マンジャック #18(前)
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マンジャック

 

第十八(最終)章(前) 寂しき者たちの明日

 

 私は...。

 静まり返ったロンド・バリの会場。その、擂り鉢状の会場のぐるりを為す壁の一角に叩きつけられた格好のまま、成木は呟いていた。

 私は...。

 また同じ言葉を、とり憑いた導者の口から彼は漏らした。

 成木の全てを賭けた入念な研究、慎重な準備と万全な環境。その上で展開されたロンド・バリによって達成した集団転移は今、会場の対岸にいる二人の男女の手によって崩壊していた。人を集め、更に人の心を集めることによって、成木に輝ける未来を約す筈だったその行為は皮肉にも、千の人に拒絶され、そればかりか、彼をして人の形をすら奪う程の究極の離散という、全く反転した結果に終わってしまったのだ。

 人の身体に辛うじて戻った成木が、彼の憑いた依童にまで滲み出るほどのショックを隠しきれないのも無理からぬ事だろう。

 私は...。

 三度目の言葉は、彼という自我のどこまで染みわたったのか...。だが、その心の深みを経て後、敢えて成木は思い浮かべていたこととは別の言葉を語った。

「私は、負けない。」

 それでも、彼の言葉が単なる負け惜しみでなく、寧ろ彼の本質を伴っていたことは、本章を読み進めていただければ否応なく解ることになる。

 そして、それほどの力を生み出す、彼の動機も...。

 

 

 極度の精神的疲労で放心状態にあった大野だったが、会場の反対側にあってよろけながらも立ち上がった男をその視界の隅に入れるや、再び緊張感を取り戻した。

「成木?」傍らで辛うじて立っている原尾も、男に気付いて呟いた。

 大野の緊張も、原尾の直感をおそらく間違いないとみなしたからに他ならない。

 二人が注視した、さっきまで導者をしていたその男は、おぼつかない足取りですぐ脇のドアまで進んでいく。

「ま、待て!」

大野は言うが速いか飛びだそうとしたが、左肩が壁にめりこんで動けない。男は止まるはずもなく、大野達に一瞥だけ残してその中に消えた。

「いかん。」大野は小さく悪態をつく。「逃げられる。」

 その言葉の重要性は原尾にもよく判っていた。今回集団転移に勝てたのは、統括者である成木がその力に慣れていなかったというだけに過ぎない。成木を今逃がすと言うことは、それだけで取り返しのつかぬ事になるのだ。

「くそっ。何とか...。」空しくもがく大野。

 原尾は怪我の無理を圧して大野に手を貸していたが、びくともしないその身体に焦燥を隠しきれない。何かないか...何か...。彼女は考えつつ辺りを見回し、突然刮目して飛び出した。

 どうしたんだ。原尾の行動に一瞬戸惑った大野だが、彼女が手にした物を見て理解をし、且つ慌てた。

「ちょっ、ちょっと待ておい。」

 原尾は床に転がっていた自動小銃を手にしていたのだ。とはいえ、怪我をしている彼女では、照準も心許ない。だが...。

「信じて。」彼女はそれだけ言うと、撃った。

 ガガガガガッ!

 弾丸は秒数十発の勢いで放たれ、大野の脇の壁に次々と穴を穿っていく。破片と跳弾が大野に降り注ぐ。

「ひーっ!」

 原尾が全弾撃ち尽くして引き金から手を離したとき、大野の左側の壁は、見るも無惨な状態となっていた。

「外れた?」

「当たったぞ!」大野は泣きそうな声で弾痕を見せようと左手を振りかざした。「あ。」

「外れたようね。」

「...。」

 

 

 成木が逃げ込んだのは、ロンド・バリ関係者の控え室だった。過日、鈴鳴と馳が黒布を被せられた鳥かごに入った蝙蝠を見せられた部屋だ。彼は導者の身体の制御に精神を集中させながらも、次の行動について考えていた。

 悔しいが、今は逃げきる事が先決だ...。成木は落胆してはいても、決して自分を失ったわけではない。集団転移を解いて一人となった今、自分がただのジャッカーとして立ち向かうのでは大野に勝てないことを認めるだけの冷静さはまだ持っているのだ。

 奴の力を封じるか、奴を越える力を手にせねば、私に勝ち目はない。

 その時だ。成木は自分の背後に殺気を感じた。

 部屋の陰に誰かいる! 成木は振り返りざま後方に飛び退いた。だが、その者が振り下ろした武器は、空を切る攻撃射程に明らかに彼を捉えている。

 しまった、長柄の鉾か! 突然の攻撃者の持つ武器が、ロンド・バリ儀式用の二股の鉾だと判っても既に遅い。成木には防ぐ手だてがない。ちいっ。

 キン! 鉾は床を切り裂いた。あまりの勢いに二股の刃の一本が折れ飛び、回転しながら成木の二の腕に刺さった。

 しかし、それまでだ。攻撃はそこで止まった。

 狙わなかった? 腕の怪我の痛みすら忘れて成木は訝る。だが三秒の硬直の後、彼は闘いの気を緩めた。そして腕の折れた刃を抜きながら思う。そう。それは、成木の脇すれすれを狙って打ち下ろされていたのだ。となれば、即攻撃してくる可能性は低いだろう。

 そして案の定、欠けた鉾を持つ者は、成木に声を掛けた。

「ざまぁないな。でかい力を持ったのに、だらしねぇこった。」

「な...。まさか...。」

 その男の出現に、流石の成木も驚きに声を失った。

「ハンター殺しの名が泣くぜ。黄泉。」

 手を差し延べて立っているのは、あの男だったのだ。

 

 

「マキちゃんはありったけの救急車を呼んでくれ。ここの人達を助けるんだ!」

ロンド・バリ会場外周を駆けながら、大野は残してゆく原尾に叫んだ。

 テロにあったのは警察とマスコミだ。防災施設は無傷だから、デロ事件からこれだけ時間が経てば出動できるくらいには落ち着いているころだろう。

「任せて。関東中の救急車を集めてみせるわ。」手すりから身を乗り出して原尾は答えた。

「ははは。それで渋滞になりそうだな。」戯けつつ、大野は成木の入っていったドアに達した。

「無事で!」

 原尾の、心なしか不安げな言葉に、大野は親指を立てて合図を送る。

「今度こそ逃がさねぇ!」

 大野は成木が入った部屋のドアを蹴破った。

 

 

 原尾は大野とは逆に、ロンド・バリ会場中心に向かっていた。螺旋を為す一層一層に倒れ臥している人々の阿鼻叫喚。彼らの合間を縫うようにして駆け降りる彼女は、いつ地獄門をくぐったかと錯覚するほどであったか。

 早くしないと...。会場の血臭が濃くなるにつれ、原尾は一心にそれだけを思う。

 中心のステージに降り立った彼女は、成木の憑いていた導者が屈んでいた辺りを探り、端にスイッチを見つけた。やっぱり、セリ舞台の昇降をここで制御してたんだ。彼女はすぐにそのスイッチを入れると舞台を下降させた。そして自分もその回転台に乗って階下に向かう。

 早く...。早く!

