あなたの、くちびる(更新終了) |
1.あなたの、くちびる
必要最低限のものだけが中央に置かれたちゃぶ台の上に並べられ、それ以外はきっちりと片付けられたワンルーム。その中は、まるで急患がかつぎ込まれた時のような真剣な雰囲気に包まれていた。
張りつめた空気を裂くように、カリカリとGペンを走らせる音が響く。
学生の頃から愛用している、緑色のジャージと丸メガネ姿の山之内やすこは、ちゃぶ台に置かれた原稿用紙に向かい合っていた。
やすこの手が動くたび、紙にキャラクターが浮かび上がり、そして物語を紡ぎ出していく――その瞬間が、やすこは好きだった。
「よっしあがり! 沢井、これベタ頼むな」
「あ、はい。そこに置いといてください」
その右隣に座る沢井かおりは、普段通りにブラウスとスカート、そしてその上にチェックのワンピースといった姿で、手慣れた手つきでトーンカッターを操り、黙々とトーンを張っている。
手伝いを頼んだ最初の頃、カッターを持つ手をぷるぷる震わせていたのが嘘のようだった。それは彼女の仕事――看護についても同じで、やすこの目から見ればまだまだ危ういところはあったけれど、順調に育ちつつある。
(もっとも『危なっかしい新人』から『普通の新人』になったぐらいなんやけど)
やすこにとっての目下の不安は、アシスタント代をせびられたらどうしよう、ということぐらいだった。もっとも、ちゃんとした形で礼はしなければと、やすこも思ってはいるのだが。
「はい、やすこさん。こっちも一枚できましたー」
「サンキュ! ……沢井、それが終わったらちょっと休んでもええで」
「あ、はい。すいません、そうします」
瞼の落ちかけた目を擦りながらも、かおりは筆に持ち換えると、バッテンのついた箇所を丁寧に墨で塗っていく。健気ささえ感じるその姿を、やすこは暫くの間ぼーっと見つめ……ふと我に返って自分の頭をぽかりと叩いた。
(いかんいかん、沢井を見とる場合やない。今日中にあと十ページは終えてしまわんといかんのやから)
締切はもうすぐそこ、それまでに何としても仕上げなければならない。気合を入れ直すと、やすこは下書きの入った原稿用紙に向き直った。
☆ ☆ ☆
「……沢井、次はこれのベタを――」
と、ペン入れの終わった原稿を持ちながら横を見て、頼れるアシスタントの様子にやすこはやれやれと肩を落とした。
(まったく、ちょっと褒めるとすぐこれや)
かおりは机の上に俯せになり、すやすやと寝息を立てていた。せめてもの幸いは、ちゃんと原稿を脇によけてくれていたことか。万が一、完成した原稿によだれが垂れたりしたら目も当てられない。
「……まあ、沢井は確か、昨日は夜勤やったはずやし、仕方ないか」
看護師と漫画の二足の草鞋は、適度な気の抜き方を覚えているやすこでも、体力的にかなりギリギリだ。正直、描くことが好きだからこそ維持できているようなもの。新人であり、そこまでの目的を持っていないかおりには、若さという強みがあるとして、よく自分に付き合ってくれているものだとやすこは思う。
……しかし、と不意にやすこは考える。どうして、かおりはこうまで熱心に自分の手伝いをしてくれているのだろうか、と。
こんな途中で寝てしまうほど疲れている時に、わざわざ手伝いに来てくれるなんて、やすこには理解できなかった。先輩という立場を笠に着た強制と思われているのかもしれないが、それにしてもである。
(それに、こないに無防備に人の部屋に来て寝てしまうのもなあ。もしかしてうちのこと、二次元にしか興味ないとか思われてないやろな。……うちかて、人並みには狼なんやで?)
もっとも、かおりには――というより、職場の人間に手を出すつもりはないのだが。そういうのは妄想で十分事足りている。
カチリ、という少し大きな音に視線をやると、時計が二時を示していた。
おっといかん、とっとと作業に戻らんと――やすこは思考を振り払うようにぱちん、と自分の頬を叩く。そしてかおりの脇に置かれた筆を手に取ると、やすこは自らベタを塗っていく。
「……やー、どうしてもちょっと出てまうなぁ」
かおりのそれより遙かに慣れた手つきで、けれど少し荒い塗り方でベタをささっと塗り終えると、はみ出した部分をホワイトで軽く修正し、少し乾くのを待つ。
「むにゃむにゃ……えへへへ」
かおりは一体どんな夢を見ているのか、にやけ顔を浮かべたかおりの口から楽しそうな寝言が漏れた。
「楽しそうやなぁ、沢井。……一体どんな夢見とるのやろな。主任か、藤沢か、堺……はないか。対抗はあみちゃんで……大穴はうち。なんつってな」
などと言いながら、次の原稿用紙を取り出すと、Gペンを手に取って勢いよく線を引いていく――
「山之内さぁん……ふふふ」
「!? ……あっ」
思いがけず呼ばれた名前に、思い切り手が滑った。慌てて原稿を見ると、黒い線は次のコマどころか、原稿用紙の端までばっさり行っている。修正の手間を考えて、やすこはため息を付いた。
「この……まったく、驚かせおってからに。沢井のやつ、一体どんな夢見とるんや。場合によっては出演料とるで!」
恨みがましそうにチラリと横を見たやすこの目に映ったのは、すっかり弛緩しきったかおりの寝顔だった。あまりに気持ちよさそうなその顔を見ていると、毒気が抜けていくのを感じる。
「……アカン、こんな幸せそうな顔で寝とるやつに八つ当たりできん――しっかし、主任や藤沢はこいつのどこがいいんかねえ」
八つ当たりの代わりにと、やすこはかおりの頬を軽くつつく。ぷにぷにと、肉球にも似た柔らかな感触が指先に伝わり、それが妙に気持ちいい。
「お、お、やらかいなあ。こいつのほっぺ。うりうり」
「んん〜、や、やめてくださいよう、山之内さん……」
かおりは嫌そうに身をよじるが、やすこのいたずらは止まらない。それどころか、激しさを増していく。
「へへへ、やめろと言われてやめるやつがどこにおるかいな」
小悪魔のような笑みを浮かべるやすこの悪戯は徐々にエスカレート。やがて指先は頬から、唇へと降りていく。
「沢井ー、そろそろおきろー。起きんと襲ってまうでー。……なんてな」
(さすがのうちも、そこまで飢えてはおらん。……けど、ホントにこいつの唇、やらかそうやなあ……)
指先が唇に触れると、わずかに湿り気を帯びた肌が指に吸い付くようにぷるんと揺れ、漏れた吐息が指先を包む。
それだけのことなのに、急にやすこの胸は激しく高鳴り、そして頭は熱病にかかってしまったかのように、なにも考えられなくなってしまった。
漫画では何度も描いたし、経験がない訳でもない。けれど、まるで自分が初心な乙女に戻ってしまったかのようだった。
(……なんやの、これ)
不思議な熱に支配され、視線はもうかおりの桃色の唇から離せない。
指で触れたたらあれだけ柔らかくて、温かいのだ。さぞ唇で触れたら、気持ちいいことだろう――その考えが頭を支配するのに、さほど時間はかからなかった。
(ちょっとだけや、ちょっとだけ……)
もう、何が少しだけなのか、自分でもわからない。やすこは自分の髪をかきあげながら、やすこ吸い寄せられるように顔を近づけていき――
心地よささえ感じる柔らかな感触と温もり、そして鼻をつく甘いバニラのような香りで、やすこは我に返った。そして、目の前にあるかおりの顔に驚いて、壁に後頭部が当たるまで一気に後ずさる。
(う、う、うち……今、何をしたん?)
