加奈子は何を言ってるんだ?」

「返事はさ、今夜10時にこの旅館出たあの崖の所で聞かせてくれっ!」

 咄嗟に思い付いたことを口に出す。

「おい、ちょっと待てよ」

「約束したかんな〜〜っ!」

 京介から手を離して女湯へと続く扉へと向かって走る。

 今、答えを出されたら間違いなく頭がおかしくなる。

 みっともないが、今のあたしに京介の言葉を受け入れるだけの心の余裕はない。

 返事を先に引き延ばしてもうしばらくこの恋を燃やしたまま旅行を続けることしかあたしには出来なかった。

 我ながら、格好悪過ぎる。

 けど、そうするしかなかった。

 

 

「どうしたの、かなかなちゃん? すっごく思い詰めた表情をしているよ?」

 浴衣に着替えて部屋に戻るとブリ公が驚いた顔で出迎えた。

 どうやらあたしはよほど暗い表情を浮かべているらしい。

 タクッ。情けねえなあ。

 男に告白して、ビビリ入って結果も聞かずに逃げ帰って来るなんて……。

「もしかして京介お兄ちゃんに振られたの?」

「まだ振られてねえよ」

 何で振られたことを前提に話をする?

「じゃあ答えを聞かずに逃げ出してきたんだね♪ うん。それならまだ振られてないね♪」

「…………少し、黙っててくれ」

 何でこのガキは惨いほど痛い所を突いてきやがるんだ?

 見てたのか、あたしと京介のやり取りを。

「かなかなちゃんは表情に出易いだけだよ♪」

「ちょっと散歩に出て来る」

 素直過ぎるブリジットは大人の傷付いた心を癒すには光が眩し過ぎる。

 あたしはしばらく旅館の外を出歩くことにした。

 

 

 高級旅館だからか何だか知らないが、人里離れていて周囲には自然以外何もない。海も日が暮れてしまえばただの真っ暗闇でしかない。

 しばらく道を下ってみたものの何も見えない。地図ぐらい持ってくるべきだったか。

 飯は6時半という話だったので、そろそろ戻ることにする。

 無駄足だった。いや、それでも1人でのんびりと歩いていたおかげでだいぶ落ち着けた。これならブリ公たちの前で狼狽することももうないだろう。

「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおぉっ!!」

 と、もうじき旅館に到着するという所で、変なのが後方から走って来た。

 その変なのは『新垣あやせ』と呼ばれる生物だった。

「オメェ、一体何をやってんだ?」

 真冬の最中に汗を撒き散らしながらトレーニング・ウェア姿で駆けて来る温泉慰安旅行中のクラスメイトを見ていると泣きたくなって来る。

「フッ。見てわからないとはお子ちゃまね、加奈子」

 立ち止まったあやせは自信あり気に髪を掻き揚げた。その際に大量の汗が飛び散ってあたしにも掛かって来る。ウゼェ。

「オーケー。人語でよくわかるように解説してくれ」

 特に聞きたい訳じゃない。けれど、聞いておかないと今後のあたしに不利益をもたらす恐れもある。

 京介のこと、瑠璃のこと。決着をつけないといけないことが沢山ある。それをあやせなんぞに邪魔される訳にはいかない。

「わたしは今、汗をタップリ掻いているじゃない」

「そうだな」

 あやせのヤツ、一体何を考えている?