 原尾は台が降りきるのももどかしく、会場下の配電室に飛び降りた。

 彼女がそこで探す者はただ一つ。落としていった筈の彼女の携帯無線機だ。それを使えば対特の権限で緊急通信は最優先されるのだ。勿論、その指令の実行も。

「早く...あった。」予想していた場所にそれを見つけ、彼女はすぐに優先周波数帯に合わせる。「こちら対特殊犯罪機構警部原尾マキです。緊急出動を要請します。」

 

 

 大野は無人のロンド・バリ関係者の控え室を駆け抜ける。黒布を被せられた固まりと、床に大きく付けられた傷跡が、彼の視界を一瞬掠める。

 刃傷?

 漠然と考えつつ、奥のドアから飛び出すと、そこは非常階段だった。下には延々と続く闇があったが...。

 上だ...。殆ど直感の様なものに急かされて、彼は駆け上がる...。彼はビリビリと感じているのだ。この空間を満たす、たった今までいた男の気配を。

 この感じ...。頬を紅潮させる軽い緊張の中、大野は思った。この感じが俺を駆り立てる...。

 彼は再び成木に追いつこうとしている。自分をしてそうさせるのは、ジャッカーを追い詰めるハンターの本能なのだろうか。それとも、成木があの時語った言葉を、もう一度確認したいからなのだろうか。

 

 

 原尾は専用の通信機で、対特の権限を使って出動しうる限りの救急部隊の派遣を要請した。これで迅速に且つ大量の緊急車両がここにやってくることになるだろう。

 だが、彼女がその連絡を終えようとしたとき、にわかに通信が混線しだした。

 おかしいわ。この周波数は一般の者には使えないはず...。

 そうして耳を澄ました彼女の鼓膜に流れてきた男の声を聞いて、原尾は凍り付くことになる。

 

 

 ニューサンシャインタワーの屋上。あまりの高層建築なために持て余しがちの広大な広場となっているそこには、信じ難いことに、大型ヘリが数機も着陸していた。陸上自衛隊所属の輸送ヘリ、言うまでもなく、特殊掃討部隊を乗せてきた機体群だ。

 それらは各々巨大なローターを回しっ放しにし、再び宙空に舞う瞬間を待ち構えているのだったが、耳を聾するばかりの轟音で一見活気あるようにみえるその情景は、そこに漂う血臭によって、奇怪なものに変わっていた。

「...どうした...安田班...応答せよ...」

ヘリの無線機からは、先程から返答を求める声が繰り返し流れていた。が、それに答えるべき通信兵は、喉から流した血流で体中を染めて死んでいた。他の待機要員、そして、他のヘリの隊員も、似たような惨状になっていた。

 これだけの人間をさしたる苦もなく殺傷したのは、実はたった独りの人間であった。男は隊員達の最後の一人を殺してから、暫くあることを調べているようだったのだが、やがておもむろに、例の返答を希求する無線機をひったくると、一言だけ言った。

「残念だが、やはりあんた達では役不足だったようだ。」

「何? どういう事か。貴様は誰なのか? 返答せよ!」

 ブチッ。男は一方的に無線を切ると、ヘリを降りた。

 自分で確かめるしかないということか。

 男は、再度戦場に向かうため、少し大きめのアタッシュケースを片手に、階下へ向かう扉を開けた。

 男の相手はハンターか、黄泉の男か...。

 

 

 大野は非常階段を駆け上がる。

 成木の狙いはおそらく屋上。そう推測する大野の根拠はさっきの特殊掃討部隊に起因している。

 自衛隊の連中の行動はあまりに迅速すぎた。彼らが大混乱を呈していた地上を通ってきたとは思えない。つまり、このビルの屋上には彼らの乗ってきたヘリがあるはずだ。

 となれば、それに乗って成木はこの場を逃げ切るつもりだ。

 大野は階段を登り切ったが、階段は最上階までだった。ドア横の消防用の建物見取り図を見れば、彼のいる階にある水族館を横切った向こう側の非常階段から屋上に抜けられるようだ。

 間に合えよ。彼はドアに手をかけると、一気に中に押し入った。

 

「!」

大野が入ったのは、広いが、薄暗い空間だった。そこには一面、無数の水槽が無造作に置かれ、鉄材やロープも至る所に散在している。どうも、隣の水族館の拡張工事中の場所らしい。

 世界最高度の水族館だ。人気あるからな。

 大野は読者にニューサンシャイン水族館の説明をさり気なくしながら、周囲を観察した。オーソドックスな四角い水槽、円筒形の物、様々なものがある。

 いちいちでかい。俺が仕掛けるならここだが...。大野は迷った。集団転移を叩かれて、気落ちしているだろう奴が逃げの一手なら、ここで慎重に動くのはタイムロスだ。

 その時だ。ある円柱水槽のガラスの奥に、大野はロンド・バリの導者をしていた男の顔を見つけた。アクアブルーのその表情は、躊躇いもなく手にした拳銃を大野にかざす。

 くっ。全っ然落ち込んでねぇってか。大野は口中で悪態を付きつつ、しかし左腕を男との間ではなく、あらぬ方向に掲げた。

 ダン! 射撃音と反射音は殆ど同時。左腕に弾かれた弾は天井で跳弾する。

「流石だな! 良くこちらから撃つと判った。」正面とは全く違った方向、まさに大野が左腕をかざした方向から、導者が飛び出した。

「屈折率と反射を利用する。この場所ならではのトリックだな!」大野が横っ飛びする。

「ふふ。易々と逃がしてはくれないということか。」

言いつつ、銃を二斉射。いずれも、大野は左腕で弾く。

「あんたの全力で俺を倒すんじゃなかったのか? 素手で来い素手で。」

「お前相手ではこれでも不利だと思うが?」また撃つ成木。

「よくわかるじゃねぇの。」言葉を残して、大野は今度は逃げた。が、その行動はいかにも緩慢だ。その動きを成木が見逃すはずがない。撃つ! もらった。

 ガシャーン! 破壊音はガラスを割る音だ。人ではなく...。

 奴じゃない。成木は思わず呟く。

 そして、水槽を身代わりにした大野は、その距離をあっと言う間に詰め...。

「く、地の不利を逆に利用するとは。」

「よく...。」成木の目の前に立った大野がもう一度言った。「わかるじゃねぇの。」

 

 大野は成木の懐に入った。それは拒絶波を撃てる大野にとって絶対有利の状況になったことを示すものだ。

「観念しな!」

彼はそう叫ぶと、左腕で導者の襟首を掴み、その身体を高々と掲げて、円柱型の水槽に叩きつけた。成木は思わず銃を取り落とし、銃は床に転がってゆく。

 勝った? ハンターである自分が、ジャッカーである成木を押さえつけている。何を懸念することもない大野にとって絶対の有利。この状態にありながら、しかし彼は一抹の不安をよぎらせる。簡単すぎる決着に、自問せずにはおかぬのは、自分が神経質すぎるからだろうか。

 だがそれなら、何故ここで成木は勝負を挑んできた? 不意を討つつもりにしては、奴の攻撃は淡泊すぎた。屈折を利用しているとはいっても、わざわざ大野の目の前に己の像を結ばせていたのだから。

 そして大野の漠然とした不安は、不利な立場の筈の成木が微笑むことで一気に加速した。

「お前は強すぎるのだよ。ハンター君。」

 

「!」

 成木の言葉が彼に染み入る前に、大野は背後に殺気を感じた。

 肩越しに振り返る彼の目に映るは、電光石火で近づく鉾を持つ男。

 普段の大野なら、真っ先に対処していたであろうその敵に、彼はどうしたことか対処するタイミングを逸した。

 その男が、さっき死んだ筈の操乱だったからだ。

 これが成木の...切り札か!

