OUT
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 包丁を突き出したのは自己防衛だった。

 ただ、刺したのは偶然だった。

 信じられないほどあっけなかった。

 俺を殺そうとした父さんは、俺の刺した包丁で、アゴの下から脳みそまで貫かれている。

 引き抜くと、思ったほどには出血しない。

 よく分からない感情が、爆発したように沸きあがってきた。

 そして全てが、心の隙間から出ていった。

 無感情。他人には、よくそう言われる。

 部屋を見渡した。

 首を締められた母さんが死んでいた。

 父さんはロクなやつじゃなかったけれど、俺を殴ることなんてしょっちゅうだったけど、母さんの首を絞めたことだけは許せなかった。父のやったことに、これほどまで怒ったのは初めてだった。

 もう一度部屋を見渡した。

 生きているのは俺だけで、死んでいるのは両親で。

 これから、どうしよう。

 どうにも出来ないのは分かっている。

 でも。

 どうしようもなく怖かった。

 罪には裁きを。これが法律だ。

 母さんを殺した父さんに、裁きを下したのは俺。父さんを殺した俺に、裁きを下すのは誰だ?

 犯した罪の重さに、息が詰まる。

 冷静でもなお、心の中に恐怖がある。

 この手は人を殺した。

 この手は裁かれるだろう。

 俺は父さんを殺した。

 だから裁かれるだろう。

 ……どうしてこんなことになった?

 …………わかんねーよ。なんにも。

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     ―― OUT ――

 

 

    0  『キリヤ』

 

 ケータイの着メロは『トロイメライ』にしている。シューマンが作曲したクラシックの楽曲だ。その旋律が鳴り出したのは、午後五時のことだった。

『俺だよキリちゃん、俺』

 電話の主は、同い年のマサヤである。

『お願いだからさ、すぐ来てくれよ』

 なにかに怖がっているような声。マサヤの様子が、いつもとは違うと感じた。

「どこ? すぐ行くよ」

 場所だけ聞いて、自転車で会いに行くことにした。

 後になって思えば、全ては遅すぎたのだ。自転車を漕いでいた僕は、それを知らずにいた。

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    1  『二つの死体』

 

 夏休みが明けて一週間。今日は火曜日で、時刻はもう夜に近い。暖かだった街中に湿った風が吹き抜けて、まだ暑さの残る空気で汗がにじむ。

 僕は日の暮れかかった住宅地で自転車を漕いでいた。まとわりつく風がうっとうしく、にじんでくる汗を半袖の袖で何度も拭う。汗でじっとり湿った薄手のシャツが、いっそう肌に気持ち悪く感じられる。

 今は友達のマサヤが住む駅前のマンションへ向かう途中だ。去年に買ってもらった自転車は、たった一年の間にもう汚れている。車輪のサビが悲鳴を上げるたびスピードが落ちるので、ペダルを踏み込み、再びスピードを上げていく。

 山際を見ればぼんやりとしたオレンジ色が残っていた。しかし夕暮れの町は薄暗い。新興住宅地の大通りは静かなもので、ときおりカラスの鳴き声がするばかりだ。

 小さな交差点を曲がり、線路沿いの道を行けば目的地のマンションが見えてくる。十階建ての大きなマンションで、その一階は駐車場になっている。周囲には植え込みがあり、秋には花咲くであろう草が生えている。

 マンションの駐輪場に自転車を止めて、自動ドアを抜ける。内側は空調が効いているため外よりも涼しい。頭上では受付代わりの防犯カメラが僕を静かに見つめていた。

 わりと小さなエレベーターを呼んで、エレベーターへ乗り込む。七階のボタンを押してから扉を閉じると室内にはモーター音だけが響く。閉鎖された空間に漂っている空気からは消臭剤とタバコの煙を混ぜたような臭いがする。マンションのエレベーター内でタバコを吸うような人の人格を疑いたくなるが、僕はタバコを吸っている人物に心当たりがあるために憂鬱な気持ちになる。マサヤから聞いた話によれば、その相手はマサヤの父親だったはずだから。

 上昇するエレーベーターの中で、懐のケータイが鳴った。トロイメライの旋律が響く。相手はマサヤではなく知らない番号からだ。数字からすると家庭用の固定電話で、市外局番はこの地域のもの。

相手の名前が表示されないので、すぐに知らない番号からの電話だと判断できる。電話には出ないまま放置した。知らない番号には出ない主義なのだ。それでもケータイは鳴り続ける。エレベーターが七階に着いても、まだ鳴り続けていた。

「なんだよ、長すぎるだろ」

 思わず毒づきながら、相手は間違いに気づかないまま鳴らしているのかと思い、それを伝えようと通話ボタンを押した。

『キリちゃん?』

 スピーカーからはマサヤの声。マサヤが自宅からかけてきているらしい。それでも電話口の音声では本当にマサヤなのか自信がなかったので聞き返す。

「マサヤ?」

『うん。なかなか出てくれないから、困ってた』

 苦笑めいた息遣いの混じる声だった。いつもあっけらかんとしたところのあるマサヤにしては、どこか様子がおかしい。

『キリちゃん、早く来てよ。鍵開いてるから早く』

 急かす声に導かれ部屋へと急いだ。エレベーターを出るときにカバンが扉に引っかかったが、力ずくで手元に寄せる。そのまま鞄を抱えながら、マンションの廊下を走っていく。

 軽く息切れをしながら七号室に着いた。ノックしてから軽いドアを開けば玄関からリビングにかけて見通せる。けれど部屋の中は静かで、そして奇妙な違和感がある。

「マサヤ、来たぞ?」

 人の気配が感じられない。

「なあ、マサヤ?」

 物音がして、だれか居るのだと分かった。僕を呼び出したマサヤが、奥の部屋にいるはずだ。おじゃましますと言い、靴を脱いで部屋に入る。どこからともなく、変な甘ったるいような、錆びのような臭いが鼻をついた。

 リビングへ踏み入った瞬間に肌が総毛立つ。

 異臭。気分が悪くなる、酔うような、猛烈な異臭。唇の隙間から浅い呼吸をする。まとわりつく室内の風はどろりと濁り息苦しい。

 膝が震えてその場に座り込みたくなる。どす黒く変色した塊が、血だらけで転がっていた。ああ……転がるという言い方は正しくないかもしれない、死んだ人は起き上がらないのだから、転がっているのではなく『そこにある』と説明すべきかもしれない。虚空に見開かれた眼。だらしなく開いた口。力なく横たわる肢体。死体。

