お告げの鳥は夜に・・・
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 地平線の彼方にまで、満天の星空が広がっている。

 星の瞬く音さえも、聞こえてきそうな静かな夜。

 月あかりに草原が青白く照らさし出され、どこかで狼たちの遠吠えが暗闇に吸い込まれていく。

 夏至のつぎの満月の夜、『お告げの鳥』はやってきて、歌を聴かせてくれるという。

 姿は見えない。

 大きいか小さいかもわからない。

 でも鳥は本当にそこにいて、歌を歌ってくれる。

 その歌を聴くことが出来るのは、一人の人間の一生に一度だけ。

 その人のためにだけ。

 それはきれいな歌声で、この世のものとは思えないくらいだと、ウテルはぼくに教えてくれた。

 ウテルは小さいときに鳥が歌うのを聴いたことがあって、なんとかもう一度聴くことは出来ないかとその夜が来るたびに、寝ずに聞耳をたてているのだったが、やはりそれはどうあってもかなわぬことであるらしい。

 

 ウテルは足が不自由だった。

 それゆえ、普通の大人のように働くことは出来ない代わりに、木の皮を編んで小物を作ったり、木彫りの人形を作ってそれらと交換に村人たちから生活の糧を得ていた。

 決して施しなどではなく、ウテルにはウテルなりの、村での存在価値も意義も認められていたわけである。

 特に、仕事の合間に作ってはときどき吹いてみせる木製の笛は、評判がよかった。

 よく乾かした細い木の枝の中身をくり抜いて、適当な間隔に指孔をあける。

 音のよしあしは吹き口の削り方で決まるそうだが、ウテルの作る笛はどれも不思議な音色がした。

 空気を震わす澄んだ音色。

 それでいて、どこかものがなしげでもある。

 ウテルによると、それは『お告げの鳥』の声をまねているのだそうだが、あの鳥の歌のほどすばらしい音楽は人間のおよぶところではないと、とても悲しそうに話した。

「あの鳥の歌がこんなにも人の心を打つのは、ただその声や調べがきれいだからではないのよ」

 と、ウテルはいつもはなしてくれた。

 その鳥は教えてくれるのだ。

 喜びや悲しみがどこからきて、どこへ去って行くのか。

 時はどのようにして流れるのか。

 そして自分は、何のために生まれてきたのか。

「本当はそんなことを歌っているのだけど、それを聴き取ることは普通の人にはできないの、でも心のどこかで、きっと自分でも気付かないずっと奥のほうで、聞こえているに違いないわ。ただ、普通の人はその声に耳を貸そうとはしないだけなのよ」

 そういう時のウテルはさみしそうだった。

「どうして」

 とぼくは訊いた。

「…さあ。どうしてでしょうね」

 目を伏せたまま、ウテルはいった。

「きっと、そんなことは知らなくたって生きていけると考えている人が、多いからじゃないかしら?」

「でも、鳥の歌の意味がわかる人がいるんでしょ?」

「…そうね。でもそれはことばではなく、魂が響き合ってわかるの」

「魂が響き合う?。ウテルにはわかる?」

「…そうだといいのにね」

 ウテルはかすかな微笑みを浮かべてこう答えた。

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 ある日ぼくは、自分の家族に『お告げの鳥』の声を聴いたことがあるかどうか、訊ねてみることにした。

 両親はそんなものは聴いたことはない、戯言に過ぎないといって相手にしてはくれなかった。

 それどころか父親は、足萎えのウテルとばかり一緒にいて、ぼくが同年代のこどもと遊ばないことが、気に入らない様子だった。

 祖父は「迷信じゃ」と弱々しい声で答えただけで、あとはもごもごと口のなかで何事かつぶやきながら、ぼくの前からいつになく足早に立ち去ってしまった。

 祖母はまだなんとか答えてくれた。

「あれは信じているものにしか、聞こえないんだよ。でも、それに聴いたからといって人に触れて回ることではない。大事な宝物のように心のなかにそっとしまっておくものなんだ」

