ことのはのはなし |
言葉を体系化して繋いでいけば、おそらくある程度の文章が出来るのだろうが、それは間違いなく本質ではない。
そもそも言葉で無理に形作ることで元の意味合い何てものは霧散してしまう訳で、多分悲しいことだとは思うが、
鴉の鳴き声のように、それは当人以外の理解の範疇から遠ざかってしまう。
ということは無理にでも誰かに分かるように優しく簡潔に表してやるべきなのか。一理あるのだろう。
とは言え、理解という言葉の本質は未だ示されていないようにも思う。
十人十色とは言うけれど、クオリアがそれぞればらばらなのであれば、最早その共通認識さえ幻想と云うことになるのではないか。
疑い出せば切がないし、疑ったところで回答が得られるかと云えばそうでもないわけだけれど。
馬鹿に成れれば幸せなのだろうが、自分ひとりが馬鹿に成るのは恐ろしい。怖ろしいと思う。
似たようなものは同じものではない。昨日の私と今日の私も全く同じ私かと言われればそれは違うと答えるだろう。
若し同じだと答える人間が居ても、十年前の自分と今の自分は同じなのかと聞かれて同じと答えられる人間は少ないと思う。
十年後の自分と今の自分は同じかと聞かれれば違うと思うだろう。イコールというのはけだし厳密でなければならないのだから。
魂とか心とか人格なんて云うものが同じなのだと言っても、十年前と同じ考え方をしているか、十年後も今と同じ価値観で生きられるかと云えば違うだろう。
環境が変われば思想は変わる。その中に曖昧な芯のようなものを見出し、これこそが己だと主張しているに過ぎないのだ。
だから人間は肯定されたがる。認められたいと思う。あなたこそが正しいのだと言ってもらいたくなる。
そうして第三者的な視点を得ることで、自分が共同体の中で確かに存在していると云う幻想を獲得できるのだから。
何とか立ち位置を確保して、曲がりなりにも自分が世界で存在できていると感じられても、人間は変質する。
過去の自分と比較して、今の自分が別の人間だと思って仕舞うと、また新しい今の自分の居場所を探す為に肯定してもらうための他人を探す。
生の営みとはきっと、その程度のことなのだ。本当に他人のことだけを考えて生きられる人間などいない。
認める人間にしても、認めることによって自分は人を認められる人間だと思いたいのだ。
皆が錯覚の中で、それでも生きていけるのは、言葉が曖昧で文章に多くの解釈が発生するためだ。
他人が話した言葉を自分の中で解釈し、齟齬を無かったことにする訳だ。
勿論取り込まれた情報が同一である確率は限りなく低いが、それを比較検討する手段がないのだから、考えるだけ無駄というものだ。
少しずつずれた価値観の中で、懸命に砂上の楼閣を造っているような姿を他の生物はどう見るのだろう。
愚かだと嘲笑うだろうか。哀れだと見下すだろうか。こんなことを考える自分こそ、彼らの中で最も惨めなのかも知れない。
それでも人間は思考する。その果てはきっと見えないのだろうけれど。若しかしたら始めから解っていたのだろうか。
人が真実を見て仕舞った時、人はどうなるのだろう。悲しむだろうか、喜ぶだろうか。
否、恐らく何も思わないのだろう。真実はきっとひどく広大で、そして矮小なのだろう。
群盲象を撫でるように、一人の中に取り込まれる真実と云うのは限りなく少ない。真実は既に眼前に提示されているのかも知れない。
形而上のことを形而下で論じるのは迚も無意味に思われるけれど、思考するためのツールは限られているのだから仕方ない。
言葉と云うのは確かに優れたツールであろうが、言葉でクオリアは説明できないのだ。名詞はクオリアを説明できるのではないかと思う人もあろうが、
その場合、各人が見るクオリアは決して共通ではない。それは寧ろレッテルに近い。
それでも、言葉の効力というものは莫大だ。
哲学も宗教も政治も化学も、人間の居るこの世界に存在する凡百のものは遍く言葉というものに呪を掛けられている。
名詞を無くして仕舞うだけで、殆どの人間はまともに歩くことさえ難しくなる。獣に戻って仕舞う。
それはある意味で迚も幸せで仕合せなことなのかも知れないけれど、私は怖ろしくて息も出来なくなる。
我々の生は言葉と云う不確定で不明瞭な呪いに支配されて仕舞っているのだから。
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