ぶつけた頭はじくじくと痛みを放ち、頬をつねればぎりりとした痛みが伝わる。だがそれ以上に、唇には痛みにも似た熱がが残っていた。
そっと口元を触れてみると、触れた唇の柔らかさが思い起こされ、心臓が大きく鼓動を刻む。
「やわかったなあ、沢井の……って、あかんあかん、そういうことやなくて」
半ば祈りのように手を合わせながら、ゆっくりとやすこはかおりのそばに近寄る。
(沢井……起きてへんよな)
願いが通ったのか、かおりは先ほどと変わらず、すやすやと寝息を立てていた。それを見て、やすこはほっと息を吐いた。
「……さ、さて、続きやろか、続き」
何ともいえない空気が部屋を包む中、ぎこちない口調でそう呟くと、やすこは先ほどの原稿の修正に取りかかった。
☆ ☆ ☆
「ふあぁ。……うー、お日さんが黄色いなあ」
休憩室のソファーに腰掛け、やすこは大きな欠伸をすると、眠そうに目を瞬かせた。ファンデーションでうまく隠してはいるが、見る人が見れば、目の上にはうっすらと隈があるのがわかる。
「……けど、昨日は結構進んだな。これなら締め切りにはなんとか間に合いそうや」
あれから、やすこは自分の作業机でひたすらペン入れをしていた。
かおりを起こすのは、気づかれるかもしれないという不安からためらわれたし、またこのままちゃぶ台で作業を続けるのも、本当にかおりに手を出してしまいそうで怖かった。
幸いにも日が昇る頃まで無心でペンを動かしているうちに、そんな気分はどこかへ行ってしまったので、まだちゃぶ台で寝ていた沢井を起こして帰らせてから、少しだけ仮眠を取り、何とか出勤というのが今朝の流れ。流石に短時間の睡眠では眠気は残ったままだが、寝ないよりは遥かにマシだった。
「どうせならあの時点で寝ておくという手もあったけど……それやったら確実に原稿落ちるしな」
「あ、山之内さん。おはようございます!」
「お、おう、沢井か。おはよ……う」
昨日寝落ちしていたとは思えないほど元気のいい声に振り向き――やすこは思わず、自分の目を擦った。
(……疲れとるんかな、うち)
しかしどれだけ瞬きしても、目頭を揉んでみても、やはり目に映る人物は変わらない。
「? どうかしたんですか、山之内さん」
そこにいるのはナース服に身を包んだ普段通りの沢井かおり、その人のはずなのだが――理由はわからないが、今日のかおりは可愛らしく見えた。いつもは子供っぽいと思える髪飾りも、眩しいぐらいに純粋なその笑顔も、そしてうっすらと紅の入ったその唇も――
「なあ沢井……今日、化粧とか変えたりしたか?」
「いえ? いつもと変わりませんけど……」
かおりの答えを聞きながら、昨日の今日でそうそう変わるはずはないと内心でツッコミを入れる。
では一体どうしたというのか……頭を巡らせるうち、やすこは一つの原因に思い当たる。それはつまり、かおりが可愛くなったのではなく、かおりを可愛いと思うようになったのであるということ。そして、それはつまり――
「あ、昨日は途中で寝ちゃってすみませんでした。……原稿、大丈夫そうですか?」
「あ、ああ。あの後結構進んだから、今日明日で頑張ればなんとかなるやろ、たぶん」
「そうですか、良かった」
にこやかに話すかおりを見ているだけで、やすこは胸の高鳴りを覚える。
(やっぱり、うち……)
「もしお手伝いが必要なら、遠慮なく呼んでくださいね。わたし、今度こそ寝ないで頑張りますから!」
「あ、ああ、うん、また頼むな。……あ、ちょっとうち、申し送りの前に手洗い行ってくるわ」
「はい、いってらっしゃい」
かおりの声に見送られ、やすこは慌ててトイレに駆け込むと、大きく深呼吸。微かな塩素の匂いが、心を鎮めてくれる。
「はぁ……恋だけはすまい、って思っとったんやけどなぁ」
やすこは自嘲する。職場恋愛の類は、やすこ自身好きではなかった。ただイチャついてるだけならまだいい。けれど、そこに誰かを融通したり、しなかったりで誰かに憎み妬まれたりが生まれてしまうのが、本当に面倒臭い。そうやって険悪になって上手く回らなくなった職場を、やすこはいくつも見てきた。
「どうしたもんかな……」
ため息をつきながら、やすこは鏡を見る。
「……なあ、あんたはどうしたらええと思う?」
鏡の中の自分は、困ったように首を傾げるだけで何も答えてはくれなかった。
☆ ☆ ☆
「あー、眠い!」
叫び声を上げながら、やすこは背中が汚れることなど気にせず、ほこほこと暖かい屋上に倒れこんだ。
今日は散々だった。普段ならしないようなミスはいくつか起こす。主任にはそれを咎められたうえ、うっかり欠伸したところをさらにお説教。それだけであまりに長く説教されるものだから、ミスしたことへのイライラもあり、ちょっとした喧嘩になってしまった。
「あー、後で、主任には謝っておかんとな……」
自分が悪いのは重々承知していたから、頭が冷めた今では後味の悪さだけが残る。もしかしたら、恋も冷めたら同じにような思いをするのだろうか、などと考えてみるが、生憎その経験はないので想像はつかなかった。
「あー、さぼりだー!」
びくりとして入口の方を見ると、そこにはピンク色のエプロンをつけた看護師が立っていた。この病棟でその色のエプロンをつけているのはただ一人――
「……なんや、沢井か。驚かすなや」
「あはは、ごめんなさい。山之内さん、こんなところにいたんですね」
いつもの笑顔を浮かべたまま、かおりはやすこの側まで歩いてくると、隣にぺたんと座った。ふわりと、昨日も感じたバニラにも似た香りがふわりと鼻をくすぐる。
「……なんや、何か用か?」
「いえ、どこにも姿が見えないから探してただけです。ちょっと今、詰所もあまり雰囲気がよくないんで」
イライラのあまり、額に深い皺を刻んだ主任の顔が思い浮かぶ。
「そうか……すまんな」
「あはは、別に山之内さんのせいじゃないですよ」
からからと笑うかおりだったが、その表情がすぐに曇る。
「……ねえ、山之内さん、何かあったんですか?」
「どうして、そう思うんや?」
「そう言われるとちょっと困るんですけど……ただちょっと、今日は様子が変だったから」
「……何でもないって。強いて言えば寝不足なだけや」
やすこはかおりから目をそらしたまま――というよりは、目を合わせられず――空に浮かぶ雲を見ながら、そう言った。
「そうですか……本当に何も隠してません?」
「別に隠し事なんて――」
……そう、自分が隠しておけばいいだけの話だ。この熱が冷めて、やがて苦みに変わるまで。この想いも、キスしたことも、全部――
「わたしの目を見て言ってください」
「…………」
けれど、その考えは甘かった。
いつになく真剣な視線で自分を見つめるかおり――それで、やすこはすべてを理解した。
「……沢井、あんたあの時、起きてたんやな?」
かおりは小さく頷く。
「いつからや?」
「ほっぺをつつかれたとき……って言いたいところですけど、ほんとに目が覚めたのは、キスされたときです。目を開けたら、山之内さんの顔があったので、びっくりしました」
「そうか……すまんかった」
急に頭を下げたやすこに、慌ててかおりは首を振る。
「そ、そんな、謝らないでください。……それにわたし、ちょっと嬉しかったんですよ」
「そう、なんか?」
かおりははっきりと頷く。
「だってわたし、ずっと前から山之内さんに憧れていましたから」
「うちに? 一体うちのどこがええんや」
やすこは予想外の言葉に、思わず声が上ずる。かおりはそれを聴いてクスクスと笑いながら、
「たくさんありますよ。看護師としても、人としても。特に漫画を描いている時の山之内さんがわたしは一番素敵だと思いますけど」
(漫画を描いているとき――)
ダサダサのジャージと、丸メガネ姿の自分を思い浮かべ、やすこは首を振る。
「そんなはずないやろ、あの格好やで?」
「格好じゃないですって、例えばいつもと違う真剣な眼差しとか――。それに、そうでなかったら夜な夜なお手伝いに行ったりしませんよ」
腹を抱えて笑うかおりをみながら、やすこはほっとしたような納得のいかないような表情を浮かべる。
「でも昨日はびっくりしました。まさか、初めてのキスが寝込みだなんて……ちゃんと、責任はとってくださいね?」
「ファ、ファーストやったんか……ど、どうしたらええんや?」
「ううん、そうですねぇ……」
かおりは子供のように無邪気な笑みを浮かべると、珍しく戸惑うやすこに、
「じゃあ、もう一度してくれたら、許してあげます」
「……ここでか?」
やすこは周囲を見渡すと、目を細める。
屋上は主任によって、基本的に立ち入りが禁止されている。けれどかおりのように、いつ誰がが入ってきてもおかしくはない。
「それなら大丈夫です。……さっき入ってくるときに、ちゃんと鍵かけときましたから。」
「……かなわんな、あんたには」
呆れたような、頼もしいような、不思議な気分だった。けれど、先ほどまで感じていた職場恋愛への不安はもうどこかへ飛んでいってしまった。