「ウテルは聴いたことがあるって」

 ぼくは言った。

「あの笛の音は『お告げの鳥』の歌声のつもりなんだって。本当はもっときれいだって言うけど。あんなにきれいなのに」

 ぼくのそのことばに対する祖母のことばは奇妙なものだった。

「そうかい。あの子にはあんなふうに聞こえていたのかい」

 それからぼくは、村のあちこちで訊いて回ったが、結局ウテル以外のだれからも『お告げの鳥』の声に関する証言を得ることは出来なかった。

 怒りだす人、迷惑そうに追い払う人、だんまりを決め込む人。

 そのうちぼくが村中で変なことを訊いて回るという噂が立ち、父親からこっぴどく叱られた挙げ句、ウテルのところへ遊びにいくことを禁じられてしまった。

 大して悪いことをしたという自覚のなかったぼくは途方に暮れて、少しだけ理解を示してくれた祖母に訊いてみることにした。

「おまえはまだあれを聴いたことがないからだ。憶えておおき。あのことについて訊ねるのは、人の心に土足で上がり込むのと同じくらい失礼なことなんだよ」

 ぼくは少しだけわかったような気がした。

「『お告げの鳥』は信じるものにしか聞こえないといったが、おまえくらいの年ごろのこどもならだれでも信じているものさ。お伽話みたいだものねえ。おまえだってお伽話は大好きだろう。そして、歌声は心のなかにするすると入っていく。こどもの素直な心の中にねえ。疑うことを知らないからねえ」

 鳥は一人一人の心に、それぞれのことばで語りかける。

 だからひとつとして同じ歌は歌われないのだ。

 そして、こどもはその無垢な心で鳥の歌声の真実の意味を知る。

 それはことばでは言い表わせない。ことばを越えた何かが、そこに刻み付けられるからだ。

 たぶんそれがウテルの言った「魂の響き合い」ということなのだろう。

 大人になるにつれて人は、心に刻み付けられたその「ことばでないことば」を読み取ろうとする。

 言い表わせることばとして。

 しかしその頃には人は疑うということを身につけてしまっているので、その意味を素直に受け取れない。

 自分のいいように、あるいは悪いようにしか、解釈しなくなるのだ。

 ありのままを受け取らなくてはならないのに。

 そして、真実の意味と自分の解釈との差が大きければ大きいほど、人は傷つき、不幸になっていく。

 だから多くの大人は『お告げの鳥』のことを訊かれると、あんなふうにかたくなになってしまうのだ、と祖母は説明してくれた。

「じゃあ、どうしてウテルは平気なの。ウテルは『お告げの鳥』の話が大好きだよ。ウテルの心は汚れてないから?」

「そう、ウテルは魂の美しい子。だから歌声を笛で真似ても許されるのさ。あの子は精霊から祝福された子だからねえ」

 ぼくは祖母のことばに疑問を抱き、憤った。

「祝福されたって、どういうこと。身寄りもないし、足だって動かない。あんな可哀相な人がどうして祝福されてるっていうの。鳥の歌を疑わないのに、とても幸せそうに見えないじゃないか」

 そんなぼくに、祖母は小声でこう言った。

「ようくお聞き、イルク。実は、ウテルは村のこどもじゃないんだよ。精霊がお遣わしになった聖なるこどもとして、村人に育てられたんじゃ。あの子に身寄りのないのは、そのためなのさ」

 そして、祖母はウテルの生い立ちについて、話しはじめた。

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 そのむかし。

 ウテルは初雪が降る前の、風の強いある日、村の入口に捨てられていた。

 最初に見付けたのが、祖母であった。

 産着やおくるみはこの村や近隣のものではなく、それよりはるかに上等なものだったというから、きっとやんごとなき生まれの赤ん坊には違いないが、理由あって捨てられたらしいと、村の者たちは推察した。

