緋晩
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 暗い泥沼のような深淵の奥底から、急激に己の意識が浮かび上がってくるのを感じ取れる。それに伴って、全身を鋭い針で穿たれるような感覚が駆け巡った。

 現状は、なんとなく理解できる。紅美鈴は地面に這い蹲りながら、惨状に至るまでの経緯を思い出していた。

 本日も霧雨魔理沙……かの凶悪なる白黒を撃破するべく奮闘するも、あえなく惨敗。今頃彼奴は紅魔館の地下図書館で、くんずほぐれつしているところであろう。

 紅魔館の住人は、白黒を迎え撃てただろうか。手持ちの弾幕を駆使してどうにか恋符「マスタースパーク」を一発撃たせることには成功しているので、その轟音で体制を整えることはできているはずだが。

 

 ――なんとも、情けない。

 

 門番としての仕事が侵入者の撃退ではなく、侵入者を知らせる「呼び鈴」にしかなっていない現状に。

 門番としての仕事の指標が侵入者に勝った負けたではなく、スペルカードを何枚使わせたかであることに。

 主人が起こした紅霧異変からこの方、ろくな目に遭っていない気がする。そもそもあそこまで強い人間がいるのは予想外だし、それが日参するようになるのも予想外。

 何より、門番の仕事というもの自体が……

 

「あらあら、また魔理沙にやられちゃったのね?」

 

 その言葉が聞こえてきたと同時に、跳ね起きる。

 美鈴を起こしに現れたのはいつものメイド長、十六夜咲夜ではない。少なくとも美鈴にとっては、ある意味で咲夜以上に重要な相手。

 美鈴の目の前に居るのは、真紅のツーピースを身に着けた少女が一人。左の側頭でサイドテールに結った金髪をナイトキャップで覆い、背には枯れ枝に七色の宝石をぶら下げたような奇怪な翼を持つ。

 彼女は、紅魔館に住んでいる吸血鬼の一人。悪魔の妹、フランドール・スカーレット。手に日傘を持ち、慌てる美鈴の姿を興味深げに見上げている。

 若干の緊張を顔に浮かべながら、美鈴が尋ねる。

 

「い、妹様。一人で外に出て大丈夫ですか?」

 

 ありとあらゆるものを破壊する程度の能力と称される危険な力を操り、情緒にも不安定なところがある。そんな理由から四百九十五年に亘り地下室に幽閉されていた彼女が解放されたのはつい先日の話。最近では条件つきだが、自身の意思で外に出ようとしたりもする。

 

「心配ないわ。もうすぐ迎えが来るもの」

 

 平然と告げるフランドールは破られた門の内側に立ち、それより外へ出ようとしない。彼女はそうして、迎えが現れるまで紅魔館に留まることを頑なに守っていた。

 

「迎え、ですか。と、言うことは……彼女ですね?」

「ご名答」

 

 示し合わせたように、美鈴の背後から声が聞こえる。彼女の脇をすり抜けて目の前に現れたのは、ベージュ色のシャツを着た一人の少女。黒い丸帽子を被り、細長いチューブ状の物体を体に絡みつかせている。

 無意識を操る能力の持ち主である古明地こいしは、現在のところフランドールの一番の友人である。こいしが近づくや、彼女はその手をとって正門より外に出る。

 美鈴は反射的に、フランドールに向けて手を伸ばした。

 

「あの妹様。本日はどちらまで?」

 

 声をかけられたフランドールは振り向くと、きょとんとした顔で美鈴を見る。

 

「命蓮寺。ぬえのところに遊びに行くつもりだけど、それがどうかしたかしら?」

「え、いや」

 

 命蓮寺と言えば人里に建つ妖怪寺で、彼女ら共通の知り合いである封獣ぬえの居候先だ。最近は三人で何やら悪巧みをしているらしいが、目覚しい成果が上がったという報告を聞いてはいない。

 恐らく、この館の主人……フランドールの姉も、妹の外出は既知のことだろう。フランドール自身もこいしが来るまでは、紅魔館の敷地から出ない制約を自分に課している節がある。それなら、美鈴がとやかく口を挟む筋合いはないだろう。

 彼女が今満ち足りているならば、口を挟む権利なんてあるはずがないのだ。

 

「……帰りが朝早くならないよう、お気をつけて」

 

 それを聞いて、フランドールはくすりと笑った。

 

「大丈夫よ。命蓮寺の住職さんは時間に厳しいから」

 

 美鈴もまたにっこりと笑って、こいしに手を引かれるフランドールに向けて手を振った。

 紅魔館を覆う霧の中に二人の姿が消える。それを確認すると、美鈴は手を下ろして重苦しい溜息を肺腑から思う存分に吐き出した。

 霧の向こう側にいるであろうフランドールを視界に収めながら、ぼやきととれる独り言を漏らす。

 

「役に立ててないなあ……」

「ええ、まったく」

 

 唐突に背後から聞こえてきた声に、全身の毛根が逆立つ感触を覚える。恐る恐る振り向いた先には、長身のメイドが一人、仏頂面で腕組みしていた。

 今度こそ現れた咲夜は、明らかに機嫌が悪い。

 

「……咲夜さん、白黒はどうなりました?」

「穏便にお帰り願いましたわ」

 

 と、咲夜は言う。その所作には一片の隙も見えないが、周囲を漂う気の流れからは明らかに一戦繰り広げたあとの疲れを感じ取れる。

 

「あなたももう少しねえ……たまにはあれを追い返すくらいの気概を見せたらどうなのかしら」

「いや、まあその、すみません。ははは」

 

 愛想笑いで誤魔化す以外になかった。

 魔理沙の突破を防ぐことができなかったのは事実だし、言い訳も開き直りも見苦しいだけだ。しかし美鈴が本当に嘆いていた部分は、そこではない。

 人間の彼女は、恐らく知らない話だ。

 

