ミルキィホームズの冒険 仮面だらけの古都 第一章01
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第一章

 

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 柔らかな陽射しが注ぐ中、遠くから金属を叩くかのような仰々しい音が響いている。

 シャーロック・シェリンフォードは、森の遙か先から覗くライトグリーンの鉄板を見上げた。鉄板は幾つも横に並べられ、建築中の校舎を箱のように囲っている。

 ヨコハマ大樹海の麓に佇むホームズ探偵学園は、数ヶ月前にアルセーヌによって粉々に破壊され、戦闘機からの爆撃を受けたかのような更地と化していたが、目下再建中であった。

 シャーロック達が漠然と進めていた学院再建も、長らく音信不通であった生徒会長、アンリエット・ミスティールが戻ってきてからは具体的に進められ、四月からの再開を目処に急ピッチで工事が進められている。

 アンリエットの推薦状を手に世界各地の探偵学院へ散っていった生徒達も、彼女がヨコハマに戻ってきたことや学院が再建されるという話を聞いて、徐々に戻り始めていた。しかし、現在の仮教室がプレハブ小屋で、未だ寝泊まりする場所も不十分ということから、大半の生徒達は四月からの再開までは転入先で過ごすという方法を選択している。

 それでも一部の生徒達は、外国の水や食生活が合わなかったという切羽詰まった事情や「アンリエットさんがいるから」といった私情で、ヨコハマ市内に部屋を借りて仮教室に通っていた。現在プレハブ製の仮教室で学んでいる生徒は十五名程で、ほぼシャーロック達の元クラスメイトで占められている。

 仮教室のあるプレハブ小屋は、かつてミルキィホームズ達が作っていた農場跡に建てられていた。洗面所と三部屋で構成され、一つは教室、もう一つはアンリエットの執務室となっている。

 教室の背後にある執務室の壁は透明で、シャーロック達の授業風景がアンリエットから丸見えになっていた。これは執務中も授業の様子が確認できるようアンリエットが希望した為だったが、逆にいえばアンリエットが執務をこなしている様子がシャーロック達にも丸見えで、学院の為に賢明に働いているアンリエットの姿は、彼女たちを奮起させる結果となった。

 それでもミルキィホームズ達のトイズは未だ戻ってくる気配もなく、成績はダメダメなままである。だが、探偵として必要な技術や知識、心構えをごく緩やかに身に付けつつあった。

 アンリエットの執務室の隣には調理室で、コックである石流漱石が生徒たちに提供する食事を作る場となっている。ただし食堂はないので、食べる場所は教室を代用していた。持ち運びのしやすさや節水から、昼食は弁当のように折箱へ詰められるので、天気の良い日は外に持ち出して食べる生徒が多い。

 シャロ達も他のクラスメイト達のように教室から出て、樹海の入り口にある池の畔に四人が座れるサイズのビニールシートを敷き、昼食の入った折箱を広げていた。

 今日の昼食には、卵とレタス、チーズを挟んだサンドイッチとカツサンドが一口サイズに詰められ、ポテトサラダにミニトマトが添えられていた。そしてデザートとして、リンゴを兎形に切ったものが二切れ入っている。

 シャロは顔を上げると、小さな口でカツサンドをかじった。

 見上げる空は青く、薄く伸びた雲がゆっくりと流れている。

 最初はシャーロック達ミルキィホームズしか居なかった学院跡も、アンリエットが戻ってきてからは根津次郎やブー太、阿部たち元クラスメイトが続々と戻ってきて、さらに教員の二十里海と用務員兼コックの石流漱石まで戻ってきた。それどころか校舎の建築工事も始まって、来月頭には完成する見込みになっている。

 目標として描いていた学院生活が戻りつつあることを実感し、シャーロックは満面の笑みをこぼした。

「シャロ、どうしたのさ?そんなニヤニヤして」

 隣のネロが、サンドイッチを口に運びながら小首を傾げている。

「いえ、学院がもうすぐ元通りになるなーと思って」

 にぱっと笑みを浮かべるシャロに、コーデリアも小さく頷いた。

「そうね、大分工事も進んできたわよねぇ」

「長い……道のりでした……」

 ネロの隣に座ったエリーは、遠くに見える建設現場を感慨深げに見上げている。

「でも学院が元に戻ってもさ、ボク達ってやっぱり屋根裏部屋になるのかな?」

 サンドイッチ両手に持って頬張りながら、ネロは建設中の学院を見上げた。アンリエットの説明によると、校舎も寄宿舎も、以前と寸分違わず再建するという。

「当たり前だろ、お前等トイズないんだから」

 彼女たちの後方で、ブー太や安部と一緒になって腰を下ろしていた根津次郎が、ネロの言葉に茶々を入れた。

「食事が俺たちと同じに戻っただけでも感謝しろよー?」

「なんだよ、根津の癖にえらそーにッ」

 ネロがむっと頬を膨らませる。そして手にしたサンドイッチを口に押し込み、空になった自分の折箱を脇に退けると、根津に向かって徐々に膝を近づけた。

「な、なんだよ……?」

 徐々ににじり寄ってくるネロに根津が怯むと、ネロは唇を大きく持ち上げた。

「お前のサンドイッチをよこせー!」

「ちょ、ふざけんな!」

 根津は弁当を両手で頭上に持ち上げると、膝を立ててつかみかかってくるネロから後ずさった。

「お前、他人の弁当まで奪う気かよ!」

「あれっぽっちじゃカロリー足りないよー!」

「ならラードでも舐めてろ!」

「やなこった!」

 喧々囂々と言い合う二人に、エリーはおろおろと狼狽えている。

「ラードに失礼な話だブゥ」

 根津の隣に腰を下ろしていたブー太は、ラードの入った容器を吸いながら、呆れた表情で二人を眺めている。

「毎日飽きもせずによくやるわよねぇ……」

 コーデリアは小さく溜息を吐くと、フォークでポテトサラダを口に運んでいる。

「でも、ネロも根津君も楽しそうですー」

「べ、別に楽しくなんかねーし!」

「そうだよ、シャロ!」

 暢気に笑うシャロに、二人が同時に反論した。

「息……ぴったり……」

 そう呟いて、エリーはフォークに刺した林檎をかじった。ブー太の横に腰を下ろした安部は我関せずといった風情で食事を続け、エリーの後方でネロと根津のやりとりを眺めていた眼帯のクラスメイトは、横にいるツインテールのクラスメイトと一緒になって小さな笑みをこぼしている。