 見覚えのある顔つきですぐ気付く。一人(一つ?)はマサヤの母親だった。もう一人は体格的に男だが、顔が血でぐちゃぐちゃで誰かは分からない人間は顔が見えないだけでこんなにも判別できないのか。でも、マサヤの家ならすぐ思い浮かぶ人が一人残っている……。つまりこの人達は、マサヤにとって、たった二人の肉親だった人たちじゃないのか。

 気が付けば身体が壁にもたれかかっていた。後ずさったからだ。無意識に逃げようとしていた。吐き気が込み上げてきて、それは胸の奥で引っかかる。

 息が詰まった。震えが止まらない。怖かった。逃げたかった。足がもつれなかったらきっと逃げ出しているだろう。陽も落ちていないのに凍えそうな寒さに包まれているようだ。

「キリちゃん」

 声にハッとして目を向ける。マサヤは部屋の隅で座りもせずこちらを見ていたのだ。その汚れた手に握っている物は、手よりも黒く汚れていた。

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     2  『日常、混乱、恐怖』

 

 終業のベルが鳴り、学校に放課後が訪れる。

 どこのクラスでも騒がしくなる時間だが僕のいる二年C組も例外ではない。けれど僕は、ざわめくクラスメイトたちを背に、教室から出ようとしていた。

「キリヤくん、もう帰るの?」

 まだカバンの中を漁っているサヤカが、僕を呼び止めた。女子とは縁の薄い僕だが、最近はサヤカとよく喋っている。夏休みに一緒に海へ行ったわりには親密さが足りないかもしれないけれど。

「ごめん。今日はする事あって、先に帰るわ」

 言い訳するようにして言うと、居残りたいという願望を抑えて教室を出る。サヤカはそんな僕を「また明日ね」と笑顔で見送った。

 

 ――夕暮れの中、近所の銀行へ向かう。水曜日なので銀行は開いている。

 急ぎ足で向かうのはキャッシュコーナーだ。ガラスで仕切られた個室に入り、残っていた貯金を下ろした。銀行の帰りには、コンビニで食品を漁る。レジでお金を払っていると、誰かの笑いあう声が聞こえた。

 脳裏にサヤカの笑顔が浮ぶ。去り際の、また明日ね、という言葉が胸に痛い。もしかすると明日は無いかも知れないのだ。

 僕は、触れてはいけない秘密をこの手に持ってしまった。

 

 話は昨日にさかのぼる。死体の放置された室内で、僕はマサヤを見た。その右手には、血に濡れた包丁があったのである。右袖のドス黒い赤が目立っていた。チェック柄の長袖だからか、そこだけは際立って見えたのだ。

 壁を背に座っていた僕は、つま先を引き寄せた。膝を曲げて、少しでも遠ざかろうとした。マサヤは、僕に近寄ってくる。その眼は冷たい。握られた包丁の血は、半渇きの絵の具みたいになっていて、下手な絵のようだった。

「匿ってくれるだけでいいから、助けてくれよ。キリちゃん」

 あの時マサヤは、他人事のように言った。その表情が脳裏に焼き付いて今も離れない。

 

 昨日のことを思い出していたら、家へ着いていた。

 ドアの鍵を開け、十五年も親しんだ玄関で靴を脱ぐ。リビングのテーブルに、スーパーの袋を置いた。鞄は玄関に置く。よく見ると、鞄のキーホルダーが外れていた。どこかで引っ掛けたのだろうか。

「お帰り」

 マサヤが僕に言う。声は、隣の空き部屋からだ。向こうとは、たった一枚の戸でさえぎられている。向こうの押入れには、昨日から『マサヤ』が隠れていた。声が聞こえるので、今は押入れから出ているようだ。

 戸が開き、僕の服を着たマサヤが顔を出した。

「それ、食いもん?」

 のん気な声で、昨日のことなど忘れたような態度である。僕は頭が痛くなってきた。こうして見る限り、マサヤから罪悪感というものは感じられないのである。僕には――そう、マサヤが――まったく理解できなかった。僕は死んだ人を思うたび、吐き気に見舞われる。それどころか、もう何度となく吐いた。

 九時ごろになって、僕の両親が帰宅した。家族で遅い夕食を食べたあとは、他愛の無い話をする。学校のことが中心で、どんな授業が難しかったとか、そんな話だ。隣の部屋の住人は、誰にも知られてはならない。話の中で、僕はごく自然に言う。

「向こうの部屋、掃除するときは僕がするよ」

 無論マサヤは、向こうの部屋で息を潜めていた。

 

 昼休みのチャイムが鳴り、ノートに向かっていた僕は顔を上げる。

 もう、あの日から二日が過ぎていた。テレビのニュースを見るたび、僕は内心恐怖する。アレは殺人事件だ。発覚すれば、必ずニュースで放送されるだろう。今朝もまだニュースにはなっていなかった。死体は暗い部屋の中で腐り続けているはずだ――あぁ思い出すたび吐き気がぶり返す。僕は、どうしたらいいんだ。

 弁当を出そうとしていると、サヤカがやってきた。

「ねぇ、一緒に食べる?」

 水色の弁当箱を片手に、隣の席へサヤカが座る。

「そこ、吉村の席だよ」

「いいじゃない。減らないんだから」

 そりゃ、机やイスは減らないだろう。僕は何とも言えずに、サヤカと弁当を食べる。教室のざわめきを聞きながら、昨日のテレビ番組について話した――とはいっても、昨日は吐き気が収まらずトイレにこもっていたので、テレビを見ていない。サヤカの話に、僕が相槌を打つだけだ。弁当も減り、そろそろ食べ終わるころになって、サヤカが話題を変えた。

「キリヤって昨日さぁ、ウチのマンションに来てた?」

「――は? サヤカのマンションって?」

 サヤカがマンションに住んでいるのは知っている。けれど、まだ行ったことはない。

「昨日に来てたじゃないの?」

 昨日……? 昨日は学校帰りに、銀行とコンビニに行った。それ以外には、どこへも行ってない。

「ねぇ、ちょっと。いきなり黙らないでよ」

「いや、ちょっと分からなくて。それで、どうしたの?」

「これがエレベーターに落ちてたから」

 サヤカがポケットから取り出したのは、僕が無くしたはずのキーホルダーだった。確かにエレベーターで、鞄を引っ掛けたような――。

「キリヤが、いつもつけてるやつだよね。探してるかなぁって思って、拾っといたの。はいっ、大事にしなさいよね」

 受け取ったキーホルダーは、以前に友達と買ったものだ。猫とネズミが、楽しそうに肩を組んでいる。もう随分と古いのだが、珍しい形をしていることもあり、なんとなく鞄につけていた。そして、あの日に外れたのだろう。

 ん、あの日?

