Da.sh
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 ドッカ――ン。

 大音響とともに黒い煙が甲板を包み込み、空中に立ち昇っていく。

 さらに続けて2回爆発音が轟き、紅い炎が甲板を舐めまわし始めた。

 厨房で料理をしていたのだろうか、どうやらガスか燃料に引火したらしい。

 ベトナムへ向けて出航するはずだった船はふたつに折れた中央部を天に向け、火と煙

を纏ったまま海の中に沈みゆこうとしていた。

 

 西の方角に目を転じると、濃いオレンジ色をした太陽がワイングラスのような形をし

ていた。雲まで紅く染まっている。

 太陽が先か、船が先か・・・。

 まもなく、消防艇と海上保安船が、海上を滑るように出ていった。遅れてヘリコプタ

ーが、プロペラ音を響かせ始めた。

 

 男は、高台にある公園からもう一度、沖合の沈みゆく船を凝視して口角を少し上げる

と、踵を返した。

 公園の入口に止めていたシルバーの車の運転席に乗り込み、アクセルを踏み込んだ。

 

 

 話は、1週間前に遡る。

 新年度を迎え、満開の桜に浮かれた気分が漂う4月12日、午後1時。

 大賀渉は、日本橋茅場町にある、金丸金属工業の東京本社を訪れた。

 

「月資源開発機構の大賀と申します。社長にはアポイントをとっております。よろしく

お願いします」

 受付嬢は、値踏みをするような一瞥をサッと投げかけると受話器を取り上げ、来客の

旨を告げた。

 秘書室につながっているのであろう。

 電話機に向かって頭を下げると受話器をフックに置き、先ほどは見られなかった満面

の笑みを顔に張り付けたまま、しばらくお待ちください、と告げた。

 

 30秒を経ずに現れた女性も、受付嬢に劣らぬ美人であった。姿勢正しく、私服であ

ろうモスグリーンを基調とした丈の長いワンピースを、ゆったりと身に着けていた。社

長の好みか人事部の好みか、会社の傾向がうかがえる。

 エレベーターホールに案内されると、エレベーターの扉は既に開いていた。

 女性は8階のボタンを押すと、ブリーフケースを下げた大賀ひとりを箱に乗せて扉を

閉めた。わずかの時間でも二人きりになれることを期待したのだが、無念の気持ちを抱

きながら、8階に到着した。

 

 扉が開くと、黒いパンタロンスーツを着た別の女性が、頭を下げて待っていた。

 毛足の長い赤い絨毯の上を足が沈む感覚にとらわれながら、女性のプリッと持ち上が

った形のよい臀部が、左右にリズムよく振られるのに目を合わせて付いていくと、最奥

にある部屋へ案内された。

 あわてて視線を上げると、そこには〈社長室〉というプレートが貼ってある。

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「お待ちしておりました、大賀さん。どうぞ、おかけになってください」

 社長の金丸幸蔵は、包み込むようなバリトンの声を響かせながら椅子から立ち上がる

と、わずかな書類が置かれているだけの大きな机の縁を回ってソファを指し示し、大賀

を坐らせると向かい側に腰を下ろした。

 大賀は、前に置かれているガラス張りのテーブルに名刺をすべらせて、渡した。金丸

も名刺を差し出すと、名刺と大賀に交互に視線を向けながら、

「お見受けしたところまだお若いのに、開発機構の所長さんですか。いやいやそれはと

もかく、大臣直々にお電話を頂きまして、天にも昇る気持ちでしたわ。よくぞわが社を

指名していただけたと、感謝しております。いつも3番手あたりにあって、後塵を拝し

ておりますからな」

 60歳を超えた金丸ではあるが、30歳そこそこの大賀に対し、慇懃に言葉を紡いで

いく。

 

 

「経産省としましてはまだ極秘扱いではありますが、月資源開発に本腰を入れていくこ

とに決定しております。月資源開発機構も立ち上げたばかりで、霞が関に机があるだけ

でして。2年後にジャクサ(JAXA)は月に向けて『かぐや』を打ち上げ、地質調査

を計画しております。世界中が虎視眈々と月資源に狙いを付けているため、どこが一番

乗りをするか、です。マスコミ発表もままならない状況なのです。しかし問題は、資本、

です」

「そう、問題は資本、でしょうな。先立つものがなければ何事も進行しない」

 