 身元を証すものひとつなく、強いて手がかりになるものがあるとすれば、黒塗りの、金を鏤めた美しい笛ひとつであった。

 村人たちは、眉目秀麗なその赤ん坊を不憫に思い、出来るだけのことをして、慈しんだ。乳の多い母親は乳をやり、回り持ちで面倒を見てやっていた。

 赤ん坊はすくすく成長したが、いつまで経っても、はいはいはおろか、立ち上がろうとしない。

 足が萎えているのだ。

 このことは村人たちにとって、たいへんな驚きであった。

 精霊に祝福された子は、身体のどこかに障害をもって生まれてくるのだという。

 目が見えない子。

 耳が聞こえない子。

 口が利けない子。

 ウテルは精霊に祝福された子供であったのだ。

 人々は赤ん坊を今まで以上に大事に育てようと思ったが、貧しい村のこと、赤ん坊のうちならまだなんとかなったが、大きくなるにつれて、食い扶持は増える一方である。

 もはや、ただで養える限界に達しつつあった。

 なんとかして働いてもらわねばならないのだが、動けないのなら、野良仕事や羊飼いの仕事は無理である。

 そこでウテルの面倒は、一人暮らしの篭作りの老人が見ることになった。

 篭や細工物なら座ったままでもなんとかなる。

 ウテルは老人から細工物作りの技を仕込まれた。

 その腕はやがて老人を凌ぐほどになり、村人からも重宝がられるようになった。

 老人はウテルが一人前の細工師になるのを見届けると、役目が済んだかのように、この世を去った。

「それからはおまえも知ってるとおりさ」

 そして、続けてこうも言った。

「精霊から祝福されるということは、それ自体幸福なことなんだが、それは目に見える幸福ではないんだよ。鳥の歌がことばでは表せないのと同じにね。でも、今にわかるよ。精霊の祝福が、どんなものか。おまえがあの子の友達ならね」

 …精霊の祝福。

 それは、なんなのだろうか。

 ぼくの村には、精霊の皇女は人の姿をして育つ、という言い伝えがある。

 それとなにか関係があるのかと、訪ねたのだったが、祖母は曖昧な笑みを浮かべてぼくを寝床に追いやった。

 寝床の中で、ぼくの思いは錯綜した。

 ウテルに会いたい。会って話を聞きたい。

 でも、今は出来ない。

 もうすぐ夏至だ。

 そして………。

 

 ほとぼりが冷めた頃、ぼくはこっそりウテルの小屋を訪ねた。

 夏至が過ぎて三日ほどたったある日のことである。

 ウテルの小屋は村外れの森の傍にあった。

 ウテルは笑顔でぼくを迎えてくれた。

 夏が近付いて、少し痩せたかもしれない。

 絹糸のように細く長い髪を美しい組紐で結わえて、背中に垂らしている。

 薄茶色の髪が、青白い肌をいっそう白く見せていた。

 ぼくが少しの間、顔を見せなかった理由を、ウテルは知っているようだった。

 小物を買いにきた村の人間が、きっとウテルに告げ口したのだろう。

 それでもウテルはなにも言わなかった。

 ぼくはウテルに対して悪いことをしたかのように、しばらくの間作りかけの篭や、木屑をいじりながら、黙りこくって部屋の隅に座り込んでいた。

 床や作業台の上に、鉈や小刀、大小さまざまな形の刃物の類が、ウテルの手の届く範囲に整然と並べられている。

 そして、いちばん近い壁際には、頑丈な樫の木で作った、一対の松葉杖が立て掛けてあった。

 普段は近くの農夫夫妻が届けてくれるのだが、ごく稀に、ウテルはこの松葉杖を突いて森に出掛け、小物作りの材料を取りにいくことがあった。

 ぼくはぼんやりと、それらのものを眺めていた。

 ウテルは黙々と手を動かしている。

 ぼくがいることなど、忘れてしまったかのように。

 白く細い指先から、つぎつぎと篭や笊が生まれていく。

 指先を使う仕事なのに、決して節くれだつことなく、豆やたこひとつ出来てはいない。

 不思議な手であった。

 ぼくはなぜかいたたまれなくなって、小屋を立ち去ろうとした。

「ねえ、イルク」

 突然ウテルがぼくに呼び掛けた。

 まだ腰もあげていないのに、まるで心を読まれているようだった。

「わたしがなにものでも、なにがあっても、ずっと友達でいてくれる?」

 予期せぬ問いかけにぼくは面食らったが、もちろんこう答えた。

「当たり前だよ。ぼくはいつだってウテルの友達さ」

 ウテルは薄緑色の瞳でじっとぼくの目を見つめて、

「ありがとう」

 とだけ答えた。

 再び沈黙が支配しそうになったので、ぼくはなんとか話をつなげようと必死になっていった。

「もうすぐ『お告げの鳥』の夜だね。そのことでは村の人にいろいろ聞き回って、ウテルにまで迷惑をかけちゃったみたいでごめんなさい。でも、おばあちゃんがいろいろ教えてくれたよ。おかげで勉強になったし。今年こそぼくにも聞こえるといいな」

