風花
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私はあなたが怖ろしい』

 

 掴まれた腕の痛みに耐えながら、私は確かにそう言った。

 あの深紅の瞳を見返す勇気もなく、ただその場を逃れるためだけに、あの人を傷つける言葉を吐いた。

 目を伏せていても、彼が薄く形良い唇を僅かに歪ませながら、瞬きもせず、私を見つめていると分かっていた。

 

 ――触れてこようとする手を避けて。

 ――焦れた色を浮かべた緋の瞳から目を逸らし。

 

 ともに過ごす時の中で、時折投げかけられる欠片のような言葉と無言の意思。

 その中に含まれる意味に気付いてはいても、私はそれに応えることが怖かった。

 向き合うことから逃げる私を、彼はいつも僅かに唇を歪めて、嘲るような笑みを浮かべて見ていた。

冷たい笑みとは裏腹の、見つめていると焼かれてしまいそうなほど熱い眼差し。あの人の瞳と同じ色をした紅蓮の炎が我が身を包み、ちりちりと肌を焼いて私の不実を詰ってくるようだった。

 

 あの時もまた、同じ紅蓮を宿した眼差しで、私の怯懦を咎めていたのだろう。掴まれた腕から伝わってくる痛みが、彼の苛立ちの強さを教えてき、余計に見返すことが出来なくなった。

 

 ――あれほど恐ろしいと、けして心を許してはいけないと思っていたのに。

 どうしてこんなにも、彼の眼差しに心が甘く震えるのだろう?

 応える覚悟もない癖に、触れようと伸ばされた指先を嬉しく感じてしまう私は……何と愚かで浅ましいのか。

 

『私が雪村の生き残りだから』

『雪村の娘を欲してはいても、千鶴が欲しい訳ではない』

 

 あの紅の瞳と視線が交わるたびに、頭の中で臆病な私が警告する。甘く震える心を咎めるように、冷たい楔を打ち込んで、あの人の手を取ってしまいそうな私を、期待してしまいそうになる私を、粉々に打ち砕いていく。

 

(私は……逃げているだけ。人としての自分に疑いを持っているのに、さりとて鬼として生きる道も選びきれないでいる)

 

 私が新撰組の後を追わずにはいられないのは、人として生きていきたいという願いを捨てきれないでいるからかも知れない。

 たった一人で人の中で混じって生きていく自信がないからこそ、鬼であると知った上で受け入れてくれた彼らに執着してしまうのかも知れない。

 子どもが見知らぬ場所を恐れて親にしがみつくように、私は彼らに依存している。

 私があの人の目を見返せないのは、その弱い心をどんなに言葉で取り繕ったとしても見透かされているような気がするからだ。

 

(……だから、怖ろしい。でも、それだけじゃない)

 

 濁りのない、鮮烈な赤が眩しかった。

 迷いのない眼差しと物言いに苛立ちを感じつつも、嘘偽りのない生き様が羨ましくもあった。

 

 江戸へ向かうと言い放った彼に同行を願いでたのは、幾度も接触を繰り返すうちに、いつの間にか私の中で彼の見方が変わっていたからなのだろう。

 その場にいたお千ちゃんも天霧さんも、私の顔を驚いたように見ていたけれど、あの人だけは私がそう言いだすと分かっていたかのように、ちらりと此方を一瞥した後、無造作に頷いた。

 

 ――御伽噺の中の鬼のような、とはお千ちゃんが言った言葉だっただろうか?

 彼女の言う通り、彼は鬼らしい鬼なのだろう。人を貶め、自分たちの優位を公言して憚らない。

 彼の言葉は人への嫌悪で満ちているけれど、その一方で気に掛かって仕方ないように見えた。

「奴等の末路を見届けたい」という科白は、彼の中の鬱屈した思いと、人への僅かな期待を感じさせて、彼もまた、新撰組を追うことで何かを見定めようとしているのだと思った。

 

 

(この旅路で、私の心も変わっていくのだろう。……そして、彼も)

 

 

 目の端に映る、ちらちらと流れていく白い花。

 その花に紛れるように伸ばされた、優雅な指先。

 記憶の中の感触に身を震わせながら、そっと静かに目を瞑った。

 未だ迷いの淵にいる私が、進むべき道を探し当てられるようにと願いながら、白と紅の幻想にしばし身を委ねたのだった。

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「……鈍い。もう少し早く歩けないのか」

 

 京から江戸へと向かう道中で、幾度同じ科白を言われただろう?

