Farewell (AIR 二次創作小説)
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AIR 二次創作小説   

 

 

 

 

 

   かぜがつめたい

   ひからびたからだ

   ぼろぼろのつばさ

   いまのわたしのすべて

   あたりをみまわす

   すこしまえまでは、うごくこともできなかった

   ゆめをみていた

   くるしい、ゆめ

   なぜくるしいのか、いまはわからない

   くるしくて、いたくて、わたしはうごけなかった

   でも、うごけるようになっても、とべない

   とぶ、ってなに?

   どこかへ、いどうすること

   わたしはどこにもいけない

   ずっとここでかぜをうけている

   どうして?

   つばさがうごかないから

   どうして?

   つばさがぼろぼろだから

   なぜ?

 

   ・・・

   ・・・・・

   ・・・・・・う

 

   むねがくるしい

   いたい

 

   うあ

   うあああ

   うわあああああ

 

   さけぶ

   だれにもとどかない

   なぜくるしいのか、わからない

   おさまってから、ねむる

   ねむる

   ねむりつづける

   ゆめをみる

   わたしのゆめ

   こんどのゆめは、いたみがない

 

   でも・・・

   そこでのわたしは・・・

   わたしは・・・

 

 

 

 

   そこでの私は独りぼっちだった。

 

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

「Farewell」                        by AE

                             2001.09.06

 

 

 

 

 

   私は一人で、その山道に暮らしていた。

   山道から少し外れた、枯れた大木の根本。

   そこに穿たれた穴が、私の住まいだった。

   いつからかはわからない。

   物心ついたときからずっと、私はここで生きてきた。

 

「ふあ・・・」

 

   あくびを殺し、ねぐらを出る。

   朝焼けの弱々しい光が、木漏れ日となって差し込んでいる。

   朝起きて、渓谷に水を汲みに行き、魚を取って戻る。

   それが日課だった。

   その途中、山と渓谷の間に人里があった。

   私は、まだ人気のないうちにそこを通過しなければならない。

   いや、出会ったからといって、何をされるわけでもない。

   村人は、私を見ない。

   始めから居なかったことにしている。

   だから、私は独りで生きている。

   半分、意地もあった。

   私が死んだら、私を産んだ母が浮かばれない、ただそれだけだった。

   とは言っても、どんな母だったか覚えてはいない。

   気づいたら、母はいなかった。

   雨の夜、あの住まいの中で二人で語り合った記憶がある。

   内容はおぼろげだが、とにかく、それだけが母についての思い出だった。

 

「う・・・」

 

   頭が痛い。

   昔を思い出そうとすると、こうなる。

   だから気にしないことにしていた。

   つまり、過去など必要ない、ということだ。

   日々を暮らしていくだけなら、思い出など必要なかった。

   ・・・友達も。

 

   人の通る山道を避け、急勾配の獣道へ入ろうとする。

   その入り口の雑草の無い地面に、墓があった。

   土を盛った上に大小の石を積んだ、粗末な墓だ。

   誰の墓なのか、覚えていない。

   随分前に山道に倒れていた行き倒れを、自分で弔ったはずだ。

   たしか、知人だったような気もするが・・・

   ・・・やめよう。

   朝の食事の支度をしなければならない。

   一人分の魚と、一人分の水。

   永遠に続く、独りだけの生活。

 

   ・・・ただ、その日は何かが違っていた。

 

 

 

「こんにちはっ」

 

 

 

   少女だった。

   獣道から登ってきたらしい。

   息が切れそうになっている。

   粗末な木綿の羽織を着た、小さな女の子。

   歳は私と同じくらいだろうか。

   陽光に映える髪に、栗色の輝きが覗く。

   異国の血が混ざっているのだろうか。

   綺麗。

   私はそう思う。

   ただ、他の人間が同じように感じるかどうか。

   ほんの少しの差異でも、遠避けようとする人たち。

   下の村人は、そういう人間が多い。

   そんなことを考えていると。

   少女は、山道沿いに倒れた大木、私の隣を指差して、

 

「ここ、座っていいですか?」

 

   にっこりと笑って、もう座っている。

 

「涼しいですねぇ」

 

   私は視線を外した。

   何も言わない。

   彼女は村人に違いない。きっと、新入りだ。

   戦から逃げ出した隣村の子か何かなのだろう。

   だから、下の村のことは明るくなく・・・

   私のことは、きっと知らない。

   私とは関わらない方が良いだろう。

   あとで村八分にされるのは、かわいそうだ。

   無視を続ける私。

   微笑み続ける、少女。

   ・・・場が持たない。

   私は朝食の準備をしようと、沢へ下る獣道へ向かう仕度を整える。

   長い髪を背で縛り、しゃがんでから草鞋の紐をきつく編み直す。

   と、その時のこと。

 

「あっ、すごい!」

 

   背後で、少女が何かを見つけた。

   いつの間にか、ゴソゴソと私の住まいの中を漁っていたらしい。

   大木の根本の穴の手前、腰だけが見えている。

   ずぼっ、と上半身を引き抜いてから、少女が何かを両手で掲げた。

 

   お手玉だった。

 

   三つある。粗末な布を継ぎ合わせて作ってある。

   ・・・覚えが無かった。

   こんなものを、私は持っていただろうか?

   今ここにあるのだから、持っていたのだろう。

   きっと、下の村から調達してきた戦利品の中に、紛れていたに違いない。

 

「遊びましょ、これで!」

 

   屈託の無い微笑みから視線を反らし、私は言い放った。

 

「・・・あげるわ」

 

「えっ?」

 

「あげるから、もうここにはこないで」

 

「わー、じゃあ一緒に遊びに行きましょう!

  お手玉とか、いろんなもの持って!」

 

   私の言葉は通じていなかった。

   本当に異国の少女かもしれない。

   私は答えずに朝の森を下り始めた。

   私の背後で、少女がお手玉を始める。

   童謡が聞こえる。ぽて、という落下音も。

   あまり、上手くないようだった。

   しかしなぜか、その歌声は懐かしかった。

   少女はお手玉に夢中で、私が去ったことに気づいていなかった。

 

 

 

 

   獣道が平らになった頃、森が林になり、視界が開けてくる。

   大木の影に身を寄せて眺めると、そこはもう村外れの田畑だった。

   人影は、見えない。

   沢に出るには、田畑の中の一本道を四半刻の間、歩き通さねばならない。

   なるべく、村人には会いたくない。

   曲がりくねった一本道を見通し、村人がいないことを確かめてから、私は道に出た。

   できるだけ、早歩きで歩く。

   音を立てずに。

 

   がさがさ、と前方で音がした。

 

