あやせたんの野望温泉編 黒猫side(完結編)
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あやせたんの野望温泉編 黒猫side(完結編)

 

 

「待ちなさいよ。話があるの」

 中学生モデルたちの引率で京介はこの旅館にやって来た。ということはこの娘もここに来ているのは当然の道理だった。

「そこを退いてくれないかしら? 私は今仕事中なのよ」

 夕食前の忙しいひと時、私は会いたくなかったその娘に出会ってしまった。

「最近のアンタ、何かイライラするのよ」

 読者モデルとして大層人気があるという丸顔スイーツ高坂桐乃は不平不満を少しも包み隠さない腹立たしい表情をぶつけて来る。

 浴衣姿で体から湯気を昇らせながら、浴場前の廊下を両手両足を広げて通せんぼする姿勢を取りながら。

「聞こえなかったのかしら? 私は今、仕事中なの」

 腕の横を通り抜けて進もうと試みる。だが、桐乃が位置を変えて再び私の行く手を塞ぐ。

「何でこんな所で働いているのよ?」

 痛い質問をしてくれる。

「私の家は貴方の家と違って裕福でないの。高校生になったのだし冬休みはバイトに当てているのよ」

 私が冬休みバイトしているのは家計を助ける為。これは本当の話。もっとも、それだけが理由ではないのだけど。

「アンタ、冬コミにも出なかったわよね」

「冬休みが始まってすぐの時からここで住み込みで働いているのよ。冬コミに行ける訳がないでしょ」

 コミケに参加しない冬は久しぶりだった。

 だから新年3日目だと言うのにあまり年を越した実感がない。

「黒いのがいなくてさ、コミケ行っても……何かつまんなかったのよ。イチゴが乗っていないショートケーキみたいでさ」

 桐乃は拗ねたように唇を尖らせた。

「そ、それは……その」

 申し訳ない気になって来る。

「だからアタシの楽しい筈だった冬コミを弁償しなさいってのっ!」

 桐乃が両手を振り上げながら吼えた。

「無茶言わないで頂戴」

 桐乃はこういう際によく子供っぽい言動を取る。我が侭で本当に困る。

 でも、私と一緒にコミケを回れなかったからつまらなかったというのは……ちょっとだけ嬉しかった。

「でもまあ、アタシのことはどうでも良いのよ」

 再び白い目が私を捉える。

「冬休みの間、全然アンタに会えなくてさ、京介の奴は相当凹んでいたわよ」

「…………っ」

 言い返す言葉がなくて俯くしかない。

「クリスマスの時だって、みんなでパーティーやったのにあんただけ来なかったでしょ?」

「あの時は……もうこっちにいたのよ」

 22日に終業式があって、23日にここに来た。だから沙織主催のクリスマスパーティーには行けなかった。

「クリスマスだけじゃない。冬コミも、年越も、初詣だってアンタは来なかった」

「だからそれはここでバイト中だったからでっ!」

 必死になって理由を述べる。心臓が握り潰されそうな気持ち悪い圧迫感が付きまとって消えない。

「アタシが問題にしているのは……黒いのが来られなかったことじゃなくて、何の連絡も寄越さなかったことよっ!」

 だけど私の大声は桐乃の更なる大声と怒りの剣幕にかき消されてしまった。

「何で冬休み中、一度も連絡を寄越さないのよ!」

 桐乃はとても怒っていた。そして寂しそうだった。

「それは、その、携帯を家に忘れて来てしまって、電話番号を他に控えていなかったから……ごめんなさい」

 桐乃に頭を下げる。

 この子の立場から見れば、私は冬休みに突然音信不通になってしまったことになる。心配させてしまったことは間違いない。

「まあ、そんなことじゃないかとは思っていたのよ。何度電話しても掛からなかったし」

 桐乃が溜め息を吐いた。

「だけどさあ、自宅に電話して日向ちゃんにアタシたちの携帯の番号を確かめてもらえば良かっただけの話でしょ?」

「……あっ!」

 そんな単純なことに気が付かなかった。

 私は冬休みが始まって10日あまり、本当にどうかしていた。

「それぐらい機転を利かせなさいっての」

 本当に桐乃の言う通りだった。

「…………っ」

 だけど桐乃の話を黙って受け入れながら考える。

 多分私は携帯を忘れて京介と連絡が取れないという状況に安心していたんじゃないかと。

 京介に何と話せば良いのかよくわからなかったから。会えないのに声を聞くのが辛かったから。

私は京介と接することを恐れていた。だから私はうっかり携帯を家に置いて来たという事態に安堵していたに違いなかった。

「とにかくさ、冬休みの間、京介の奴はアンタと連絡が取れなくて滅茶苦茶凹んでいたんだからね。それはもう鬱陶しくて踏み潰したくなるぐらい」

 そして私の安堵は京介に深い悲しみをもたらしたのだ。

「それは、その……ごめんなさい」

 京介の様子を第三者の通して語られると本当に申し訳ない気持ちになる。

「はぁ? アタシに謝っても意味がないでしょう?」

「それは……そうなんだけど」

 逆ギレ気味ではあったが、桐乃の言う通りだった。やっぱり京介ともう一度きちんと話をしないといけない。

「大体さ……黒いのは京介のこと、今でも好きなんでしょう?」

 逆ギレの瞳のまま桐乃が質問して来た。桐乃のその問いはきっとこの4ヶ月間、ううん、多分1年間ずっと考えて来たもの。

「そ、そうよ。私は今でも……貴方のお兄さん、高坂京介が好きよ。大好きよ」

 小さな声で答える。

 結局、何度考えてもその結論に至る。

 至ってしまうから、別れてしまった状態で京介に会うのは尚更に辛かった。

「なら何でいつまでもよりを戻さないのよ?」

 桐乃の声は多くの苛立ちを含んでいた。

「そ、それは……」

 答えに窮する。

「アタシのことを気にしているの? それとも、アタシのことを気にしている京介のことを気にしているの?」

「だから、それは……」

 体が震える。

 桐乃の言っていることは間違っていない。

 私はこの1年、ずっと桐乃と京介の関係を気にし続けている。

 告白しようと思ったのも、別れようと思ったのも桐乃を念頭に置いていた。

 私の京介への想いにはいつも桐乃がついて回っている。

 京介と桐乃は切り離して考えられない。

「アンタがアタシをずっと気に掛けてくれるのは嬉しい。でも……超迷惑なのよっ!」

 桐乃は腕を組みながらそっぽを向いた。

「大事なのはアンタと京介の気持ちでしょ? アタシを言い訳にされちゃ迷惑なのよ!」

 返す言葉がない。

「アタシはね、どこの誰がアイツと付き合うことになっても不平不満を躊躇なく表明するわよ」

 堂々と自分が恋愛の障害となることを認める桐乃。

「京介の彼女に一番近いと思ってた地味子には4年間抵抗し続けた実績があるわ」

 知ってはいるがこの子の執念は凄い。

「だからアンタはアタシの許可なんて考えなくて良いの。アタシの許可を得てから京介と付き合おうなんて考えるなっての」

 桐乃は俯いた。

「大サービスでさ……アンタだったら、1年で、お義姉ちゃんって呼んでやっても良いからさ」

 桐乃の下の地面が濡れ始める。廊下の染みが段々と大きくなっていく。

「黒いのはさ、実の妹のアタシじゃ辿り着けない場所にいけるんだから……その幸せと責任をもっと自覚しなさいっての!」

 逆ギレして吼える桐乃。その顔からは涙が止め処なくに流れていた。

「わ、私は……」

 何と答えるべきなのか。咄嗟に正解が出て来ない。

 その正解が素直に出るぐらいなら、きっと私はここに来てはいなかった。

 ううん。それは嘘。

 正解なら最初から出ている。

 ただ、その正解を認める勇気が私にはまだない。

「五更さ〜ん。ちょっとこっちをお願いね〜」

 玄関の方から先輩の仲居さんの声が聞こえた。

「今行きます」

 慌てて返事をする。

 それから桐乃の顔を見る。

「さっさと行きなさいよ。仕事を疎かにすんな」

 桐乃はそっぽを向いた。

 私はその横を何も言えないまま通り過ぎていく。

「アンタたちがしっかりしてくれないとさ……変に期待して後で悲しむことになる女の子が沢山いるってことをちゃんと自覚してよね。あのバカ、意外とモテるんだからね」

 桐乃はフンッと大きく鼻を鳴らすと私の前から去っていった。

「あの子なりの応援……なのよね」

 桐乃の応援に私はどう行動して答えるべきなのか?