「そこで経産省としましては、ご賛同いただけそうな企業をピックアップしまして・・・

いえ、必ずしも大企業が望ましいというわけではないのです。御社のような中堅の方が、

いや失礼、御社ならフットワークが軽いであろうと。資金を捻出しやすいのでは、と考

えております」

「わが社を選択されたのは、ご賢察ですな。たしかに、私ひとりの思惑次第でいくらで

も調達は可能です。たしか、10億、でしたな」

「出来れば現金で。換金の手間は省いておきたいと思いますので。試掘の為のロボット

を開発しているのですが、資金不足で材料の調達にもたついているのです。今どき現金

払いなどと、思われるかもしれませんがね」

 

「月に眠っている鉱床のことは、私どもで調べは付いています。役員会でも了承を得ま

した。採掘の権利を有することができると、初期投資など、すぐに回収できるものと踏

んでいます」

「やはり、実際に月の上に立って現物を手にし、分析をするまではなんともいえないの

ですが。初期投資が無駄になる可能性も、あるわけです」

「ハハハ、信頼できる筋の情報を調べましたから、まず大丈夫でしょう。それで、いつ

までに」

「早ければ早いほど。そうしたら開発に早く取りかかれます。完成すればご覧に入れま

すよ。ただ、それまでは公開できませんので」

「分かりました。現ナマで10億・・・3日で用意しておきましょう。あらためてお越

し頂けますか。100キロの重さになるので、キャリーも用意しときますよ」

「ありがとうございます。必ず成功させますよ。では15日、4時頃でよろしいでしょ

うか」

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 足立区綾瀬団地のそばにある、見かけは古い2階建てアパート。

 コンビニの袋を提げた渡辺守は、カンカンという大きな音を立てて階段を上がってい

った。

 一番奥の部屋を軽くノックして、中に入った。

 

「ほれ、しゅん。サンゴー缶」

「おっ、サンキュ」

 木村俊介は、3台のパソコン相手にキーボードを叩いていた。

 缶ビールを俊介に手渡すと守は、プルタブをひいて一気にのどに流し込んだ。

 プハーッ、と一息つくと、パソコンの画面を覗き込むようにしてネクタイを緩め、ス

ーツをトレーナーに換えた。

 

「親父さんのスーツ、似合ってんぞ」

「ああ、腰回りがちょっとだぶついてたけどな」

「で、どうだった?」

 画面から顔を上げた俊介は、守の視線を捉えて問いかけた。

「おまえが仕込んだサイトに、うまい具合にはまってたぜ」

「パソコンに侵入して誘導するのは、簡単にできるさ。で、どうだった?」

「10億。15日の4時には俺たちのもんになる。そうしたらすぐにとんずらさ。日本

とはいよいよ、おさらばだぁ〜」

「浜崎さんから連絡があって、船の手配、パスポートの手配、任せておけって。どうや

らうまく運んだらしい」

「受け取りは、レンタカーだな」

 

 守は畳の上にごろりと寝ころぶと天井の木目を眺め、想いにふけった。

 一時も忘れたことはない。忘れようとしても忘れられない、あの悪夢を見た日。

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 高校1年の10月1日。学校の文化祭初日は、帰りが早かった。

 玄関を入ると、強烈な不快臭が押し寄せてきた。

 不審に思い臭いの元をたどると、和室の欄間に架けられたロープに、父がぶら下がっ

ていた。

 紫色となった顔の中の眼は大きく見開かれ、赤く充血していた。口を大きく開き、舌

がこんなに長い物かと思うほどに飛び出ていた。大便の臭いと、床を濡らしている尿の

臭い。

 そしてそばには、へたり込んで失禁している母。

 頭の中が真っ白になり、しばらく立ち尽くしていた。

 

 手から離れた鞄が、ゴトン、と立てた音に、我に返った。

「かあさん」

 弱々しい声しか出せなかったが、母は動かない。死んじまったのかと思い、前に回り

込んでのぞき見ると、どこも見ていなかった。焦点の合っていない眼を、不規則に動か

しているだけだった。

 

 父は、自殺と断定された。遺書があったのだ。

 父が勤めていた金丸金属工業で、3億円の横領事件があったことを知った。経理部の

課長だった父に疑いがかけられ、もう逃げられないと知った父は、命を絶ったのである。

 13年前のことだ。

 父が死んだことで、事件は不問となった。会社は、告訴しなかったのだ。母子を哀れ

に思ったのか、会社はわずかの退職金を支払った。

 