   稲穂の霞の中で、何かが立ち上がる。

   私は身をすくめた。

   村人だった。二人いる。

   落ち穂でも拾っていたのだろう、座っていたので見えなかったのだ。

   私は早歩きを止める。

   かと言って、引き返したりもしない。

   私が始めに歩いていたのだ、そんな意地があった。

   相手も私に気づいたのか、近寄ってくる。

   遠くて気づいてはいないのだろう、私、ということに。

   二人は母娘のようだった。

   微笑みながら、近づいてくる。

   その姿が眩しくて、私は顔を反らす。

   きっと、朝の挨拶でも考えているのだろう。

   あと十歩のところで、母親が立ち止まった。

   娘の手を引き、道端に駆け寄る。

   母親の声がした。

 

”ほら、蛇の子だよ”

 

   私に聞こえるような声で、言った。

 

”あの顔を覚えておくんだよ。

 あの子に近寄っちゃ、いけないよ。 蛇に呪われるからね”

 

   そのまま、私が通り過ぎるのを待ち、去っていった。

   もう馴れたから、何も感じなかった。

   何より、それは事実だったから。

 

   私には蛇が取り憑いている。

 

   それが何処に居るのかはわからない。

   私に近づく者があれば、何処からともなく這い出して、襲う。

   私もただでは済まない。

   咬まれると、熱が出て激痛が走る。

   幼い頃、山道に遊びに来た幼子が死にかけたことがあった。

   それ以来、私は村人から遠避けられるようになった。

   殺されなかっただけ、ましなのだろう。

   村人は「私に近づく者」に祟りが降りかかると思っているらしい。

   しかし違う。私は知っている。

   あの蛇は、私と親しくなった者を殺すのだ。

   私は呪われている。

   だから、独りで生きねばならない。

   それだけが、私の知っている全てだった。

 

 

 

   沢に出る。

   仕掛けを隠した場所は、すぐにわかった。

   大漁だった。

   鮎だか岩魚だかの背が、大きな手編み篭の中で泳ぎ廻っている。

   三尾もあれば、一日分の糧になる。

   篭の中に泳がせておけば、逃げることもない。

   余れば、明日の分にすれば良い。

   しかし・・・

   ふと、少女の歌っていたお手玉の詩を思い出した。

   なぜか私は、二人分の魚を手にしていた。

 

 

 

 

 

「おいしいっ!」

 

   見ている方まで美味しく感じられる、笑顔だった。

   その笑みを見つめながら、私は自分に尋ね続けていた。

   なぜなのか、未だにわからない。

   なぜ、この娘を?

   まだ、家族とか友人というものに未練があったのだろうか?

   私と親しくなれば、この娘は殺されてしまう。

   それなのに、なぜ?

   それに・・・

 

「あなたは誰?」

 

「知らない」

 

   もの凄く素直な答えだった。

   私と視線を合わせ、まっすぐに見つめている。

   めずらしく、真剣な表情。

   嘘をついてるようには見えなかった。

 

「けさ、目が覚めたらここにいたの」

 

「何も覚えてない?」

 

「お姉ちゃんに会いに来たの」

 

「・・・どうして?」

 

「わかんない」

 

   言いながら、二つめの焼魚にかじりつく。

   負けじ、と私も頬張る。

   食べ物を取り合うなんて、初めての経験だった。

   食事が楽しいものであることを、私は知った。

 

 

 

   食後には、少女がお手玉で遊んだ。

   時間だけはあったので、何百回と練習した。

   少女は帰る気が全く無いようだった。

   そして、月が登る頃・・・。

 

「できたっ」

 

   私は少女を見る。

   たしかに、三つのお手玉は宙を舞っていた。

   うまかった。

   何かが取り憑いたように、まるで生き物のように舞っている。

 

「やってみて!」

 

   勧められる。

   もちろん、断った。やったことがない。

   だから、なんとなく悔しくて。

 

「だいじょうぶ!

 このお手玉さんも遊びたがってるから。

 ずっとずっと、お姉ちゃんのこと、待ってたんだって」

 

   うろたえる私に、強引に持たせる。

   そのとき。

 

   ぐらり。

 

   視界が揺れた。

   一瞬、そのまま倒れそうになる。

   ・・・記憶を思い出そうとする時に似ていた。

   その時、叫び声が聞こえた。

   少女ではない。

   私でもない。

   手にしたお手玉が「叫んでいる」。

 

 

 

               ” 舞うのじゃ! ”

 

 

 

   子供の声だった。

   泣きながら、叫んでいる。

   ・・・胸が痛くなった。

 

「お姉ちゃんっ?!」

 

   少女の声が彼方から聞こえてくる。

   意識が遠くなる。

 

 

 

 

 

 

 

   ・・・私は夢を見ていた。

   めずらしいことだった。

   私は生まれてこの方、夢というものを見たことが無い。

   眠って見る夢も、想い願う夢も、両方。

 

   暖かい夢だった。

 

   その夢の中、私はまだ幼くて。

   衣服を着けるにも、手伝う伴がいた。

   どうやら私は高貴な家の生まれらしい。

   場所は山の中。

   食とか生活は、今と大して変わりがない。

   ただ一つ、異なること。

   その夢の中、私は独りではなかった。

   女と男が、そばにいる。

   いつも一緒に。決して離れずに。

   こんな場所で、なぜ一緒に暮らしているのか。

   その理由は見えなかったが、気負うことなく私たちは過ごしていた。

   夢の中、暇さえあれば、私はお手玉に興ずる。

   なぜそんなに必死に習うのか。

   それもわからない。

   ただひたすらに、誰かのために。

   誰かに喜んでもらうために、私は頑張っていた・・・ように思う。

   歌っている詩に、聞き覚えがあった。

   それは、あの少女が歌っていたものだった。

 

 

 

 

 

 

   はっ、として瞼を開く。

   目を覚ますと、まだ夜中だった。

   見慣れた、狭い幹の穴の中。

   上半身を起こして、見回す。

   いや、少女はちゃんと居た。

   私の腕の中。

   心地良さそうな寝息が聞こえている。

   消えてはいなかった。

   居てくれた。

   とても良く眠っている。

   倒れた私をここまで運んできてくれたのだろうか?

   どうして、こんなに・・・

    この少女は私に優しいのだろうか。

 

   少女を起こさぬように、外に出た。

   月が天の真ん中に座している。

   ずいぶん長い間、眠っていたらしい。

   あの夢は何なのだろうか?