「こんなに汗を掻いたらお風呂に入るしかないわよね。わたしはお風呂に入ることを強いられているのよ!」

「今更そんな使い古されたガンダムAGEネタを絡めるなよ」

「ちなみにわたしはユリンちゃんが大好きなの。声優が早見沙織さんで超美声だから」

「自画自賛かよ」

「で、ユリンちゃんがリタイアしちゃったからもう見ない。だって、早見沙織さんが出て来ないアニメにはもう用がないの」

「オメェも順調にダメ人間の道を歩んでいるよな」

 何ていうか、コイツは将来桐乃の最大の敵になりそうな気がする。反目しあいながらも認め合うオタ仲間じゃなくて、内ゲバで殺し合いしそうなそんなヤバさを含んでやがる。

「ユリンちゃんの愛らしさと、ユリンちゃんが出て来ない番組のダメさ加減は後から徹夜で語るとして、ここからが問題なの」

「聞きたくねえよ、そんなオタ話を徹夜で」

 コイツに限って言えば、昔の潔癖症の方がまだ良かった。オタ趣味はコイツの唯我独尊を語らせる材料を一つ増やしただけだった。肝心な所が直ってねえ。

「とにかく、汗を掻いたからわたしはお風呂に入る。あーゆーれでぃー?」

「たどたどしい英語を無理して使うな。で?」

 う〜ん。残念な予感しかして来ない。残念臭が漂って来やがる。

「わたしがお風呂に入る。わたしがお風呂に入ることを流れ出る汗から知ったお兄さんもお風呂に入ってくるわよね。当然の如くして」

「どう当然なんだ?」

 わからねえ。あやせの考えがわからねえ。どこまで残念なら気が済むんだ?

「お兄さんはわたしの裸が見たくて仕方がなくて必然的に混浴温泉に入って来る。そしてわたしは偶々偶然道を間違えて女湯から屋外に出てしまい、お兄さんの待つ混浴温泉へ!」

「なあ、自作自演って単語を知っているか?」

「そして、混浴温泉でばったり出会ってしまうお兄さんとわたし。更にその時突風が巻き起こり、巻いていたバスタオルが外れてしまうの。運命の悪戯によって生まれたままの姿を見られてしまうわたしっ!」

「どこまでも作為しか感じないのだが?」

 こんな寒いのに額から汗が滲んでくる。

「お兄さんに体の隅々まで視姦されてしまう不幸なわたし。そして、初めて肌を晒した男性の元へ嫁げという今日出来た新垣家の家訓に従って、わたしはお兄さんと結婚する羽目に陥るのっ! まさにダブルショッ〜〜クっ!!」

 あやせは両手を天に向かって突き上げた。

「そういう訳でわたしは汗を掻く為とウェディングドレスの下見の為に千葉まで走って戻っていたの。気が早いけれど、来年の年賀状は高坂京介・あやせの連名で頂戴ね♪」

「あたし、面倒臭くて今年は年賀状を1枚も出さなかったんだ」

 目を背けながらそう答えるしかなかった。

 あやせはもう、あたしの手の届かない遠い所に旅立ってしまった後だったのだ。

 ていうか、6桁の金動かして発動した作戦の実態がそれなのかよ?

