ねぇ、この森には帰らない
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 雪が深い。

 深い雲がいまだ空を覆う。

 しかし、陽が差せばそれは冬の弱々しい光ではなく、暖かい力強さを肌に感じる。

 季節が替わろうとしていた。

 間もなく、雛見沢にも遅い春がやって来る。

 

 

 

 にー、と声がする。

 

 夕暮れ時、買い物帰りの沙都子はあたりを見渡した。

 また、にー、と声がする。

 右手に見える雑木林のあたりだろうか。

沙都子は雪を割って近づいた。大きすぎる長靴をもてあます。

 

 にー。

 声の主が木々の間から顔をのぞかせた。

 

「まぁ! ねこさんですわ!」

 

 茶と薄い灰色の毛並みの猫が、沙都子に向かってゆっくりと歩を進めて来る。

 

「おいでませ、おいでませ、ねこさん」

 

 沙都子が手を伸ばすが、ぴたりと猫はそれ以上近づかない。

 むぅ、と沙都子はうめく。

 

「しかたございませんわねぇ。お夕食のおすそわけでしてよ」

 

 沙都子は買い物袋の中からカニかまを取り出した。封を切って一本取り出す。

 

「ねこさん、ねこさ〜ん。こちらへおいでませ〜」

 

 沙都子は猫によく見えるよう、カニかまを差し出した。

 ぴくり、と猫の耳が動く。

 カニかまのにおいと好奇心に誘われたのか、さほど警戒する風でもなくさらにゆっくりと猫が近づいて来る。

 

「その調子、その調子ですわ。ねこさ〜ん、もっとこちらへおいでませ〜」

 

 沙都子はぴらぴらとカニかまを小さく上下に振る。

 てってって、と近づいて来た猫は、しかし、沙都子の手の届くぎりぎりの場所にぺたりと座り込んだ。

 猫は沙都子を見ながら、にー、と鳴く。

 まずはその美味そうなモノを一口食わせろ、という意思表示らしい。

 

「面白いですわ。中々に交渉上手なねこさんですわねぇ」

 

 沙都子はカニかまを縦に裂くと、その小さな一切れを猫の前に放った。

 はぐっ。はぐはぐっ。

 猫は三口で飲み込んだ。

 もう少し食べたいな、とその瞳が語る。

 

「ほっほっほ。そうはいきませんでしてよ? もっと召し上がりたかったら、こちらへおいでなさいな」

 

 その提案を了承したかのように、猫が二歩、沙都子に近寄る。

 

「まぁ、いい子ですわねぇ。素直なねこさんは大好きでしてよ」

 

 沙都子はまたカニかまを裂くと、今度は指先につまんだそれを猫の眼前にぶら下げた。

 

「さて、人の手からは召し上がるでしょうかねぇ?」

 

 はぐっ。

 猫がカニかまに食いついた。

 

 はぐっ。

 はぐっ。はぐっ。

 はぐっ。はぐっ。はぐっ。

 はぐっはぐっ。はぐっはぐっ。

 はぐ。はぐ。はぐ。はぐはぐはぐ。

 

「……意外と健啖家でいらっしゃいますわねぇ……」

 

 カニかま一袋をぺろりと平らげた猫は、小首をかしげて沙都子を見ている。

 

「さ、これでお仕舞いですわ。ごきげんよう、ねこさん」

 

 きびすを返した沙都子の足元に猫がまとわりついて、にーと鳴く。

 

「こ、こら。もうおやつはありませんわ。おねだりしても無駄ですわよ。これ以上は、今度はわたしが梨花に叱られてしまいますわ」

 

 猫は上目使いでにーと鳴く。

 

「……そういえば、わたしも昔はいつもおなかを空かせていましたわねぇ……」

 

 沙都子は遠くを思い出す。そんな沙都子を知ってか知らずか、猫は甘えるようにその身体をすり寄せてくる。

 沙都子は猫を抱き上げて、その顔を覗き込みながら言った。

 

「うちへいらっしゃいますか、ねこさん」

 

 猫は二言、にーにーと鳴いた。

 

 

 

 

 