   今日はおかしな事ばかり続いている。

   頭を振り、気持ちを落ち着けようと、もう一度月を見上げた。

   煌々とした輝きが辺りを・・・・

 

   ・・・照らしていなかった。

 

   辺りは、いや、正確には私を取り巻く空間は、闇に包まれていた。

   見上げれば、月はある。山の木々も見える。

   ただ、私の視線の高さから下は、黒い靄が溜まるように真っ黒に染まっている。

   その中に二つの小さな赤い点が光った。

   見つめていないと闇に溶けてしまいそうな、淡い輝き。

 

   蛇だった。

 

   ついに来た。

   闇に馴れた視野に、幾つもの血の飛沫のような点が浮かんでいる。

   住処を中心に、完全に包囲されていた。

   尋常な数ではない。

   こんなに現れたのは初めてだった。

   草の擦れる音が、近づいて来る。

   震える足に命じる。あの子の元へ、と。

 

「あっ、蛇!」

 

   目を擦りながら、少女が現れた。

   走り寄って抱き上げる。

   何匹か、踏み潰した。

   既に足元は濡れた輝きに満ちていた。

   霞む月光を頼りに、一番低く太い枝を探し出す。

   私の目の高さの枝を見つけ、少女の腰を抱え上げた。

 

「いっ!」

 

   刺痛が脛に走った。

   すぐに痺れて、感覚が消えた。

   崩れ落ちる。赤い蛍の塊の中へ。

   もがく。

   しかし、半身の感覚が途絶えていた。

   生きた海が、私を沈めようと絡み付いてくる。

 

「お姉ちゃんっ! お姉ちゃんっ?!」

 

   叫んでいる少女の方を見る。

   少女の腰掛けた枝の横、そのすぐ近くの幹を蛇達が這っている。

   しかし彼らは一直線に私に向かっていた。

   直感する。

   蛇には、少女が見えないのだ。

   まるでそこに居ないかのように、少女の存在を無視している。

   なぜかはわからない。

   とにかく、襲われているのは私だけだった。

   大の字に、仰向けに押さえつけられる。

   しかし、咬もうとはしてしない。

   ・・・いつもと違う。

   蛇は、私と少女の接触を断とうとしているようだった。

   首に巻き付いていた一匹が、鎌首をもたげて私を見た。

   意志の無い、赤い輝き。

   そのとき、耳の奥の方、頭の中心で枯れた木の裂けるような音が聞こえた。

 

   ・・・声だった。

 

 

 

                 我らは呪う

 

 

 

   棒読みだった。

   何の感情も、込められていない。

   呪う、と言っているのに、まるでその気が無いような・・・

   呪うことに疲れ切った、そんな声だった。

   それでも、言葉は続いた。

 

 

 

 

                 我らは呪う

 

              おまえは幸せにはなれない

 

            おまえは幸せになってはならない

 

                 我らは呪う

 

              おまえの翼を血に染める

 

           その白を赤に黒に涙の色に染め上げる

 

 

 

   翼って、何だ?

   私には何のことだか理解できない。

   それでも声は続いた。

   言葉にはなっているが、意味の無い呪文のようだった。

 

 

 

                 我らは呪う

 

                 おまえを犯す

 

                肉ではなく心を

 

              二度と天へ戻れぬように

 

 

 

   ぞくっ、と背筋を冷たい感覚が走る。

   気がつくと汗まみれになっていた。

   違う。

   何かが違う。

   いつもと違う。

 

   蛇は焦っている。何かを恐れている。

 

   そして今までと違うことと言えば、ただ一つ。

   この少女のこと。

   蛇が感知できない、この少女の存在。

   彼女が現れたことで、何かが変わろうとしている。

   それを押し留めようと、蛇は今までにない策を講じている。

 

 

 

 

                  夢を見ろ

 

                 終わらぬ夢を

 

              おまえが飛ぶにふさわしい

 

               血に染まった空の夢を

 

 

 

 

   その言葉をきっかけに。

   絡み付いた蛇が、入ってきた。

   皮膚など幻であるかのように、するり、と入り込んだ。

 

   絶叫した。

 

   誰にも届かない、叫び。

   蛇が這い廻っている。

   私の魂を求め、躰の中を蹂躙する。

   左の胸の奥に刺痛が走った。

   それが、何度も続く。

   もう偽りの声も上げられなくなり、私は蛇達のなすがままになった。

   痛みが映像になる。

   真っ赤に燃える夜空。

 

   ・・・思い出した。

 

   そこから始まった夢は・・・・・遠い昔に見続けていたあの夢だった。

 

   男女に見送られて、天に向かおうとする、私。

   私の背には、なぜか翼があって。

   空に向けて、私は飛び立った。

   その私の足首が、捕まれた。

   蛇だった。

   いや、蛇の姿をした、何かだった。

   それは「恐れ」だった。

   相手を疑い、自らを疑い、相手を消さねば自分が消されると疑う、意識。

   蛇は増え、足首から腰へ、胸へ、翼に絡んでいく。

   動けなくなった。

   矢が射かけられる。

 

   痛みはなかった。

   叫ぶこともできなかった。

   身体が弾けるのを感じた。

   けれど、蛇はいつまでも私に絡み付いていた。

 

 

   次に気がつくと、私は山道に立っている。

   いつもの場所に戻っていた。

   目の前に男が倒れている。

   大の字に、うつ伏せになって。

   肩口から腰までに、一文字の刀傷がある。

   渓谷のような深い傷だった。

   辺りは血の海だった。

   大地が吸い取れないほど、傷から吹き出したようだった。

   歩み寄る。

   足が震えていた。

   しかし、操られるように身体だけが動いていく。

   見たくなかった。

   あらがう。

   身体が言うことを聞かない。

   自分の足を見る。

   蛇だった。

   何十という蛇が絡み、私の足を、身体を勝手に操っている。

   亡骸まであと三歩。

 

「あ、ああ・・・」

 

   顔を背ける。

   そこに倒れている男が誰かを、思い出したから。

   それでも躰は操り人形のように動いていく。

   膝が折れ、私の手が男の頬に伸び、そして・・・・・

 

 

「やめなさいっ!」

 

 

   凛とした叫びが、森に響き渡った。

   声の主を見る。

 

   あの少女だった。

 

   震えたその手には、朽ちた木片が握られている。

   少女は退かなかった。

   向かってきた。

 

「わたしの友達をいじめないで!」

 

 

   私は信じられなかった。

 

   大切な人の死、何度も繰り返された、無限の悪夢。

   ・・・そうだ。

   私は、そこから逃げ出すために、孤独を演じてきたのだ。

   もう誰も傷つけたくない、傷つきたくもない。

   そんなある日に現れた、友達になろうと言う少女。

   それを邪魔するために蘇った、悪夢。

   また繰り返されるのだろうか?

   あの無限の悪夢が。

   しかし・・・

   その無限に、彼女は入り込んできた。

   小さな、微笑むことしか知らないような少女が、私を助けようとしている。

   私は信じられなかった。

 

   えーい、と少女は私の足下の蛇を踏み付けた。

   ぱちん、という音と共に、踏まれた蛇が、消える。

   蛇が恐れた理由は、これだった。

   なぜかはわからない。

   しかし、この少女は蛇と相反する力を持っているのだ。

   私の足元の一群が離れ、地面を這う。

   まだ、少女の姿が見えないらしい。

   震えながらも、それらを踏み潰していく少女。

   しかし、それは蛇の策だった。

   いつの間にか、少女は蛇の輪の中心に閉じ込められている。

   見えなくても、包囲してしまえば同じ事だ。

   そして相反する力が、少女にも作用するのだとしたら・・・・

 

「逃げて!」

 

   私は叫んだ。

   あれだけの数が一斉に襲いかかったら。

   消えるのは蛇ではなく、少女の存在の方かもしれない。

   私の声で状況を察したのか、少女は真っ青になって出口を探した。

   ・・・無い。

   飛び越せる距離は、全て蛇の海になっている。

   そして、その包囲は少しずつ縮んでいき・・・

 

「もうやめて!!」

 

   私は叫んだ。

   なぜだ。

   なぜこんな目に遭う?