 しかしどう考えても、自殺をするなんて考えられなかった。その時までの父は、いつ

もと変わりなかった。冬休みには家族で、スキーに行く計画まで立てていたのである。

 父の同僚でかつ友人であった人から聞いた話では、課長の立場では大金を動かすこと

はできないはずだ、と。また、そのお金をどうしたのかも分からない。

 

 母は時々異常行動をとるようになり、父の死後1年が経とうかという雨の日に、走っ

ている車に跳び込んで、死んだ。

 花柄の母愛用の傘は、ボロボロになって道路端に転がっていた。雨水をいっぱい貯め

込んで。

 

 

 バイトをしながら、高校を卒業した。

 学校では、誰も話しかけようとしなくなった。クラスメートの俊介以外は。

 浜崎さんというのは、俊介のバイク仲間だった。

 メカ好きの俊介は、いつしかバイクからパソコンへと鞍替えした。今では、ハッキン

グの腕を上げるのに生きがいを感じているらしい。競技会もあるそうだ。それから、声

帯模写も得意ときている。

 

 越谷にある家は、そのまま残している。

 千葉の流山市に住む、父のたったひとりの身内、妹である叔母一家が、家の維持管理

を引き受けていた。金丸金属工業から受け取ったわずかのお金は、叔母に預けている。

 高校生の時は、越谷でひとり暮らしをしていた。家を離れたくなかったのである。悪

夢にうなされたとしても。真相を知りたかったのだ。

 親父の持ち物を、ひとつずつ調べた。時間をかけて。

 手帳に残されていた〔不正 部長〕と言う文字を見つけた。それで会社に、上層部に

いる人に、嵌められたのではないか、ということを確信した。

 

 叔母の強い勧めで大学に進学し、宇宙工学を学んだ。そしてジャクサに採用された。

 家を離れる時、

「お金は十分あるから、家はそのままにしとこうか」

という叔母に、すべてを任せることにした。ほんとは、家計が豊かではないはずだと知

っていたのに。

 

 叔母との連絡は、家に帰った時の置きメモだけによる。

 ジャクサを辞めた今、住所は教えていない。電話番号も元から伝えていない。

 

 そんな事を思いながら、守は眠りに落ちていた。

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 浜崎の声が聞こえた。

 守は、目覚めた時はいつも目尻を濡らしているので、わざと大あくびをした。

「守。また思い出してたのかよ。涙流してたぞ」

「チッ」

 

 起き上がると洗面所へ行き、ゴシゴシと顔を強くこするようにして洗った。

 タオルを首にかけ、冷蔵庫からサンゴー缶を取り出すと、浜崎の横にあぐらをかきあ

おるようにして飲んだ。

「守。うまくいったらしいな」

「ああ。で、出航は?」

「1週間後の19日。午後5時出航だ。ちょうどサイゴンに戻る貨物船があってな。小

型だが、客は10人ほど乗れる。ほれ、パスポート。ついでに国際免許証も手に入った。

守はグエン・カオ・タイン、俊はホー・チエン・ズン。言葉の方は大丈夫だろうな」

「簡単な言葉ならな。入国してしまえば、英語でいけるよな」

 

「俺の知り合いのチュオン・バン・ハイが相談に乗ってくれる。日本語はペラペラだ。

連絡先だ」

 守は紙片を受け取るとさっと眺め、パスポートに挟んだ。

「すまんな。俺の為に」

「お前ら3億ずつでいいんだな。向こうで口座を開いたら送金する。しかし、俺の仕事

の手がなくなるのは、ちと痛いわ」

 

 

 浜崎は、多重債務者の借財の整理屋だった。

 リストラで多くのブラジル人やアジアからの出稼ぎ、不法入国者など、職を失っても

自国に帰ることができない者たちがいた。

 彼らの行きつく先は、闇金である。無論返せるはずなどない。昨今は、高利貸しの取

り締まりはきつくなっているが、それでも返済はできない。

 