 操乱は構えた鉾を突きだした。その切っ先の鋭さは、ロンド・バリ会場の天井裏で既に明かとなったジオ譲りのナイフ技量を付加することによって、確実に大野の身体を貫くだろう。そして、唯一の反撃手段たる大野の左腕はいつの間にか、持ち上げた成木の両手に硬く握られていた。

 成木が見せる満面の笑み...。

 死!! 黄泉から簡単に連想できるその言葉が、大野の脳裏を走る。

 

 ズッ!

 鈍い音がして、一本刃の鉾は身体を貫き、円柱水槽に深々と突き刺さった。

 ...。あ...れ?

 痛みの無さに、大野が不思議に思ったのも無理もない。そして状況を再確認した彼は仰天した。あろうことか、貫通したのは大野の心臓ではなく、成木の憑いていた導者の心臓だったのだ。

 ど、どういうことだ? 大野はこの突然の出来事に動転してまったく要領を得ない。切っ先はその行程の途中で大野の左腕をも貫いてはいるものの、最終的な餌食としたのは明らかに成木の方だ。いったい、何が起こったんだ?

「は。」鉾を握ったままの操乱が小刻みに震えだし、そして。「あっはははははは。」

 助かった? と、思いたいが、大野の混乱が治まるわけはない。

「お...お前は一体...。」

 だが、大野の言葉を無視して、操乱は大野の後ろの成木に語り掛ける。

「ざまぁねぇな、成木...。」つと彼はそこで言葉を切り、思いだしたように訂正した。「いや...、伊左輪那義。」

 操乱は鉾を更に押した。導者の両手が大野の左腕から離れ、導者は文字どおり串刺しになって宙に浮いた。

「ぐぐっ。」依童が受ける激痛に、さしもの成木も思わず声を洩らす。

 伊左輪だと! 大野は心中叫んだ。俺達の他に成木が伊左輪だと知っている可能性のある者がいるとすれば、死んだ最土修と、そして...。

「万丈...司...。」成木が声を詰まらせて言った。

 成木にそう呼ばれた操乱は、今や操乱であっても操乱でなくなっていた。

「今頃分かったか? 成木。」

「ば...馬鹿な...。」大野は驚愕する。「離魂体の最土修が死んだのに、お前が無事でいる筈が...。」

「こいつも...。」成木が喘ぎながら呟く。「ゼロになったってことだ。」

「ゼ...、ゼロ...ヒューマンにか...。」絶句する大野。

 

 ゼロと呼ばれた男、万丈。

「そうだ。俺は急速にヴァンパイアと化していく依童の中で、あまりの恐怖に死に物狂いになってこの男に縋り付いたのだ。」と、操乱の中の万丈は、己の憑いた身体を叩いた。「それが驚くじゃないか、気付いたら俺はこの体の中にいたというんだから、ゼロ・ヒューマーになったんだから。」

「くく。」成木が小さく笑う。「常盤修司だったときには、あれほど追い求めても手にできなかったのにな。」

 内輪受けの会話ばっかり、勝手にやってろよ。俺は漁夫の利でも狙うさ。大野はいがみ合う二人の隙をついて左腕を動かそうとした。が、奇妙なことに、彼の腕はビクとも動かなかった。あ、あれ? どうしちまったんだ...。

「こうも簡単にゼロ転移ができるなど、確かに笑うしかないな。」万丈が憤って言う。「執拗なまでの生への執着。それこそが、俺がかつての研究で見つけられなかった物だったのだから。」

 万丈が鉾から手を離して、指さす先には成木がいる。

「皮肉だろう! 貴様を殺したいと思う執念が、俺をゼロ・ヒューマーにしたのだ!!」

「それほど殺したいなら...」成木が問う。「何故さっき殺さなかった。」

「つまらんだろう。喜悦の絶頂にあるときの貴様を殺さなければ。」

「そうか。」ふっ切ったように、成木はそこで言葉を止めた。

 所詮は片割れということか...。それを限りに凍り付く、彼の心中をよぎったその想いの真意は、何処にあるのか。

 

 二人のゼロ・ヒューマンが、ハンターを挟んで対峙する。

「くくく。」磔にされて、身動きもできない成木が、それでも小さく笑った。

「何がおかしい。」

 成木は万丈の叫びにも動じない。

「くくく。いや失敬。お前があまりにも不憫でね。かりそめの勝利にご満悦のお前の姿が。」

「黙れ! 貴様、自分がもうすぐ死ぬって事が分かってないんじゃねぇか?」

 真下の大野も成木を訝らずにおれない。俺に憑けるなんて思ってるわけじゃあるまい。

 だが、成木はそれでも、小さき笑い声を止めようともしない。

 そして、大野の懸念は正にそこにある。成木が諦観から投げやりな笑いをするなど、とても考えられぬのだ、とすれば...。そして、それは万丈も同じく感じとっていたようだ。

「やめろ...。」始めは小さく、万丈は揺らいだ。しかしすぐに...。

「やめろやめろ、やめろー!」その言葉と共に、万丈の心理的優位は破れた。

 万丈を揺すぶった成木による心理的圧迫が大野にとって意外なほど大きかったのは、かつての成木との関係がそれだけ深かったという事か。

「その目だ。」万丈は悲鳴じみた叫びをあげる。「蔑むような目で俺を見降ろすのはやめろ、憐れむような目で俺を見据えるのはやめろ。

「まるで何でも知っているってなその余裕ありげな笑みはやめろ。」

 そう。万丈を必要以上に苛立たせるのは、彼がそれ程成木、いや、かつての伊左輪を知っているからであり、その事実は彼の感情を過去に揺り戻す。

「貴様はいつも俺の前を走っていた。俺は全力で駆けていたのに、貴様にどうしても追いつけなかった。俺はいつも貴様の後を追いかけることしかできなかった。」

 それは片割れとはいえ、確かに常盤修司の心であり。

「師であれば...、兄であれば...、貴様は尊敬すべき男だったかもしれない。だが、だが...。貴様が俺の友であったから...、無二の親友であったから。」

 その思い故に、万丈となった言葉を、彼は吐いた。

「貴様が俺を導く手にも、俺に見せる貴様の屈託無き笑いにも、俺の心は殺意を生ぜずにはいなかったのだ。」

 

「ゼロになってまで、私を殺しに来たことは褒めてやるよ。」成木の言葉が砕けるのは、かつての友への最後の心象表現か。

「だが、お前の言うとおりだ。それだけでは私には追いつけない。」

「!」

万丈はその時不意に、自分が御している依童の身体が、思いのままに動かなくなるのを感じた。それと同時に微笑んでいた成木が、フッと、力無く頭を垂れた。

 何? 大野は信じられぬ面持ちで見上げる。成木が死んだ?