「僕がマンションに行ったのは、一昨日だよ」

 言ってから後悔する。あのマンションへ行ったことは、出来る限り隠すべきだった。

「へぇ。じゃぁまたマサヤ君と遊んでたんだ?」

 チャイムが鳴って昼休みが終わる。サヤカが急ぎ足で、自分の席へ戻っていった。

 僕は僕の中で、恐怖が膨らんでいくのを感じていた。

 

 学校の帰り道に、近くのコンビニへ寄った。今日も食品売り場で、いくつかのパンを買おうとする。レジには数人の客が列を作っていた。

 カゴを下げたままレジへ行こうとして、僕は唐突に怖くなる。

 ――顔を人に見られるのって、ヤバイんじゃないか?

 なにしろ、殺人犯を家に匿っているんだ。何を考えていたんだよ僕は。人前に出れば出るほど、リスクを高めていくだけじゃないか。

 カゴに入れていた商品を、急いで棚に戻していく。何も買わず、足早に店を出た。

 ――まるで逃げるように。

 

 家のドアに手をかけながら、深く息をする。

 頭が痛い。頭痛がする。吐き気もする。やたらと息苦しい。

 僕は、どうしてしまったのだろう。ドアノブを捻ると、手ごたえ無く回る。ただいまも言わず、リビングのソファへ倒れこんだ。

 この三日間、僕はマサヤを匿っている。

 始めは状況が理解できないまま、マサヤに「助けて」と言われたから匿っていただけだ。死体のある部屋に、包丁を手にしたマサヤ。あれは脅しと変わらない、僕は怖かったからマサヤを匿っただけだった。二日目も同じである。人殺しであるマサヤが怖くて何も言えなかっただけだ。罪悪感もあったが、やはりマサヤへの恐怖に負けていたと思う。

 だが三日目である今日は、恐怖の対象が違っていた。僕は、マサヤを匿ったことで責められるのが怖かったのだ。自分の罪を暴かれるのが怖い。殺人者と知りながら匿ったことに後悔している。情けない自分への罵声、激しい自己嫌悪。ついには、体調にまで異常をきたすようになった。

 ――ソファに拳を叩きつける。どうしようもなく苦しい。僕のちっぽけな悪心は、良心のかしゃくに耐えられないのだ。脳が麻痺し、心が停止した。ただ、苦しみだけがここにある。

 存分に苦しんだところで、ふと思い立った。マサヤはどうしているのだろう?

 部屋は静かだ。

 遠いところから、パトカーのサイレンが聞こえた。

 僕は眠る。とても、疲れていたから。

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     3  『見えざる手』

 

 ドアチャイムの音で目が覚めた。

 慌てて立ち上がり、玄関へ向かう途中に時計を見る。午後六時。あまり寝ていない。

 ニ度目のチャイムが鳴ったところでドアを開けた。

「西が丘警察の者ですが、お時間はよろしいでしょうか?」

 相手の声に息が止まる。見れば無精ひげを生やした三十過ぎの警官だった。

 僕はうなずき、いくつかの手短な質問に答えていく。

「近頃、この辺りで不信な人物を見かけたりしませんでしたか?」

 分からない。知りません。次々に出される質問に、淡々と答えていく。質問の合間には、事件があったことを説明された。そんなことがあったんですか、と驚いてみせる。さらにいくつかの質問を受け、いくつかのウソを重ねる。警官は「では、これで最後ですが」と前置きして最後の質問をした。

「マサヤくんとは仲が良いそうですが、最近変わったところなどはありませんでしたか?」

 どうだったろう。僕は分からないと答えた。悲しいけれど本音だった。

 礼を言って去っていく警官。僕はドアを閉めて、去っていく警官の後姿を視界から消した。

 目眩がする。

 もう、マサヤの事件は発覚している。心の準備は出来ているつもりだったが、やはり駄目だ。ふらつく足取りでリビングへ戻る。

「キリちゃん、警察が来てたんだろ。なに聞かれた?」

 いつの間にか僕の部屋にある物置から出ていたマサヤが質問してくる。

「大丈夫。それよりまだ物置から出るなよ」

 全然大丈夫じゃなかったけれど、とりあえずそう言った。後に一言付け加える。

「……自首する気はあるのか?」

 危険な一言だった。けれど言わずにいられなかった。

「――考えさせてくれよ」

 マサヤは険しい表情で返事をする。そして隠れ場所に戻っていく。……僕は立ち呆けていた。時計の秒針だけがゆっくりと動いている。

 両親が帰ってきたとき、時計の針は九時を指していた。一緒に食事をした後、僕は自室に引き篭もる。

 暗い部屋の中、明かりをつけずに窓を開いた。部屋よりも、外の方が明るい。月明かりが町を照らしていた。息を吸えば、夜の濃密な気配を感じられる。眠気など感じないままに、僕は空を見つめ続けていた。

 

 夜更かしをすると学校で眠い。眠くないときも、頭が冴えていない。脳の疲れとはかくあるものだと実感できる。

 僕は放課後になって、すぐに机へ突っ伏した。そして、気が付いたらみんないなくなっていた。起こしてくれる友達もいないのかと、自分が悲しくなる。

 一人で帰りの準備をしていると、廊下から足音が聞こえてきた。それが教室の前まで来て止まる。

「やっと起きたんだ」

 サヤカだった。もう四時半なのに、なぜいるのだろう。サヤカの手元を見れば、教室の鍵が握られている。

「ごめん。僕が鍵を――」

 サヤカに駆け寄る。鍵を受け取ろうと手を伸ばすが、サヤカは渡してくれない。

「そんな場合じゃないでしょ!」

 サヤカが泣いていた。

 サヤカは手近な席に座った。僕はその隣に座る。

 しばらくは時計が音を立てるだけで、どちらも無言だった。どう切り出そうか迷っているサヤカだったが、意を決して切り出してきた。サヤカが話を切り出したとき、座ってから何分か過ぎていた。