(たぶん、沢井となら――なんとかなるやろ、きっとな)
「ささ、どうぞ?」
自分を待ち構えるかおりを見て、やすこは大きく息を吐くと、覚悟を決めてかおりの肩にそっと手を乗せる。
「好きです、やすこさん」
「……うちもや」
二人はそう囁き合うと、ゆっくり目を閉じ、そっと唇を重ねた。
2.あなたの、ぬくもり
お互いのことが好き――そのことに気づいたからといって、やすこの日常が大きく変わったかというと、そんなことはなかった。
起きて、仕事に行って、帰ってきて、寝る。そのサイクルは、かおりはともかく、長い間社会人とし過ごしてきたやすこにとって、身に染み着いた習性のようなもの。
ただ、そのループの繋ぎ目に、かおりと過ごす時間が増えた。全体から見ればその程度のことだった。
「すみません。山之内さん。前の患者さんの処置に時間がかかってしまって――」
「ああ、かおりか。ちょい待ちや……ほい、これでおしまいや。よう我慢したな」
やすこが採血を終えた子供の頭をポンと撫でてやると、にこりと笑って、部屋の入り口から心配そうに見つめていた友達の元へ掛けていく。
「よっと。またせてすまんな、今のでちょうど終わったとこや」
採ったばかりの血液が入ったガラス管にラベルを貼ると、二、三度揺すってからスタンドに納める。
「すみません、山之内さん……」
「ええって、ええって。困ったときはお互い様や」
「でも……」
納得がいかない様子のかおりに、やすこやれやれとばかりに息を吐く。
「意外と頑固やなあ、沢井は。……あのな、うちらの仕事とはなんや? 言うてみ」
「え、ええっと」
訊ねると、かおりはこめかみに指を当てて考え込んでいる。
本当はこれぐらいのことは、考え込まずににぱっと出てこなければいけない。どこぞ【三一一】の患者ではないが、患者の側から問いかけられることも、少なくは無いのだ。
(……後で藤沢に言っておかな――そもそも、藤沢自身が答えられるんかね)
「えっと……その、人の命を、助ける?」
「うん、それやと半分やな。誰よりも患者さんの側にいて、患者さんを見て、その命を守る、それがうちらの仕事や。それがどんな方法やって、結果的に人の命が守れればいいとうちは思うんよ。もちろん、一人で全部やれるに越したことはないし、将来的にはこれぐらい一人でやってもらわな困る。せやけど、一人でやることにこだわって、助けられる命を守れなかったりしたら、元も子もない」
「……はい」
「せやから、よう考えるんや。かおりがどうするのが、患者さんの命を救うことに繋がるのかをな」
……と語りながら、やすこは胸がちくりと痛む。本来、こういった役割はプリセプターであるなぎさのものだ。それを普段なら余計なことはしない性質のやすこが買って出ているのは、ただ単にかおりの役に立ちたい・いい所を見せたいという邪な気持ちからでしかない。
(……ずるいな、うちは)
「はい、わかりました!」
そんな気持ちを知ってか知らずか、かおりは純粋な、尊敬の眼差しを向ける。やすこはくすぐったさを感じながら、よろしいと偉ぶってみせる。
「……あ、そやった。全然話は変わるんやけど……今日もいつもの手伝い、頼めるか?」
「はい、もちろんです!」
「すまんなぁ……また次の締め切りが近くてな」
「全然、大丈夫ですよ!」
「じゃあ、頑張って記録を書かないと……」
「あ、それならお願いしとる立場やし、うちも少しなら手伝うよ」
「本当ですか! ありがとうございます!」
そう言って微笑みを浮かべるかおり。それを見て、やすこは不意に抱きつきたくなる衝動を抑え込む。
「……あれ? どうかしたんですか?」
「い、いや、何でもないよ。……それじゃかおり、今日は頼んだで?」
不思議そうに首を傾げるかおりから逃げるようにして、やすこはその場を離れた。
☆ ☆ ☆
何かが落ちるような音で、やすこは目を覚ました。ぼんやりとした思考のまま顔を上げると、床に落ちた何かを拾おうとするかおりの姿があった。
「……あ、起こしちゃいましたか?」
申し訳なさそうなかおりの声を聞きながら、どうして彼女がここにいるのだろう、と思いながら、まだ半分眠っている頭で、昨晩のことを思い出す。
(……そうや、確か昨日は原稿を手伝ってもらいに来て――)
原稿はなんとか無事に終わったのだが、時間はもう深夜の三時。それからどちらともなく倒れるようにベッドに倒れこんで……そこから先の記憶がまったくない。なんだかぼんやりと、温かいものに包まれていたような感覚だけが残っている。
「んー……今、何時や?」
「えっと……七時、ちょっと前ですね。わたしは一度帰って、着替えだけでもしてきます」
「そか……気いつけてな」
今にも寝そうな声でやすこが応じると、かおりは少し怒った様子で、
「……もう、少しは引き留めてくれたっていいのに」
とかおりは腰に手を当てて言う。そして、ゆっくりやすこに歩み寄ると、間近でその寝ぼけた顔をまじまじと見た。
「ふふ、寝ぼけたやすこさんも素敵です。……あ、そうだ。いつものもの、もらっちゃいますね」
そう囁くと、柔らかなものがやすこの唇に押し当てられる。……二人の生活で一つだけ大きく変わったことがあるとすれば、それはアシスタントの代金が明確になったこと。
かおりの温もりが唇を通じて広がり、やがてその奥へと差し入れられるのを感じながら、やすこはそっと目を閉じて、それに応じる。
心地よい蕩けるような一時は、やがて終わりを告げる。
「……おやすみなさい、やすこさん。また、病院で」
耳元に残る声、そしてベッドに残る香りを感じながら、やすこの意識は闇に落ちていった。
☆ ☆ ☆
「……はぁ」
休憩室から悩ましげな声が漏れ聞こえてくる。
室というには少し狭い仕切の中では、その声の主であるはつみと、テーブルを挟んでやすこが座っていた。
はつみはやすこの顔をじっと凝視すると、目を伏せて今日何度目かになるため息を吐いた。
「……すみません、主任」
やすこが、今日何度目かの謝罪の言葉を口にする。
「うう……」
それを聞きいてはつみは一度はやすこの顔を見たものの、再びため息。たまらず、やすこはうめき声を上げた。
(悪いのはうちやけど……何も言われないのが一番辛いわ、ホンマに)
「……最近」
長い長い沈黙を破って、主任はようやく口を開いた。
「ようやく、沢井さんが遅刻をしなくなってきたと思ってホッとしていたのよ。藤沢さんも落ち着いてきたし、ああこれでやっと一段落かしらって、思っていたの。なのに……その二人に手本を見せるべきあなたが遅刻するなんて、何を考えているの?」
あの後、やすこが目覚めたのは朝の申し送りなど余裕で終わっている時間。慌てて病院に電話して、
「すみません……ホンマに気が弛んでました!」
本当に、ただ気が弛んでいたとしか思えなかった。普段なら、仮に寝落ちしたとしても、ギリギリ間に合う時間には起きられていた。
けれど今日に限って、昼近くまで寝てしまう有様。やはり無理な徹夜がいけなかったのだろうか、それとも――と考え、やすこはすぐに首を振る。どんな理由があっても、結果は結果。自分が遅刻してしまったことに変わりはない。
「……まあ、遅刻に関してはもういいわ。午前休で処理しておいたから」
「助かります、主任」
やすこは深々と頭を下げる。
「もう、それにしても、今日はあなたに大事な話をしようと思っていたのに……まさかこんな形で出鼻をくじかれるなんてね」
「大事な……話?」
「そうよ、大事な話。……ほら、これを見てちょうだい」
思わず顔を上げたやすこの前に、はつみは一枚のクリアファイルを差し出した。ファイルの中にはパンフレットらしきカラーの冊子と、何枚かの書類が見て取れる。
「うちが見てもええんですか?」
「どうぞ。それはあなたに渡そうと思っていたものだから」
やすこはゆっくりとファイルを手に取り、パンフレットを取り出す。それはもっと市街にある、よく名前を耳にする病院のもので、書類の方には勤務時間や条件、報酬などが克明に記されている。
「これは……出て行けって、ことですか?」
顔をしかめながらやすこはそう尋ねる。思い当たる節はないではない。何度もはつみには世話もかけてきたし、今日みたいな遅刻も「しとらん」と胸を張れるほどしていない訳でもない。
「……馬鹿ね、そうじゃないわ」
けれど、やすこの言葉を聞いたはつみは、ふっと微笑みを浮かべる。
「大体、遅刻とかでクビにしなきゃいけないのなら、この病棟の正看護師はわたしだけになってるわよ」
「ああ、そうか――そうですね。じゃあ、どうしてこれを」
「……わたしはね」
はつみはやすこの両手を取った。
「あなたを百合ヶ浜に招いたことを、一度たりとも後悔したことはない。あなたは優秀な看護師で、わたしの右腕だと思っている。あなたの代わりなんて絶対にいない。だから手放したくないのが、まずわたしの本音よ」
「主任……」
「……これはね、常盤師長に頼まれたの。向こうの病院もねあなたが入った時のここみたいに、人でが足りないんだそうよ。だから、優秀な看護師をスカウトしたいって、そういうことらしいの」