 いや違う。大野の漠然とした直感が叫ぶ。奴はこの行動をも予定に繰り込んでいる筈だ。とすればその行き着く先は。大野は万丈の方を振り返った。

「そっちか! 成木!!」

 操乱の顔に不敵な表情が現れた。

 

「そうとも。」操乱の体の中で、その制御権を勝ち取った成木が言った。「察しがいいな。」

 こ、これは...。大野の驚きも無理ないだろう。操乱を今操っているのは成木なのだ。今のこの瞬間、俺の上の導者に憑いていた筈の成木が、操乱に憑いている。

 そこまで考えてきて、大野は戦慄した。

 ああ、違う。導者に憑いていたのではなく、あいつは始めから操乱の中にいたのだ。最土の家で、最土の娘の園子に憑いていたように...。

 大野の結論は、思わず彼の口をついた。

「集団転移を使ったな!」

 最土の家での一件から推して、一人の依童(この場合は要素体か)に対して集団転移を行うことは、精神の移行の度合いが強すぎるのだろう。だからコピー先であるにも関わらず、それが自分の自我だと勘違いし、コピーの行動があたかも自分であるかと思ってしまうのだ。それはコピーがオリジナルの目の前で、その機能を失うことなくしては戻ることは適わないという、集団転移の欠点。しかしその弊害を、成木は今度は己の戦略として利用したのだ。

 

 成木は大野に近づくと、大野の方に手を差し伸べた。

 大野はすかさずその手を掴もうとしたが、

「おっと、妙な真似はしない方がいい。君の替えの効かない身体に穴が開くぞ。」

 制する成木は大野に、手にした銃を突きつけた。

 大野はそんな成木に対して不利な立場でいることに総毛立った。

「そう殺気立たなくてもいい。君の上にある身体に、渡し物をするだけだから。」

「や、やめろ。」

 大野の制止など無視して、成木は血の気の引いた導者の顔に触れた。

                            転移...。

 

 そして、気付いた男の見たものは...。

「あ...操乱...。」

 ああ...。大野は嘆息した。死にかけの導者に、万丈の意識が強制転移されたのだ。俺はそれをどうすることもできなかった...。

「お、気がついたようだね。」操乱の中に入った成木が言った。「この短時間で身体制御をものにするとは、才能あるじゃないか。」

「!」状況を察した万丈は、依童の身体の状態にも構わず叫んだ。「謀ったな伊左輪ー!」

「心外な言い方だね。君は始めから私の切り札なのだよ。」そして成木は大野を見て言った。「そうじゃないかね、ハンター君。」

 大野は成木に言葉を向けられてハッとした。違う...、この男は、俺が導者を狙うことを見越して、予め自分の精神を避難させておいたわけではなく...、この男の目論んでいたのは、そんな消極的な計画ではなく...。

「お、お前...。」大野が叫ぶ。「俺を...俺の腕が狙いだったのか。」

「言ったろう。君は、君の左腕は危険すぎるのだよ。」ゆっくりと歩き出しながら成木は語る。「君に憑いたときに、その構造は読み取ったからね、もう動かないよ。」

 身...、身を賭けて俺の腕を潰しただと...。鉾が貫いた場所はそう指摘されてみれば確かに、義手である左腕の動力部だ。だが、いくら何でも自分の心臓をそに晒すなど...。

 

 この男は、それをすらやる男だ。

 

 それは、俺の左腕を潰すためだけに己を殺させる計画。たとえコピーとは判っていても、かつて友であった男が、自分の命を狙ってくることを待ち受ける戦略...。

 大野はだからこそ、目の前にいる男に心底から恐怖する。この男の執念に、この男の哀しさに...。

 成木は無言で頷いた。静かな微笑みさえ湛えて。

「万丈。お前には感謝せねばなるまい。お前は寸分の狂いもなく私の心臓を狙ってくれたのだからね。」

「伊...左輪...」導者の身体と共に、万丈の命も尽きようとしている。

「さて...。」いつの間にか成木は、水槽運搬に使うのであろう小型リフトの運転席に着いていた。「そろそろ終わりにしましょうか。」

 残念ながら導者の男はもう駄目だ。大野は無関係の男を助けられなかった事を悔いるが、なればこそせめて...。

「万丈! 俺に憑け。」大野は万丈に叫ぶ。「その身体にいては死ぬぞ。俺に転移しろ。」

「無駄だよ。」成木はリフトを起動させた。「人工転移法では、元々その本体は一定の条件下でなければ転移できない。その男がゼロになったことで、己で転移できる資質は持ったのだろう。だが、操乱に転移できたのはあくまで、死に物狂いで行った偶然の産物だ。今の奴は、先天的な転移能力を持つ者の助け無くして転移はできないのだよ。」

「な、ならばっ。」大野は叫ぶ。「こいつをお前に憑かせてやれ、復讐はもう充分だろう。」

「はは、冗談だろう。」成木はリフトを容赦なく加速させていく。

「心臓を貫かれた時の私の痛みが、もはやなくせないその男との壁なのだよ。」

「!」自分が死にかけているにも拘わらず、大野はその一瞬言葉を失った。

 ガン! 衝撃と共に、円柱水槽が、串ざしたままの大野と万丈をつれて動き出す。彼らの目の前には同タイプの水槽が待ち受けている。

「おおおおおお!!」迫り来る死の恐怖に声を上げる万丈。

「お前に友として諭されたことが一つあるとすれば...」成木はロンド・バリ会場控え室での万丈の言葉を反芻していたか。「私は気落ちなどしてはいけないのだよ。私の手にした力に、命を懸けて挑んでくる者たちに相応しく闘うためにね。」

 そして、また一人、この話の舞台から消える...。

 私が集団転移にこだわる理由の一つ...。成木は何かに浸るように目を閉じる。それは、自分がかつて情熱を注いだ日々を思い出させる。自分の身体がまだ存在していた頃に感じた思いを呼び起こしてくれる。

 常盤...。お前との研究の日々は、そういうものだったのだよ...。

 そして成木は、カッと目を開いた。

「さらばだ! 虚しき男よ!!」

 言葉を受けて、万丈は憎悪に顔を歪めた。

「伊左輪ー!」

断末魔の叫びと共に、万丈はまともに両水槽に挟まれ、圧し潰された。

 

「ぐぐぐぐぐ!」噴出する血流を浴びながらも、大野の方はまだ生きている。彼が挟まれたのは左腕だけなのだ。だが、成木はまだ速度を緩めない。水槽二つごと大野を外に押し出す気だ。

 こ、こうなったら...。大野は心中意を決して前方を見る。案の定、施工中で散在した作業用ロープは、進行方向彼の手の届くところにもある。

 大野は素早くそういったロープの一本を吟味すると、心中叫んだ。あれだ! そして彼は思いきり身を乗り出して、近づくロープに手を伸ばした。もう少し...。

 ガン! だが、あと一息の所でロープは弾かれて後方へ飛び去る。銃から硝煙を吐かせて成木は叫ぶ。「進路を変えるつもりだろうがそうはさせない。」

 万事休すか...。大野の頭に絶望が閃いたとき、彼の視線の端を過ぎる影があった。

「これがいるのね!」原尾が横っ飛びしてロープを掴む。

 すかさず成木の二斉射が原尾を襲う。が、射撃手と標的のどちらも動いていては、いかな成木でも当てるのは至難だ。そしてギリギリ跳弾をかいくぐって、原尾はロープを投げる。

 大野はすかさず受け取った! だが、彼はそれでどうするつもりか。

 こうするのさ!