「職員室で、先生たちが騒いでたの」

 どういう経緯か分からないが、サヤカは職員室に居たらしい。

「私たちと同じ二年生の子が行方不明になってるって」

 心臓が脈打つ。全身が硬直し、激しい鼓動で弾けそうになる。直感的に『事件』が発覚したのだと思った。口の中がベトついていた。

「それで、まだ見つかってないのかい?」

 どうとても言い訳のできる言い方で、曖昧に聞く。きっと、下手な言い方をして感づかれるのが嫌だったのだ。だが実際には、曖昧に聞くほうが怪しということに気づいた。言い直そうかと思い、でも、それはサヤカに止められる。

「ねぇ。その二年生の子って、同じマンションのマサヤくんなのよ」

 僕は覚悟した。サヤカには、すでにバレているのだ。

「キリヤっ!」

 サヤカが身を乗り出してきた。僕は、返事をしない。

「ねぇ。あなた……だったのね」

 サヤカの視線に耐え切れず、目をそらした。なぜあの時、マンションへ行ったことを喋ったのだろう。昨日の自分を呪いたくなる。

「ウチのマンションで人が殺されたの。もちろん知ってるはずだけど、マサヤくんが行方不明になってて――」

 興奮しているためか、サヤカの説明は要領を得ない。話の内容を順序立てると、

『サヤカの住むマンションで殺人事件が起こった。事件の被害者一家の家族構成は、両親と息子一人の三人家族。両親は遺体で発見され、息子は行方不明。警察は息子の行方を捜査している』

 そして、サヤカは僕がマンションへ行ったことを知っているのだ。マサヤと僕は友人関係にあることも、もちろん知っているだろう。全ては終わった気がした。暗い闇が、僕の未来を消し去ったようだった。

 サヤカの瞳から、涙が零れ落ちた。

「キリヤがやったのね……!」

 一瞬、意味が理解できなかった。サヤカは、僕が殺人犯だと言いたいのか? 理解したら理解したで、意識が飛ぶかと思った。なんだそれ、僕は何もし……てはいるけど。

「ねえ、なにか言ってよ――!」

 あまりの混乱に声も出ない僕から目をそらし、サヤカは泣いた。サヤカは両手で目をこすり、かすかな嗚咽を漏らしながら溢れ出る涙を必死で隠そうとするものの、隠せるものではない。僕は戸惑ってしまう。よく分からない沈黙の途中、僕は何事か言おうとした、それは言い訳の言葉だったかもしれない。けれど、折り悪く通りがかった山田先生に声をかけられた。

「なんだ君たち。まだ教室に残ってるのか」

 僕は慌てて返事する。

「はい。すぐに帰ります」

 サヤカと共に慌てて教室を出た。出たのはよいが、どちらも喋ることはなかった。

 教室の鍵を返し、二人で校舎を後にする。グラウンドでは運動部が部活の練習をしていた。それを横目で見ながら、僕らは駅へと向かった。

 僕は電車通学をしている。サヤカもだ。どちらも無言のまま駅のホームで突っ立っていると、通過列車が通り過ぎて、僕らの髪をなびかせた。続いて、停車するために減速しながらやってくる列車が見えた。やがて目の前に来ると、黙ったまま乗り込んだ。空いていたので僕が席に座ると、サヤカは体一つ離れて座る。電車に揺られている間にも会話はなかった。

 僕のほうが降りる駅が近い。降りる駅に着いたので、サヤカを気にしながらも席を経った。

「ねぇ」

 サヤカは、注意していないと聞き取れないくらい小さな声で呟いた。

「どうしてなにも言ってくれないの?」

 その言葉は、胸に痛みを残していった。僕は駅のホームに降り、去っていく電車を見送った。改札を抜け、駅から出たとき、心の中で大きな過ちを犯したのだと感じていた。

 ――僕はなぜ、なにも言えなかったのだろう。

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     4  『思い出』

 

 午後の五時になると、陽も落ちかけて暗い。

 近所の公園で、ベンチに座ったまま一時間近く空を見ていた。家へ帰ることが苦痛だった。

 横に置いたカバンを開ける。中からは様々な学用品が出てくるが、その中から一冊のノートを取り出す。何の変哲もない大学ノートなのだが、僕が持っている理由については他の文具とはまったく違う理由がある。それは以前――昨年の夏――にマサキのマンションへ遊びに行ったときだった。そう。あの日は風が強かったのを覚えている――。

 ――僕が玄関からマサキを呼ぼうとしたとき、奥から怒鳴り声が飛んできた。僕に向けられた声ではなかったが、とても恐ろしかったのを覚えている。

「この馬鹿やろう! なんでも知った口を利くんじゃねぇ!」

 口汚い罵声、誰かが堅い物で殴られる音、倒れる音。

 僕はあまりにも突然なことに半ば呆然としながら、その場を逃げ出せずにいた。しばらく誰かが殴られているのが続いた。その後、およそあらゆるものが奥で飛び交い始めた。玄関の方へ飛んできた物だけでも、小物からぬいぐるみ、花瓶、果てはイスまで何でも飛んできた。僕はなんとか足を動かし、部屋から出ていく。マンションの外まで出たとき、上から、ガラスの破片が降ってきた。見上げてみれば、窓の割れているのはマサキの住んでいる部屋に違いなかった。早く遠くに行きたくて、歩こうとして、ガラス片を踏まないよう足元を見たときだった、足元に金魚が数匹跳ねていた。辺りに窓ガラスとは違ったガラス片があったところから、きっと窓を突き破ったのは金魚鉢か何かだったのだろう。少し離れたところに何の変哲もないノートが落ちていた。多分、風のせいで落ちる場所が逸れていったに違いないと思う。僕はしばらく立ち尽くしていたが、風に飛ばされそうになるノートを拾い上げた。当時の僕が何を考えていたのかは分からない。ただ、飛んでいきそうなノートを拾い上げたに過ぎない。僕はノートを渡しに行こうと思った。けれど、上の騒ぎを思い出してやめた。そして次の日に渡そうと思った。だが、翌日の学校をマサキが休んだために渡す機会を失い、ノートは、今も僕の手元にある。