 答えを出せないまま、玄関へと向かった。

 

 

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 私がこの旅館に住み込みで働こうと思った直接の契機は日向が福引で温泉旅行を当てたからだった。

「わ〜っ、本当に温泉旅行が当たっちゃったよ」

 それは冬休みにどこにも出掛ける予定がなかった五更家に大きな変化をもたらした。

 温泉旅行が当たったことに家族みんなが喜んでいた。

 けれど、1つ問題が生じた。

 その温泉旅行は家族4名様のご招待だった。

 五更家は両親と子供3人の5人家族。

 家族全員で行けば1人分別途に旅費を出さなくてはいけない。

 父も母も1人分追加で出すのに特に問題は感じていないようだった。

 でも、私はそれが嫌だった。それに引越しをしたせいで五更家の財政が厳しいことはよく知っていた。

「冬休みは泊り掛けでバイトをするから私は旅行に行けないわ」

 だから嘘を吐いた。

 そして嘘を本当にする為に冬休みのバイトを探し始めた。

 そんな時だった。

 沙織と桐乃からクリスマスパーティーと冬コミ出陣の誘いを受けたのは。

 誘ってくれたのは2人なのに携帯メールを直ぐに見て思い浮かんだのは先輩の顔だった。

 先輩とは夏の終わりからただの友達に戻ってしまっている。当たり前だった。私から別れを告げて彼氏彼女の仲を解消したのだから。

 なのに私はその関係でいることに限界を感じていた。より正確にはただの友達として先輩と会うのが耐えられない程に辛かった。

 私の心は先輩への熱い想いを記憶してしまっていた。だから先輩の顔を見る度に胸を焦がす想いが呼び覚まされる。胸が苦しくなる。抱きしめて欲しいと切に願う。

 なのに先輩を振ってしまった私はその想いを表出することを出来ない。そんな資格はもうない。私は先輩の心を深く傷つけた罪人なのだから。

 

 冬を迎える頃には先輩のことを考えるだけで頭がパンクしそうになっていた。

 だから一度距離を置こうと思った。頭を冷やせるように。友達として昔みたいに普通に接することが出来るように。

 それで冬休みの間中住み込みで働ける場所を条件に選んだ。

 沙織には詳細は伝えずにこの冬はバイトで忙しくて参加できないとだけ返信した。

 先輩にはメールを打つことが出来なかった。

 そして私は先輩に連絡を取れないままこの旅館で働き始めたのだった。

 

 

 この旅館で働いていれば先輩のことは忘れられると思った。

 でも、それは大間違いだった。

 慣れない環境で慣れない仕事を立ち回るほどに寂しさが募り、先輩のことを思い出す機会が増えた。

 高校に入って何だかんだ文句を付けながらも先輩にずっと守られていた時のことを思い出していた。そう、私はずっと先輩に守られていた。

一方で休憩時間や就寝前時間には同僚の仲居さんたちからよく恋バナを持ち掛けられた。

 そしてうっかり夏に彼と別れたと言ったら後はもう大炎上だった。

 根掘り葉掘り聞かれた。それでまた先輩のことを嫌でも思い出した。

 更にクリスマス、大晦日、お正月とイベントが続くと、その度に恋の話が盛り上がった。

 先輩にはもう新しい彼女がいてラブラブに過ごしていると断言されて凹んだ。

 それは大いに考えられることだった。先輩に好意を抱いている女は多い。

 先輩だっていつまでも失恋を引きずりたくないに決まっている。だったら、その内の誰かとくっ付いても不思議は何もない。

 むしろ、彼女たちは積極的にこの冬休みに動くだろうからそうなってしまう可能性は高かった。

「貴方は……誰と付き合うつもりなの?」

 夜空を見上げながら何度も星空の中の先輩に問いていた。

 先輩の新しい彼女の可能性を考えると目の前が急に暗くなる。体が重い。吐き気まで催して来る。

 だから私は必死に仕事をこなし熱中することで先輩のことを忘れようとした。

 

 先輩を忘れる為にやって来たこの旅館で逆に先輩のことを想い続ける日々を過ごしている内に1月3日を迎えた。

 そして今日もそれまでと同じ1日を過ごす予定だった。

 担当となったお客様の部屋に入るまでは。

 

「失礼します。ようこそおいで下さいました」

 バイトを始めて約10日。

 だいぶ慣れて来た振る舞いでお客様に頭を下げる。

「えっ?」

 でも、そこで聞こえて来たのは予想外の声だった。

 正確に言えばここでは知らない声が返って来るのが当たり前。なのにその驚きの声に私は聞き覚えがあった。

 ううん。聞き覚えがあったなんてレベルではない。

 その声を聞いて私は幻聴じゃないかと思った。だって、この声の持ち主は……。

 恐る恐る顔を上げる。

 そしてそこにいたのは予想通りにして、この場にいるには意外過ぎる人物だった。

「黒猫……っ」

「京介……っ」

 私は運命の悪戯というものを感じずにはいられなかった。

 目の前にはかつての恋人にして今でも愛しい先輩……高坂京介の姿があったのだから。

 神様は意地悪なのか優しいのか。

 でも、とにかく私は京介と再会してしまった。

 

 

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 京介は桐乃やその友達のモデル仲間の温泉慰安旅行の引率でこの旅館に泊まりに来ているということだった。

 それを聞いて私は自分の幸福を祝うと共に大きな焦燥感を覚えた。

 冬休みの間、絶対に会えないと思っていた京介に再会できたことはとても嬉しかった。この上ない喜びだった。

 でもすぐに気が付いた。この旅行は参加者の内の誰かが京介を落とそうとする為の策略であると。

 モデル業と無関係の京介が旅行に同行などちょっと考えればとてもおかしな話だった。京介はお人好しだから簡単について来ちゃったみたいだけど。

 京介の同行者の中にこの旅行を通して彼女の座を狙っている子がいる。それは間違いなさそうだった。

 目を瞑る。

 考える。

 そして考えても仕方がないという結論にすぐに達する。

 私はこの旅館のアルバイト従業員で京介はお客様。

 だからこれ以上考えても仕方がない。

 そう思い仕事に専念しようと決意する。

 私はこの期に及んでもまだ京介とちゃんと向き合う勇気を持てないでいた。

 