 さらに口喧嘩を続けるネロと根津に、昼食を済ませた二十里海が割って入った。

「きぃぃぃみ達は静かにランチすることも出来ないのかぁぁぁいッ?」

 叫びながらおもむろにジャケットを脱ぎ、上半身を晒していく。そして根津とネロの襟首を掴むと、バレエのようにくるくると片足で回転し、二人を振り回した。

「ちょっ、なんで俺まで!」

「横暴だぁっ!」

「シャラーップっ!」

 目を回しながら口答えする二人を、二十里は地べたに放り出した。

「美しい僕を見ろぉぉぉぉッ」

 いつもの口上と共に上半身を反らせ、蒼い瞳を根津とネロへ向けた。

「ムチ・オブ・ラーブ?」

 目を細めると同時に伸び始めた二十里の乳首に、根津は顔をひきつらせた。

「……す、すみませんでした」

「……ゴメンナサイ」

 神妙になった根津につられるように、ネロも唇を尖らせて謝罪する。

「何ですか、騒々しい」

「あ、アンリエットさん!」

 シャロが振り返ると、石流漱石を伴ったアンリエットが立っていた。アンリエットは制服姿だが、石流はコック姿で片手に盆を持っている。盆の上にはシャロ達と同じ折箱だけでなく、ティーカップとティーポッドが載っていた。

 石流は左手に乗せたシートを片手で器用に広げると、それをシャロ達の傍らに敷いた。そして手にした盆をシートの上に載せ、瞬く間にアンリエットの席を作り上げる。

 アンリエットは靴を脱いでシートに上がると、盆の前に腰を下ろした。正座した状態から足をずらし、楽な姿勢を取る。

 その間に石流は、盆の上のティーポットを手に取り、カップに紅茶を注いだ。並々と注がれていくのにつれ、シャロ達の元にもイチゴの甘い香りがふわりと漂ってくる。

「会長、今日はストロベリーティーですか?」

 瞳を輝かせるコーデリアに、アンリエットは小さく頷いた。

「ええ。暖かくなってきましたから、春っぽいブレンドにして貰いました」

 口元を緩めてソーサーを手に取り、カップを口元へと運んだ。暫し香りを楽しみ、唇をつける。

 そしてカップをソーサーの上に戻すと、二十里の前で地べたに正座させられているネロと根津へ顔を向けた。

「譲崎ネロ。足りないというのであれば私のを少し分けてあげますよ」

「えー、会長から貰うのは悪いから、別にいいよ」

 珍しく遠慮するネロに、アンリエットは少しだけ目を丸くした。

「根津さんからはいいんですか?」

「もちろん!」

「なんでだよ?!」

 横暴だと騒ぐ根津に、ネロはあかんべを返している。

 二人のやりとりに苦笑を浮かべると、アンリエットは再びカップに口を付けた。そして盆の上にソーサーを戻し、背筋を伸ばした。

「皆さんにお知らせがあります」

 少しだけ声を張り上げ、周囲に腰を下ろした生徒たちを見回す。皆の視線が自分に集まったのを確認すると、アンリエットは唇を開いた。

「工事の関係で、来週の木曜から日曜まで、仮教室と仮宿舎の電気と水が止まるとのことです」

「って、なんでですかー?!」

 アンリエットの報告に、シャロは両手を頬にあてて悲鳴をあげた。他の生徒たちも皆、一様に目を丸くしている。

「教室だけならともかく、仮宿舎までだなんて困ります……!」

 コーデリアは自分の折箱を押さえながら、あわあわと狼狽えた。

 仮宿舎は、仮教室から池を挟んだ反対側に建設されており、ミルキィホームズたちが住む棟とアンリエット専用の棟、教員と男子生徒用の棟の三つが建っている。ミルキィホームズ達の住むプレハブ製の小屋は、屋根裏部屋のようにバストイレ以外は大部屋一つとなっていたが、教員と男子生徒用の仮宿舎は個室になっていた。こちらで寝泊まりしているのは、二十里と石流、根津にブー太である。

「根津や会長は市内のホテルに避難すればいいけどさ、ボクたちそんなお金ないし」

「随分急だブー?」

「その間、授業はどうなるんですか?」

 戸惑いの声をあげる生徒たちに、アンリエットは微笑を浮かべた。

「ええ。ですのでその間、仮教室で勉強してきた皆さんに労いの意味も込めて、古都キョウトで研修旅行を行いたいと思います」

「研修……旅行?」

 アンリエットの宣言に、シャロはエリー、コーデリアと顔を見合わせた。ネロは根津やブー太達と顔を見合わせ、二十里は僅かに首を傾げている。

「古都キョウトは、かつてこの国の首都でした。ですので偵都ヨコハマ以上に古い建築物や国宝があります。そういった場所を見学して見聞を広げながら、これまでの授業で培った技術や知識を用いる実技訓練を行います」

「つまり、ヨコハマ以外での実地訓練ということですか?」

 コーデリアが小首を傾げると、アンリエットは小さく頷いた。

「実はキョウトは、他の都市と比べて一風変わった事情があるのですが……皆さんは、古都キョウトがどういう街かご存じですか?」

「はい、会長」

 生徒達を見渡すアンリエットに、制服を狩衣のように改造させた安部が真っ直ぐに右手を挙げた。

「確か貴方はキョウト出身でしたね」

 アンリエットが微笑を返すと、安部は頷いて立ち上がった。

「はい。偵都ヨコハマなど大抵の街は、探偵が怪盗から街や宝などを護っています。しかしキョウトでは、探偵や警察だけでなく、怪盗が怪盗から護っている街です」

「え?」

「どういう……意味……?」

 安部の言葉に、ネロとエリーは目を瞬かせた。

「怪盗が怪盗から街を護るって、意味が分からねぇよ」

 根津も足を崩して胡座を組み、訝しげな眼差しを安部に向けている。

「うむ。まぁ、皆の反応も最もだと思う」

 安部は咳払いしていつもの砕けた口調に戻ると、大きく頷いた。

「大探偵時代になる遙か昔から、捨陰天狗党という怪盗一味が古都キョウトを縄張りにしていているのだ。党首は代々、石川五右衛門と名乗っている」

「石川五右衛門って……確か釜茹でにされたっていう?」

 ネロの言葉に、安部は頷いた。

「うむ。戦国時代末期、京を支配していた天下人・秀吉のやり方に反発し、処刑されたのが当時の党首だと言われている」

「へぇ、そんな昔からいる怪盗なんですか?」

 安部の説明に、シャロは大きな瞳をさらに大きくした。

「でも、その石川五右衛門という怪盗が捨陰天狗党という組織を率いているということは、怪盗帝国よりも先に組織化された怪盗チームってこと?」

 それなのに聞いたことがないと首を傾げるコーデリアに、安部は頭をかいた。

「うーん、そこなんだが、怪盗帝国とはちょっと違うというか……」

 丸い眉を大きく寄せ、両腕を組む。

「怪盗帝国は、元々バラバラで活動していた怪盗が、アルセーヌをリーダーとしてチームになったものだろう?逆に捨陰天狗党は、皆が皆、トイズを持っているわけじゃないんだ。私も一度だけ間近に目撃した事があるが、党員は皆カラス天狗のお面を被って忍者みたいな格好をしている。だからキョウトを裏から護る忍の団体みたいなもの、といった方が近いと思う」

