王都観光案内 〜観光2日目〜(前)
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「おはようございます。まもなく朝食のお時間になります。皆様に集まって頂きたいとの事ですので、ご用意ください」

抑揚の無い用件を棒読みしただけの感情のこもらない声で、タウスは目覚めた。

あまり寝たような気がしない。

ボゥッとする頭で、目の前の少女が、服装の乱れも無くきちんとして立っているのを見た。

さっきまで隣にいたのではなかったか、とも思うが、そんな様子は全く見られず、最初に会った時と同じ無表情のままだった。

昨晩は意外にも反応が無いわけでもなかったので多少興味がそそられたが、タウスは深入りは禁物だと自らに言い聞かせた。

取り合えず気は幾分晴れたし、理性的な判断を心掛けるような意識も芽生えた。

どういうわけか、この気の許せない「王都」では大らかな気持ちになってしまうのだ。

崖っぷちで羽目を外すのは、役目を果たすにも、命を守るのにも決して許されない。

全裸でベッドを抜け出す。

しかし、少女はそんなことを気にする様子も無くベッドを整頓し始めた。

 

「おはようございます」

不機嫌さを隠すことなく、ナフィルはミュエルの挨拶を無視した。

「差し出がましいとは思いましたが、お休みになられませんとお体に障ると思いまして、少し眠っていただきました」

怒りを買うのも承知で、ミュエルははっきりとそう言った。

「・・・そう」

ナフィルは怒りはしなかった。

ミュエルの心遣いが分かるからではなく、そもそも怒りというものが湧かなかった。虚脱感だけがナフィルを満たしていたが、それは別に思い知らされたからではない。

もう、魔術師となって何十年経ったのだろうか?

自分が至らなかったために、自分の為に何人が犠牲になったのだろうか?

自分から進んで身を投げ打ってくれた人を守れなかった。

ナフィルを利用して一儲けをしようと考えて死んだ人もいた。

分かっているはずだ、と言う。

分かっていた。

自分の為に、死んで欲しくなかった。でも、自分の為に犠牲となっていった。

結果として、打算的だろうと献身的だろうとに関わり無く、犠牲となった。

一体自分は何のために魔術師になろうと思ったのか。

覚悟?

生きていくのに覚悟なんてものが必要だったろうか?

誰にだって、使命とか責務があったわけじゃないのに。

・・・でも、そうやって逃げてきたのだ。

これが魔術師なのだ、とユーリは言いたかったのだろう。

犠牲も受け入れろ、と。

それは、言い換えれば犠牲を生まないことも出来たということ。

結局、全ては自分の行いの結果なのだ。

そのどちらをも受け入れるということは、人間には不可能だった。

「だって私は、それが当たり前だなんて犠牲を受け入れることは出来なかったし、満足に守れもしなかった。私は未熟者なのよ。そう言わなければ、私を頼った人をみすみす死地に追い込むことになるじゃない!」

ミュエルが部屋を出て行った後、ナフィルは一人、搾り出すようにうめいた。

「それはナフィルさま次第です」

自分の半身とも言えた友人は、昔そう言ってナフィルを困らせた。

もし自分の身に何かあれば、それはナフィルの責任だと、そんな勝手なことを言った。

自分で望んで付いて来るというのに、そんなことを言うのだ。

だが、それは別に責任を取って欲しかったわけではなかった。

ある意味、彼女の方が自覚していたし、覚悟があった。

逃げないで欲しいと、迷わないで欲しいと、その思いを、無視してきた結末が今なのだった。

全てを背負い込むことは無い。

それが傲慢であると分かっていた。

自分のために死んだなどと、それではその人はナフィルの犠牲になるためだけに生きていたのかと言えば、そうではないはずだった。

「割り切れなくて良いのよ。その不確定さが、満たしきれない想いが、あなたを魔術にして神秘を成さしめるのだから」

ユーリが戸口に立っていた。

「過去には戻れないし、今更魔術師であることも捨てられない。そうでしょう?」

どこか醒めた微笑みをして歩み寄る。

「後悔というものは立ち止まって昔を振り返ることよ。ナフィルはそれらを無視して前には進めなかった。それで良いじゃない。ナフィルは他の魔術師よりちょっと背負うものが多いだけなのよ。今は前を向いて歩いているでしょう?」

「・・・望んでしていることじゃないわ」

「あら、今更それは無いわ」

と、殊更残念そうに言う。呆れたわけではなく、いくらか勝気なところを評価したように思えた。

「死者はどうしようとも還ることはありません。それに囚われ続けることは、全てを無にしてしまいます。例え間違いがあったにせよ、遠回りをしたにせよ、今までのもの全てが無に帰してしまう。お気に触るかもしれませんが、それは私には望んでも得られないとても大切なもののはず。捉えようを違えれば、当然という傲慢にもなりましょう。それでも、ナフィル様が苦しみ抜いてでも先にお進みになるのであれば、私はお助けしたいと思います」

ミュエルも、いつの間にか戻ってユーリの隣に立って言葉を繋げた。

ユーリが頷く。

「犠牲を厭わないのを当然と思うようになるよりは良い事よ。エルバイオのようにね。ナフィルはそう思いながら一歩ずつ前に進めば良いの。魔術師であることに拘らない魔術師にね」