「そうね。イルクにはそろそろかも知れないわ」

 ウテルの声は、いつになく確信に満ちていた。

「信じること。信じていれば、鳥は必ずやってくる」

 ウテルは嘘はつかない。

 ぼくはウテルのことばを信じた。

 そしてふと、祖母が言ったあのことばを思い出した。

「ウテルは精霊に祝福されているの?」

 疑問が口をついて出ていた。

 ウテルは一瞬目を見開いてこういった。

「そうかもしれない。あなたのような友達がいるからね」

 うまい具合にはぐらかされたような気がした。

「精霊って、なんなの?」

「地の精霊。森の精霊。樹の精霊。河の精霊。湖の精霊。風の精霊。そして、夜の精霊。この世のすべてのものには生命が宿っているということよ。人や馬や、羊や狼みたいにね」

 ふうん、とぼくはわかったようなわからないような返事をした。

「精霊の祝福を受けると、どうなるの」

「さあ、どうなるんでしょうね」

 ウテルは少しだけ遠い目をして言った。

「わたしにはわからないわ。祝福とはどんなものか、よく知らないのだから」

 それからぼくたちは精霊のことについて話し合った。

 といっても一方的に話すのはウテルの方で、ぼくはもっぱら相槌を打つ側であったが。

 

 ウテルは笛も吹いてくれた。

 黒漆と金の象眼で仕上げられた、これまで見たこともない美しい笛だったが、ウテルが捨てられていたときに一緒に置いてあったという例の笛に違いないとぼくは思った。

 その音色もまた、今までとは比べものにならないほど澄んだ音であり、その調べは野を吹き渡る風のようでもあり、冬空に瞬く凍てついた星の煌めきのようでもあった。

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「ねえ、イルク。わたしのこと、好き?」

 ウテルは、仕事の手をとめてこちらを見ていた。

 ぼくは、ウテルの目に射すくめられたようになった。

「こっちにおいで」

 ぼくは、ウテルの腕の中に転がり落ちていった。

 

 

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 日暮前、余韻に浸りながら家に帰る途中、ぼくは見たこともない立派な身なりをした、三人の男たちに出会った。

 男たちは幽霊のように、狭い道に立ち塞がって、ぼくに問い掛けてきた。

「皇女ハココニオワスカ?」

 外国語のようなそのことばに、ぼくはわけもわからず、その場にきょとんとつっ立っていた。

 男たちはしばらく待っていたが、ぼくが質問の意味がわからないのだと気が付くと、首を横に振った。そして、不思議なことにその場から煙のようにかき消えてしまった。

 ぼくはなんだか恐ろしくなって、家へ向かって駆け出した。

 振り向くことすら出来なかった。

「皇女ハココニオワスカ?」

 「皇女ハ」。

 …皇女とは?