 天霧さんは私の体を気遣って合わせてくれているようだが、普段の彼らの歩みからは相当速度が落ちているのだろうことは、その健脚ぶりを見ていたら容易に想像がついた。

 旅を始めてすぐに、あまりの体力の差に置いていかれても仕方ないと思っていたが、意外なことに彼は文句は言ってくるが、見捨てることなく、ともに旅を続けてくれている。

(天霧さんか、もしくは他の誰かを私につけて、自分は先に行ってしまうかと思ってた)

 お千ちゃんの手前、最低限の身の安全は計ってはくれそうだが、我慢と忍耐からは縁遠そうな人なので、さっさと見切りをつけて自分の裁量で旅を進めるだろうと考えていた。

 

(……何を考えているのだろう?)

 不機嫌そうに口を引き結んだまま隣を歩く人を、ちらりちらりと目の端で伺っていると、彼がその視線に気付いて声をかけてきた。

「…何だ?言いたいことがあるなら、はっきり言え」

 そう言って向けられた深紅の瞳を避けるように、反射的に目を伏せた。頬にぴりぴりとした強い視線を感じたが、それでも俯いたままでいると、しばらくの後に小さな溜息が聴こえてき、頬の圧迫感が薄れて消えた。

「…もういい。俺が傍にいるのは厭か。お前の方から俺との道行きを望んだと――そう思っていたがな」

口調に滲む苛立ちと失望に、思わず伏せていた目を上げた。そして先に行こうとする人の着物の袖を掴みながら口を開く。

「ごめんなさい!…そういう訳ではないんです。私が…皆さんの足を引っ張っているのは分かっています。私なりに頑張って歩いているつもりなんですけれど……追いつけないのが心苦しいです」

 彼らは私を足手まといと分かっていて、ともに行くことを許してくれた。出来るだけ迷惑を掛けないようにと必死に歩いていても、山道や時折ある悪路を彼らの調子に合わせてついていくのは、想像以上に過酷なことだった。

縋りつくように裾を掴む私を、彼は驚いたように見つめていたが、そのまま振り払うことなく、私へと向き直って言った。

「…お前は鬼だろう。鬼は男も女も親から人より遥かに強い体をもらって産まれてくる。……ましてやお前は、古い血を継ぐ純血の鬼だ。いずれ慣れて、平気な顔でついてくるようになるさ」

 彼なりに慰めてくれているのだと分かっていたが、鬼であることを受け止めきれずにいる私には、「人でない」という事実を改めて突きつけられたようで胸が鈍く痛んだ。

「……そうですね。私は、鬼ですから」

強張る頬を無理に動かして、何とか笑みらしきものを形作ってはみたが、それを見た彼は不快そうに眉を顰めた。

「お前は……鬼である自分を恥じているのか?」真冬に軒先に連なる氷柱のように、冷たく鋭い声音だった。その響きに怯えながらも、かろうじて小さく頭を振る。

「否定するか?…俺にはそうは思えんがな」

「恥じてはいません。…ただ、私は人として生きてきましたから。私の身は鬼なのだと、頭では分かっています。でも、人として生きてきた私が、鬼である私を否定する。だって、私には鬼として育てられた記憶がないから。私の中にあるのは、父様と――父様が営んでいた医院の、箱庭のような狭い世界だけ」

 それと、と続ける。

「京で過ごした、新撰組の人達との暮らしの記憶もまた、私の心を掴んで離さない」

 

 話している途中で、自分の声に訴えかけるような響きが滲むのに気付いていた。

(私は…この人に理解されたがっているの?人と鬼の狭間で揺れ動く半端な私を…その訳を知って欲しいと願っている?)