「まあ、うちも人材不足ですから。もう少し精進なさい。まあ、そんなことより」

 

 話題を変えるのに合わせるように、腕組みを解いて。

 

「明日はあなたの非番の日だったわね。シフトは済んでいるから、代わりの守衛が来たら休んでいいわ」

「おお、そう言えば」

 

 無休薄給で悪名の高い紅魔館だが、それでも月に一日だけ休みがある。

 と言うか、最近になって新設された。紅霧異変以降、人間が紅魔館を訪れるようになってから、この館で働く妖精メイド達の仕事は苛烈さを増している。館内で行われる弾幕ごっこの頻度が飛躍的に増したために、新しい妖精メイドの増員だけではその後片付けが追いつかなくなってきたのだ。メイドの数が増えればそれだけ管理も難しくなり、咲夜の負担も増える。

 何よりメイド達の質が下がる一方なので、あえて定期的な休暇日を設けることで士気を維持した方が得策だ。そんな周囲の進言に対して、ついに主人も折れた。

 深く考えたことがなかったとも言う。

 いずれにせよこの労働条件は、普段から人間達の暴虐を真っ先に受け止める美鈴にも適用されることになった。

 

「せっかく勝ち取った休暇だから、大事に使いなさいよ。ついでに、魔理沙を安定して追い払う手も考えておいてくれると助かるわ」

「はあ、それはいいんですが」

 

 休暇。

 一言で簡潔に言われると、それはいまいち実感の湧かない代物だった。

 

「一つ聞いていいですか、咲夜さん。……咲夜さんは、休みにどんなことをするつもりでいますか?」

「へ、私?」

 

 紅魔館の従者達は酷使の賜物か、揃い揃ってワーカーホリックが多い。いざ休養を与えられると、何をすればいいのか分からなくなってしまうのだ。常日頃正門の前で時間を浪費している美鈴も、例外に漏れない。

 

「私に休みなんかあるわけないでしょう。お嬢様の世話がなくなる日なんて、どこを探したって見当たらないんですから」

 

 そして何より、目の前のメイド長こそが紅魔館一番の労働中毒である。

 

「それはないですよ……咲夜さんが一番、この館で働いているじゃないですか。メイド達を鍛える意味でも少し長い休暇をですね」

「それをやったら誰がお嬢様の機嫌を損ねるか気が気でなくなって、全然休養にならないでしょうよ」

 

 そんなことより、と咲夜は強引に自身へ振りかかった追求の嵐を振り払った。

 

「当面の問題はあなたでしょうに。とにかく、勝ち得た休暇を有意義に使って明後日以降の仕事に備えなさいね。以上!」

 

 一方的にまくし立てて、忽然と消える。文字通りに。時間を操るメイドはいつもの通り、慌ただしい。

 

 ――さて。

 

 門番以外の何をして、休暇を使えば有意義と言えるだろうか。

 美鈴は門柱の前に立ったまま、思案する。

 脳裏に浮かんだのは、一つの光景。家具らしいものがほとんど置かれていない、大きく暗い部屋。

 一瞬の後、それを頭の中からかき消した。

 特にアポをとっているわけでもない。いきなり押しかけていっても迷惑なだけだろう、と。

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 §

 

 その日の夕方。門前に立っていた美鈴のところへ、数人の妖精メイドが姿を現した。

 

「美鈴さん、お疲れさまです! ただ今から二四時間、門番の代理を担当させていただきます」

「ん? ああ、もうそんな時間か。ご苦労様」

 

 門前に並んだ妖精メイド達の姿を見回す。

 

「では済まないが、留守の間の防衛をよろしく頼むよ。白黒が進入してきた際の対処は心得ているね? 今日の明日でさすがにはないと思うが、復唱してみなさい」

「はい。極力一カ所にとどまらず、散開して二方面以上からの攻撃にて牽制します!」

「一点突破を試みる場合は、背後から追撃。更に時間を稼いでいる間、メイド長の支援を仰ぎます!」

 

 さすがは咲夜によって紅魔館の弾幕作法を教授された妖精達だ。パワー馬鹿の対処法をよく心得ている。

 

「よし。一日の間よく紅魔館を守ってくれ。交代!」

 

 門前に配置された妖精メイド達に敬礼して分かれると、物陰まで歩いていって大きく大きく息を吐き出した。

 結局、半日ほど門番の合間に考え込んでいたが、一日の間何をするか思いつかなかった。

 人里に行って、なけなしの小遣いで買い物をするか。しかし、今は夕方。開いている店と言えば酒屋が精々だ。集まってくる妖怪達、物好きな人間達と世間話に興じるのも悪くはないが、果たしてそれが休養になるのかという不安が残る。

 

 ――何はともあれ、休もう。せっかくの非番、無駄に使えないし。

 

 館内に戻り、自室へと向かう。私室とは名ばかりの、着替えのためだけに戻る簡素な部屋だ。それでも普通の布団で眠れるだけ、正門の門柱よりはましである。

 部屋に入ると、ベッドには洗い立てのシーツが敷かれ、その上に折り畳まれた夜着が置かれていた。

 誰だろうと思う。自分にベッドメイキングを行う余裕などない。誰か妖精メイドが準備でもしてくれたのか。

 それから脇の小さなテーブルに、目を引くものが一つ。夜食である。まだ湯気を立てているスープ皿と、小麦の匂いがするクロワッサンが二つ。薄い橙色のスープの中には、薄い膜のような玉子が落とされている。

 わざわざ中華風に仕立てる心遣いには、思い当たる者が一人しかいない。

 

 ――有り難う、咲夜さん。

 

