ねことさくら |
春の三日間の短いお話「ねことさくら」
◇一日目
少しだけ雪が残った小径をいつも通りに歩いていた。
吐き出した白い息が空気に溶けて行ったその視界の端で、僅かに動いたものに目を止める。
一匹の黒猫だった。
「……何だお前、こんな所で……」
ふと、その傍らにしゃがみ込んでみる。いつもなら素通りだ。
だが、その時だけは何だか気持ちが違っていた。
その猫は、俺が近付いても逃げようともしない。――いや、逃げようにも逃げられないのだ。
その小さな顔には血が固まりこびり付いている。その小さな足は本来曲がるべきではない場所から曲がっていた。息は細く、今にも鼓動を止めてしまいそうだった。
「……お前、死ぬのか?」
俺はしゃがみ込んだままそう呟いた。猫は少しだけ耳を動かして、僅かな呼吸を続けている。
何を思ったか、俺はその猫を膝の上に乗せ、そして暫く撫でてやった。
ふと、こんな感傷に浸ってしまったのだ。
――自分が死ぬ時、一人だったらどれだけ心細いのだろうか――と。
雪が残る小径に、俺は胡坐をかいて座り込んだ。時間は既に夕方から夜に向かう頃。肌寒さは残るが、俺はちょっとした気まぐれで、命が消え入るその瞬間に付き合おうと思った。
そんな時だ。彼女が現れたのは。
エンジン音。ライトの光。軽トラが俺の目の前を通り過ぎて――そして止まった。一瞥したその時に少し驚いたのは、運転席に本来座っている筈の人影が見えなかった事だ。
変なものを見てしまったと一瞬思ったが、止まったトラックから降りてきた人物を見て、少しだけ納得してしまった。
ベージュのダッフルコートを着た、小さな女性が降りてきた。きっと運転席に埋もれてしまうその身長。年の頃はまだ中学生程度に見えた。髪は長く、両脇で縛っている。少し釣り目がちなその目で俺を見つめるその表情は硬い。
その少女が口を開く。
「何してるの、そこで」
思ったよりも大人っぽい声だな、と思いながら俺は返す。
「ちょっと、動けないんだ」
「怪我したの? 病気? 救急車呼ぶ?」
彼女は俺の膝の上の黒猫には気付かなかったようだ。俺は無言のまま猫に指を差して、少し頷いて見せた。彼女は少し眉間に皺を寄せてから俺の指の先を見て、そして慌てた様子で口を押さえる。
「えぇと、動物病院?」
俺を見てからそう呟く彼女を、俺は制した。
「……ちょっと、間に合わなかったかもな」
ぐぅ、と小さな声を出して、その猫の鼓動が止まった。
俺はその間もずっと猫を撫で続けた。
「……おやすみ」小さく呟く。
ふと周囲を見ると、辺りは真っ暗になっていた。
俺の横で猫を見つめて困った顔をしている少女が乗ってきた軽トラのライトが付きっ放しでなければ、こんな小さな黒猫は見落としてしまうだろう。ここは街灯もない。恐らく車に撥ねられたのだと思う。
「……飼い猫かな、可哀想に」彼女は少し泣きそうな顔で、搾り出すように呟く。
「首輪はしてないみたいだから野良だと思う。……お墓、作ってあげないとな」
俺は片手でその子猫を抱えたまま立ち上がり、コートの尻の辺りの雪と泥を落とす。立ち上がると目の前の少女は本当に小さくて、俺の胸よりもまだ低かった。
「車にスコップあるから、私持ってくる」
そう言うと少女は、車へと走っていく。
道の脇に生えていた、桜の樹の下に猫を埋めた。去年はあまり元気が無かった、まだ若い樹だった。車のライトで照らされながらの作業だったので、時々樹の根にぶつけてしまい若干手が痛い。端から見ればそれは怪しい光景だったかと思われる。
「ありがとう、助かったよ」
俺がそう告げると、彼女は微笑んだ。スコップを渡して、俺は再び家路へと歩き出す。