 着物の袖を掴んでいた手が、衝撃で外れてだらりと落ちた。

 どくどくと早まる心臓の音が、耳の奥でやけに大きく聞こえてくる。

 ――恥ずかしい、と思った。

 私はこの人を信頼して同行を頼んだ訳じゃない。新撰組本隊を追って淀城に向かう途中で、己の軽率な行動ゆえに敵方に襲われているところを彼に助けられた。

 その時に私は、一人で彼らを追うのは難しいと無意識に考えていたのだと思う。彼が江戸に向かうと言った時、間髪入れずに同行を願い出たのは、強い影響力を持つらしいお千ちゃんが傍にいた事と、彼が同胞へ向ける情け深さを知っていたからだ。

 

(自分の出自を利用した癖に、人としての未練をこの人に語るだなんて…。私はどこまで恥知らずなんだろう?)

 

 震える両手で顔を覆い隠すと、情けなさにうっすらと涙が滲んできた。そのままじっと佇んでいると、両肩に温かいものが触れてきたが、それが彼の手だと気付くのにしばし時がかかった。

 

「――俺も、お前も迷いの淵か。だが、いずれお前は選ばなければならない。それまで精々足掻くといい」

 

 耳に届く声は相変わらずひやりと冷たかったけれど、肩に置かれた手は優しかった。その温もりが私を癒し、苦い涙が覆った手指の隙間から滲んでいく。

 濡れていく私の手を見ても、彼は何も言わなかった。その事に感謝の念を抱きながら、私の中で彼という存在が少しずつ大きくなっていくのを感じていた。

 

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 江戸へと辿り着いてからのことは、一時に様々なことが起こってあまりよく覚えていない。

 弥生から卯月へと移り変わる間に、あれほど行方を探しても見つからなかった父と再会を果たしたが、以前の優しく穏やかな面影は消え失せて、野心に身も心も蝕まれた一人の男がそこにいた。

 その場にいた風間さんから、父が本当の父ではなく分家筋の鬼にあたること、変若水を幕府の命で作っていた筈が、時勢を読んで新政府軍に寝返ったことを聞かされ、父本人の口からも、その事実を裏付けるような様々な言葉を投げかけられた。

 父の心には、私への情愛は残っていないようだった。ただ、自分の栄達を助ける道具としてのみ価値を見出し、ともに来るようにと言った。

 衝撃に立ち竦む私を庇うように、大きな背中が視界を遮った。その背をぼんやりと見つめていると、自分でも不思議なほど心が安らいだのを覚えている。

 刀を構える風間さんを見て、このままでは殺されると必死に父を説得した。いくら言葉を重ねても、野心にとり憑かれた心に響くことはないと悟った時、語る言葉を見失い、それ以上続けることが出来なくなった。

 黙り込む私を、あの人は静かな瞳で見つめていた。そして小さく溜息を吐くと、「もう、気は済んだだろう」とそう言った。

 それから先のことは、見ていたはずなのに、あまりよく覚えていない。思い出そうとすると、父の最期の姿ではなく、刀身を朱に濡らしたあの人の姿が浮かんでくる。

 ――恐ろしい、と思った。

 私が雪村本家の者として果たさないといけなかった事を、彼に代わってもらった癖に、私は彼を恐ろしいと思った。

 何より恐ろしいのは、私が彼を憎んではいないということだった。

 血の繋がりはなかったとはいえ、私にとっては育ててくれた人であり、今でも父として慕う気持ちが残っている。そんな大事な人を、仕方なかったとはいえ殺されたのに、私は彼を憎めなかった。

 

『…人とは愚かで下らぬ生き物だ』

 

 あの時、彼は一言も慰めを口にしなかった。顔を覆って泣く私の肩を抱き寄せて、ただそれだけを言った。

ひやりとした声音と、肩にある温かな手。掛けられる言葉はけして

 優しいものではないのに、私に向けられる労わりの気持ちはその温もりから静かに伝わってきた。

 その優しさに縋るように、涙が枯れるまで泣いた。変わり果てた父を受け入れ決別するために、哀しい涙を幾つも流したのだった。

 