 この場にいないメイド長に堅く手を合わせて、久々の暖かい食事を味わうことにする。

 クロワッサンを小さく千切ってスープに浸し柔らかくしてから、ゆっくりと咀嚼する。鶏がら出汁のスープはほんのりとした塩味で、喉から食道胃腸に至りそこから全身に染み渡っていくような感覚がある。

 

 ――こういう食事をいただけるだけでも、休みの有り難みを実感できるなあ……

 

 時間をかけた夕食を終えると、夜着を身につけベッドに腰掛ける。脱力すると、急激な眠気が全身に重くのしかかってきた。

 適度な食事をとって、リラックスできたせいだろう。贅沢を言えば湯浴みもしたかったが、今てはバスタブで溺れる方を心配しなければならないくらいに瞼が重い。朝風呂ができるか、起きたら聞いてみることにした。

 たまらずベッドに横になると、もはや惰眠の誘惑から逃れられそうになかった。食後すぐの睡眠は健康によくないとは思うが、一日限りの贅沢なので自分を甘やかすことにする。

 枕元のランプを消して布団を被る。とっぷりとベッドの中に潜り込んだところで、重要なことを一つ思い出す。

 結局明日はどうするか、まだ決めていない。

 人里へ行くのは一つの案だ。それ以外にもアイデアがなくはないが、眠くて回転の鈍った頭でそれらを思い出すのは難しいかもしれない。

 明日は何をしよう。明日は何をしよう。

 とりあえず、起きてからゆっくりと考えよう。

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 §

 

 暗い泥沼のような深淵の奥底から、急激に己の意識が浮かび上がってくるのを感じ取れる。それに伴って、全身を鋭い針で穿たれるような感覚は、駆け巡らなかった。

 美鈴はぼんやりと考える。自分は確か久しぶりに、自室の柔らかいベッドを堪能していたはずだ。それなのに、なぜ背中に触れる感触がやたらと硬いのだろうか。

「ねえ、美鈴。今日はもう終わりなのかしら。私は全然遊び足りないんだけどなぁ?」

 聞こえてきた声に、全身の皮膚が泡立つ感触があった。

 間違いなく、フランドールの声である。しかしその上ずった声に尋常さはとても感じられない。

 ゆっくりと、寝返りを打つ。そうしながら自身が置かれている状況が次第に飲み込めてきた。

 美鈴の私室ではなく、無骨な鋼鉄で囲まれた大部屋。その全体が、血と腐敗した肉の臭気に満たされている。圧倒的な破壊と絶望の暗闇は、美鈴にとってはどこかが懐かしかった。

 

 ――なるほど。これは、夢だな。

 

 美鈴が持つ恐怖の記憶から再生された映像の断片が、夢という形で蘇ったらしい。それでは、目の前に立っているフランドールも恐らくは。

 

「ほらほら、もっと早く立ち上がってよ。急がないと私、美鈴をきゅーっとしてどかーんしちゃうわ?」

 

 真紅の瞳を爛々と輝かせ、歯を剥き出して笑う彼女に現在の面影は欠片ほども見当たらない。

 もしくは、この夢の映像こそが狂気に染まった妹君、フランドール・スカーレット本来の姿。

 恍惚とした笑顔を浮かべた彼女の右手には、ぼんやりと光る球体状のものが浮いている。

 恐らく球体の正体は、美鈴の体から抜き取られた破壊の目だろう。あれを潰されたら最後、美鈴の体は一瞬で骨の一欠片に至るまで粉砕されて、この部屋を満たす死の一部になるに違いない。

 

「でも、さすがに飽きちゃったかなあ。美鈴は相変わらず弱いから。そろそろ、壊しちゃおうか?」

 

 フランドールの手が破壊の目を包み込む。

 立たなければ拙い。彼女は美鈴が立ち上がらなければ、容赦なく宣言を実行に移すだろう

 少女の無邪気さと容赦なさを以て、良心の呵責もなく。

 破壊の目を手に握りこんだ瞬間を狙って、美鈴は立ち上がった。ばね仕掛けの人形よりも鋭く、精密に。

 がら空きになっているフランドールの手首に、弓矢のような蹴りの一撃が命中する。破壊の目はその拍子に、彼女の手を離れて消え去った。

 

「お戯れが過ぎますよ、妹様」

 

 鷹の眼光でフランドールを睨み据える。対する彼女は破壊の目を飛ばされたことに戸惑いすら見せず、格好の獲物を見上げて口の端を吊り上げる。

 

「よかった。まだまだ元気じゃないのよ」

 

 左手に持った、スペードの柄を細長く伸ばして二つを繋げたような形の杖を力任せに振り回す。美鈴は上げたままにしていた足をバランサーのように振って、そのまま後方に展開してその凶悪な一撃を避けた。

 

「次は、もう少し長持ちしてよお? あと十回くらいは遊ばないと、どっかーんしちゃうんだから」

「及ばずながら……!」

 

 着地して、中腰で構えを作る。フランドールの周囲に現れた七色の弾丸を見据えながら、美鈴は自身の勇猛を無理矢理奮い立たせた。

 そうだった。これが、私にとっての日常。

 弾幕や死と隣り合わせで、ひたすらにフランドールの相手をして過ごした地獄のような日々こそが。

 紅美鈴にとって最も輝いていた時間だった。

 

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 気がつけば、美鈴は地下室の片隅に座り込んでいた。

 気を失っていたわけではないようだ。弾幕の海に埋もれたと思った直後、現在のような状態になっている。

 場面が都合よく変化したのだろう、と美鈴はぼんやり考える。さすがは夢だ、節操がない。

 それを、証拠に。胸元から声が聞こえてくる。

 

「お前もよく続くよねえ。普通だったら、とっくの昔に逃げ出してるよ」

 

