マンジャック #17
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マンジャック

 

第十七章 個人と集合体

 

 

 水...? 大野の印象。

 

 銃禍に曝される観客達の悲鳴が止んだとき、同時に彼らを攻撃していた兵達もその動きを止めていた。

 静まり返った会場で、眼下の観客達を見ながら、大野はいつしかそんな連想をしていたのだ。

 

 水...?

 

 息詰まるほど動かぬ観客達は、大野には風の吹かぬ湖に見え、光の届かぬ井戸の水面を思わせ...。

 

 波紋...。

 

 やがて、水面の中心が、僅かに動いた。それは円を描いて外に広がる...。

 

 しかし、その輪は物理的な波とは明らかに違っていた。その波は、外に行くほど大きくなっていくのである。それは勢いを増し、人群の最外郭に達する。

 

 王冠の滴! 12の滴が音も立てずに弾けた!!

 

 人で造るそれは、金縛りにあったままの兵士達ですら見とれるほど、集団を離れて得た自由を謳歌するかのように優雅な動きを見せる。

 華麗なる舞踏。倒れた観客の血に染まった会場外郭で為すそれは、凄惨と優美がないまぜになった悪夢の舞い...。

 ストップモーションの様な彼らの動きが終わったとき、水の中に戻るべきそれは...、兵達に牙を剥いた!

 集団転移の反撃が始まったのだ!

 

 不可思議な集団転移の力に、既に戦意を喪失していた兵達の殆どは、その者たちに取り込まれるや、滴の要素となって水面に引きずられた。

 だがそうなった彼らはまだいい方だ。不幸にも、辛うじて銃を取り落とさなかった気丈な兵の最期は、意味のある声をたてる暇すらないほどあっけないものだったからだ。滴の中に取り込まれた彼らは、あらゆる方向からの強烈な圧力に、瞬時に押しつぶされたのだ。逃げ場を失った血が、上方に飛び散る。

 集団転移の攻撃、王冠の滴...。反意を持つ者への徹底した攻撃が、その液体にはある。

 

「ううっ。」

大野が声を失ったのも無理はあるまい。五十人からの兵達が一瞬にして戦線から排除されたのだ。

 人で織りなす眼下の波紋は大野が見る間に嵐のように逆巻きだす。寄せては返す大波は、三度行きつ戻りつを繰り返し、第二の王冠現象を起こした。

 再びはじき出される滴!

 

 国家反逆者に対する掃討作戦の特別編成部隊二番隊は、突如会場内から出てきた人群に、素早く銃口を向けた。

 ガガガ! 一制射は見事にその者たちの中心を射止める。

 だが、彼らは誰も、次の引き金を引くことは出来なかった。血にまみれながらも向かって来る彼らの先頭にいるのは、一瞬前まで自分達の同僚だった男達だったのだ。

 どうすることもできず、立ち尽くす兵達を、次々と集団転移の要素体である滴が襲う。兵達の躊躇とは対照的にいや増すその勢い。

「ああああああ!」

ある兵の悲鳴はたちどころに止んだ。滴は彼を飲み込み、過ぎ去った後にはつっ立った胴体しか残さなかったからだ。

 

 ザザザザザ!! 寧ろそう形容した方がよい轟音を響かせて進む彼ら要素体は、会場を取りまく通路にいる兵達を取り込み、更なる大きな奔流の一部とするか、さもなくば引き裂いていく。

 12の扉より溢れ出た彼らは合流して濁流となり、北側エレベーター前の小空間に押し寄せる。

 

 掃討作戦の参謀率いる小隊がそこにいた。

 彼らは既に騒然となっていた。仲間の識別信号が忽然と消え、残った信号が全て、轟いてくる異者の気配と共にこちらに向かってくるからだ。彼らとて、いや、殺人をも厭わずという程の張り詰めた神経となっていた今の彼らだからこそ、自分に死が迫っている事には敏感なのだ。

 ダッ! 浮足だった一人が悲鳴を上げながらエレベータに走り、スイッチを押した。

「や、止めんか!」参謀の制止は、かえって他の者たちを浮き足立たせた。あっと言う間にエレベータ前は、恐怖に堪えきれず扉を叩く兵で埋まる。

「た、助けて。」

「開けて...。」

 た、退却だ...。兵達の恐怖に感化された参謀は声を発しようとした。

「!」が、気配に振り向いてしまったあとは、もう悲鳴すら出なかった。

 眼前を埋め尽くす。人、人...人......。

 

 人の集まりが、僅かな兵達を見つめている...。

 ああああああ。兵達が心で叫ぶ無言の悲鳴と、扉への打撃音で空間が埋まる。

 見つめる人達。

 ダンダンダンダンダンダンダンダン!!! 扉への必死の乱打。

 ある者は恐怖に手を震わせながら銃を撃つ。だが、血を噴いても痛そうな素振りすら見せぬその固まり。

 ザザザッ!! 波が再び動き出した。浅瀬の波の如く穏やかだが、速く。

 開いた! エレベータの扉が開いた!! 誰かが叫んだ。それが兵達の理性の最後のたがを外したか、気も狂わんばかりの勢いで兵らはなだれ込む。

 が、そこに待つべき閉じた空間は無かった。動転した一人が、死に物狂いで扉をこじ開けたに過ぎなかったのだ。地上二百mに開いた空間はそれでも、彼らを拒むことなく受け入れる。

 !