   私が、あの少女が何をしたというのだ?

   全てを、呪いたくなった。

   祈り、ではない。

   祈る神や仏がこの場を傍観しているなら。

   私は全てを呪うだろう。

   その呪いを言葉にしようとしたとき。

   少女と視線が合った。

 

  空色の瞳は怯えてはいなかった。

 

   少女は逃げるのを止めていた。

   しかし、闘うのを止めたわけでもなかった。

   その瞳には何者も寄せつけない、高貴な輝きがあった。

   じりじり、と迫る蛇達に一矢を報おうと。

   私より小さな、か弱い少女が、立ち向かっている。

   私は思った。

 

  負けてはいけない。

 

   弱音を吐いては、いけない。

   それだけは絶対に譲れない。

   頼れる神はいない。

   明日も、無い。

   けれど今、あの少女を裏切るような真似だけは、決してしてはならない。

   蛇達が少女の足元に絡み付き始めた。

   ぱちん、という音が連続し、蛇達が弾けて消えていく。

   しかし、少女も・・・

   着物から覗く、その白いすねが透けて見える。

   おそらくは蛇達の目論見通り、少女の存在が消え始めているのだ。

   それでも彼女は怯まなかった。

   もう一度、視線が合う。

 

  微笑んでいる。

 

   まるで助かることが運命であると、知っているかのように。

   私は知りたかった。

   あの少女に満ちている力は一体何だ?

   何が、あんな少女に力を与えているのか?

   神か? 仏か?

   それとも・・・

   蛇が少女の腰辺りに巻き付き始める。

   そのとき。

   澄んだ声が森に響き渡った。

   少女が天を仰いで、こう叫んでいた。

 

 

 

「力を貸して、お母さんっ! 往人さんっ!」

 

 

 

   叫びながら、何かを天に向かって放り投げる。

   白く輝く、何か。

   あのお手玉だった。

   それはとても少女の力とは思えない力強さで、天を目指す。

   脈動する、輝き。

   それはまるで、天に還っていく流れ星のようだった。

   三つの輝きが雲に届き、それを貫いた次の刹那。

   彼方の空で、轟音が鳴り響いた。

   何かが砕け散る音だった。

 

   見えない破片が、私に突き刺さった。

 

   痛みではない、純粋な衝撃だった。

   母の死。

   赤く燃える空。

   月の扉。

   射かけられる戦矢。

   そして、呪いの声。

   それらは閉ざされていた私の記憶だった。

 

 

              ” いやじゃ 眠っていたい ”

 

 

   私の中で、私が叫んだ。

   もう苦しみたくない。このまま、この山の中で朽ち果てたい。

   私は、そう思う私を認識している。

   私は、引きこもる私を哀れみの眼差しで見つめている。

   そういう私は何なのだ?

   ・・・誰でもいい。

   私は私を救いたい。

   私は私を幸せにしたい。

   山道に座り込み、頭を抱えて泣きじゃくる私。

   私は、その哀れな私に歩み寄る。

   手を差し伸べようと、しゃがんだとき。

   私の髪が、伸ばした自分の腕にこぼれた。

 

   金色の髪だった。

 

   私はあの少女になっていた。

   あの少女は私だった。

   伸ばした指が、まだ幼い私の黒髪に触れる。

   怯える、私。

   視線が合う。

   恐る恐る、震える指が伸ばされる。

   握りあう。二人が一人になる。

   全ての記憶が、巻き戻されていく。

 

   もう一度、空が鳴り響いた。

   森の闇を貫いて、一条の光線が大地を目指している。

   天からだった。

   白い輝きが先程にも増して強く、明るく脈動している。

   その行先には、あの亡骸が倒れていた。

   光線が骸に命中する。

   爆発する。

   声が響いた。

   たくさんの声。

   その光には想いが込められていた。

   それは数百の人間の、純粋な想いだった。

   光から言葉がこぼれてくる。

 

 

 

             「幸せになりたい」

 

 

    「あなたを幸せにしたい」

 

                  「みんなで幸せになりたい」

 

 

 

   そして。

 

 

 

 

      「「「「「「「「「「 みんなで幸せに、なる 」」」」」」」」」」

 

 

 

 

   白い光が爆発した。

   眩しくて、何も見えない。

   蛇達が私の身体を離れていく。

   何かを警戒しているようだった。

   光は空間に染み込んでいき、山道の背景が蘇ってくる。

   数百の頭が、骸のある方向を睨んだまま、絡み合っていく。

   絡み合った蛇は溶け合い、太い生き物になった。

   大蛇だった。八つの首があった。

   その首が一点を見つめ、乾いた硯が擦れるような威嚇の声をあげた。

   光が完全に晴れる。

   そこに私は、見た。

 

   一人の男が大地を踏みしめ、立っていた。

 

   骸ではない。

   生きている。

   その鼓動がはっきりと聞こえてくる。

   男が静かな声で、言った。

 

 

 

 

 

 

 

「待たせたな、神奈」

 

 

 

 

 

 

 

   伏せていた、抑えていた感情が吹き出した。

   一瞬で、私は男の名を思い出していた。

 

「りゅ、りゅうっ」

 

「おおよそ千年、か・・・長かったな」

 

   にやり、と笑う。

   あの日のままだった。

   私を見て、叫んだ。

 

「神奈、おまえは独りじゃない」

 

   言いながら、背にしていた大剣を抜刀する。

 

「こんなにたくさんの人達が、外でおまえを待っている」

 

   真っ直ぐな両刃の、異国の剣だった。

   刀身に異国の文字がびっしりと刻まれている。

   そしてそれは輝いていた。

   光の想いに満ち満ちていた。

   その輝きを見た大蛇が後ずさる。

   柳也が歩を進める。

   構えもしない。

   負ける気がしないようだった。

 

「こいつは人間じゃあ、ない」

 

   柳也の眼差しが、大蛇の赤い瞳を貫いた。

 

「ましてや、生き物でもない」

 

   後ずさっていた大蛇が、突然跳ね飛んだ。

 

「翼人を恨む、死者たちの怨念。

 あの坊主たちはそれを寄り合わせて、おまえを空に封じた」

 

   柳也は、微塵も避けずに、刃を横に一閃する。

   斬激だけではなかった。

   振れば星の輝きが舞い散る剣だった。

   光の爆発が大蛇を跳ね返し、その動きを止めた。

 

「だから、封印が朽ちてもおまえを苦しめている。

 俺が苦しんで死んだ夢を、おまえに見せ続けて。

 おまえが癒されないように」

 

   大蛇が起き上がった。

   が、すでに力無く、すぐに大地に伏す。

 