大野は右腕にしっかりとロープを絡ませた。一方が壁に固定されていたロープはすぐに張り詰めて...。

「ああああああああああ!!!」

大野が絶叫した。そして...。

 ズルッ! 鈍い音がして、大野と、彼の左腕が引きちぎられた。

 

 張り切ったロープは引き金を引かれたように大野を飛ばす。左腕を引き抜いた激痛で死にそうになりながらも、彼は飛んだ先に原尾を認めて飛びかかる。

「伏せろ!」

 大野の捨て身の行動に一瞬呆然とした成木だったが、後方に飛びすぎる大野の目を見切らぬ彼ではない。

「しまった!」そしてその真意を瞬時に読み取って、成木はリフトから飛び降りた。

 水槽と、乗り手を失ったリフトは勢いを全く落とさず、そのまま窓をぶち破って空中に舞い、そして...。

 爆発した!

 大野の左腕の中の核磁気共鳴電池が、彼の心臓という制御装置を失って暴走したのだ。爆発は水槽とリフトを空中で木っ端微塵に砕き、爆風が建物内にまで襲いかかった。

 原尾を庇って伏せていた大野に比べ、爆風をまともに受けたのは成木の方だった。

「おおおおおお!!!」

 一瞬の判断の遅れが、成木を空中に吹き飛ばし、水族館の本館に向かう鉄扉に、扉を開け放つばかりの勢いでもって叩きつけられた。

 

 やがて爆風が去って、数瞬の後...。

「がああぁぁああぁあああああ!!!」原尾の上から転がり落ちるや、のたうち回って叫ぶは大野! 核磁気共鳴電池を制御するために心臓から直接引いていたバイパスが丸ごと引き抜かれたのだ、その激痛の甚だしさは想像もつかない。

「だ、大丈夫...。」あまりの絶叫に、思わず原尾は大野を抱えたものの、それ以上どうしていいか分からない。

 大野の肩から血が吹き出る。それは原尾の心配をいや増してゆく。

 だが。

「余裕だろ...」大野が絶叫の合間に何とか言葉を絞り出す。「手ぇ抜いて戦ってるんだよ...。」

 その言葉の意味が原尾に浸透するのにたっぷり五秒もかかった。そして...。

「あ...」原尾は力が抜けた。「あ...あは...あははははは。」

 強がってるだけなのは判っているのだが、原尾は少しくらい、この男の無事なことを喜んでもいいと思ったのだ。「あははははは。」

 

「成木は...。」少し我に返った大野が言葉を絞り出した。

「隣の水族館の方に飛ばされたわ。」

「な。」大野は目を剥いた。「こうしちゃ、ぐあっ!!」

「動かないで!」原尾が制する。「血を止めるまで待ってちょうだい。」

「今逃がすわけにはいかない。」

「駄目よ!」大野に被さるようにして原尾が彼の動きを止めた。

 本当は、大野が一刻も早く休ませなければ危ないほどの状態であることは、原尾には痛いほど判っていた。だが今、あの底知れぬ男に対抗できるのはこの人しかいないのだ...。

「一分だけ休んで。お願い。」

原尾はそう言うと、いっそう大野を抱く腕の力を強めた。そして、大野は力を抜いた...。

 大野が観念したと見るや、原尾は自らのシャツを引き裂くと、大野の左肩に応急的に巻きはじめる。

 一分...。そう。私はあの男が引き止められるであろう事を知ってこの時間を大野さんに押しつけているのだ。原尾は自らの非力と非情さに自己嫌悪に陥って、思わず涙を浮かべる。

 私は卑劣だ...。

 そして隣の部屋では、原尾の指摘通り、二人が死闘を始めようとしている。

 

 

 私としたことが、何てざまだ。成木はごちた。大野が仕掛けた捨て身の攻撃でせっかく転移した身体がボロボロになってしまった。

 我も必死なら彼も必死ということか、やはり奴は侮れん。

 ぐっ。痛みを堪えて成木は立ち上がった。大野と対峙しようにも、今のままでは不利すぎる。

 逃げねば...。成木は周囲を見回した。爆風に飛ばされて、今彼はサンシャイン第二タワービル水族館名物の大水槽の展示ホールの中に来ていた。そこでは二階空間ブチ抜きの超大型円筒型水槽が、円形のホール内を

淡く神秘的な暗闇に照らしている。

 成木の前には、水槽を大きく取り囲むようなホールの中心を成す空間がある。ここに訪れる者はだれもそこに立ちつくして、見上げる水槽の圧倒的な巨大さに胸躍らせるのだ。

 しかし、東京中を混乱させているテロ事件などの影響で、いつもなら遅くまで開けている館も、今日は早々に閉められている。人気のなくなったそこには、代わりに人の倍はありそうな魚影が行き過ぎていく。

 成木も、そんな影を目で追ってゆく。そして...。

「!」影の先に、彼はふと人影を認めた。

 ホールの入り口にあたる薄暗いドアの手前に、少し大きめのアタッシュケースを手に提げて立ったまま、じっとこちらを見つめている者がいる。

 何者だ? 成木はその者を判じかねていたが、いずれにせよ自分にとって味方であることは考えにくいので、警戒を怠ることはない。

 膠着? いや、そうはならない。何故なら、彼方の者が語りかけたから。

「待っていたぞ。ゼロ・ヒューマン!」

 なんだと! 成木は心中叫んだ。私のことを知っているあの男、硬い個性のある英語で話すあの男...、間違えようがない。

「クール...。」彼の口から声が思わず漏れる。それは成木にしては珍しく、自らの不運を愚痴る気持ちすら篭っている。ここであの男とは...。

「何故私だと判った!」

「あれだけの爆発から、生きて出てきたのはハンターの兄ちゃんじゃない。となると、推して知るべしだ。」

クールはそう言うと、懐から愛用の大型拳銃を取り出して、成木に狙いを付けた。

 ハンターがいつ立ち直ってくるやも知れぬと言うのに...。

 くっ。成木はもう一度ごちた。ここであの男とは...。

 

