王都観光案内 〜観光2日目〜(後)
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道すがらユーリは言う。

「やっぱり自分は魔術師ではないんじゃないかって思ってる?」

ナフィルは一瞬険しい顔をするも、すぐ表情が翳った。

「魔術師になれたのならそれは魔術師だし、なれなければそれは魔術師ではないのよ。初めに言ったでしょう? 魔術師に見習いなんてないわ。ナフィルは未熟者。ただそれだけよ」

それが慰めではないことは分かっている。

そもそも、ナフィルが魔術師になることはなかった。

『全き神聖』事件で、ナフィルは魔力への干渉能力を得た。

それはリシュエス師の能力と、魔法具『初心者の短剣』によるものだった。

ナフィル本人には、全く素質が無かった。

にもかかわらず魔術師となった。

本人の意思だけではなれなかった。

一言で言えば偶然・・・だと思ってた。

だからと言って、必然と言う気にはならない。これは運命ではない。

そう、クリシナという魔術師は言っていた。

自分で求めたものの結果しか伴わない世界。

今のナフィルがいるのは、どんな影響があったにせよ、それは自分自身の要求や行動の結果である。

「どうしてあなたは私のことにそんなに詳しいの?」

ナフィルが横目で睨み付ける。

しかし、全く意に介さないように、

「見えてるだけよ」

とあっけらかんと言った。

「私には過去が見えるのよ? ナフィルのことなら何でも知ってるわ。だから、隠しても偽っても意味は無い。全て承知をして、私はナフィルに対してるの」

対している。その意味合いは、好意として助けているというものではない。

対等なもの、という意味だ。魔術師として、ユーリはナフィルを初めから認めていた。

「それに、何の得があるの?」

意味があった質問ではない。探りのようなものだった。

「得?」

ナフィルの問いを看破して、ユーリは破顔した。

「私は、王国魔術師を見守る王都の管理人。王国の律に沿わないならともかく、全ての魔術師を正しく導く義務と使命があるの。それによって何が得られるのかは分からないわ。正しくとも未来の無い世界かもしれない。従わざる未知の新しい世界かもしれない。秩序という目に見える枠を、もっともらしく守ることが私の役目。ナフィルが求めるなら、それを手助けするということも、私にとっては特段に意味のあることじゃないのよ」

先に立つミュエルが気遣わしげに、時折こちらを見る。

「おかしいと思わない? どうして会う魔術師はナフィルのことを知っているのか? どうして敵対したり手助けしたりするのか? ナフィルが魔術師になったことは、既に知られているのよ。さっき世界の記録に触れたでしょう? この世界の運用状況と事象を観測する巨大な情報集積空間には、この世界に影響を与えたものが一切の漏れなく蒐集されている」

私自身も例外ではないと、ユーリは言った。

「魔術師はね、基本的には互いに干渉しないのよ。だから、それが重なったり交わったりした時、自分の求めるものが分けられるなら協力を、分けられないなら排除を、することになるわよね?」

「何が言いたいの?」

難しすぎて付いていけない。

「ナフィルの能力が上がったり、行動範囲が広くなれば、当然そうした軋轢が起こる可能性が増える。話し合うとか譲ったりとか、考えていれば誰も目的には達し得ない。ナフィルは今、ようやく手にしたのよ。あなたが世界の構成要素の一つになったという自覚を」

ユーリは好奇心を満たした不敵な笑みを浮かべている。

ナフィルをだしにして、ユーリは今を楽しんでいる様に見えた。

「リンシアの呪いによって魔術師とはなったけれど、今まで大目に見られていたのはナフィルが認められていなかったから。魔術師は自分にとってどんな存在だろうと、何がしかの干渉と変化をもたらす世界の構成要素なのよ。それが魔術師として影響を与えるような存在として認められて、そして決定的な阻害要因とならない限り、排除はされないの。つまり、殺されたり実験体として捕獲はされないということ」

ナフィルがその言葉の意味を理解するまで、ユーリは含みのある微笑みを湛えて待った。

これまでの、魔術師見習いとしての期間と経験を思い起こす。

それは、苦しみと悲しみに彩られたものだったはずだ。

決して、見逃してもらっていた、というような甘いものではなかった。

・・・本当に?

「どういうこと? 私は誰かに守ってもらったり、助けられたりしたことは無いわ!」

「その必要性が無かったのだから当然よ」

その言葉が、深くナフィルの心に届く。

自分にとって大事な人の命は、魔術師から見ればただの人間の命に過ぎない。

私がどんなに苦しみ、悲しんでも、死んだり捕らえられなければ問題ない。

・・・全て、あの結果は全て、自分の至らなさの結果なのだ。

「何よそれ? なら、私が死にそうな目にあっていれば助けられていたって言うこと?」

ユーリが頷く。

その表情は、確かに魔術師に向けられたものだ。

「王国はもう無いけれど、魔術師が居る限り、この世界の損失を防ぎ、秩序を保つという役割が消えることはないわ。・・・と、昨日話せなかったから少し話し過ぎたかしらね。ミュエルが心配するからこの辺にして、続きは今晩にでも話しましょう」

そう言って、こちらを窺うミュエルに合図をする。

良い陽気であるはずなのに、ナフィルは自身の体の震えを自覚していた。

もちろん寒さからではない。

自分の決死の覚悟というものが、全く自覚のない子供の戯言に過ぎなかったことに恐怖した。

私は一体いつから魔術師だったのだろう?

全てを一からやり直したい衝動に、ナフィルは必死で耐え続けた。

 

エイブスが、ナフィルたちと少し離れてタウスと連れ立って歩く。

ナフィルのことは気になったが、こと魔術師のことになると、エイブスにはどうしようもない。

今はアスリンに任せるしかなかった。

自分の範疇にあることであれば、それよりも気に掛かることがある。

「どういうつもりだ?」

エイブスは自然を装ってタウスに近付き、世間話のような軽い調子で声を掛けた。

「・・・何のことだ?」

タウスはそれをとぼけて受け流した。

「悪いことは言わん。俺も傭兵だったからな。しかし、今回は諦めろ。あの女は全て知っている。魔術師という奴はな、人間のような姿はしているがそれは人間を騙す見せ掛けに過ぎん」

「・・・忠告はありがたく受け取っておくが、俺はビジット事務官を守っているに過ぎん。むしろ事務官を心配すべきじゃないか?」

叡智を欲する。それは確かに危険な願いだ。

ビジットは、ともすれば国を欲っしているではないか?

人間の世で、人間を超える存在はこの世全てを従えることも可能である。

その危険性は、人間で無い魔術師よりもより高いと見るべきだ。

覇権を求めるという輩を普通の人間より多く見てきた傭兵としては、まるっきり夢想だとは言い切れないものがある。

しかしエイブスは、その可能性は少ないと見ていた。

明確な理由は無い。言ってしまえばそれは勘だ。

ビジットが抱えるものは、そうした覇道の先には無い。

それに近いのは、やはり成り上がってやろうというエイブスやタウスのような、苦難を味わい、虐げられた者たちの、夢よりも昏く陰湿さを伴う切実な願いであるはずだった。

不満を抱いてくすぶったまま生きるか、可能性は限りなく低いがこの機会に命を賭けるか、それはエイブスでさえ明確な答えを持たなかった。

 

趣としては小さめの評議会議場と言った感じだが、何かしら後ろめたい様な印象を持つ。

蔦の絡まった石柱とくすんだ石壁。

良い印象を与えようとは思わないのだろう。そう思わせる何かがあった。

にしても、どうにも統一感の無い感じを受ける。

王都の建物は全て、王都として造られたのではなく、ユーリが言っていたようにどこからか寄せ集められたものらしかった。

「ここには管理者がいないから、封印を解くまで少し待っていて」

そう言って、ユーリが一人鉄格子を思わせる鉄柵の門へと歩み寄る。

「封印を解いた後、結界の稼動と限定開放を行います。シア様でも少し手間取りますのでお待ち下さい」

ミュエルがそう補足して、皆は緊張を解いた。

感覚が鋭敏になっているような、張り詰めたものを肌に感じていた。

それは、触れてはいけないものに触れてしまった後味の悪さに似ていた。

ミュエルが、シアとは同行せずナフィルたちに歩み寄る。

ナフィルは博物館を囲む植え込みの縁に腰を下ろしていた。

「余り気にされませんように。シア様はナフィル様から未来を奪おうというつもりで言ったのではありません。むしろ、今後の苦労や心労を軽減したいという思いなのです」

ナフィルは疲れた様子で座り込んだまま応じようとはしない。

代わりに、アスリンが不機嫌な顔をしてミュエルを見る。

敢えて言うことなのか? というところだろう。

実際、アスリンはここまでナフィルを傷つけることに不満だった。

本当かどうか、それが正しいのかどうかは知らない。

例えそれが必要なのだとしても、これまでナフィルが負ってきたものを、今ここで改めて背負わせる必要は無い。

それを肩代わりできない、いや分かち合えない悲しみが、ユーリへの怒りに転じる。

アスリンにすれば、それはミュエルも同じ。

「そうですね、私も、拙速に過ぎたとは思います。でも、中途半端では返ってナフィル様を傷つけることにしかなりません。私はナフィル様は耐えられると思いますし、耐えてもらわないといけません。それによって、これからはきっと、今までの届かなかったものに届くようになるでしょう」

「! そんなことっ」

アスリンが激昂して立ち上がる。

が、それ以上言葉が出なかった。

ナフィルが、アスリンの服の袖を掴んで引っ張っていた。

ミュエルが少し戸惑った、困った顔をしている。

「悪気は無いのよ。私は大丈夫だから・・・」

怒りのやり場を失い、険しい顔のまま、アスリンは視線を泳がせた。

「言い方がお気に触るのでしょう。まだ実証経験が少ないので、出来るだけ気をつけてはいるのですがそれは本当に申し訳ございません。それでも、今は敢えて言わせて頂きます」

ミュエルはそう前置きをし、少し調子を落として話し続ける。

「ナフィル様は、魔術師になってしまったことを後悔していらっしゃるのでしょう?」

と、先程ユーリが言っていたことと同じようなことを聞いた。

ミュエルの問いに、ナフィルはユーリに対するほどに反応はしなかった。

何故なら、それこそが本心だったから。

なれるなれないではない。

自分が魔術師になってしまったことが、そもそもの間違いだったのではないか?