 ――公園の時計は五時を指していた。まだ日は長いために、西の空に茜色の雲が広がり、そこへ、やけに大きな太陽が浮かんでいる。

 東の果てからは、秋の長い夜が迫り始めていた。

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     5  『迷路、相談』

 

 自転車で交差点を曲がると、線路沿いの道を精一杯走っていく。砂利を踏むタイヤがジャリジャリと鳴る。後ろから来た電車は、僕をすんなり追い越していった。向かっていたのは事件のあったマンションだ。駐輪場に自転車を止めると、花壇に咲いた花へは目もくれずエレベーターに乗って、目的の部屋の前へと辿り着いた。

 このマンションのドアは軽い。別に薄っぺらいわけじゃなく、構造がしっかりしているのですべりが良いのである。呼び鈴を鳴らしたあと、ドアを開けてくれたのはサヤカだった。

 僕はサヤカに相談するため、彼女の住むマンション――そしてあの部屋のあるマンション――を訪れていた。サヤカは僕が入ったあとに鍵をしていたので、なぜか聞いてみれば、両親が出かけているときは鍵を閉めているのだという。ならば僕はサヤカにとって安全か……というと、微妙だ。サヤカは僕のことを多少なりとも疑っている。人殺しではないかと疑っているのだ。なのに僕を部屋に入れ、自分から鍵を閉めるとはどういう考えがあるのだろうか。

 サヤカの一人部屋には、季節外れのコタツが置いてある。僕らはそこに座り、電源の入っていないコタツを間に対面した。

「で、いきなり来て話でもあるの?」

 冷たい言いようではあるが、サヤカの表情はそれほど厳しいものではない。どうやら僕が来た理由というものを予想済みらしい。

「そうなんだ。聞いて欲しいことがあるんだ」

 僕なりに考えたこと――といっても大したことではない――が、それについて意見が欲しいのである。サヤカはしばらく思案していたが、やがて、僕の目を見返しながらうなずいた。

 まず始めに、僕はこれまでの経緯をあらかた話した。僕がマサヤに呼ばれ、部屋に行ったこと。死体を見下ろしていたマサヤのこと、かくまってくれと頼まれたこと。そして現在、部屋でかくまっていること。最後は、顔を真っ青にしたサヤカが言葉を引き継いだ。

「そしてキリヤは、今日ここへ来た」

 僕はうなずき、コタツの上に置いていた手を握り締めた。よかった。サヤカに会いに来てよかった。もしかすると、相談したいことの内容さえ分かってくれているかもしれない。

「でもちょっと待って。私にも考える時間をちょうだい」

 明らかに混乱した様子のサヤカは、冷蔵庫へジュースを取りに行った。足取りは重そうだが、頭の方が必死で考えているからに他ならないのだろう。サヤカが戻ってくる。その両手にはコーラが一本ずつ持たれていた。

「ほら」

 サヤカが差し出したコーラを受け取り、二人してプルトップを開けた。でもコーラは飲まないまま話が始まった。

「さっきの話だけど。キリヤはどうするの?」

 核心から入るのが好きらしい。なんだか、急に核心っていうのはずいぶんと急じゃあないだろうか。もう少し、僕がどう考えているからどうするとか、そこら辺でも聞いてくれよとか何でもいいから、

「僕は……」

 言おうか……言ってしまおうか。僕にはやるべきことが分かっているから、それは極めて当たり前のことだから、でも、それが出来るだけの勇気がないからこそ、今のようなことになってしまったわけだ。

 僕は本当に、ここから先を言っていいのか?

 それを口にする資格があるのか?

 言ってから後悔するんじゃあないのか?

 なんだか分からなくなってきた。僕はサヤカに相談しに来た、だが、いざとなると怖気づいてしまう……そんな男なのか?

 部屋は沈黙が支配している。どこか別の部屋からは流行歌が聞こえている。僕は黙っている。サヤカは、僕の言葉を待っている。

 掌に爪を立てた。力一杯、爪が折れそうなほどに力を込めた。突き抜けるような痛みが走る。痛い、痛いに決まっている。だが、なんだか眼が覚めるような気がした。

 自分のももを叩いた。僕の突然の奇行に、サヤカは驚いている。

 息を吸い、歯を食いしばった。

 ――馬鹿か。早く言えっての。僕が言わなきゃ、他の誰も言ってくれないんだ。

「警察に、行ってくれるか聞いてみる。というか、自首してくれって話してみる」

 サヤカは小さくうなずいた。どういう意味でうなずいたのかは分からないが、とにかくサヤカはうなずいた。だから僕の心は決まった。理由なんて、この程度で十分だ。とにかく、心は決まった。ならば僕は、出来る限りの全てに全力を尽くすしかない。ただ、それだけだ。

「本当にそれでいいの?」と、サヤカが言った。

「なんで? これは僕が言わなきゃならないんだから」

 サヤカの意図が分からなかった。マサヤに自首するよう言わなきゃならないのは僕だけだ。マサヤだって、いつまでも匿ってもらうことなど出来ないと分かっているはずだ。ならば、話せばきっと分かる。そう思えてならない。

「キリヤには悪いけど」

 サヤカは落ち着いた声で続けた。

「わたしはマサヤくんのこと知らないし、ちょっと怖いよ」

 僕は大丈夫だと力強く説得した。やる事が決まった僕には、それだけの心の余裕が出てきていたのだ。やがて僕は、サヤカと話し終えて部屋を出たが、町の空は暗くなっていた。ケータイの時計を見ると、六時半を過ぎたところである。もう夜だ。早くしないと両親が帰ってくる。

 僕は自転車に乗ると、急いでペダルをこいだ。視線の向こうには希望という光が見えている。もちろん恐怖だってある。けれど、僕はマサヤのことを知っているんだ。マサヤが根っから悪いやつじゃないことは十分知っている。マサヤはきっと分かってくれる。でも、サヤカの心配そうな顔と、震えの混じった声が、脳裏のどこかに暗い影を作っていた。

 僕は、それを無理やり忘れてやった。暗い影など、僕には必要ないと思ったから――。

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     6  『言葉、それ以外の感情』

 