 京介と私は宿泊客と従業員。

 そう割り切ろうとした。

 でも、そんなことは最初から不可能な話だった。

「そうだったのか。いや、年末年始に何度も連絡したんだが、全然通じなかったもんでさ」

 京介が私のことを気にしてずっと連絡をくれていた。

 その事実だけで私は跳び上がってしまいそうに浮かれてしまっていた。

 大浴場の清掃の仕事が手につかない。

 スケジュールに支障をきたしてしまいそうだった。

 そんな時だった。

「温泉好きの俺がごく自然に混浴に入れるイベントが最初で蹴躓いた〜〜っ!」

 京介の嘆き声が浴場の外の廊下から聞こえて来た。

「浴場の前で何を大騒ぎしているのよ? これから1時間は清掃時間よ」

 嬉しいやら呆れるやらで溜め息を吐きながら出て行く。

 そこにはとても悲しそうな瞳で清掃中の札を見ている京介の姿があった。

「女子中学生モデルとの旅行で着いた早々温泉、しかも混浴有りに入ろうだなんて……貴方、自分の欲望に忠実過ぎるんじゃないの?」

 京介に白い目を向ける。

 京介のスケベぶりが腹立たしい。そして自分の貧相な体のラインも腹立たしかった。

 京介が私以外の女の裸に興味があるというのはやっぱりとても不愉快だった。私のだったら興味を持っていいということでもないのだけど。

 だから私は意地悪をした。

「室内浴場は今私が清掃中だけど、露天風呂の方なら入っても良いわよ」

 清掃中で誰も浴場に入って来ないことを知った上で京介に混浴温泉に入ることを認めた。

「俺、混浴温泉に入って良いんっすか?」

 京介は大興奮していた。それはもう欲望が少しも隠せていない顔で。

「入りたければ入れば良いじゃない。貴方の望む通りの展開は訪れないだろうけど」

 そんな京介に腹を立てながら了承の返事を出す。女の子がいなくてガッカリするが良いわと心の中で愚痴を零しながら。

 だけど京介はそんな私の斜め上を行く予想外の行動を取った。

「よっしゃ〜〜〜〜っ!!」

 京介は私の手を引っ張りながら脱衣所に向かって走り出したのだ。

「何で私の手を引いていくのよ?」

「嬉しいからに決まってるからだろっ!」

 京介は混浴温泉に入れる嬉しさで我を忘れているだけみたい。

 でも私は手を繋いで歩いていた恋人だった季節のことを思い出してしまっていた。

 温かい手が私を握っていてくれた、導いてくれた、愛してくれたあの日々を。

 それはとても幸せな感触だった。

 だけどこの男はそんな幸せを簡単にぶち壊してくれる行動を普通にしてくれる。そういう男だった。

「何でいきなり脱ぎだすのよ!?」

 京介は私の横で服を脱ぎ始めた。

 恥ずかしくなって目を背ける。でも、こんな近くで脱がれたら、私だって年頃の女の子なのだし意識せざるを得ない。

「おいおいおい。短い間とはいえ俺たちは恋人同士だっただろ。お互いの裸ぐらいもう抵抗なく見られる仲じゃないか。キラキラ〜☆☆」

 私が恥ずかしさで死んでしまいそうな横で京介は爽やか好青年を気取って微笑んでいる。

 十分過ぎるほどよく知ってはいたけれど、やっぱり京介はとんでもない男だった。

「私たちはそんな関係にはなっていないでしょうがっ! …………まだ」

 そう。私たちは恋人だったけど、そういう関係にはなっていなかった。

 京介が望むのなら……私は全てを奉げても良かった。京介に染まって京介のことだけを考えて生きる女になっても構わなかった。

 でも、現実にはそうならなかった。

 結局、私も京介も桐乃という存在にどう向き合うべきか答えを探しあぐねていたから。

 ううん。桐乃を言い訳にして私たちは互いに一番深い部分に踏み入れられないでいた。

 そして時間切れとなった私は京介の前から逃げ出した。

 結局私はただの臆病者だった。

 そして……

「さあ、黒猫。ガール・ミーツ・サンだ」

「えっ?」

 京介はセクハラ大好きな変態だった。

 彼は私の正面で堂々とパンツを下ろした。

 そして私は見てしまった。

 京介ともう少し長く付き合っていたら見ることになっていたに違いないものを……。

 それからしばらくの記憶がブツッとない。

 ブレーカーが落ちたみたいだった。

 そして再起動を果たした時、私は大暴れしていた。

「い、嫌ぁあああああああああああああああぁっ!!」

 それはとても醜悪だった。

「イヤホンと形も大きさもそっくりな汚いソレを一刻も早く閉まって頂戴っ!」

 とてもとてもとても小さいけれども、映画のエイリアンを髣髴とさせるそれは私にとって脅威だった。

「京介の変〜〜態〜〜〜〜っ!!」

 恐怖に耐え切れず、とてもとてもとても小さいけれども醜悪なそれをモップを用いて退治した。

「ユニバ〜〜〜スっ!!」

 エイリアンとその本体は私の一撃を受けて沈黙した。

 

 

 京介の奇行ぶりはそれだけに留まらなかった。

「京介お兄ちゃんのエッチィ〜〜〜〜〜〜っ!!」

 私が男湯の清掃を進めていると、野外温泉の方から少女の大きな悲鳴が聞こえた。

 京介以外は入っていない筈の温泉から大きな悲鳴。

 私はモップを武器代わりに持ちながら温泉へと急いだ。

 そして私が見たもの。

 それは──

「「えっ?」」

 しゃがみ込んで裸を隠そうとしている金髪のロリ少女と全裸の京介の姿だった。

 洋ロリ少女には見覚えがあった。ブリジットという名のイギリス人の少女モデル。桐乃が狂乱する三次元アル。彼女は桐乃の旅行の同伴者に違いなかった。

 その少女が裸で蹲って悲鳴を上げている。

 目の前には全裸の京介。

 何があったのかは大体予想できる。京介はラッキースケベの星の下に生まれている存在だから。

 でも、それはそれだった。

「京介……上がったら正座」

「はい」

 京介は素直にお湯から出て石の上に正座を始めた。

「覚悟は良いわね?」

「はい」

 神妙な顔をして頷く京介に私は、五更家内でのポジションである姉スキル、そして母スキルを使うことにした。

 京介を叱るのは久しぶりで……とても懐かしい感じがした。

 

 

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 先輩へのお説教はとても楽しかった。

 そう語ると何か大変な誤解を受けてしまいそうだけど、久しぶりに京介と心行くまで沢山お喋りが出来た。まあ、話の99%は私が一方的に喋っていたのだけど。

 それに他にも嬉しいこともあった。

 それは私がブリジットに京介に裸を見られた対価を要求して良いと言った時のこと。

「わたし、知ってるよ。こういう時、日本では男の人は責任取って女の人をお嫁さんに貰うんだよね。じゃあわたし、京介お兄ちゃんのお嫁さんになるね♪」

 ブリジットは無邪気にそう答えた。

 まだ小学生とはいえこの洋ロリ少女が京介を好きなのは間違いなかった。幼くてもライバルだった。

「そのお願いだけは絶対にダメよっ!!」

 自分でもビックリするぐらいムキになってブリジットのお願いを否定している私がいた。

 冗談でも京介が他の女の子と結婚を交わす場面なんて見たくなかった。

 ブリジットに嫉妬している私がいた。

「俺とこのお姉ちゃんはもう既に結婚の約束をしているんだ。だからブリジットちゃんとは結婚できないんだ」

 そして京介が口にしてくれた言葉。

 それはただの方便。

 でも私は──

「わ、私と、京介が……既に結婚の約束…………プシュ〜〜」

 天にも昇る心地で頭がショートした。

 そして2人がこっそり出て行ったことにも全く気が付かないで昇天し続けてしまった。

 

 

 結局この一件で明らかになったのは、私は自分の予想以上に京介に恋焦がれているということ。恋人だった時よりも今の方が好きかもしれない。

 そして同時に私と京介は恋人同士ではないという事実の再確認。

 京介は私が独占して良い対象じゃない。

 それがとても悲しかった。

 落ち込みながらも仕事に戻る。

 というかこのバイト、とにかく1日働き通しになっている。支払いはとても良いのだけどかなりキツい。

 休憩時間となる筈だった時間は京介へのお説教でなくなってしまった。

 仕方なく休憩はなしのまま仕事を再開する。

 短期バイトの私は接客時間以外は主に清掃を担当している。

 大体1日中掃除機やモップを使って掃除に明け暮れている。

 慣れつつある日課をこなしながら玄関から浴場に至る廊下を丹念に掃除機掛けする。

 毎日丁寧に掃除しているのでゴミなんか元々落ちていない。けれどもきちんと決められた時間に掃除するのがここの基本スタイルであり客商売というものだった。

 そして私は京介との一件で浮ついた心を落ち着ける為に念入りに掃除機を掛けていた。

そうしたらまたまた京介が私の前に現れた。

 手にはお風呂道具を持っている。

 さっきあれほど怒られたのにまた混浴風呂に入るつもりに違いなかった。

 それを見て私はとても気分が落ち込んだ。

「先輩が性犯罪者の眼差しで中学生のみならず小学生女子まで見るようになったのは……私の、せい。なのよね」

 昔から京介はお調子者で変な人だった。

 でもいつも妹や私の為にお節介を焼き続ける頼れる“兄さん”だった。

 その“兄さん”が明らかに壊れてしまっていた。

 それは私のせいに違いなかった。

「彼女だったのに、私が、その……貴方の性的な欲求を満たすようなことを何もしてあげなかったから、年下の女なら誰でも良くなってしまったのでしょう?」

 京介はきっと性的欲求を溜め過ぎてしまったせいで本来性的対象にならない子でさえ欲望の対象に捉え始めているに違いなかった。

「あの、瑠璃さんは……わたくしのことをロリコン犯罪者とお考えなのでしょうか?」

「ごめんなさい。私が彼女として至らなかったばっかりに」

 京介に深々と頭を下げる。

 私が京介とのことをずっと思い悩んで来たように、京介もまた私とのことをずっと思い悩んでいたに違いない。

 なら、これは良い機会に違いなかった。

 私と京介が新しい関係を築き直すのに良い機会に。

「でも、もし、許されるなら今度こそ私は……」

 言い掛けて言葉が止まった。

「ううん。貴方にとても酷いことをしてしまった私にそれを言う資格はないわよね」

 考えてみれば、それは幾ら何でも私にとってだけ都合の良い話だった。

 私は京介が好き。

 でも、京介は私を忘れる為に一生懸命なのかもしれない。

 そして私は京介に酷いことをした。それなのに私からもう1度告白なんて出来る訳がなかった。

「ごめんなさい。仕事だから、もう行くわね」

 掃除機を持って京介の前から姿を消した。

 