今まで、常に前を見続けようとした。

もう戻れない。積み重ねられた辛苦は、それが増えるに従って絶対の強迫観念となった。

ここまで来て今更魔術師であることを捨てられない。

そして、それに応えられない自分が居る。

「それを許すことがナフィル様には出来ないのでしょう。それは仕方の無いことです。仕方が無いでは済みませんが、仕方が無いのです。だから、アスリンさんが居てくれます。アスリンさんが代わりに許してくれるでしょう。もちろん、余り信用はされないと思いますが、私も同じ気持ちですよ」

噛み付かんばかりのアスリンに、ミュエルはそう付け加えてにこやかに笑った。

「必要な時に、それを叶える力が無いということは多いものです。逆に、今、ナフィル様は知識を得ましたが、それで過去の失ったものを取り返すことが出来ません。これは、この世界に生きる理に従うものの定めなのです。定め、という言い方は魔術師的ではないですね。約束事、としておきましょうか? 前もって対策を打つことは出来ます。肉体を損壊するなどして礎を失っても、素体に魂を移し変えられるようにしておく、などです。でも、ナフィル様は出来ませんでした。欲する者は、力を必要とする時に、その必要な力を持ち得ないものです。これは、残念ながら魔術師だろうと人間だろうと、そして例え神々であっても分け隔てのない真理なのです」

ナフィルが怪訝な顔をしてミュエルを見る。

そのナフィルに、ミュエルは屈託無く微笑んだ。

「ナフィル様が新たに何かを得た時、あるいはどこかに訪れた時、必ずそれに応じて好ましいことと好まざることが起きます。ナフィル様が魔術師であれば、人間を超えるものであれば、それは大きくて当然です。悲しみも苦しみも大きくて当然です。そして、それを当然と思わず、悩んで苦しむ。私がそれで良いと思い、そして許してあげたいと言うのは、ナフィル様だからです。良いんですよ。だって、御自分の師に、そう言って差し上げたナフィル様じゃないですか?」

「・・・え?」

ナフィルが、驚いた顔をしてミュエルを見た。

どうしてそんな事を知っているのか?

驚くと同時に、その時のことを鮮明に思い出していた。

それは、先ほどの知識の海で思い返したリシュエスの記憶が残っていたからだ。

「ナフィル様?」

そう言ったナフィルを見て、アスリンも驚いた。

涙が、溢れ出ていた。

もう流すまいと、そして見せまいとあの時に誓った涙だった。

「どうして、どうして私は・・・」

その続きは、嗚咽となって言葉にならなかった。

私は言ったんだ。

誰も許してくれなくても、私だけは許してあげるって。

ここに居ても良いんだよって、言ってあげたんだ。

その、誰にも認められない、そして誰よりもそれをした自分が許せない、その罪を代わって贖うことを誓ったあの時に。

それが、ナフィルが魔術師としての存在意義を得た、全てを生み出す原初の混沌とも呼べる魔術師ナフィルの原点だった。

「私は、私が望むことのために、今までやってこれた。誰も巻き込みたくなかったし、叶えられずに死んでしまっても良かった。でも、そう出来なかった。・・・今では死ぬことも出来なくなってしまったのね」

と言って、ナフィルは涙を流しながら自嘲を半分含ませて吹っ切れたように笑った。

「進んでいるのか、それが正しいのか、私には測ることが出来なかった。もし魔術師になった時点で間違っていたのなら、と、私はそう考えるのが怖かった。でも、ユーリはそれを指摘した。した上でそれも受け入れろと言う。それは私の理想よ。決して届かない理想。そうできたらどんなに楽なのか、でも、そう考えること自体、私には許されない」

「ナフィル様」

と、アスリンが袖を掴んでいるナフィルの手を解き、その手を握った。

「私は自分から望んできました。来る前に思ってきたことは、現実にはそんなに甘いことではなかったと思い知らされました。でも、驚くことはあっても、私はナフィル様に従います。それは、失礼ながらナフィル様の思いや考え以上のものです。つまり、私の考えでナフィル様に従っています。だから、私のために悲しんだり苦しんだりすることは無いんです」

それに、それは何もナフィルだけの特権ではない。

アスリンもナフィルを心配し、悲しみ、苦しんだのだ。

そして、それはこれまでナフィルに付き従っていた人たちにも言えた。

だが、結局アスリンは魔術師と生きると言うことがどんなものであるか分からないだろう。

無論、ミュエル自身も、実際に人間と生きると言うことがどんなものであるのかは分からない。

でも、それで良い。

分かってしまったら、それは同じと言うこと。

せっかく3人が違うものとして生きているのに、分かってしまったら意味が無いではないか。

「私のしていることが単なる私のわがままだとしても、それで良いと言えるの?」

「えぇ、ナフィル様はそれで良いのです。もしそれが間違っていたら、アスリンさんがそれを正すことがあるでしょう。もし間違っていても、私はそれに従うつもりです。そう言う事です」

納得しがたい表現はあったが、それはアスリンの意見とさほど変わらない。

それが人間としての存在から乖離するならば、受け入れようと思った。

アスリンは教導団時代、教官だったある騎士からこんなことを聞いた。

「体制や組織、そして理想や理念といったものに従うために私は武人を目指した。しかし、結局は人間は自分が認めた人間に従うように出来ているのだ。そうした人間に出会った時、それがたとえ周りから認められないとしても、従ってしまうことがある。それが時に反乱や犯罪と言われることがあってもだ。本人はそれが自分の存在理由だと信じている。そして、それは悲しいことであるが、決して少なくないのである」

もし自分の進む道が、辛く、悲しいのだとしても、信じられる人が居るならばそれに従おう。

そして、その結果に対する責任は、自分になければならなかった。

そうでなければ報われない。

ナフィルだけではない。

アスリンも、ミュエルも、いくつかの覚悟を必要とした。

自分への覚悟。

ナフィルへの覚悟。

そして存在としての覚悟。

ミュエルとアスリンは、互いに視線を交わす。

魔術師に魔法王国と言うものがあった。

それは、器であり、枠であり、枷だった。

自分たちが、ナフィルにとってのそうでありたい。

それが一つのものでも、同じ向きでも無くて良い。

そうであるなら利用する価値はあると打算的に考えて、二人は同じ光をその瞳に輝かせた。

 

結局、解った事は自分が魔術師だということだ。

それは、魔術を成すことにあるのではなかった。

人であり、人を超えるものであり、人でないものだった。

「何も変わってない、と言うことではないの?」

「いえ、分かってらっしゃるのでしたら、それは変わったということですよ」

ミュエルはそう言い切った。

「分かっていて、これからも魔術師として生きることです。世界に従う必要はありません。世界に益をもたらす必要もありません。と言いましても、覆せないものはあります。超えられないものもあります。シア様が今晩、夢見の塔でお話くださるでしょう。もっとも、抗えないものがあると知るのは、今のナフィル様にはより辛いことかもしれません。ですから、敢えて昨晩は伝えませんでした。知ることは辛いですが、それでも、知らないで居るよりも良いことだと、今のナフィル様には分かっていただけると思います」

満足とは言えないまでも、ナフィルの目的は達した。

ミュエルはそう言った意味合いで、お辞儀をしてナフィルに頭を下げた。

「これからは、私がお傍でお助けいたします。私の全てがナフィル様の力です。今後は遠慮なく何でも仰ってくださいね」

ナフィルは目を瞬かせて、突然の宣告に驚きを隠せなかった。

今回一番の不意打ちだった。

 

ナフィルは許されたかったわけではなかった。

魔術師としての自分に、許されるなどということが無いのは既に承知していた。

承知していて、ナフィルは魔術師になることを選んだのだ。

それには代償が必要とされた。

それを、当然のことと思わなければいけなかった。

それが、許されないと思わなければならなかった。

それらが、ナフィルを蝕んでいった。

人間を捨て、魔術師になろうと言った決意を、言わば食いつぶしながらここまで来た。

それは、リシュエスに許すと言った自分が取らなくてはいけない責任。

決してやせ衰えることの無いそれは、ナフィルが前へと進む負の原動力でもあった。

もちろん、それだけではここまで来れなかった。

足りないものを犠牲で補ってきたし、精神的に支えてきてくれた人たちもいた。

ただ、それらに対する責任も、当然累積してきたのだ。

これはもう、今の自分が存在する理由の一部を占めるもので、無視することも、捨て去ることも出来ない。

エリンはそれを、自らの命で相殺した。

ナフィルもそうすべきなのだろうか?