 

 波の一潮がそこに打ち寄せたときはもう、兵ら全員がその場に残っていなかった。気の毒にも彼らは、この掃討作戦そのものが何者かに仕組まれたものであったことすら知らぬうちに、闘いの舞台から姿を消すことになった。

 

 あ、圧倒的じゃないか...。第二の波が本流に帰して、その中に取り込まれた様子を見ながら、大野は呟くほかなかった。

 ロンド・バリの生み出すガイア周波数に、人の脳神経のパルスと同調するといわれる高周波を同時に浴びた人々は、狂おしいほどの生への固執というスパイスを自ら湧出することによって、遂に己の自我の壁を取り壊した。

 そしてそれは、地上に真の集団転移が実現したことと同義だったのである。

 

 一旦発動してしまったそれは、大野の想像を遥かに超えていた。それを前にした者は、それが発する何らかの力に気圧されて、為す術もなく立ち尽くす。それはその者を、もはや苦もなく自らの一部として取り込む。手の込んだ儀式を経なければ成し得なかった発端からは信じられぬ程あっけない。

 素地があった? 人の中心でもみくちゃにされながら、観察者であることを命ぜられたため、唯一取り込まれることを免れている原尾も、眼前に展開する光景に混乱しながらも、頭を必死に回転させていた。

 人達があっけなく取り込まれるのは理由があるの? 寧ろ集団の中でこそ彼らが喜々としているように見えるのは錯覚なの?

 もしそうであれば、きっかけを掴んだ氷点下の水が一気に氷となる如く、現代人を前にした集団転移は、彼らを巻き込んで止めどなく大きくなるだろう。

 なにしろ、彼らには素地があるのだから。

 

 攻撃をするほどに仲間を増やし、敵が強いほど攻撃力を増す。最強の敵の出現を止められなかった大野は、これ以上無いほど打ちのめされている。

 しかしそれも宜なるかな。集団転移を世に生ぜしむる最後の条件を導いたきっかけを作ったのは、彼が原尾に通報させた21号令だったのだから。

 最土の家から逃げきった時、成木は俺達の行動をそこまで見切っていたのだろうか。

 俺がサイコダイブをすることすら見越して、成木は俺の中に”ロンド・バリ”という言葉の置き土産を残していったのだろうか...。

 そうかもしれない。そうでないかもしれない。

 だがもし、もしそうなら、この闘いにおける大野の勝算は、限りなく零に近くなる。なぜなら、成木の手の内で遊ばれていた彼が、もし下に落ちればそれはまるっきり比喩でなくなるからだ。

 どうする! 大野は自問するしかない。

 どうする!!

 

「ははははははは」

閉鎖空間の中、一人が笑った。

「あははははははは」

同調するように、もう一人が笑った。

「はっはっはっはっはっは」

揃えるかのように、また一人が笑った。

 それが合図になったのか、人々が一斉に笑った。ロンド・バリの会場を埋め尽くす、兵達の殆どを取り込んで、今や千にも達しようという人々が。

 笑い方は、咽喉と性別によって千差万別。だが、大野と原尾の胃を潰さんばかりに萎縮させたのは、その揃い方だ。それほどの人間達がいるにも関わらず、それほどの人間達によって発せられているにも関わらず、その笑声はまるで、一人が笑っているかと思わせるほど揃っているのだ、同じなのだ。それはまるで、一つのマイクを千のスピーカーに接続したかと思わせるほどの、一糸乱れぬ笑いのハーモニーなのだ。

「ああぁああ!」たまらず原尾は耳を塞いでしまう。

「畜生、まるでサ○エさんだ。」大野も狂気に懸命に耐える。

 千の笑いはしかし、取り残された二人を嘲笑し続ける。

「あははははは」「あははははは」

 嘲笑。そう。正にそれは嘲笑だった。この事態を必死になって防ごうとしていた彼らの決死の努力が、結局無駄骨に終わった事への心からの嘲笑だ。

 そんなことのできる者。一人しかいない。千人の中でも、一人しかいない。

 唐突に笑いが止まったとき、その一人が叫んだ。

「いい気分だよ。千の人々が私の元にある。千の人々が、私に傅いている。彼らは今、私の意思の元にあり、彼らは私と共にある。」

 そして大野と原尾に言った。

「どうかね。人類の革新に触れた気分は。」

 

 大野は真下に造られた人の輪の中心にいる、一人の男を見た。アンドロギュノスを思わせる中性の男がそこにいて、大野を見上げていた。それは少し前までロンド・バリの導者をつとめていた男であった。

 その男が今、勝ち誇った叫びをあげて己を誇示したのだ。

 成木! 追い詰められた筈の大野はしかし、その名を脳に浮かべて、カッと目を見開いた。彼は悟ったのだ。集団転移が如何に無敵であっても、どんなに奴が計算高くても、そして、どんなに現状が絶望的でも、結局の所、自分の敵が変わったわけではないことを。

 大野が脳裏に反芻したその名は、朽ちかけた彼の心を再び燃え立たせた。

 成木がジャッカーであり、大野がハンターであれば、それは当然の光明。

 だから大野は叫び返せるのだ。

「見下げ果てたよ。」

 そして、そんな大野の目を見る成木は、なればこそ内心の怒りを爆発させる。

 大野がハンターであり、成木がジャッカーであれば、それは当然の激昂。

 敵愾する両者の気合いが吼え、再び相見える。

 