「なあ・・・」

 

   柳也は刀を下げ、歩み寄った。

   柳也の視線は大蛇に向けられたままだった。

   しかし・・・

 

   柳也は泣いていた。

 

   その瞳は哀しみに満ちていた。

   そのまま、大蛇に向けてさらに歩み寄った。

 

「一度、負けた俺だから・・・よくわかるよ」

 

   大蛇が再び威嚇する。

   しかし、それは弱々しい鳴き声に変わっていた。

   その大剣は、たった一撃で邪な力を砕いたようだった。

 

「おまえたちも、苦しいんだろ?」

 

   私が止める間もなく、柳也は地に剣を突き立て、大蛇のすぐ横に膝を着いた。

 

「翼人の一撃。

 自分の死の苦しみの中、天空を舞う翼の人。

 これから自分は死んでいくのに、自分に死を与えた者は軽やかに天を舞っている・・・」

 

   空を見る。

   私には、わかる。

   きっと、柳也の目にはあの日の戦火に燃える夜空が浮かんでいるのだろう。

 

「翼人を呪う気持ちは良くわかる。

 いや、それだけじゃない。

 戦への憎しみ、何もできない悔しさ、それもわかる。

 でもな・・・・」

 

   柳也が私を見た。

   優しく。あの日のままの笑顔で。

 

「神奈たちは、おまえたちを、俺たちを救うために居るんだ。

 憎む相手じゃあないんだ」

 

   大蛇の八つの首も、私を見た。

   赤い瞳。

   恨みに燃える、その色が紫に。そして、青に変わっていく。

   澄んだ、青。

   空の色。

   高い、人の哭く声で、大蛇が咆哮を上げた。

   震えながら、もう一度、その太く長い胴を縦に伸び上げる。

   そして、そのまま動かなくなった。

 

「・・・わかった」

 

   柳也は大剣と共に立ち上がった。

   目を閉じて、両手持ちの大剣を頭上に掲げる。

 

   一閃する。

    星が走る。

    空気の裂ける、高い音が追う。

 

   一刀両断だった。

   縦に裂かれた胴の、切断面が輝いている。

   輝きは炎になり、燃え上がった。

   その炎の中から、何かが舞い上がっていく。

   何も見えないが、そこだけ炎の像が歪んでいる。

   ひとつではない。

   たくさんの、泡のようなもの。

   ひとつきりのものもあれば、いくつか寄り添い合うものもある。

   宙空に昇り、それから私の方に漂ってくる。

   近寄ると、声が聞こえてきた。

   哀しみや、苦しみだった。憎しみもあった。

   ・・・けれど、私は恐くなかった。

   恐れれば、それらは呪いになる。

   私は両手を広げて、それらを迎えた。

   私は知っている。

   私は、全てを受け入れねばならない。

 

   私の中に、もう一度入ってくる。

 

   痛く、苦しかった。

   でも、耐えられた。

   みな、同じなのだ。

   この苦しみは生きている限り、着いて離れない。

   でも、それだけではない。

   その苦しみの中には、幸せも隠れている。

   苦しみだけ寄せ集められた、亡者たちの苦しみ。

   それが、私達に刻まれた、彼らの幸せの記憶と寄り合っていく。

   螺旋を描き、苦しみと幸せが一本の縄になっていく。

   縄はさらに寄り添い、太くなり。

   それが生命樹の幹に育っていく。

   その天の側を持って、高みに昇る者。

   それが私の役目なのだ。

 

   膝をついて、私は泣いていた。

 

   母達は皆、この連鎖に生きていた。

   私は、その連なりの最後である私は、耐えられるのだろうか・・・

 

   ぽん、と叩かれる。

   頭の上に柳也の手があった。

   大きくて、優しい手。

 

「ありがとう」

 

   暖かい、あの日のままの手。

   挫けそうになった私を、救ってくれた手。

   柳也は私の両肩を強く抱き、立ち上がらせた。

 

「おまえを迷わすものは、もういない」

 

   私は気づく。

   柳也の片手の中の刀身の輝きが消え、刻まれた文字が一つ一つ消えていく。

 

「神奈、おまえは独りじゃない」

 

   柳也の輪郭が揺れている。

   この柳也の役目が、終わろうとしている。

 

「これまでも。そしてこれからも」

 

   役目を終えた刀身が、崩れ去った。

 

「俺は苦しんで死んでなんか、いない」

 

   そう、柳也は生きている。

   私の中で。

 

「おまえのおかげで、俺たちはあの戦を生き延びることができた。

 ・・・いい一生だったよ。

 あれからずっと、裏葉が側にいてくれた。家族もできた」

 

「裏葉が・・・?」

 

「なんだ、妬いてくれるのか?」

 

「・・・裏葉なら、許す」

 

   柳也が笑った。豪快に笑った。

 

「俺は幸せだった。それだけをおまえに伝えたかったんだ。

 辛かったが、最後は幸せだった、と」

 

   柳也の瞳は、やりとげた者の瞳だった。

 

「だからおまえも、最後は幸せになれ。

 ・・・女の子が迎えに来ただろう?」

 

   うん、と私はうなずく。

 

「強い子だ。俺だってかなわない。

 ・・・ずっと、ずっと見てたんだ。裏葉と二人で。

 俺達が、次の俺達に継いでしまった運命を。

 何人も何代も苦しませてしまった。

 その度に責めたよ。自分達を。

 そして呪ったよ。あの坊主どもを」

 

   柳也がもう一度空を見上げた。

 

「ただ、な。

 あの空の上から見下ろすと・・・あいつらも同じ人間なんだな、って。

 死の苦しみにあらがって、のた打ちまわっている人間なんだ、って。

 だから、祈らずにはいられなかった。

 あいつらを含めた、俺達人間の罪を償うために。

 でもな・・・・」

 

   柳也と視線が合う。

   戸惑い、申し訳なさそうな表情。

   私はこんな柳也を見たことが無かった。

 

「でもな、神奈。

 おまえはどうだ? おまえは許してくれるのか?

 こんなに情けない人間ってヤツを?