 物騒な相手が、美鈴の腕の中に埋もれていた。

 フランドールは美鈴の足の間に挟まるように収まって、彼女の懐に体を収めている。背後から見るフランドールの表情は、妙に血色がいいように見えた。

 疲れ果てるまで一頻り弾幕を撃つと、フランドールはよく美鈴に枕役をせがんだ。

 

「恩義には報いねばなりませんから」

 

 美鈴に体を預けたまま首だけを上に向けて、丸い目で表情を視界に捉えようとする。その顔には、先ほどまで覗かせていた狂気の色は見られない。

 こうして見ると、本当に愛らしい見た目相応の少女でしかないのに。常日頃、美鈴はそう思う。

 

「恩義って言ってもねえ。館の前で行き倒れてたのを、お姉様に拾われたってだけでしょう?」

「それでも、命の恩人には変わりがありませんよ」

 

 大海を知らない井の中の蛙にありがちな、若気の至りだった。修行の旅と称して大陸の極東からはるばる西まで流れてきたのはよかったのだが、手持ちの食料も路銀も尽きてしまった。生死の境を彷徨っていたところに、パンを一切れ投げてよこされた。それがとある赤い館の前でのこと。

 ろくな食い扶持もなく、食料を施した館の主人に頭を下げて館の使用人となったが、生来の武侠気質が災いし家事では失敗の山を築く。業を煮やした主人が美鈴に押し付けたのが、フランドールの世話役である。

 

「私がいる地下室に放り込むような奴に未だに義理立てしてるのなんて、美鈴くらいよ。他のはみんな壊れるか逃げるかのどちらかだってのにさ」

 

 以来二百年。美鈴はフランドールの弾幕地獄を交わし受け流して、どうにか生き延びてきた。他にも相手役はいたにはいたが、その末路については思い出したくない。

 この奇跡とも言うべきサバイバルを成し得た背景には、美鈴が持つ「気を操る程度の能力」の存在がある。

 万物が持つ気を読み取り制御することで、相手の攻撃を先読みし適切に対処する。万が一攻撃を受けても気を傷口に通すことで治癒力を高める。この能力を最大限に研ぎ澄まさなければ、二百年もの間フランドールの遊び相手を勤めることなど、不可能だった。

 とは言え。そんなに過酷な勤行をどうして逃げ出さずに二百年も続けていられたのか、当時の美鈴にはうまく説明ができなかった。

 逃げ出す余地がなかったわけではないのに。

 

「ねえ、美鈴。あなた私の従者になりなさいよ」

 

 やにわに下から聞こえてきた発言に、我に返る。

 

「ええ!? わ、私が、妹様の!?」

 

 フランドールが、美鈴の頭の下でむくれ面を作る。

 

「そんな露骨に嫌がらないでよ、傷つくわ」

「い、いや、ごごごご免なさい。唐突なことだったので思わず取り乱して」

 

 必死に言い繕ってみる。しかしこの心休まらない日々が毎日続くのはさすがにご免だと、反射的に考えてしまった自身がいるのは事実である。

 フランドールは、美鈴に向けた顔を正面に戻す。

 

「いいよ、別に。知ってるから。美鈴がここに来るのは、お姉様の罰みたいなものなんでしょ?」

「え、いや別にそんなことは……あるのかなあ……」

 

 切り返しながら、少し心が痛くなるのを感じた。

 極刑通告にも等しい、フランドールの相手役。事実、美鈴以外に役目を負った者は数日ともたずに消えていく。目の前の少女は、そういった者を玩具のような消耗品としか捉えていなかったのではないかと思っていた。

 

「きっと、そうよ。だからあんな奴の下で働くよりは、私の従者になりなさいな。私達、きっとうまくやれるわ。あなたみたいに頑丈なのは、他にはいないんだから」

 

 前言撤回。やっぱり消耗品だった。

 とは言え。どうしてだろう、少し誇らしい気分になる。何度も殺されかけてはいるけれど、自分はフランドールにとっての特別ということだ。

 そして、なんとなく考える。そんな自分だからこそ、フランドールにしてやれることは何かあるのではないか。

 

「そうですね。妹様の従者も、魅力的かもしれません」

「あら、本当?」

 

 美鈴は、フランドールの頭に手を置いた。美鈴の大きな手に包まれ、彼女のナイトキャップがくしゃりと歪む。

 

「ただし……本当に妹様の下で仕えるのなら、妹様には何でも壊す癖を直していただきませんと。さもないと私の後始末がとても追いつきません」

 

 周囲の気の流れが、凍りついたような感覚を覚える。

 言ってしまった。やはり、怒るだろうか。

 誰かが言わなければいけないことではあった。強力な力を持つ吸血鬼として生まれてしまったばかりに、彼女は嬰子よりも感情を制御する術を知らない。彼女に外へ出るに足る分別を覚えさせられるのは、フランドールの前に立てる存在、美鈴やこの館の主人だけだろう。

 またこれでフランドールが気分を害して、再びの弾幕ごっこ……にはならなかった。

 

「ねえ、美鈴?」

「はい?」

 

 フランドールの周囲に巡る気の流れに注意を配りながら、彼女の反応を待つ。

 

「私が本当にどっかーんしなくなったら、美鈴はずっと私の側にいてくれるの?」

 

 美鈴は息を呑む。

 何かここでの回答次第で、自身の命運すら分かたれる予感すらあった。

 ここでノーと言うわけにはいかないだろう。例え言葉の先に待ち構えているのが、いつ終わるとも知れない弾幕地獄だったとしても。

 

「ええ、約束しましょう。破壊を止めた妹様は、きっとお嬢様か、いやそれ以上に立派な淑女になれるでしょう。そうなりましたらこの紅美鈴、いつでも妹様のお側に控えさせていただきますよ」

 