 自宅に着いたのは七時過ぎだった。親が帰ってくるのは九時なので、まだ二時間近く余裕がある。

 マサヤと話すなら、今を置いて他にない。呼吸を整えるとドアを引いて、まっすぐにマサヤの元へ向かった。

 部屋には、汗臭くて嫌な臭いが漂っていた。ただ単純に、マサヤが風呂に入っていないからである。思い起こしてみれば、今日までマサヤの見つからなかったことが奇跡に近い。両親が帰ってきたら、今日こそバレるだろう――そんな気がした。でも、もう全ては関係のないことだ。僕は言わなければならない。全てを。

 僕は、僕の考えていることを話した。マサヤは黙っている。僕が話し終わるまでマサヤは黙っていた。本当に聞いているのか不安になるくらい黙っていた。けれど、僕は二、三分の長話を最後までやめなかった。そして、最後に言ったのだ。

「自首してくれ」

「は?」

 マサヤは、まるで分けが分からないという風に、口を開けたまま立っている。突然のことで理解の追いつかないマサヤに、もう一度、ハッキリと言った。

「頼むッ、自首してくれ」

 叫びにも似た声はさほど大きな声でもなかったが、静かだった部屋に響き渡った。

 部屋に音は無く、静けさが奇妙で。

 僕らの間に言葉は無かった。

 音は引いていく。どこからも音が去っていき、そして、それが、マサヤの口から、ある意味で津波のような、怒涛の怒り持って紡ぎ出された――

「なんでだよ! なんなんだよいきなり馬鹿じゃねえのッ! お前が、お前がオレをかくまってるんじゃないかよ!」

 マサヤは文字通りの血走った眼で僕を凝視すると、部屋の気温がグンと下がったような錯覚に襲われる。視線に力があるとしたら僕は死んでいただろう。それほどに憎悪のこもった、強烈な視線だった。

「確かに、僕がマサヤをかくまった」

「ならいまさら言うなよウゼェェェェエッッッ!」

 マサヤが、手近なイスを蹴り飛ばした。木製のイスは壁に激突し床に転がる。こういうのは恐怖というものを信望している者の行為に過ぎない。僕の心は、先ほどまでのマサヤを救いたいという気持ちから遠ざかっていく。冷めてしまった。なぜだ。マサヤはこうすることでしか怒り表現をすることができないのか? 人を罵ることしか知らないのか? もっと、僕に言うべき言葉は無かったのか……?

「だから、今更だから言うんだよ」

 マサヤは周囲のモノを、全て壁へと投げつけた。それらは先ほどのイスと同じように床へ落ちる。次々とモノが投げられ、あるいは蹴られ、先ほどまでの部屋とは様相を一変していく。荒れた部屋に絶え間なく叫ばれる罵声は、やはりマサヤのものだ。彼に胸元を掴まれ、僕はにらみ返した。

「放せよ」

 怒鳴る声が鼓膜に響く。彼の手は離れない。むしろ、その手には力が込められていく。マサヤには、きっと

「放せよ」

 マサヤに壁へ押し付けられた。僕の言葉は通じていない。きっと聞こえているだろうけど、それだけでは何の意味も無い。冷たい壁を背にしたまま考える。僕は、どうしてこんなことをしているんだろう。なんだか、虚しくて、悔しくて、悲しいような複雑な気持ちだ。あのときのサヤカの必死な顔を思い出して、僕は苦笑した。

 ――ごめん。僕は何も分かっちゃいなかった。

 そして殴られた。口の中が切れたらしく、どこからともなく血が滲んでくる。鉄の味とかいう形容はいらない、なんとも嫌な味だ。

 殴られた。とっさに身をすくめ、両手で顔を守っていた。でも、こめかみの下を殴られた。ひたすら殴られた。痛いのは当然。殴られた勢いで壁にも頭をぶつけ二重に痛い。痛みのせいで意識が遠くなるとかいうのは嘘だ。意識が遠くなるほどの痛みなど一生に一度か二度のものだ。だから今だって、意識があるに決まっている。痛いに決まっているじゃあないか。痛い。痛いんだ。痛い。痛いんだよ。ちくしょう、痛い。痛いんだよこの野郎……ッ!

 恐怖なんて消し飛んでいた。高ぶり、怒りが沸いて、そこからは知らない。未知の領域。我を忘れて、手を伸ばした――引っかかったものは全て引き裂くほどに、掴んだものは握りつぶすほどに。ただ、マサヤに伸ばしていた手にこめられていた力は僕の憎しみだ。憎悪と言ってもいい。どうして沸いてくるのか、どこから噴出してくるのか、まったく分からなかった。でも、僕の心は、きっと、今のマサヤと同じような気持ちになっている。きっと、同じような眼をしている。きっと、僕の中にも暴力的な何かがあったというだけ。それが虐殺しろと、皆殺しだ、と僕に叫んでいる。この心境は興奮しているのに似ている。その興奮のどこかから、なぜか何の関係もないはずのマサヤの、マサヤの気持ちが流れ込んできた。――生きているヤツは信用なんか出来ないんだと泣いている。――死んだものを見下ろすことへの安心感ったら、一度味を占めたら忘れられないんだと泣いている。――キリちゃんのこと一瞬でも信じた俺は馬鹿だ、と泣いている。

 僕が我に返ったとき、マサヤはハサミを握っていた。僕は動こうとしたが、仰向けになった体が動かない。というか、マサヤに馬乗りになられていた。恐怖。マサヤの眼は、狂気の底に堕ちたような眼だった。でも、その両目には涙があった。涙だ、涙。人はこんなときにも涙するのか。

 玄関のドアが叩かれた。僕はとっさに両親が帰ってきたのかと思った。けれど視界に入った壁時計は七時半を越えたあたりを指している。父さんも母さんも、まさかこんな時間に帰ってきた? だが、そんな思考を断ち割る叫び声が僕の脳を揺らす――!