 あんまりにもちゃちいぞ。大体、裸見られて結婚だったらあたしもブリジットも京介の嫁だっての。小学生か、コイツは。

「フッ。まあ良いわ。夕食前に入浴してお兄さんに裸を見られて、夕食時には2人の婚約をみんなに大々的に発表するから」

 自信満々に艶々した表情を見せるあやせ。そんなコイツの表情を見るのが辛い。

「けどよ。もう夕飯の時間だから、戻って風呂入ってる暇はねえぞ」

 今頃はあやせの部屋に5人分の夕食が運び込まれている筈だ。風呂に入っている暇なんて1分だってない。

「ええ〜〜っ!?」

 驚きの声を上げるあやせ。コイツは時計も持たずに走り出したのか。ほんと、バカだな。

いや、千葉市から館山まで往復して来るコイツの運動能力はもしかして桐乃以上なのかもしれないが。

「そ、それじゃあ、お兄さんに裸見られて結婚というわたしの偶然という名の野望は?」

「実現不可能だな」

 別に夕食後に入って覗かれれば良いだけだが、それを言ってしまうとこの女は図に乗る。よって情報は秘匿する。

「そ、そんなあ……」

 あやせはガックリと膝をついた。

「ついでに言っておくとだなあ」

「何?」

 あやせが泣きそうな瞳であたしを見る。

 そんな頭の可哀想な少女にあたしはこれから待っている残酷な真実を告げてやる。

「オメェはその汗臭い姿のままで京介と一緒に夕飯を食うことになるぞ」

 あやせの全身が激しく震え出し

「お兄さんに汗臭い不潔女だって思われる。嫌ぁあああああああああああああぁっ!!」

 そして両手で頭を押さえながら絶叫した。

「ちょっと海水で汗を洗い流して来るから先に食べていて〜〜っ!」

「そんなことしても今度は潮臭くなるだけだぞ」

 いや、京介と一緒に食べないつもりなら海じゃなくて温泉に入ってくれば良いだろうが。

 だが、あやせは制止も聞かずに崖に向かって駆け寄ると、数十メートル下の冬の夜の海の中へと躊躇もせずに飛び込んでいった。

 ボーンと水面に何かが突っ込む派手な音がした。

「まあ、ギャグキャラは死なないって言うし、大丈夫か」

 足を旅館へと向け直す。

「あやせの分の夕飯もあたしが食って良いかなあ?」

 そんなことを考えながら旅館へと足を向けた。

 グッバイ、あやせ。

 そしてお前を恋のライバルだと思っていた昔のあたしよ、さよならだ。

 

 

-8ページ-

 

 夕食が終わった。

 京介と一緒の食事だったが、あたし的には最大限に普通を心掛けて接したつもりだ。

「おい、加奈子。肉ばっかり1人で食うな」

「うっせぇ。あたしは身長伸ばすのに肉分が必要なんだよ」

 京介も最大限に普通を装ってくれた。

 ブリジットにはもうバレている。けど、桐乃の方は何とか誤魔化せたんじゃないかと思いたい。

 いや、たとえバレているにしても桐乃から何も言って来ないならそれで良い。

 ちなみにあやせは夕飯時に戻って来なかった。無事だろうから心配はしてないが。

「あれ〜? まだ、8時なのに……とっても、眠いよぉ」

 ブリ公は移動の疲れが溜まっていたのか、夕飯が終わるとすぐに舟を漕ぎ始めた。

「ガキは早寝早起きをするもんだ。じゃねえと大きくなれねえぞ」

「かなかなちゃんが言うと説得力があるよね♪ すぴ〜」

 一言多いガキを部屋に連れて行って寝かしつける。

 桐乃がブリジットにちょっかい出して来るかと思ったが、アイツは食事の時からあまり機嫌が良くなかった。ブリジットにもさほど興味を示さなかった。ただ、時折廊下側に視線を向けていた。

 

「さて、これから10時までの間、何をすっかなあ?」

 審判の刻までまだ2時間近くある。

 ブリ公は寝ている。桐乃は温泉に行った。あやせは遠泳中。

 京介は知らない。

 さて、どうする?

 って、考えるまでもなかった。

 あたしの体は勝手に京介の部屋に向かって歩き出していた。

「はて、これはどういうことだ?」

 自分の体の行動に頭で理由を付けてみる。

 あたしには10時に京介に告白の返事を聞くという大きな仕事が待っている。

 何故、その前にあたしは京介の所に向かおうとしているのか?

 それにどんな意味があるのか?

「今京介に会うとどうなる? いや、会わないとどうなるって考えた方が早いのか?」

 足元を見ながら考える。

 このまま京介に会わないで10時を迎える。すると、あたしは振られて失恋え〜ん!という展開が待っているに違いない。

 じゃあ、会った場合はどうなる? 