エリンは言った。

「私は、ナフィルさまが魔術師として望みを成し、誰かを支えて上げられるようになってくれれば、それだけで良いのです」

ナフィルはどんなに苦しもうとも、悲しもうとも、そして呪おうとも、魔術師として生き続けなければならない。

それにはどこかで妥協しなくてはならない。

しかし、それは全てを捨てることではない。

常に天秤は、揺れてはいても、魔術師として生きること以外に傾かないのだった。

それでは意味が無いのかと言えば、これは絶対に必要なことでもあった。

自分の非力さを思い知らされる度に、命に危険が及ぶこと以上に、ナフィルの精神を深刻に苛んだ。

そうして徐々に、その僅かな逃げ道は細く、小さくなっていく。

それが、ナフィルにとって、魔術師としての必要不可欠な要素でもある。

ナフィルは、魔術師になる前も生きてはいた。

ただ、それは生きていただけだ。

しかし今、ナフィルは動機はともかく、魔術師になったことで自己の存在を確立している。

これはどんな生物よりも、一段上の存在だ。

「多少のわがままなんて、解決できない錯誤や矛盾が一時的に表面に出ただけよ。私は心配なんてしていなかったわよ。ナフィルは、既に自己を確立した『事象』なんだから」

ユーリはそう言って、いやらしく笑った。

「本当なら、ここでナフィルに知識ではない体感としての魔術を経験してもらうつもりだったけど、今の状態では難しいでしょう。・・・ま、昨日に比べたらよほど魔術師らしくもなったし、私としては嬉しいけど」

少し持ち直したらしいナフィルの様子を見て、ユーリは本当に楽しそうだ。

ミュエルが困った方です、と言って小さなため息をつく。

でも、理由は何となくナフィルにも分かった。

「悲しいことがあると分かっていても、こうした楽しみがあるから耐えられる。私が今の為に生きてきたように、ナフィルにもね」

その微笑みに親しみを感じたのは、もしかしたら自分がユーリに近付いたからなのかもしれない。

とは言え、そう殊勝な表現をしてしまうほど、見た目の威厳的なものが感じられない底の知れない女性でもあった。

「さて、歓迎しようにも管理者はいないし、説明だけでもしましょうか?」

ユーリはミュエルに目配せする。

皆が周りを見渡す。

招き入れられた施設内は、初めに感じた印象そのものだった。

「ポルカッタの美術館は華やかな感じがしたが・・・」

エイブスが比較して言うように、内部を見ても、先程の図書館と比べてさえ装飾など皆無に等しい。

「ここは、肉体や魂、魔術における生物の創造に関して、研究や実験を行うところです。人為精霊や魔法生物の製造もしていまして、私もここの技術で生まれました。私の製造者様、ニスコール導師はここの嘱託研究員でした」

思わせ気な笑みをして、ミュエルがユーリに代わって説明する。

管理者がいなくとも綺麗に維持されていて、それが返って不気味にも見えた。

「幻獣がいたのも昔のことで、今は召喚術師が居りませんので全て帰還しました。博物館と言う呼び名も、研究や実験で得られた生体や回収標本を蒐集したことで付けられたもので、本来の主旨とは異なってしまいました」

誇れるものがある一方で、その陰にはそれを遥かに凌駕する失敗や悲劇があるのだと、ここの雰囲気は教えている。

人間であったナフィルは、それを魔術師として最も切実に感じていた。

素材や素体と言う名の下に、多くの人間が犠牲になってきた。

自分が魔術師になって感じた、人間を犠牲にするということを、他の魔術師から指摘されることが何より嫌だった。

だから、人間を魔術に供することを頑なに拒んできた。

でも、自分の至らなさから、人間に力を借りなくてはいけなかったし、そして結果として犠牲にしてきた。

・・・どんな道を辿ってきても、結局は人間を犠牲にしてきたことに変わりなかったということだ。

この二日、ナフィルが魔術師であることを自覚しながらも、なおそのことを呪った理由はそれに尽きる。

「ナフィル様、何かを成すということには、必ず正負が付きまといます。もうそれはくどいほど、ナフィル様を傷つけることを承知で、言わせていただきました。・・・ここは、その負の部分を集めた場所なのです」

ミュエルは、表情としては穏やかさを失ってはいなかった。

しかし、それは自分にあった負の部分も、ここにあるのだと示していた。

当然ながら、ここにはナフィルにとっての必要性は皆無だった。

自分の道にも、そして目的にも、適いはしなかったし無縁でいたかった。

「ナフィル」

ユーリが、その表情を見取ってか声を掛けた。

こちらを測っているかのような表情に、ナフィルが渋い顔をする。

知っていて声を掛けたのだし、それは嫌味としてはきつかったがさほど意味があったものではない。

「私は極める気は無いわ。それとも、これも必要だとでも言うの?」

ナフィルの師、リシュエス・ウォンバートは死霊術師だった。

ナフィルもこれまで、死体や死霊を使役したり、魂の拘置をして不死化を行ったりしてきた。

それは概ね失敗か仕方の無いもので、これを使いこなそうとは思わなかった。

「ナフィル様の魔術の根底にある術式には、ナフィル様が継承したウォンバート家の様式が使われていますからね。それは死霊を媒体にしたものですから、魂に作用する形式の魔術にはうってつけなのです」

ミュエルの説明に納得しつつも、ナフィルは頭を振った。

「私は元からの魔術師ではないわ。これ以上自己の存在を追い詰めてみても処理できる自信が無い。今だって、平静を装うのにどれだけの苦労を必要としているか分からないでしょう?」

ミュエルが苦笑というには痛々しい顔をしている。

「確かめておきたかっただけよ。もし必要なら教えてあげようかと思ってね。今度は失敗しないで済むかもしれないし」

ナフィルの顔がこわばり、握り締めた手に力が入った。

ユーリのその一言に、ナフィルが深く傷付いていることをアスリンは悟った。

しかし、ナフィルに代わって口を出す必要は無かった。

しっかりと顔を上げて前を向き、ナフィルはユーリから目を逸らさなかった。

「・・・一々まともに受けたりしないわよ」

言われる度に傷付いていたら、存在自体を疑わずに居れなくなる。

それらを、納得せずとも抱えて生きることが魔術師だと教わったばかりだ。

これは卒業試験のようなものだと思うしかない。

「なぁ、その標本と言うやつは見れないのか?」

突然のタウスのその質問に、ナフィルとユーリは見事に対極の反応を見せた。

「あなた正気?」

ナフィルは険しいと言うよりも嫌悪するかのような顔をして、吐き捨てるように言った。

「興味ある?」

だが、ユーリは意外にも応じていた。

「タウス! 止めておけ」

エイブスが割って入るが、

「聞いてみただけだ」

と、余り真剣には受け取らなかった。

先程の危惧もあって、エイブスの表情は晴れない。

ナフィルに申し訳ないような顔をして目だけで伺う。

「ユーリ、どういうつもり?」

ナフィルの抗議を片手で制して、

「ここには危険な生物が隔離されているわ。その中には、魔術師には倒せないようなものもあるの」

ユーリはそう言って皆の中心に立った。

「魔力の通じない生物は、魔術師を暗殺したり、魔術を封じた結界下で戦わせるために作られたの。でもね、魔術師自身の手に負えない危険なものは倒すのも厄介でね」

そう言って、左手で空気を払うような動きをする。

そこに、直立する蜥蜴のような生物が現れた。

皆がどよめく中、ナフィルが生理的嫌悪感を露わにして後ずさる。

「幻影だから大丈夫よ。名前は無いけど、スイルの使い魔と呼んでいるわ。魔力を吸収する性質があるのだけど、厄介なことに変換した魔力も分解して無効化してしまうのよ。だから直接的な攻撃か、二次変換をする魔術でないと効果が無いの」

体格の良いエイブスよりも大きく、一見鈍重そうに見える。

目は昏い赤で満たされ表情は読めず、巨大な口からは短剣のような歯が数本覗いていた。

「どう? 一々処分もしていられないから隔離しているけど、倒してくれたら、そうね、魔力を込める前の宝石をあげましょうか。釣り合う報酬なのかは私には分からないけど、持てるだけなら持っていって良いわ」

「ユーリ!」

ナフィルが声を上げる。

「危険よっ!! わざわざ危険な目に遭わせる意味が無いわ」

「でもねナフィル」

ユーリはタウスたちを指して、

「彼らには現実的な報酬が必要よ。見返りや安全の保証まで、ナフィルが気にしたり責任を感じたりするのは大変でしょう?」

とあっけらかんとして言った。

それは確かにそうだった。

ユーリは、それを全て抱える必要はないと言っているのだ。

ただ、このままなし崩し的に戦わせることを許す気はなかった。

「私が連れてきたのよ? 責任はあるわ」

「自分から付いて来ていても?」

ビジットとタウスの事だ。でも、

「同じことよ。ここは、私たちの領域よ」

ナフィルがそう言い切って、ユーリは両手を軽く挙げて理解を示した。

「でもね、全く危険が無いことに、誰が魅力を感じるの? それに、一人なら危険ではあるけど何人かでかかれば不可能ではない。その対価は、魔術師にだってあるものよ」

そう言われては言い返せない。

本人の選択は尊重する。矛盾するようではあるが、ナフィルはそれを自分に科してきた。

それが、人間と決別した魔術師としてのナフィルのけじめであり、戒めでもあった。

歯噛みするように、ナフィルは僅かな期待を込めてエイブスを見た。

 

エイブスは考えた。

これで破格の報酬を得れば、タウスは満足するかもしれない。

少なくとも、漠然とした不意の危険よりも、目に見える分マシではある。

怪物との戦闘は、ナフィルと共にいて何度か経験している。それほど後れを取る事はないだろう。

それに、自分にとっても悪い話ではない。

エイブスは自分のギルドを作りたいと思っていた。

そのためには莫大な資金が要る。

持てるだけの宝石と言えば、安く見積もっても自分の稼ぎの10年分近い。

エイブスの頭には、これをどう避けるかではなく、既にどう戦うかに視点が置かれていた。

 