 私の頭はおかしくなる一歩寸前だった。

 それでも何とか踏み止まれていたのは仕事で常に体を動かしていたから。

 これで部屋の中で1人悶々としていたら完全にプッツンしていたに違いなかった。

 懸命に働くことで京介から思考を切り離そうとする。

 でも、一生懸命働ければ働くほどに泊り客と接する機会も増えることになる。

 それは京介の同行者とも巡り合う機会を増やすことも意味していた。

 そして私は玄関前の清掃中に遂に出会ってしまった。

 京介を巡る最大のライバルの存在に。

「あ、あのよお……」

 来栖加奈子に私は出会ってしまった。

 

 

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「あ、あのよお……」

 声を掛けて来たのはツインテールの髪型をした、ちょっと下品な口の利き方をする同世代の少女だった。

「何か、御用でしょうか?」

 話し掛けて来た少女に私は見覚えがあり過ぎた。

 詳しく観察しなくても三次元メルルこと来栖加奈子に間違いなかった。

 桐乃に連れられて何度もメルルイベントを見に行ったのだから見間違える筈がない。それにモデルの温泉旅行ということも考慮すれば、彼女がここにいるのは至極道理だった。

 でも以前桐乃や京介と一緒にいる所を偶然見かけた時とは随分雰囲気が違う。丸くなったというか穏やかになったというか。

 いえ、これは……。

 詮索はここまでにする。

 今は宿泊客として尋ねて来ているのだ。なら、私も従業員として接するべき。

「えっと、風呂ってどっちだ?」

「大浴場は通路を左に進んで頂けるとございます」

 従業員として答えるべき情報を返答する。

 でも、話はそこで終わらなかった。

「えっと……そうじゃなくてだな」

 加奈子は躊躇しながらも私の顔を覗き込んで来た。

「はい?」

 とても、嫌な予感がした。

 嵐が始まる予感が。

「だから、その、なんだ。アンタの、名前を教えてくれっ!」

「私の名前、ですか?」

 嵐は予感じゃ済まないみたいだった。

「そう。アンタの名前が是非知りたいんだっ!」

 加奈子の必死な表情を見れば、どれだけ真剣な想いで私の名前を知りたがっているのかわかる。

 その理由を考える。

 加奈子は私がこの旅館の従業員だから名前を覚えていたいのではない。

 私が高坂京介の元彼女だと知っているからこそ名前を知りたがっているのだ。

 それ即ち……。

「私はこの旅館で仲居を務めております五更瑠璃と申します。以降、お見知りおきをよろしくお願いします」

 可能な限り感情を排除して、従業員が客に接する態度で名乗ることにする。

 深々と頭を下げる。

 これは従業員として接する最後の別れの挨拶でもあった。

「あたしも名乗らないのは良くないよな。あたしの名前は……っ!」

「来栖加奈子さまでいらっしゃいますね。よく存じていますわ」

 先手を打って名前を告げる。

「何で、あたしの名前を? 宿泊名簿ってやつか?」

 加奈子はとても驚いた表情を見せている。種明かしぐらいはしてあげることにする。

「あなたのイベントには桐乃に連れられて何度も参加しているもの。名前ぐらいは当然覚えるわよ。三次元メルルさん」

 従業員五更瑠璃ではなく千葉の堕天聖黒猫として告げる。

 オタク界の新生アイドルを知らないなんてこの私にある筈がない。

「下の妹がメルルの大ファンなのよ。それで一度貴方のイベントに連れて行ったら大喜びしていたわ」

 珠希はメルルが大好きだ。マスケラのような高尚な作品ではなく、メルルのような大きなお友達を狙い打ちにする萌えアニメを好むのは望ましくない。けれど、それでも順調にアニメ道を歩んでくれている。

 アニメを、というかアニメに嵌る私に冷めた眼差しを向ける日向より将来がよほど有望。

 だからそんな愛しい妹をメルルイベントに連れて行ったことがある。あの時の私は姉の鑑であり、好みではない作品も進んで探求するオタクの鑑だった。

「そりゃどうも」

 加奈子は鳩が豆鉄砲食らったような表情を浮かべている。

 まあ、私の返答は彼女にとって予想外のものだったことは間違いない。

 従業員の顔の他にオタクの顔も見せたのだ。

 もうこれでお暇させてもらおう。

 でないと最後の顔を見せてしまうことになる……。

「そろそろ仕事に戻りたいのだけど、良いかしら?」

 掃除機を手に取って加奈子の前から去ろうとする。

 でも、駄目だった。

 再び声を掛けられてしまった。

 

「なあ」

「何?」

 自分でも驚くほどに不快感丸出しの声を出していた。

 私はわかってしまっていたのだ。

 従業員でもない、オタクでもないもう1つの顔が加奈子によって引き出されようとしていたことを。

 即ち、目の前のこの少女は私にとって……。

「なあ、アンタは今でも京介のことが好きか?」

 加奈子の声はとても真剣なものだった。表情も引き締まっている。

 本気で訊いているのがわかった。

「そんなことを聞いてどうするの?」

 加奈子の質問に苛立っている私がいた。

 この子は……そう。この子こそがそうなのだ。

 私は明らかに加奈子に対して敵意を向けていた。

 でも、加奈子は怯まなかった。

 逆に立ち向かってきた。

 そして、最も聞きたくない一言を聞かせてくれた。

「あたしは京介が好きなんだよ。だから、元カノだったアンタのことが気になるんだ」

 加奈子は大声ではっきりと京介が好きだと言い切った。

 やはりこの来栖加奈子こそが私の最大のライバルだったのだ。

 この子の雰囲気が以前に比べて穏やかになった……恋する乙女なものに替わったのはやっぱり京介が原因だったのだ。

「そう」

 額から汗を流しながら私を睨んでいる加奈子に背を向けて歩き出す。

「お、おいっ! ちょっと待てよっ!」

 加奈子が後ろから付いて来るのがわかった。

 それでも振り返らずに歩き続けると、加奈子は私の前に回り込んで両手を広げて通路を塞いだ。

「あたしは自分の想いをぶつけたんだぜっ! アンタも何か言えよ」

 加奈子は懸命だった。

 その気持ち、痛いほどよく理解できた。

 だって私は加奈子と同じ立場にいるのだから。

「別に貴方が誰を好きかなんて私は訊いていないわよ」

 軽く息を吐きながら済ました声を出す。

「そりゃそうなんだけどよお……」

 加奈子は不服そうな声で私を睨んだ。

「それに私はライバルと馴れ合うつもりなんてないわ」

 加奈子の宣戦布告に対する返答。

 私は加奈子に負けたくない。

 京介だけは誰にも譲らない。

「へっ? えっ? ライバルって? ……って、おい!」

 加奈子の脇をすり抜けて歩いていく。

「やっぱり瑠璃は今でも京介のことが好きなんじゃねえか」

 加奈子の安心したような疲れたような寂しいようなごちゃ混ぜの感情を伴った声が背後から聞こえて来た。

「……そうね。ライバルが現れた。私も、このままじゃいられないのよね」

 加奈子のことはよく知らない。直接話したのは今日が初めて。

 でも、あの小生意気そうなだった少女がこんなにも恋する乙女になっているのだから、京介への想いが本物であることはわかる。

「でも、私は……」

 だけど私は加奈子と決定的に異なる点がある。

 それは──

「私は京介と向き合うのが……怖い」

 懸命に京介に向き合おうとしている加奈子とそれを恐れている私との姿勢の違いだった。

「情けないわね」

 自分の不甲斐なさぶりに溜め息が漏れ出た。

 

 

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 その後の私は無意識に加奈子の行動を横目で追い続けていた。

 そして私は女子風呂の浴室の整理中に聞いてしまった。

 

「あたしは、京介のことが好きなんだぁ〜〜っ!」

 