「へぇ、忍ってニンジャの事ですよね?」

 安部の言葉に、シャロは目を輝かせた。

「キョウトに行ったら本物のニンジャに会えるんですか?楽しみですー!」

「怪盗帝国の連中もニンジャと大差ないと思うけどねー」

 のんきに笑うシャロに、ネロは頭の後ろで両腕を組むと、小さく溜め息を吐いた。

「ラッチョンマットとかストーンリバーとか、動きがすばしっこくてニンジャっぽいじゃん」

「確かに……」

 そう言葉を交わすネロとエリーに「ラットだ、ラット!」と突っ込みたい衝動を呑み込みながら、根津は傍らに腰を下ろしている二十里へ目を向けた。

 二十里は興味深げな表情で顎に手をやり、説明を続けている安部の顔を見上げている。その眼差しは生徒を見守る教師そのもので、根津は眉を寄せた。

「……センセーも知ってたの?」

「まぁね」

 根津が声を潜めて尋ねると、二十里はウィンクを返した。

「活動範囲の広い怪盗の間では、キョウトだけは避けろって有名らしいヨ?」

 まるで誰かから聞いたかのように囁きながら、二十里は石流へと視線を向けた。根津も石流へ目を向けると、彼はいつもの無表情のまま、アンリエットの背後で片膝をついた格好で控えている。自分だけが知らなかったという事実に、根津は唇を尖らせた。

「だから捨陰天狗党と警察だけでなく探偵とも協力関係にあって、キョウトで盗みに成功した怪盗はほぼゼロだそうです」

 安部はアンリエットへと向き直ると、再び口調を改めた。だがその解説に、コーデリアが再び怪訝な眼差しを向けた。

「でもそれじゃぁ、怪盗じゃなくて探偵じゃないの?」

 その疑問に答えるように、今度は眼帯にジャージ姿のクラスメイトが片手を小さく挙げた。

「捨陰天狗党はキョウトでは正義の味方でも、ニューオオサカなど他の都市では普通に怪盗として活動していたかと思います」

「確か、貴方もあの辺りの出身でしたね」

「はい、伊賀です」

 アンリエットが促すと眼帯の少女は手を下ろし、座ったまま言葉を続けた。

「ただ、彼らの怪盗行為の大半は、他の怪盗の手で流出した仏像や古文書をコレクターから元の寺社に戻す為だったり、悪名名高い資産家や政治家から、事件の証拠となるような物を盗んだりするといったものばかりだったと思います」

「ははっ、義賊って奴かぁ?」

 ラットが皮肉混じりの茶々を入れると、ネロが首を傾げた。

「なにそれ?喰えるの?」

「あー、もう。……説明めんどくせぇな」

 根津は肩をすくめると、眉を寄せた。

「簡単に言えば、困ってる人の為に盗む良い泥棒ってことだよ」

「何だよそれ、泥棒は悪い奴なのに矛盾しまくりじゃん」

 根津の説明に、ネロは眉を寄せて唇を尖らせている。

「要するに……怪盗でもあり、探偵でもあるってことでしょうか……?」

 エリーは顎に手をやり、考え込むように目を伏せた。

「確かにトイズの定義からすると、自分の為ではなく他人の為に使っているから探偵っぽいわよね。でも行動的には法律に反しているから、怪盗ってことになるのかしら?」

 なんだか曖昧ねぇと、コーデリアは頬に手を当てた。

「かなり変わってますよね」

 シャロも二人の言葉に頷いている。

「だから石川五右衛門には、IDO(国際探偵機構)の幹部という噂も出ているのさ」

 補足するように、二十里が微笑を浮かべた。そしてゆっくりと立ち上がると、声を荒らげた。

「でもコウモリみたいな立ち位置で美しくなぁぁぁいッ!」

 再びジャケットを脱ぎ捨て、上半身裸となる。

 自分を見せつけるようなポーズを取る二十里を華麗にスルーし、アンリエットは生徒たちへと微笑を向けた。

「そういう特殊な街ですが、未来の探偵の為にと、キョウト市長がこの研修旅行にご協力下さるとのことです」

 そう言葉を続けるアンリエットの傍らで、ガチャンと陶器が割れた音が響いた。シャロが音のした方へ目を向けると、彼女の傍らで紅茶を注ごうとした石流が手を滑らし、手にしたティーカップをソーサーごと地面に落としている。

 幸いにも土の上だったので、シートに腰を下ろしたアンリエットにその飛沫はかかっていなかった。だが、石流は硬直したように、割れたティーカップとソーサーの上に紅茶を注ぎ続けている。

 ネロは、近くにあったアンリエットの盆を慌てて持ち上げた。

「何してるんだよ、石流さん!」

 こぼれた紅茶は地面に吸われてはいるものの、薄い湯気を立てながら周囲に広がっている。アンリエットの下に敷かれたシートにも届きそうになり、根津は慌ててアンリエットに駆け寄り、その手を引いた。一方で二十里がアンリエットの靴を手に取り、素早く差し出す。根津に引かれるまま立ち上がったアンリエットは、靴に足を入れてシートの上から退いた。

 シャロとコーデリアは折箱をエリーに押しつけると、シートを両手で引っ張った。すぐに位置をずらしたおかげで、シートの端が僅かに濡れただけで済んでいる。

 アンリエットは、石流の失態に両目をしばたかせた。

「おい、アンリエット様に掛かったらどうするんだよ!」

「あ、あぁ、すまない」

 咎めるネロと根津の声でようやく我に返ったのか、石流は傾けたままだったポットを慌てて戻した。流れ落ちた紅茶は、紅い水たまりとなって乾いた土の上で暫し揺れていたが、ゆっくりと地面に吸い込まれていく。