「うヴぁぁぁぁァァッ!」

 振り下ろされた手の、なんの変哲もないハサミが、落ちてきて、僕は両手を、必死に振り上げて、ハサミが刺さった。左の二の腕を、ただのハサミが食い破り、血が散って、血が血で、眼に入った血で視界を奪われ、僕の喉からほとばしった絶叫が響いた。

 声は途中から声にならなくなって、マサヤが、僕に突き刺さったハサミを引き抜こうと力を入れた。傷口の肉がひき肉になり、どこかに飛び散った感覚、痛みとか、そういう次元の問題じゃあなかった。ただ僕に分かったのは、これから殺されるということだけで、これから殺されるということだけで。

「あ」

 何かが声になったような気がした。

-9ページ-

 

     7  『OUT』

 

 目を覚ましたとき、真っ先に感じたのは痛みだった。むしろ、痛みで目を覚ましたのかもしれない。

 腫れたまぶたを開けば、せまい病室だった。ベッドが一つきりの、白ばかりが目立つ個室だ。ふと違和感を感じたので見てみると、僕の左腕は、二の腕から肘までが包帯でグルグル巻きにしてあった。いわゆるギブスだ。誰かがお見舞いに来ていたのか、ベッド脇の棚にはカゴ入りの果物が置いてある。

 なぜ病院? 理由は大体が予想できるのだが、ハサミはどうなった? 僕は、誰かに助けてもらった記憶が無いのだが。あのとき、どこからどこまで意識があったのだろう。それとも、夢でも見ていたのだろうか? 夢……。でも、口の中が痛い、あと、奥歯が二本無くなっている。というか体中の節々が変な感じだ……ついでに左の腕からは、やはり不自然な感覚しかない。そう、これが現実だ。あれを忘れるわけが無い、夢であるはずがない。

 奇妙なうずきが、胸の奥で渦を巻いている。唐突に個室のドアが開いた。

「ァ……ッ!」

 開けられたドアから人が入ってきて、それに驚いた僕は、短い悲鳴を上げていた。なんのことはない、胸に残るあまりの恐怖に、ドアからマサヤが顔を出したような、そんな気がしたのだ。一方、現実に入ってきたのは、優しい顔をした看護師さんだった。

「あら。目が覚めたの?」

 優しい声を聞きながらも、僕の心は怯えを捨てきれずにいた。

 ほどなくして父さんと母さんがやって来たが、僕は何も話せずに黙っていた。自分のやったことを考えると、どれだけの迷惑をかけたのか見当もつかない。

「家のことは大丈夫だし、退院してから今回のことで嫌なことがあるなら引越ししたっていい。中学だって何回でも転向できるしな。まあ、心配するな」

 父は穏やかな口調だった。母さんはしきりに心配してくれていた。でも僕は何も言えなかった。両親の帰り際に、ごめんなさい、と一言だけ口にしただけだった。

 その後に来た警察からは、マサヤのことなどを多少聞いた。

 どうやら僕が出て行ったあと、サヤカが警察に電話をしていたらしい。そしてパトロール中に署から連絡を受けた警察官は、あの日聞き込みに来ていた警察官だった。あの人は僕の受け答えが不自然だったと感じていて、パトロール中に僕のことを聞き込みしたりしている最中だったという。そして警察官は、僕の家へ直行した。ドアを叩き、そしてなにか言う前に、あのマサヤの叫び声を聞いたらしい。だから、迷わず入ってきたのだという。ちょうど――僕が刺された瞬間だ。

 あの後すぐに、マサヤは捕まったらしい。捕まってすぐは、かなり暴れていたそうだ。でも、あれから一日経って、ずいぶんと落ち着いてきているという。長々と話を聞いていると、なんだかやるせない気持ちになってくる。罪を犯して、助けを求めて、でもそこで裏切られて、最後は人を傷つけることで救いを求めた。その果ての惨劇……。ほんの少しでいい、マサヤを心から心配する人が少しだけいれば、こんな事件は起こらなかったのではないだろうか? もしそうなら、マサヤは今も笑顔で、僕と笑っていたかもしれないのに――。ごめんマサヤ。僕は、お前の気持ちを少しも分かっちゃいなかった。それどころか、今でも分かってないんだと思う。あのときのマサヤは「助けて」と言ったのに――結局のところ、僕に出来たことなんて何一つ無かったんだ。それに、ただひたすらに事態を悪くしただけだ。

 友達だったなんて、言うのも恥ずかしい話だよ。まったく、人間失格とは僕のことだ。

 くだらない。くだらないやつだ僕は。

 本当に、くだらない。

-10ページ-

 

     8  『福音』

 

『うん。昨日行ってきたから。行っても大丈夫?』

「大丈夫、じゃあ待ってるから」

 サヤカとの話を終え、公衆電話を切った。

 ――幾日も過ぎ、僕はすでに十日ほど入院していた。

 なぜこれほど長期の入院になったのかと言えば、腕の傷が化膿していて手術を受けたからである。ハサミでついた傷だが、傷口が大きかったために皮膚移植を受けていた。筋肉のほうは半分近く千切れていたらしく、こちらの方は元通りにはならないと言われた。ただし、リハビリを頑張れば、日常生活に支障の無い程度まで回復するという。

 なんだか調子のいい話だ。僕の身体は切り張りして直るんだとさ。でも、マサヤの人生は切り張りするわけにもいかない。

 午後の面会時間にはサヤカが来て、マサヤからの伝言を伝えてくれた。それはなぜか、「ありがとう」だった。

「あの子、すまなさそうなに『伝えてください』って言ってたんだけどね。でもやっぱりアレじゃない? ありがとうって、きっとキリヤに直接言いたかったんだよ」

「なんでそう思うわけ?」

「分かるよ。……だって、あの子はキリヤくんのことばっかり聞いてきたし」

 サヤカは苦笑いして続けた。

「私が帰ろうとしたらね。オヤジにもかあさんにも、あんまりマトモな思い出がないって言われたの。どうしてなのか聞いたら、あんまり喋ったことも無かったんだって、寂しそうに言ってた」

「……」

「たぶん、あの子にとってキリヤくんだけが対等に話をしてくれる人だったのかもしれない。だから、ごめんって泣いてた。本当に、謝っても謝っても足りないくらいだって泣いてたよ」

 なんだか分からなくなってくる。あのときの――狂気の混じるマサヤからは、そんなこと言葉など想像すらできなかった。だが僕は、心というものが、いとも簡単に揺れ動くことを知っている。そして……サヤカの心、マサヤの心、僕自身の心、それぞれが違うことが分かっている。サヤカがマサヤへ面会に行ったときだって、僕が頼み込んだからこそ嫌々で行ってくれた。だが今は、そんな嫌そうな素振りは見られない。行ったことで何かを知り、安心したような、そんな感じもする。だから、なんだか分からなくなってくる。