 加奈子が京介に告白する瞬間を。

「あの子にとっても、私に出会ったのは大きな分岐点になったのかもしれないわね」

 備え付けのシャンプーを綺麗に置きながら小さくそう呟く。

 京介が他の女に告白されたという事態に対してどう反応するべきか私の心はまだ図りかねていた。

 一方、2人の話し合いは続いていた。

 私はその会話に耳を傾ける。

 ううん。正確には加奈子の告白に対して京介がどう返答するのか。

 それだけが気になっていた。

 京介がイエスと答えた場合……私の失恋は確定してしまうのだから。

 仕事をしているフリをしながら2人の会話に集中していた。

「え〜と、その、なんだ。加奈子が俺のことをそんな風に思っていたなんて知らなくて……その、なんだ。今まで失礼な態度を取ってきて、その、ごめんな」

 2人の姿が私からは見えない。

 それが緊張感を増させていた。2人はどんな顔をしながら会話をしているのか。

 色々想像してしまって苦しかった。

「それでさ、その……」

「いい。今はまだ、何も言わないでくれ」

 京介が返事をしようとするのを加奈子が遮った。

「頼む。もうしばらくで良いから……夢、見させてくれないか?」

 その言葉を聞いて、加奈子もまた自分に自信が持てないのだとわかった。

 そんな不安な心を抱えながらも加奈子は京介に告白したのだ。

 あの子は……凄い。

 加奈子の勇気に私は素直に敬意を表していた。

「返事はさ、今夜10時にこの旅館出たあの崖の所で聞かせてくれっ!」

「おい、ちょっと待てよ」

「約束したかんな〜〜っ!」

 加奈子が女湯に向かって駆けて来る足音が聞こえた。

 私は慌てて物陰に潜んで加奈子から身を隠した。

「いっ、言っちゃった。ど、どうしよう……」

 加奈子はのぼせたようにそればかりを繰り返し呟いて私に気付かずに出て行ってしまった。

 

 多分先ほどの告白は加奈子の人生でも最大級に大きなイベントだったに違いない。

 私が京介に告白した時もそうだった。

 それまでの16年の人生の時間全てよりも長い長い一瞬を感じた。

 それまでの価値観が全て覆されるようなそんな大変革が起きたのがあの時だった。

 その時まで私は自分がもっと厨二気質で、愛の告白をしても自分が変わるなんて思っていなかった。3ヶ月アニメで必ず1度や2度は起きるイベントの延長線上に考えていた。

 でも、他人(アニメキャラ)の告白を見るのと自分で告白するのでは天地の差があった。

 私は自分が思っている以上にごく普通の恋する乙女だった。好きな人の反応の一つ一つが嬉しくて怖くて気になって仕方がないごく普通の人間の少女だった。

 多分あの時の私は京介がオタクをやめて欲しいと言われたら即座にやめていたんじゃないかと思う。

 もっとも京介はオタクな部分も含めて私を受け入れてくれたのだからそんなことを言う訳はなかったのだけど。

 それに私だって京介にドン引きされて振られたくないので可愛い女になっていた。無理をしていたんじゃなくて好きな人の為に自然に努力していた。

 告白ってそんな大きな変化を呼ぶ力を秘めている。

 加奈子は今それを手に入れた。

 それに比べて私は……なんて弱くなっているのだろう。

 自分がとても惨めで情けない存在に思えて仕方なかった。

 頭の中で何度も何度も加奈子の告白の言葉がリピートしていた。

 

 

 我に返ると数十分の時が過ぎていた。

「大変っ! 早く仕事に戻らなきゃ」

 浴場の状態を確認して散らかっていないことを確認すると続いて脱衣場の状態を見る。

 こちらの方も問題はなかった。

 今日はお客さんの数が少なくて本当に助かった。

 代わりに泊まっている客の1人1人は私にとってVIP過ぎる人たちばかりなのだけど。

 お風呂の整理を終えて浴場の外へと出る。

 そこからまた旅館内各所の整頓の始まりだった。

 

 働いている内に更に時間が過ぎていく。

「そろそろ食事を運ぶ時間よね」

 今日の夕飯のメニューとその薀蓄を思い出しながら廊下を早歩きで通り過ぎる。

 配膳は私1人でやる仕事ではない。

 室内に上がって実際に食事を準備するのはベテラン仲居の仕事であってアルバイトの私は補助でしかない。

 とはいえ私にも宿泊客から話が飛んで来ることはある。

 簡単な質問に答えたり要望を聞かなくてはいけない場合があるので、補助であっても料理に関する一通りのことは抑えておかないといけない。

 そして私は普段から家で料理を担当していた実績を買われて、ただの短期バイトよりも配膳で重要なポジションを任されてしまっている。

 タイミングによっては私自身が色々と説明したりする場合も生じるのだ。

 帯の中に挟んでおいた今日の夕飯の献立を再チェックしながら歩く。

 特に説明できないものはないことを確認する。うちでは食べられない高級食材が使われているだけで調理法なら私にもわかる。

 説明を勉強し直す手間が省けてホッとする。

 だけど神様というのは存外に意地悪で、そう簡単に私に安住をくれなかった。

 私の前方によく見知った茶髪ロングの少女の後姿が見えた。

 浴衣を着たその少女を私は見間違う筈がなかった。

 

「桐乃……っ」

 私の最初のオタ友達高坂桐乃が私のすぐ前方にいた。

 どうしようか迷った。

 京介のこと、加奈子のことがあるので私からは声を掛け難い。

 というか、出来ることなら今日は桐乃と関わらずに済ませたかった。

 けれどこの道を通らなければ厨房に向かえない。

 しばらく躊躇した後、出来る限り他人を装って横を小走りに通り抜けることにした。

 桐乃は私がここで働いていることを知らない。

 なら、他人のフリも押し通せる筈。

 気合を入れてから俯いて早歩きに桐乃を抜きに掛かる。

 けれど──

「あれっ? 黒いのじゃん。こんな所で何をやってるの?」

 抜き去る際にあっさりと桐乃に正体を見破られてしまった。

 桐乃は読者モデルを務めているだけあって人を観察する能力が人一倍長けている。

 その場凌ぎの小細工など通じる訳がなかった。

 それでも無視して歩き続けようとする。

 けれど、桐乃というのは好奇心旺盛ですぐにガップリと食い付いて来る性格だった。

「その逃げるような態度……ますます怪しい」

 無視されたことで逆に興味を募らせた桐乃はアメリカ留学まで果たした陸上競技選手能力を活かしてあっという間に私の前に回り込んだ。

 そして前屈みになって俯いている私の顔を覗き込んで来た。

「やっぱり黒いのじゃん。その格好……ここでバイトでもしているの?」

 桐乃は一瞬だけ顔をパッと輝かせ、ついで表情を曇らせた。

「人違いではありませんか?」

「アタシがアンタのことを見間違える訳がないでしょうが」

 当然のことだけど他人のフリは通じなかった。

「とにかく、今は仕事中ですので失礼します」

 正体はバレたけれども今度は従業員として押し通す。

 そう作戦を切り替えた。

「待ちなさいよ。話があるの」

 けれども桐乃に引き止められてしまった。

 そして私は聞かされることになった。

 京介の想いを。桐乃の想いを。

 私は本当に幸せ者で愚か者であることを思い知らされた。

 

 

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 もう、頭の中はごちゃごちゃだった。

 

『用事があれば呼んで。そこのテーブルの上にのっているボタンを押せば私が来るわ』

『でも、どうしても私に会いたくなったら一度ぐらいなら自由に押しても良いわよ』

 

 夕食後、布団を敷き終わり、今日の仕事がようやく終了したと思った所で京介の部屋の呼び出しブザーが鳴った。

 京介が呼び出してくれたのだと思い心浮かせて客室に向かう。

 でも部屋にいたのは京介じゃなかった。

 

『アンタともう少し話がしたいと思ったからだよ』

 

 最も会いたくない相手来栖加奈子だった。

 

『アンタはあたしのことを京介を巡るライバルとか認めた癖に、いざ修羅場になると尻尾を巻いて逃げるのかよ? この、臆病者がぁっ!』

 

『あたしは京介が好きなんだ。だから、アンタにも負けられないんだ』

 

 加奈子の気持ちを正面からぶつけられてしまった。

加奈子の言葉が痛かった。あの子の気持ちを知っているからこそ、その真っ直ぐさが私には辛かった。

 

『瑠璃、オメェっ! 何でまだ京介とよりを戻してないんだよ? 京介のことを今でも好きなんだろ?』 

 

 加奈子は真っ直ぐに私にぶつかって来た。

 でも、それに対して私は、逃げ腰でしかなかった。

 

『色々、あるのよ』

 

『色々は、色々なのよ! 私たちの事情も知らない癖に勝手なことばかり言わないで頂戴』

 

 言い訳にさえならない言い訳を並べていた。何故そんなつまらない弁に終始したのか。それは結局、私がずっと夏の終わりの出来事を引きずっているから。

 