 ニューサンシャイン、第二タワービルの75階。ロンド・バリの会場で、天井の高周波アンテナに吊り下げられた大野。下に待ち受けるは、成木が千の人で織りなす集団転移の集合体。

 そこからは、二千の目が大野を見返す。そして、彼らのただ一人の統括者の意識を増幅させ、物理的な力さえ持つかと思われる気合いの波を大野にぶっつける。

 大野は少しもたじろぐことなく眼下を見据えるが、歯を食いしばって全身に吹き付ける気に耐える。

 

「言ってくれるではないか、ハンター君。」輪を為す人達の真ん中にいる男、導者が叫ぶ。「だが、自分がどういう立場にいるか、君には解っていないようだ。」

 中心から波紋が立ち、人並みが動いた。そして彼らのそこかしこから、何かが突き出してきた。大野が、それを兵達の持っていた銃だと判るのに、さして時間はかからなかった。

 ガン! 誰かが撃った。弾は大野の脇腹を掠め去る。

 また誰かが撃った。大野は辛うじて避ける。

「ぐっ!」

「ははははは! 上手いもんじゃないか。踊れ踊れ。」導者が叫ぶ。「ハンターをハンティングするのも乙なものだろう。」

 ちぃっ、遊んでやがる。大野は、どこから撃たれるか分からない弾を空中で必死で躱す。成木の射撃が正確なことの証拠に、撃たれ強い左腕だけは確実に当ててくる。成木は、大野がもし止まっていれば、弾は彼の皮一枚を剥ぐように撃っているため、大野としてはとにかく闇雲にもがくしかないのだ。

 う、腕の拘束だけでもなんとかならんのか。

 だが、視界の隅には天井裏に昇ってくる人の群さえ見える。彼らが自分の元まで来たらもうお仕舞いだろう。流石の彼も血の気が引いていく。

 ここに来たやつらは...。大野は思う。こんなことするために集まったのかよ。

 

 大野さん。原尾は成木の施術からは逃れたものの、今度は両腕を人の壁に埋め込まれ、殆ど動かすことができない。高笑いする導者が目の前にいるのに、どうすることもできない。

「止めて!」彼女が叫ぶ。「もう止めて!」

人の中から引き抜いた片腕を導者に差しのべて彼女は嘆願する。

「あなたはそれほどの力を手に入れたのよ。一方的な虐待をして面白いの?」

 彼女に向けた導者の顔は、心中の思いを増幅させるほど無表情だった。

「面白いかって?」導者は言う。「まるで君は私が彼に復讐をしているかのような口振りだね。」

「私にはそうとしか見えないわ。」怒気をこめて原尾は反論する。

「無理もない。」導者は冷笑する。「だがそれは誤解だよ。」

「...。」

「見たまえ。彼の姿を...。」言葉に促されて見上げる先には、相も変わらぬ銃撃から必死に逃げる大野の姿がある。

「みっともないだろう。哀れだろう。今の彼は曝し者だ。」導者は大野を見つめる。「人の注視の的になっているあの男は、いま、己の死の恐怖と共に、いたたまれぬ程の羞恥心を感じているだろう。だがそれは、曝し者であることがそう感じさせているのではなく、あの男が普段、人の陰に隠れて生きているからだ。」

 うっ! 原尾は導者を見る。

「人の中にいて、人とは違う生を生きなければならないあの男は、人の中心にあっては自分が浮いた存在であることを痛感するだろう。」

 大野は要素体の一部の者達がとうとう、統制を成して自分の頭上に立ち尽くすのを見た。

「自分は人とは違う。彼は思い知らされている筈だ。」導者は呟く。「他人はこんなに簡単に集団の一部になるのに、彼はそうはならないのだから。」

 似ている? 奇妙な想いが原尾をよぎる。大野と成木が...。

 人達の中心に引っぱり出された大野は、同じく中心にいる成木と丁度対照を成しているのだ。彼女は思った。集団と闘う大野は、集団を操る成木と、闘志を境とした鏡のようだ。

「人々から蔑まれた存在であるジャッカーが、更に底辺に巣くうハンターを、人々を使っていたぶる。」原尾がそれに気付いた事を悟ったか、導者は言った。

「近親憎悪? 自己矛盾? 私の行為は寧ろ、そういった言葉が近いだろう。」

 大野の頭上に達した要素体の集団は、そこいらにある鉄棒を持ってきて大野を襲おうとしていた。開閉扉をガンガンと叩き、彼を追い落とそうとしている。

「それなら...、ああ、それなら...。」

原尾の喘ぎを導者は遮る。

「だがそれ故に...、」男に浮かぶ狂気の眼。「まるで自虐してるような快感だよ。」

 

 冗談じゃねぇ。しかし大野は思った。言いたいこと言いやがって。

 手前ぇの身勝手な哲学で殺されてたまるかよ。俺は俺だ!

「おおおおおお!!」

 大野の激情がピークを越えた。高周波のエネルギーを貯めに貯めた核磁気共鳴電池がエネルギーを放出する。そして瞬く間にそれはアンテナに逆流していく。 バン! 天井に据えてあった変換器が爆発した。

 頭上の集団が吹き飛ばされていく。

 な、なんだ。成木は凄まじい発光に目が眩む。何をした!

 上手い。大野は一喜した。アンテナへの電波の供給が止まったのだ。これで上に昇ればひとまず...。

「わわわわわわわわ!」しかし大野は悲鳴を上げる。アンテナを持った腕が滑るのだ。吸引力を失ったアンテナは、昇るどころか摩擦が殆ど無いほど滑らかだったのだ。こ、このままじゃじき滑り落ちる。嘘だろー!