ナフィルに思索的な表情が宿る。

「エルバイオ・・・彼は、どうしたの?」

ユーリは表情を変えない。

「後で教えるわ。いえ、隠してるわけではないのよ? いずれ知ることになるだろうし。ただ、それを今いっぺんに教えても、昨日の様に同じ価値基準が暴走して処理しきれなくなる。魔術師は努めて冷静に理解をし、判断をする。そうしないと魔術を成すことが出来ないわ。そうでしょ?」

ナフィルは小さく頷いた。納得したというよりは、不承不承という感じではあったが。

「それよりも気にかかることがあるけどね」

ユーリはそう言って、ミュエルに同意を求めた。

ミュエルが少し困ったように、しかし曖昧な微笑みをしてみせる。

ナフィルが怪訝な顔を一瞬見せた。

「さあさあ考えたって堂々巡りになるだけよ。ナフィルが魔術師である以上、進まざるを得ないし、それを良くするも悪くするもあなた次第。そして、今すべきことは、まずは朝食よ。行くわよ?」

ユーリが躍動的に部屋を出て行く。

それまで、まるで止まっていたかのような時間が動き出した。

ミュエルがベッドに座り込むナフィルに手を差し伸べる。

「私のこの手は、私の自ら望んだ心遣いに過ぎません。さ、遠慮せず手をお取り下さい」

ユーリが言えば嫌味に聞こえそうな言葉に、ナフィルは少し不貞腐れたように装って、手を差し出した。

 

食堂の前で、不安と心配で表情を彩らせたアスリンが待ち受けていた。

「おはようございます。・・・あの、大丈夫でしたか? 顔色がお悪いですよ?」

「・・・あなたもね」

挨拶もそこそこに、互いにそんなことを言っていた。

言いたいことの殆どが言葉として出なかったが、それで通じ合えたのか同時に顔を綻ばせた。

朝から険しい、と言うよりも疲れたような顔をしていたのは、別に二人だけではなかった。

先に来ていたビジットが、当事者であるナフィルと変わらないような深刻な顔で座っていた。

「どこかお加減が宜しくないのですか?」

アスリンの気遣いに、

「いや、夢見が良くなかっただけだ」

と、愛想無くビジットは言って押し黙った。

すぐエイブスとタウスもやってきたが、この二人の傭兵は表面上は平静を装っていた。

「それではお食事にしましょう」

明るい溌剌としたミュエルの音頭で、給仕がスープを配る。

パンに燻した一切れの肉、果物のような実が二つ、そしてスープ。

並ぶものを一通り眺めて、エイブスは妙に落ち着かないものを感じた。

食事が始まってまもなく、

「この王都には王国の中枢機関があるだけなのだけど、二つだけ、魔術師が使う公共施設があるの」

と、ユーリが話し始めた。

「幻獣博物館と呼ばれている王国標本資料館と、もう一つが無限書庫と呼ばれている王国記録図書館。いずれも封印と収集を目的としたものなのだけど、今日、ナフィルにはそこに付き合ってもらうわ」

覚悟していたわけではないが、そもそもナフィルには拒否権が無い。頷くしかなかった。

「私も行って宜しいですか?」

すかさずアスリンが問うた。

その顔が余りにも真剣なので、ユーリは少し表情を和らげた。

「それは構わないけど、付きっきりというわけには行かないわよ? ナフィルにはある程度危険な目に遭ってもらう事になるでしょうし」

ナフィルとアスリンが、顔に未知の不安を覗かせた。

「俺たちも付き合わないといけないのか?」

タウスがお代わりを要求しつつ、アスリンとは逆の意向を問う。

「ここから出られなくても良いならね。まぁ見て面白いものは無いけれど、せっかくだから付き合いなさいな。人間が見られる機会はないのだし」

「危険は無いのか?」

エイブスはタウスを少し制するように問い質した。

「ここにはね、人間にとって危険でないところは無いのよ。ま、あったとしても学院の牢獄よりはマシよ?」

と言って、ユーリは挑発するように微笑んだ。

本人は冗談のつもりのようであるが、全く分からないので笑えない。

「魔術学院の牢獄はね、教団が良く言う地獄をもっと酷くした現実よ」

ナフィルがポツリと漏らす。

エイブスとアスリンは奇妙に表情を歪めたが、それが笑っているようにも見えた。

結局、皆付いて行く事になった。

意外だったのは、ビジットが全く異を唱えなかった事だ。

しかしそれ以上に、ビジットの表情が優れないことが、アスリンには気掛かりだった。

 