 フランドールの手が、首に回った美鈴の腕を掴み取る。

 そして、握りしめた。強く、強く。美鈴が腕に気を通さなければ折れてしまいそうになるくらいに。

 

「……約束したからね? 必ず家来になるのよ。さもないと、どっかーんするくらいじゃ済まさないから」

 

 フランドールの爪が服を、皮膚を穿つ。美鈴は脂汗を流しながら、彼女の言葉に応じた。

 

「必ずですとも。約束します……しますから、まずはこの手を外してください」

 

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「美鈴」

 

 またしても場面の転換。紅魔館内部の、地上の一角。美鈴はフランドールと別の少女と対していた。背丈は同じくらいだが、髪は銀髪。背中から蝙蝠の翼を生やし、フランドールよりずっと吸血鬼らしい風貌をしていた。

 美鈴の主人、そしてフランドールの姉の、レミリア・スカーレットが目の前にいる。

 

「いい運命を引き当てた。しばらくの間、フランのところに行かなくてもいいぞ」

 

 運命を操ると標榜する幼き吸血鬼は、彼女独特の言い回しをする。長く彼女に仕えている美鈴にも、時折意を図りかねることがあった。

 

「いい運命とは、何ですかお嬢様。それと私の仕事と、どんな関係があると言うのです?」

 

 レミリアは不敵に口を吊り上げ、ひらひら手を振った。

 

「新しい教育係を雇った。柳みたいな魔法使いだけれど、フランの力を押さえ込めると豪語する。試しにやらせてみるつもりだ。実際うまくやるだろう。そういう運命さ」

 

 美鈴の目の前に、暗雲が立ち込める。

 

「では、それでは、私は何をしていればいいんですか。ひょっとして、もう用済みとか……」

 

 レミリアは一つ顎をしゃくり上げると、美鈴に告げる。

 

「そうだね、お前には門番でも任せようか。有象無象を篩にかけるには、手頃な強さだろうよ」

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 §

 

 ――と、そこで周囲の景色が暗転する。

 全身を包み込む布の感触。瞼は重いが、どうやら夢の世界から戻ってきたらしい。

 随分と長い昔話を夢に見た。あれを追体験させられるのは、夢の中とは言えどもさすがに堪える。

 

「……ふふっ」

 

 それなのに、なぜか笑いが漏れた。フランドールに何度も殺されかける夢にも関わらず、である。

 そう、あの頃が、一番――

 

 

 微妙な雑音が、美鈴の脳を揺らす。

 

 

 落ち続ける滝のような、数万の歓声のような、恒常的なざあざあという雑音である。

 そう言えば、空気が湿っぽい。薄目を開き、窓の行方を探してみる。寝床の脇に申し訳程度に開かれた小窓のカーテンを押しのけると、予想通りの光景が垣間見えた。

 大雨。空が鉛色に染まり、そこから幾千幾万の白い筋が紅魔館の大庭園に向けて降り注いでいる。門番を交代してもらった妖精メイド達にとっては、かなり気の毒な天気になってしまった。

 こんな天気では、とても外に出てリフレッシュという気分にはなれない。気晴らしに人里へ出るアイデアも、これで見送りとなった。交代の時間になるまで、惰眠をひたすら貪るのもいいかもしれないが。

 

 ――外に出る気分になれない、か。

 

 昼夜風雪を問わず門前に立っている美鈴自身ですら、外出を憚りたくなる天気である。そのように考えるのは、相当な雨好きでもない限り誰にとっても同じことだろう。

 

 

 例えば泥棒に訪れる魔理沙にとっても。

 フランドールのところへ遊びに来るこいしにとっても。

 

 

 ゆるりと身を起こして、着替えを始める自身がいる。

 奇妙な気分だった。これまでも、非番がまったくなかったわけではないのに。

 あんな夢を見たせいだろうか。

 それとも、非番の日に偶然重なった雨のせいだろうか。

 吸血鬼は、流れ水を渡れない。雨もまた流れ水の一種と言える。こんな天気では紅魔館を訪れようとする客はなく、またフランドールも外には出られない。

 今日の彼女は、確実に一人きりだということだ。

 

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 我に返ると、美鈴は一つの扉の前に呆然と佇んでいた。

 館内西側の片隅にある扉は、他の部屋に繋がるものと一線を画している。無骨な鉄扉は美鈴の身長の数倍あり、脇に据え付けられたチェーンブロックでようやく動かせる代物だった。

 フランドールの部屋へと続く、地下通路の入り口。

 美鈴は鉄扉を改めて見上げると、一つ自嘲の笑みを漏らして鎖に手をかけた。

 なんとも臆病なことだ。仕事がないから。他の来客がフランドールの元を訪れていないから。そんな理由をつけなければ、彼女に会いに行くことすらできないとは。

 レミリアから配置転換を言い渡されて、三百年。美鈴はずっと門番であり続けている。

 門番の役割は二つ。一つは、外から吸血鬼の館に攻め入ろうとする命知らずを排除すること。そしてもう一つ――先の一つよりも重要な役割――は、中から出ようとするものを外に出さないこと。

 フランドールと二百年に亘り弾幕を交わし、なお生き残った美鈴は紅魔館の「最終防衛線」を任されたのだ。

 レミリアが館に雇い入れた魔法使いは思いの外優秀で、美鈴の暇な時間は意外に長く続いた。

 これまでの血生臭い毎日とは比べものにならないほど平穏な時間。弾幕とは無縁な日々を安穏と過ごしていくうちに、美鈴の心中には新たな感情が芽生え始めていた。

 自己嫌悪である。

 レミリアの配慮を、魔法使いの優秀さを賞賛する感情。その裏側にフランドールの相手を外れたことに安心してしまっている自分がいる。

 約束したのではなかったのか。

 自分がフランドールの、一番の部下になると。

 情緒不安定で、機嫌が悪い時は手当たり次第にそこらのものを破壊する。そんなフランドールだが、それでもレミリア・スカーレットの、あの誇り高き吸血鬼の妹君なのだ。いつかフランドールも自らの能力を克服して、立派な淑女として独り立ちしてくれるのではないか。