『だって私は、恋人だった京介を振っているのよっ! 今更一体、どんな顔をしてもう一度“好きです。付き合って下さい”って言えば良いのよっ! 言える訳が、ないじゃない』

 

 結局私は京介を振ったことをずっと後悔している。

 別れることを前提に付き合い、それを実行してしまった愚かな自分が許せない。

 今ならわかる。私は桐乃に嫌われようと田村先輩に白い目を向けられようと京介と別れるべきではなかった。自分で勝手に悲劇のヒロイン気取っていただけで、京介と自分の心を傷付けた加害者でしかなかった。

 そんな自分が許せなくて……四方八方雁字搦めに動けなくなっている。

 でも、そんな私に活路を示してくれたのは……加奈子だった。

 

『好きなら好きって言えば良いじゃねえかっ! どんなに格好悪くったって、惨めな姿晒したって言えば良いだろうがっ!』

 

『あたしは言ったぞ、京介に。好きですってな! アンタはどうなんだよっ、五更瑠璃っ!』

 

 加奈子は教えてくれた。

 私がまた同じ過ちを繰り返そうとしていることを。

 格好付けて、自分や京介をまた悲しませようとしていることを。

 だから、加奈子には告げなくちゃいけないと思った。

 私の気持ちを。私の京介への想いを。

 

『わ、私はっ、私だってっ!』

 

 私の想いを正面から加奈子に伝えようと思ったその瞬間だった。

 

『よ、よぉ……』

 

 京介がこの最悪のタイミングで部屋に入って来たのだった。

 

『いや、その、俺の部屋から言い争いの大きな声が聞こえたもんで。その……』

 

 最も聞かれたくない人物に加奈子との会話を聞かれてしまった。

 それを理解した瞬間、私の頭は真っ白になっていた。

 

『………………っ!!』

 

 気が付けば私は京介の前から逃げ出していた。

 どこに行くとか何故逃げるとか考えている余裕はなかった。

 ただひたすらに京介の顔が見えない地へと逃げていきたかった。

 

『おいっ! 瑠璃〜〜っ!!』

 

 京介が私を呼ぶ声が聞こえていたけれど、振り返るなんて出来なかった。

 

 

 気が付けば私は足袋のまま旅館を出て断崖絶壁の崖の方へとやって来ていた。

 低い柵はあるものの危ないので夜間には近付かないように宿泊客にも注意を徹底している地域。

 無意識の内に人が訪れない場所を目指して逃げてきたのかもしれなかった。

 柵に腰掛けながら空を見上げる。

「何を……やっているのかしらね、私は?」

 一番見つけやすいオリオン座を眺めながら先ほどの出来事を振り返る。

 よくよく考えれば逃げることはなかった。

 あの場で京介の気持ちを確かめる選択肢もあった。

 でも、私は雰囲気に耐え切れずに逃げ出してしまった。

「私はどこまで臆病になれば気が済むのかしらね」

 大きく溜め息が吐き出た。

 都合の良い話だけれども京介に追い掛けて来て欲しい。

 でも、実際に追い掛けて来られたらまた逃げ出してしまうかもしれない。

 そんな二律背反した想いが頭の中を駆け巡っていく。

 

 だけど回答は私が頭を整理するより早くやって来た。

「やっと……追い付いた」

 京介が私の目の前に立っていた。

 いざ実際に京介の姿を目にすると、もう逃げる気持ちもなくなっていた。

 逆に足に根っこが生えたみたいに動けない。

「隣、いいか?」

「好きにすれば良いわ」

 京介は隣に座って来た。

 もう私は逃げられない。

「綺麗な、星空だな」

「そうね。同じ千葉県でも……見え方が全然違うわね」

 2人して空を見上げる。

 千葉市や松戸市よりも遥かに多くの星が見えている。

 お互いに無言のまま数分の時が流れる。

「あのさ……」

 不意に京介が声を掛けて来た。

「何?」

 私は京介が何を言い出すのかまるで予想が付かなかった。

 だから、どんな行動に出て来るかなんて尚更予測できなかった。

「俺の気持ちを誤解のないように伝えたいんだ」

 言葉を発するのと京介の顔が私の視界を塞いだのはほぼ同時だった。

「えっ?」

 そのまま京介の唇が私の唇に重なって来た。

 それはキスと呼ばれる行為だった。

 付き合っている最中もほとんどしたことがなかったその求愛行為を京介は行って来た。

 何だかこの状況が信じられなくて呆然と京介を受け入れる。

 拒む気にはなれず、かといって積極的に受け入れる気にもなれず。

 私は、京介の成すがままだった。

 ずっと、京介の唇の感触を感じ続けていた。

 

 長い時間を経てようやく京介は唇を離してくれた。

 私の唇とその周りは京介と自分の涎がいっぱいに付いていた。でも私はその涎を汚いと感じなかった。

「どういうことか説明してくれると嬉しいのだけど?」

 口の周りを拭わずに京介に尋ねる。

 今私はどんな顔をして京介を見ているのだろう?

「俺の気持ち……だよ」

 京介は半分泣きそうな、それでいて嬉しそうな表情を見せていた。

 その顔を見てきっと私も同じような表情をしているのだろうと予測した。

「貴方の気持ちって?」

 京介の瞳を見詰め込む。キスされた時よりも京介を近くに感じる。

「俺の気持ち。それは……」

 京介が私の両肩を掴んだ。

「俺は今でも好きなんだよ、瑠璃のことがっ!」

 京介が私の両肩を激しく揺さぶった。

「夏の終わりに別れ話を切り出されて、俺が至らなかったからと諦めようと思ったけど……やっぱり、お前のことが忘れられないんだ。瑠璃のことが、大好きなんだよっ!」

 京介の訴えは熱かった。

「俺には、お前が必要なんだっ!」

 とてもとても熱くて、私の心の中の頑なに凍り固まっていたものを一気に溶かしていく。

 そんな感じがして。私自身もとてもとても熱くなって。

「京介……貴方、泣いているわよ」

 京介の双眸からは涙の川が出来ていた。

「瑠璃だって、泣いてるじゃねえか」

「えっ?」

 言われて初めて気が付いた。

 私は、京介に告白されて泣いていたのだと。

 悲しくないから泣いていることに気が付かなかった。

 こんなにも嬉しい涙があるなんて、知らなかった。

 

 

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「加奈子にさ、お前をさっさと追い掛けろって背中を文字通り引っ叩かれたんだ」

「そう。あの子に」

 2人並んで柵に腰掛けながら夜空を見上げる。

「それだけ言うと俺がどうしようもないヘタレに聞こえるのが難点なんだが」

「貴方がどうしようもないヘタレなのは出会った時からよく知っているわ」

 京介の肩に頭を預ける。彼の体温を間近で感じる。

 ヘタレだろうとお調子者だろうと、そんなことで私の好きは揺らいだりしない。私は高坂京介が心の底から好き。

「瑠璃さんの誤解を解く為に言いますと、俺だって自分の力で頑張ったんですよ」

「何を?」

 顎を京介の肩に乗せながら首を傾けて彼の目を見る。

「頑張って……告白した」

 暗闇の中だったけれど、京介の顔が真っ赤に染まったのがわかった。

「どうして、告白してくれたの? 夏の終わりに貴方に酷いことをしたのは私なのに」

 告白は私からしないといけないものだった。

 それが京介を傷付けてしまった私なりのけじめ。

 なのに京介の方からしてくれた。

 それはとても嬉しかったけれど、不思議なことだった。

「夏に付き合う時にさ、告白したのは瑠璃の方だったよな?」

「そうだったわね」

 夏コミが終わって数日が過ぎたあの日、京介に告白したのは私からだった。

 転校が決まっており、新学期が始まる前に別れる覚悟を決めた上での告白だった。

「あの時の俺は、女の子に告白されたってのに何とも情けない程に優柔不断な態度を取ったよな」

「そうね。妹と沙織にお伺いを立ててようやくオーケーしてくれたものね」

 遠い昔のように感じる出来事。でも、あれからまだ4ヶ月しか過ぎてない。

「それで俺、瑠璃に振られた後にずっと考えていたんだ。瑠璃はあんなに一生懸命に気持ちをぶつけてくれたのに俺はなんて不誠実な態度を取ってしまったんだろうってさ」

 京介の表情に影が差した。

「だから今度女の子と恋愛する時は俺から好きだって言わなくちゃと思ったんだ」

 京介は照れ臭そうに笑った。

「あらっ? 女の子と恋愛ってことは、私以外の女の子に告白していた可能性もあるってこと?」

 少し意地悪をしてみる。京介は私のジト目にたじろいだ。

「え〜と、他の女の子に目が行った時もごく短い時間ですが確かにありました。ですが、やっぱり俺には瑠璃さんしかいないと気付いた次第でして。この回答で納得して頂けないでしょうか?」