 ここに住んでいていいのか、俺達は?」

 

   真剣な眼差し。

   私は考える。

   私は全てを知っている。

   人間の私達への仕打ち。

   閉じ込められ、少しずつ減っていった生命たち。

 

「・・・私は翼人」

 

   そう、翼人という言葉を私は思い出していた。

   私は人間では、ない。

   でも、知ってしまった。

   人間の幸せというものを。

   柳也が、裏葉が教えてくれたものを。

   そして、母が残してくれたものを。

   それは決して憎しみや苦しみや哀しみだけでは、なかった。

   ちっぽけな、他愛のない、幸せ。

   それを望んで人間達は、争う。

   ・・・醜い。

   そして、可哀想。

   望むものは同じなのに、信じることができない。

   もっと他人に優しくなれればいいのに。

   ・・・でも、それだけではなかった。

   人間は決して、醜く弱いだけの生き物ではなかった。

 

「翼人は神ではない。

 全てを知っていても、裁くことはできない」

 

   そう、私は全能ではない。

   翼人の価値判断は単純だ。

   好き、ということ。

   愛している、ということ。

   そしてそれは皆、同じだった。

   太陽は、自分から生まれたこの星を愛し、

    この星は、自分から生まれた生命を愛している。

   ただそれだけで、この世界は始まった。

 

   だから、私は・・・

 

 

「余は・・・いえ、私は・・・

  柳也が好き。

  裏葉が好き。

  あの子が好き。

 怯えている、他人を信じられない人達も可哀想だと思う。

  ・・・愛せると思う。

 そんな人達が、いつまでも静かに幸せに暮らしていける・・・

 そんな大地を、守っていきたい」

 

 

「ありがとう」

 

   柳也の輪郭が輝きだした。

   薄れて消えていく。

   最後にそっと、私を抱きしめてくれた。

   父のようだ。 なぜか私はそう思った。

 

「おまえは強い子だな」

 

「あの子ほどじゃ・・・ない」

 

   そうだな、と柳也が離れる。

   それから宙空の一点を見つめた。

   少女の居た場所に、一本の羽根が浮かんでいた。

   白く輝いている。

 

「あの子は、おまえを忘れなかった。

 あの子たちは、決して負けなかった。

 次こそは、次こそは、と・・・決して希望を失わなかった。

 おまえが望んだ幸せを、届けるために。

 その全てが、ここにある。

 

 ・・・受け取ってくれ、神奈」

 

 

 

 

                 そうだよ

 

 

 

   少女の声が聞こえてきた。

 

 

 

 

 

            わたし、あなたに届けに来たの

 

 

      あなたが欲しかったもの、したかったこと、全部もってきた

 

 

            お母さんや、大切な人や、家族を

 

 

 

 

 

   指を伸ばし、羽根を手に取ろうとした。

   触れた瞬間、浮力が失せ、手の平に舞い降りる。

   輝きが増す。

   両手で支え直す。

   まるで光に重さがあるかのように。

   暖かい光だった。

   その中に、少女の思い出の全てがあった。

 

   ・・・少なかった。

 

   ひと夏の、とても短かい思い出だった。

   しかし私には、宝石・・・いや、星々の輝きのように見えた。

 

 

      友達。

 

      たいせつなひと。

 

      独りではない、食卓。

 

      独りではない、散歩道。

 

      二人きりの、祭り。

 

      そして、母。

 

      独りではない、という事。

 

      ただそれだけで、暗く寂しい世界は輝きの世界に変わった。

 

      ・・・この世界の始まりのように。

 

 

   私は知った。

   この短い夏の日が、少女にとっての人生だったのだ、と。

   いや、たとえ短くても、こんなに輝いた時を生きた人間がいるだろうか?

   少女の思い出は、最後の一葉にたどり着く。

   少女の視界。

   その記憶の中で、私は少女になっていた・・・。

 

 

 

 

   背の高い女性が目の前に立っている。

   彼女までの距離は、三歩ほどだった。

   女性は泣いていた。

   何か叫んでいた。

   もはや、少女にはその叫びは届いていないのだろう。

   それほど、少女はすり減っていた。

   だから、私にも聞こえなかった。

   痛みがあった。

   背中、いや、その先の何もない場所が痛い。

   でも、その女性の顔を見つめると・・・痛みが遠のいた。

 

   ・・・とて。

 

   少女が一歩を踏み出す。

   視界が霞む。

   少女にはもう、何も見えない。

   それでも、何かが輝いている。

   白く、そして優しい輝き。

 

   翼だった。

 

   ぐらり、と揺れる。

   少女の身体は限界だった。

   もう、歩けない。

   がんばれ、と私は叫んだ。

   力を込める。

   少女を支えるように。

   少女も私に気づいたようだった。

 

   ・・・とて・・・

 

   あと一歩。

   力を込める。

   でも、痛みは激しかった。

   今度は私が倒れそうになる。

   少女の声が聞こえる。

 

「・・・ゴールするね」

 

   それは私に向けられた言葉だった。

   もう一度、前を見る。

   輝きの中に何か見える。

   翼が揺れている。

   微笑んでいる、誰かの姿・・・

 

   母だった。

 

   輝きは私の母だった。

   私に向かって、両手を広げている。

   真っ白な翼。

   美しく長い髪。

   暖かい胸。

 

「ゴールするね」

 

   もう一度、はっきりとした声で、少女が言った。

   私は強くうなずいた。

   足が震える。

   私と少女は、一生分の力を込める。

   母の姿が、輝きが揺れる。

   意識が遠のく。

   もう、痛みすら感じなかった。

 

” がんばれ ”

 

   たくさんの声が聞こえる。

   何人いるかわからない。

   男の声があり、女の声があった。

   それだけではなかった。

   ありとあらゆる世界から、時の彼方から、それは聞こえてくるようだった。

   前を見る。

   母はそこにいる。

   回りにもたくさんの人々が待っていた。

   いつしか、私は少女の身体から離れていた。

   二人で肩を抱き合い、輝きを目指す。

   深呼吸する。

   空を見た。

   力が降り注いでくる。

   私はそれを少女に分け与えた。

   少女が微笑む。

   二人でうなずく。

 

   とて。

 

 

 

 

 

               「「 ゴールっ 」」

 

 

 

 

 

   抱きしめられる。

 

   羽毛の中に倒れ込む感触。

 

   太陽の香り。

 

   私は母の腕に抱かれていた。

 

   見回すと少女はもう、いなかった。

   母がいて、柳也がいて、裏葉がいて。

   たくさんの人がいた。

   私と同じ年頃の女の子たちだった。

   裏葉に似た人達もいた。

   みんな微笑んでいた。

   もう独りではなかった。

   痛みが消えていた。

   代わりに、背中に感触があった。

 

   私の翼だった。

 

   千年間忘れていた、私の翼だ。

   動かしてみる。

   母の腕の中、身体が軽くなる。

   羽ばたいてみる。

   母がうなずく。

   微笑んで、その両腕を広げてくれた。

   身体が宙に浮いた。

   見下ろすと、みんなが微笑んでいた。

   もう寂しくなかった。

   望めば、いつでも逢えることを、私は思い出していた。

   羽ばたく。

   しかし、なかなかうまくいかない。

   母が微笑んでいる。

   みんなの視線は私を越えた、より高い空に結ばれていた。

   そこを目指せ、と言っているようだった。

 

   戻ろう。あの高みへ。

 

   青空へ。

 

   空は決して冷たい所ではない。

   私は馴れない翼を精一杯羽ばたかせて、昇った。

   もう、誰にも邪魔はされなかった。

 

 

 

   昇るほど暗く、青くなる。

   その中に、尋常ではない一角があった。

   青い荊を人々の怨念で編んだ壁。

   それに覆われた球状の空間。

   封じの檻、だった。

   底の方に巨大な穴がある。

   荊が朽ちてできた穴だった。

 