魔法王の塔を挟んだ議場とは反対側に、三角形をした小さな塔があった。

「ここが図書館よ」

そう言われて、少し違和感を感じる。

無限書庫と呼ばれる建物は、メルキス学術院の図書館にすら到底及ばないほど小さかった。

いや、そこは先ほどの迎賓館よりも小さかった。

「小さいな」

素直に感想を述べるエイブスを、ナフィルはたしなめはしなかった。

「魔術師にとって、大きさになんて意味は無いのよ」

ユーリは、変わらぬ軽やかな足取りで先に立って扉の前に立つ。

5枚の扉が並ぶ変わった入り口である。

と、その一つが自然に開いた。

中から姿を現したのは細身の知的な顔をした若い男性である。

「お待ちしておりました。ユーリ様、そしてナフィル様」

男はユーリと、そして正確にナフィルに向けて頭を下げた。

「紹介するわ。この記録図書館を管理する精霊、保守・保安係のシュエトーよ」

「初めまして」

青い瞳を持つ、見た目二十代の男の姿をした精霊は、ミュエルよりも格式ばってはいるようだったが、全く人と変わりが無いように見えた。

「ここには膨大な量の知識が蓄えられているの。だから、普通は一体宛がわれるところを、ここには二体の管理者精霊がいるのよ」

シュエトーの後ろから、同い年と思われる女性が姿を現した。

「保全・案内係のルセリよ」

「良くいらっしゃいましたナフィル様。収蔵されている知識を管理するルセリです」

同じ青い瞳を持つ女性は、ミュエルと比べると大人びて見える。

「シュエトーが図書館という器を、ルセリはその中身を守っているのよ。ここは王国創設以前から知識の蒐集をしていた半神半人ルセリナ・シュエトールが作り出した限定的な混沌の渦。虚無に陥る底の知れない知識の泉。初代管理者はルセリナだったけど、その後はシュエトーとルセリが管理者になっているわ。この図書館もその知識によって拡大や変革を必要としたから、彼らは三代目になるの。ルセリナを入れると四代目ね」

「基本的には変わっておりません。知識としての記憶は引き継がれておりますし、ユーリ様とも古くからの顔見知りです」

ルセリがそう言って微笑みかける。

しかし、ユーリは渋い顔をして手を払って、

「元々の記録には全く意思も意図も無いけど、悪意を持って使えば人を不快にさせるという事を教えてくれるわ」

と言った。

「だからと言って、記憶を覗いて良いという事ではありませんよ?」

しかし、ルセリに逆に釘を刺される。

「そんなところなのね」

ナフィルが嘆息した。

使い方を誤ったり、知識そのものが危険であると言うことだろう。

「外ではなんですから、とりあえず中へお入りください」

シュエトーが全ての扉を開く。

「一人ずつ通る毎に調べられるようになってるのよ。ここは非常に危険で、大事なところだから」

ユーリがシュエトーのエスコートを受けて入る。

「危険が無いように、私がご案内いたします」

ルセリがユーリの植えた懸念を打ち消すように、優しく微笑んで中へ入るように促した。

入ったところが1階かどうかは不明だが、そこは広いホールになっていた。

「本は無いな」

「そういうことは一々口にしなくて良いわ」

エイブスに呆れたようにナフィルは言ったが、このホールには他へと通ずる扉も階段も無い。

「それでは、この記録図書館について説明させて頂きます」

ルセリがユーリと視線を交えると、ユーリが頷いた。

「ここは4区画に分かれています。今居ます管理区画、蔵書を保管する書庫区画、魔導書などを所蔵する封印区画、そしてあらゆる知識が集まる記録区画です。この図書館の役割は、文書や書籍の収蔵だけに留まりません。禁呪や自律する守護者精霊を持つ魔導書の管理と封印、そして無限に広く、深く、繋がって結び合った世界の記録が蒐集される虚無へと至る魔力の渦の観測です」

ルセリが説明をしながら床を指差す。

方陣と円陣からなる複雑な魔法陣が描かれている。

「ここから移動をしますが、全て閲覧制限がかけられています。閲覧には私の許可と、シュエトーへの誓約が必要です。いかなる魔術行使も不可能となり、全ての行動は監視されます」

「扉を抜けてここに入った段階で、私たちの上に、全てを律する倫理設定が成されるの。それを拒めばもちろん入れない。王国の管理下にはあるけれど、魔法王でさえ自由には使えないし、そもそも入ることも叶わないわ。管理者精霊は、その境界を管理するために造られたものよ」

ユーリの言葉を受けて、ルセリとシュエトーが微笑みながら頷いた。

ナフィルの表情が強張る。

そして背後の皆を肩越しに一瞥した。

「さて、今更言うのもなんだけど、ナフィルには知識が必要よ。知識が無ければ魔術行使が出来ない。自明の理でしょ? でもね、それは逆にナフィルに制約を科す事にもなるわ。空から落ちれば死ぬ。そのことを知れば飛ぶのに躊躇するし、もしかしたら飛ばないかもしれない」

ユーリはそう言ってから、頬を緩めた。

「これも一つの可能性。私は強制しないつもり。だけど、このままではあなたの求めるものは叶わない。得るということは、一方的に得られるというものではない。失うものも多いわ。でも、得たことでこれまで失ってきたものが失われないように出来るかもしれない。抽象的なことしか言えないけど、ナフィルになら分かるはずよ」

これまで、ずっと迷い続けてきた。

そして、必ずしもこれで迷わずに済む、と言う事でもない。

「私は魔術師だと言いながら、そう覚悟して生きてきたわけではなかったわ。人間に決別すると言いながら、どこかで人間であろうとした。失敗しても、誰かを犠牲にしても、そうやって逃げてきた」

ナフィルが手にした杖を掲げる。

ナフィルが魔術師になることに反対し、ナフィルが魔術師となった今を知らないままこの世を去った師、リシュエスのくれた魔力干渉を助ける杖。

「私は魔術師になろうと思った時、この杖に誓ったのよ。例え魔術師になったことでどんな苦難があろうと、仮に死ぬようなことがあっても、絶対に後悔はしない。他人のせいにはしない。リシュエス師の想いを裏切った私は、それで師への想いに応えようとした。これが自分の決めた生き方だと」