 もしかすると、京介と意気投合かなんかしちゃったりして、その勢いで交際オーケーとかそんな展開が待っているかもしれない。

「なるほど。あたしは運命を乗り換える為に京介の部屋へ向かっているんだな」

 自分の行動に納得がいく。

 と、納得した所で京介の部屋前に到着。

 だが、その瞬間にあたしはふと気付いてしまった。

「いや、万が一……オーケーだった所にあたしが押し入って、好感度を悪化させてゴメンナサイってなったらどうする?」

 踏み入れるリスクの存在に。

「いや、それどころか、もし今この部屋の中で京介と瑠璃がイチャついていたらどうする?」

 京介の部屋の仲居はどうも瑠璃らしい。ということは2人は室内でも接する機会が多いはず。今この瞬間だって……。

「って、ええ〜いっ! 考えるのはやめだ、やめっ!」

 ノックもせずに室内へと足を踏み入れる。

 勇ましく、強引に。

 あたしの行動パターンを思い出しながら突き進む。

「遊びに来たぞ、京介っ!」

 幸いにして鍵は掛かっていない。

 あたしは大声を出しながら室内へと足を踏み入れた。

 

「……って、誰もいねえ」

 室内は見事なまでにもぬけの殻だった。

 また風呂にでも行ったのだろうか?

「タクッ。鍵ぐらい掛けていけよな。無用心な」

 寝心地良さそうな布団の端を蹴ってみる。

「チッ。次、どうすっかな?」

 急に体から力が抜けた。

 舌打ちしながら考える。

 と、掛け軸なんかが下がっている一段高くなった所に人型のオブジェをみつける。

片付けられたテーブルの上に置いてあったヤツ。あたしの部屋とほとんど同じもの。

確か、これを押すと仲居が用事を伺いにやって来るんだったよな。

そして、この部屋の仲居は……瑠璃。

人型オブジェをジッと見る。

これを押せば、瑠璃がこの場にやって来る。京介の元カノにしてあたしの最大のライバルである瑠璃が。

「な、何を考えているんだ、あたしは。瑠璃とこれ以上話すことなんてねえじゃないか」

 瑠璃はあたしをライバルと呼んでくれた。

 けれど、それ以上にあたしと瑠璃の間には何の関係もない。

 誰を彼女にするかなんてのは京介が決めるものであって、あたしと瑠璃がどうこうする類のもんじゃねえ。

 だから、瑠璃を呼び付けるなんてナンセンスの極みだ。

「って、押してるし〜〜っ!?」

 あたしの手は気が付くと頭を叩いて押していた。

 これじゃあ、間もなく瑠璃がここに来ちまうっ!

「ど、どうするあたし?」

 逃げるか?

 いや、でも、ここで逃げたら誰かが無人の京介の部屋を踏み荒らしたって大事になるかもしれない。

 って、そんなことを考えている間に、静かに足音が近付いて来るのが聞こえた。

 どうする、どうするよ?

「失礼します」

 襖が開いて瑠璃が入って来た。俯いているので表情はよく見えないが、声は何か嬉しそうに聞こえた。

 何にせよ、こうなった以上もう逃げ隠れはできねえ。

 だったら──

「よぉっ。月が綺麗な夜だな」

 出来るだけ偉そうに瑠璃に向かって声を掛ける。

 もう、開き直るしかない。

「何で貴方がここにいるのよ?」

「アンタともう少し話がしたいと思ったからだよ」

 大胆不敵に堂々と。

 プロのモデルの度胸を舐めるなっての。

 もう、行ける所まで突っ走ってやる。

 

-9ページ-

 

「私に、話ですって?」

 瑠璃の機嫌が急に悪くなった。入ってきた時はご機嫌に見えたんだが。

 だが、まあいい。

「ああ。京介に関してな」

 内心ビクビクしながら傲岸不遜な態度を取り続ける。我ながらスゲェな、プロモデルスキル。

「その京介はどこにいるのかしら?」

「さあ? 風呂じゃねえのか」

「貴方、京介に断りもなくこの部屋に入っているの?」

 瑠璃の目付きが鋭くなる。

 この女、もしかするとあやせみたいに礼儀作法にうるさい系か?