コートはよく見えないが、クリーニングに出さねばいけない事態に陥っていると思う。明日持って行こう。春は近い。
そうして、色々と考えを巡らせながら俺は家へと帰ったのであった。
「……あの年の娘が軽トラ運転してた?」
靴を脱ぐ時、唐突にそれが不思議な出来事だった事に気付く。まだ雪が解け切らない、春の夕方の事だった。
◇二日目
去年の春先に就職をして、俺は新しい町での生活を始めて一年になった。
人口が3万人に満たない小さな市の、さらに小さな町に住処を定めて家と職場の往復だ。趣味らしい趣味が中々出来ずに毎日に忙殺されていた。
学生時代はスポーツもそこそこ楽しんでいた筈なのに、職場スタッフの平均年齢は高く、自然とそういった活動が激減していった。人間、忙しくなり過ぎると心が色を失っていくものだ。
先日の猫の出来事が鮮烈に思い出される。仕事の手を止めて、ふと窓を見た。春先だと言うのに、小さな雪が舞い降りている。俺はそれを横目で見たまま、キーボードを打つ作業に戻った。
就業時間を終えて、俺は薄手のジャケットのポケットに手を突っ込んで縮こまった。昼にコートをクリーニングに出してしまった事を痛烈に後悔している。5時間前の自分をボコボコにしてやりたい気持ちでいっぱいになった。
先日、猫を見つけた小径を歩く。すぐ近くの桜の樹、猫を埋めた場所に目をやると、そこには真新しい猫の餌用の皿に満たされた牛乳があった。
「……昨日の」
俺は呟く。恐らく彼女が残していったものだろう。
暫くしゃがみ込んでいたら、後ろから車の音が近付いてきた。例の軽トラだった。
「昨日はお疲れ様。寒いでしょ、乗ってく?」
パワーウィンドウを開け、白い息を吐きながら昨日の彼女が笑顔で言う。
「……失礼ですけど、おいくつですか?」
俺は唐突に、本当に失礼な質問をぶつける。
「免許はあるわよ、とりたてだけど」彼女は怒る様子もなくそう返す。18歳以上である事が確定した。
「あのコートは着て来られないよね、って思ってたんだ」
ハンドルを握る彼女が言う。俺はお言葉に甘えて助手席へと座っていた。
「ここは通勤路? いっつも通ってるよね」
矢継ぎ早に彼女が話す。何故それを知っているのだろうか。
よく見るとその車はマニュアル車で、彼女は会話をしながら器用にギアチェンジを行っている。すっかりオートマ車になれた俺はその芸当が今でも可能かわからない。
「免許とりたてにしては、手付きが随分慣れてるね」
俺が呟くと、彼女はこう返した。
「もう何年も乗ってるからね」
「……犯罪者がいる」
「自分の家の敷地内はセーフよ。ここら一帯は全部うちの土地だからね」
そう、笑いながら話す。大地主さん、若しくはそのご家族親戚縁者である事が確定した。
「……あれ、ってことは」
「そ、犯罪者はそっちね。毎日通勤に使ってるみたいだけど、不法侵入よ」
「……知らなかったって言ったら、許してくれる?」
「そっちの態度次第よ」
彼女はニヤリと笑う。完全に会話の主導権を握られているようだった。
俺のように当たり前のように彼女の親が所有する土地を移動する人は多い。
昨日の猫も、そういった人に轢かれてしまったのだろう、と彼女は話す。
「ああー、去年出来たアパートだよね、ここ」
俺は彼女の運転する軽トラで、家の前まで送って貰っていた。
「悪かったね、こんな所まで」
俺が言うと、彼女はニコニコしながら言う。
「ここもね、私の父が経営してるアパートだよ」
へえ、そうなのか、と改めてアパートの外観を見る。その名も『パークサイド権藤』。すごい名前だな、と常々思っていた。
「ありがとう、権藤さん」