心配そうに見守るアスリンに、ミュエルが小声で、

「大丈夫。ナフィル様はあなたの知っているナフィル様のままですよ。必要な知識を得たとしても変わらない。それはルセリも私も保証します」

と呟いて肩に手を添え、そしてナフィルの脇へと歩み寄って行った。

「やるわ。そのために来たのだし、そもそもこれで全て得られるとも思っていないわ」

そう言ったナフィルに応えて、

「これからご案内する世界の全ての知識、記録が集まるところは、原初の混沌と同じものです。理解することはもちろん、そこにある全てを得ることは不可能です」

とルセリは言って、少し表情を引き締めた。

「そこは膨大で雑多な知識の海。僅かに干渉し、必要なものを取り出すだけでも極めて難しいのです。私がお手伝いしても、その知識の魔力によって破滅させられたり、逆に取り込まれてしまう危険があります。最短の道を選び、得ようとすればその代償は大きなものになります」

代償と言う言葉に、ナフィルが反応する。

ナフィルの決意に僅かだが揺らぎが生じた。

「正しい知識と言うものはありません。でも、知識を正しく使うことは出来ます。多少脅かすようなお話をしましたが、安易に、手軽に、といった心構えで触れてはいけないものであると説明しなくてはいけない義務なのです。危なくなれば私がお守りします。魔術師をお助けするのが私たちの仕事ですから、ご安心なさってください」

どこかで確かに知っている穏やかな微笑みを湛えて、ルセリは言い切った。

信じて良いものか、ナフィルはユーリを見る。

しかし、すまし顔でそれに応える気はないようだった。

先程の言葉通り、ナフィルの決断に任せると言うことらしい。

ここまでお膳立てをした本人ではあるが、強制をしないと言うのは本当らしかった。

ユーリは、する気があればしていると言っていた。

あの、魔術師エルバイオの時のように。

決意の揺らぎは、再びルセリに視線を向けた時には消えていた。

「さて、それでは参りましょうか?」

ルセリが魔法陣に入る。それだけで薄い輝きを放って稼動状態に入った。

「私が鍵になっています。実際には起動装置の一部なのですが、それによって最高度かつ最強度の安全対策が成されています。さ、中へどうぞ」

警戒心を解かずに、少しあごを引いて俯きながらも、上目遣いでナフィルはルセリの前へと立った。

「ミュエル、頼むわね」

ユーリの言葉に、ミュエルが応じてナフィルの左横に立った。

「私が支えますから、ナフィル様はご自分のことに集中して下さい」

そう言って、左手を取って指を絡めるようにして握った。

同じ背丈なので、目の前のその他意の無い微笑みに少しだけ心が安らいだ。

「あ、お時間の事、ご説明なさってくださいね。それでは場所を移します」

ルセリがそう言うと、魔法陣が一瞬光を強くして、三人は溶け込むように、消えた。

 

「さて、それほど時間はかからないから少し待ちましょうか」

独り言のように、ユーリはそう言った。

「本当に、大丈夫なのですか?」

アスリンが、少し険の立った言い方をしてその背に向かって問う。

「あの2体の精霊は、能力としてはナフィル以上よ。ナフィルの願いが叶うかどうかは分からないけど、危険が及ぶことなんてないでしょう。全く、とは言い切れないから、あなたに確約は出来ないわ」

ナフィルが自分で決めたこと。

仕向けたとは言え、これはナフィルの最も望んだことだった。

しかし、何かが引っ掛かった。

これが、エイブスの気に掛かったものと同じなのかは分からない。

「どれくらい待つのだ?」

エイブスが手近な椅子に座る。

タウスやビジットもそれに倣った。

「時間はさほどかかりません。世界の記録に触れるには、一定の時間がかかります。例えば用が多くても少なくても、全く同じ時間が必要なのです。あの空間は、この世界の理とは交わらないところなのです」

シュエトーがユーリに代わって説明をした。

「それは、・・・私たち人間では触れられないものなのか?」

ビジットが、床に視線を落としたまま、そう漏らした。

皆の視線が集まる。

誰も声を掛けない。それだけビジットの言葉が意外だった。

「そうね、稀に叡智を授かった、なんて話を聞くわよね。人間で言うところの啓示、と言う奴かしら? でも、自分から触れられはしないわ。その知識の奔流に、良くて自我を奪われて発狂、悪ければ肉体ごと粉砕されるわね。魔力と言うのは、つまるところ暴力だもの」

ユーリが人間に説明をするということに、シュエトーが僅かに驚いた様子を見せた。

ビジットの問いに驚きつつも、アスリンはシュエトーのその反応にも驚いていた。

魔法や魔術を認めると言うことは、それを理解出来ないものとして見るのではなく、自分の理解できるものとして認めることだった。

その精霊に、自分と何が違うのかが分からない。

存在を認めるということは、人とは違うというこの精霊を、同じモノとして認めるということなのだろうか?

ビジットとシュエトーとの間にある境界線は、一体何なのであろうか?

アスリンには何を区別すべきなのか分からなかった。

身動ぎさえ無い時間が、ここに居るべきでは無い人間たちを支配した。

それが、最善の選択だった。

が、しばらくして静寂を破って突然、

「叡智が、欲しいの?」

とユーリが言った。

その優しいささやきが、言い知れぬ畏怖を、4人に与えた。

 

真っ暗闇だった。

「ここは?」

ナフィルが闇の中で問う。

声の通りが良い。かなり広い空間のようだ。

左手に確かな温もりがある。しかし、顔を左に向けても、ミュエルの姿は見えなかった。

「図書館の記録区画。ここは世界の記録が蒐集される虚無へと至る魔力の渦の中。感じて下さい。ゆっくりと、本当にかすかな流れを掴める筈です。そうすれば、私の姿も見えるようになります」