 クールの戦線復帰! 惨劇はどう展開するのか。

「自衛隊を動かしたのはあなたですね、クール。」隙を窺いつつ問う成木。言葉に丁寧な響きを戻したのは、努めて余裕を見せようというのだろうが、滲み出る焦燥感は隠せない。

「ほう。」

「私の計算とは、彼らが会場に辿り着くのが30分は早かった。そして、通報者である対特のお嬢さんをも最初に抹殺するという、曲解した情報が流れていた。」全てを抹消するにしても、普通通報者を消すのは調査の後だろう。「優れた謀略の力を感じるには十分だ。」

「光栄だな。その通り、情報戦も我々の得意とする所でね。お前の集団転移とやらの力を測ろうとしたんだよ。」クールは、屋上に残してきた惨状を思い出していた。

「だが、やはり他人ではあてにならんな。その力の片鱗すら垣間みる事は出来なかったのだから。」

 だがつまり、それ程大きな力と言うことだ。ならばクールの取る道はひとつ。

「お前の得た力、いただく。」

そう言って彼は、左手のアタッシュケースを持ったまま、懐から右手で例の大型銃の狙いをつけた。

 両者が再び相見える。

 

 ジャッカーにとって距離を置いた闘いは不利だ。ましてや相手は射撃の名手クール。成木の現状分析は、絶対不利を弾き出す。

 ここにおいて勝算があるとすれば...。短い決意が成木を駆り立てる。とにかく近づくのみ!

 ダッ! 傷を圧して成木が駆ける。少しでも狙いを付け難いようにジグザグに突進して。

「甘いな。」

クールの腕と、彼の持つ銃の威力にあっては、そんな子供だましの方法が通じるはずもない。落ち着いて放たれたクールの銃弾は、そんな成木の右太股の肉を掠っただけでそぎ取った。

 ザザザ! もんどりうって倒れる成木。くっ。知ってやがる。成木は舌打ちする。ジャッカーが操る依童は急所をヒットしても即死させることが出来ないため、動きの制止に確実を帰すには駆動部分をしとめるのが一番なのだ。何れにせよ、プリンスホテルの一件は、クールという戦闘の天才に、ジャッカーについての多くの情報を与えすぎたということだ。

 だが、ジャッカーの攻撃範囲としては遠すぎるが、私にとっては充分なのだよ。あなたの表情を窺うだけならばね。

 成木はカッと睨めつけた。彼の視線の先には、成木の眉間に銃の狙いをつけるクールの目が。そして成木の眼光は真っ直ぐにクールの元へ。

 成木の目論見は当たった。これこそ最土宅においてクールの動きすら止めた催眠術だ!

 

 クールの動きが止まった。成木に銃口を向けてはいるが、そのままの姿勢を保ったまま微動だにしない。

「ふう。危なかったですよ。骨を撃たれていたらいくら私でも歩けないところですからね。」成木がそう言ってゆっくり立ち上がっても、クールの銃口は下を向いたままだ。「お礼をしてさしあげたいが、とはいえ時間がないのも事実でしてね。あなたには、ハンターの相手をしてもらいましょうか。」

「あいつは...」クールが問う。「あいつも生きているのか。」

「ええ。深手を負ってはいますがね。もう暫くしたら来るでしょう。」

「そうか...。」

「頼みましたよ。」

そう言って成木が動こうとしたときだ。クールの銃口がスッと動くや、成木の反対側の腿肉を銃弾で抉った。

「ぐっ...なっ!」

 肩膝を付く成木を、クールが見下ろす。

「俺に同じ手が通用すると思うなよ。」

 効いていない! 成木は驚愕する。「ば...かな...。」

「今回の作戦は些か犠牲が大きすぎた。」クールは僅かの感傷を表出させて語る。「その決着をつけに来た俺に対して、やわな催眠術など効くものかよ。」

 クールが目の前にしているのは、彼の隊を全滅させたジャッカーなのだ。クールの、隊を率いるものとしての自覚と責任は、表向き作戦遂行一本の冷徹な彼の、熱く滾る内実を突き動かすのだろう。その決意の大きさは、成木の眼光を跳ね返すほどの気力を充分に持っているという事だ。

 甘かったか...。成木にクールの言葉が染みた。ここにも必死の男がいるのだった...。

「ハンターが生きているのは幸運だ。俺は奴も倒しに来たのだから。」クールが微笑む。「だからその前にお前を倒す。」

 バン! そして扉を開け放つ音。大野だ!! 肩口を隠すようにして、腕の裂かれたジャケットを羽織っている。戦いの準備はできたのだ。

 

 成木の焦燥。

 クールに催眠術は効かない。なおも彼との距離は5m。そして今、彼の背後で扉を開けた二人の気配...。

「ほう。」クールの視線と表情は、それが誰なのかを裏付ける。

 窮した成木...次の手は?

「ふふふ。」

意外にも、成木は笑んだ。この状況に於いて尚...。

「参りましたよ。まったく...。まさか私がここまで追い詰められるとは、正直言って思ってもみませんでしたよ。」成木は、自分を挟む両者を讃える。「この私程の人間が、手も足も出せなくなってしまったんですからね。」

 そう言うと、成木はその場にしゃがみ込んでしまった。

 観念した? いいや、成木を知る敵二人は、微塵もそんなことを期待してはいない。寧ろ、そんな彼の行動を目にして、大野もクールも心中の叫びは同時だ。

 こいつ。何かやる気だ。

 そしてその直感は外れていない。何故なら、成木のしゃがんだ身体が、震えだしたのだから。

「けれど、動物の私はまだ闘えるのですよ。」

微笑む成木の目が光った。

 

「え...筋肉が...。」大野を支えた原尾が呟いた。

 彼女の見ている前で、成木の憑いた操乱の身体が、みるみるうちに変化しだしたのだ。どちらかと言えば華奢な肉付きの操乱だが、その彼の筋肉が外からも判るほどに明確になってきているのだ。

 そのさまは隆々という表現より、張りが出てきたと言った方が正しいだろう。それはまるでしゃがみこんだ今の姿勢が寧ろ自然なんじゃないかと思わせる如くに、全体のフォルムを変えていく。

「これをやると...。」身体の変化に堪えながら、成木は苦笑して言う。「スマートな戦いが出来ないのが難ですがね...。」

「獣憑き...。」額の汗を拭って大野が呟いた。「成木め、最土家の黒猫の精神を取り込んでいたんだ...。」

 クールも察していた。しかしクールが不敵なのは、彼がそれを察したからこそ、成木の変身中に攻撃を加えないことだろう。彼は敵が強くなることを望むのだ。

 切り札を出す成木と、それに動じない彼ら...。原尾は、戦いのまだ終わりえぬ事を思い知らされる。

 

「行きますよ! 皆さん!!」

叫びざま、成木は疾駆した。身構える三人。

 タンッ! 軽い靴の軋み音と共に、成木は反転した。大野を狙うつもりだ!

 四つ足で駆けているのに恐ろしく敏捷だ。大野との距離は瞬く間に詰まり...。

 速い!! 大野は思った。元が猫だから、あの時よりも攻撃力は低いだろうが、機敏な動きは俄然増してやがる!