「ははははは! 馬鹿め。」導者は叫ぶ。

「殺してあげるよ。落ちたまえ、ハンター君。さぁ!」

成木の意志に同調して人波が荒れる。煮沸した鍋のように人が沸き立ち、ぶら下がったまま為す術のない哀れな男を招き寄せようとする。大海は大渦を巻いて大野を待ちかまえる。この高度から下に落ちれば全身打撲だ。しかも彼らのことだ。ありがたいことにその後の痛みを増幅するように引き裂いてくれるだろう!

「おおおおおおお!」激情ではなく、恐怖によって、思わず声が出る大野。

 

 落ちるしかない。大野は思う。が、殆ど本能で回転する彼の頭は、この状況でなお諦観を受け入れない。

 大野はおもむろに操乱からぶんどった銃を懐から取り出すや、アンテナの開閉扉への付け根に向かって撃ちまくった。ガンガンガンガンガン!

 大野の心中必死の叫び、折れろー!!

 大野は自身の想いまでもそこにぶっつけたか。

 バキッ!

 折れた! いや、外れたと言った方が正しい。アンテナは開閉扉から外れ、大野と共に落下していく。

 どうするつもりか? 成木は思った。一人でも多く道連れにしようというのか?

 一斉に退いた人の下から、当たると痛そうな床が顔を見せた。大野はアンテナと共に後3mでそこに叩きつけられる。だがその空中で...

 

 止まった! アンテナも、大野も!!

 アンテナの付け根から延びていたコードが、ギリギリで延びきったのだ!

 ぐっぐっぐっぐっぐ! 大野は顔をしかめる。音をたてて軋む左肩にかかるGは絶大なものなのだ。手の滑りも尋常でなく、もはやアンテナの先を辛うじて掴むだけだ。

 だが、それでもなおアンテナを離さない大野が、ターザンのように振れて行く先...、そこには、人で作った輪の中心に突っ立っている導者の姿が...。

 人工転移を素地としている集団転移に、拒絶波は効かないだろう...。大野は計算していた。

 だが、お前にゃ効くよな。成木!

 

 原尾は見た。大野がアンテナにぶら下がってこちらに向かってくるのを。

「うおおおおおおお!」大野は叫ぶ。あーああーとふざけるのも忘れて。

 飛んだ!

 そしてぶつかった! 周りの誰もが近づくより速く、導者一人を押し倒した。

「いっけー!!」

大野は叫ぶ。そして渾身の拒絶波! 遮る者は誰もいない!!

 

「......。」

「.........。」原尾は沈黙した。大野が黙ったままだからだ。

「......。」

「お...おの...さん...?」おそるおそる声をかける原尾。だが、彼女の呼びかけは彼には届かなかった。

「え?」大野はようやく言った。「え?」

彼が下敷きにしている導者が微笑んだ。そして彼とは別の誰かが、言った。

「残念だったな。」振り返った大野にもう一言。

「はずれだよ。」

 

 なにー!! 大野は心中悲鳴を上げた。絶好のシチュエーションだったのに、ここで倒せなきゃどうすんだよこの野郎!!

 筆者に文句を言うのはおかど違いだ。

 畜生。読み返してみて大野はごちた。ちょっと前から導者と書いてやがる。

 だろ? だが筆者と喧嘩している場合ではない。今見下ろしているのは、大野ではなく人々の方なのだ。

「ぐうっ!」

大野は首根っこを掴まれて引きずられた。そして彼は、あっと言う間もなく宙に浮かび、弾き飛ばされる。客席にブチ当たって倒れ伏す大野。

 ここんとこくじ運の悪さといったら...ピンぞろハンターともあろうものが...。

 背中を強打した衝撃で、息ができない大野。彼は身体を丸めて必死に体調を戻そうともがく。だが、彼を囲むようにして再び人が集まってくる。

 容赦なく、成木が囁く。絶対者の想いが波となって人を伝搬する。それに答える人々は、再び大野を持ち上げ、放り投げる。

 ピンポン玉のように宙に浮く大野。巻き上げられるたびに彼を襲う加速度はブラックアウトすらおこし、確実に彼の体力を削っていく。

 大野の命は成木の手の内にある。そのことに成木は満悦する。

 狂気の感情。成木の愉悦は人を通して増幅されているため、原尾にすら分かる。だが彼女はそれに、奇妙な同情を抱いた。千人からの人を操っているにも関わらず、成木を知るのは大野一人なのだ。だから彼は誰を手にするより、大野をもてあそぶことに喜悦を感じるのだ。

 だが、それは危険な感情だ。大好きな玩具を破壊してしまう童子の様に、対象への捻曲げられた愛情は、どの瞬間に殺意に変わるか解らない。

 言うそばから、成木の愉悦に殺気が混じった。原尾を掴む人の力が増したことがそれを感じさせた。

 微妙な愛情は既に憎悪に変わっている。

 大野は何度目かの放物線を描き終えて落下するところだった。原尾に予感が走る。今度落ちたときが危ない。

 原尾は渾身の力を込めて、無理矢理被せられていた白布を引き裂いた。半ばまで血に染まったそれが自分の行動を隠す間に、原尾は懐からスタンガンを出し、自分の腕を掴む男に突き立てた。男の力が抜け、原尾は自由の身となる。