 浜崎は、暴力団とは一線を画している。

 多重債務者に当面の生活資金を貸して、借財を肩代わりする。そして仕事を斡旋する

のだ。

 日本人なら嫌がる、山の中にある飯場や船の乗組員である。

 作業員を送りこむと、数カ月分の給料をまとめて受け取る。食事などは保証されてい

るので、しかもお金を使う所もない彼らは、困らないはずだ。

 山の中や船に乗せてしまえば、逃げ出すこともできない。

 

 そういった人たちを守と俊介に監視させ、現場まで送らせていた。金融会社と当人、

そして斡旋先からも手数料を受け取る。決して悪くない報酬が得られた。

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 守が金丸金属工業の1階に降りた時、ロビーには目付きの鋭い男が坐っていた。興味

深げに守を見送ると受付嬢に片手を上げて、エレベーターに乗った。

 受付嬢は、嬉しそうにして手を振り返した。

 男の行き先は社長室。

 

「来客だったようですね」

 テーブルの上に乗っているたばこケースから1本抜き出し、火を付けた。

 フーッ、と煙を吸い込んだ後うまそうに吐き出した。

「おう、久し振りだな。ちょっとした賭けをしようと思ってな」

「クラウドナイン、さすがにうまいタバコだ。で、どこのやつですか?」

「それは、君でも言えんよ」

「別にかまいませんがね。ちょっと気になるんですよ、金丸さん」

「どうしたィ」

「だれかに似てると、思いませんでしたか?」

「う〜む、そう言われれば・・わしも、ん? とは思ったが、はて、誰だろう?」

 

「エレベーターの中で考えてたんですけどね。ほれ、13年前に経理課長をしていた男、

奴の息子は葬式の時に見てるんですけどね。その息子じゃないかと、思ったんですよ」

「渡辺。自殺に見せかけた・・・似ている。渡辺にそっくりだ。大賀渉、と名乗ったが

・・・ま、偶然だろう。仕事の話できたんだ。昔のからくりなど、知られようはずない

さ」

「そうかな。ま、注意に越したことはない。私に仕事として依頼するなら、調べますが

ね」

と、たばこを吸いこむと天井に視線を上げ、下唇を突き出すようにして煙を吐き出した。

「う〜む、念のためそうするか」

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 久しぶりに越谷の家に帰った守は、自分の部屋の入口に立って、グルッと見回した。

叔母が時々やってきて、窓を開けたりカーテンを洗ったりしてくれているおかげで、傷

みは少ない。

 

 壁に張ったままになっている、色褪せたモーニング娘のポスター。

 空気が半分抜けてしまった、サッカーボール。

 勉強机の上の雑誌類。

 本棚には父に買ってもらった、宇宙に関する本や図鑑が並んでいる。村上春樹の単行

本が数冊。その隣にある『小さな恋のものがたり』(みつはしちかこ作)を取り出し、

じっと見つめて少し迷ったが、背負っていたザックに入れた。

 

 台所のテーブルには、叔母のメモが乗っていた。

      きちんと食事はしていますか

      いつでも食べにいらっしゃい

      たまには顔を見せてほしいの

 

 守は持っているノートから1枚はぎとって、テーブルの上に乗ったままになっていた

鉛筆を取り上げ、冷蔵庫を見つめながら言葉を捜した。

      外国へ行きます。日本にはもう帰ってきません

      この家は、中の物も含めてすべて処分してください

      お手数をかけて申し訳ありません

      体には気を付けて、長生きしてください。

      父の分と母の分と

 

 

 もう一度、家の中を見てまわった。父が首をくくった場所。床に付いたシミは、うっ

すらと残っていた。

――父さん、まもなく仇は取ってやるぜ。母さん、ごめんな。

 

 外に出てもう一度振り返り、家の外観と小さな庭を眺めた。

 

 

 駅に向かう途中、声をかけられた。

「渡辺君! 渡辺君よね?」

 自転車の前かごにスーパーの袋を積んだ女性だった。

 誰だろう、と考えていると、

「響子よ、守君よね!? 帰ってきたの?」

 黙ったまま立ち去ろうとした。

 響子は変わっていた。

 いつも日に焼けて黒かった顔が、こんなに美人だったのかと胸が高鳴った。しかし今、

俺に関わらない方がいいのだ。

 

「人違いですよ」

と言い残して駅に向かった。背中に熱い視線を感じながら。

 

 