「まあ、いいじゃねえかよ。京介とあたしは同じ一行なんだし」

「まったく。どうしてこう世話の掛かる妹みたいなのがまた増えるのかしら」

 どうやらこの女、姉属性らしい。まあ、そんなことはどうでも良いか。

「とにかく私はまだ仕事が終わっていないの。失礼させてもらうわよ」

 瑠璃は出て行こうとする。

 それは、あたしにとっては安寧をもたらす筈の動き。余計な火種を作らなくて済む選択。

 けれど、あたしはバカだった。大バカだった。

「逃げんのかよ?」

 背中を向けた瑠璃を挑発する声を出していた。

「アンタはあたしのことを京介を巡るライバルとか認めた癖に、いざ修羅場になると尻尾を巻いて逃げるのかよ? この、臆病者がぁっ!」

「何、ですってぇっ!?」

 氷柱が心臓に突き刺さって来るような鋭く冷たい視線があたしを刺す。

 怖ぇ。マジ怖ぇ。やっぱこの女、あやせ並に怖ぇ。

 けど、負けられねえ。

 ここで引っ込んだら……あたしは京介に恋する資格さえもなしだっ!

「あたしは京介が好きなんだ。だから、アンタにも負けられないんだ」

 もうちょっと可愛い女ってのを演じられればとは思う。けれど、根がガサツなもんで、繊細に振舞えない。

「メルルを演じている時のぶりっ子が堂に入っているから素もそうかと思っていたけれど……大層な役者ぶりね」

 瑠璃が呆れた瞳であたしを見る。

「こちとらプロモデルだ。それぐらいの使い分けはするっての」

「単に貴方の使い分けの程度が酷いだけでしょ。相当な腹黒さを感じるわ」

 瑠璃の軽蔑の瞳が向く。

「アンタこそ、桐乃のオタ友ってことは相当重度なオタクなんだろ? 着物着て優雅気取って振舞ってるけど、それも演技じゃねえのか?」

 鼻息を荒くしながら瑠璃に言い返す。

「そうね。貴方の言う通りよ」

 瑠璃の瞳が赤い光を灯したような錯覚を見た。

「そうよ。私はね、ゴスロリファッションが好きなのよ。頭の上に猫耳があると落ち着くわ。そして、冬コミにも行けない、ネットにも繋げない、深夜アニメも見られないこの冬休みのバイトに限界を感じているわ。一般人に愛想振り撒くなんて最悪よ」

 瑠璃はニヤッと意地の悪そうな笑みを浮かべた。アニメのキャラクターみたいにして。

 ああコイツ。なりきり系のオタクか。

「オメェもあたしとあんまり変わらないじゃねえか」

「私は貴方ほど腹黒に徹し切れないわよ」

「あたしだって最近はそんなに腹黒くはねえぞ」

 京介に恋してからは逆ナンも止めてるし、仕事も真面目にしている。勉強はダメダメのままだが、結構更生してんじゃねえ、あたし?

 

「それで、京介に関して私に話って何?」

 面倒臭そうに、けれど拒絶はしてない瞳で瑠璃があたしを見る。

 さて、いよいよ本題だ。

 …………って、だから、何も考えてないっての。

 そもそも瑠璃と話すなんて予想してなかったし。

 どうすりゃ良いんだ? 何を聞きゃ良いんだ?

 ええ〜い。こうなったらもう一度全力でぶつかってやるぅっ!

「瑠璃、オメェっ! 何でまだ京介とよりを戻してないんだよ? 京介のことを今でも好きなんだろ?」

 我ながら……何を訊いているのだろう、あたしは?

 これじゃあまるで、あたしは瑠璃の恋のサポートキャラみたいじゃねえか。

あたしは、瑠璃の恋のライバル。そして最終的に勝利を収める女だっての!