 遅いか。原尾は大野の落下位置に駆ける。

 

 大野は集団に、再び足を掴まれた。そして今までとは比較にならない力で二度、三度と振り回される。

 死ね! 成木の感情が一線を越えた。大野を掴む力は、会場端の壁に向けて彼を投げつけた。

 危ない! 投げられる一瞬、原尾は追いついた。大野にしがみついて一緒に飛ばされる。

「!」

最後の振り回しでかかったGで一瞬意識を失った大野は、自分を抱える者が原尾であることに気付いて驚愕した。彼の前に回り込んでいる原尾は、壁とのクッションになるつもりだ。

 私ではこの人達を守ることはできない。でも、あなたを守ればあるいは...。

原尾の心の叫びを、大野が聴こえぬ筈がない。

 か、格好付けるんじゃ...。

 轟音が轟いた。あまりの衝撃に、鉄筋でできている壁が粉塵を噴く。

 

 終わったな。成木は思った。

 彼の昂揚した気分が落ちつきを取り戻していく。それは大野への想いの甚だしさを示していたように急激に冷めていく。

 終わったな。一度目よりも静かに、成木は言った。

 風が吹かぬ為、粉塵が晴れるのには時間がかかっていたのだが、ゆっくりと視界が回復するにつれ、成木はその先の様子が判別できるようになった。

 二つの扉に挟まれた十何mもの壁の一面に、亀裂が走っていた。亀裂は壁の中心に向かって収束しており、それは当然、大野達がそこに衝突したことを示している。

 即死。

 成木はそう判断した。壁に血の後があるかもしれんが、身体は原形を留めまい。

 だが、衝突の中心が晴れて来るにつれ、成木の疑念は再び湧いていくのだった。それは痛ましいヒビはあれど、同じ色のままの壁が見えるにつれ。それは埃が漂うにせよ、その中に新しい血の匂いが嗅ぎとれないにつれ...。

 おかしい...。

 そして彼の思いは再び、それを目にして怒りに染まっていく。

 死んでいるのではない。寧ろ千もの人々に増幅された成木の怒りに負けないほどの闘志で、こちらを見返してくる二人の男女をそこに見いだしたからだ。

「ハンター...。」

 

 大野は原尾を抱えてそこに立っていた。そして、彼の左腕は、壁一面に走った亀裂の中心にめりこんでいた。

 受け身。成木は二人の存命の訳を悟った。壁に叩き付けられる瞬間に、己の持っている運動エネルギーの全てを左腕に注ぎ込んだのだ。

 大丈夫か? 血が止まった原尾の首筋を撫でながら、小声で大野が呟く。肋が数本...程度ね...。呟く原尾。

 

 その光景、成木は刮目せざるを得なかった。奴は...奴は...。

 この男は違うのだ。千の人間が取り込まれる集団転移の威圧感にあってなお私に敵対できるこの男は...。成木が苦々しく送った視線の先には、立ち上がる大野がいて、再び己に敵意の視線を返す大野がいて...。

 侮れん...。成木は思った。あの男は侮れん!

 ギン! 成木の心が再び闘志に溢れた。彼は叫んだ。

「大野!!」

成木は人を会場中心に集めだした。潮が引いていくように、瞬く間に千人は一つの固まりとなっていく。座席を乗り越え、あるいは薙ぎ倒し、人は成木の元に集う。そして、およそ通常の人間では耐えられないほどにまでギュウ詰めの状態になった。

「はははははは!」成木の笑いがこだまする。

「それでこそ、それでこそ私の敵といえる。」

 成木は集団転移の総力を持って大野を排除しようとしている。数しれぬ銃を行使することは、彼のプライドが許さないのか、それとも、思いつかないのか。

 違う。成木は、自分が進む道の前に立ち塞がる存在として大野がいるからこそ、己の力で大野を排除しなければならないのだ。

「大野。私が認めた名誉ある敵であることに敬意を表して、集団転移の最高の力をもって君を倒してあげよう。千の力を一つにした一撃で、跡形もなくしてあげよう!」

 勝手なこと言ってやがる。大野は呆れる。お前の攻撃真っ向から受けて、俺に何の得があるんだよ...。逃げるって手もあるんだぜ。

 千の固まりが小刻みに震えだした。彼らの筋肉の硬直に伴う痙攣が、全て同調しているのだ。千の力の全力。それほどの力がそこに生み出されていることをそれは示している。

 だが大野は、そこまで考えて、思わず吹き出した。あまりにも自明の突っ込みを、わざわざ自身にしてしまったからである。

 大野の後ろには、広大に広がる外の世界がある。成木は他に十二もある扉のどれをも選択しないで、大野という壁をぶち破ってその世界に飛び出そうとしているのだ。

 逃げてどうする。お前が逃げたら明日はないんだぜ。

 大野は肩を竦めた。そして、傍らの原尾を見る。彼女は、奇妙に落ち着いた彼の表情に、思わず聴いてしまう。

「勝算があるの?」

「ない。」

マックの店員だってこれほど迅速な回答はすまい。原尾は心底呆れかえったが、同時に安心もした。彼女なりに、大野の人となりに接しているうちに、彼について何となく判ってきたことがあるからだ。

 こういう場合、もし一方的にやられるだけならば...、彼は逃げる。

 その、三十六計をせぬということは、少なくとも成木を道連れにはできるかもしれないという事だろう。

 原尾は深呼吸を一息ついてから、大野を見返した。

「手伝える?」

 大野は頷く。

「死ぬな。それで充分だ。」

 原尾は微笑んで、彼の左手に手を添えた。彼女の視線は微動だにせずに敵を見据える。

「離れんなよ。」

 苦笑いをしてから、大野も千人の方に向き直り、叫んだ。

「来い!!」

 

 熱気が最初に来た。千の人間が集中しているその場所から、彼らのため込んでいるエネルギーから漏れ出た熱が、周囲に吹き出しているのだ。原尾の長髪がなびく。

 小刻みな動きが大きな周期を持った揺動に変わった。千の人間が戦闘の体制を整えたことの表明だ。

 ゴゴゴゴゴゴゴ。それは千変万化し、轟音すら発する。

 そして、光すら発したとき...。

 バン!!! 固まりが動いた!