はつみは、まるで弟か妹でも見るような優しい眼差しで、やすこを見据える。
「わたしの気持ちはあなたに伝えたわ。出来ればここに残って、これまで通り、わたしの右腕として働いて欲しいって思ってる。……でも、最終的な判断はあなたが決めてちょうだい」
「……わかりました」
「まあ、今すぐに決めろってことじゃないし、考えてみて。……じゃ、この話はこれで終わり。そろそろ仕事に戻ってちょうだい」
「はい、わかりました。失礼します」
立ち上がり、出口に向かいながらやすこはふと考える。
(転勤か……)
考えたことが全くなかったわけではないが、実行に移そうと考えたことは全くなかった。それもこれも、この百合ヶ浜総合病院の居心地が良かったから、ここでずっと働きたいと思っていたからだ。
「……ああそうだ、これは別件なのだけど――」
何かを思い出したようにはつみが呼び止めた。
「はい?」
「山之内さん、最近ちょっと沢井さんを手助けしすぎじゃないかしら」
「!!」
言われてやすこはドキリとした。
「え……そ、そうですか? たまたまやと思いますが」
「そう? まあ、わたしの勘違いならそれでいいのだけど。あと、これは藤沢さんにも言うと思ってるのだけど、あまり沢井さんの手伝いをし過ぎると、彼女のためにならないわよ。……まあ、こんなこと言わなくてもわかってるでしょうけど」
「……はい」
もちろん口にされなくても、はつみが本当は何を言いたいか、よくわかる。
「あ、ごめんなさい、呼び止めてしまって」
「いいえ。それでは、失礼します」
小さく会釈をすると、やすこは逃げるようにして休憩室を後にした。
☆ ☆ ☆
「……手助けしすぎ、か」
ペンを走らせる手を止め、やすこはぽつりと呟いた。
(主任にはバレバレやったか……)
いや、はつみのことだから、既に『派遣さん』達の中で話題に上るぐらいになっていて、それが表だって問題になる前に釘を差してくれのだろう。
(そうはなるまいと思っておっても、なかなか上手くいかんものやな……)
職場恋愛は、時に贔屓と見られることがある。女の職場では、特にそうした感情が、妬みや嫉妬、時には嫌がらせに足の引っ張り合いにまで発展することがある。だからその立ち振舞いには、気をつけなければいけない。
「……さん、ここなんですけど……」
これからどうするべきなのだろうか。少なくとも、院内での関係は変えざるを得ないだろう。それにはつみから勧められた病院のこともある。師長やはつみがわかっていて薦めてきた、ということは相手先もかなり切羽詰まっているのだろう、ということは想像に易い。けれど――
「……さん? どうかしたんです?」
かおりのことを抜きにしても、できればまだやすこはここで働きたいと思っていた。この先ずっと、今のままいられるなんて保証はどこにもない。かおりとだってずっとこのままで――このままの関係でいられるなんて、誰も保証してはくれない。
そもそも命のある限り、人は変わっていくもの。もし変わらないものがもしあるのだとしたら、それは――
「もう、やすこさんてば!」
「!?」
耳を貫くような喧しい声に、やすこは飛び上がりそうになりながら、声の主を振り返る。
「かおり……そないにデカい声出さんでも聞こえとるよ」
「ええー」
やすこがたしなめると、かおりはむっとして反論する。
「そんな、だってもう、三回も呼んでたんですよ? それなのに返事してくれないから……」
「……せやった?」
「そうですよ!」
そう言ってかおりは頬を膨らませる。怒っているというよりは、可愛らしいリスのように見えて、思わずやすこは吹き出してしまった。
「もう、どうして笑ってるんですか!」
「あははは。いや、すまん……すまんって。なんか、かおりが妙に可愛く見えてな」
「可愛いって……もう、わたしは怒ってるんですからね!」
一瞬顔を綻ばせるものの、すぐにぷいと顔を背けるかおり。
「だからすまんて。なあかおり、勘弁してくれって……」
「まったく……」
かおりはまだ少し怒ったそぶりを見せながら、ゆっくりと立ち上がると、洗面所の方へと行ってしまった。お手洗いに行ったのかと思っていると、やがて水音が聞こえ始め、それと共にかおりが洗面所から顔を出した。
「ほらやすこさん、お風呂でも入って、さっぱりしてください。今お湯張ってますから」
「え?」
「作業中にぼうっとするなんて、疲れてるんですよ、きっと」
「んん、やけど……」
やすこは手元の原稿用紙に目を落とす。ほとんどのコマがまだ下書きのままで、ペン入れは全然進んでいない。何枚かかおりにベタなどを任せているページもあるが、それはもう数枚しかない。
「このままダラダラやってても同じです。しゃきっと切り替えなきゃ。……さあさあ!」
そういいながら手を引くかおりに、やすこは苦笑いを浮かべ、そしてゆっくりと頷いた。
「……せやな、かおりの言うとおりや。じゃあすまんけど、ちょっと休ませてもらうな」
「はい! 今できてる分はやっておきますから、もう泥船に乗ったつもりでいてください」
「……泥船? 大船じゃないんか?」
「いつ沈むかわからないので、早く戻ってきて下さいってことで」
そう言って、かおりははにかんだ。
「はいはい。……まったく、頼もしいアシスタントがおってうちは幸せや」
「えへへ。……あ、そうそう、忘れないうちにアシスタント代くださいよ」
そう言って、かおりが目を閉じ顎をつきだしてくる。
「前言撤回や。……図々しいアシスタントやこと」
「やすこさんに似たんですよ、きっと」
「言うたな、この」
呆れたように呟きながら、やすこは頬にそっと手をかける。その唇に顔を寄せようとしたやすこは、何かを思いついたように笑みを浮かべると、その額に軽く触れた。
「え?」
「うちは先払いはせん主義や。……続きは、また後で、な」
不満そうなかおりにそう囁くと、やすこは風呂場へと向かっていった。
☆ ☆ ☆
「……ふぅ、極楽極楽」
少し温めの湯の中に飛び込むと、やや手狭な浴槽にもたれ掛かり、やすこは大きく息を吐いた。
かつては少し熱いぐらいの湯の方が好みだったが、やすこは最近、これぐらいの温度に長く浸かるのも割と好きになってきていた。身体を程よい温度のお湯に包まれ、少しずつ温められていくその感覚。それはまるで、誰かに優しく抱きしめられているような気分だった。
これであとは、ふくよかな乳房に頭を預けられたら最高だ。
「かおりはなー、ちょっと控えめやからなあ……主任ぐらい乳が大きかったら言うことないんやけど」
手に収まるぐらいというのも悪くはないが、やはり揉み応えのある方がいい。それは人生もまた同じ――安定した生活よりは、挑戦のある生き方でなければ、面白くない。
「にしても、どうしたもんかな――」
今後のこと、原稿のこと、かおりのこと――どれも、いつものように簡単に切り捨てたりすることのできないことだった。けれど結局は、どれをどうしたとしても、なるようにしかならない。あとはただ、どうすれば自分が幸せになれるのか……それをただ選ぶだけだ。
「ふぁーあ」
それにしても、どうしてこんなに眠いのか――やっぱり歳なんだろろうか、などと考えながら、やすこは大きな欠伸をして、湯の中に体を沈める。
あと少し、もう少しだけ、ゆっくりしていこう……そう思いながら、やすこはそっと目を閉じた。
――唐突に、やすこは息苦しさを感じた。
身体ははふわふわと宙に浮いているようで心地いい。このまま天に昇っていけるよう――けれど、まるで首に巻かれた輪がそれを留めているような、そんな感覚。
「やすこさん!」
誰かが、やすこを呼ぶ声が聞こえた。
「しっかりしてください、やすこさん!」
それは耳慣れた、温かくて、優しくて、そして――ずっと傍で聞いていたいと思える、声。
「……かお、り?」
ゆっくり目を開けようとすると、水滴が目に入って瞬きする。ここは一体どこだろう、雨でも降っているのだろうか。
「やすこさん! 良かった……よかったですよう」
目の前にはぽろぽろと涙をこぼしながら、顔をぐしゃぐしゃにするかおり。そうか、あの水滴はかおりの――
「うちは……一体、どうしたんや?」
「で、出てくるのが遅いから、心配して見に来たら、浴槽の中で、やすこさんが」
「……つまり、風呂場で溺れかけてたってことか」
かおりが頷くと、その拍子にこぼれた涙が額に落ちる。
(ああ……あったかいなあ)
「本当に良かった……良かったですよう。……うわあああああん」
「……すまんな、かおり。心配かけて――」
濡れることも気にせず、自分の胸の中で泣きじゃくるかおり。その頭を、やすこはまだ力の入らない手をなんとか伸ばして、彼女が泣き止むまで撫で続けた。
3.あなたの、らくるい
泣き声が聞こえる――
そんな気がして、やすこが我に返ると、自分が暗闇の中に立っていることに気づいた。
(ここはどこやろう――まさか天国?)