 高校1年の夏休みからあの事件が起こるまでの間、響子と付き合っていた。クラスは

違ったが、響子はソフトボール部にいた。そして守はサッカー部。狭い運動場を、いく

つかのクラブが譲り合って使用していた。

 練習が終わると、時々は一緒に、駅まで歩いた。時々は一緒に、喫茶店に入った。

 事件があってからはクラブを辞め、守の方から遠ざかっていった。響子に辛い思いを

させたくなかった。響子に気を遣わせるのが嫌だった。気を遣う響子に気を遣う自分が、

やるせなく感じられたのだ。

 噂で、響子は結婚をしてこの街で暮らしている、とは聞いていた。

 こんな日に初めて出会うなんて、と思う。

 

 東武伊勢崎線の電車に揺られながら、見納めとなる景色を脳裏に焼き付けておこうと

窓の外に目をやっていたが、高校時代の響子とさっき会った響子の面影が、かわるがわ

る現れては消えていった。

 ザックに入れている『小さな恋のものがたり』は、冬休み前に響子からもらった本だ

った。もう話もしなくなっていたのに。

「この本、面白いよ」

 ただ、それだけを言って。

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 15日、午後3時50分。

 木村俊介が運転するレンタカーのバンで、金丸金属工業の玄関口に乗り付けた。俊介

を車に残し、守は2階の応接室に通されると、しばらく待たされた。

 

 金丸社長は、キャリーを引っ張る経理部の男を伴って現れた。

 キャリーのふたを開け、1万円札の束をいくつか取り出し、束の数量を確認させた。

 俊介が偽造した受取書と交換する。

「確かに受け取りました。これは領収書です。大臣はこの事業に大変な意欲を持ってい

まして、引き受けていただけたことを、大変喜んでいました。ありがとうございます。

大臣があらためて、お礼の電話を入れると思います。必ず成功させますよ、ご安心くだ

さい」

「追加が必要となれば、いつでも申し出ていただいて構いません。よろしく頼みました

ぞ。大臣にもお伝えください」

 

 キャリーをひいてエレベーターから降りた守は、まっすぐに車へ向かった。ロビーで

目つきの鋭い男が見ていることには、気づかない。

 守がキャリーを車の後ろに積み、助手席に乗り込んで走り去ると、男は外に出てきて、

近くに止まっていた車に合図を送った。

 車は、バンの後を追いかけた。

 バンを守るつもりで待機していた浜崎は、その様子を読み取った。

 携帯を取り出した。

「後を付けられてるぞ。どこかで撒け。その後は、横浜の例の倉庫だ」

『分かった』

「後ろに暴力団が付いているようだ。見覚えがある。目的は分からんが、ウソを見抜か

れたのかもしれんな」

『暴力団? ウソだろ。嫌だぜそんなの』

 守の声は1オクターブ上がり、裏返っていた。

「ま、運を天に任せるんだな。幸運を祈る」

 

 

 稲山会傘下の高見組若頭・水元の報告を聞いた金丸は、10億の金を取り戻して、会社

には戻さずに着服することを計画した。そして、大賀渉と名乗った渡辺守はどこかで自殺

してもらうことで、水元に指示を出していた。

 

 

 13年前、金丸の指示を受けた稲山会の組員だった水元は、会社の指令で出勤を遅ら

せた渡辺が家を出たところを、後ろから頭を殴り付けて脳しんとうを起こさせ、くず折

れたところを抱きとめてどこも傷つけることなく、痕跡も残さずに首つりの状態に持っ

ていった。

 ロープが首を締めつける直前に、渡辺は意識を取り戻したのである。

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「ヤァ公に目を付けられてる、ってかよ」

「ああ、この目論見がばれてたってことだろ。付けてきてる車、分かるか?」

 

 俊介は落ち着き払っていて、時々ミラーに目を配っていた。

「おれらが出た後に動き出した車が、サイドミラーに映ってたけど・・・」

と言いながら、車線を変更した。

「どうやらホントらしいな・・・よしっ、環八に入るぞ、そこで撒く」

「渋滞に巻き込まれっぞ。やばいんじゃないの」

「まぁ、まかせとけ、って」

 

 京橋から首都高に入り、一ノ橋JCTで目黒線に変更。荏原で降りた。

 国道二号線を下り、環八通りに入った。ここはいつも渋滞している。例の車は、4台

の車を挟んで付いて来ている。時々止まったかと思うとノロノロと動きだす車の間を、

クラクションを鳴らされながら強引に何度か車線変更し、やがて大型トラックの前に出

ることができた。

 途中で脇道へ逃れ、何度か曲がった。しばらく直線を走っても、付いて来ている車は

ないことを確認した。どうやら撒くことに成功したらしい。

 