「大丈夫ですか?」

 気遣うアンリエットに、石流は顔を伏せた。

「申し訳ありません、アンリエット様」

「いえ、私よりも貴方の方が……」

 アンリエットは、視線を落とした。石流の白いコック服には、地面に接したエプロンの裾と膝部分から薄紅色の染みが広がっている。

「熱くありませんか?先に着替えた方が」

「いえ、大丈夫です」

 石流は短く答えると、ネロから盆だけを受け取り、地面に置いた。その上にポットを載せ、その脇に拾い集めた破片を寄せた。そしてアンリエットが座っていたシートも、破片が落ちているかもしれないからと、小さく折り畳んで回収した。

「すぐに取り替えて参ります」

 強ばった顔でそう告げると、石流はシートと盆を持って立ち上がった。そして足早に調理室の方へと去っていく。

 アンリエットは徐々に小さくなっていく石流の背を見送った。

「はい、会長のお弁当」

 呼びかけるネロの声にアンリエットが振り返ると、ネロが折箱を両手で差し出している。

「有り難うございます」

 アンリエットは笑みを返すと、両手で受け取った。

「アンリエットさん、こちらへどうぞ」

 シャロはアンリエットの右手を両手で取ると、自分達の座るシートへと引っ張っていった。そしてエリーの方へ体を寄せて腰を下ろし、自分とコーデリアの間に空いたスペースを指し示す。

「遠慮しなくていいですよー」

「では、お邪魔しますね」

 屈託のない笑みを浮かべるシャロに、アンリエットははにかみながら再び靴を脱ぐと、シャロの隣に腰を下ろした。

「ったく、石流さんも何やってんだか」

 根津が眉を寄せて調理場へと目を向けると、コーデリアは頬に片手を当て、小さく首を傾げた。

「でも珍しいわよね、石流さんがあんなミスをするなんて」

「というか、初めて見ましたー」

「どうかしたんでしょうか……」

 腰を下ろしながら心配げな表情を浮かべるシャロとエリーに、アンリエットは目元を緩めた。

「そうそう、今回の研修旅行には石流さんにも教員として同行して貰います」

 アンリエットがそう告げると、数人の女生徒が顔を輝かせた。中には無言でガッツポーズを取る子もいる。

「え、なんでですか?」

 これまで、遠足や実技訓練など学院から離れる場合があっても、石流がそれらに同行したことはなかった。戻った生徒達の食事の準備や学院の整備があるというのが最大の理由だったが、目を丸くするシャロに、アンリエットは切れ長の瞳を二十里へと向けた。

「一クラス分とはいえ、引率の先生が二十里先生だけで大丈夫だと思いますか?」

 それに釣られるように、生徒達も二十里へと目を向ける。

「ふふっ、美しいボクがいればそれで充分じゃないか!」

 二十里は皆からの視線を受け止めると、その場にするりと立ち上がった。そして衣類を全て脱ぎ捨てて黒パンツ一枚の姿となり、恍惚とした表情でくるくると回り始める。

 生徒達は、深く息を吐き出した。

「デスヨネー」

「いつもの光景だから、すっかり忘れてました」

「キョウト警察に……捕まっちゃうかもしれません……」

 肩を落とす生徒達に、アンリエットは取り繕うように咳払いをした。

「貴方達が将来探偵として活動するのは、何もこのヨコハマだけとは限りません。向かう土地の情報をいち早く入手し、把握する必要も出てくるでしょう。これはその為の訓練です」

 そして生徒達をゆっくりと見渡した。

「ですので皆さん、急な話ですが準備を宜しくお願いしますね」

「はいですー!」

 シャロが片手を挙げて返事をすると、アンリエットは穏やかな笑みを湛えた。

 

 

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「小衣ちゃーん、シャロですよー」

「小衣ちゃんって言うなー!」

 明智小衣は腰に下げた黄金仮面を手に取ると、年上の少女の頭上へ容赦なく叩きつけた。

 カーンと乾いた音が室内に響く。

「はぅー、痛いですー」

 銭形次子は、小衣とシャロの恒例のやり取りに苦笑を浮かべると、椅子に座ったまま大きく伸びをした。正面の窓辺へと目を向けると、青く澄んでいたはずの空は茜色に染まり、紫色に変わりつつある。

 部屋の入り口で喚く小衣と彼女にじゃれつくシャロを尻目に、ネロは勝手知ったる他人の家とばかりに、部屋の中央に設置された来客用ソファーに腰掛けた。コーデリアは年長者らしくそれを咎め、エリーは大きな紙袋を両手に抱えたままオロオロと狼狽えている。

「騒々しいなぅ」

「まぁ、いつものことですよね」

 隣席の遠山咲が口にした棒付きキャンデーを舌先で転がすと、その横にいる長谷川平乃が苦笑を浮かべた。

 次子は大きく伸びをすると、部屋の入口でかたまる来客に笑みを向けた。

「立ちっぱなしも何だから、そこのソファーに座りなよ」

「すみません……」

 コーデリアは小さく頭を下げると、既に片足を組んで座っているネロの横に腰を下ろした。

「有り難うございます……」

 エリーは消え入りそうな声で礼を告げ、ネロの正面に陣取る。そして手にした紙袋を、ソファーの肘掛けに立てかけるようにして置いた。ヨコハマデパートのマークが入ったその紙袋からは、本屋でよく見かけるガイドマップのタイトルや、分厚そうな赤い表紙が覗いている。

「珍しく大荷物だねー?」

 咲がエリーの紙袋に目を向けると、エリーは恥ずかしそうに目を伏せた。

「その……図書館で、借りてきたんです……」

「へぇ、どんなの?」

 咲は机に両肘をつくと、無表情のまま首を傾げた。

「あの、キョウトの歴史とか……観光名所とか」

「あと美味しい物とかが載った本とかもね!」

 エリーの言葉に続けるように、ネロが弾んだ声をあげている。

「ネロ、貴方そんな本を借りてきたの?」

 咎めるようなコーデリアに、ネロは首を後ろで両手を組むと、ソファーに深く背を預けた。

「そういうコーデリアだって、花しか載ってないような本を借りてたじゃないか」

「そ、それはキョウトについて勉強する為であって、ちゃんと別の本だって借りてるんだし……っ」

 狼狽えるコーデリアに、ネロは唇を尖らせている。

「へぇ、キョウトに行くんだ?」

 次子が尋ねると、エリーの隣に腰を下ろしたシャロが満面の笑みを浮かべた。

「研修旅行なんですよー」

 その言葉に、自分の席に戻った小衣が僅かに眉を寄せた。

「……研修旅行って?」

「修学旅行みたいなもんかなぁ」

 次子が答えると、流しの前に移動した平乃が苦笑を浮かべて振り返った。

「修学旅行と研修旅行じゃ、大分違うと思いますよ」

 そして棚から茶筒を取り出しながら言葉を続けていく。

「修学旅行なら見て回るだけですが、研修旅行なら、途中で勉強会なり実技なりがあるんじゃないですか?」

「そうなんですよー!」

 背後にいる平乃の方へ上半身を捻っていたシャロは、彼女の解説に大きく頷いた。

「三日目に、キョウトの町中を動き回る実技訓練をするらしいんです」

「だからキョウトの地理や歴史について、ちゃんと調べておけって話になってさぁ」

 シャロの言葉にネロも相づちを打った。

「なるほどねぇ」

 次子が椅子に背を預けて両腕を組むと、日本茶の香ばしい香りが部屋に漂った。流しへ目を向けると、平乃が急須を両手で持って、盆の上に並べた湯呑みに茶を均等になるよう注いでいる。

