秋津学園高等部文化部棟最上階東端に、社会科学研究会は居を構えていた。

　会員は一年生ばかり四人がいるだけだが、良くも悪くもその四人が四人ともに、一般生徒という範疇に収まらなかった。

「ナオちゃん声が大きいヨ。菌がビックリしちゃったネ」

「クニオです！　いいから、貴女は服を着なさい。でないと、カーテンを閉めてしまいますからね」

「ハーイ」

　さすがに那緒の怒りが尋常でないと知ってか、ミーナも殊勝に従った。

「そうだよ、ミーナ、いくら暑くなってきたからって、まだまだ五月なんだから。そんな格好でおっぱいやら腰やらほうり出していたら、すぐに風邪をひいちゃうぞ」

　研究会の備品である型落ちのデスクトップＰＣの前に陣取っていた栂丈京は、そういって笑った。

「笑いごとじゃありません。そもそも、あなたに話があってきたんですよ、京さん。これはいったいなんですか」

　京の鼻先に突きつけられたのは一枚の紙だった。

「お、読んでくれたんだね。今回のはなかなかおもしろいでしょ」

　それは京の出している新聞だった。社会学研究会に籍を置く一方で、京は新聞部にも属しており、そこで一人で週刊新聞を発行している。

　どうして一人かというと、

「おもしろくありません！　なんですか、これは。時計台わきの鷺沢池に幽霊が出るらしいだなんて」

　主に取り扱うのがゴシップにかたよる癖があり、部が正式に出している紙面には載せてもらえないことが多いためだ。

「特に問題なのは、その原因についてです。悲恋の末、受験を苦にして、ひどいいじめを受けて、家庭の事情に耐えきれず入水した浮かばれないものがこの世に迷っただとか、果ては戦争中の食糧難のために亡くなった人の霊だとか。あまりにも一貫性というものに欠けるでしょう」

「しょうがないじゃない。そういう噂があるんだから」

　那緒の剣幕にも京は涼しい顔で、眼鏡を拭いている。

「しょうがなくありません。得られた情報を取捨選択することで、筋道というものは通るんです。これでは単なる話のごった煮です」

「ごった煮結構だね。あたしにしてみりゃ、筋道をたどるために恣意的に選択するなんて方が捏造に思えるよ」

「捏造とはなんですか、このわからず屋！」

「なんですって、この石頭！」

「こんにちはー」

　京と那緒の言い合いの続くなか、部室の戸が勢いよく開かれた。

　入ってきたのは井上えみり、彼女も社会科学研究会の一員だ。

「エミリ、よく来たネ」

　ブラウスのボタンもとめきらず、スカートのファスナーも半開きで、ミーナはえみりに突進して、そのまま両腕の中に抱きかかえてしまった。

「ちょ、ちょっと、隈楠さん。せめて、荷物だけでも下ろさせてー！」

「ダメだヨ。エミリ、また逃げちゃうネ」

　井上えみりはこんな名前だが、生粋の日本人だ。他の面々と同じく高校一年生だが、身長のおかげで中学生、へたをすれば小学校の高学年生くらいにしか見えない。一七〇を越えているミーナがそばにいると、なおのことだ。

「やっぱりエミリがいちばん抱き心地がいいヨ」

「うー」

　慣れているせいか、えみりもあまり抵抗せず、ミーナにもみくちゃにされるにまかせている。

「ところで、お二人はどうされたんですか？」

　ミーナとえみりのくんずほぐれつが行われる背後で、まだ諍いは続いていた。

「ナンカ、幽霊が出るトカ、出ないトカいってたヨ」

「幽霊！？」

　見る間にえみりの顔色が変わっていく。

　すると、やおらミーナの腕を引き離し、つかつかと京と那緒のもとに寄っていくと、

「梁木さん、栂丈さん、やめてください、幽霊の話だなんて」

　ほとんど金切り声で割って入った。

「へ？」

「え、えみりさん」

　突然の闖入者に、さすがに二人とも呆気にとられてしまった。

「だってそうじゃありませんか。幽霊なんてなにかの見間違いか、気のせいの産物です。いないと決まっているものを、あたかもいるみたいにいい合うだなんて、バカバカしいし、時間の無駄です」

「ちょ、ちょっと、えみり、あんた大丈夫？」

「そうですわ、えみりさん。お顔の色が……」

「わたしのことなんてどうだっていいんです。幽霊なんていません！　いちゃいけないものなんです！　いちゃヤなんです！」

　可聴領域をすっ飛ばしていきそうな高音でまくしたてるえみりの顔色は、そのテンションと異なり真っ青に、いやむしろ白く色を失っていた。

　おまけに瞳は潤み、下唇を噛み締めながら、ぷるぷると握った手を震わせている。

　そんな姿を見ていると、那緒も京も、それ以上あえて強弁する気にはなれなかった。

　ところが、あいにくなことに、部室にはそういう空気に些かも気を払わない人物が一人あった。

「じゃあ、ミンナで池を見に行こうヨ」

　その当のミーナの提案に、他の三人はそろって、

「は？」

　とこたえた。もっとも、声は同じでも、その意図するところは随分と異にしていた。

「そ、そんな、どうして」

　悲鳴にも似た抗議を強く含んでいたのはえみりだった。

「だって、ソノ幽霊がいるカいないカが問題なんでショ？　ナラ、実際に見に行くのが、いちばんてっとり早いじゃナイ」

「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや。幽霊はいないことが前提なんです。そんなことは栂丈さんも梁木さんもご存知なんです」