「私はこの1年間、京介以外の男のことなんか考えたこともないわよ」

 ぼっちだった人生を舐めないで欲しい。私にはごく少数の人間しか目に入らないのだ。

「それじゃあこれからは俺も瑠璃以外の女の子には目を向けないということで」

「無理でしょ。そんなこと」

 京介の言葉を切って捨てる。

「貴方には大切で大切で仕方のない可愛い妹がいるでしょ」

「俺は妹をそんなに可愛がっていない」

「貴方たち兄妹のツンデレはもう見飽きたから別に披露してくれなくて良いわよ」

 溜め息を吐く。

「それに貴方は加奈子やブリジットや沙織に用事を頼まれたら引き受けるでしょう?」

「え〜と、今後は瑠璃にお伺いを立ててから引き受けることにする」

「引き受ける気満々なんじゃないの」

 大きな大きな溜め息を吐く。

「まあ、いいわ。少なくとも加奈子には大きな大きな借りが出来ちゃったのだし」

「加奈子への借りは俺たち2人で一生涯払わされるかもな」

 京介も大きな溜め息を吐いた。

 この男、今とんでもないことを何気なく口にしたのだけれども気付いていない。

 一生涯。そう、一生……。

 

「貴方を苛めるのはこれぐらいにしておくわ。今回情けなくて駄目駄目だったのは私の方だったのだし」

 思えば今日京介と再会してから私は空回ってばかりだった。

 ううん、今日に始まった話じゃない。

 冬休みに入ってからずっと京介から逃げ回っていた。

 もっと遡れば、この4ヶ月の間、私は空回りを続けていた。肝心な所で勇気がまるで出せなかった癖に想いだけは募らせ続けていた。

 その結果、沙織や桐乃や加奈子など多くの人に迷惑を掛けてしまった。

 そして、何よりも迷惑を掛けてしまったのは目の前のこの人だった。

「その、瑠璃が失敗したと思うんなら、次はそうならないように気を付ければ良いんじゃないかな? そのさ、迷惑を掛けた人に謝ってまた頑張ればさそれで良いと」

「そうね」

 京介の肩から顎を下ろして向かい合う。

「ごめんなさい。貴方には本当に酷いことをしてしまったわ」

 京介に向かって深く頭を下げる。

「いや、その別に、俺に向かって謝る必要なんてないさ。俺の方こそずっと優柔不断をし続けて瑠璃を傷付けてた。ごめんな」

 京介が私に向かって頭を下げた。

 2人して恐る恐る頭を上げる。

「ふっ」

「ふふっ」

 何か少しだけおかしかった。

 でも、ようやく長い間抱えていたわだかまりが解けた気がした。

「けどさ、俺が聞きたいのは謝罪の言葉じゃないんだよな」

「じゃあ、何?」

 京介はニヤッと笑った。

 この男がドヤ顔する時は気を付けないといけない。

 以前ゲー研でエロゲーを作ろうぜと熱く語られた時のことを思い出した。

 果たして今回は?

「さっきの愛の告白の返事をまだきちんと聞かせてもらってないんだが?」

「…………っ」

 ある意味、エロゲー作ろうぜよりインパクトが大きかった。

「あの……これだけもう分かり合っているのだから言わなくても良いんじゃ?」

「駄目。ちゃんと瑠璃の口から答えを聞かせて欲しい」

 京介の真剣な瞳に私の頬が上気していく。

「じゃあ、返事をする前に約束してくれる? 闇の眷属が人間に掛ける呪いじゃなくて人と人との約束を」

 今の私は五更瑠璃。五更瑠璃として高坂京介と約束を交わしたい。

「どんな約束だ?」

 一度大きく息を吸い込む。息を止めて、吐き出しながら一息で述べた。

「今度こそ私とずっと添い遂げてくれると。私の手をもう離さないと約束してくれる?」

 京介の左手を両手で強く握り締める。

 私はもう、京介と離れ離れになんてなりたくない。

 ずっと、ずっと一緒にいたい。

「そんな約束だったら……お安い御用だよ」

 京介が右手で私の両手を更に上から強く握り締めてくれた。

「むしろ俺が離さないからなっ!」

「ありがとう」

 京介にそう言ってもらえて本当に嬉しい。

 涙が止まらなくなるぐらいに。

「返事しないといけないんだったわね」

「いや、涙を拭いてからで構わないんだが……」

「このまま言わせて」

 涙に濡れた目で京介を深く深く見詰める。

「私は、五更瑠璃は高坂京介のことが好きよ。大好き。愛しているわ」

 やっと、やっと言えた。

「私は貴方が大好き」

 今度は自分から京介にキスをする。

 そのキスはさっき以上にとても幸せな味がした。

 

 

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 それから私は何度も何度も京介とキスをした。

 時が経つのを忘れるぐらいに。

「ねえ、京介……」

「何だ?」

 京介の腕に抱きしめながら夢心地のひと時を味わう。

「今夜は同じ部屋で住み込みをしている同僚のバイトが休みで明日の昼まで帰って来ないの。だから部屋に戻らなくてもバレないの」

 赤面が止まらない。でも、今夜は、今夜だけはそんな気分だった。

「瑠璃っ」

 京介が強く抱きしめて来る。

 それはとても心地良い圧迫感だった。

「今夜……俺の部屋に泊まっていかないか?」

「今付き合い始めたばかりなのに……バカ」

 バカと言いながら首を縦に振った。

 もっともっと京介を体全体で感じたい。私の全てを京介に満たして欲しい。京介で何もかもをいっぱいにしたい。

 京介と私の2人だけの世界がここにあった。

 

「バカップルって本当にエロいことしか考えていないのね。だからバカなのね。納得だわ」

「リア充爆発しろと叫びたくなる気持ちがよくわかるぜっての」

 ……いつの間にか桐乃と加奈子が白い目で私達を睨んでいた。

「え〜とこれは……」

「ち、違うのよ!」

 京介が私の体を離す。

 座り直し、衣服の乱れを整えながら何とか場を繕おうとする。

「アタシたち、アンタたちがいつまで経っても戻って来ないから探しにここまで来たのよ」

「そうしたらオメェら、あたしたちに全然気付かねえでキスばっかりしてたな」

 2人の嫌そうな顔が向いて来る。リア充死ねと目が訴えている。

 京介と顔を見合わせる。京介の額から一筋の汗が流れ落ちるのが見えた。

「何かまだ言い訳はある?」

「「何もございません」」

 京介と並んで頭を下げる。

「で、約束の10時は過ぎた訳だ。一応けじめってことで、2人がどうなったか知らせて欲しいんだが? 聞くまでもねえがよ」

 そう。この一件は直接的には加奈子の京介への告白から始まったもの。

 やっぱりこの子にはキチンと報告しないといけない。

「あの、私たちは……」

「俺が言うよ」

 京介は俺の言葉を遮った。そして私の右手を握り締めながら加奈子に語った。

「俺と瑠璃は……また付き合うことになったんだ。俺が瑠璃に好きだと告白した」

「そうか」

 加奈子は夜空を見上げた。

「俺、加奈子に告白されて本当に嬉しかったんだ。だけど、恋人は……その、ごめん」

 京介は加奈子に向かって頭を下げた。

「まっ、しゃーなしだな」

 加奈子は高く高く空を見上げた。

「この加奈子様を振ったんだから……オメェら幸せにならねえと許さねえ、からな」

 加奈子は私たちに背中を向けた。その声は震えていた。

「あたしから言うことは以上だ。じゃあ、邪魔したな」

 加奈子は目を擦ると旅館に向かって駆け出した。

 

「加奈子っ!」

 京介が立ち上がろうとする。

「やめなさいよっ!」

 それを制したのは桐乃だった。

「アンタが追い掛けてどうするのよ? 加奈子を慰めるのはアタシの役目」

「桐乃……」

 桐乃は寂しそうな瞳で私たちを見た。

「そしてアタシを慰めるのは加奈子の役目って感じで丁度良いじゃん」

 桐乃も私たちに背を向ける。

「京介はさ、その黒いののことだけ考えていれば良いのよ」

 京介の顔が真っ赤になる。

「今夜だけは特別に京介の泊まってる部屋にはお邪魔しないであげるわよ!」

「あ、あれはっ!」

 私の顔も真っ赤に染まった。

「リア充……爆発しろっての。じゃあね」

 一方的にそれだけ告げると桐乃も走って闇夜の中へと消えていった。

 

 京介と2人で、加奈子と桐乃が去っていった旅館の方角を眺める。

「本当、騒々しい奴らだったな」

「そうね」

「でも、いい奴ら、だよな」

「本当、そうね」

 私と京介は良い友人に恵まれている。

 それだけは絶対に確かなことだった。

「そろそろ旅館に戻るか。すっかり体も冷えちゃったしな」

 京介が椅子代わりにしていた柵から立ち上がる。

「そうね」

 私も立ち上がろうとしたその時だった。

「えっ?」

 緊張の連続で軽く麻痺してしまっていたのか私の足はまるで言うことを聞いてくれなかった。

 一方で私の上半身だけは起き上がる動作を取っていた。

 その結果、私はバランスを崩して後ろに向かってひっくり返ってしまった。

「嘘?」

 まるで漫画みたいな出来事だった。

 私はまともに立ち上がれずに後ろにひっくり返る。ひっくり返った先は断崖絶壁。数十メートル下には暗黒の海。

 こんな所で私は死んじゃうの?