「平乃、こいつらに茶なんて出す必要ないわよッ」

「まぁまぁ」

 不機嫌な面もちで声を荒らげる小衣を次子が軽く宥めていると、平乃は盆を両手で持って戻ってきた。まず小衣の席に寄って湯呑みを差し出し、次に次子、咲、自分の席に湯呑みを置いた。そして最後に中央のテーブルに盆を置き、ミルキィホームズ達へ渡していく。

 シャロ達は平乃に礼を告げると、湯呑みに口をつけた。

 小衣も湯呑みを手に取り、一口すする。香ばしい香りに眉間の皺を緩めたものの、デスクに湯呑みを置くと、再びシャロを睨みつけた。

「大体、何でそんなことをイチイチ報告しに来るのよ!」

「小衣ちゃんにお土産何が欲しいか聞こうと思って」

「だから小衣ちゃんって呼ぶなー!」

 そう叫ぶと同時に、小衣はシャロへと黄金の仮面を投げつけた。それは綺麗にシャロの顔面に命中し、床に落ちて転がっていく。シャロは顔面を両手で押さえながら、「痛いですぅ」と呻いた。

「でもキョウト土産といえば、おたべが定番ですよね」

 平乃は両目を細めて湯呑みを両手で持つと、口元へゆっくりと運んだ。

「おたべって何ですか?」

「喰えるの?」

 背後の平乃へと振り向いたコーデリアの横で、ソファーに身を乗り出したネロが尋ねた。

「ええ。餡を餅みたいな薄い皮ので包んだお菓子なんですよ。形がちょっとだけ餃子に似てますね」

 平乃が茶を啜ってから答えると、ネロが目を輝かせた。

「美味いの、それ?」

「餡無しの生おたべや、チョコ味やバナナ味の色々な餡のおたべもありますよ」

「へぇ!」

「どうせなら変わった味のおたべキボンヌ」

 目を爛々と輝かせるネロに、咲が口元の棒付きキャンディーをくわえたまま、茶を啜った。

「あと定番といえば、あぶらとり紙でしょうか」

「あ……それなら知っています……」

 平乃の説明に、エリーが小さく頷いた。

「元は、舞妓さんが使う化粧道具だったとか……」

「ええ。女の子なら誰でも使える消耗品ですし、かさばらなくて便利ですから、お土産には重宝されるみたいですよ」

 実体験が混じったようなしみじみとした口調に、エリーは真剣な眼差しを向けている。

 その様子を微笑ましく見守りながら、次子は手にした湯呑みに口を付け、再びデスク上に戻した。湯呑みに触れたまま、小さく揺れる浅黄色の水面を見つめる。

 警察学校時代、誰かがキョウト土産として買ってきたソーダ味おたべが微妙な味で、どれだけ微妙なのかと逆にクラスで評判になっていた事があった。確か長期休暇中にキョウトに里帰りした子が、それを土産と称して買ってきていたはずだ。

「そういや、キョウト警察に警察学校の同期がいたなぁ」

 次子は湯呑みに半分ほど残った煎茶を見つめながら、懐かしさに目を細めた。

「そうなんですか?」

「うん。警察学校はヨコハマにあるけど、私のいたクラスは全国から生徒が集まっていてさ」

 次子はシャロの言葉に頷くと、小さく笑った。

「その子が休み明けに、地元民だけどこれは許せないって言いながら、ソーダ味のおたべを持ってきたんだよ。確かにソーダの味なんだけど、スゲー変だった」

 その時の珍妙な味と、同意を求める彼女の神妙な表情を思い出し、次子は口元を緩めた。肩の上で髪を切り揃え、日本人形のような風貌をしたその同僚は雰囲気が少しだけ平乃に似ている気がして、次子は平乃の方へ顔を向けた。

「運転術や射撃は私の方が上だったけど、剣術や柔術などの接近戦は平乃並に強かったんだよなぁ」

「それはちょっと気になりますね」

 平乃は穏やかな表情を次子へと向けた。

「確かこの前貰った年賀状に、キョウト警察の怪盗事件担当になったってあったんだよなー」

「でもキョウトって、怪盗が警察に協力している街なんでしょう?」

「お、ミルキィホームズなのによく知ってるなぁ」

 コーデリアの言葉に、次子は笑みを返した。

「いやぁ、それほどでも」

「誉めてないよ、それ」

 照れ笑いを浮かべる四人に、咲は小さく肩をすくめている。

「キョウトの話はもう分かったから、アンタ達は美味しいお菓子でも買ってきたらいいでしょ!」

 談笑を打ち切るように、不機嫌な表情を浮かべたままの小衣が立ち上がった。そしてソファーに座ったままのミルキィホームズ達を、扉へとっどんどん追い立てていく。

「こっちはまだ仕事中なんだから、さっさと帰れー!」

 そして執務室から放り出すようにミルキィホームズ達を追い出すと、溜め息を吐くように肩を落とした。

「あんた達も、まだ勤務時間中なんだから無駄話してたら駄目じゃない!」

「へーい」

「サーセン」

「まぁまぁ、いいじゃないですか、たまには」

 眉間に皺を寄せる小衣に平乃は苦笑を返すと、席から立ち上がって部屋の中央にあるテーブルへと足を向けた。そしてそこに置きっぱなしになっていた盆の上に、ミルキィホームズ達が飲み干した湯呑みを並べ、流しへと持っていく。

 その様子を目で追いながら、小衣は小さく呟いた。

「次子たちも研修旅行とかってしたことあるの?」

 珍しく神妙な表情を浮かべる小衣に、次子は小さく頷いた。

「そりゃぁ、学校行事の定番だからなぁ」

「そう」

 そして自分のデスクに戻ると、小衣は真面目な表情に戻って事務仕事を再開した。書類に目を通し、ぺたぺたと判子を押していく。

「なぁ、もしかして」

 次子は、隣の咲へと声を潜めた。

「小衣って、修学旅行とかしたことない……?」

 咲はキーボードを叩きながら、囁くような小声で返した。

「飛び級だから、多分」

「そっか」

 悪いことしたなーと次子は頬をかいた。

 飛び級で海外の有名大学を優秀な成績で卒業し、その実績からG4としてヨコハマ警察に抜擢されたとはいえ、小衣はまだ十三歳の子供でしかない。いつもと違って大人しくミルキィホームズの話に耳を傾けていたのは、多少の興味もあったのだろう。