「貴方も、桐乃と同じようなことを言うのね」

 瑠璃が目を伏せた。

 顔と言葉から察するに桐乃もあたしと同様のことを言ったらしい。

 チッ。桐乃は瑠璃の味方ってか。

 高坂兄妹2人に愛されて羨ましいじゃねえか、瑠璃の奴。

 なのに、何をグズグズしてやがるんだ?

「色々、あるのよ」

 瑠璃は深くうな垂れた。凄く深く落ち込んでいるのが見て取れた。

 けれど、その態度はあたしをすっげぇ苛立たせた。

「色々って、何だよっ?」

 怒りはそのまま言葉の中に顕れた。

 コイツは既に高坂兄妹からの信頼も愛情も勝ち得ている。なのに、何でそんな私は何も持っていませんみたいな表情をしてやがるんだ?

「色々は、色々なのよ! 私たちの事情も知らない癖に勝手なことばかり言わないで頂戴」

 瑠璃があたしから完全に目を背ける。

「私たちなんて自分と京介を一纏めにして考えられるぐらい十分親密なのに、悲劇のヒロインぶってんじゃねえよっ!」

 あたしにはどう頑張っても行けない位置にコイツは到達している。なのにコイツは、そして京介は何を躊躇してやがるんだ?

「だって私はっ!」

 瑠璃が大声を張り上げた。

「だって私は、恋人だった京介を振っているのよっ! 今更一体、どんな顔をしてもう一度“好きです。付き合って下さい”って言えば良いのよっ! 言える訳が、ないじゃない」

 瑠璃の目に光るものが。

 瑠璃は大粒の涙を流しながら泣いていた。

 その涙が“本物”だってことはすぐにわかった。

 瑠璃はずっと長い間、京介への想いに苦しんで来たのだ。あたし以上に深く辛く。

 でも、だったら。だからこそ……。

「アンタと京介の間に何があったのか知らねえ。どうして別れたのかも知らねえ」

 拳を強く握り締める。

「けどよっ! それが何だって言うんだよっ!」

 体中の血が沸き立って来る。

「好きなら好きって言えば良いじゃねえかっ! どんなに格好悪くったって、惨めな姿晒したって言えば良いだろうがっ!」

 何であたしはこんなことを口走ってるんだ?

 けど、言わずにはいられなかった。

 大声で、心の底からの大声であたしは自分の思っていることをぶちまけた。

「あたしは言ったぞ、京介に。好きですってな! アンタはどうなんだよっ、五更瑠璃っ!」

 愛だの恋だの、そういうあたしが避けて来たものに対して1日で2度も吼えたのは今日が初めてだった。

 

 荒くなった息を整える。

 言いたいことはみんな言った。

 結局あたしは………………まあ、良いさ。

「わ、私はっ、私だってっ!」

 完全敗北が告げられる瞬間。

 あたしは目を硬く閉じた。

「よ、よぉ……」

 だがここで思いも寄らない邪魔が入った。

 敢えて言い切る。今このタイミングで一番来て欲しくない邪魔者がやって来たと。

「きょ、京介……」

 部屋に入って来たのは京介だった。何でこのタイミングで入ってきやがる?

 少しは空気を読みやがれ、バカっ!

「いや、その、俺の部屋から言い争いの大きな声が聞こえたもんで。その……」

 このバカ、いつから聞いてやがった?

 けど、いつから聞いているにしたってだ。

 視線の端に瑠璃を捉える。

 瑠璃は大きく体を震わせており

「………………っ!!」

「おいっ! ちょっと待て、黒猫っ!?」」

 唇を強く噛んだまま走って部屋を出て行ってしまった。

「おいっ! 瑠璃〜〜っ!!」

 自分がどれだけ女心を傷つけたかも理解せずに手を伸ばして名前を呼ぶだけのバカ。

 京介の態度を見て、本気で腹が立った。

「さっさと追い掛けろっ! この、優柔不断スケコマシ男がっ!」

「いや、だけど……」

「自分の好きな女ぐらいしっかり捕まえておけっての!」

 京介の背中を思いっ切り叩く。

「いいか。10時までにより戻して2人雁首揃えてあたしの前に現れなかったら許さねえからな!!」

 京介の背中を2度、3度全力で叩く。

「わかったらさっさと行きやがれっ!」

 トドメに京介のケツに全力全開のキックを食らわせてやる。

「わかった。加奈子の言う通りだよな。行って来る!」

 京介はあたしの方を振り返りもせずに部屋を駆け出て行った。

 