 そのことばの意味を知ったのは、そうあとのことではなかった。

 息を切らせて帰り着くと、いつになく家の中が騒々しいのに気が付いた。

 ぼくはウテルのところへ行ったのがばれて叱られるのではないかと、恐る恐る中を覗いてみた。

 すると、村の顔役たちが集まって、父親と祖父母と何事か相談をしている。

 あの幽霊のような男たちのことだろうか。

 彼らはなにものなのだろう。

 不吉な予感がした。

 母親は少し離れて、不安そうにその様子を見守っていた。

 祖母があれこれ指示を与えているように見えたが、そのあとすぐに顔役たちは帰っていった。

 ぼくはなにも見なかったふりをして、家の中に入った。

 家族もなにもなかったかのように、いつもとなんら変わったところはなかった。

 ところが次の日からぼくは畑の草毟りやら、羊の世話やら、家の仕事に追いまくられて、ウテルのところへ遊びにいくどころではなくなってしまった。

 そうこうしているうちに満月の夜がきた。

 いよいよ「あの夜」だ。

 昼間の仕事で身体はくたくただったが、『お告げの鳥』の歌を聞けるかと思うと、ぼくの胸は高鳴り、眠るどころではなかった。

 どれほどウテルと一緒に聴きたかったことだろう。

 たとえウテルには聞こえないとしても。

 傍にいてくれるだけでもいいと思った。

 かなわぬこととはわかっていたけれども。

 吸い込まれそうな夜だった。

 星たちが、いつもよりまして手に届くほど近くに見える。

 日が落ちると昼間の暑さは遠退いて、乾いた空気が肌に心地いい。

 満月が天の中ほどに昇りきった時のこと。

 ぼくは聴いたのだ。

 『お告げの鳥』の謳う歌を。

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 その夜のことを、ぼくはうまく説明することが出来ない。

 心に流れこんできた、あまりにも沢山のことをどうにも整理できなかったからだし、今でもそうなのだ。

 混乱して泣き叫んでいたような気もするし、喜びのあまり笑い続けていたような気もする。

 その時のことについて、家族はなにも言わない。

 そうすることが掟であるかのように。

 あの時ぼくは、お告げをありのままに受けとめる覚悟が出来ていたのだろうか。

 実のところ、あまり自信がない。

 今でも心の角で、「聴かなければよかった。知らなければよかった」という思いが頭をもたげることがある。

 それがいったい、何についてなのか、はっきりとはわからない。

 だが、それが『お告げの鳥』の歌の中の、夥しいお告げのうちのひとつには違いないのだといった思いが時折ぼくの胸をチクリと刺すのである。

 でも本当は、『お告げの鳥』の歌を聴いた次の日に起こった出来事が、ぼくの記憶を曖昧にしているのである。

 歌を聴いたとことなど、微塵に吹き飛ばすような出来事が。

 ウテルが姿を消していたのである。

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 ウテルがこの村から忽然と消え去って、かれこれ十年になろうとしている。

 その日、というのは「あの夜」の翌日のことだが、珍しくぼくは家のだれからも用事をいいつけられず、これ幸いとばかりに、ウテルの小屋へとやってきた。

 小屋の中はいつもと同じだった。

 整然と並べられた道具類。

 壁に立て掛けられた松葉杖。

 どれひとつとして、今にも主人が手に取ってもおかしくない位置にあった。

 ただ、その主人がいないだけであった。

 ただ、いるべき場所には麻布のウテルの服が、脱け殻のように落ちていた。

 ぼくは最初、悪戯かと思ったが、すぐにそうではないと思いなおした。

 ぼくは真っ白になりつつある意識の中で、襤褸のようなウテルの服の間から、黒漆の例の笛を拾い上げていた。

 それからぼくはひどく混乱して、泣きながら家に戻った記憶がある。

 ウテルの笛をしっかり握り締めながら。

 ぼくは、ウテルに裏切られたという気持ちでいっぱいになり、『お告げの鳥』の歌のことも忘れて泣き通した。

 両親はそんなぼくを途方に暮れたように、遠回しに見つめるだけだったが、祖母は黙って泣き続けるぼくの背中を、やさしくなでてくれた。

 ようやく落ち着いたぼくは、ウテルのことばを思い出した。

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「わたしがなにものでも、なにがあっても、ずっと友達でいてくれる?」

 ウテルは友達だ。なにがあっても、今までそうだったように。

 そう思いなおしたとたん、ぼくはウテルがなにものであるかを悟った。

 そして、「精霊の祝福」とはなんであるかを。

 あの日、そう、ぼくが鳥の歌を聴いたあの日。

 ウテルは歩いていったのだ。

 自分の足で。

 しかしそれは、同時にこの村を去らねばならぬことを意味していた。

 

「皇女ハココニオワスカ?」

 

 迎えの者が来ていたのだ。

 彼の故郷から。

 彼が本来いるべき場所から。

 最後にウテルに会った日に、家に帰ると祖母が村の顔役たちに何事か告げていたのは、迎えの者たちが姿を現したとの報告を受け、それへの対処を指示していたのだった。

 滞りなく、ウテルを送り出すようにと。

 村のだれにも知られず。

 もちろん、ぼくにも。

 あの夜の鳥の歌は、ウテルの笛の音だった。

 そして、心に響いたのは、ウテルの声。

 真実を語る、ウテルの。

 今ではいつでもウテルの声を聞くことが出来る。

 風のそよぎ、草の露の光、空に架かる虹、小鳥の囀り、狼の遠吠え、星の瞬き、満ちては欠ける月。

 そして、ウテルの笛の音……。

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 精霊の皇女はどこにでもいる。

 それを信じるものにとっては。

 祝福された魂の持ち主ならば…。

 

 

 

説明
 ウテルは足が不自由だったが、細工師として生計をたてる傍ら、笛を作ってはそれを吹き、村人たちの心の慰めとなっていた。
 「ぼく」はそんなウテルから『お告げの鳥』の話を聞いていた。
 夏至の次の満月の夜にあらわれて、美しい声で歌うのだったが、それは一生に一度しか聴けないものだった。
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