 いかん。大野は原尾を軽く突き飛ばして避けさせる。自分も攻撃態勢を取るが、成木の動きはあまりにも速かった。

 スッと白刃が煌めく。成木が隠し持っていた鉾の折れ刃で攻撃を仕掛けたのだ。咄嗟に避けた大野の胸に、5mmの深さで傷跡を付ける。

「大野さん!」原尾が合気道よろしく技を繰り出すが、成木の動きを捉えることは出来ない。

 痛っ! 大野は血飛沫をあげてそのまま体勢を崩す。そこへ、きびすを返した成木の二刃が容赦なく迫る。

 舐めるな!! 大野は右腕で攻撃を受け流すと、そのまま一本背負いをかけて成木を投げた。だが、三半規管も異常に発達した成木は空中で体制を立て直し、飛ばされた先に待ちかまえた大水槽のガラスを蹴った。

 飛んだ方向にいるのは...。クール! 成木の次の標的は彼だ。

 

 クールとてただぼんやりしていたわけではない。彼は今の成木の動きで敵の攻撃力を大まかには見切っていたのだ。

 あの程度の攻撃では俺の身体はすぐに再生する。俺が奴なら狙うのは、俺の頚だ。近づいたらあの刃で一撃必殺。これしかない。

 案に相して、迫り来る成木の視線はクールの顔よりやや下に向けられている。

 させるか! クールの二斉射はしかし、空しく床に大穴を穿つのみ。

 避けて横っ飛びしながら成木、刃を持つその手に力を込める。密かに滲む血。

 チャンスは一度...。成木の朧気な理性が閃く。

 成木は反動を付けて突進した。だが、自らの正面に来た敵をクールが見逃す筈もない。彼の銃の照準はその中心に成木の眉間を据える。

 この瞬間、成木は腕を真横に振り被った。彼の腕から大量の血がクールに飛ぶ。

 !! 鮮血にクールは幻惑され、銃を持った腕で思わず防いでしまう。

 そこへ全速で成木が近づき、返し手を効かせて刃を加速する。

 振り下ろした? 大野は成木の攻撃に訝る。成木の刃は上段から振り下ろされたのだ。あれでは頚を狙うことはできないが?

 そう。成木はまるで大野の想いに答えるように呟く。私の狙いはクールじゃない。

 グサッ。成木は刃をクールの腕に深々と突き刺した。そして、彼はかけ声と共に思いきり跳んだ。

 彼の脚の筋肉の張りから、そして刃に力を込めたために切り落ちた彼の手の指から、跳躍するその勢いがどれほどのものかは充分察せられる。

「しまった!」原尾の助けを借りて大野が飛び出す。

 くそっ。あいつの狙いは始めから俺達との戦いじゃない。

 集団転移は私の手にある。となれば、ここから逃げきればそれだけで私の勝ちなのだ。成木はクールを軽々と飛び越えながら勝ち誇った。力の差が大きい今、お前達とわざわざ命を張るメリットはないからね。

 クールの腕を狙ったのは銃を警戒したからだ。奴は着地してから一気に出口へ加速するつもりだ。大野は成木の目論見をようやく読み取ったが、悔しがってももう遅い。成木との距離がある彼に、それを止める術はない。

 

 しかしこの時、動いたのはクール!

 成木がクールの真上を通過しようとしたときだ。クールはそれまで何故か、ずっと手放すことのなかったアタッシュケースを放り投げたのだ。

 な、なんだ? 成木は困惑した。苦し紛れの一矢か?

 だが、そうではなかった...。この最後の戦いに臨むにあたり、敢えて携えてきたそれの意味は、まったくそうではなかったのだ。

 厚さが普通よりも一回り大きめのトランクは、クールの手によって軽々と宙に舞い、その口を開いた。

 そうして周囲に初めて明らかになるその中のもの。

 それは、あぁ、それは...。それを見たときの成木の驚き...。飛び出さんばかりに開いた彼の目の中にみるみるうちに涌いてゆく悲しみと苦しみ...。

 成木と対極にあるのがクール。彼の表情は、成木の見せたその表情を受けたからこそ喜悦の淵にある。

「なっ!」原尾は、その光景を見た瞬間に、呼吸すら忘れて動けなくなった。そして、彼女の頬を止めどない涙が伝った。

 そうか...。大野もその場に凍り付いた。奴がこの場所をつきとめたのは、彼女がいたからだったのか...。

 薄闇に閉ざされた空間を舞うそれは、その場に居合わせた全ての者の心を、かくも激しく揺さぶった。

 

「黄...泉...。」

 首が...、ソーニャの首が彼に微笑みかけていたのだ。

 

 

 獣に支配されていた成木の大脳が、急速に人のそれに戻ってゆく。そして、アタッシュケースから飛び出した彼女を、愛おしげに両の腕の中に納めた...。

 そしてその時、ジャッカーである成木だからこそ判ったのだ。ソーニャ・河合がこの瞬間を、成木と再び会うことだけを願って、今まで命の火を燃やしていたことを、そしてその火が、彼女の満面に讃えた幸福の笑みと共に消えていくことを...。

「ソーニャ...。」

 

 ガンガンガン!! クールが空いた左腕で銃を三斉射した。腹部と両足を貫かれ、成木は降下しかけたその身体をもう一度上昇させた。

 

 ダンッ! 轟音と共に成木が落ち、鈍く床で跳ねた。受け身を取ることもなく、ただ河合の首だけはしっかりと抱えて...。

 

 ソーニャは死んだ。

 

 

 成木はソーニャの首を抱えて横たわったまま、空を見つめていた。血流の停止した彼の視覚には天井の淡いライトすら見えまい。

 彼は持てる全神経を、ソーニャの首を持つ指先に集中していた。だが、成木はその指先に、最早彼女の心を宿らせることは出来なかった。だから指先からはソーニャの死の実感が、なおさら彼の心に染みていった。

 成木に近づくクール。

「女のことで悲嘆にくれることはないぞ。お前もすぐに女と同じ格好になるのだから。」冷酷に微笑むクール。「死ぬことは許さないけどな。」

 不死を宣告された瀕死の成木は、全身から出る血で床を満たしていった。

 

 原尾は、眼前でまだ立ったままの大野が、小さく震えていることに気付いた。

 河合の死をその心に通過させて、彼の拳を硬く握らせたのは、胸の中から湧き出す悲しみか、心より迸る怒りか...。

 何れにせよそれは、大野を再び突き動かし、始めはゆっくりと、そしてすぐに爆発的な勢いに彼を加速した。

 

 一人...。クールは成木を見下ろして呟き、そして近づく者の気配を察して付け足した。もう一人。

 