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 空が綺麗に青く澄み渡っていた。

 卯月に入ったというのにまだ気候は安定せず、朝から空気が冷たかった。こうして外で空を眺めていると、体が芯から冷えてしまいそうだ。

 

 新撰組の動向を探っていると、彼らは現在、流山に潜伏しているらしいとの情報を得た。それを教えてくれたのは風間さんだが、私はこのまま彼に同行していいものかと迷っていた。

(いくら何でも、甘えすぎてるよね)

 彼は私が居ても居なくても新撰組の後を追うだろうと分かっていたが、彼の好意に甘えっ放しでいることに、次第に良心の呵責を覚え始めていた。

(……どんなことをしても、あの人達の元に行きたいと考えていたのに)

 あの人と接するうちに、冷たさの裏側にある情の深さを知ってしまった。父様を殺めたのも、彼が「鬼」という存在に誇りをもち、そして大切に思っているからだ。だからこそ、羅刹という鬼を模したものを作り上げたことが許せなかったし、それを利用して天下を取ろうと目論んだことに憤った。

 

(私は…彼のことをどう思っているんだろう?)

 彼に対する感情は複雑で、好きとも嫌いとも言いかねた。

 自分の心が見えなくて、小さな溜息を一つ漏らすと、背後から小枝が折れる音が響いてきた。

 振り向くと、すぐ近くに思っていた人が佇んでいた。緋色の瞳を細めて、私をじっと見つめている。その視線の強さに目を伏せると、彼が猫のように足音を立てない歩き方で近づいてきた。

「……お前はいつも思い煩っているな。何をそんなに迷うことがある?」

 いつもと変わらぬ薄く冷えた笑みを見ていると、その変わらなさが私に妙な安心感を与える。

「あなたは…迷うということはなさそうですね。羨ましいぐらい…」

 口許に苦笑を浮かべながら応えると、彼は笑みを消して僅かに眉を顰めた。

「――そんなことはない。俺にとて迷いはあるさ。ただ、お前のように無闇やたらと悩まぬだけだ」

「そんなこと…ないです」

 我ながら、返す言葉が弱々しかった。それを聞いた彼は口角を吊り上げて笑い、「あるさ」と一言で切って捨てた。

 そのまま会話が途切れて、沈黙がその場を支配した。互いに話の接ぎ穂を探して見つからないような、気まずい空気が二人の間に漂っている。

 やけに喉が渇いて仕方なかった。ちらりと彼の顔へ視線を走らせると、寄せられた眉と不機嫌そうにゆっくりと瞬いている深紅の瞳が目に入った。

 このまま留まり続けることを苦痛に感じて、軽く会釈をしてその場を離れようとすると、それを遮るように彼の手が伸びてき、私の腕を掴んだ。

 掴まれた腕を見てから目を上げると、焦れたような色を浮かべた赤い瞳と視線がぶつかった。

(…なんて綺麗なんだろう)

 竈の中で踊る炎のように、赤々と燃える双の瞳。恐れつつも見つめずにはいられない、妖しい魅力を放つその眼差し。

 こうして見つめられるのは初めてではなかった。ふとした拍子に視線が交わった時、彼は今と同じ熱を帯びた目で私を見つめていた。その熱さと推し量るような眼差しに耐え切れずに、いつも私が先に目を逸らしてしまい、その度毎に苛立ち混じりの小さな溜息が聞こえてくる。

(私は…彼をどう思っているのだろう?)