 今日、やっと京介と恋人に戻れたばかりなのに?

 

「瑠璃っ!?」

 京介が慌てて私に向かって手を伸ばして来るのが見えた。

 でも、その手は届かない。

 私の体は後ろに宙返りしながら崖の淵を跳び越していく。

 私、ここで本当に死ぬんだ。

 こんな高い場所から、しかも冬の夜の海に飛び込んで助かる筈がない。

 死ぬ前に京介の恋人に戻れたことは本当に嬉しい。

 でもまだ京介に抱いてもらってないのに死ぬのは寂しい。

 そんなことを割と第三者的に考えながら目を瞑り、来るべきショックに備えようとしたその時だった。

 

 ボヨンッ

 

 私の背中に何か硬いものが当たった。

 その反動で私の体は崖の上に向かって弾き返された。

「えっ? えっ?」

「瑠璃ぃ〜っ! 瑠璃ぃ〜〜っ!」

 そして気が付くと私は京介の腕の中に抱きしめられていた。

「良かったぁっ! 瑠璃が海に落ちないで本当に良かったぁ〜っ!」

 京介は涙を流しながら私の生還を喜んでいる。

 でも、私には訳がわからなかった。

 私は確かに崖から落ちた筈。

 なのに何故、こうして崖の上で京介に抱きしめられているのか?

 

「何でわたしがこんな目に遭うんですかぁ〜〜っ!? お兄さ〜〜〜〜んっ!!」

 

 風の音が聞こえた。

 それから少しして、水面が大きく波打つ音が聞こえて来た。

 海面を覗き込む。

 けれど、真っ暗闇なその世界で何が起きたのかは全くわからず終いだった。

「瑠璃が生きていてくれて、本当に良かった」

 子供のように泣きじゃくる京介。

「心配を掛けて本当にごめんなさい」

 私も向きを変えて京介を抱き締め返した。

「やっぱり私は貴方と恋人になれただけじゃ満足できない。京介とずっと、ずっと共に生きていきたい」

「俺もだよ、瑠璃。だから、俺とずっと一緒にいてくれ」

「約束よ。一生消えない効力があるのだからね」

 再び重なり合う私達の唇。

 

 それから旅館に戻った私は……京介の部屋にお泊りした。

 

 とても幸せな夜だった。

 

 私は京介の彼女になれて本当に幸せだ。

 

 

 

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エピローグ

 

「残りの期間、バイト頑張れよ」

「京介こそ受験勉強頑張りなさいよ。良い大学入ってくれないと許さないわよ」

 チェックアウトしたお客様を旅館の外まで見送るのも従業員の大切な仕事。

 でも、私と京介はただの従業員と宿泊客じゃない。

 恋人同士で将来を誓い合った仲。それに昨夜は……。

「なんかあの2人、見詰め合って赤くなってチョーウザいんですけど。ていうか黒いの妙な内股歩きがすっげぇー腹立たしいんですけど」

「止めとけ桐乃。あんまりあの2人に近付くと熱くて死ぬぞ」

「わぁ〜京介お兄ちゃんと従業員のお姉さんは本当にラブラブなんだねぇ〜♪」

 3人に好奇の目で見られて京介との甘いムードも流石に途切れる。

 でも、それで気付いたように京介は私に携帯と充電器を渡してくれた。

「俺の携帯を瑠璃に預けておくからさ……その、俺のパソコンメールにメール打って、自宅の方に電話してくれないかな? その、瑠璃の声は毎日聞きたいし、瑠璃の書いた文は毎日読みたいから」

「わかったわ」

 携帯電話を握り締める。京介の気持ちがとても嬉しい。

「聞きましたか、来栖の奥さん。あんな女からの連絡だらけの携帯を自分の彼女に持たせるなんてあの旦那さんは正気の沙汰じゃないですわよ」

「見ましたわ、高坂の奥さん。瑠璃さんの旦那さんには自殺願望か何かあるんじゃないんですの?」

 やたら大きな声で奥様会議をしてくれるJCモデル2名。

「京介の連絡が女からのものばかりだっていうのは私にも重々わかっているわよ!」

「いや、流石にそんなことはない……と思いたい」

 京介が冷や汗を流す。

「でも良いの。私だけが京介にとって特別だから。私だけが京介の彼女だから!」

 言い切ってみせる。それぐらいの度量を持っていないと高坂京介の恋人は務まらない。

「はいはい。リア充乙〜。あっ、タクシーが来たわ。さっさと乗り込みましょう」

「地球温暖化はぜってぇコイツらが一枚噛んでるっての。京介だけトランク乗せてぇよ」

 2人はつかつかと歩いてタクシーに荷物を乗せていく。

「もし2人が別れるようなことがあれば、わたしが京介お兄ちゃんのことを取っちゃうからね♪」

 楽しそうにクルクルと回りながらブリジットがタクシーへと乗り込んでいく。

「じゃあ、俺もそろそろ行くな」

 京介がタクシーに向かって歩き出す。私もその横について歩いていく。

「帰るまでが引率だからしっかり引っ張って行きなさいよ」

 助手席に乗り込もうとする京介にエールを送る。そして──

「愛してるわよ、京介」

 しゃがんだ彼の頬にキスをした。

「わわわわ。従業員のお姉さん、京介お兄ちゃんにキスしているよぉ〜っ!」

 タクシーは瞬時に騒がしくなった。

「痛ててて。桐乃、後部座席から俺の頬を抓りあげるな!」

「うっさいっ! やっぱアンタたち見てるとムカつくのよ!」

「すみませんが、出発して下さい」

 その騒動を無視してタクシーには駅に向けて出発してもらう。

「瑠璃〜っ! また松戸に遊びに行くからな〜」

「フフ。父と2人で待っているわよ。今度はちゃんと、挨拶してもらうわね」

「いきなり気が重くなったぁ〜〜っ!」

 私はタクシーが視界から見えなくなるまでずっと見送り続けた。

 

 

 結局、京介たちの旅行を誰が仕組んだのかは最後までわからず終いだった。

 でも、思う。

 もしかするとこの旅行は恋愛の神様が私と京介の為に手引きしてくれたんじゃないかと。

 そんな筈がないことは知っている。

 でも、私はそう思うことにした。

 だって今私はこんなにも幸せなのだから。

「京介を温泉旅行に連れて来てくれた人に感謝しないとね」

 昨夜京介に愛を囁いてもらった崖の方を見る。

 冬なのに海で泳いでいたらしい、全身びしょ濡れのトレーニングウェア姿の少女が大の字でうつ伏せになって伸びている姿が見えた。

 その少女はどう見てもただの変な人。

 でも、何故か私にはその人が私と京介を結び付けてくれた恋のキューピッドに見えた。

「恋のキューピッドに感謝、ね」

 真冬の館山の風が冷たくて、でもとても心地良かった。

 

 

 あやせたんの野望温泉編 完

 

 

 

 

 

説明
4月20日は黒猫誕生日。
以上

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コメント
峠崎丈二 さまへ あやせたんで始まって黒猫で締める。これが私のジャスティスです。 原作は連載を引き伸ばしに図らずにいられない大人の事情でしょうから二次創作では結ばれてみました(枡久野恭(ますくのきょー))
URYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY!!!! 甘ったるくて素晴らしいですな。黒猫、末永くお幸せに……(峠崎丈二)
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