「おおおおおお!!」叫ぶ大野。振り被って右腕一本で攻撃する。

 六発を数えていたか? クールは手にした銃の弾を使いきった事を知っていたが、それでも慌てることはない。今の大野の攻撃など、素手で充分だ。

 そして、大味な大野のそれが当たるはずもない。そればかりか、軽く受け流した姿勢から繰り出すクールの一撃が彼を吹き飛ばす。

「大野さん!」原尾が駆け寄る。「無茶だわ! やめて!!」

 だが、制止を無視して再び突進する大野。「おおおおお!」

 こみ上げてくるものが彼を駆り立てる。だが、運命は非情だ。義手を失った今のお前に何が出来るというのか。

 馬鹿め。この俺に闇雲な攻撃が通用するかよ。クールは突っ込んでくる大野を再び返り討ちにした。大野は反対方向に吹き飛ばされ、そのまままともに頭から落下した。短い痙攣の後、大野の動きが止まった。

 

 蟷螂の斧としか見えぬ大野の攻撃の最中、薄れゆく意識の中で成木は何を考えているのか。胸に抱いた河合の首を持つ右腕と、無くなった腹部を惜しむように探る左腕...。無意識にしているのだろうか、あろうことかその腕の動きは、傷口をなおも開き、吹き出す血を加速させ、己の死期を早めている...。

 

 三角形の頂点に、為す術無い原尾と倒れ伏した大野、そして背後に瀕死の成木...。三人に囲まれて、中心に立つクール。シンメトリックな四人の上を、青い魚群が、その影をなぞってゆく。

 その淡い影の中に、直線的ではない動きをするものがあった。それは影と見紛うほどに昏かったが、確かな息吹をもって四人の頭上の空間を舞う生き物であった。

 それは階下の血臭の漂う中で、成木の出したそれを嗅ぎわけて来たもの。

 蝙蝠。

 彼は木の葉のように、だが正確に倒れ伏した成木に向かって落ちていく。プリンスホテルでの死闘で、クールにとどめを刺されたかに見えた成木が使った最後の手段。彼は再び己の手に掛けた生贄の血を使って、彼の使い魔を呼び寄せようとしていたのだ。

 しかし、しかしそれは、果たし得なかった。成木最後の切り札は、素早く弾を入れ替えたクールの銃の照準内にあったのである。

 クールは全弾撃った。羽根に四発、頭に一発、最後に身体を貫かれて、一溜まりもなく蝙蝠は空中に散った...。

「......。」言葉もなくそれを見つめる成木...。

 

 クールは再びマガジンを入れ替えて、生気を失った成木に照準を合わせた。

「覚悟しな。」呟くクール。

 ジャッカーの成木は持てる手を全て出し、それらを全て俺は粉砕した。そう、今まさに、正に。

 俺の勝ちだ! 引き金をちょっと引きさえすれば、勝利は俺の元に転がり込む。

 ......。

 だが、不可解にも、彼の動きはそこで止まった。紅潮していた顔が、ふっと冷めた。

 頂点に立つクールは、自らを囲む人間達を見回した...。

 そこには間違いなく、己の最大のライバルだった大野と成木がぐったりとしている。だがクールは、二人のそんなさまをもう一度彼自身の目で確かめても、なおも立ち尽くたままだ。

 勝利を前にして、クールは何を見ているのか。何を感じているのか。

 

 クールの当惑。

 俺は何故ここに来たのだ。彼の自分への問いかけは、一見即答される。当然、成木の首をいただくためだ。首だけになった奴から、人工転移と集団転移の秘密を聞き出すのだ。

 だが、クールの戸惑いは、そう信じていた目的のものを前にして、些かの昂揚感もないことにある。

 確かに、クールはそれを追っていた。それはクールの願いを叶える為に必要なもの、これ以上の悪夢を見ないようにするための、唯一の方法...。

 そしてそれは、死にかけているこの男の首を持ち帰るだけで叶えられると言うのに...。

 それを手に入れれば、俺は戦いを止められるだろう。そして、俺がもう一度やり直すためには、それを手に入れるしかない。

 だが、彼の求めた先にある安寧に対して、何故か今の彼には漠然とした不安がつきまとっていた。それが彼をして疑念を生じさせ、揺るぎなかった自信をも喪失させてゆく...。

 クールは気付いていたのだ。この一連の戦いの日々に於いて、自分を熱くさせたものが、自分をここに立たしめているものが、何であったかを。

 クールはもう一度二人を見た。

 ここに倒れている二人、俺は奴等にそれを見いだしたのか。だからこそ、俺は仲間を失ってまでも、ここにいるのか。俺は奴等の中にそれを見つけたために、ここに立っているのか。

 それは彼の本性だったのか、生死を賭けた戦いをすることに充実感を見いだすことが。

 だから俺は、こいつらとの戦いを終わらせることを躊躇っているのか。

 矛盾であることは分かっている。儚いことは分かりきっている。

 クールの苦悩は、再び開かれるであろう未来に向かう道を前にして、それでも修羅を捨てきれぬ己の業にある。

「何故...。」クールは振り返って、強面で見つめる原尾に問いかける。「俺は何故この二人に破れたのだ。」

 クールの敵の中で、唯一立ったままの原尾、三人の死闘を、ただ一人間近に、そして冷静に見られた原尾。彼女なら、あるいはその答えが解るかもしれない。

「気付かないの?」そんな彼の心が見えたのか、悲しげだが、はっきりと彼女は答えた。

「だからあなたは負けたのよ。」

 

 

「!」クールは振り被った。原尾の、微かに揺らいだ視線の先に大野を見取ったからだ。

 自分と大野の間に、微かに光る一条の線...。クールの脚から発しているそれは、大野の手にした小さな物体まで続いている。

 気付かなかったのは、大野が飛ばされた先が、クールによって影になっていたから...。

 俺に仕掛けてきたのはこのためか!

 大野は手にしたスタンガンのスイッチを入れた。

 

 バンッ! 轟音と共にクールから白光が爆発した。

「がぁぁあぁっ!」

 凄まじい高電圧と大電流に、導線となったワイヤは瞬時に蒸発し、クールも脚の筋肉に起きた電気的硬直で後方に弾き飛んだ。

 クールはそのまま床を転がり、成木を中心に置いた血の海の中で飛沫を上げてまた滑った。

 

 どう...だ...。大野はやっとの事で顔を上げる。最土家前での戦闘ん時と比べりゃ五倍の出力だ。いくらクールといえど、少なくとも気絶くらいはするだろう。そして大野は事実、視線の先にクールが倒れているさまを見る。

 や、やったぜ、へへ...へ。大野は原尾に親指を立てて見せた。腹部の激痛は肋骨が折れたのだろうが、それだけのかいはあった...。

 だが...、だが...。勝利を確認できる筈の、原尾の表情に笑顔はない、それどころか、その顔は目の当たりにしたあまりの恐怖に歪んでいたのである。

 

 彼女の視線の先にあるものを見れば、大野も納得せざるを得なかった。彼自身もそこに目を向けたとき、そこにゆっくりと立ち上がるクールを見たのだから。

 あぁ...しかも...、その顔には、昏く殺意に満ちた眼差しを湛えているではないか。

 

 クライマックスは、かくして最悪の敵を大野の前に提供した。

 

−−−−

十八章(後)につづく

 

説明
精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。
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