   ・・・私は完全に記憶を取り戻していた。

 

   九百年前、荊は朽ち、結界は砕けていた。

   しかし・・・

   私の心も打ち砕かれていた。

   偽りの哀しみの記憶が、翼を鉛のように重く変えていた。

   私は飛べなくなっていた。

   結界が破れても、どこへも行けなくなっていた。

   ・・・寂しかった。

   かつての、優しい記憶を思い出そうとする。

   できなかった。

   私は恐かったのだ。

   記憶を覗けば、大切な者の死が見えてくる。

   それは、激痛に散っていった柳也の幻だ。

   封印と共に施された、私の心を打ち砕く呪い。

   だから、記憶を辿ることさえ、自由にならなかった。

   せめて夢を見ようと、目を閉じた。

   真っ暗で何も見えない。

   開いた穴から地上を覗くことにした。

   荊で切り取られた空の向こうに、地上が見える。

   人々の営みが見える。

   母子が見える。

   羨ましい、と思った。

   こんな夢を見ようと思った。

   その瞬間、「この私」はここから地上に落ちた。

   人間としての輪廻を繰り返すことになった。

   私の器になった人間は短命になった。

   それだけではない。

   私はそこで、独りぼっちだった。

   私に近づく者は皆、幻の中の柳也の痛みを与えられることになる。

   私が愛した者は、必ず、死ぬ。

   暖かい母の思い出は、与えられることがなかった。

   あの少女が成し遂げてくれるまでは・・・・・

 

 

 

   穴を潜り抜け、私は檻の中に滑り込む。

   そこに私が居た。

   凍り付いた、彫像のように動かない、私。

   ・・・もう、目覚めても良いのだ。

   何も苦しむことはない。

   何も哀しむことはない。

   少女が届けてくれたあの暖かい光が、私にはある。

   柳也は死んだ。

   でも、満ち足りて死んだのだ。

   今は私の中にいる。

   全て、終わった。

   いや、これから始めなければならないのだ。

   私は、あなたが創った夢の中の私。

   私はあなたに届けなければならない。

   あの少女がくれた光を。

   本当の私を目覚めさせるために。

 

   両手を伸ばし、母のことを想う。

   輝きが生まれる。

   それは私と彫像の中間に滞空して脈動する。

   次第に大きくなっていくその輝きに、身を任せる。

   私が溶けて消えていく。

   あなたの中へ。

 

 

 

   真実の私へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

 

 

   輝きが溶けて消える。

   瞼をゆっくりと開けた。

   一面の、青。

   私は空の上にいた。

 

   ・・・夢を見ていた。

 

   その夢の中で、私は独りぼっちだった。

   でも、最後に柳也が蘇った。

   呪いを打ち砕いてくれた。

   そして、少女が居た。

   暖かい、優しい思い出をくれた、少女。

   彼女はいったい誰だったのだろう?

   どこへ行ってしまったのだろう?

 

 

「・・・あのー」

 

   悩む私の背に、呼びかける声があった。

   ぎくり、と振り返る。

   私は独りではなかった。

   一人の娘が立って・・・いや、浮かんでいた。

 

   あの子だった。

 

   年格好は変わっているが、間違いない。

   この娘は、あの少女だ。

   私に母を思い出させてくれた、あの優しい少女だ。

   夢ではなかった。あの子はまだ、私の目の前に居る。

   ・・・なんとなく、私に似ている。

   しかし、人間だ。

   地上に生きていた、ただの人間。

   その彼女が、私と同じこの高みに浮いている?

   ふと、少女の背景が歪んだ。

   青い空間に白いものが揺れている。

   私は目をこする。

   しかし、それは消えなかった。

 

   翼だった。

 

   一対の、私よりも大きくて立派な翼が、娘の背にあった。

 

「こんにちはっ」

 

   娘が、ぺこり、と頭を下げた。

 

「あなたは・・・あなたは誰?」

 

   もう一度、その背を見つめる。

   翼人の感覚はない。

   それに、私は最後の翼人だ。

   だとしたら、この翼は、まさか・・・

 

「天使・・・」

 

「てんし? 

 ・・・ええっ?! どこどこ?」

 

   私は指を差す。娘に向けて。

   娘は背中を振り返り、

 

「わわわっ?!」

 

   本当に驚いていた。

   そして、自分の翼を指差して、私に問いかける。

 

「あのぉ・・・これ・・・?」

 

   うん、と私はうなずいてから言った。

 

「翼ね」

 

「やっぱり、翼・・・ですよね」

 

   きょろきょろ、と見回す。

   幼子のように、周囲の風景に瞳を輝かせている。

   それはそうだろう。この眺めを見た人間は数えるほどしかいないはずだから。

   娘の視線が、真下に止まる。

   綿毛のような白い雲。

   そこから覗く、茶色と緑の大陸。

   少し考え込んでから、娘が叫んだ。

 

「そうかっ!」

 

   ぽん、と娘が手を打った。

 

「雲の上ってことは、ここは天国なんですね?

  ということは、わたし・・・」

 

   はっ、としてうつむく。

 

「わたし、やっぱり死んじゃったんですね・・・」

 

   しん、とする。

 

   慰めようがなかった。

   事実だった。

   この娘に肉体は無い。

   人間、というよりはむしろ、私に近い存在になっている。

   魂だけでも存在できる、翼人に。

   私はもう一度、たずねた。

 

「あなたは・・・あなたは誰?」

 

「わたしはみすず。 神尾観鈴、っていいます」

 

「みすず・・・?」

 

「あっ、そうだ。

  まだお名前、聞いてませんでした!」

 

「私は神奈」

 

   神は無い。

   けれど、天使はここにいる。

 

「神奈さんのこと探してる人がいるんです」

 

   自分の涙を拭きながら、観鈴は言った。

 

「その人が言ってました。

 神奈さんは泣いているから、笑わせてあげたい、って」

 

   観鈴は心配そうに私を見つめ、近寄ってきた。

 

「わたしがんばって、いろんなもの届けに来たんですよ」

 

   ・・・私はすでに受け取っていた。

 

「観鈴・・・」

 

   私は飛び寄って、その少女を抱きしめた。

 

「あっ」

 

   触れて、その記憶を重ねた。

 

   観鈴は人間だった。

   もう一人の私だった。

   でも、行き場の無くなった最後の翼人、私の魂が彼女を選んでしまった。

   大地に生まれた、もう一人の私。

   私にかけられた呪いが、彼女を襲った。

   彼女を愛した者は、死ぬ。

   だから、少女は無意識に拒絶する。

   愛する者を傷つけないために。

   孤独な人生。

   それだけではない。

   私は気づいて、驚愕する。

   翼人の記憶が、人間という器に注ぎきれるわけがない。

   肉体と精神は擦り切れ、長くは生きられまい。

   特に、精神。

   翼人は全てを覚えている。

   自分が産まれる前の、空白の時さえも。

   何もない世界。

   あの静寂に、人間は耐えられない。

   ある朝、少女は全てを忘れてしまう。愛する人の名さえも。

 