ルセリの声が周囲から聞こえる。

どこから聞こえるのか特定できない。

ただ、地面はないが、水中にいるかのような不安定さはない。

見上げればそこが上。足元が下。混乱はしなかった。

ゆっくりと深呼吸をする。

自分が居る所は、ルセリの作り出す小さな結界の中だった。そして、その中で安定を保っていられるのは、ミュエルのお陰だった。

その外に、濃い魔力があった。

無垢な魔力ではない。干渉を拒む理解不能な方向と力を持った魔力。

「ご自分がどこに居るのかを測ってはいけません。自分を見失うと、雑多な記録に影響されてしまいます」

ミュエルが握る手に少し力を加えた。

魔力の僅かな違い。魔術師個人の差異。

それを区別できるようになると、闇が薄れて数歩先に居るルセリの姿が見えた。

巨大な洞穴の中に居た。その中心に、ナフィルたちは浮かんでいる。

「これが、世界の記録?」

ルセリが首を横に振る。

「見えているようでも、実際には目で見ているわけではありません。形も大きさも、色でさえ特定されないところです。感じる魔力から来るイメージでしょう。ここは全てでも一部でもありません」

言わんとしている事は分かる。

「じゃ、毎回見えるものは違うの?」

ルセリがまた首を横に振った。

「私には見えません。ミュエルはどうかしら?」

ミュエルも首を横に降る。

「偽りの魂は根源とは繋がらないのです。故に、私たちにはそれを『見る』事が出来ません。生まれついて魂だを持つ者だけがそれを可能とするのです」

と、この空間で、ナフィルには到底叶わないことをしてのけているルセリが言った。

そのことに、ナフィルは我慢できなかった。

「どうして、そんな顔をするの?」

ナフィルは先程感じた違和感をルセリにぶつけた。

ルセリは一瞬呆気に取られた顔をした。

「あなたは精霊なんでしょう? 造られた偽りの魂を持つ生命体。なのに、どうしてそんなに情感的な微笑みが出来るの?」

ルセリは、気分を害した様子も無く、先程と同じように微笑んだ。

「そうですね、仰るとおり元々感情と言うものを持ち合わせてはいません。しかし、その気持ちは決して偽りではありません。これはナフィル様の感情を写したものです。私たちは、想いを重ねることによって、感情としているのです」

「写しているって・・・私は別に楽しくは無いわ」

ルセリは少し眉根を寄せて困った顔をした。

「鏡のように映すのではありません。ナフィル様の持つもの、ナフィル様の記憶にあるものを受けているのです。それはまやかしと思われるかもしれませんが、私たちにとってはこれがあることによって、支援者足り得るのです」

記憶にある微笑み。

そうだ。このどこかで見た微笑みは、自分の中にあったものなのだ。

しかし、であればそれは見せ掛けに過ぎないのではないか?

「じゃ、ミュエルも?」

傍らに居るミュエルを見る。

「ミュエルは端末としての意識、つまり使命を持つ精霊ですが、私たちとは異なります。それは魂に準じたもので制約として抑えられているだけに過ぎません。つまり、同じように想いを重ねることしか出来ませんが、端末としての意識と人の魂が融合した、人に近い複合精霊なのです。吸収して成長し、それは限りなく人に近付きます」

ミュエルが少し照れくさそうになる。

その微笑みも、造られたものではなかった。

写している感情は偽りではなく、確かに感情としてあるものだというのだろう。

「ナフィル様は感情も作り出せるのではないかとお思いになったのでしょう。確かに、それに近い擬似的な感情を持たせることも出来ます。ただ、それでは魔力への干渉は出来ません。手順に従えば、精霊であっても魔術は行使できます。でも、それでは魔術師はもちろんのこと、魔術師の支援者にはなれないのです」

ルセリがふわりと、ナフィルの目前に浮かぶ。

微笑みを消し、両手をナフィルの顔を挟むように添えた。

「ここで触れられる知識は、本当にささやかなものでしかありません。ナフィル様がその中から、ご自分に必要なものを掴むのです。危険が無いとは言っていますが、それは極めて制限を厳しくしているからです。その加減ですら、今のナフィル様には出来ないのです。ご自分がどうして魔術師足り得るのか、その答えは私たちにはありません」

考えを、見透かされていた。

感情が付け加えられるならば、知識もそう出来るのではないか? と。

これは嫉妬だ。

自分より優れている彼女たちが、ナフィルを助けている。

にもかかわらず、それでも、ナフィルの方が優れているのだと言いたいのか?

苦しんだり悲しんだりすることが必要なのだと言いたいのか?

「ナフィル様、まずは心を落ち着けてください。ナフィル様はここに何を求めていらっしゃったのですか? 今はそのことだけに集中して下さい。ここには多くの雑多な知識があります。そのほとんど全てがナフィル様にとっては必要ないもの。そういった雑音に心を乱されてはいけません」

ナフィルは、確かに心の落ち着かなさ、漠然とした不安を感じていた。

それは、ここの影響だということなのだろうか?

しかし、

「思考を切り替えてください。ただし、感情を封じることではありません。全ての感情を封じてしまうと、記録に触れても多くのものを得られません」

自分たちに無いからそんな無茶なことを言うのではないのか?

ナフィルは素直には受け取れなかった。

 

「不信感を与えてしまったでしょうか?」

少し間を置き、ルセリがその微笑みを陰らせた。

「しかし、誤魔化すことは無意味です。どう解釈をしても事実に変わりはありません。ようやく魔術師の常識というものに触れたのです。混乱されるのは当然のこと。それよりも、今大事なことはナフィル様にとって必要な知識を得ると言うことです。それはナフィル様も分かっています」

そう、ナフィルに確認もせずミュエルは言い切った。

と言うより、そこまで言い切られたら、ただの駄々っ子のようではないか?