「よし、じゃぁ近いうちに、今度G4の皆で箱根辺りに一泊研修旅行にでも行くか!」

 次子が提案すると、小衣は両目を剥いて顔を上げた。

「な、何バカなこと言ってんのよ?!」

 大きく口を開き、呆れたような表情を浮かべている。

「怪盗事件担当のアタシ達が一度に休めるわけないでしょ!」

「でも最近は怪盗帝国も大人しめだしなぁ」

 次子に同調するように、平乃は自分の席に戻りながら口を開いた。

「それに、その怪盗帝国のおかげで他の怪盗も出てきませんから、一日くらいなら大丈夫かもしれませんね」

「そうそう、それに箱根なら何かあってもすぐ戻れるしねー」

 咲も小さく頷くと、キーボードを叩いた。

「確かヨコハマ警察の福利厚生施設として、露天風呂付きの旅館がそこそこ安く使えたはず」

 咲は、デスクトップのモニターを小衣の方へと動かした。そこには、ヨコハマ警察が使用できる厚生施設一覧が表示されている。

「小衣さんも頑張っていますからね」

「ごほーび、ごほーび」

 おだてるような平乃と次子の言葉に、小衣は恥ずかしそうに顔を伏せた。

「ま、まぁ、あんた達がどうしてもって言うなら、付き合ってあげなくもないわ!」

 僅かに頬を上気させて腕を組み、顔を背ける小衣に、咲は目元を僅かに緩め、次子と平乃は笑みを浮かべた。

「いつ頃がいいでしょうかねぇ」

「もう少し経ったら桜が綺麗じゃない?」

「昔統計を出してみたけど、怪盗帝国は水曜はあまり活動してないね」

「じゃぁ申請が取れそうな時期の水曜かなぁ」

 勝手に話を進めていく三人に、小衣は真顔に戻って大きく眉を寄せた。

「あんた達、はしゃぐのはいいけどちゃんと仕事しなさいよ!」

 声を荒らげながらも、僅かにその目元は緩んでいる。

「へーい」

「はーい」

「サーセン」

 年相応な表情を浮かべた年下の上司に、三人は顔を見合わせて笑い合うと、再び事務仕事に戻った。

 

 

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3

 

 

 窓の外から、梟の鳴き声が小さく響いた。

 アンリエットはデスクから離れて部屋の電灯を消すと、窓辺へと近付いた。ベージュの厚いカーテンを引くと、細い三日月が闇に沈んだ森を淡く照らしている。

 何か大事なことを忘れているような気がして、アンリエットは眉を寄せた。だが、自分が何を見落としているのかが分からない。

 彼女は深く息を吐くと、向かいにあるミルキィホームズ達の仮宿舎へと目をやった。消灯時間を過ぎているにも関わらず、カーテンの隙間から光りが漏れている。

 夕食時、図書館に行ってヨコハマ警察に寄ったとシャロは楽しそうに話していた。「キョウトについて予め勉強しておくように」と告げはしたが、彼女たちの話によると、どうやら自主的に図書館に行って、キョウトに関連して自主的に勉強し始めたらしい。

 といっても彼女たちのことだから、キョウトの美味しい店や土産の本かもしれないのだが。

 アンリエットは、口元を僅かに緩めた。

 これまでのダメダメ振りから考えると、自習をするようになっただけでもかなりの進歩といえるだろう。

 アンリエットは丁寧にカーテンを閉めると、部屋の電灯を再び点けた。そしてデスクへと戻り、肘付きの椅子に深く腰掛ける。

 デスクの上には、メールで添付された企画書をプリントアウトした紙が載せられていた。右上をクリップで綴じてはいるが、十枚程度の薄いものだ。

 アンリエットはその表紙に目を落とした。表紙には「研修旅行日程案」と縦書きで仰々しく記されている。筆の流れがそのまま現れていることから察するに、PCの書体ではなく、わざわざ筆と墨で書かれたもののように思えた。

 しかし、最近は筆の質感をそっくりそのまま再現できるソフトもある。わざわざ半紙に書いたものをPCでスキャンするよりも、そちらで作成したと考える方が自然だろう。何より、そこまでの手間をかける意味と必要性が感じられない。

 そんなとりとめのない事を考えていると、扉を軽く叩く音の後、畏まった石流漱石の低い声が室内に届いた。

「失礼します」

「どうぞ」

 促すと、扉を開けた石流を先頭に、二十里海、根津次郎が静かに入室してくる。

「お呼びでしょうか」

 根津が静かに扉を閉めると、石流が切り出した。

 デスクの前で横並びに佇む三人を見渡すと、アンリエットは小さく頷いた。

「ええ、今度の研修旅行の件です」

 そしてデスクの上に置いた書類に手を伸ばし、それを彼らに差し出した。ちょうど正面に立つ石流が一歩踏みだし、それを両手で受け取る。表紙へ視線を落とすと、ぎょっとしたように細い両目を見開いた。だがそれは一瞬の事で、再び無表情へと戻る。二十里と根津がそれぞれ石流の左右から書類を覗き込むと、彼は二人にも見やすいように書類を構えた。

「これは?」

 石流がゆっくりと表紙をめくると、次のページには研修旅行全体の流れが表記されていた。さらにその次へとめくっていくと、それぞれの日程ごとに、どこで食事を取るか等のタイムスケジュールが記されている。

「貴方達には先に詳細を知らせようと思いまして」

「もうこんなに決まってるんだ?」

 根津は目を丸くして、研修旅行のスケジュールをしげしげと眺めた。

 一日目の午前中は、新幹線でヨコハマからキョウトに移動、その中で早めの昼食と記されていた。そして駅からバスで三十三間堂へ移動し、正面にあるキョウト国立博物館と合わせて見学。その後バスで六波羅密寺へ移動、見学した後に徒歩で六道珍皇寺に寄って清水寺へ移動となっていた。それからさらに徒歩で八坂神社へ移動しつつ観光し、バスで南禅寺に移動、最後にキョウト市役所で市長の講話というスケジュールが記されている。

 二日目は嵐山からトロッコ電車に乗って川下りのボートでまた嵐山に戻り、そこからバスで大覚寺に移動となっていた。それから仁和寺、竜安寺、金閣寺という順で廻る計画になっている。