 そうなると信じて、二百年を戦い続けたのに。

 二百年を無碍にする感情を、嬉しいと思うなんて。

 自らの感情を憎むに至り、美鈴はフランドールと過ごした時間が嫌いではなかった……否、むしろ好きだったことに、気がついてしまった。

 

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 ……と、そんなことを考えているうちに美鈴は通路の奥、フランドールの私室の前にたどり着いている。

 持ち場を離れることを禁じられている現状、ここに自ら訪れることは極めて稀だ。今日のような非番の、そして他の者がフランドールを尋ねてくることがない日でもなければ。

 扉の前で、美鈴は大きく深呼吸をする。

 特に用があるわけでもない。

 自分の思いを伝えるのもおこがましい。

 暇なので少しお喋りをしたくなったとか、雨で遊びに来る友人も居らず寂しい思いをしていると思ったとか、話を切り口を幾つか考える。

 ……まとまらない。当然だ。元々そんなに喋り上手でもないのだから。

 かくなる上は当たって砕けるか。フランドールが相手の場合、本当に砕かれかねないのだが。

 それでも、こんな機会を逃す選択肢などあり得ない。

 覚悟は、決まった。意を決して扉を二回、拳で叩く。

 

「妹様? 美鈴です。入ってよろしいですか」

 

 返事はない。戻ってこない反応を待ちながら、考える。

 さてこの場合、フランドールが返事をしない理由にはどのようなものが考えられるだろうか。

 第一に、出かけていてもぬけの殻。しかし同時にそれはあり得ないと確信している。天候の関係で外出は無理だし、地下室以外の屋内にいるならどこかで会っている。

 第二に、虫の居所が非常に悪い。これは大いに有り得ることで、即時退散するのが賢明だ。しかし外から部屋の気を探る限りでは破壊の気配が漂ってくる様子はない。

 第三に……先の二つ以上に高い可能性のある事象に、ようやく思い当たった。

 美鈴はそれに思い至ると自らの浅慮を恥じて深い深い溜息を吐き出した。そしてやおら地下室の扉に手をかけ、ゆっくりと外側へずらしていく。

 案の定、外の明かりが入り込んできたことに対しての、フランドールの反応は皆無である。

 

 ――そりゃあ、寝てるよ。吸血鬼だものなあ……。

 

 気ばかりが逸って、完全に失念していた。今は本来、太陽が出ている時間帯。吸血鬼の天敵である。紅魔館のお嬢様は、日傘一つで平然と表に出るけれども。出ないに越した話はない。

 加えて、来客がなければこの時間。レミリアと同様に、フランドールも寝ていることにまで考えが及ばなかった。

 ダンスホールほどの広さがある、フランドールの私室。彼女の寝床はその一番奥にある。天井つきのベッドは、中心が緩やかに膨れ上がっている。

 彼女は恐らく、そこでしばしの眠りについている。

 美鈴は纏足のつま先を立てて、極力音を殺しそこへと近づいていった。さすがにフランドールを起こしてしまうわけにはいかない。起こせばいかに美鈴が相手でも、殺されかねない不安定さが彼女にはある。

 次第に眠るフランドールの姿が、鮮明になってくる。彼女はナイトキャップを外し、いつもはサイドテールに結っている金髪も下ろしてベッドの上に横たわっている。目は固く閉じられており、眠る表情は少女の無垢なそれでしかない。

 辺り構わず破壊をばら撒く悪癖さえなければ、見た目相応の愛らしい少女であることは美鈴が一番よく知っているつもりだった。

 

 ――いや。

 

 美鈴は思い直す。フランドールの穏やかな時間は今や、夢想のみに終わるものではない。美鈴が、紅魔館の関係者が待ち望んでいた状態が、今ここにある。

 達成し得た者が自分ではないことに、少々の寂しさは感じるけれども。

 相変わらず足音を消したまま、枕元にまで近づいた。幸いフランドールに、起き出す気配はない。ベッドの脇に腰を下ろすと、思いの外腰が沈むのに驚かされた。

 

「……妹様」

 

 フランドールに声をかける。眠りを妨げないように、息を押し殺して小さな声で。

 

「久しぶりに遊びに来ちゃいました……はは。お眠の時にお邪魔しちゃって、申し訳ありません。たまには顔を出して罪滅ぼしを……と思ったんですが、どうにも間が悪いですよね、これ」

 

 贖罪。なんとなく、そんな言葉が口を出た。

 レミリアの命令は絶対だ。しかし美鈴はそれに甘んじ、三百年フランドールを蔑ろにしてきたという意識がある。例えそれが美鈴の思い込みで、その間もフランドールは何らかの方法で孤独を癒してきたのだとしても。

 

「ここのところは、いつもどなたかが妹様に付き添っていらっしゃいましたから。でも、そのお陰で今の妹様がお幸せそうで何よりです……私がお相手をしていた頃の妹様には、本当に気が休まりませんでしたから」

 

 安らかな笑顔で眠るフランドールを見下ろして、美鈴もまたそれに釣られるように笑顔を作った。

 

「覚えておいでですか。もう何百年も前の話ですが……妹様が破壊癖を直したら、私を従者にしてくださると仰いましたよね。正直、当時は遠慮したい気持ちの方が強かったのですが……それでも構わないと思う自分がいたのも事実なのですよ」

 