　残像が生じるほどの勢いで、えみりは首を横に振りまくる。

「えみり、それは誤解よ。だって、あたしは幽霊の実在を強く信じているもの。いやしくも、ジャーナリストの端くれだ。自分の書いた記事の信憑性を、自分で疑うわけがないじゃない。幽霊はいる！　絶対にいるわよ！」

　京は固めた拳を振りかざして熱弁する。そんな彼女の先ほど発した「は」は、自分の嗜好に合う格好の餌を嗅ぎあてたものだった。

「そんな！　梁木さん、いってあげてください。論争の焦点はそんなところじゃなかったんですよね」

「えみりさん……。もうあきらめましょう」

　期待した助け船は得られず、かわりに返ってきたのは、そんな無慈悲な言葉ばかり。

　瞬間、那緒のでこと京の眼鏡がキラリと光り、二人の顔に薄い笑みが走った。なんだかんだいって、二人とも好奇心には勝てない女子高生だった。

「そんな……」

　京と那緒の豹変ぶりに、思わずえみりはよろめきかけた。それを後ろから支えてくれたのは、ミーナだった。

「よーし、ジャア、出発進行ー！」

　そうしてそのままはがいじめされ、えみりは足が浮いて、頭までミーナの胸でがっちりとガードされ、まったく身動きできない体勢で運び出されてしまった。

「いやーっ！」

　後には、ただえみりの悲痛な叫びが残されるばかり。

　時計台は正確には大学部の校舎の一つで、高等部以下の生徒の間で使われている通称だ。

　幼稚舎から備わる一環教育の秋津学園だが、特にそれぞれの区域が壁で仕切られているとかいうことはない。とはいっても、生活環境というものがあるから、例えば中等部の生徒が高等部を訪れることは少ないし、特別な場合でもやはり目を引いてしまう。

　だから、那緒達も鷺沢池のことは知っているが、馴染みの薄い場所にあたるのだった。

「大学部は人が少ないネ」

「人ならさっき、校門のあたりはたくさんいたじゃない。あの混雑は高等部以上だよ」

「それをいうなら、人口密度の差が大きいのでしょう。高等部まででしたら、敷地内のどこでも、大抵だれかおりますが、大学は人のいる場所といない場所で、雰囲気が違いすぎますわ」

　鷺沢池はその名の通り、夏場に鷺が訪れることで知られ、葦と蓮が池の東西で分かれて繁茂している。周囲にはベンチが設置され、こぎれいに整備されているにもかかわらず、訪れる者は少ない。

「しかし、こりゃいかにもって感じだね。幽霊の一人や二人出たっておかしくないわ」

　京は柵に体をあずけて、水面をのぞきこんでいる。柵といっても、腰の高さあたりに一本コンクリの棒が渡されているだけで、その気になればいつでも水際まで近づくことができた。

「いかにも？　京さん、あなたここに来たことがあるんじゃないの？」

「なんで？　あたしの記事は、この池に出る幽霊についての噂なんだもの。ここに来る必要はないわ。もちろん、噂の発生源っていう人には、できるだけインタビューしたけどね」

「それでよく幽霊を信じるなんていえましたね…」

　じと目でえみりが京をねめつける。

「そりゃあ、ねえ」

　まさか今さらあんたを連れてくるための方便だともいえず、言葉を濁すしかなかった。

「ところで、首謀者はどうしたの？」

「あちらに」

　那緒の示す方を見れば、葦の合間から金色の髪がちらほらと見え隠れしている。ミーナは柵をくぐって、中腰の姿勢のまま水面のあたりをごそごそとやっていた。

「隈楠さん、なにをなさっているんですか」

「藻の採集ヨ。後で調べるネ」

　その手には小振りの目の細かな網とフィルムケースが握られており、既にプラスチック製の容器の中には、池の水といっしょにたくさんの藻がゆらめいていた。

「ここの水は面白いんだヨ。日照時間が、アノ建物で調整されるから、平地では見られないようなコケや藻があるんだヨ」

　時計台の影法師が伸びて、放課後のこの時間には、もう一足先に夜陰が覆いはじめている。

「相変わらず熱心ですわねえ」

「ウチは千種類の植物を観察するって誓ったネ。自分の約束を自分で反故にはできないヨ」

「なんだ。じゃあ、ミーナは、ここに来たことがあったんだ」

「ウン。週に一回は調べに来ているヨ」

「なら、わざわざ足を運ばなくても、あんたに聞けばよかったよ。ねえ、ここに幽霊なんて出んの？」

　京でなくとも、だれが聞いても馬鹿らしい質問だった。幽霊が出るようなところに、足しげく通うような人間が、普通ならばいるはずがなかった。普通ならば。

「ウン」

「え？」

　部室と同様、那緒、京、えみりの声がぴったりと合った。しかも、今度は意図するところまで同じだった。

「出るヨ。えーっと、ほら、そこトカ」

　水辺から立ち上がると、ミーナはきょろきょろと周囲を見回し、実にそんざいに一方向を指さした。

　だれもが冗談だと思った。思おうとした。

　しかし、その期待に反して、鷺沢の池からやや離れた先、時計台の影のようやくかかるかかからないかというところで、灌木の並ぶ茂みから、じっとこちらをうかがう少女があった。