そう思いながらも、ナフィルは憮然とした表情を崩せないでいる。

「私たちに与えられる知識は、魔術行使に関してのものも含まれます。それは、ナフィル様よりも高位な魔術である可能性が高いです。でも、ナフィル様はご自分でそれを理解し、高めることができるのです。与えられたに過ぎないものは、それ以上には成りえません。記録を記憶とするには、ご自分で、この世界の記録に触れてみるしかありません」

そうルセリが言った後、ミュエルとの二人の間で奇妙な合意が交わされた。

二人の意見は根本的な部分で一致していた。

それは、

「いずれにしても、必要であれば外で説明しましょう。良く思われたい努力はしますが、どう思われるかはナフィル様次第です。それより、ナフィル様が余り長いことここに居るのは好ましいことではありません」

と、ナフィルへの影響を危惧してのことだった。

「まず、少しだけ触れてみましょう」

ルセリが再びナフィルの頬を挟むように両手を添えた。

そこに、僅かな躊躇があった。

ナフィルを想う気持ちと、そして拒絶されることへの恐れがあった。

それは、ナフィルのよく知る感情だった。

二人のナフィルを気遣う意識に触れ、僅かに警戒心を解く。

その時、ザッと一瞬自分の意識が消えた。

自分のものではない何かが頭を満たす。

それは、雑多な記録によって満たされた干渉できない魔力、であるはずだった。

なのに、今、自分の中身が何かに置き換えられている?

「ナフィル様?」

ミュエルの声に我に返った。

「今、私がある程度選別したものを、ミュエルが調節してナフィル様に感じてもらいました」

その言い様に、ナフィルは背筋に悪寒が走った。

自分は今、一体どうしていたのだろうか?

「ナフィル様、一つだけ、その深く想うもので、自分を満たしてください」

「どういうこと?」

ミュエルが真剣な表情で、ナフィルの耳に唇が触れるほど近付いて、

「ご自分に必要な知識、求めるもので満たすのです。そしてそれに近い感じのするものを取り込むのです。選ぼうとするのではなく、ただそれに近い感じがあれば触れようとする感じです」

と、早口で言い立てた。

「もう一度、行きます」

ルセリが微笑みを消した。

とても端整な顔立ちをしていて、その美しさだけは造られていてもおかしく無いと思った。

再び、とても濃い魔力に触れる。

落ち着いていたせいか、さっきよりも確かに様々な要素が混在しているのを感じられた。

ナフィルは、リシュエス師を自身に置いていた時を思い起こしていた。

その時、ナフィルは確かに、リシュエスの記憶を共有していた。

殆どの知識は、ナフィルには理解出来ないものだった。

ただ、リシュエス師が強く想いを寄せていた二人の女性を、ナフィルは自らのものとして強く意識した。

ラウアール家の当主にしてシルクス太守である相思相愛のクリアンカ姫。

母であり姉であり、そしてリシュエスを深く愛していた従姉である白き魔女ルミナス。

ナフィルが、師の意思に反して魔術師になることを決したのは、リシュエスの遺志を継ぎたかったからだ。

それは自分のものではない。知っていた。でも偽りでも幻想でもない。

その記憶は確かに自分のもの。でも、自分では満たせないもの。理解できないもの。

時々、ナフィルの意識を刺激するものがある。

それが自分にとって必要なものなのだろうか?

霧に包まれた漠然としたものが、自分の中にあることを強く意識した。

その感覚が強くなり、何かが形になり始めた時だった。

「ルセリ、危険です! ナフィル様に拒絶されると抑えられません。意識が掴めなくなります」

と、ミュエルが声を上げた。その瞬間、カッと頭の中が熱くなる。

「申し訳ございませんっ!」

と、ルセリがとても驚いたような顔をして謝った。

知覚が奪われていたかのように、見るもの聞くものが強い刺激となってナフィルは顔を歪ませた。

「大丈夫でしたか? 思わず無理やり引き剥がしてしまいました」

ルセリがその申し訳なさを全力で表情に現していた。

「驚きました。順応性がこれほど高いとは思いませんでした。私の認識不足です。申し訳ございません」

ミュエルも謝っている。

その繋ぐ手が、しっとりと汗ばんでいた。

最初、自分の汗かと思ったが、自分は奇妙に落ち着いている。

アスリンは、来た当初に自分とナフィルの違いが分からないと言って苦笑したが、ナフィルも今、自分とミュエルに何の違いがあるのか分からなかった。

だからこそ、同じ魔術師として嫉妬したのかもしれない。

自分より慌てているミュエルを見て、場違いにも少しだけ優位な気になった自分に、ナフィルは自嘲気味に頬を緩めた。

「どうでしょう? 明確な何かを感じられましたか?」

ルセリの言葉に、ナフィルはだが表情を消して首を横に振った。

「良く、分からないわ。何をと言われても、言葉として表されるようなものは何も・・・」

「戻りましょう。形として残っていなくとも、ナフィル様は確かにこの知識の海に触れています。あの順応力ならばきっと得られています」

本人でさえ分からないものをどうしてそう言い切れるのか不思議だ。

しかし、思えばナフィルとは意識を共有している風であった。

能力としては高いミュエルの言葉を、ナフィルは信じるしかない。

ルセリが、しばし自身の思考の迷路を彷徨ってから、

「それでは戻りましょう」

と言ってすぐ、

「適応、ではないのですね?」

と聞いた。無論、それはナフィルにではない。

ミュエルは悲しげにも見えた厳しい表情で、

「順応です」

と言った。

そっけない、どうにも出来ない現実を告げる、それは諦めにも似た言い方だった。

その言葉の違いがどういう意味なのか、ナフィルには分からなかった。

が、説明を求める前に3人は再び闇の中に溶け、そして重力に引かれるような浮揚感を感じた時には、既に地に足を付けていた。

 