 梨花は家で暇を持て余していた。沙都子が帰って来なければ夕飯の仕度も出来やしない。

 テレビも見飽きた。梨花にとってはもう何十回と見た番組だ。オチが分かってしまっているお笑い芸人のトークほどつまらないものはない。

 梨花は、たまには違うネタを振ってみろ、と芸人を呪いながら、行儀悪く足を延ばしてテレビのスイッチを切った。もちろんその芸人に罪はない。

 階下で声がした。沙都子の声だ。

 ぴくん、と梨花にネコ耳と尻尾が生えた。ような気がした。

 

「みー。お帰りなさいなのですよ、沙都子」

 

「ただいまですわ。ご覧になってくださいな、梨花。ねこさんですわよ」

 

 

 

 

 

 その直後、世界が転倒した。

 

 その光景を表現する言葉を沙都子は知らない。

 

 にゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 みぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!

 

 猫がいきなり興奮して毛を逆立てている。そこまでは分かる。

 梨花が――身をかがめて唸り声をあげている!

 猫が梨花に跳びかかる。梨花が真正面からぶつかる。

 交差し、瞬時絡み合う。

 

 にゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 みぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!

 

 猫が箪笥の上に駆け上がる。梨花も壁を蹴って箪笥に駆け寄り、勢い余ってちゃぶ台をひっくり返す。先ほどまでちゃぶ台の上にあり、今は宙に舞っている醤油の小瓶を空中で引っつかむと、梨花はそれを猫に向かって投げつける。壁に破裂音。絶叫。逆巻いて突風。雄叫び。

 

 にゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 みぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!

 

 新聞紙が寸断され、棚がなぎ倒される。テレビが床に落ち、雑誌が蹴散らされる。吹き飛んだ電話が窓ガラスを割る。

 

 騒音。疾風。剥き出しの敵意。耳をつんざき咆哮。勝利の悲鳴。

 

 にゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 みぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!

 

 もつれ合った梨花の腕から猫は抜け出し、窓へ跳び込む。梨花も猫を追って躊躇なく窓に手をかける。

 

「梨花!!」

 

 沙都子の一言で時が止まった。

 

「……り、梨花? あ――あの……梨花? ど、どうなさいましたの?」

 

 その場にへたり込んだ梨花の背中が震えている。

 

「ご……ごめんなさいなのです。ごめんなさいなのですよ。沙都子、沙都子……」

 

 沙都子は最愛の友人の肩に手を回した。優しく、優しく、しかし力を込めて――

 

「わたしこそごめんなさいですわ、梨花。梨花がそこまでねこさんをお嫌いだったとは存じませんでした。許していただけますか――梨花」

 

 梨花はうなづくだけだった。

 なぜか、沙都子はほんの少しだけ嬉しかった。

 いつも冷静で、達観しているかのように見える梨花。その梨花に、こんな激情を見せる一面があったとは。

 今まで知らなかった親友の一面が垣間見れたことが、なぜかほんの少しだけ嬉しかった。

 

 にゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 窓の向こう、夜の底にあの猫の鳴き声が溶けた。

 

 

 

「僕は何度見ても面白いのです」

 羽入が言った。

 

 梨花は散らかした部屋の片付けを、徹夜覚悟で沙都子と行っている最中である。

 ガラスが割れた窓から吹き込む夜気はまだまだ冬のそれだ。

 仕方がないのでガムテープで新聞紙を貼っている。

 

「まさに猫どうしの喧嘩なのです。『ここは私のナワバリだ沙都子は私のパートナーだ沙都子になつくんじゃねぇのですよヨソモノはとっとと出て行きやがれなのですよそれが嫌なら実力行使カマすからかかってきやがれなのですよチクチョーみぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』ってな感じなのです」

 

「羽入」

 春さえ凍る声で梨花は言った。

「あなたも懲りないわね。今度その舌を回したら酒あおって三日間キムチを食べ続けるわ」

 

「あぅあぅあぅあぅ。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

 

 

 

 犬は人につき、猫は家につくという。

 

 ある猫はある少女と共に在ることを願った。

 七度生まれ変わってもその少女と共に在ることを誓った。

 その誓いを七度繰り返した今も、その少女と共に在り続けている。

 たとえ、猫の森には二度と帰れなくとも。

 ――寓話である。

 

 

 

説明
「ひぐらしのなく頃に」より沙都子と梨花と、迷い猫の物語です。
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ひぐらしのなく頃に 北条沙都子 古手梨花 羽入  

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