「色々と洞察力が凄いわよね……ちょっと苗字がゴツイでしょ? 名前で呼んでよ」
「分かった。名前は?」
「教えない」
俺が固まっていると、彼女はニコニコしながら手を振って、軽トラで行ってしまった。去り際に、「あの道は通っても良いからね!」とだけ言い残して。
多分年下であろう彼女に、色々とおちょくられているのだけは良く分かった、そんな一日だった。
その夜、黒猫の夢を見た。
真新しいプラスチック製の赤い餌皿から、ミルクを飲んでいる小さな黒猫。
見ていた俺の足元に擦り寄って、そして消えた。
朝起きたら、何故か泣いていた。
◇三日目
土曜日の朝だった。仕事は休みだ。
何故か早起きしてしまったようだ。目の端が濡れていた。夢を見たようだが思い出せない。
だが、頭の芯は冴えていて、俺はカーテンを開けて外を見る。
そこに、彼女が立っていた。
「おはよう」
俺は寝癖も直さないまま、立っていた彼女に声をかける。
「おはよう。ちょっと、着替えてから出てきなさいよ」
そんな言葉を受けながら、新聞と牛乳をドアの横から取る。今時のアパートなのにドアに郵便受けが無いのは不便だ、と大家の娘である所の彼女に言うと、苦笑いをしていた。
「ね、私の名前、わかった?」
唐突にそう切り出す彼女。名前は分からないが変な娘である事だけは分かる。
「取り敢えず、寒いから入る?」
俺がそう告げると、彼女は二回程頷いた。
今日はあの軽トラで来たのでは無いらしい。見ると早朝の寒い時間にも関わらず、素敵な生足を披露するミニスカートだ。座り方次第で俺の目の前に花畑が広がる事になる。
何故か最近ハマっているチャイティー・ラテを振舞ってから、俺は切り出した。
「で、どうしたのこんな朝っぱらから」
「いや、何だか好きになっちゃったみたいで」
「……ん?」
彼女の話はこうだ。いつも自分の家の敷地内を歩いている人が居て、顔をよく覚えていた。ある日、その人が優しい人だったと気付いた。それが二日前。そして昨日会って確信した。なんだこの人だったのか、と。
「……ダメだ、理解出来ん」
俺が言うと、彼女は笑いながら言う。
「直感を信じられるって、大事だと思うよ」
何だか尤もな事を言った後、彼女は続ける。
「この田舎町じゃない? このまま行けば見合いさせられてこの広大な資産を見ず知らずの人に渡されて終わっちゃうのよ。だったらせめて自分の選んだ人とやっていきたいじゃない?」
「え、もうそこまで考えちゃってるの? 俺の意思は?」
「無いわ」
「無いんだ……」
ニャーン
ふと、あの黒猫を思い出した。そうだ、夢の中でそんな鳴き声だったっけ。実際聞いたこと無いけど。
「えーと、何さんだっけ?」
「あ、そうか、まだ教えていなかったっけ。私の名前はね――」
あの樹が、彼女が生まれたその日に植えられた物で、もう樹齢20年になるという話を聞くことになったのは、それから随分後だった。看取った俺に、ちょっとしたサービスをしてくれたのだろうか、あの黒猫は。
俺と彼女――さくらとのお話は唐突に始まり、そしてその春、その桜の樹は見事な花を咲かせたのだった。日々に忙殺され、失った色が戻っていく。もちろんピンク色に。
「実はね、貴方と会った次の日の夜にね、あの猫ちゃんの夢を見たのよ」
「……夢?」
「うん。すごく立派に咲いたこの樹の根元に猫ちゃんが居てね、その猫ちゃんの見上げた先に貴方が立ってたのよ」
「偶然かな?」
「わかんない」
手を繋ぎ、その桜を見上げる。どこかで猫が鳴いたような気がした。
おわり
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