 射竦められたように動かぬ体に戸惑いながら、頭の片隅で再び己に問いかけた。

 揺れる心のまま見つめ返すと、掴まれた腕に軽く力が込められるのを感じた。

「…何を考えている?」

 低く、掠れた声が耳を打った。一瞬、何を言われたのか分からず小首を傾げると、彼の空いた手が伸びてきて、私の頬にそっと触れた。

「…俺がお前を求めたことを、今でも戯言だと思っているのか?」

 声の冷たさを裏切って、私に触れてくる仕草は優しいものだった。

 その感触に、心地良いような、居た堪れないような、泣きたいような……様々な感情が入り混じって胸が詰まった。

「私は…」

 口を開いたものの、何を言えばいいのか分からなかった。私の中にある感情は不明瞭で、返す言葉を見つけられない。

 そのまま黙り込む私を、彼は不機嫌な面持ちで見つめていた。そして苛立ち混じりの溜息を漏らすと、再び口を開いた。

「……奴等に追いついた時、お前はどうするつもりだ?俺や天霧から戦況を聞いただろう。勝ち目は万に一つもないと分からないのか?…そんな状況でお前に何ができる?精々弾除けぐらいにしかならないだろう。――犬死にしたいのか?」

 言葉の一つ一つが胸に突き刺さった。ただの自己満足で追っているに過ぎないと、そう言われたも同然だった。

 淀城に向かう際に、土方さんの指示が己一人だけ漏れていた事をふいに思い出した。あの時は自分から彼に指示を仰ぎに行き、あの人は困ったように一瞬眉を寄せてから、井上さんに私の身を託した。

 土方さんの紫紺の瞳を過ぎる困惑の影に、あの時の私は気づかない振りをした。

 深く考えたら傷つくと無意識に分かっていたから、あえて考えないように心の奥底にしまい込んで、ひたすらに後を追いかけることを考えた。

(お荷物だと、数に入っていないと認めるのが怖かった)

 瘡蓋を無理に剥がしたように、心がじくじくと痛んだ。その痛みに耐えながら、彼へと言葉を返す。

「私は…それでも後を追います。彼等は私にとって大切な人達なんです。あなたの言う通り、合流したとしても、何の 役にも立たないのかも知れません。だからといって、このまま諦めることなんて出来ない。私は…あの人達に会いたい。ただ会いたいんです」

 声を振り絞るようにして己の願いを口にすると、掴まれた腕に折れるかと思うほどく力を込められた。思わず悲鳴を上げると僅かに緩んだが、それでも痛みを感じるほど強く掴まれていることに変わりはなかった。

「……お前はまだ人であろうとするのか。人として死ぬために奴等を探すのか」

憤りとも哀しみともつかない声で、彼が言った。それに是とも否とも応えられずにいると、頬にあった手が腰に回され、そのまま強く引き寄せられた。

体が密着し、彼の体温が布越しに伝わってくる。驚きで寸時、思考が停止していたが、彼の体が思ったより温かかったことが、やけに心に残った。

「俺を見ろ。…俺とともに来い」

 囁く声は今まで聞いたことがないくらい、甘く優しいものだった。私を求める言葉と、守ろうとするように強く抱き締めてくる腕に、衝動的に縋りつきそうになる。

 背中に思わず手を回しそうになった時、彼が更に言葉を続けた。

「もう……お前を守る者はいない。その身一つで俺の元へ来るがいい」

 守る者、という言葉に失った父を思った。そして私の中に流れる古い鬼の血を。

(私は、雪村千鶴。――雪村家の最後の一人であり、女の鬼)

 しん、と心のどこかが冷める音が聞こえた気がした。それと同時に両腕がだらりと脇へと落ちる。

 ――体に感じる温もりに、愛しささえ覚えるのに。

 疑いを思い出した心が、彼の言葉を歪んで捉えてしまう。

(私が雪村千鶴でなかったなら…彼は私に興味を持たなかった)

 雪村の娘であることで恩恵を受けておきながら、その事に不満を感じてしまう己の醜さが堪らなく厭だった。

 

「……る。返事はどうした?」

 問いかける声に、物思いから覚めてゆっくりと顔を上げた。

 激しい性情を感じさせる赤の瞳を見返しても、もはや先ほどのような高揚を感じることは出来なかった。

「私は…、あの人達の後を追います」

 静かにそう答えると、彼の眦が険しくなる。少しずつ熱が引いていく目を見つめながら、私の心も徐々に冷えていった。

「何故だ?…俺だと不足だというのか?」

 抑えた口調に混じる、困惑と怒り。それを感じ取ってはいたが、私の心は変わらなかった。

「私は…あなたが恐ろしい」

(私を掻き乱し、醜くさせるあなたが恐ろしい)