 守は、浜崎に報告した。

「環八で撒いた。まもなく玉川だ」

『ご苦労さん。だがな、よく考えてみると、奴らそんなに甘いもんじゃない。どこかに

GPSが仕込んであると思う。一旦俺のマンションに来てくれ。金を預かる。それから

鞄を処分しよう。急いでくれ』

「ラジャー!」

 

「浜崎さんのアジトへ!」

「まもる〜、映画と違うんだぞ」

「ああ、まるでアクション映画の雰囲気だった、手に汗握る」

「だった、じゃないだろ、渦中にいるんだよ。マッタク」

「カーチェイスがなかったよな、残念だ」

「ば〜か。日本の、しかもいつも渋滞してる東京でできるわけないだろ、深夜のアクア

ラインなら別だけどよ」

「だけどよ、金丸は暴力団とつるんでるってことか? 今時・・・やっぱ、親父が死ん

だのは・・・フゥ」

 守は黙り込んだ。

 俊介は浜崎のマンションを目指して、アクセルを踏み込んだ。

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 4月19日、午後4時。

 横浜港山下ふ頭。

 守と俊介は車から降り、身の回り品のみが入ったバッグを肩にかけて、停泊している

貨物船へと向かった。浜崎は車を置きに行っている。

 倉庫群の間を歩いていると、目つきの鋭い男が現れた。笑っている。

 後ろからも足音が。

 振り向くと、いかにもチンピラ風情の男が二人。ズボンのポケットに両手を突っ込み

肩を怒らせ、口を半ば開いて近づいてきた。

 

 やあ、とスーツのズボンに片手を突っ込んで話しかけてきた男に、向き直った。

「大賀渉。いや、渡辺守、というべきかな。それとホー・チエン・ズン。本名はなんと

いうのかな」

「な、なぜ・・・分かった」

 顔の筋肉はすべてひきつっていたが、穏やかな落ち着いた声を出すことができた、と

守は感じた。

――落ち着くんだ

と、心の中で何度も唱える。

 

「なにビビってんだ。声が出てないぞ。レンタカーを調べた。“わ”ナンバーはレンタ

カーだ。すぐに教えてくれたさ。フン、正直なんだな君たちは。ホー・チエン・ズンと

いうのはベトナム人の名前かな? それと横浜港で乗り捨て。ハハハハ、上に馬鹿が付

くほどだ」

「それで、俺たちに何の用だ」

 俊介は、守よりも落ち着いた口調だ。まるで、慣れている。

「金丸金属から受け取った金は、どうしたィ!?」

 

「そ、そんなことより、ぼ、僕が渡辺守、だと、ど、どうして知ってるんだ」

「渡辺・・・君の親父さん、自殺したんだよな。勘と正義感が強すぎたんだよ。当時の

経理部長、今の社長はそれが鬱陶しくなって、その時にちょっと手を貸すようにと、俺

は頼まれた」

 

 守の顔から血の気が引き、ぶるぶると震えだした。

 寒いのではない。怖いのでもない。怒りが、溶岩のように怒りが沸々とわき上がって

きたのだ。

「どうやって・・検死では、死んでから首をつったのではないことが判明している。生

きてる親父の首に、ロープを巻きつけたのか? それも、状況からあり得ないと考えら

れた」

「まあ、そういうことになるか。ブラックジャック、知ってるかな?」

「外科医だろ。もしくは、トランプのゲーム」

「ハッハッハッハッ、素人は面白い。フフフフ、簡単に作れる武器の一種だ。それで頭

を殴りつけると、一時的に脳しんとうを起こさせるんだ。打ち付けた跡は残らない。ま、

偽装殺人では、たいてい使われてる方法だろうな」

 

「で、それを教えてくれて、今から警察に自首する、ってことか」

 動揺するどころか、対等に会話を交わしていることに、守は尊敬のまなざしを俊介に

向けた。

 その言葉を肯定する意味で、首を数回縦に振った。

 