　少女は那緒たちと同じようなブレザーを身にまとっていたが、よく見れば細部のところどころで異同があった。

　影に埋もれて表情はうかがえなかったが、ただ瞳だけが爛々と輝き、一同を見据えていた。

　そして、少女の体はうっすらと透けて、背後の木肌や青葉が、制服といわず顔といわず髪といわずつつぬけに映しているのだった。

　三人分の息を呑む音がした。けれども、那緒をはじめ、京もなにもしゃべることができなかった。えみりなど、口を開けたまま微動だにできなくなってしまっている。

　瞳孔は開き、汗がとめどなく吹き出して、喉が張り付いて口をわなわなと動かすのが精一杯だった。

「ソレから、あっちニ」

　そんな同級生の状況を一切かえりみず、ミーナの指が次いで池の対岸をさした。すると、そこにも少々様相を異にするものの、透ける少女がいた。

「向こうにもいるネ」

　今度は時計台の物陰だ。

「アソコにも」

　ミーナの指摘はとめどなく続き、あっという間に十人近い幽霊が示された。

「ちょ、ちょっと、ちょっと……」

　ようやく那緒がなんとか声を振り絞って、ミーナをさえぎろうとした。

　いくらなんでもこの幽霊の団体はない。情緒もへったくれもあったもんじゃない。いいかげんにしろと、文句の一つもいいたくなってもしかたがない。

　もっとも、

「あとは、ミンナの後ろにいる一人。ソレデオシマイ」

　残念ながらミーナの挙動を止めるには、少し間に合わなかったのだが。

　それまでのくり返しで、ほとんど条件反射のように、三人はいわれるがままにふり返った。ふり返ってしまった。

　それは目と鼻の先にいた。

　長い前髪を無造作に垂らし、鼻のあたりまで隠れてしまったその少女は、口を三日月の形にして笑っていた。他の幽霊たちと等しく、その少女も全身が透けていた。ただ、口腔の奥だけが紅く染まり、そこだけがなにものをも見透かせない朱色にまみれていた。小首を傾げた姿勢のため、いまにもその紅色がこぼれ落ちてきそうだった。

「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああっ！」

　とうとう悲鳴というか怒号が爆発した。

　硬直したままのえみりを二人がかりで抱えて、那緒と京はミーナの後ろに引っ込んだ。

「ミンナ、どうして隠れるネ？　せっかく探しにきたものが出てきたんだヨ」

「当たり前でしょう！　こんなにいっぱい出てくるなんて、聞いてません！」

　声こそ勢い込んでいるが、那緒はミーナの肩をつかんで全身をガクガクと震わせていた。

「デモ、だれも一人ともいってなかったヨ」

「こういうのは一人なの！　そう決まってんのよ！」

　京もミーナの背中に顔をうずめてしまっている。

「ち、近づいてきますよう！」

　那緒と京に場所を取られて、幽霊の姿を見なければならない位置に置かれたえみりは、べそをかきながら訴えた。

　その言葉通り、幽霊たちは、ミーナと少しずつではあるが距離を詰めつつあった。

「ちょ、ちょっと、ミーナなんとかしなさいよ！」

「そういわれテモ……」

「ミーナさん、貴女、普段からよくこちらにはいらっしゃっているんでしょう。なにかこんな時の対策法はないんですの！」

「ンー、あんまり気がすすまないネ」

「そんなこといってる場合じゃないですよう！」

　友人三人に懇願され、しばらくは眉を顰めて考えこんでいたミーナだったが、とうとう意を決して、

「わかったヨ！　ミンナのためだったらしかたないネ！　ウチも心を鬼にするヨ！」

　存分に見得を切った。

　すぐさまミーナは右足を一歩前に出し、なにか構えをとったかと思うと、そのまま踵をかえして、那緒たちの方へ向き直った。

　見ると、右手の人差指と中指が口もとに寄せられている。

　そして、半開きの口の中へ、二本の指が吸い込まれるようにどんどん奥へと入っていった。

　呆然とその様を見守っていた三人だったが、ミーナの指の間から、喉の鳴るいやな音が聞こえだすと、これから起こるだろう事態を想像しないわけにはいかなくなった。

「ちょっとまさか……」

「バカ、ミーナ、あんた！」

「やー！」

　那緒たちの拒絶の声を背景に、しばらくの間、ミーナは指でさんざん口の奥をひっかきまわしていたが、

「うっ！」

　とうとう限界がやってきた。

　次の瞬間、女子高生の口から出ているとは到底思えない、野太くも堂に入った嘔吐声が、夕闇迫る時計台に響いた。