これまで、生まれの貧しさを蔑まれてきた者たちが互いに殺し合うさまを、エイブスは醒めた思いで見つめて来た。

そして、そのやるせなさはどうしようもない定めにも似た境遇だと受け入れていた。

それが現実だと思っていた。

自分だけはそこから抜け出してやろうという思いはあった。

しかし、その現実を否定することも出来なかったし、そもそも打ち破ろうなどと考えもしなかった。

だが、今、現実と信じていたことが幻想に過ぎなかったと知った。

自分の居た世界が、とてもちっぽけで、そしてそれは絶望的なものでしかなかったと知った。

本当の世界は広かった。

食うために戦うことも、成り上がるために戦うことも、何てちっぽけなことだ。

そんなことのために、同じ境遇の人間たちが、貴族や金持ちの先兵となって殺し合ってきたのだった。

現実だと思ってきたことが幻想に。

幻想だと思ってきたことが現実に。

まさしく夢のような話だった。

地面にへばりつき、血や泥にまみれて生きてきた人間には、それはお伽話か世迷言でしかない。

そうした人間は、矮小な現実から早々に放擲され、この世界に身の置き場など無かったはずだった。

だから、必死に現実を唯一と信じ、現実にしがみ付いていた。

そうでなければ、命を落とすからに他ならない。

そう、それは、・・・・・・ある意味では死を宣告されたに等しいことだったのだ。

 

「目の前に居る、なんてことは無いと思うけど、気を抜いてはダメよ?」

そんなユーリの注意とも取れぬ忠告を受け、ナフィルの仏頂面に送られて、三人は『狭間』へと運ばれた。

さすがに目の前には居なかった。

今までに感じたことの無いような緊張感を少し緩め、ひとまず安堵する。

しかし、その怪物はそのホールの隅に確かにいた。

こちらに、意思の感じられない真っ赤な双眸が向いている。

ユーリが見せた幻影のおかげで、見た目の衝撃は克服することが出来た。

「それじゃあ、予定通りに行くか」

と、軽い調子でエイブスが言う。

二人も頷くが、心なしかアスリンは青白い表情をしている。

「これぐらいで滅入ってくれるなよ?」

エイブスがアスリンを叱咤した。

実際、見た目はマシな方なのだ。だが、これからどういう結末になるのか、エイブスでさえ分からない。

だから逐一驚いていたら切りが無いし、逆にそれが命取りともなりかねないのだ。

「とっとと片付けるぞ」

「承知!」

タウスが不敵に微笑んで左に回りこむように離れた。

アスリンが少し情けないような顔をしながらも、複合弓を構えた。

怪物は身動ぎさえもせず、現れた時のまま立ち尽くしている。

「気は抜くなよ? 簡単に倒せそうだと思うのはただの錯覚だ」

エイブスがそう言い切って、剣を怪物に向けた。

前触れも無く、意外なほど怪物は滑らかな動きでエイブスに向かってくる。

アスリンが頭部に向けて2連射する。

が、矢は2本とも鱗を思わせる皮膚に弾かれてしまった。

「!?」

アスリンは驚きつつも次の射点に付くために右へ動く。

怪物は既にその巨大な鉤爪をエイブスに振るっていた。

アスリンの複合弓は、教導団の教官が命中精度の高いアスリンに勧めた特注品である。

それは教導団の給金3か月分にもなる高価なものだったが、筋力でどうしても不利になりがちなアスリンに、その能力を無駄にすることなく、積極的に使わせるために強く勧めたのだ。

今まで親に頼みごとをしたことの無いアスリンだったが、この時初めて頭を下げた。

そうまでして手にしただけあって、速射をしなければ革鎧も容易に打ち抜く威力があった。

なのに、あの怪物は、全く意に介せずに弾いたのだ。

「魔術の守りがあるのかと思ったのに」

あの皮膚は革鎧よりも厚いのだ。二重の意味で衝撃を受ける。

しかし、悩んだり考えたりする暇は無い。

すぐ射点に着く。そして弓を引き絞ると、次の一瞬でアスリンは怪物の左目を正確に射抜いた。

 

怪物の攻撃は、全力で体重をかけてくる強力なものだ。

しかし、エイブスはほとんど引かず、二人が攻撃に入るまでその場で持ちこたえた。

予想通り、アスリンの弓は傷一つ与えられなかった。

タウスが手斧で怪物の右腕筋を執拗に狙うが、怪物は一心にエイブスを狙ってくる。

まともに受けずに避けてはいるが、2回だけ防ぐために使った円盾は、革が裂けて土台となる板にざっくりと傷が入ってもうボロボロになってしまった。

しかし反撃は出来ない。

向こうは捨て身で来れても、こちらは攻撃をすればその隙だけで致命傷を受けかねない。

タウスが集中的に狙うので、さすがに怪物も引き離そうと大振りで払うが、その隙に突き出した剣も深くは追いきれなかった。

すぐ避けられるように体重を引いていないと、体当たりのような攻撃に対処できない。

タウスは目標を腕だけでなく脇腹にも向け、どの位置からも確実に攻撃を当てている。

しかしどれだけ効果があるのかはわからない。

怪物には一向に効いている様子が無かった。

その時、怪物の左目にアスリンの矢が突き刺さった。

だが、怪物は何事も無いように鉤爪を振るう。

破壊音を残し、エイブスの円盾は砕け散った。

一瞬矢の効果を期待して、避けるのが遅れたのだ。

盾を犠牲にして、エイブスは怪物の間合いから一旦逃れた。

「効いてないぞ! 首を落とすか?」

タウスが叫び、エイブスは頷く。

しかし、それも簡単なことではない。

「取り合えず右腕を封じよう。でないと首など狙えまい」

怪物の意図は分からないが、タウスではなくエイブスを狙ってその間を詰めてきた。

それでは効率が悪いので、アスリンが敢えてその間に入って引き受ける。

危険ではあるが、攻撃力で言えばアスリンがおとりを引き受けるのが適任だ。

その隙に、タウスの位置にエイブスが入る。

そして、タウスの付けた腕の傷に思いっきり斬りつけた。

エイブスが数度斬り付けると、いとも簡単に腕の筋を断ち切る。

怪物の右腕は、もう威嚇程度にしか使えないはずだ。

こんなものか?

その時、エイブスは確かに物足りなさを感じた。

それは間違いなく、人間同士でやりあうよりも遥かに脅威ではあった。

だが、人間同士でやりあう時に感じた呵責、それは今では僅かなものにしか過ぎないかもしれないが、それが無い事の気兼ねなさは、何とも例えようのない感情を湧き起こさせた。

・・・俺は、楽しんでいるのか?

それは、敢えて言えば清々しさや喜び。

技量を尽くしたときの達成感は、相手が怪物であるからこそ許せた、自己の昏い感情の発露であった。

それからはもう、傭兵二人が淡々と作業をこなすだけだった。

左腕だけでも充分致命的な威力があったが、もうその動きは読まれてしまって、二人はまるで示し合わせたように、交互にその首に確実に、そして深い傷を負わせていく。

腐臭のする体液だか血液だか区別の付かないものを大量に撒き散らしつつ、しかし怪物の動きは全く衰えない。

「うりゃぁ」

エイブスが威勢を掛け、全力でとどめの一撃を怪物の首に叩き込む。

ばちゃりと、形容しがたい不快な音を立てて、その首が胴体から離れて床に落ちた。

このホールに居るものの、全ての動きが止まる。

「・・・やったのか?」

タウスが汗を拭って問う。

しかし、エイブスは答えない。

断言できないのだ。魔術師絡みだと、正常な判断というものが山の天気のように曖昧なもののように思われた。

じゅぶじゅぶと首があったところから液体が流れ出す。

その臭いがたち込め、3人は顔をしかめた。

人間の血の臭いは、ねっとりとして生臭い感じではあるが、これほどの不快感がある匂いではない。

エイブスは、以前にナフィルと共に死霊に食われた人間の処分に立ち会ったが、あの時感じた腐った人間の何とも言えない匂いを思い起こしていた。

この怪物も死んでいたのかもしれない。

魔術で生かされ続けていたか、あるいは動くように命じられていたのだろう。

であれば、もう行動力は失われているのではないだろうか?

その緩みかける気を、エイブスは内心で厳しく叱り飛ばした。

怪物は、まだ動く兆候を見せていた。

「何かいるぞ!」

エイブスはそう叫んで警告した。

その顔には、二人には悟られない程度に、何かを期待する不敵な笑みが含まれていた。

 