「マサヤは」

「ん、なに?」

「僕を刺そうとした時、マサヤはなにを考えてたんだろう」

 僕の陰気な疑問に、サヤカは考えてから答えた。

「きっと、なにも考えられなかったと思う」

「なんで?」

「だって、理由なんて無い。そういうものじゃないかしら? 私だって怒ってるときには人の話なんて聞かないしさ。……そうだ、警察の人。キリヤはまた今度でお礼しなきゃね、だって助けてもらったんでしょ?」

 そうだ。気を失っていたので忘れがちなのだが、僕の命を直接的に救ってくれたのは、間違いなくあの警察官なのである。

「そうなんだよな。お礼か」

 思い返してみると、この十日の間に、誰かへの感謝とかそういうのは忘れていた気がする。いや、人間として忘れちゃならないのは分かっているのだが。

「……まだ、気持ちの整理がついていないんだ」

「そう……。でもそのうちには、ね」

 サヤカはひかえめに微笑み、話題を変えた。

「学校のほうはどうするの? まだ休むの?」

「それは母さんと話したんだけど、そろそろ行くよ。明日には退院だし」

「そうなんだ。よかったね」

 サヤカは嬉しそうに僕の右手を取ると、包帯の巻かれたその手を上下に振った。

「体がなまってるから運動しないと」

 冗談交じりで言うと、サヤカも鋭く返してきた。

「勉強もね」

 成績上位のサヤカから言われると、胸に痛い。

「そうだ。遅れたぶん、まだまだ勉強しないとね」

 僕は自嘲気味に言った。これから大変だ。だがこうして考えると、マサヤが失くしたものはあまりにも大きい。僕にとっての時間がそうであるように、マサヤにとってのこれから過ぎる時間も、同じように貴重なものなのだから。マサヤが失う時間、生活、そんなものの全てに責任を持つわけじゃないけれど、それに一枚噛んでいるという事実だけは変わらない。

 考えるほどに、僕は僕を許せなくなってくる。こんなときに考える答えなんてどうせ間違っているのだが、それでも、頭で分かっているほどには心が分かってくれない。

「はぁ……。僕のせいで……マサヤは――」

 サヤカが僕の頬を撫でた。僕を慰めるように、そっと首筋にそって撫でてくる。その手はひんやりと冷たくて、火照った僕の頬を冷やしてくれた。でもなんだか、子供扱いされているようで気恥ずかしい。

「ねえ――助けてもらった命だよ。それだけでいいんじゃない? 私はキリヤが生きてて嬉しい。あの子だってキリヤに謝ってる。それだけでいいんじゃないの?」

「でも」

 でも……。

「僕は、僕を許してもいいのか?」

 マサヤに許されたとしても、僕は僕を許さない。いや、絶対に許せない。これは強迫観念にも似ていて、やはり頭では分かっていても、心の底ではどうしても否定出来ないのだ。否定できない。絶対に。何もかも嫌だった。消えてしまいたくなって、サヤカの返事を待たないまま、布団を頭まで被った。

 するとサヤカは、布団越しに僕の肩を抱き、優しく言葉を紡いだ。

「キリヤは本当に頑張ったんだよ。あのとき、あれ以上のことが出来た? わたしには出来ないよ。だからもう、元気出して」

 そしてそれ以後は、何も言わずに帰っていった。

 個室に、一人取り残される。僕は情けなくて泣きそうだった。

「サヤカだったら、きっと、もっといい答えを出してたよ」僕は呟き、それが終わる。

 溢れ出る後悔と、許す者のいない懺悔。苦しい。夜になっても眠れなかった。頭がくらくらして、でも目だけは冴えている。ベッドの中では眠れないままに思考をめぐらせていた。答えのない疑問に、ほんの少しでいいから、答えのようなものが欲しかったのだ。でも、やっぱり答えなんて無かった。答えのようなものも見当たらない。なんだか、自分がもの凄く駄目なやつに思えてしまって、病室の暗闇が僕を消してしまえばいいのにと思った。そのとき開いた目には、ブラインドの白っぽい横線が映った。閉じられたブラインドに、外からの光が当たっているのだろう。いつの間にか夜が明けていたのだ。もう朝なんて来なければいいのに……。頬に冷たさを感じて僕はハッとした。手で拭ってみれば、涙だった。考えてみると、今の今まで泣いた記憶がない。それが今頃になって、どうして僕は泣くのだろう? 昨日までの朝とは違うこと……それはサヤカが来たことだろうか。よくよく考えてみれば、僕はサヤカのお世話になりっぱなしだなと笑ってしまう。

 ――――キリヤは本当に頑張ったんだよ。

 ――――だからもう、元気出して。

 サヤカの気遣ってくれた顔が思い出された。あのときサヤカが、僕をどれほど心配していてくれたのか考えると、すぐにでも謝りたくなってくる。両親の「心配するな」という言葉の、その本当の意味もやっと解った。なのに僕ときたら……気遣われていることにも気づいていなかった。

 なんだか色々なことがまるで、胸の中で壊れていた歯車が動き出したような錯覚を覚える。頭のモヤが晴れたとでも表現すべきだろうか。

 朝の光は、僕にとって希望の光だったのかもしれない。一度は見失った光が、今になって手に入った気分だ。脳裏には、サヤカの言葉が木霊している。

 

 ――――助けてもらった命だよ。

 

 確かにそうだ。僕は死ぬはずだった。でも、みんなのおかげで生きている。僕は生きているんだ。この暗い部屋の中でも、胸の鼓動を感じられる。死んだ人には悪いと思うが、とにかく、僕は死んでいない。死ぬのは怖いからか、死にたくないと思ったからなのか、生きていることがこれ以上なく幸せに感じられた。きっと、明日も生きていけるように頑張れるかもしれない。理由なんてどうでもいい。僕らが辛くて泣いていても、明日はやってくる。そんな明日には、夢も希望も無いかもしれない。だけど精一杯に生きていくなら、思ったほど悪くない明日になるんじゃないかって思えるんだ。

 ブラインドをそっと開けると、暗い部屋に朝日が差し込んだ。もう昨日は終わっている。今日という一日が始まり、やがて明日が来るはずだ。僕の瞳から、涙が零れ落ちた。きっと、朝日が綺麗すぎて泣いてしまったのだ。一度泣き始めると、なかなか泣きやめない。僕は嗚咽をこらえ、暗い部屋の中、静かに泣き続けた。

 窓の外には相変わらず、明るい世界が広がっている。

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