   ・・・それなのに。

 

   それなのに、この少女は最後まで私を忘れようとしなかった。

   彼女の人生にとっての元凶である、私を。

   小さな幸せを、私に届けるために・・・

 

   ・・・・・。

 

「・・・ありがとう、観鈴」

 

   私は少女を強く抱きしめた。

   辛かったろう。

   苦しかったろう。

   しかし、それでも彼女は、やりとげたのだ。

   そんな彼女に、私は何をしてやれるのだろう。

   私に何ができるだろう。

 

「飛びたい」

 

   唐突に、思った。

 

「あなたの方がうまく飛べると思う。

  観鈴、飛び方を教えて。 私は・・・私は・・・」

 

   観鈴の瞳は、深く優しい空の色だった。

 

「私は還らなくてはならない」

 

   私は私のなすべきことを。

   私は飛ばねばならない。

   この娘が届けてくれたものを、伝えに行かねばならない。

   この星の大地の営みを、絶やしてはならない。

   それが観鈴に対しての精一杯の恩返しだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「がんばって! そう、もう少しっ!」

 

   観鈴と手をつないだまま、私は羽ばたき方を学んだ。

   千年ぶりの翼は、うまく動かなくて。

   気を抜くと、落ちた。

   その度に観鈴は私を助けてくれた。

   母のように、抱きしめてくれた。

 

   空は広くて、私たちは何処にでも行けた。

   私が何とか一人で飛べるようになった、ある日のこと。

   雲間の向こうの何かに気づき、観鈴の羽ばたきが止まった。

 

「どうしたの?」

 

   私はその背に問いかけた。

   そおっと、彼女の視線の向こうを覗き見る。

   ・・・観鈴は、懐かしそうに大地を見ていた。

 

「あそこが、わたしのふるさと」

 

   龍のような島の連なりを指して、彼女は言った。

 

「お母さんがいて、そらがいて。

 往人さんが旅をしている、大切な場所」

 

「帰りたい?」

 

   ためらいながらも、観鈴はうなずいた。

 

「でもその前に・・・疲れちゃったから、少し眠りたいな」

 

   宙空で正座して、私は膝枕を勧める。

   躊躇していた観鈴だったが、眠気には逆らえなかった。

 

「神奈さん、何だか私のお母さんみたい」

 

   私は微笑んだ。

   観鈴は目をつむる。

   すぐに眠りに着く。

   長い髪を梳いた。

   お母さん、と観鈴は寝言を言った。

 

「ん・・・?」

 

   唇に耳を近づけて、聞いてみた。

 

「わたし・・・」

 

   かすれるような、弱い声。

   見てはいけないものを見ているような気持ちになった。

   それは普段の、微笑みに満ちた強く優しい観鈴ではなかった。

 

 

   観鈴は泣いていた。

 

 

 

「もう一度会いたい・・・

  お母さんに・・・往人さんに・・・・・」

 

 

 

   ・・・・・。

   たとえ翼を得ても、空を飛べても。

   観鈴は人間だ。

   人間の少女だ。

 

   私は知った。

 

 

   別れの時が来た。

 

 

   虚空に力を込め、柔らかい空間を創り出す。

   観鈴の魂を、そこに横たえる。

   それから小さな声で、そっと囁いた。

 

 

 

 

 

 

 

              あなたには、あなたの幸せを

 

               その翼に、宿しますように

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   空を舞う。

   私は最後の翼人。

   その翼で、望めば全ての場所へ行くことができた。

   しかし・・・。

   私が行くべき場所は、今はない。

   翼人の本能が、それを教えてくれる。

   私は全てを覚えていた。

   始まりの、小さな小さな生き物。

   彼らから生まれた、全ての生命。

   その営みが始まった、母なる世界。

   そこが私の行くべきところだ。

   その瞬間へ、この星の最初の記憶を届けるのが、私の役目だった。

   最後の翼人は、生命の始まりへ。

   私は母になる。

   全ての母に。

 

   一飛びで、雲の高みを越えた。

   水平線が円い。

   少女の魂が眠っている空を振り返る。

   紺碧の繭に覆われて、空の青に溶け込んでいる。

   そう、私は一つだけ仕掛けを施した。

   彼女は疲れている。だから、今は休まねばならない。

   そして、あの中で彼女は夢を見る。

   彼女の夢は大地に届く。

   彼女の魂を受ける器が、大地に生まれる。

   器となった少女は、夢を見るだろう。

   空に眠る、天使の夢を。

   それは私が見せられたような、哀しく苦しい夢ではない。

   ゴールした彼女が勝ち取った、幸せの記憶だ。

   愛する人、暖かい母、そして楽しかった夏休み。

   それは、彼女の願い。

   もういちど叶えよう、という願い。

   その願いが地上でもう一度叶えられた時。

   天使はもう一度、あの大地へ還ることができる。

   それまで、彼女は夢を見続けるだろう。

   待ち続けるだろう。

 

   この星の、優しい大気の中で。

 

 

 

 

 

   私は神奈。

   それは母がつけてくれた名前。

   神などなし、という意味。

   ・・・今なら母の想いが良くわかる。

   それは「神など必要ない」ということ。

   翼人は神ではない。

   そして人は皆、やりとげれば自ら天使になれるのだ。

   あの少女のように。

 

 

   もう一度振り向くと、蒼があった。

   青くて愛しい、私のふるさと。

   私たち翼人が夢を継いできた場所。

   今日までのその夢の連なりを、これから始めに行く。

   明日から先の、この星の夢は人間が綴っていくのだろう。

   どうなるかはわからない。

   しかし、確信はあった。

   大丈夫。

   優しさは、幸せは移り拡がっていくものだから。

   私はこれからも祈り続ける。

   たった今から、この星の大地はあの少女のために。

   少女と、少女の想いがいつまでも育まれますように・・・

 

   深呼吸して、目を閉じる。

   肉体はなくても、私の中に大気が満ちた。

   はるか昔から、全ての生命の呼吸を旅してきた分子たち。

   この大気に私は、なる。

   蒼が黒に変わる方角を仰ぎ見る。

   時流の言を唱えようと、力を込める。

   力一杯羽ばたく直前、一瞬だけ振り向いた。

   最後にひとこと、伝えたかった。

   同じ星に生まれた、強く優しい天使に向けて。

   敬意と友情と、愛を込めて。

 

   微笑んで・・・私は叫んだ。

 

 

 

 

 

               「さようならっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          ・・・・そして地球が、目を覚ます。

 

 

 

 

 

 

 

以上。

 

説明
AIRラスト後のお話。
救われた神奈は何処へ行ったのか。そして観鈴ちんはどうなったのか?
……などと膨らんだ妄想を一晩書き殴って完成しました。

書いていて気持ちよかったのは、柳也のシーン。
やっぱり眠り続けるお姫様を救い出すのは、騎士だと思うのです。

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