エイブスの言葉の意味が分からず、タウスとアスリンはエイブスを見るために怪物から一瞬目を逸らした。

その時、ばちゃりと、液体を撒き散らしながら、首のあったところから不意に触手が伸びて周囲を払った。

驚いて飛びのく。

アスリンが体勢を崩したが、倒れはしなかった。

怪物は首から数本の触手を出し、それをうごめかせながら様子を窺っている。

「なんだあれは?」

タウスの質問を、エイブスはそのまま返してやりたかった。

「あれが本体だ。死体に寄生していやがったんだ」

エイブスは不快感からつばを吐き捨てる。

だが、アスリンは堪えきれずに吐いていた。

この臭いであれを見せられれば無理も無い。

そう思うが、

「おい、吐くのは良いが隙を見せるな」

と言わずには居れない。

「何だよ、今までのは余興か?」

タウスの負けん気は救いではある。

が、顔は険しく歪み、決して言葉どおりの余裕があるようではなかった。

「ちっ、厄介だな。本体を引きずり出さんといかんようだぞ?」

「あの足を全て切り落とせば出てくるんじゃないか?」

見た目もそうだが、相手が人間じゃないのは何とも対処に困る。

「そんな面倒臭いのは勘弁願いたいが・・・」

だが、他に良い考えが思い浮かばない。

「やめだ。考えるのは性に合わん。動きが読めんが気を付けろ。毒を持っているかも知れんからな」

人外の対処に長けるのも良し悪しだが、今はそのくらいしか言えないことにエイブスは舌打ちをした。

触手の動きはさほど早くは無い。

問題は、頭の無い怪物がまだ動き回ることだ。

「何とか足止めできないか?」

「この足だか腕だかが邪魔をして近付けん。腕と一緒に足も封じておくべきだったな」

さほど残念でもなさそうに言うが、それは生死を分かつかもしれない、もはや取り返しのつかない現実だった。

左腕だけではあるが、その鉤爪の攻撃を避け、触手の攻撃を受け流す。

そして攻撃をせずに、触手の攻撃を避けつつ間を空ける。

「埒が明かん」

まだ体力があるだけに、刻一刻と状況が悪い方向に向かっていることに余計に危機感を感じた。

時間がかかればかかるほど、手段も生存の可能性も無くなっていく。

この触手は意外にも柔軟な動きを見せ、またしなやかそうでいて案外に硬く、エイブスがようやく1本を切り落としたが、すぐ本体から1本生えてきて全員を落胆させた。

「打つ手無しだな。切り落としても生えてこられてはな」

「にしても、あれだけでも面倒なのに、こいつはどこに目が付いているのだ?」

怪物が突進しつつ鉤爪を振るうのを、エイブスは引き付けて避ける。

触手自体の範囲はそう広くも無いから、逃げ回るのもそれほど難しくは無い。

しかし、それでは勝つことは出来ない。

しかも、厄介なのはそれだけではない。

生物が腐った時に発する猛烈な悪臭が、アスリンの動きを妨げていた。

無理も無い。こんな凄惨な場面など、エイブスでさえ余り経験は無い。

毒気は無くとも、精神を苛む深刻な影響を与えるに充分な瘴気であった。

アスリンは、初めて戦場に出た新兵が浴びる洗礼を、最悪な形で受けていた。

が、庇っても居れない。

「長くは持たんぞ」

それは体力に限ったことではない。

どんな能力があるのか、毒は持っていないのか、果たして、あれを殺せるのか・・・。

エイブスはゾッとした。

あれを本当に倒せるのだろうか? それを、誰も確信を持って言い切っていなかったのではないか?

と同時に、頭がカッと熱くなった。

この汚れた血や腐った体液にまみれ、猛烈な悪臭の中でみっともなく戦っている自分たち。

今までと同じなようで、エイブスは全く違った印象を持った。

どこかで、この状況を楽しんでいる自分が居た。

「援護しろ。仕留めてやる」

両翼を二人に任せ、エイブスは剣を真っ直ぐ怪物の胸に向け、一足飛びに突っ込んだ。

一か八かの賭けだった。

それが最短で確実な方法だった。

これで倒せなければ成す術など無い。

どうしてそう思ったのか。その唐突さを疑問に思わない。

剣が怪物の胸に突き立てられる。

慎重さを捨てた突然の行動に、タウスとアスリンは驚きつつもエイブスを狙う触手を懸命に阻止した。

それでも、2本ほどがそれをすり抜けてエイブスを背後から襲った。

背中に焼け付く痛みが走る。

が、構わず剣を更に深く刺し貫く。

それだけで、簡単に全てを終わらせることが出来た。

それだけで、怪物は動きを止めたのだ。

もっと早くこうすべきだった。

気兼ねない相手を殺した時、エイブスは確かに高揚感に包まれていた。

それを分かち合おうとタウスを見る。

だが、タウスは呆けたように中空を見ていた。

その目は純真で曇りの無い澄んだもので、一瞬魂を抜かれたのではないかと思った。

しかしその疑問はすぐ頭から消え失せた。

無謀だった。しかし切り抜けた。俺は生きている。次はもっと上手くやれる。

笑い出しそうになるのを堪えたが、それすらどうしてなのか理由が分からなかった。

ただ楽しかった。そして誇らしかった。

対照的に、アスリンは酷く疲労感を漂わせて、沈んだ顔をして動かなくなった怪物を眺めていた。

ようやくそれを認識したかのような、現実を反芻するかのような印象だった。

 

「あんな戦い方をするなと言った筈よっ! あれでは命がいくつあっても足りないじゃない!!」

戻るなり、ナフィルはそう言ってエイブスをなじった。

冷静さを取り戻したエイブスは、ばつの悪そうな顔をしてすまないと言って詫びた。

3人の中で、エイブスだけが唯一魔法生物との戦闘経験がある。

それを踏まえ、冷静に対処できると思ったからこそ、渋々望みを呑んだのだ。

それなのに、自ら率先して、どんなことでさえ起こり得る相手に捨て身で戦うなど、

「エイブ、あんた、あそこで死んでいたのよ? 今生きているのが奇跡なの! 分かってんの?」

とナフィルが言い切るほどに、無謀極まりないことなのだった。

エイブスは、理由は分からなかったが、違和感は理解していた。

それはもう既に感じていた事だが、はっきりと確証をもって理解した。

ナフィルが危機感を露わにして怒っているのが、それを証明していた。

その答え。

ナフィルが今まで自分のことに掛かりっきりで、この王都が人間にとってどれほど危険なところであるのかを認識したのは、エイブスを叱り付けているまさにその直前。

ユーリの放ったたった一言。

「絶望が道を開くこともある」

感覚共有で、ミュエルの観るエイブスらを心配げに思うナフィルを、ユーリが安心させようとして言った・・・もしかしたらまたからかったのかもしれないがその一言は、以前、ナフィルも言われたことがあった。

そして気付いた。

この濃い魔力が満ちる空間で、魔力干渉能力の無い人間であっても、強い思いや望みを、稀に叶えてしまうことがある。

通常であればあり得ないことが、ここでは叶ってしまう危険性があった。

開くことの叶わない真実、あるいは現実とでも言おうその扉を正しく身をもって越えてきたナフィルが、危機感を露わにしてエイブスに八つ当たりも含めて怒りをぶつけていた、それが理由だった。

御せる能力が無ければ、魔力に飲み込まれてしまう。

もっと簡単に言えば、感情に流されやすくなる。

ナフィルにはリシュエスが居たし、その後にもどうにか導かれてきた。

それは偶然というには出来すぎていたし、奇跡というにはささやか過ぎた。

だが、ここは、ここでは、その枷が緩いのだ。

普通に生きていれば一生感じなかった『現実』が垣間見れてしまう。

それが純粋であれば純粋であるほど、狭ければ狭いほど、強ければ強いほど、叶えやすくなってしまう。

その代償がもし命であったならば・・・。

ナフィルはそれが自分のことのように思え、心臓が跳ね回っているような動悸を感じていた。

エイブスを叱りながらも、ナフィルは自分の経験を思い起こしていた。

大好きだった、大事だと思った人たちが自分のために命を投げ出したこと。

それは自分の命を顧みず、自分の都合だけで身を投げ出したナフィルへの報いだった。

そこで得たものは、失ったものに比べれば、取るに足らないものだった。

綺麗事ではない。魔術師であるが故に、死んでは元もこうも無いのを知っていた。

そしてそれは、ナフィルがまだ魔術師になり立ての頃、よく分かっていなかったナフィルにアルジオ師がくどいほど教えていたことでもあった。

それをようやく理解したのは、現実に5人もの人の死というものを目の当たりにしてきた、実に10年もの歳月がたってのことだった。

「ナフィル様」

ミュエルが遠慮がちにナフィルの服の袖を引いた。

険しい顔のまま、その八つ当たりの幾ばくかを振り向けんとする勢いで睨み付ける。

と、沈みがちの苦笑いを見せて、目配せでエイブスの隣を示す。

そこには、ナフィルが敢えて追い立てなくても、悲痛なほど意気消沈をしたアスリンがうなだれていた。

アスリンはアスリンで、この一件で徹底的に打ちのめされていた。

そこには、見栄や空元気さえ見せる余裕も無く、自己の存在すら否定しかねないほど落胆したただの女の子が居た。

それを見た時、ナフィルは怒りの矛先を失って、ふーっと息を吐いた。

「気が済んだ?」

と、他人事のように言ったユーリを、ナフィルは睨み付けた。

「一体、」

「まあまあ」

言い掛ける言葉を遮って、ユーリは含みの無い微笑みをして、空を見上げた。

「初めに言ってあったわよ? 別に今更言い訳しても意味無いでしょう。ここは、そもそも人間が来るところじゃなかったし、何が起こるかわからない危険なところだってね」

その言い分に納得しかねる。

それを承知で王都に入れていた、ユーリの思惑に不快感と苛立ちが募っていた。

私といい彼らといい、ユーリは試しているのか?

あるいは、何かが起きるのを期待している?