「その前に、君たちも自殺するんだよ。手伝ってやるぜ。体に穴をあけることはできな

いが、痣ぐらいは構わんさ。海に飛び込み自殺をするんだからな」

 水元は、拳銃を上着の内ポケットから取り出した。そして静かに続けた。

「だが、場合によっちゃ体に穴をあけることになる。金はどうした! どこにある!?」

「クソッ」

 チンピラふたりはナイフを取り出して、ニヤツキながら刃の部分を左手に打ち付けて

いる。

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 ヒュッ・・・ヒュッ、ヒュッ。

 空気を切り裂く音が聞こえた瞬間、水元は拳銃を落とした。石ころが転がる。俊介は

すかさずバッグを空中高く放り投げ、尻を地面に着けるようにして左足を折り曲げて右

足を伸ばし、拳銃を蹴とばした。

 

 チンピラはナイフを落とした。彼らは手を押さえている。

 俊介は拳銃を蹴とばした姿勢から左手を地面につけ、それを軸にして体を回転させ、

両足を地面に着けると同時に上体を立ち上げた時には、ふたつのナイフを拾い上げてい

た。

 守は、あんぐりと口を開けて見ていた。

 一連の動きは、滑らかで美しかった。

 

「シュン、相変わらずの素晴らしいダンスだ。よう、水元さん、お久です」

 浜崎は親しみを示すように口元をほころばせて姿を見せ、そばに落ちている俊介のバ

ッグを拾い上げた。

 不覚をとった水元は、口をゆがめて凝視している。

「や、ですよ。忘れっちまいましたか。それともオレが変わっちまったかな」

 

 ((斜交い|はすかい))に視線を送っていた水元は、空中にそらすと再び浜崎に焦点を合わせた。

「渋谷一帯を牛耳ってた、ギャングスターの明良か!?」

「水元さん、すっかり元気になられたんですね」

「明良が後ろ盾か。これはまいったな、ハハハハハ。オイお前ら、先に帰っていいぞ、

俺の知り合いだ」

「命の恩人、と言ってもらいたいですね」

 浜崎はバッグを肩にかけ、片手をズボンに突っ込んだままそばまでやって来た。

 俊介は、ズボンの汚れを払っている。

 守は状況が分からずに、交互に顔を向けるばかり。

 

「見事な踊りを披露してくれたのは、ナンバー2の俊か」

「昔ほどのキレは、もう見せられないな」

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 夜っぴいてバイクを走らせるばかりが、暴走族ではない。

 もっと楽しいことをしようと企画を立て、周辺のグループを統率していったのが、浜

崎明良だった。

 恵まれた体格と腕力を有していただけではない。bQにいた俊介の存在も大きかった。

知恵を絞るのが、俊介の役割だった。小柄で腕力は貧弱だったが、器用にたちまわるこ

とができた。

 

 ギャングスターのメンバーが中心となり、ファイティングショーを渋谷にある喫茶バ

ーを不定期に借り受けて開催した。もちろん、賭け、である。

 口コミで、いつも超満員の盛況だった。

 出演者は参加料を払うが、優勝すれば、集まった掛け金の50%が入る仕掛けだ。し

かも女性にモテモテとなれる。

 飲み物も盛大に売れていった。

 そうすると組員の下っ端だった水元は、みかじめ料の請求に現れるようになった。が、

浜崎は決して屈することはない。

 数億もの金を貯め込んでいる、という噂だった。それを仲間に公平に分配していたか

ら、仲間の信頼は厚かった。

 

 

 そんなある日、

 地元に基盤を置く稲山会と家吉会、そして関西から進出してきた山田組との間で縄張

りをめぐる争いがエスカレートし、ついにいわゆる、三つ巴のシマ戦争が始まった。

 水元は日本刀で背中を切りつけられ、浜崎がたむろしていた喫茶バーに命からがら、

よろけながら逃げ込んだ。店に入ると椅子に倒れかかってそのまま意識を失ったが、気

が付いた時にはそこで匿われ、素人による傷の荒療治を受けていた。警察の手にも、敵

対する組の手にもかかることがなかった。

 8年前のことである。

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「あの時は、世話になった。今でも傷が、時々引きつることがある」

「面倒なあんたをなぜ助けたのか、俺もお人好しだったんだよな」

「あんたの連れだと分かれば、手だしはできねェな。貨物船に乗って、ベトナムでもど

こへでも行くんだな。ま、気ィ付けて行ってくれや」

 