こんな真っ暗闇の天国があってたまるか――そう呟いたやすこの耳に、子供の力強い鳴き声が飛び込んでくる。やすこがそちらの方へ近づいていくと、やがて小さな女の子が目に手を当てて泣いているのが見えた。
「……どうして、泣いとるんや?」
やすこが声をかけると、女の子は俯いたまま、ぼそりと呟いた。
「……しんぱい、なの」
「心配? 何がや?」
「だいすきな人が、どこかに行ってしまうんじゃないかって」
「なんで、そう思うんや?」
「わたしが好きになった人はね、みんなどこかに行ってしまうの。じこや、しんがくに、ひっこし……そのたびにわたし、ひとりぼっちになるの」
「ひとりぼっち、か……」
あまり孤独を苦手としないやすこには、あまりその辛さがよくわからなかった。一人なら何にも縛られずに好き勝手できる。
けれど孤独の寂しさも最近はわからなくもない。一緒にいたい人と、いることができない寂しさ――そういう感情があることはわかっている。
「ねえ、どうして? ――どうしてみんな、行ってしまうの? みんなは寂しくないの?」
「……そやな、どうしてやろうな」
やすこはは屈み込むと、女の子の頭を優しく撫でる。短めに切りそろえられた柔らかなその髪は、何となくかおりを思い起こさせる。
「ずうっといっしょににいられたら、それだけで幸せじゃないの?」
「そうやな、その通りや。……けどな」
やすこは女の子の、震える背中をさすりながら、優しく囁く」
「今一緒に過ごす幸せ――それよりも大切にすべきことが、うちには――その人にはあんねん。そしてそれは、相手のためでもあるんよ、きっと」
「そうなの? わたしにはわからないよ……」
「!?」
自分を見上げる少女の顔を見て、やすこは思わず息を飲んだ。その顔はまるで――
「わからないよ、やすこさん」
やすこが目を覚ますと、そこに自室のベッドの上だった。
「――っ! ……はぁ、夢か」
まだ少し気だるい身体を起こしたやすこは、自分の腹の上でうつ伏せになって眠っているかおりに気づいた。
(あれだけ大丈夫やから帰れって言ったのにな)
あれからまた泣いたのか、その目には涙の跡が残っている。
やすこはその跡をなぞるように――そして、その先にあるかおりの唇をそっと触れた。張りのある、柔らかいピンク色の唇――それに、初めて触れたときのことを思い出す。
あの時から、この唇はどうでもいい他人のものから、大切な人の唇へと変わった。できることなら、いつでも好きなときに触れたい。触れ合いたい。その身体を、胸を、唇を――自分のものにしたい。少なからず、そのような衝動が自分の中にあることを、やすこは自覚している。
「……やっぱり、このままじゃあかんな」
このままではお互いが駄目になってしまう。それは自分がしてしまったことへのケジメ……いや、そうではない。ただこれは、好きな人にそうしてあげたい、そうなって欲しいという、願い。
「……なあかおり、うちはな」
「やすこさん……大好きです。だから、どこにも行かないで――」
かおりの不安に満ち漏れ聞こえた寝言。やすこは微笑みを浮かべると、
「せやな、うちもやで、かおり。……けどな」
幸せそうな寝顔を浮かべるかおりの髪を優しく撫でてやりながら、やすこは苦笑いを浮かべた。
「……なあ主任、あのことなんやけど」
とある日の昼下がり、やすこは詰所でちょうど主任と二人きりになった時を見計らって、話を切りだした。
「あの、って……ああ、あの話ね。どう、結論は出た? まあ、あなたのことだから、断るとは思っていたけど――」
「……いや、受けようと思う」
「そうよね、そう思ってそろそろお断りの電話を――えっ?」
聞き間違いではないかという顔をする主任に、やすこはもう一度言ってやる。その顔は普段の彼女からは考えられないほど、真剣そのものだ。
「あの話――受けようと思っとる」
「……本気?」
その意志を確かめるように向けられた、はつみの鋭い視線。やすこはそれを真っ向から受け止める。
「ああ、女に二言はあらん。……それに、常盤師長や主任がうちに振ってくるってことは、あちらさんも切羽詰まってるんやろ?」
「……そうだけど、でも――」
やすこはゆっくりと首を振る。それ以上は言わなくてもいい、とでも言うように。
「向こうは、いつから言うてるんや?」
「できればすぐにでも、って話だけど」
「そっか……悪いんやけど、少し時間をもらえるか?」
「少しって――どれぐらい?」
「そやなあ……」
わたしは頭を巡らせ、そしてきっぱりと言った。
「一ヶ月ってところやな」
☆ ☆ ☆
「沢井、そこはそうやないって教えたやろ!」
「ひゃいっ、すみません!」
普段は平穏な内科病棟に、怒鳴り声と奇声が響き渡る。患者は驚き、首を傾げ、看護師たちも思わず顔を見合わせる。
「ええか、見とれよ――ほら、藤沢もや!」
「え、わたしも? ……はい」
無言のプレッシャーに負けて、こちらを向いた藤沢と、浮かんだ涙を堪るかおりの前で、やすこは手早く紙おむつを換えてみせる。
「ええか、ただ手早く交換するだけやアカン。患者さんの状態は日々違うんや、どんな変化も見逃したらアカンで!」
「は、はい!」
「……ほら、見てみい。赤くなっとる箇所があるやろ? こう言うのを放置しておくと褥瘡になってまう」
真剣に耳を傾けながら、手にメモを取るかおりを待ちながら、やすこはふと周囲から視線を感じた。
遠巻きに、バイトさんや派遣さんがこちらを心配そうに見つめていた。やすこが怒っていることは、少なからず皆、身に覚えがある。もちろんやすこ自身もそうだった。
にもかかわらず、大抵の場合、怒ってまで教える人は少ない。自分が怒られるのは嫌だったから……そうではない。多少理不尽であろうとも、怒られ、叱られ、頭の中に刻み込まなければならない。
もちろんハラスメントは論外だが、きちんと大切なことを言ってやること、それ大切なことであるということを、やすこはよくわかっていた。
「ええか、絶対忘れるんやないで。うちらは一番患者さんの側におる、だから一番患者さんのことをわかっていてやらなあかんのや。わかったか、沢井!」
「は、はいっ!」
「よっしゃ、次行くで。……すみませんな、騒がしくなってしもうて」
進んで協力してくれた患者さんに頭を下げながら、やすこはかおりw引き連れて次の病室へと向かう――
「おい、藤沢ァ! 次行くで!」
「は、はいっ! ……もう、どうしてあたしまで……」
ぶつくさと呟きながら、なぎさは二人の後を追いかける。
「……最近、良からぬ噂を耳にするのですけれど」
記録用紙と格闘するかおりの代わりに、さゆりの点滴を交換に来たやすこは、さゆりのきつい視線に出迎えられた。
「へえ、どんな噂や?」
聞かずとも何となくわかったが、やすこはあえて尋ねた。
「とある看護師が、執拗に後輩をイジメているという噂です。おかげで詰所の雰囲気が悪くなって困っているらしいって聞きましたけど」
「ははは、詰所はそない荒唐無稽な噂、どこから生まれるんやろなあ。詰所はいつも和気藹々やで」
やすこは恐らくなぎさ辺りだろうと思った。派遣さんやアルバイトさんがそう思っていたとしても、その辺はよくわきまえている。少なくとも、患者に向けてこぼしたりはしない。
「和気藹々……ねえ」
さゆりはまったくやすこの言葉を信じておらず、。
「じゃあ、あの沢井さんの様子はどう説明するんですか?」
確かに最近のかおりには少し元気がなかった。けれど、誰にだって体調の良不良はある。そんな時でも、体調を自分で維持するのが社会人の――いや、看護師の仕事だ。
「つまり、堺さんは沢井のことが心配っちゅーことですかね」
「なっ……わ、わたしは別に、沢井さんのことなんて――」
「なら、言わしてもらいますけどね、あんたが普段沢井に言っていたことは、同じこととちゃいますの?」
さゆりはことあるごとにかおりの『看護』に対して文句を付けてきた。それらの大半は至極真っ当なものだったが、中には噛みつかれるなど理不尽なものもあり、一時はさゆりをかおりの担当から外そうかという話が今まさに出ている所だった。
「あ、あれは……そう、ただのクレームです!」
「ほう、クレームねえ。それならうちでも聞きますし、何なら主任を呼びましょうか?」
「そ、それは……そこまでのことではない、ですけど」
「……うちはな、アンタや他の患者さんに言われんよう、かおりを指導しとるだけやで? それこそ、クレームにならひんようにな」
「だけど、それにしては度が過ぎるじゃありませんか? 他の患者さんや看護師のいる前でなんて――」
「アンタが度が過ぎると感じるのなら、それはうちのせいや。やけどその内容自体は正当なものやで? ……それともあんた、沢井を虐めてもいいのは、自分だけとか思うとらんか?」
「わたしは別に――」
「……悪い、ちょっと口が過ぎたな。うちもまだまだや」
そう言って、やすこは自嘲する。
「けど、沢井に対してうちが言うとるのと、あんたが言っとるの。気持ちは同じなんよ。分かってくれとは言わんけど、温かい目で見とってくれると、助かるわ」
「……山之内さん?」
普段と違う、その真面目な雰囲気を感じさせるやすこを、さゆりはいぶかしげに見つめる。
「――さ、これで終わりや。じゃあまた、点滴が終わったら呼んでくれや。今度は沢井に来させるから、安心しときや」
「なっ、だから別に、わたしは沢井さんなんか――」
さゆりが言い終える前に、やすこは部屋を出て行った。
一瞬見せた、あの表情はどういう意味だったのだろうか。やすこがいなくなった病室で、さゆりは首を傾げた。
☆ ☆ ☆
詰め所に戻る途中、聞き覚えのある話し声にやすこは足を止めた。
「……かおりんさん、大丈夫ですか?」
「え? 何が?」
子供部屋の中から聞こえてくる声をそっと伺うと、かおりとあみの二人がいた。
「最近、忙しそうだし……それに、たくさん叱られてるじゃないですか
、山之内さんに」
「ああ……」
「だから、大変だなあって」
「……ううん、そんなことないよ」
心配そうなあみ、にこりと笑いかけながら、かおりは小さく首を振った。
「あみちゃんはまだわからないかもしれないけど……叱ってくれる、教えてくれる人がいるってことは、とっても嬉しいことなんだよ。それにね、主任もそうだけど、やすこさんが叱るのは、それが意味のあることだから。やすこさんはほら、自分の特にならないことにはとことん無関心だし――」