 あの頃の美鈴は傷だらけだったが、輝いていた。

 フランドールに殴られ撃たれ穿たれ壊されても立ち向かっていく様子は、ある意味侍従達の畏敬の対象だった。美鈴自身にも、自分だけがフランドールを止められるという誇りがあった。

 フランドールに尽くすことが、美鈴の幸せだった。

 

「お嬢様は誰が門番を務めるかなんて、あんまり深くはお考えでないようですし。もう少しの間、門番のままでいられそうです。でも万が一、お嬢様が私に愛想を尽かして、門番を止めさせられることになったなら……妹様は私の新たなご主人となってくださいますか……?」

 

 美鈴の手が、フランドールの顔へと伸びる。

 そのまま彼女の髪を手で梳いて、指の感触を覚えて、そのまま立ち去るつもりだったのだが。

 

「はい、そこまで」

 

 首根っこを強烈な握力で掴み上げられたのは、美鈴の手がフランドールに届くまで数センチのところだった。大根でも引き抜くように、大きく空中へ放り投げられる。鋼鉄の地下室が、大きく回転した。

 

「あと少しだけ、黙って見ていてくれればよかったのに」

 

 美鈴は空中で姿勢の制御を取り戻すと、膝を屈しながら天地を把握して地下室の中心へ綺麗に着地する。不満を顔に浮かべながら、不躾な闖入者の姿を捉えた。

 

「そういうわけにはいかないわ」

 

 ベッドの前に、フランドールが三人立っている。各々腫れ物でも見るような目付きで、美鈴を睨みつけていた。

 彼女ら三人の正体は、フォーオブアカインドの分身達。孤独に苦しんだフランドールが生み出した、彼女と同等の存在である。

 

「あんな話を聞かされたら、黙って見ていることなんてできないわね。あんたはあくまでフランの昔の相手役。お払い箱が差し出がましいことするんじゃないわ」

 

 傍若無人な物言いには少々かちんと来るものがある。お払い箱となった今でも、美鈴が紅魔館の大事な防波堤であることには変わりがないというのに。

 しかし、同時に彼女らの気配から伝わってきたものがある。三人一様な、苛立ちである。

 いいところで水を差されたこともあって、美鈴も少しばかり彼女らに対抗心を燃やしたくなった。

 

「……ひょっとしてお前達、妬んでるね?」

 

 三人の気が僅かに乱れる。図星だったか。

 

「言っとくけど、お前達が三人でこなしていた仕事を、私は一人でやっていたからな? 弾幕のキャパシティも遙かに劣る絶望的な状況を、私は二百年近く生き抜いてきたんだ。妹様の心にだってきっとだね」

「忘れてるわよ、そんなものは!」

 

 分身達が魔杖を美鈴に突きつける。

 売り言葉に買い言葉だったかと、今更ながら自覚した。しかし、あまり後悔は感じない。こんなただの門番にも、引くことのできないものはあるのだ。

 

「とにかく、これ以上フランを夜這いする権利が欲しければ、私達を倒してからにしなさい。フランの今の遊び相手の、弾幕を思い知らせてやるから」

 

 今の、をやたらと強調した上で凄まれる。臨戦態勢の分身達を見据えて、美鈴もまた拳を作った。

 勝てないだろう。しかし、一矢でも。

 

「いいだろう、いい機会だからお前達にも教えてやる。妹様の弾幕を悉く退けた我が巧夫、とくと拝むがいい!」

-9ページ-

 §

 

 暗い泥沼のような深淵の奥底から、急激に己の意識が浮かび上がってくるのを感じ取れる。それに伴って、全身を鋭い針で穿たれるような感覚が駆け巡った。

 現状は、なんとなく理解できる。

 啖呵を切ったところまでは、上等だったのだ。しかし相手は、常日頃フランドールの完全なコピーを目指して研鑽を積んでいる相手である。それが三人も一度に相手となれば、結果は最初から火を見るより明らかだった。

 

 ――なんとも、情けない。

 

 ぼろぼろに打ちのめされたところまでは、理解できる。命があるだけでも、彼女らの温情と言えるだろう。ただ一つ分からないのは、自分が今どこで、どんな状態で気を失っていたかということだ。

 そして美鈴の疑問に対する回答は、彼女が目を覚まし身を起こすよりも前に頭上から降ってきた。

 

「ちょっと、美鈴。何でこんな場所で寝ているのかしら」

 

 咲夜の声だった。半ば反射的に跳ね起きる。どんなにダメージを負っていても咲夜の声で迅速に動けてしまうのは、もはや悲しき習性だろうか。

 そして美鈴は、自らが持つ条件反射のお陰で先の疑問に対する回答を得ることになる。

 正面には、腕組みをする咲夜の姿。そして左右は紅魔館の館内で標準的な、赤く塗装を施された大理石の通路。

 

「うえ?」

 

 叫びとも状況確認ともとれる声を上げながら、背後も確認してみる。地下通路へと続く鉄の大扉が、堅く口を閉ざしていた。紛れもなく地上である。

 つまりは、こういうことか。フランドールの分身達にさんざ痛めつけられたあと、彼女らは美鈴をこの場所へ放り出した、と。

 

「あなた、面白い休憩の仕方を考えたのね。それとも、健康法の一種かしら?」

 

 当たらずとも遠からずだが、美鈴の意図した休憩とはまったく方向性が異なっている。

 

「ああ、いやその、あはは」

 

 そして困ったことに洒落た弁解の言葉を思いつかない。妹様に会いに行ったら分身達にけんもほろろに追い返されました、と正直に告げたところで自業自得の一言で一蹴されるのが落ちだろう。

 

「何でもいいけれど、もう夕方よ。非番の時間は終わり。早く持ち場に戻りなさいな」

「え」

 

 咲夜の言葉に、凍りついた。

 いや、そんな馬鹿な。確か夕食をとって自室で休み、雨音に起こされたのが朝。遅くとも昼前だったと思う。それが、フランドールの部屋に向かってもう夕方ということは、最悪半日近く気絶していたことになるのだが。