「タクッ。幾らなんでもあっさり行き過ぎだろうが」

 京介はあたしの言葉を聞いてくれた。けれど、あたしを振り返ってはくれなかった。

「瑠璃のネガティブも困りもんだけど、京介のダメ男ぶりもヒデェなあ」

 大きな溜め息が漏れ出る。

 よくよく考えてみりゃ色恋沙汰ってのは2人の問題な訳だ。

 さっきのあたしは瑠璃の方ばかり気に掛けていた。けど、京介の方にだって問題がある。っていうか、京介の方が性質悪い。

「そうだ。京介さえしっかりしていれば、今みたいなことにならずに済んだんじゃねえか」

「まったく、その通りだわよ!」

「へっ?」

 いきなり同調されてしまった。

 扉の方へと振り返る。

 するとそこには腕を組んで仁王立ちしている桐乃の姿があった。

 浴衣姿の桐乃は完璧なイライラモードだった。

「あのバカ兄貴ってば、アタシや他の女の子の為にはみっともないまでに必死に動くのに、自分のこととなるとまるでダメなんだからっ! ホント、優先順位間違えてるっての!」

「まったくもって同意する。さすがは妹だな」

 桐乃の意見は100%正しい。

 そもそも受験直前のこの時期に、自分が所属している訳でもない事務所の旅行に何で同行して来てんだか。受験上手くいかなかったらどうするつもりなんだ。

「そしてあの黒いのっ! 普段は信じられないぐらい怒涛の毒を吐き出す癖して、何で好きの一言が4ヶ月も言えなくなってのよっ! イライラさせるなっての!」

「その瑠璃の背中を押してやったんだから桐乃ちゃんはいい子だな」

「アンタだって押してたじゃない。加奈子ちゃんは優しいでちゅね〜」

「なんだとっ!」

「なによっ!」

 桐乃と睨み合う。で、それから笑いあう。

「あ〜あ。振られちまった。10時前に振られるのは予想外だった」

「加奈子は振られたの1回だけでしょ。アタシなんて、あの2人のせいで2回の失恋体験してんのよ。ホント、フザケンじゃないわよって感じよ」

 恋が実らなかったのは悲しい。滅茶苦茶悲しい。いつ泣き出したっておかしくないぐらい。

 けど、振られ仲間がいるってだけでほんのちょっと気が楽になる。

 全力を尽くした同志がいるっていうだけでよ。

「さて、10時まで時間もあるし、ひとっ風呂浴びるとするか」

「え〜こういう時は自棄酒じゃないの? ビールとか焼酎をグイッとさあ」

「未成年が飲酒とか舐めたこと言ってんじゃねえよ」

「うわっ。喫煙で補導された加奈子に言われるとマジでグサッて来る」

 風呂場に向かってゆっくりと歩き出す。

「ブリ公が一緒に来てんだ。大人が見本を見せねえでどうするんだよ?」

「加奈子ってば、将来は良いお母さんになりそうだよね」

「お母さんになる予定は今日でしばらくなくなっちまったがな」

 桐乃と2人、自棄風呂だ。

「そういやさ、あやせの姿を昼間から見ないんだけど、どうしたの?」

「あやせなら海に帰ったよ」

「はぁ? 何ソレ?」

 あたしはそれ以上何も答えずに温泉へと向かって駆け出していった。

 

 

あやせたんの野望温泉編 黒猫side へ続く

 

 

 

説明
4月20日は黒猫さんの誕生日です。作品をあげましょう。


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