 

 来た! 大野は千人が、自分達二人に突進してくるのを見た。

 奴は集団転移の総力をもって攻撃してくる。絶望的な状況にあって、大野はなおも計算があった。全員一丸となって攻撃してくれさえすれば、互角の戦いに持ち込めるかもしれないと。

 だが、それはあくまでも大野が、この攻撃に耐えきればこそだ。

「おおおおおおおお!」彼は吼えた。正面に突き出した彼の左腕のパワーが増幅し、見る間に袖いっぱいにまで膨らむ。原尾も微力ながらも彼の左腕の掴む。

 千人は人間とは思えないほど加速する。近づいてくる彼らが、大野と原尾には大津波とさえ見えた。

 

 ガッ!!!

 当たった!! 大野が差し出した左腕と、千人の固まりが。

 ザザザザザ!! 膨大なパワーに、大野と原尾は圧され、踵を滑らせる。

 大野は左腕を暴走させる。莫大なエネルギーを今度は熱ではなく、全てをパワーに変えて。

 止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ! 大野の叫び。

 止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ! 原尾の絶叫。

 

 ガン!! 圧される二人は再び壁にぶち当たった。大野が背に受ける激痛は脊椎を砕く寸前だ。

 だがそこで二人は止まった。そして...。

 受けとめた!

 千の動きが止まった。大野は左肩を壁に当てて、上手く力を逃がすことで、この圧倒的な敵の動きを止めたのだ。

「おおおおおお!」

「やはりな!」成木が叫ぶ。「貴様は侮れぬ奴だ。」

だが彼は大野にかけた力を緩めようとしない。

「喜びたまえ。このまま、押しつぶしてあげよう。」

 

 耐えきった! 大野は心中歓声をあげた。光明一点ありってやつだ。

 大野の左手一本に千の力がかかる。止まったとはいえ、今の状態ではすぐにも圧し負けてしまうだろう。どうするつもりなのか。

 これだよ。大野は思う。これだ。この瞬間を待っていたんだ。奴等全員が一つになる瞬間を、成木と俺が、どこかで繋がる瞬間を。

 大野は右手を、眼前に山のように連なる人群の一人に当てた。

 俺は確かに運が悪いようだ。だが、運が悪けりゃ、全部のくじを引くまでだ。

 大野は拒絶波を出した。

 

 人の中を、次々に伝搬していくものがある。

 それは殆どの人にとっては全く害のないものであったが、一体を為す千人の中で、たった一人にとっては、それは致命的なほどの打撃を与える攻撃となるのだ。

 千人を操っている成木の精神がいる肉体を、千の中から当たりを付け、その人間に攻撃を仕掛ける。導者を狙った最初の攻撃が失敗したのは当然だろう。同じ事を千回やるのは愚策。となれば残るは、如何に多くの人間に効率的に攻撃できるかを考えるしかない。

 そう。大野は、千人が一つになる時を、待っていたのだ。

 

 千の固まりの中心にいた成木は、10mも先にいる大野の敵意が、自分に迫って来たことを感じた。そして...。

「があぁぁああぁぁあぁぁあ!!」心を襲った衝撃に、彼は叫んだ。

成木の転移している依童が、彼の精神を突然拒んだのだ。精神崩壊を促す激痛が再び、あらゆる方向から成木を襲う。

 き...来たな。成木は激痛に呻くがその意思は弱まらない。ここで引くわけにはいかない。ここで何としても大野を潰しておかねばならない。

 成木は千の力を更に増した。

 ぐっぐぐぐ!! な、何て奴だ! 歯を食いしばりながら大野は思う。拒絶波の中では一人の依童ですら身体制御を保つのは至難の業なのに、千もの人を一つにまとめ、恐ろしいことにその力を更に増している。

 これが集団転移か。大野は戦慄した。これが成木の力か。

 

 動揺は成木とて同じ。これだけの人間を導体として経由しているにも関わらず、大野の拒絶波は、最土の内で大野自身の体内で発せられたものと殆ど差異が無いのだ。己に向けた怒りの強さ、大野の実力に、成木は戦慄する。

 

「おおおおおおおおおお!」

「ぐっぐぐぐっぐぐ!」

両者の絶叫が閉鎖空間を満たす。力と力のぶつかりあいは、どちらか先に気を緩めた方が負ける!

 ミシッ。不吉な音がした。大野にはすぐに、それが自分の左腕の骨格部分に亀裂が生じたのだと判ってゾッとした。

 原尾にもそれが察せられたのだろう。大野の左手を支える力を更に増した。

 ボキ。大野の突き出した左腕に直接触れている要素体の身体の肋骨が折れたらしい。集団転移の攻撃では、人一人が拳そのものとなる。大野はそれを想像したくないが、早期にどちらかが潰れないと、このままではこの男(女か?)を殺しかねない。そして、それが彼の心を強くした。

 ケリを付けてやる!