 鬱屈を吐き出すように、そう言い放った。

 彼は一瞬、瞳に傷ついたような光を浮かべたが、すぐに唇にいつもの薄笑いを浮かべると、私の顔を覗き込むようにして言った。

「恐怖、という感情は、己を変えられてしまうかも知れないという出来事に遭遇した時に、自らを守るために発生するものだ。それは知ってしまえば、己が変質してしまうと頭のどこかで理解しているからこそ、恐れ遠ざけようとする。…つまり、惹かれるものを感じているということだ。お前の感情は悪くない。…無関心より先のある感情だ」

 そう言うと、くびを傾けてそっと唇を重ねてきた。

「お前が奴等を追いたいというなら、最後まで付き合ってやろう。その目で全てを見ないと納得しないと言うなら、気が済むまで確かめるがいい。この旅の果てにお前が何を選ぶのか、俺は奴等の行く末とともに見届けてやる」

 傲慢な口調で一方的に言い終えると、彼は私を離して背を向けた。そのまま振り返らずに去っていく姿を、いつの間にか舞っていた風花越しに呆然と見つめていた。

 本物の花と見紛うような、小さく柔らかな季節外れの雪を受けながら、彼の言葉が心に染み透るまで、じっとその場で立ち尽くしていたのだった。

 

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 それから先は、新撰組を追ってひたすら移動を繰り返した。

 江戸を発ってからは、情報を頼りにまず宇都宮へと向かったが、そこに辿り着いた時には既に彼らの姿はなく、次の行き先の会津へと針路を変えた。

 情報を得てから動かざるを得ないため、どうしても後手に回ってしまうが、彼らの状況が刻一刻と変わり、一箇所に留まる日数が短いというのも、両者が出会えない原因の一つとなっていた。

 それだけ追い詰められているのだ、と北へ北へと進んでいく彼らの足跡を辿りながら思った。

 流山では新政府軍に囲まれた近藤さんが投降し、後に斬首となった。会津では斎藤さんが戦死し、土方さんは残りの隊士を率いて新政府軍への抵抗の中心地である仙台へと向かった。そこで旧幕府軍が結集し、蝦夷へと渡る算段をつけているらしい。

 

「…蝦夷、か。海を渡った先が、終焉の地となるか」

「最後に、なるでしょうか…」

「――後の禍根を残さぬために、新政府軍は奴等を完膚なきまでに叩き潰そうとするだろう。この日の本という国中を巻き込んだ小競り合いは、それで仕舞いさ」

「…私は、最後まで見届けたいです」

「好きにするがいい。…船の手配はしておいてやる」

 

 仙台に向かう旅の途中で、新撰組に関して交わされた言葉は、ただそれだけだった。

 二人とも、旅の終わりが近づきつつあるのを感じていた。

 ――蝦夷へ渡った時に、私は何を思い選ぶのか。

 その答え如何で未来が変わるのだと、隣を歩く人の冷たく整った横顔を見つめながら、未だ定まらぬ心へと思いを巡らせたのだった。

 

 

※※※

 

 

 蝦夷の地を踏めたのは、全てが終わった後だった。

 箱館戦争の最中は、彼の伝手でも船は確保できず、東北のある港で足止めをくらっていた。

 ようやく船に乗れたのは、戦争が終わってしばらく経ってからのことだった。

 季節はいつしか夏へと移り変わっていたが、蝦夷の地の夏は、江戸とも京とも違って涼しいものだった。

 