「ふうん……」
「だからね、わたしは叱られたらちょっとは凹んじゃうけど、それでも辛くはないよ。大丈夫!」
満面の笑みを浮かべるかおりを見て、やすこは自分の意図が伝わっていたことに、少し安心した。
「わかりました〜。つまり、かおりんさんはマゾなんですか?」
「まっ――ま、マゾ!?」
かおり、そしてやすこが絶句する一方、あみは不思議そうに首を傾げる。
「あれ? 何か変なこと言いました? わたし」
「え、えっと……浅田さん、その言葉、誰に教わったの?」
「え、この前なぎさんがぼそぼそ言ってましたけど……」
(……藤沢、後で説教やな)
やすこは心の中で拳を固めた。
「それで、かおりんさんはそうなんですか?」
「え、えっと……その……」
戸惑い、周囲に助けを求めるかおりに、やすこは息を吐く。
……やれやれ、助け船を出してやるか。やすこは深呼吸すると、今ここに来たように装いながら、声を張り上げた。
「おら沢井! こんな所におったんか。まだまだやることはあるんやで!」
「や、山之内さん!?」
「あ、やっちょんさん。こんにちは」
「おう、あみちゃん。今日は元気そうで何よりや。……おら沢井、とっととバイタル計って記録せんと、今日も後組やで?」
「ひゃん、もうこんな時間……ご、ごめんね浅田さん、また今度ね」
奇声を挙げると、かおりは慌ただしく詰所の方へと駆けていく。それを見ながら、まったく世話の焼ける奴やなあと呆れるやすこ。
「ねえ、やっちょんさん。一つ聞いてもいいですか?」
「ん? なんや、あみちゃん」
「マゾ、って何ですか?」
「…………藤沢ァ!」
☆ ☆ ☆
「おはようさん。……あれ? 沢井はまだ来とらんか?」
「おはようございます。ええ、今日はまだ姿をみてませんね」
「……はい、こちら内科病棟です――あ、えっと、今主任はいらっしゃらないのだけど……」
掛かってきた電話を取った派遣さんがちらちらと周囲を伺うのを見て、しゃあないな、とやすこは重い腰を上げた。
「うちが代わりましょか?」
「すみません、お願いします」
「もしもし代わりました、山之内ですけど――」
「……ひゃ、山之内さん! けほけほ」
電話口から聞こえた声は、掠れて時折咳が混じりで聞き取りにくかった。、けれど聞き覚えのある声。
「その声、もしかしてかお――沢井か? どないしたんや、その声と咳」
「すみません、ちょっと風邪を引いてしまったみたいで……」
「邪魔するでー」
「あ、やすこさん……けほ」
ベッドの上で
やれやれとやすこは息を吐いた。
「見舞いに来たで。……どうや、具合は」
「あ、はい、だいぶ熱も下がりました。明日からは、なんとか出られると重います――けほけほ」
「そっか。安心したで。……ああこれ、忘れないうちに、みんなからお見舞いや」
やすこは見皆からカンパを集めて買ってきたものを広げる。
「わあ、ありがとうございます! ……うう、でも……こんな所、見せたくなかったなあ……恥ずかしい」
可愛らしいパジャマ姿のかおりは、ぼさぼさの頭を隠しながらぽつりと呟く。
「ふふ、かおりの恥ずかしい姿、ゲットやな!」
「キャー、やめてください! ……もう」
「冗談やて。……あはは」
「ふふふふっ」
二人は顔を見合わせて、楽しそうに笑った。
「……すまんな、かおり」
「え?」
「ほら、最近無理させてもうてるやろ? だから――」
「い、いえ。単に、わたしの自己管理がいけないからです。最近、お手伝いもできてませんし……」
「そんなのええって。気にせんで安んどき。そのうちまた、頼むかもしれへんし」
「わかりました、そうします。……だけど……」
「かおり?」
「ねえ、やすこさん……」
かおりは少し熱を帯びた瞳で、やすこをじっと見つめる。その目を見れば、何を求めているのかはわかる。けれど――
「……もう、甘えん坊やな、かおりは」
困ったように笑みを浮かべると、やすこはかおりの顔に手をかけると、その額にそっと唇を合わせた。
「あ……」
「今はこれで我慢な。……治ったら、ちゃんとしたるから」
「……はい。絶対ですよ?」
「もちろんや。じゃあな。おやすみ、かおり」
「おやすみなさい、やすこさん」
かおりに布団を掛けなおしてやると、かおりはすぐに寝息を立て始める。やすこはそれを見届けると、物音をたてないように気をつけながら、部屋を出た。
すると、そこには、
「山之内さん――ちょっと、お話があります」
「……なんや、藤沢か」
仁王立ちしたなぎさが、部屋から出てきたやすこを睨みつけていた。
4.
しんと静まり返った寮の廊下で、やすことなぎさは向かい合って立っていた。
「で、話ってなんや、藤沢?」
言われずとも、その顔で何となく言いたいことはわかる。恐らく、かおりのことだろう。
(まったく、堺といい藤沢といい、かおりはモテモテやな。……心配になるぐらい)
「山之内さんは、最近沢井に厳しすぎます! あたしに厳しくするのならわかります。山之内さんはわたしのプリセプターでしたし、今だって似たようなもんだと思っていますか。だけど」
なぎさはやすこをきつく睨みつける。、
「沢井に厳しくするのは違います。それは……それは、わたしの仕事です。いくら二人がつきあってても、関係ありません!」
「……知っとったんか」
「そんなのどこかの鈍感新人じゃあるまいし、見てればわかりますよ! ……まったく、こっちの気持ちには気付かないんだから――」
ぶつぶつと、自分の世界に入りかけたなぎさは、こほんと咳をすると、
「とにかく、山之内さんは沢井に厳しくしすぎです。もっと沢井には優しく」
「……いや、それはできへん相談や」
やすこは目を伏せながら大きく頭を振る。優しくするのは誰でもできる。でも、不条理なほど叱りつけたり厳しくしたりするのは、やすこにしかできないこと。
「確かに沢井にだけ負担がかかっとるように見えたのなら、それはうちのミスや。アンタのこともちゃんと教育しとるつもりやったからな。けどな、残った時間で効率よく教えるためには、こうするしかないんや」
「時間がない……? それって――もしかして」
やすこは頷く。
「そうや。……うちは今月末でこの病院を辞める」
「……そ、そんな――」
その驚きに満ちた声は、なぎさの口から発せられたものではなかった。
二人が慌てて声の方を見ると、そこには――
「……かおり」
玄関先で言い争いが聞こえたのが気になったのだろう。かおりが玄関の隙間から、揺れる瞳で二人を見つめている。
「嘘、ですよね。そんな、病院を辞めるなんて」
「……いいや、嘘やない。本当のことや」
「だって、そんなこと一言も!」
「アンタには黙っててすまなかったて、思っとる」
「――っ!!」
音を立てて玄関の扉が閉じ、中から鍵をかける音が聞こえる。
「あ、沢井!」
「……いや、ええねん。いつか、言わなきゃあかんことだったんや」
やすこは、扉を叩こうとするなぎさの肩を掴んで制止する。
「だって、こんなの!」
「ええんや!」
「……なんで」
なぎさは振り返ると、
「なんでそんなに冷静なんですか! かおりのことが好きじゃないんですか! 一緒にいたいんじゃないんですか!」
「……好きやで。うちは、かおりが好きや」
自分の肩を、軽くぽかぽかと叩くなぎさを受け止めながら、やすこはぽつりと呟く。
「泣き顔も、笑い顔も好きや。一緒におると胸の奥が暖こうなってな、できることならずっと一緒にいたいって思っとる……けどな」
やすこは額に皺を寄せながら、吐き出すように言う。
「好きやからこそ、こうせなアカンのや」
「わかりません。……そんなのわかりたくなんて、ないです」
「わかってくれ、藤沢。うちは――」
「絶対にわたしにはわかりません! だって、もし本当にそうなら……どうして、山之内さんは泣いているんですか?
「は? うちは泣いてなんか――」
驚いた拍子にやすこの手にぽつりと滴がこぼれ落ちた。一つ、二つ――三つ。
「あれ……雨か? にしては急に――」
差し出した手を優しい潮風が撫でるだけで、水は一向に落ちてはこない。それは雨ではない……それを証明するように、やすこの視界が地割りと滲む。
「な、なんやこれ。……はは、おかしいな、うち、どうして、こんな――」
どれだけ押し留めようとしても、涙はぽろぽろこぼれ落ち、コンクリートの廊下を濡らす。慌てるやすこを見て、なぎさは哀しそうな目を向けた。
「山之内さん……」
「……そんな目を向けられなくても、うちかてわかっとるわ」
目元を擦りながら、やすこはなぎさに向き直る。
「藤沢、言いたいことはもう終わりか? ……ならすまん、あとは一人にしてくれひんか。……頼むわ」
「わかりました。……おやすみなさい」
そう言うとなぎさは背を向けて去っていく。
やや重い足音が、やがて聞こえなくなってから、やすこはかおりの部屋に向き直る。そして、部屋の扉をノックしようとして……止めた。今会ったところで、何を言ったらいいか、自分でも気持ちの整理ができてはいない。
「……おやすみ、かおり」
そう呟くと、やすこもまた自分の部屋に向けて歩き出す。
ただ無機質な覗き窓だけが、その一部始終をじっと見つめていた。
4.あなたの、さよなら
「はぁ……」
薬剤のチェックをしながら、かおりは大きくため息をついた。その手は先程からほとんど動いていない。
「かおり……」
その隣で、同じくチェックを行っていたなぎさは、慰めの言葉をかけようとして、けれど何と言ったらいいのかわからなくて、口を噤んだ。
かおりの悩みはやすこのことだろう。けれどその理由を作ったのはなぎさ自身でもある。……少なくとも、なぎさはそう思っていた。すべての理由をやすこに押しつけて自分は平然としていられるほど、なぎさは図太い神経を持ち合わせてはいなかった。
とはいえもし「あはは、ごめんね。あたしがあんな所で話なんかしなければ――」などと言ったところで、かおりの悩みが消えるわけではない。
結局はかおりとやすこ、二人の問題でしかく、自分ができることは何もないのだ。なぎさが自分の無力さを噛みしめる。
「あのねえ、二人とも――」
一向に作業をしようとしない二人に、はつみが腰を上げようと机に手を突く。その時、別の声が二人の頭上から投げかけられた。
「二人とも、そろそろ薬剤のチェック終わったか? ちょう頼みたいことがあるんけど!