「ナフィルは?」

ミュエルは穏やかな微笑みをして、

「眠って頂きました。目覚めれば落ち着いているでしょう。結局、落ち着くところにしか落ち着けないのです」

と、まるで自分ごとのように言う。

その様子に、ユーリはミュエルの変化を見て取った。

「結構気に入ったみたいね?」

少し意地悪っぽく言ってみる。

「反対されるのですか?」

意外そうに、ではなく、むしろ受けて立つ雰囲気の言い方。

ユーリは満足げに微笑んで、

「私が選ぶのではないし、あなたの好きになさいな」

と、自分から振っておいて、その話題を放擲した。

「シア様、ナフィル様は王国の魔術師にはなれないでしょう。生まれついて魔術師に備わっている、存在としての戒めや理を持たないからです。しかし、何より彼女は自由です」

ミュエルの言葉には、妙な熱がこもっていた。

「求めているものに近い存在だと、『私』が告げています。足りない部分を私が埋めます。でも、埋めすぎてはいけません。人との繋がりがありすぎてはいけません。でも、離れすぎてもいけません。私にはその加減を測るのは少し難しいですが、それに挑むということが、存在するものとしての面白味、と言うものなのでしょう?」

ユーリは、これまで見たことのない表情をして、自らの使命を語るミュエルを見た。

「中々分かってきたじゃない」

ユーリは自分の不利を悟って降参した。

ナフィルの思考に影響を受けて、神樹の端末は、精霊としてではなく、生物としての意識を芽生えさせたようだ。

元々、ミュエルはユーリの支援者となるべく製造された。

だが、これまでユーリが与えてきて芽生えなかったものが、ナフィルに会ってものの一日でこの結果。

ナフィルが取り立てて特別なわけではない。

ユーリは自嘲もあったが、その愉快さに相好を崩した。

「まるで魔術師にはそぐわないのに、魔術師になったことが最大の特徴よ。これほど特殊でない魔術師は、もう決して生まれないかもしれないわ」

ユーリの言葉に、少し紅潮気味の顔をしてミュエルが僅かに頷いて同意する。

「でも、ナフィルが認めるかしらね?」

意地悪で言っているのではない。ナフィルのいる環境は、魔術師には馴染まないものである。

「大丈夫でしょう。私が居るくらいでは、ナフィル様は動じたりはしないと思います」

どこか自信ありげにそう言い切る。

過去を見ることが出来るユーリが、少し評し抜かれた顔をして、思い浮かんだ疑問を口にした。

「もしかして、寝かせてから何かしたのかしら?」

ミュエルは、含みのある艶やかな笑みをこぼして、軽く顔を横に振る。

「長所と短所は表裏一体、ということです」

 

ナフィルらが再び魔法陣に降り立った時、明らかに皆の雰囲気が妙だった。

緊迫感というか緊張感というか、張り詰めた空気を感じたのだ。

そうなれば当然のこと、ナフィルは自分のことはさておいて、まず尋ねずにはおられない。

「何か、あったの?」

アスリンは答えようが無く、困った顔をしてナフィルを見るしかなかった。

「別になんでもないわ」

それがたちの悪い冗談だったと言わんばかりに、ユーリは何の気もなく軽く応じた。

ナフィルは納得した様子も無く、その表情は晴れないままだ。

「それよりどうだったの? 手に入れられたのかしら?」

ルセリがミュエルを見る。

ナフィルも、ミュエルを見るしかない。

それに応じたわけではないが、ミュエルはまるで自分が答えるのが当然のように、

「分かりません。私の力不足で、ナフィル様を充分にお助けできませんでした」

と言って、ナフィルよりも遥かに深刻そうに視線を落とした。

「そう」

ユーリは特に驚くでもなく、結果を受け入れていた。

当事者であるナフィルには意味が分からない。

「ね、順応力ってどういうこと?」

苛立ったようにナフィルはミュエルに尋ねる。

ミュエルはユーリを窺ってから、

「ナフィル様は、元々順応性、つまり状況に馴染みやすい性質があります。簡単に言うと、物怖じせず、自分の状況を受け入れる性質です」

「それと、さっき言っていた適応とどう違うの?」

ミュエルが一瞬言葉に詰まる。

「・・・適応力と言うのは、状況を自分のものに馴染ませようとする能力です。ですが、順応は違います。順応とは、自分をその状況に合わせてしまうことです。つまり、自分より強い環境があれば、それに溶け込んでしまうのです。どちらも自分をその環境に馴染ませることですが、慣れるのとそれに流されてしまうのとでは主体性が異なります」

「ようはね、自己を失って世界の記録に取り込まれてしまうところだったということよ。ナフィルはそこの環境に慣れようとするのではなく、その環境に溶け込もうとした。そういうことでしょ?」