「ここが……五稜郭なんですね」

 まだ争いの痕跡が残る場所を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「ここで…全てが終わった」

 隣に立つ彼もまた、何かを噛み締めるような口調で、そう言った。

 遺体は荼毘にふされたのか、跡形もなかった。この場所で戦があったのだと知らせてくれるものは、崩れた石垣と建物、そして其処に染みついた血の跡だけだった。

「…土方さんはどうしたんでしょう?」

 一縷の願いを込めて、彼に尋ねた。

「あの男は…、戦死したらしい。弁天台場にいる仲間を助けようとして銃で撃たれて死んだ…と、そう聞いた」

 淡々と答える声に、惜しむような響きを感じるのは気のせいだろうか?この人は土方さんと相対する時、いつもどこか愉し気であったことを思い出す。

 死んだと聞かされても、実感がわかなかった。希望を捨てきれずに周囲を見渡す私を、彼は見守るようにじっと見つめていた。

 自分でも何を探しているのか分からないまま、視線をあちこちに走らせる。近くを…遠くを、目を開いたり眇めたりしながら、あらゆる場所へと視線を流した。

 何も見つからないと諦めかけたその時、丈の高い草の陰に隠れるように、血に汚れて擦りきれた旗が落ちているのを見つけた。

 強張る足を一歩一歩進めながら、その旗へと近づいていく。

 震える指先を伸ばして、壊れ物に触れるようにそっと持ち上げた。

 土と血で汚れてはいたが、かろうじて文字は読み取れた。掠れた声で『誠』と口に出して読むと、彼らが逝ってしまったのだと、ようよう心と頭の両方で理解した。

 いつの間にか握り締めていた旗に、ぱたぱたと雫が落ちていく。雨か、と空を見上げたら、雨雲とは無縁の澄んだ青が目に映った。

 ぼんやりと空を見つめていると、脇から伸ばされた白い指先が私の目尻を静かに拭うのを感じて、ようやく自分が泣いているのだと知った。

 指先から伝わってくる労わりに、堰を切ったように涙が溢れてくる。

 泣き続ける私を、彼は何も言わず黙って見つめていた。そして目尻にあった手を私の頭へと伸ばすと、そのまま自分の胸へと引き寄せて、押し付けるように軽く力を込めてきた。

 頬に当たる布の感触に、泣かせてくれるつもりなのだと悟った。

 無言の優しさを受けて、縋りつくように背中に腕を回した。そして嗚咽で喉を震わせながら、いつ止まるとも知れない涙を流したのだった。

 

 

 いつしか涙は途切れて、軽い嗚咽の音だけが辺りに響いていた。

 泣きすぎて熱をもった瞼をそろそろと開くと、呆れたように私を見つめる彼の顔が目に入った。どのくらい泣いていたのかは分からないが、日の位置を見ると随分と時が経っていたことに気付いた。

「ごめんなさい…」

 気恥ずかしさに目を伏せながら軽く身じろぐと、あっさりと頭に置かれた手が外された。自分が促したことなのに、離れていく手に寂しさを覚え、そんな己に居た堪れない気持ちになる。

「…もう気が済んだのか?」

 こちらの動揺とは対照的に、彼の態度は淡々と静かだった。

「はい。…少し落ち着きました」

「そうか。…これから、お前はどうする?」

 何気ない問いかけだったが、彼の瞳に一瞬、鋭い光が浮かんだのを見過ごさなかった。

「風間さんは…?」

 どう答えるか考える時間が欲しくて、逆に尋ね返した。

「俺は…人と関わらない元の暮らしに戻る。過去に受けた恩には十分に報いたつもりだ。禍根になりそうなものを全て断った後、姿を消す準備をするために、西へ帰る」

「――それがあなたの答えですか?」

「この先、どれほど年月が経ったとしても、人は欲のために争い、飽きることなく殺し合うだろう。…そんなものに関わる気はない」

「でも…!」

「…言いたいことは分かっている。だが、それは俺の問題でお前には関係ない。…俺のことはもういい。それよりも、お前はどうするつもりなんだ?」

先ほどより強い口調で問われ、彼は私が何を選択したのかを聞きたがっているのだと悟った。

「私は…しばらく蝦夷に留まります」

「それは…人を選ぶということか?」

 間髪入れずに返ってきた言葉に、黙ってくびを振って否定する。

「なら――どういう意味だ」

 静かに問いを重ねてくる彼の、嘘や誤魔化しを許さないという鋭く光る目を見ていると、己が審判を待つ咎人になったような錯覚に陥った。

(この人は…私から離れていくかもしれない)