顔を上げた二人の前には、普段通りのだやすこが立っていた。
「……え、あ……すみません、まだです」
かおりは自分の手元と、未チェックの薬剤を見てしゅんとなって肩を丸める。なぎさも肩をすぼめると、すみません、と言う。
「そか。じゃあちょっと、二人で見回りに行ってきとくれんか? ここはうちと主任でやっとくから」
「え!? ちょ、ちょっと!」
はつみが嫌そうな顔をしたが、やすこは気にせず二人をじっと見つめる。
「……お言葉に甘えて行こう、かおり」
「う、うん……」
なぎさに引っ張られるようにして、かおりが出ていくのを見送ると、やすこは「やれやれ」と息を吐きながら、二人の続きからチェックを再会する。
「ほら、主任もぼっとしとらんで、はやいとこ片づけてしまいましょうや」
「……あのねえ、わたしだって仕事が山積みなのに、どうして――」
「まあまあ、たまにはええじゃないですか。気分転換になりますよ」
「はぁ、もういいわ」
口ではやすこに勝てないので、はつみはやすこの隣に座って、手早くチェックを開始する。
「主任、ため息をつくと幸せが逃げていくって言いますよ」
「……いいのよ。わたしは普通に仕事をしている時が一番幸せなんだから。……まったくもう」
やすこをそれを邪魔するのは一体誰かしら、と言うように一瞥する。
「確かに時間はあげるとは言ったけど、内科の雰囲気を悪くしてもいいとは言った覚えはないんだけど」
はつみは詳しいことは知らなかったが、三人の間で何かがあったのだろうということは容易に推測がつく。
かおりはずっと何かに悩んでいるようだったし、なぎさもそれに引きずられてため息ばかり。やすこは一見変わらなく見えるが、今のかおりに何かがあるとしたら、原因は彼女しか考えられない。
「……わかってますて。別に、うちかて最後にひっかき回したい訳じゃあらへん。「立つ鳥後を濁さず」や」
「あなたの理想はなんでもいいのだけれど」
はつみは最後の照合を済ませると、やすこを真っ直ぐに見据えて言う。
「泣いても笑っても、あと二週間しかないのよ。指導も含めて、はやく何とかしなさいね」
「へいへい。まったく、人使いの荒い主任や」
悪態をつきながら、やすこは自身もまた薬剤のチェックを終えた。
☆ ☆ ☆
その日の午前も昼も無事に過ぎ、午後はあまり忙しくもないアイドルタイムになっていた。
この機会に、少しかおりと話をしようと思って、やすこはあたりを探し回っていた。
(寮だと最近、部屋に入れてもらえんからな……)
あの後、何回かかおりの部屋を訪ねたが、帰ってくださいの一点張りで、ちゃんとした話し合いができないでいた。
「……ああ、藤沢。沢井しらんか?」
「沢井……ですか?」
ちょうど目の前を通りかかったなぎさを、やすこは呼び止めた。なぎさは自分が今来た方を指さしながら、
「沢井だったら……たぶん、子供部屋【三〇六】かと」
「そか。ありがとう」
「……あの、山之内さん」
やっと見つけたで、と意気揚々と子供部屋に向かおうとするやすこを
、今度はなぎさが呼び止めた。
「ん? どした?」
「この前はすみませんでした。あんな場所で」
なぎさは神妙な顔で、深々と頭を下げた。
「ああ、この前のことか。ええってええって、あれはうちも迂闊だった。……まさか病人の沢井が起きてくるとはこれっぽっちも思っとらんかったし」
「でも……」
納得がいかない様子のなぎさに、やすこはふぅと息を吐く。
「それなら、藤沢が傷心のうちを胸で泣かせてくれるっちゅーんか?」
「え!? そ、その……それで、や、山之内さんが、許してくれるなら……」
戸惑いながらも、おずおずと両手を開くなぎさ。
「そか。それじゃあお言葉に甘えて――」
そう言いながら、やすこはなぎさに手を伸ばし――おもむろにその胸を、鷲掴みにした。
「ひゃあっ!?」
「あっはっは、冗談やって。そもそも抱きつかせてもらうなら主任ぐらいの大きさがないと。こないな貧乳じゃ、沢井かて慰められんよ?」
「なっ……」
なぎさはやすこの腕を振り払うと、その手をわなわなと震わせる。
「もしかしたら山之内さんも傷ついているのかなと思ったわたしが馬鹿でした! もう山之内さんなんて知りません!」
「おう、結構結構や!」
そう言ってそっぽを向くなぎさを見ながら、やすこは心の中で小さく頷く。
(ふふ……あんたに心配されるほど、うちは落ちぶれてへん)
「なあ、藤沢」
「なんですか! もう!」
「……後のことは、頼むな」
「! 山之内さん……」
すれ違い様にそう囁き、なぎさの声に手で応じながら、やすこは三〇六へと向かった。
「ねえ、かおりんさん。お願いがあるんですけど……」
「……なに?」
三〇六の前にたどり着いたとき、部屋の中から話し声が漏れ聞こえてきた。
(かおりと……あみちゃんか、これは)
やすこは入り口の手前で立ち止まると、二人の会話に耳をそばだたせる。どうやら、今三〇六にはあみとかおりの二人しかいないようだった。
「その、前みたいにまた、頭をなでなでしてもらえませんか?」
あみは普段は自分を押し殺して、いい子であろうとする。
けれど、本当に心を許した人には、こうして年相応の自分をさらけ出す。その二面性が、やすこには少し苦手で、またあみもそれをわかっているのか、やすこの前でそういう態度をとることはなかった。
「……ごめん、浅田さん。わたし、さっき『汚染物』に触れたばかりなの。だから――」
「ええー! かおりんさん、最近そう言って撫でてくれないじゃないですかぁ」
「それは……」
「かおりんさん、山之内さんによく誉めてもらってたじゃないですか。わたし、ずっとそれを羨ましいって思ってたんです」
「……そう」
「ねえ、かおりんさん。もっとわたしのことも見てくださいよ! 山之内さんだけじゃなくて!」
「っ! もう、いい加減に――」
かおりの顔に不穏な色を感じたやすこは、とっさに声を挙げた。
「沢井!」
「!!」
その声に我に帰ったかおりは、慌てて振りあげた手と言葉を飲み込み、そしてやすこを不安と悲しみの入り混じった目で見つめる。
「沢井。……それ以上は、アカン。……わかるな?」
「……はい」
「なあ、あみちゃん。沢井、ちょっと借りてもええか?」
「あ、はい、いいですけど……」
「すまんな。ほら、沢井ちょっと着いてきとくれ」
☆ ☆ ☆
「よっ……と」
力を込めて、屋上への扉は音を立ててようやく開き、勢いよく風が流れ込んでくる風に、やすこは目を細めた。
「今日は風が強いなあ。後で嵐でも来るんかね」
「……」
俯いたまま、一言も発さずに後ろをついてくるかおりにため息をつきながら、やすこは手すりに体重を預ける。
「ここに来ると思い出すなあ、かおり」
「……何をですか?」
「何をって……あの時、ここで言うたやないか。『好きや』って。あれからもう一ヶ月か。月日が経つのは、あっという間やな」
「……らないんですか」
「ん? なんか言うたか?」
近づいて、耳を傾けるやすこをきっと睨みつけて、かおりは言った。
「怒らないんですか、わたしのこと」
「どうしてや?」
「だってわたし、あみちゃんに――患者さんに、あんなこと言おうとして」
「あんなあ……かおりはマゾなんか?」
呆れたように、やすこは呟く。
「ま、マゾ……?」
「あれがいけないことやって、自分でわかっとるやろ? だったら別にええやん。わかっとらん相手に気づかせるためにするならともかく、本人がわかっとることを怒ったかて、お互い何の得にもならんやないか」
やすこは俯くかおりを振り替えりながら、続ける。
「……それにな、あんた言うてくれたやん。うちが怒るのは、ちゃんと意味があるときやって」
「……聞いてたんですか、あの時」
やすこは頷き、にこりと笑った。
「嬉しかったで。かおりがウチのこと、信頼してくれとるのがわかって」
「あの時は、そうでした。けど……」
瞳から涙を溢れさせながら、かおりは縋るようにやすこを見る、
「それじゃあ、どうして、急に転勤なんて――」
「……ウチはな、かおり。仕事とプライベートは分けたい性質【たち】や。仕事は仕事できっちりやるし、それが終わったらプライベートはプライベートでしっかりやる。そういうメリハリが大事やって思っとる。……やから、それがごっちゃになる職場恋愛なんてもってのほかやってずーっと思っとった」
「…………」
「せやけど、自分が当事者になってみると不思議なもんでな。意外とそういうんも悪くないなって思ってしまう。その人の助けになろう、いい所を見せようって思って働くんが、気持ちよく思えてしまう。やけど」
かおりの涙を指ですくいながら、やすこは言葉を続ける。
「この前、主任に釘を差されたわ。アンタを贔屓にし過ぎやって。それを聞いて、これじゃあかんと思ったんや。……ウチのためにも、アンタのためにも」
「……つまり、わたしが邪魔だって、そういうことですか?」
「ちゃうちゃう、それはちゃうで」
やすこは慌てて首を振る。
「あたしはな、ええねん。この仕事は好きやけど、基本的には稼げるからやっとるだけや。……せやけど、あんたは違うやろ?」