 守は、勇気を胸に集結させて言った。

「俺の親父を殺したんだろ。自首しろよ」

「お前さんの詐欺、俊のハッキング・・将来を棒に振るか? 10億のことは金丸をう

まく言いくるめといてやる。どうだ」

「そろそろ乗船が終わる時間だ。お前ら、もう行け」

「浜崎さん・・お世話掛けました。じゃ、行きます。行くぜ守」

 チクショウ、と連発し納得のいかない様子の守の腕をひき、俊介は荷揚げ場へ急いだ。

 

 水元は、煙草に火をつけながらふたりを見送ると、浜崎に向き直った。

 しばらくの間、近況を交換した。

 そして、不意に思いついたかのような言い方で、

「いいことを教えておこう。グエン・カオ・タイン、ホー・チエン・ズン、といったか

な? 香港マフィアが捜しに来ている。とんでもない秘密を握っているらしくてな。そ

れで日本に逃げてきたそうだが、自分らが死んだことにする身代わりにあのふたりを乗

船させて、すでにある計画を実行に移したんだとさ。船にダイナマイトを仕込んだそう

だ。痛めつけて本人から聞きだしたから、確かな情報だ」

「ほんとか!」

「6時に爆発するそうだ・・・ほう、いよいよ出航だな、ハッハッハハハハ」

 

 出航の合図が高らかに鳴っているのが、聞こえてきた。

 水元は足元に捨てたたばこを踏み消し、高笑いを残して駐車場に向かった。

 浜崎は、債務不履行者を乗組員として何度も斡旋してきたので、港内のことはよく知

っていた。

 物流センターへと、全力で駆けた。まだ人が残っていることを願いつつ。

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 横浜港。

 横浜ベイブリッジの下をくぐり、東京湾へと出ていく1台の水上バイク。

 長く伸びていく白い航跡は、泡となって左右に広がっていく。

 6時まで、後10分を切った。貨物船まであとわずか。最大のスピードを出す。貨物船

の左側に回り込んだ。

 2つの影が宙を舞い、海に落ちた。

 

 

 浜崎から突然かかってきた携帯電話。

 事実なのか!?

 浜崎の話を聞くと、荷物は置いたまま甲板に出た。

 水上バイクが近づいてくる。

 尻ごみする守を励まして、足から水に突っ込めば大丈夫だからと俊介は、守の手を取

り船べりを蹴ったのだ。海面まで6メートルはある。

 

 浜崎は横に積んでいた浮き輪を、スピードを緩めてから思いっきり放り投げた。

 二人は水面に浮きあがると周囲を見回し、浮き輪を見つけると、それをめがけて泳ぎ

出した。靴を取り、ズボンを脱ぎ棄てて。油の臭いと水の冷たさなど、意に介している

暇などない。

 二人が浮き輪に手をかけたのを確認するとバイクは再びスピードを上げ、そのまま房

総半島を目指して、直進した。

 貨物船はその時、大音響を上げたのである。

 

 ドッカ――ン。

 大音響とともに黒い煙が甲板を包み込み、空中に立ち昇っていった。

 さらに続けて2回爆発音が轟き、紅い炎が甲板を舐めまわし始めた。厨房で料理をし

ていたのだろうか、どうやらガスか燃料に引火したらしい。

 ベトナムへ向けて出航するはずだった船はふたつに折れた中央部を天に向け、火と煙

を纏ったまま、海の中に沈みゆこうとしていた。

 

 俊介は浮き輪に腕をかけ、取っ手をしっかりと握ったままちらりと振り返り、それを

見た。

 

 

 高台にある公園から、水元は、沖合の沈みゆく船と、その先を米粒のように小さくな

っていく水上バイクを凝視して口角を少し上げると、吸っていた煙草を吸い殻入れに投

げ入れ、その場を立ち去った。

説明
サスペンスアクション。

経理課長をしていた父が、横領が発覚して自殺をしてから13年。
疑義を抱いていた守は、仲間と3人で
その会社から10億円を詐取することを計画し、実行に移した。
偽造パスポートを手に入れ、ベトナムへ帰る貨物船に乗船するが。

組員とつるむ社長。
元暴走族と組員との関係など、
手に汗握る!?

タイトルは、奪取とダッシュ(全力で走る)とをかけています。
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タグ
詐取 サスペンス アクション 

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