 そう思いながら、ゆっくりと口を開いた。

「このまま蝦夷に残って…、色々と確かめたいことがあります。全てが終わった今、ようやく私は彼らのことを有りのままに見ることが出来るような気がするから。…心に一区切りがついたら、その足で雪村の里に行こうか、とも考えています。一つ、一つばらばらになっていた私の欠片を拾い集めて…今の私に繋がった時、そこでようやく先を考えられると、そう思うから…」

 逃げていると思われても仕方ないと思った。優柔不断な癖に頑なだと呆れられているような気がする。

 見通すような眼差しを受け続けることは苦しかったが、今は避けてはいけないと必死に見返した。

 

 彼はしばらく何も言わず私の顔を見つめていた。緋色の瞳が時折きらりきらりと光るものの、何を考えているのかは淡々とした表情からは読み取れない。

 相手の答えを待つということが、こんなにも焦れて苦しいものだとは知らなかった。

 彼はふらふらと定まらない私を、こんな気持ちで見ていたのだろうか?ようやく返ってきた答えがこれでは、見限られても仕方がないし、申し訳ないとも思ったが、自分の気持ちには嘘はつけなかった。

 

「まったく、頑固な女だ」

 ややあって、彼が小さな苦笑を漏らしながら言った。

「自分の目で確かめねば納得しないか。そうでなければ、京まで単身来るはずもないな。まったく…臆病な癖に妙に思い切りがいい。だから目が離せなかった」

「風間さん…?」

 あまり見ることのない穏やかな笑みに戸惑っていると、彼が軽く腰を屈めて顔を近づけてきた。

 ゆっくりと迫ってくる綺麗な顔に、鼓動が痛みを覚えるほど早まり、背中を甘い痺れが走りぬけた。

 唇に一度だけ受けた口づけの感触が甦ると、瞼が自然に閉じて何も見えなくなった。

 ふわり、と唇が重なった。あの時と同じ、少し冷たさを感じる唇。その感触に、ふいに泣きたいような気持ちになる。

 ――このまま差し伸べられた手を取れたなら。

 この五稜郭で区切りをつけ、心の中の蟠りを奥底へと押し込めて何も考えずに、ともに西へとついていく。

(そんなことが、できたのなら…)

 そんなに融通のきく性格ならば、こんな所まで来なかったと胸の内で自嘲した。

 

 唇が離れてから、ゆるゆると目を開くと、すぐ傍で緋色の瞳が瞬きもせず私を見ているのが映った。

「確かめねば気が済まないというなら、好きにするがいい。…待つのが嫌いな俺が、ここまで待ったのだ。あと少し延びても変わりはしないさ。だが…俺は元々気が長い方ではない。それは肝に銘じておけ」

「待った答えが…あなたの意に添わないものだったとしても?」

 

 待つと言ってくれたことが嬉しくて堪らなかった癖に、臆病な私は逃げ道を探してしまう。牽制じみた言葉を、彼は分かっていると言いたげに小さく笑って受け流した。そして優雅な指先を伸ばすと、私の唇にそっと触れつつ言った。

「…もし、お前が俺と生きることを選んだなら、たった今預けたものを返しに来い」

 そう言って意味深に幾度か唇の形をなぞってから、名残惜しげに指先を離した。その言葉の意味を考えていると、彼がかがめていた腰を戻し、私の顔から振り切るように目を逸らした。

「では…しばしの別れだ」

 あっさりと別れの言葉を口にすると、そのまま踵を返して行ってしまいそうになる彼の背中に向かって、急いでお礼の言葉を投げかける。

「風間さん…有難うございました。あなたがいなかったら…此処まで

来ることはできなかった」

 彼はちらりと振り返ると口許に薄く笑みを浮かべたが、そのまま何も言わずに前を向いて歩いていった。

 その背が遠く点になるまで見送った後、自分も先へと進むべく歩き出した。

 再び出会う時は花の季節がいい、と思いながらゆっくりと五稜郭を後にしたのだった。

 

                                                了

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薄桜鬼の二次創作SS。風千です。風間ルートを元に創作しています。
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