「それは……」
「あんたはどっちかっていうと、主任みたいなタイプや。看護師という仕事に全てを捧げることができる――うちらみたいに、そう言う生き方を諦めた人間とは別のタイプや。看護師になったのも、夢があってのことやろ?」
こくりとかおりは頷く。かつて自分を救ってくれた医療に恩返しがしたい。それがかおりが看護師を目指した理由の一つだ。
「うちはな……アンタがそれを諦めてしまうんが、捨てざるをえなくなってしまうんが怖いんよ。いくらあんたがウチのことを好いてくれたからであっても、そんなことになったらウチは自分を許せへん」
「そんなことには――」
「ならん、と断言できるか? できひんやろ? ……やから、うちはここを出ていく。アンタのために。そう、決めたんや」
「やすこさん……」
「なーに辛気くさい顔しとるんや、かおり。笑え、笑わんと、患者さんが不安になる。辛いときこそ、悲しいときこそ、うちらは堂々と笑うんや!」
「……はい!」
ごしごしと顔を擦り、かおりは笑みを作る。
「よーし、それでええ! ……それでこそ、うちの好きなかおりや」
「やすこさん……」
やすこはそっとかおりの顎に手を当てる。
「離れても、うちの気持ちはずっと変わらひん」
「……はい」
「……好きや、かおり」
「わたしもです、やすこさん……」
優しい午後の潮風に包まれながら、誰もいない屋上で、二人はそっと唇を重ねた。
☆ ☆ ☆
「……やれやれ、やっと片づいたな」
がらんとした部屋を見渡して、やすこはため息をついた。
「かおりも、お疲れさまや」
「は、はい……」
今日がやすこにとって、百合ヶ浜総合病院の寮で過ごす、最後の夜だった。にもかかわらず、その日の夜まで掛かって引っ越しの準備に追われていた。
「引っ越し屋のお兄さんも呆れてましたよ、もう……」
「金払っとるんやから、文句言われる筋合いはないっちゅーねん! かおりも堂々とせんから」
「そんなこと言われたって――」
「……しっかし、すっかり綺麗になったなあ」
感慨深そうにやすこが呟く。机も、一緒に作業をしたちゃぶ台も、ベッドも――何もかもなくなって、後にはフローリングの床が広がっている。。
「引っ越しなんて、慣れとったつもりなんやけどな――なんか、しんみりしてまうな。なんて、うちらしくないか」
「やすこさん……」
ははは、と笑うやすこを見て、かおりは意を決したように言った。
「……ねえ、やすこさん。一つだけ約束してもらえませんか?」
「なんや?」
「わたしが一人前になったら――誰にも頼らず、一人で何でもこなせるようになったら、その時は戻ってきてくれますか?」
「それは……」
やすこは少し考え、そして頷く。
「……わかった。アンタがうちのパートナーにふさわしくなった、その時には戻ってきたる」
「ほ、本当ですか?」
「ああ。やすこさんは嘘つかん!」
「……じゃあ、はい」
「はぁ、なんや、原始的やなぁ……」
「いいから、ほら!」
かおりの差し出す小指に、やすこは自分のそれを絡ませる。
「指切りげんまん嘘ついたらハリセンボンのーます……っと。これでええか?」
「はい! ありがとうございます。……わたし、頑張りますね、やすこさん」
「せやな。もしそのつもりならはようしてな。うちがおばあちゃんになる前に――ああ、そうなったら主任の乳も垂れてまうがな……百合ヶ浜の宝が……」
「……そっちも、頑張ります」
自分の胸を手で寄せながら言うかおりに、やすこはくすりと微笑む。
「それよりな、かおり。そろそろアンタの部屋へ行かへん?」
「え、いいですけど……うちに来てもまだ何もないですよ? 買い置きもないし、お買い物に行かないと……」
「そんなんどうでもええねん」
やすこはきっぱりと言う。
「うちはな――」
耳元で囁かれたかおりは顔を真っ赤に染めた。
「これでもさっきから我慢しっぱなしなんやで?」
「……は、ははは、はい!」
かおりは耳まで真っ赤にして、小さく頷いた。
隣で、かおりがすーすーと安らかな寝息をたてている。
「まったく、何が今日こそはーや。ぜんぜん駄目やないか」
くすりと微笑むと、やすこはかおりの柔らかな頬をつつく。――すべてはここから始まった。結果的にこうなってしまったけれど、後悔はしていない。かおりを好きになったことは、かけがえのないことだった。
その背中から手を回して、やすこはかおりを優しく抱きしめた。
どんなに離れても、どんなに会えなくても忘れはすまい――かおりの匂いを、温もりを、そしてこのときめきを。
……けれど、急に不安になった。
時の流れは残酷だ。いつか、かおりのことを忘れてしまうのではないか。そしてかおりも、自分のことを忘れてしまうのではないか――そんな想いが、暗闇の中からわき起こってくる。
何かないだろうか、自分とかおりの記憶に留めておけるものは。いつでも見て、思い出すことができるものは――。
そんな都合のいいものなど、あるわけがない。けれど……
「……そうや、なければ作ればええ」
これまでだってそうやってきたのだ、今だってそうすればいい。
やすこは手荷物の中からスケッチブックと鉛筆を取り出し、月明かりを頼りに、動かし始める。下着姿で、真剣に筆を振るうその姿は少しミスマッチではあったが、やすこらしい姿でもった。
「……できた」
やすこが手を止めたときには、もう日が昇りかけていた。やすこはスケッチブックから一枚を破り、テーブルの上にそっと置いた。
……これを見たとき、かおりはどう思うだろうか。悲しむだろうか、喜ぶだろうか。まあそれは、次に会うときの楽しみにしておこうとやすこは思った。
「おお、もうこんな時間か、そろそろ行かんとな。……それじゃ、またな、かおり」
やすこは幸せそうな顔で眠るかおりの頬に口付けを残して、部屋を後にした。
後 そして、あなたの
あれから五年が経ち、百合ヶ浜病院は色々なことが変わった。
まず、常盤師長の定年退職に伴い、はつみが師長に繰り上がることになった。そして、空いた内科主任の席に昇格したのはかおりだった。
最初こそ驚いたものの、なぎさが外科へ転籍したこともあり、元々人手不足の百合ヶ浜総合病院では、かおり以外には適任者がおらず、はつみのサポート付きでという制限付きながら、かおりは主任を勤めることになった。
最初こそ緊張しっぱなしではあったが、最近ではそんな余裕もないほど仕事や研修、書類の作成に追われている。
時折辛くなったり挫けそうになってしまうこともある。そういう時は決まってかおりは屋上に行く。欄干にもたれながら、懐から四つ折りにした紙を取り出す。そこにはポニーテールの女性がこちらを優しく見つめている姿が描かれている。
「……こんな所見られたら、怒られちゃうな、きっと」
あはは、と笑っていると、後ろから「すんません」という朗らかな関西弁が聞こえた。
びくりとして振り返ると、そこには一人の看護師が立っていた。
「あー、驚かせてすんまそん。下で、主任がここにいるって聞いたんで」
「……いいえ、大丈夫ですよ」
かおりは一瞬驚きの顔を見せると、顔を綻ばせて、彼女の元にゆっくりと近づいていく。
この前ベテランの派遣さんが退職されてしまったので、代わりの看護師を探していて、やっと見つかったのだ。
何でも、色々あって前の病院を追い出されたらしいのだが……彼女を面接したはつみは、彼女ならきっと大丈夫よ、と太鼓判を押していた。
「……なるほど、そういうことだったんですね」
くすりと笑うかおりを、彼女は全く気にしないような素振りで、
「しかし、ここは変わらんなあ……なにもかも、あの時のまんまや」
「そうなんですか? わたしが来てからは色々と変わったんですよ。新人も増えましたし、患者さんも入れ替わりましたし」
「そか。……あんたはどうや?」
彼女は子供のような笑みを浮かべて、問いかける。
「わたしも同じです。変わったところもあるし、そうでないところもありますけれど……」
かおりはずっと身につけ続けている『がぶりん』のヘアゴムを触れた。
「……それは、あなたも同じじゃないですか?」
かおりは彼女の前に立つと、懐にしまっていた紙を、その顔の横に広げた。
「ほら、ぜんぜん変わってない。……あの頃のままです」
彼女は紙の中の女性のような優しい笑みを浮かべて、
「……ただいまや、かおり」
「おかえりなさい、山之内さん。いえ――」
かおりはこぼれるほどの笑顔を浮かべて、彼女に飛びつきながら言った。
「やすこさん!」
きつく抱き締め合いながら、二人はそっとキスを交わした。
あの時と、同じぬくもりを感じながら。
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白衣性恋愛症候群(無印)で、山之内やすこと沢井かおりの話があったらこうなんだろうなと思いながら書いたものです。 (もうちょっと改稿したいのですが、時間が取れないのでこれで一先ず公開します) |
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