そう思うと、ユーリが彼らを戦うよう仕向けたことの理由に納得がいく。

いや、落ち着いて考えれば、当初からユーリはそう言っていた気がする。

・・・あれは警告ではなかったのだ。

ユーリは王都の管理人である前に、魔術師なのだ。

同じ魔術師と言っても、理念や原理、根源といったものは異なる。

同じ生物だからと言って、海に棲む魚と空を飛ぶ鳥が同じでないように。

ユーリを理解することは無理だろう。

嫌いだからといって、ユーリと戦うという選択肢も無い。

一刻も早く、ここから出よう。

ナフィルは、そう結論付けて、気持ちを切り替えようとした。

しかし、明日までは出られない。

こうなってくると、あの期限も本当なのか疑わしくなってくる。

「敵わないわね、全く」

単純に憎悪だけではない感情を含め、ナフィルは苦々しげに呟いた。

 

遅い昼食も、ほとんど会話も無く、また朝以上に進みが悪かった。

アスリンのほとんど手の付けられていない食事を見て、ミュエルは一旦は勧めようかとも思ったが止めた。

考え込む、と言った状態ではなかった。

茫然自失といった態で、今は何を言っても無駄だと察したのだ。

昼食後は、各々自室に引き上げた。

さすがに肉体的にも精神的にも疲労が大きく、夕食まで休むことになったのだ。

ミュエルが敢えて言わなくても、その心配する素振りが伝わったのか、ナフィルはミュエルに軽く頷いて見せてから、アスリンを自室へと連れて行った。

「あら、一緒に行かないの?」

ユーリがミュエルに声を掛けた。

「心配しているように見えましたでしょうか?」

感情を消した表向きの表情に戻して、ミュエルはユーリに微笑んだ。

「ふん、私に取り繕わなくても良いわよ。ナフィルの変化もそうだけど、ミュエルの変化も興味深いしね。あら、ミュエルの気まで悪くするつもりは無いからこれ以上は止めておくわ」

そう言って笑って、ふらりと食堂を出て行った。

心配するつもりも、不安になる必要も無かった。

ただ、ナフィルにとって大切な要素であるから、ここで失うことには慎重でなくてはならなかった。

失うことでの影響にも興味はあったが、今後もナフィルに影響を与え続けることの方がより大きかった。

ただそれだけだ。

表情を消して、ミュエルは開いたままの扉をしばらく見つめていた。

 

アスリンも小柄な方ではあるが、ナフィルは更に頭一つ分低いので、反応の鈍いアスリンを苦労してようやく部屋へと連れ込んだ。

とりあえずベッドに腰を掛けさせると、呪装を解いて放り出し、覗き込むようにして隣に座った。

「具合、悪いの?」

何度目になるか分からない問い掛け。

それに、アスリンは辛そうな表情をすると、顔を背けるようにして否定した。

「ごめん。えっと、全部私の責任よ」

そんなことを言ったところでどうしようもない。

だが、分かっていても言わずに居れない。

そこにどんな理由や動機があったにせよ、ナフィルには責任があった。

「分かったでしょう? 魔術師が何なのか。正しいこととか枠と言ったものが無いの。あなたが考えていることの全てが通用しないと思って良い。そんな世界なのよ」

自分で言っていて、なんて理解が出来ない話なのだと思う。

しかし、他に言いようが無い。

自分でさえ未だに驚かされるのだ。そして、自分が一番弱く、一番危険なのだ。

言って、ナフィルは自嘲した。

アスリンがナフィルの元に来た時、覚悟をしてきたと言った。

それを、ナフィルは軽く流した。

その覚悟は、アスリンの考え得る世界の覚悟だ。

裏返せば、自分が魔術師になった覚悟というものは、その程度のものだった。

「私は魔術師だから、もうこちらにしか居られない。でも、アスリンは戻れるわ。アスリンは今も生きている。良かった。アスリンに死なれなくて本当に」

固く握り締めたアスリンのこぶしに、ナフィルは優しく手を重ねた。

「私には、残念ながらユーリに対抗できる力が無い。だからもう少しだけ、私の言うことを聞いていて」

それは、切なる願いだった。

実は、逃げ出そうと思えば全く手段が無いわけでもない。

ナフィルは、首から下げた銀の鎖に付いている護符を大事そうに握り締めた。

この異界、結界下にある王都から出るには常道では叶わない。

しかしこの護符は、全く魔術の組成や理を無視して、強制的に転移させることが出来る。

これを製作した幻術師エルジク・レジーヌは、そうした手順や常識を超越した全てを幻惑する魔術師である。

ユーリの組み立てた術式は、原初の混沌に繋がるエルジクの望みを妨げることは出来ない。

しかし、脱出するには理由が要る。

理由とは、ユーリを納得させる、あるいは認めさせる理由である。

ユーリは基本的に協力をすると言っている。

敵対する、と言うことはナフィルが選べる理由ではない。

それは、ナフィルにとって自己の存在を否定することと同義だ。

だから、今、ここから逃げ出すと言うことは、ユーリにとってのナフィルが存在する意義を捨てさせることになり兼ねない。

自分が死ぬ、と言うことはまだ良い。

それにアスリンやエイブス、もちろんビジットやタウスも巻き込むことは出来ない。

ユーリは、そのことについてはナフィルの意思を認めていた。

ユーリの定める期限を守る。そして、ナフィルは自分の存在を認めなければならない。

「私、辛かった、んです」

アスリンのこぶしに力がこもる。

「私にはナフィル様の助けになる力が無い。そう思い知らされたんです。ナフィル様が言ってくれた私の居る理由は、ここには無かったんです」

ぽたぽたと、重ねるナフィルの手に、暖かい涙が落ちた。

ナフィルに、アスリンに掛ける言葉は無い。

魔術師にとって、人間を頼りとする理由はそもそも無かった。

それが分かったのなら、命があるうちに気が付けたのなら、それが幻であっても良い事だった。

ナフィルには無理だが、人間には夢だったと忘れられる。

「私に、下さい」

ナフィルは、郷愁にも似た寂しさを味わって、

「え?」

アスリンの言葉の意味を理解し逃した。

「私に、この世界に居られる理由を下さい」

ナフィルの表情が一変した。

「アスリン、それは、」

望んでも決して叶えられない。

いや、人は、それを叶えられない。

「嫌よっ! そんなこと許さない」

ナフィルは、護れなかったという後悔を、これまで何度も味わってきた。

しかし、それはまだ罪と呼ぶには、ナフィルにとって些細なことでしかなかった。

ナフィルは魔術師である。人では無い。

人は、人を殺せば罪になる。

では、人を生きながら死者へと変え、操った死体を引き連れて威圧し、愛する人の遺体を陵辱し冒涜したナフィルには、一体どれほどの罪があったのか。

かつては人であった。

そして、人に絶望し、人を蔑んだ。

魔術師となったナフィルは、しかし人を捨てたわけではなかった。

なら、いつ捨てたのだ? 捨てさせられたのか?

魔術師としては当たり前のようなことを、ナフィルには出来なかった。

この王都に来て、ナフィルは魔術師になるということがどういうことなのかを、改めて思い知らされた。

だが、それは与えられたもの。自分が認め、納得をしたもの。

自分が魔術師である自覚は無かった。

ナフィルの言う魔術師の自覚とは、自分が作り出した戒めであり、覚悟だった。

アスリンは、ナフィルに罪を犯すように求めた。

ナフィルが自ら人を捨て、魔術師としてアスリンに人としての存在を奪えと言っている。

それはこれまでで一番ナフィルを傷つける言葉だった。

そして、それを一番憂いていたのがアスリンだった。

自ら、それを承知で敢えて言ったのは、もはや綺麗事では済まされないところまで来てしまった危機感と恐怖からだった。

「ナフィル様。弱い人は持たざる人です。低いところは見えざるところです」

「それは、私もアスリンも一緒よ」

激しく、アスリンは頭を振る。

「自分で選び取らないから後悔するのではないですか?」

「それが過ちじゃないって、誰が証明してくれるの!」

アスリンが死を覚悟する。

ナフィルはそんなことを望んでいなかった。

そんなことのために身近に置いたわけではなかった。

本当に、人として、人の世に生きるナフィルの隣に居て欲しかった。

そう望んだエリンが、それを拒んで支援者となったように、アスリンはナフィルの従者となることを望んでいるのだろうか?

「どうしてそうやって死に急ぐの? エイブもそう! どうしてわざわざ死ぬかもしれない危険に関わろうとするの? 戦場では物足りないの? この幻想は、目が醒めれば夢でした、では済まないのよ?」

そう問われて、どうしてなのかはアスリンには分からない。ただ、

「別に死にたいわけじゃありません。ナフィル様は、死んで欲しくてこの王都に連れて来たのですか?」

と言われて、ナフィルは絶句した。

結局、皆自分の都合でものを言っていた。

ナフィルに説教をする資格は無かった。

「これからは、笑うことも出来なくなるわね」

それでも、最善の道を選ぼうと思う。

「そんなことはありません。知ってますか? 戦場でも、虚勢と冗談は許されるものなんです。敵を倒しながらもそれが許される。普通じゃ理解されないですよね」

不幸な未来が待っていようとも、それを望むのなら、その意思を尊重する。

いや、それを逃げ口上にしてはならないと、教わったはずだ。

曖昧のまま、生きていけるほど甘いものではない。

「明日、すぐにでもここを出ましょう」

「宜しいのですか?」

本当は自分が無理やりにでも連れ出したい気持ちを抑えて、アスリンが質した。

「別に逃げ出すんじゃないわよ? あれよ、まだ準備が出来ていなかったのよ。ご飯を食べるのだって、調理もせず、野菜の皮も剥かずに食べられやしないでしょ!」

だが、ナフィルは少し勘違いしたようで、むきになって言い訳しだした。

「・・・ふふ、そうですね」

アスリンはようやく顔を綻ばせて、賛意を示した。

 

「どういうことだ?」

たった今分かれて、宛がわれている自室に入ると、そこにユーリが待ち受けていた。

しかし、そこに立つユーリは、冷徹な表情で口元にだけ微笑みを湛え、これまでの雰囲気を一変させていた。

それは、当初感じた疑いに満ちた自称魔術師ではなく、度々覗かせていた人に在らざるものの姿だった。

気丈に振舞ってはみせるが、ビジットは生唾を飲み込んで、その存在の一挙手一投足を注視した。

「少しばかり誤解を解いておきましょう。ナフィルにとって必要なものであれば、それがどれだけ些細なものであっても、多ければそれに越したことはない」

「・・・言っている意味が分からんな」

しかし、そんなビジットの尊大な態度に気分を害する様子も無く、

「ナフィルには足りないものがある。でも、それを身に付けては意味が無い。効果的に補えれば良いだけのこと」

とユーリも意に反さない。

目の前に居ながらビジットを無視した言い様に、意図を計りかねて益々渋い顔となる。

「私に、ナフィル導師の手助けをしろと言うのか?」

おかしな話だ。

そう思うなら、そうすれば良いだけのこと。

どうしてナフィルよりも力のあるはずのこの魔女が、そんな回りくどいことをするのか。

表情には出さなかったが、ビジットは背中に冷や汗をかいていた。

魔法というものがどういうものなのか、未だに良く分からない。

しかし、魔法王国と言うものが実在し、魔術師が魔法によって神秘や奇跡を実現させていたと言うのは本当のことらしかった。

そうした話には、人間が様々に利用され、殺されたという話は多かった。

この目の前に居る魔女はそれを行えるのだ。

そして、ビジットの意思など無視をして、ナフィルの手伝いをさせることなど造作も無いことであるはずである。

わざわざ、それを承知するかどうかすら分からないのに、何を話して聞かせる気なのだろうか?