 

「おおおおおおおおおお!」

大野は天を突くほどに声を張り上げた。そして、彼の精神が出しうる限りの最大限の拒絶波を放った。意志の強さに比例して、それは怒涛の如く人の中を駆けて伝わり...。一瞬後...

「がぁぁぁああああああああぁあ!」

成木は絶叫した。今までとは比べ物にならない激痛が、彼を襲ったのだ。

 彼の心が、彼の存在が、彼の操る人々全て、いや、彼の操る細胞全てから拒まれる。それらは己の意思から彼にこう言うのだ。侵入者よ、去れ、と。

「がぁぁぁあああぁ!!」

全ての者達の拒絶の意思は、成木には激烈な苦痛として表現される。

 だが成木は、それでもまだ千人の制御を手放さない。全ての者から拒まれても、成木は己を保ち続ける。それは彼の意志の強さ、そして彼の怒りの深さ。

 成木が吼えた。

「おおおおおおおおおおお!!」

 

 成木の意思はまだ大野と原尾を圧す。その力、力!

「うおおおおおおおおおお!!」

大野は驚愕する。こ、こいつ! 彼の左腕が、限界を超えた力のせいで急速に歪んでいく。二人の眼前に押し寄せていた津波は、今にも彼らを飲みこまんとしている。

 負ける...。

 

 しかし、原尾は見ていた。千人の塊に、変化が起きるのを...。

 筋が入っていく...。彼女は思った。人の固まりの丁度真ん中に小さな筋が走り、見る間にそれは彼らの中心を貫いて向こう端にまで達していく。

 そして人達は...、二つになった。

「!」

大野も気付いたが、彼を倒そうとする力が弱くなったわけではない。それどころではないのだ。

 だが更に、真横に筋が入ってゆく。人達が、四っつの固まりになった。

 その後すぐに、八つ、十六...。人達は境界も見分けられぬ程の接触状態から次々に離反し、次々と小さな固まりになっていく。人が人として存在できるような範囲まで、広がっていく。

 ここに至っては成木も気付く。力自体はまだ出しているが...。

 こ、こんな...。成木はその光景に思わず呟く...。馬鹿な...。

 

 人達はその固まりの単位を減らしていき、遂に個人が見分けられるレベルにまで達する。彼ら千人は今や、個々人が組み合った腕だけで繋がっているに過ぎない。

 成木は、自らを構成する人々のうちで制御状態が良好な者を集団の外郭に集め、全体の結束を辛うじて保っている。

 

 細胞分裂。その様子を見ながら原尾は、奇妙にもそんな言葉が脳裏を掠めた。

 

 うっ。突然に、大野は感じた。自分に入り込んでくる感情の渦を。そして気付いた。それが、繋がった人々を通じて流れ込んでくる成木の叫びだと言うことに。

「何故だ!」心で叫ぶ成木は戸惑いを隠せない。「何故こんな事が。」

「判らないのか?」大野も心で叫び返す。「俺達がこうしてる事を見ても、まだ判らないのか。」

 その言葉に、成木は動揺した。彼もまた悟ったのだ。

「力が...出し切れていない...。」

「そうさ。いくら俺の左手のパワーでも、それだけの数の人間の力に対抗できるはずもない。」

 俺達がまだ生きてるって事は、あんたが今、おそらくその持てる力のほんの少ししか使えないでいるってことだ。大野は内心ほくそ笑んだ。そして、俺があんたの一撃に賭けたのは、あんたがその力を出しきれないという確信があったからさ。

 腕を組む人々の端を成す一人が、まるで逃げたがっているかのように、狂ったように首を振る。

「馬鹿な!」間断ない拒絶波の痛みすら忘れて、成木が反駁した。「何故お前にそんなことが判るのだ。」

「簡単さ。」大野はキッと人達の中心を見据えた。「あんたがこの人達の本質を見誤っているからさ。」

「!!」

 

 時が止まったかとすら思えるほど、次に起きたその一瞬は大野には長く感じられた。

 それは成木がその持てる力の全てを解放した時であり、それ故最も大野の心とシンクロした時でもあった。

 そしてその瞬間、それは起こった。大野と成木を取りまく千の心が、千人から成る集団の心が、その瞬間だけ黙することをやめて、彼らに語り掛けたのだ。

 成木が問うた、その問いに対する答えを。

 

 本質とは?

 

 どんな個人でもない。紛れもない千の心が一つとなって紡ぎ出す意識の流れが、彼らに形となって流れ込む。

 

 そのイメージ...。

 独りの安堵、独りの寂寥。集団の安堵、集団の狭隘。

 

 ロンド・バリに集まった人々を始めとして、現代人は確かに、日々のストレスと孤独に苛まれている。過剰なまでに自分をさらけ出し、異常なほど人との調和に固着する、世紀末のカウンターカルチャーといわれるロンド・バリが勃興し、また隆盛する理由もそこにある。そこには他と一体化する我があり、協調し、和音を奏でる愉悦が存在する。

 だから、集団の安堵。

 