 一方、三日目は自由行動と記されて丸々白紙となっており、四日目は銀閣寺、二条城、東寺という順でバスで巡り、午後の新幹線で帰る予定になっていた。

「まだ本決まりというわけではありませんが」

 アンリエットは、キョウト市長から斡旋されたキョウトの旅行会社から提案された案なのだと説明した。

「やっぱり、殆どがテンプル巡りだねぇ」

 二十里は小さく唇を尖らせると、ひゅっと鳴らした。そして萌葱色のジャケットをはだけさせながら、顔を輝かせている。

「でもキョウトのテンプルはビューティフォー!な場所が多いらしいから、美しいこのボクにとてもよく栄えるだろうね!」

「ねぇねぇアンリエット様、ここにあるキョウト市長の講習って何?」

 根津が、一日目の日程表の最後に記された部分を指さした。

「キョウトの特殊な事情やその歴史について、市長自ら講義して下さるそうですよ」

 アンリエットが根津へ微笑を向けると、石流が眉を寄せた。

「何故、キョウト市長が?」

「探偵学園というものにご興味があるようです」

 IDOにより、ここ数年の間に探偵学院が世界各地で創立された。だがIDO主導の為、その数は極めて少ない。その中でも、偵都ヨコハマにあるホームズ探偵学院は日本で唯一の探偵学院であり、かつ世界で最初に創立された学院でもあった。故に偉大なる探偵・ホームズの名を冠しているのだが、探偵学院に興味を持つ自治体は多い。

「それでキョウト市長自ら、我々に直接会ってみたいとのことでした」

 アンリエットが説明すると、石流は眉間の皺をさらに深くした。

「それはミルキィホームズだけでなく、アンリエット様にも、ということでしょうか」

「そうなるでしょうね」

 アンリエットの返事に、石流は唇を堅く結んだ。暫し目を伏せ、再び口を開く。

「この研修旅行は、アンリエット様の発案なのですか?」

「いえ、ヨコハマ市長経由でキョウト市長からの申し出を受けた形になります」

 アンリエットは小さく頷き、言葉を続けた。

「ヨコハマ市長から当学院の状況を聞いて、是非にとの話でした」

 アンリエットが正面に佇むスリーカードを見渡すと、興味深げな眼差しを書類に向けている他の二人と異なり、彼だけが唇を真一文字に結んでいた。まるで仇敵に会ったかのように、手にした書類を睨みつけている。

「それが何か?」

「……いえ」

 アンリエットが尋ね返すと、石流は眉間に皺を寄せたまま言葉を濁した。

「どうです?他に何か気になる点はありますか?」

 アンリエットが石流を見上げると、彼は「そうですね」と僅かに眉を緩めた。

「二日目ですが、嵐山の川下りの後に大覚寺へバスで移動となっていますが、ここは徒歩で二尊院や清涼寺を見学し、清涼寺からバスに乗った方が、渋滞に巻き込まれずに移動しやすいかと思います」

 立て板に水ということわざの通り、彼はすらすらと言葉を続けた。

「それにその辺りは、風光明媚な場所で百人一首にも詠まれた土地ですから、勉学にも良いかと」

「君、キョウトの地理に随分詳しいね?」

 土地に明るくなければ、そこまで言及することは出来ない。追及するような二十里の眼差しに、石流は目を伏せた。

「行ったことあんの?」

 興味津々に尋ねる根津に、石流は「……少しばかり」と返している。

「それとあと一つ、気になった点が」

「何でしょう?」

 アンリエットが尋ねると、石流は顔を上げ、眉間の皺をさらに深くした。

「他の日程の密度に比べると、二日目は丸々一日あるにも関わらず、随分余裕を持たせています。これではまるで……」

「まるで?」

「この日の夕方に、何かを起こそうという意図を感じます」

 アンリエットは、「何かが起きる」のではなく「起こす」という言い回しを石流が使った事に、小さな違和感を覚えた。

「何か、とは?」

「……そこまでは」

「そうですか」

 石流は言葉短く答えると、再び目を伏せた。二十里は、石流の横顔に訝しげな視線を送っている。

「ところで、この三日目のフリー行動って何?」

 石流の様子におかまいなく、根津は日程表の中で唯一空白になっている部分を指さした。

「オプションです」

「オプション?」

「ええ。捨陰天狗党の全面協力で、生徒たちの実地訓練を行ってくれる事になっています。ですから、先に貴方達には説明しておこうと思いまして」

「危険すぎます!」

 アンリエットの言葉が終わるや否や、石流が目を剥いて

反対した。

「何故です?」

 怪盗アルセーヌにならともかく、ホームズ学院生徒会長のアンリエット・ミスティールに、彼らが危害を加える理由がない。それに万が一襲われたとしても、彼女には返り討ちどころか完璧に叩き潰す自信がある。

 アンリエットが自信に満ちた表情で柳眉を僅かに寄せると、二十里が口を挟んだ。

「もしかして君は、捨陰天狗党が何か企んでいると危惧してるのかい?」

 隣で身体をくねらせる二十里に、石流は肯定するように口を噤んだ。

「確かに、街の特殊な事情から鑑みても、キョウト市長と捨陰天狗党には、何らかのパイプがあると考える方が自然でしょうね」

 アンリエット自身も、彼同様に研修旅行を持ちかけられた事にきな臭さを感じてはいた。そもそも仮宿舎と仮校舎で電気と水が使えなくなる事自体、計画にない唐突なハプニングだったのだ。しかもそれに合わせるように、相手から研修旅行を持ちかけられた。

 つまり、こちらの状況を知っていたかのようにセッティングしてくれた状況となっている。

 あまりにも明け透けすぎて、潔い程だった。

「でもさ、実地訓練って具体的に何をするんだ?」

 根津が再び首を傾げると、アンリエットは微笑を浮かべた。

「当日まで私にも秘密だそうですよ」

 そして推論を口にする。

「おそらく、私を誘拐して生徒達に探させようとするのではないでしょうか」

「でしたら尚更……!」

 石流は大きく両目を見開くと、書類を手にしたままアンリエットのデスクに手を突き、身を乗り出した。

 ドン、と低い音が室内に響く。

「留守を預かる身としては、私は今回のキョウト行きには反対です!」

 その剣幕に、根津と二十里は目を丸くした。

 アンリエットは目をしばたかせ、せめてキョウト以外に変更した方がと進言する石流を見つめた。

「でも何か企みがあるのだとしたら、敢えてその誘いに乗るのも面白いではありませんか。それに……」

 アンリエットは口元に笑みを浮かべると、「貴方にはまだ伝えていませんでしたね」と言葉を続けた。

「二十里先生や根津さんだけでなく、貴方にも教員として同行して貰います」

 そう告げると、石流は、アルセーヌが学院を破壊しようとした時に見せた、絶望と驚愕が入り交じったような表情を浮かべた。しかしそれはほんの一瞬で、いつもの無表情へと戻る。