ナフィル以上にユーリが納得する。

ミュエルが頷いた。

「それは、欠点なの?」

「欠点ではありませんよ」

ルセリが優しく、いきり立つナフィルをなだめる。

「ナフィル、あなた、全き神聖を受け入れた時、師があれほど忠告をし、危険があるから用心するように言われながら、自身を全き神聖と同化させようとしたでしょう?」

ユーリの言葉に、ナフィルは険しい顔をして睨み付けた。

ルセリの心遣いは、さほどの効果も無かったようだ。

いつの間にか、アスリンがナフィルを挟んでミュエルの反対側に位置した。

「それがどうしたの?」

「ナフィルが自分の能力を把握してそうしたのなら、それは適応と言うわ。でも、あなたは自身を全き神聖に委ねたのよ。これがどれほど危険なことだったか分からないでしょう?」

ナフィルは押し黙った。

ナフィルが結果的に人として生きられなかった原因を、ユーリはナフィルに問うていた。

既に憑依という形でリシュエスの魂の礎となっていたナフィルが、全き神聖という人工聖霊を受け入れることは不可能だった。

自分の魂が四散する、その危険をナフィルは承知の上で、リシュエスは出来うる限りの守りを講じることで、自身の肉体を仮の器とした。

今、ナフィルが借り受ける魔力の供給源たる全き神聖との繋がりは、命と引き換えに手にしたものだ。

得られた結果は幸運であって、決して求めたわけでも、望んだわけでもなかった。

「それを可能としたのはナフィルの順応性の高さなのよ。特別凄いものでもない。ただ単に人よりも少しだけ高かった順応性が、魔術師としてのナフィルにとっては長所でもあり、短所でもあった」

確かに、人よりも物怖じせず自分の状況を受け入れる自信はあった。

それは本当に、ちょっとだけ人よりも図太い神経の持ち主ぐらいにしか思えないささやかなものだったはずだ。

それが、ここに来て、決定的にナフィルを拒絶した!?

「私にとって必要なものが、私の順応性が高いなんてことで、得られなかったと言うの?」

「いえ、それは違います」

ミュエルが、それを明確に否定した。

「その区別と言うか、判別が苦手と言うことです。いえ、感じやすいので多くのものに触れてしまって、返ってその影響を大きく受けやすい、と言うほうが分かりやすいでしょうか? 私は元々異質なので、その区別は逆に言うとナフィル様より良く出来ます。しかし、順応することが苦手なので、だから同調と言う形で適応しようとするのかもしれません」

ミュエルが考え考え言っている仕草は、まるで人間そのものだ。

「なんにせよ、ナフィルは自分では分からないけれど、必要なものを手にしたはずだ、と言っているのよ。どうせすぐ使いこなせるわけではないのだし同じことよ。実感がないのが気に食わないのかもしれないけれど、一度触れたものにもう一度、と言うのは同調よりも同化に等しいから、ナフィルには当分無理ね」

何ともいたたまれない気持ち。

ナフィルは虚脱感とともに罪悪感のようなものを感じていた。

これまでも、自分に付き合わせて成果の無いことは多かった。

危険ばかりで、報酬に足る宝物を手に出来ないこともあったし、何より、生きて戻れないことも多々あった。

いつも、安心させたいが為に、虚勢を張り続けてきた。

それだけに、落差が大きければ大きいだけ、ナフィルは精神的負担を受け、癒しがたい傷を負ってきた。

「ナフィル様・・・」

唇をかみ締めて俯くナフィルを、アスリンが覗き込むようにして、心配そうに窺っている。

その様子を見て、ミュエルはナフィルにとっての支え、その負担を軽くして傷を癒せる人間がどうしても必要なことを確信した。

結果、その人間を裏切るようなことがあったとしても、無論ナフィルが納得しなくとも、自分がそれを行えば良い、と思う。

むしろ、神が生み出した人間は、魔術師以上に、何かを成しえる要素を持つのかもしれない。

ミュエルがユーリを見る。

私は別に魔術師に賭けているわけじゃない。魔術師との理解が得られるからに過ぎないのよ。

と、ユーリの言葉が頭に響く。

神が魔術師に期待したように、魔術師が人間に期待する。そんなことがあるのだろうか?

あれほどの人間を、実験材料や生贄にしてきたのに・・・?

「さて、退屈させたでしょうから次へ行きましょうか?」

場に昏く立ち込める空気を払うように、ユーリが努めて明るくそう提案した。

「お昼までまだ時間があります。もはやその名では呼べないかもしれませんが、幻獣博物館へ参りましょう」

ミュエルがナフィルから離れて扉へ向かう。

既にシュエトーがそこで待ち受けている。

「少々残念なことになりましたが、まだお役に立てることが出来て嬉しい限りです。ナフィル様はまたおいでになるのでしょうか?」

ミュエルは少し表情を明るくして、

「何せ魔術師が生まれることなんて早々ないことですし、無論これからは頻繁に来ることになるでしょうね」

と、にこやかに笑って見せた。

その目はしかし、遠くを見ていた。

ルセリがナフィルに慰めとも激励とも取れる言葉をかける。

ナフィルは表面的にもそれに応じていた。

だが、やはり今迄で一番堪えたらしい。

もっとも、全員が決して晴れやかな顔をしていない。

精神的な疲労や負荷は、余り良い結果を生み出さない。

この王都を訪れた結末が、決して楽観的ではいられないことに何人が気が付いているのだろうか?

特に、思考が後ろ向きになると、それは一転加速して坂道を転げ落ちる。

ミュエルは自然と、タウスの姿を追い求めた。

説明
かつての魔法王国期の王都を訪れる魔術師のお話。
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