 だが果たして、だからといってロンド・バリが集団転移の萌芽に相応しかったのか。

 時間と場所によって顔の皮を削ぎ、一分前とは別の喉で語り、一部屋隔てて別の仮面を付けることが普通の現代人にとって、多重人格的な振る舞いはしごくあたりまえな行為だ。

 そんな彼らが集ったロンド・バリで、二時間ほどのその儀式の際に彼らが見せる原始の狂態は、確かに、隠された人の本能であり、彼らの暗部の表出でもあろう。だがそれはその人の全てではない。それは二時間という限定の中に置き去って行くことを決めている、いわば狂者の仮面なのだ。

 集団転移をもくろむ成木にとって、一見それは不可解であるように見えたろう。究極の集団への同化をロンド・バリの効果と見ていた成木であればそれは無理もない。その行為は、何もかも捨て去りたくて来場したであろう人々が、その一方で帰りたがっていることを示すのだ。彼にそれが理解できようか。

 帰りたいというのか? あれほどストレスの多い日常に、苦難ばかりの待ち受ける社会に...。

 

 しかし、彼ら”集団”は、そうだ。と答えた。

 成木にはその答えは理解できない。そしてそんな意思の不統一がある以上、集団転移で現代人を完全に束ねることは不可能だろう。

 反動...。そこまでして求めるもの...。その意味するところは?

 それは、独りの安堵。

 

 苦悩を代償として払っても良いと思うほど、人は独りになりたい。

 

 ある男が、成木の包囲から飛び出した。男は吹き飛ばされ、椅子にたたきつけられて気を失った。

 

 ロンド・バリとは、独りになるしかない現代人の、人達に投げかけた最後の悲鳴...。

 

 成木は愕然としたろう。千の心を束ねて以来、さっきから聴こえていた低い不協和音が、それだということに気付いたのだから。彼が確かに聞いていたその囁きが、実は呻きであり、悲鳴であったのだから。

 

 !!

 千の心が再び黙した。一瞬の邂逅は終わり、大野と成木が取り残された。

「孤独から人を欲するだけでは済まず、人を欲した後に更に孤独を求める者達...。

「そんな者達が、寂しさと孤高を両立させる唯一の方法がロンド・バリ...。」成木が愕然として呟いた。

「二時間だけの原始人...。それが、現代人が求める身勝手なまでに哀しい欲望だ。」大野がやるせなさを込めて呟いた。

 

 心的空間が揺らいでいる。朧気になりかけた繋がりを通して、成木が大野に問いかける。

「貴様は知っていたのか。彼らの心を?」

「まさか。ただあんたのしたいことと、彼らのしたいことが違うように思えただけさ。」大野は少し皮肉混じりに、ただその孤独な王にこう呟いた。

「あんたには、人々の悲しみが判らなかったってことだよ。」

 

 弾けた。大野の心から成木が離れた。

 

「うっ。」

 大野は気が付いた。あまりにも一瞬だったが、あまりにも長かった悪夢から覚めたように、ぼんやりと彼の心は浮いていた。

「大野さん!!」

 原尾の恫喝で、大野は正気に返った。そして彼女の叫びが、目前の敵の変化にあったことを知った。

「ああ...あ...。」

 

 その時、大野と原尾は確かに見た。彼らの眼前に聳える人々の中心にあって、人々から別れだしたその存在を。

 それは目にこそ見えないが、人々が、千の人々が拒もうとして出した心の手が、その外郭を形作るからこそ、確かにそこにあることが判る...。

 それは黒い光を発しながら収束し、その場所に一つの形を造り上げていく。

 人...。大野と原尾は思った。全ての人が己以外を拒絶し、そこに残った最後の一つ。細く、小さく、傷ましいほどにあどけないそれは、哀しくも人の形をして...。

 それは身体を持たなくなった男の、外殻からしか確認のできない本質...。

 

 ババババババッ!

 人が弾けてゆく。人達は、ある男を中心にして周囲に散っていく。

「おおおおおおおお!!」

 成木は自分の周りから、次々と離れていく者たちを見ながら、どうすることもできなかった。自分の周りにかき集めていた人の去りゆくさまを、ただただ見ているしかなかったのだ。それもその筈、今の成木には、彼らを引き止める腕も、去就を考えさせる叫び声すらも、出すことはできなかったのだ。

 彼は凍り付くほどの寒気に襲われた。人という存在の中以外の所で浮遊している自分に気付いたからだ。

 ゼロ・ヒューマンの、それは目を背けたくなるような本当の姿...。

 成木は叫んだ。

「!!!!!!!」

 

「ぐっ!!」

大野は思わず悲鳴を上げた。自分の心に直接、イメージが飛び込んできたからだ。だがその驚きも、それが何なのかを悟った時の衝撃に比べれば何ほどのこともない。そして事実、大野はしばし自分を忘れるほど驚愕したのだ。

 こ、これは!

 

 不意に、大野達への成木の感情の流出が止まった。大野達までの、人を媒介としたネットワークが断ち切れたのだ。

 人の形をした者が消えた。と、同時に悲鳴が再開した。成木が死に物狂いで男にとり憑いたのだ。

「あああぁあああぁあぁあぁあ!」

 次の瞬間、中心にいた男が飛ばされた。無理矢理押さえつけていた磁石同士を不意に離したような勢いで、大野達とは反対方向に。

 そして男はそのまま弧を描いて、向こう側の壁に激突した。

 

 会場内の全ての人間が倒れ臥した。そうして不気味な静寂が訪れたとき、立っているのは、大野と、原尾だけだった...。

 

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第十八章へつづく

説明
精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。
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