「……何故、ですか」

 身を乗り出したまま顔を伏せる石流に、アンリエットは僅かな違和感を受け、小さく眉を寄せた。絞り出すような声から察するに、彼は何かを危惧しているようだが、アンリエットにはそれが何かまでは分からない。

「何故とは?」

「それは……その……」

 彼にしては珍しく、歯切れが悪かった。デスクから手を離して数歩下がり、何事もなかったかのように再び直立した姿勢へと戻る。

「誰かに言われたとか、頼まれたわけではありませんよ」

 アンリエットは率直に事実を告げると、僅かに言い澱んだ。

「その……あの時のお詫びみたいなものです」

 「あの時」という言い回しに、根津は心当たりがなさげに大きな瞳を瞬かせた。二十里と石流は何を指しているのかすぐに把握したようで、石流は床へと視線を落とし、二十里は小さく肩をすくめている。

 ちゃんと彼らには謝らなければいけないと頭では分かっているものの、どう切り出せばいいのかアンリエットには分からなかった。今にして思えば、壊れたホームズ像前で再会した時に口にすれば良かったのだが、先にスリーカードに受け入れられたことによってうやむやになり、結局そのまま現在に至っている。

「あなた達も学院再建によく協力してくれていますし、それを労いたいというのもありますから」

 アンリエットは頬が僅かに上気するのを感じながら、小さく咳払いをした。

「あぁん、アンリエット様!そのお心遣いだけでビューティホー!」

 二十里はジャケットを脱ぎ捨てると両手を大きく広げ、その場でくるくると回った。一方で根津は、アンリエットの言葉を額面通りに受け取り、照れたような笑みを浮かべている。

「俺、キョウト初めてだからちょっと楽しみー」

 はしゃぐ二人とは対照的に、石流は帽子のつばに手をかけ、目元を隠した。

「申し訳ありませんが、私は同行できません」

 まさか断られると思わず、アンリエットは目をしばたかせた。二十里と根津もぎょっとした表情を浮かべ、石流の横顔を食い入るように見つめている。

「お前、さっきまでアンリエット様が心配だって言っていたじゃねーか!」

 目を剥いて反論する根津に、石流は僅かに視線を揺らした。

「君にしては珍しいね。何で嫌がるんだい?」

 二十里は怪訝そうに眉を寄せ、石流の顔を覗き込んでいる。露骨に彼から視線を反らせる石流に、根津は小さく舌打ちした。

「お前、昼の時といい、何かおかしくねぇ?」

 根津の指摘に、石流は押し黙った。だが、意を決したように彼は顔を上げると、アンリエットへと向き直った。

「……その、キョウトには少々因縁がありまして」

「もしかして、昔何かヘマでもしたのかい?」

 敢えて軽口を叩くように尋ねる二十里に、石流は曖昧に言葉を濁した。

 彼は怪盗帝国に入るまでは、アジアを中心に活動していた。だからその頃にキョウトで何かあったとしても不思議ではない。だが、彼の怪盗名を単純に漢字で表すと「石川」となる。アンリエットにはそれが偶然の一致とはとても思えなかった。

「へぇ、もしかして捨陰天狗党に見つかるとヤバいの?」

「……そういうわけではないが」

 からかう口調の根津に、石流は自信なさげに眉を寄せている。

 おそらく彼は何かを隠しているのだろう。だがそれが何なのか、自分から明かすまでは問い糺すつもりはない。

 アンリエットは椅子から腰を上げると、両腕を組んだ。

「何か起きるのだとしたら、貴方がヨコハマに残ったとしても同じではありませんか?」

 そして真っ直ぐに石流を見据えた。目が合うと、彼は戸惑ったような眼差しで彼女の視線を受け止めている。

「それに、万が一私に何かあったとしたら、貴方はヨコハマからでもすぐに駆けつけてくれるのでしょう?」

「勿論です!」

 強く断言すると共に覇気に満ちた眼差しを返す彼に、アンリエットは目元を緩めた。

「でしたら、最初から私達と一緒にいればいいじゃありませんか」

 アンリエットはそう結論づけ、微笑を浮かべた。

「それにもし何かあっても、貴方達が守ってくださるのでしょう?」

 アンリエットが正面に佇む三人を見渡すと、彼らは互いに顔を見合わせ、小さく頷いた。

「オフコース!」

「勿論だぜ、アンリエット様!」

「期待してますよ」

「はっ」

 アンリエットの穏やかな言葉に、石流は頭を垂れている。

 話がひと段落ついたところで、アンリエットは二十里へと顔を向けた。

「二十里先生、これからの授業で毎日一時間程、キョウトの歴史や見学予定の寺社について取り上げて下さい」

「イエース!」

 次に根津へと目を向ける。

「根津さん、この三日目の実地訓練は抜き打ちで行いますので、ミルキィホームズ達を含め、他の生徒達には内密にお願いします」

「はーい」

 そして最後に、正面に立つ石流と向かい合った。

「石流さんはキョウトに詳しそうですから、私の代わりにその日程表の見直しと修正案の作成をお願いします」

「はっ」

「話は以上です。では皆さん、宜しくお願いします」

 アンリエットがそう締めくくると、三人は恭しく一礼して退出した。

 再び室内に静寂が訪れる。

 今回の研修旅行に、相手の思惑を感じないわけではなかった。むしろ自分の身が危険に晒される事で、ミルキィホームズ達のトイズが戻るかもしれないという期待の方が大きい。

 だが、一抹の不安を感じないではいられなかった。何か忘れているような気がするのに、それが何なのか思い出せない。忘れた何かはとても重要な要素のような気がして、アンリエットは目を閉じ、思考の海へと飛び込んだ。

 だが、手掛かりは何も見つからない。

 アンリエットは目を開けて小さく息を吐き出すと、浴室へと足を向けた。

 

 

 

続き→http://www.tinami.com/view/500011

 

説明
というわけで、ここから本編。しかしここまで書き上げるのに4週間とか……。

<ご注意>▼アニメ二期最終回直後の設定です。▼本編で描写されてないのをいいことに京都の設定を捏造しました。▼一部キャラの過去を捏造しました▼京都方面でオリジナルキャラがちょろちょろ出てきます▽腐成分はないよ。
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