 信じたくなくて、手近な窓のカーテンをずらす。

 咲夜の冗談ではなかった。降っていた雨はすでに止み、空は間もなく地平線の彼方に消える太陽によって真っ赤に燃え上がっている。

 呆然と夕日を見上げながら、美鈴は考える。

 何という、いつも通り。

 恐る恐る、背後を見る。にっこり笑いながら外に向かう通路を親指で指し示す咲夜の姿があった。

 

 ――「もう一日休ませて」なんて言えるわけがない。

「……はい準備します。すんませんでした」

 

 美鈴は通路をとぼとぼと歩き出す。

 

「駆け足!」

「はい、ただ今!」

 

 半ば涙目になりながら、重たい体を引きずった。よくよく見れば、弾幕の嵐を受けて道着は破れ目だらけだ。その狭間からは、赤黒い打ち身の痕も覗いている。

 存在しないはずの咲夜の視線に駆り立てられながら、自分の部屋に戻る。キャビネットから新しい道着を取り出して、手早く着替えに入った。傷ついた体は拭くだけに留め、休む暇もなく外に飛び出していく。

 守衛についていた妖精メイド達に声をかけて、交代を終える。大きく息を吐き出したところで――強烈な疲労と眠気がずっしりと体にのしかかった。

 固い大理石の床に寝かされていたせいだろう。全身が酷く痛む上に、疲れが全然抜けていない。不十分な態勢でとった睡眠が、休憩になるはずもなかった。

 案の定、体を支えることすら億劫になってきた。何のための非番だったのか。自嘲して、苦笑いを浮かべる。

 門柱にもたれかかり、やがてはへたり込む。今の美鈴に必要なものはただ一つ、より十分な休憩だった。眠り慣れた正門の門柱は、大理石に比べたら幾らかましだ。

 非番が明けて早々、怠惰に時間を使う美鈴を咲夜は怒るだろう。思考力の鈍った頭では、それでも構わないとすら思えてしまう。

 咲夜が投げる銀のナイフなんて、美鈴が内包した心の傷には比べるべくもないのだから。

 無能な門番。

 外からの敵には歯が立たない。

 中からの脅威も薄れている。

 それならいっそ、レミリアの愛想も尽きて紅魔館から追放されるほどの役立たずと認識されても構わないか。

 フランドールは、美鈴を従者に迎えてくれるだろうか。

 でも。きっと忘れているだろうと思う。

 妖怪は、記録に残らない出来事を簡単に忘れてしまう生き物だ。六十年も経ったら昔の物事から順に、次々と忘れていく。そうすることで、精神的に強くいられる。三百年も前の小さな小さな約束を覚えている妖怪なんて、きっと美鈴くらいなものだ。

 淡い希望に縋って夢を見る自分は、哀れな妖怪だろうと美鈴は思う。だがせめて、夢の中ではかの吸血鬼の親愛なる部下でありたいと願う。

 いけないことだろうか。差し出がましいことだろうか。

 自分とフランドールとの間に、今の咲夜とレミリアのような関係を乞うことは。

 私の、可愛い妹様よ。

 膝を抱えて顔を伏せ、緩く目を伏せる。

 動けない。

-10ページ-

 §

 

 霧の中の赤い館。門前には、傷つき疲れ果てた風体の門番。門柱の前に座り込んで、船を漕いでいる。

 美鈴は膝を抱え、寝息を立てている。彼女の眠りはあまりにも重く、深く。だからすぐ背後に、誰かの気配が近づいて来ていることにすら気がつかなかった。

 

「あらあら、また咲夜に怒られても知らないわよ」

 

 フランドールは美鈴のすぐ脇まで歩いていって、その横で膝を折る。吐息までもが聞こえる位置に彼女が近づいてきているにも関わらず、気を使う門番の意識が戻ることはなかった。

 あるいはもしかすると、近づいた相手がフランドールだからこそだろうか。

 くすり、と小さく笑って美鈴の寝顔を横目で眺める。その様子は、母親の寝顔を見つめる娘にも似ていた。

 

「別にわざわざ、美鈴が私の部屋にまで来てくれなくてもよかったんだよ?」

 

 そして、ぽつりと一言。

 寝床のすぐ近くで、三対一の弾幕戦をやらかされたら、気づきもする。どんな目的で美鈴が地下室を訪れたのか、そしてどんな理由で分身達が彼女を止めたのかも、大方理解していた。あとでたっぷりと、おませな三人組には灸を据えるつもりだ。

 フランドールは、知っている。彼女というとても不安定な存在が、多くの人妖によって支えられている事実を。

 支え合っている者同士がいがみ合ってはいけないと、フランドールは未熟ながら考える。もしも土台が歪んでしまったら、破壊の目を潰さずとも簡単に壊れるだろう。

 自分にできることは、せめて骨組みが歪まないように、出来る限りの愛情を注ぐくらいだ。

 フランドールなりに。

 

「遊びたいなら、こっちから遊びに行くってば。もう、お外に出られないわけじゃないんだからさ」

 

 そっと、美鈴の頬に手を添える。繊細なガラス細工に手を触れるように優しく、慎重に。そして触れた場所を支点とするように、自らの身体を近づける。

 

「今でも、あなたは私の大切な遊び相手よ」

 

 

 小さな唇が微かに触れた美鈴の頬は、ほんの少しだけ塩辛い味がするような気がした。

 

-11ページ-

 

「よかったのですか?」

「まあ、いいじゃないか。たまにはこんな運命も」

 

説明
昨年の例大祭で無料配布したものです/普段書いてるものの影響で若干こいフラが入っております/でも基本はメイフラ
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