「魔術師はね、もうこの世界に干渉する力は無いの。いえ、国を奪うとか、人間を支配するとか言うことよ? 人間に関わらないという意味ではないわ」

自分に向けてではない、まるで独り言のようにそう言って、ユーリは禍々しいほどの美しい笑みを浮かべていた。

「魔術師が秩序とは無縁だと思っていたのでしょ?」

それは恐らく、多くの人間がそう思っている。

お伽話の魔術師に、国とか法があっただろうか?

「じゃ、どうして魔法王国なんてあると思う?」

生物が集団で生活をするには、正しいかどうかはともかくとして、秩序が要る。

しかし、それと魔術師が重ならない。

魔法によって神秘や奇跡を実現するということに、決まりが必要であったろうか。

人を殺すのに、罪悪感や罪が問われるなんて言うことがあったろうか。

「好き勝手をしたら、この世界なんてとっくに無くなっていたでしょうね。でもそれは神の意思には沿わないもの。この世界の理に、魔術師による破滅はない」

ユーリは右手で髪の一房を手に取ると、それを弄び始めた。

「そうは言っても、魔術師も納得はしないわよね。でも、それを許したら世界は滅ぶ」

そう言って、ユーリはビジットの顔を値踏みするように見て、にやりと笑った。

ビジットは試されているのだと思った。

自分に利用価値があるのかどうか。自分がこの魔女の見立てに合うだけの才覚があるのかどうか。

「魔法王国が、魔術師を律して世界への被害を防いできた、と言うことか?」

それは、官吏であるビジットには理に適っていた。

しかし、それは、空を自由に飛ぶ鳥を、かごの中に閉じ込めるようなことだ。

ビジットはその必要性を認めつつも、

「魔術と言うのは法の下で制約を課せられていた、と言うことか? それで、魔術師と言えるのか?」

そこに偉大な魔術師という姿は想像できなかった。

ビジットの答えに、ユーリは少し不満そうな様子を見せたが、髪を払うと不敵な笑みを見せた。

「魔術と言うのは、神々の起こした奇跡、神秘の技を再現する術よ。そこには、何より本人の資質と想念が必要なの。それを制限すると言うことは、その可能性や能力を妨げる」

自信を満面に湛えている。自分の考えを正当化している表情だ。

「違うわ」

だが、ユーリはビジットの考えを否定してそう明快に言い切った。表情は変わらなかった。

「自由であることは無限の可能性があるように感じるかもしれないけど、実はそんなこと無い」

ビジットは総毛だった。

この場から逃げ出したい、という不安と恐怖を感じた。

しかし、そうする必要は無かった。体は身動ぎすら出来なくなっていた。

「無秩序に動き回る可能性は、それほど意外ではないの。意外性の無い魔術師が神秘に近付く事なんてありえない。じゃ、どうしたら良いのかしら?」

ユーリの目に、狂気に似たものをビジットは見た。

「それは、かき混ぜるか、追い詰めるしかないわ」

だが、ユーリは穏やかそうな笑みすら消し、ビジットは処刑される覚悟さえした。

「魔法王国は、一定方向に動く秩序なのよ。決められた秩序、決められた方向で意外性が生まれるかって? 枠を決められれば、方向が決められれば、必ずそれから外れてしまうものがある。分かりやすいでしょう? 魔法王国は、秩序を持ってそれに縛られない自由を得るのよ」

とても優雅な笑い方。

それは、ユーリの高貴ささえ持つ美しい姿には似合っていたのかもしれない。

しかし、この場にはとても似つかわしくない笑い方だった。

「あなたは」

ユーリは決められたかのように笑いを収めると、ビジットを見つめた。

まただ、この、頭の中を見通すような瞳。

「どうして自分を捨てて助けなかったの?」

質問の意味が分からない。

「自分の身内を護るため、自分の信念を捨てた。でも、それはあなたの秩序、だったんでしょう?」

何のことだ、とビジットは言った・・・つもりだった。

しかし、言葉は声にはならなかった。

ユーリが軽蔑をしたように、目を細めて冷たい表情をした。

死神という奴が、命を刈り取る刃を首筋に当てたような鋭利な感覚。

「・・・あなたの妻は、罪科を持つ追放された元貴族。上の子は、どこの下層市民とも知れぬ男を父に持つ血の繋がらぬ子。下の子があなたの子」

ユーリの言葉に、それまで感じていた雰囲気は一掃され、ビジットは怒りで頭の中を熱くさせた。

「どうして知っている!」

気圧されていたはずのビジットは、怒気鋭く大声を発した。

その質問を、ビジットは無駄なものだと分かっていた。

相手は魔術師だ。知っていても不思議ではないのかもしれない。

だが、そう言わずには居れなかった。

ユーリは全く意に介した様子も無く、更に表情を冷たくする。

「あなたは、秩序の重きを知っていたはず。でも、自分の大事なものを護るためなら、それすら裏切らなければならないと知った。あの子供たちを見殺しにして分かったのではないの? 護れないものがある。護れない時がある。秩序とはそんなものよ。あなたが絶望したものなんて、取るに足らないもの。なのに、それを無視してあなたは何をしてるの?」

激しい怒りを感じていた。

・・・はずなのに、何も言い返せない。

あの時、子供たちを見捨てる気は無かった。

「書記官、敵はすぐそこまで来ているのだ! 一刻の猶予もならない」

傭兵隊の隊長は、苛立ちを隠そうともせず、不毛とも思える形ばかりの説得を試みていた。

一方で、ビジットの意見など考慮しようともせず、既に撤退を決めていた。

「あの子供たちは見捨てられん。連れて行かなければ、ここに置いておけば殺されてしまう」

自分の考えで、村に残されていた孤児らを連れてきたのはビジットだ。

しかし、そのことで子供たちは殺されてしまうことになる。

それだけは避けなければならない。

時間稼ぎのため、迎え撃つことを主張する。

隊長は鼻を鳴らしてその意見を一蹴した。

「戦うことは私の仕事だ。敵はこちらの十倍。そして、ここは死守すべき重要な場所ではない。加えて、あなたを無事に連れ帰らなければならないのだ書記官!」

凶悪な表情を、見せ掛けの礼儀では隠し切れなかった。

隊長は吐き捨てるように、

「書記官をお連れして先に下がれ。ここを放棄する」

と副官に告げ、急ごしらえの物見台から降りていく。

その背を追おうとして、副官に腕を掴まれた。

「おい、放さんか」

「命令なんですよ、書記官」

副官はそう言って、ビジットを殴りつけた。

倒れたところを、兵士二人に押さえつけられる。

そこに、副官の蹴りが飛んだ。

痛みで意識を失いかける。

「手間を掛けさせるなよ。・・・今のうちに連れて行け。暴れるようなら、殺しても構わん。後で何とでも言い訳は出来る。それと、あのガキどもを始末しておけ」

それを、どこか遠くに聞きながら、ビジットの意識は切れた。

どうしようもなかった。

しかし、そうした責任は自分にあった。

自分の妻や子供たちを護るためだった。

そして、同じような悲しく、そして辛い目にあっている子供たちも助けたかった。

でも、自分たちを助けるのが精一杯だった。

権力だ。自分たちだけでなく、そうした子供たちを助けるには権力が要る。

「それはね、ナフィルも同じ。魔術師として力及ばず、見殺しにしてきたのよ」

そこに見たのは侮蔑の表情だった。

この魔女は決してそんな経験をしない。

敢えてそんな苦労や犠牲を必要としないのだ。

「私はあなたに何かしてもらおうとは思わない。何も期待しない」

そう言って、ビジットの横をすり抜け、部屋から出て行こうとする。

なら、どうしてそんな話をしたのだ?

疑問と、虚脱感で、ビジットは振り返ろうともせずそこに立ち尽くす。

ユーリはそのまま、何も言わずに部屋を出て行った。

 

-2ページ-

観光2日目の夜「夢見の塔」

 

ここは、塔の中だったはずだ。

「ま、お座りなさいな」

岩山の山頂には全周が見渡せる石造りのゲストハウスがあって、ナフィルは塔の部屋に通されるなりそこへと飛ばされてきた。

勧められるまま、落ち着かない様子で応接用のソファーに腰を下ろした。

周囲は広大な樹海が広がり、麓には巨大な滝が瀑布となって激しい音を響かせている。

塔の中が丸ごと違う世界にでもなってしまったようだ。

「ここは世界が違うのよ。あの塔と直結した異世界。と言っても、夢見の塔の名の由来とは関係が無いけど」

ナフィルの想像を見越してか、ユーリが説明をする。

「ここは、未来と新たなものを観るところ。この世界は、元の世界から派生した一つの具現化した可能性・・・だったところよ」

「未来?」

そう聞いて、周りの風景を見渡す。

見たところでは、自分の世界と変わりないように見える。

「そうよ。自分のすることがどうなるか、それが分かるなら無駄な時間や犠牲を生むことは無いでしょ?」

であるなら、ここは、その結果ということなのか?

しかし、聞こえるのは獣のうなり声のような滝の音と、時折感じる風が切る音で、生き物がいる気配はまるで無かった。

「これと対になるのが、昨日居た星見の塔。星見の塔は、過去と古きものを観るところ。全てを生み出し、全てを無に帰す失われた星の海。この王都は、それを繋ぐ現実にあって、全てを移ろわせるところ」

ユーリの視線が、ナフィルからナフィルの背後に移る。

「ナフィル様」

いつの間にかミュエルが傍に来て、申し訳なさそうに声を掛けた。

「あの、タウスという人間なのですが・・・」

「何かあったの?」

ミュエルが口を開きかけて言いよどんだ。

言い辛そうな様子に、ナフィルは嫌な予感がした。

「私から言いましょうか」

ユーリがさほども深刻な様子を見せず、

「あの人間、王都の魔力に飲まれたわ」

とミュエルとは対照的に簡潔に言った。

「まさか!?」

驚きと共に具体的な説明を求めてミュエルを見る。

「ナフィル様、この王都、幻想都市では、例え人間であっても、強い一つの望みがあれば叶えられてしまうことがあります。それは僅かな魔力干渉能力によって引き起こされますが、同様に、その魔力に強く影響されてしまうことがあるのです」

「・・・知ってるわよ」

ミュエルが敢えてそうした話をしたのは、確認の意味と、そして冷静になるための間を取る為だった。

「あの人間、以前この王都で命を落とした人間たちの魂による魔力干渉、つまり記憶の残滓によって、自己を崩壊させました」

「魂に傷を負った、ということね」

ミュエルが悲しげな表情で頷く。

それはタウスに対してではなく、ナフィルの心痛に対してのものだ。

「あの男の願いは、人間としては真っ当な部類のものよ。ミュエルの分身の影響を受けたのね。肉体的干渉と王都の魔力によって、あの男の思いに分身が重ねた結果よ。そもそも感情抑制は掛けていたけど、与えられたり求められれば、極めて限定されているけどそれはミュエルには違いないもの。擬似的に魔術師的な思考を得て、ミュエルの分身が支援者としての能力を発揮した。これも、王都ほどの魔力と作為的な記録があればこそ」

それは、記録に記憶が添加されたされたようなものだった。

「エルバイオに殺された人間たちの魂は全て王都に飲み込まれ、その記憶は記録として残された。元は人間の魂が、生きている人間に強く影響することはよくあるわ」

「そんな・・・」

別にどこか気に入っていたわけではない。

が、全員を無事に連れ帰ることが出来なくなったことは、ナフィルには耐え難い仕打ちだった。

「別にあの人間だけではないわ」

ユーリが突き放すような物言いで言う。

「この王都に、魔術師ではないただの人間が無事で居られることの方が特殊なのよ。それは、ある意味ナフィルによって耐性が付いていた、とも言えるけど、干渉や認識に対する能力を高めてしまったとも言えるわ」

そう言ってから、ユーリは少しだけ表情を険しくして、

「ねぇナフィル、もしあの人間を助けたかったなら、それはあの人間に関わらないようにしなくてはいけなかったのよ。でも、そんなこと可能なの? 混沌の渦から生まれ出た私たちは、決して抗うことの出来ない時間の流れの中にいる。きっかけがどこかにあったとしても、その全てを監視し、操作することは神であっても叶わない。この世界に二つある絶対の理とは、時間を留めることが出来ないことよ」

と訴えた。

それはナフィルを説得すると言うよりも、ユーリが持ちかけた相談の様であった。

ユーリと視線が交錯する。

「そして、この世界は緩慢に滅びに向かっている。それを加速させることの無いように、魔法王国は存在していた」

「世界が、滅びる?」

唐突さは否めない。

今まで、自分と自分の周囲の話だった。

しかし、それがいきなり世界の話となると、ナフィルの思考の範疇を超える。

「どうして滅びるの!? それはいつ?」

ユーリは首を軽く横へと振る。

「魔術師であれば皆知っていることよ。まだ、遥か先のこと。もっとも、気付いた時にはもう遅いけどね」

いきなり殴られたような衝撃を受けた。

この時、ナフィルは自分が魔術師であることを忘れていた。

「防げないの!?」

「防げないわね」

あっさりと、ユーリは言い切る。

その当然の言いように、薄ら笑いさえ浮かべている表情に、ナフィルの言葉に力がこもった。

「どうしてよ? 魔術師でも防げないの?」

自分をすっかり忘れたナフィルの言い様に、ユーリは見下すように頬を吊り上げて微笑んだ。

「面白いことを言うわね。神々が作り出したこの世界を、神でもないナフィルはどう助けると言うの? 魔術師が集まったところでどうしようもないでしょう? 元々、この世界は滅びるように創られた。この世界の理は死と再生。でもね、限りある魔力よ? 再生するごとに失われていけば、いずれは無くなってしまう。それが世界の終わり」

その説明が分かりやすかったとしても、全く頭には入らなかっただろう。

「そんなことって・・・」

タウスのことは、自分の至らなさもあった。

しかし、世界となると、どうして良いのか分からなくなる。

自分のせいではないが、この世界を救う術も無い。

呆然とするナフィルに、ユーリは小さなため息をついた。

「ナフィルは魔術師なのよ。元はこの世界の人間だったのだから拘るな、と言っても無理でしょうけど、今はもうこの世界にだけ拘る必要は無いわ」

そうは言っても、それをすぐ割り切れはしないだろう。

この世界がいつ終わるのか、どう終わるのかは、ユーリでさえ洞察し得ない。

ただ滅んで無に帰すのか、全てが混沌の渦へと回帰するのか、何がしかの新たな世界を再生するのか・・・。

「まぁ、どうしようもないことにいつまで構っていても仕方ないわ。さて、本題よ。魔術師がこの世界から退去したのは、この世界に終わりがあるから。でも、この終わる世界に興味がある、あるいは、この世界に干渉しようとする魔術師はまだ居る。この世界に居る魔術師は、ナフィルを含めて41人。突然変異種は除いてね。この他に、ここ50年内にこの世界を出入りした魔術師が100人に達しない程度居る。こちらは何回も出入りしている魔術師が居るから、実数は30人程度だと思うけど」

ナフィルの表情を見て、ユーリはそこで話を区切った。

「理解しきれないかしら?」

そう、ミュエルに問う。

「もう少し時間をかけて言われたほうが宜しいようです。ナフィル様の常識、価値観や固定観念をそう簡単に書き換えられません」

ミュエルがナフィルの心を代弁した。

「・・・迂遠なことね。でも、一々衝撃を受けていたら魔術師とは言えないわよ。新しいものや覆すものも受け止められなければ」

と言ってから、両手を広げて大きく息を吐いた。

しばらく、沈黙が三人を支配した。

いや、完全な無音ではない。滝から聞こえる大量の水の落ち込む音が、部屋を満たしていた。

しかし、ナフィルの頭には届いていない。

ナフィルの頭の中は真っ白だった。

何がしかの答えが、もはや出てくることは無い。

王都を訪れて以降、ナフィルが搾り出された「答え」は多かった。

でも、その「答え」は、結局は全て同じなのだ。

そして、「答え」は出ていた。

その「答え」を果たすものが増えた。

それだけだ。

・・・それだけだ。

ナフィルの顔に冷静さが戻る。

その思考は、人に在らざるもの。人の認めならざるもの。

「あなたを、特別巡察官に任命するわ」

この、終始ナフィルの理解の範疇を超えるユーリの発言に、ナフィルは天災にでもあったかのように抗うことが出来ない。

「もっとも、私だけでそれを決める権限はないし、それを後押しする権威も既に無い。任期だって無い。でも、ナフィルだからこそ、この世界を任せられると思うの。この世界が滅ぶことは決まっていることだけど、魔術師による作為的な世界への干渉を監視し、妨げることを期待するくらい良いわよね?」

「・・・出来るわけないわ」

ナフィルは心からの思いを、ため息と共に吐いた。

「大体、どうして私なの?」

「言ったでしょ? 人間だったナフィルだからこそ適任だって」

本気なのだろうか? 未だにユーリの心理が読めない。

「実際には言うほど大した役割があるわけではない。ナフィルが活動しやすいかな、と思っただけよ。この世界の変革を望んでいない魔術師もいるし、神々の干渉もあるしね」

含み笑いをする。ユーリはまだ何かを隠している。そんな素振りを見せびらかしている。

「私に、何の得があるの?」

ナフィルは探りのつもりで聞いた。

「神樹の若芽をあげたでしょ?」

ナフィルが思い当たるのは、ミュエル以外に無かった。

「それと、ナフィルにとってはこちらの方こそ必要だと思うけど、白き魔女を追う口実が出来たわけよ。魔術師の邪魔をするには大義名分が無ければね」

そう言って楽しそうに笑う。

「彼女は今、どこに居るの・・・」

「自分の世界よ。ナフィルも知っている、ね」

興味なさそうな物言い。

それ以上聞くことはなかった。

ルミナスがどこで何をしているか知っていた。

それは自分の作り出した夢。リシュエスの意思を無視して、自分の望みを成し遂げた幻想(ばしょ)。

ユーリは全て知っていて、敢えてナフィルをけしかけているのか?

「世界の記録という知識、ミュエルという魔力、巡察官という立場、ナフィルがこの王都に来て得たものよ」

もっと嬉しそうにしなさいな。自慢して良いのよ?

ユーリはそんな意味合いを込めて、ナフィル以上に楽しそうな笑みを浮かべている。

ナフィルは、それがからかっているのではなく、本当に自分事のように楽しんでいるのだと、ようやく気付いた。

それだけに始末が悪かったのだ。何しろ本気だったのだから。

全てを認められず、否定され、真実を突きつけられた王都。

・・・これで、全て終わったのだろうか?

説明
かつての魔法王国期の王都を訪れる魔術師のお話。
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