無幻加速度 プレビュー
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 これを見つけてしまったか。もう少し丹念に隠しておけば良かったな。

 まあ、筆を執ってしまったからには仕方がない。少しだけ、昔話を書いておこうか。

 私の愛した、お前の父のことでも書こう。気恥ずかしいから、軽い気持ちで読んで欲しい。

 ……あいつは、幻想そのものだった。私は何気ない日々を繰り返すうち、それを愛した。

 あいつも、私を愛してくれた。だが、幻想が何かを愛するということは、それは幻想ではなく現実になるということだ。あいつはそのまま、私の追いつけない幻想の速さで過ぎ去ってしまった。しかし、私がそれを後悔したことは一度だってない。なぜならお前が私の子供だからだ。お前の中には間違いなくあいつと私がいる。同じ速さで歩いている。それが私の誇りだ。

 私がこれより他に語りたいことがあるとすれば、それはお前の物語だ。親として、お前の物語を最後まで見届けたかった。だが、それは親であるがゆえに決して叶わぬことだろう。皮肉なことだ。

 そして、私はお前の物語を語るつもりはない。私が語るのはあくまでも私の物語だけだ。

 お前の物語は、お前が胸を張って語って欲しい。……お前がこれを読んでいるということは、私はもうこの世にはいないのだろう。だから、もし私がこれを伝えられていなかったのだとしたら、これを私の最期の言葉として受け取って欲しい。

 お前に会えて、本当に良かった。

 from M to My Little M.

 

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  †

 

 光を超えた先に見た地平線は、白く光り輝いていたかと思えば、すぐさまそれは反転した。

 すべての景色は色を失い、黒は白に、白は黒に。すべての事象は零と壱の二値に分解され、眼前の窓に映し出されている。激しく明滅する世界に軽い頭痛を覚え、私は頭を振る。

 目や脳に魔力を集中し、再び窓を見る。しかし、通常では処理し得ないほど膨大な量の情報は私にとっては何の意味も持たない。私が見ているのは、その窓の外に映る景色。遙か遠方にある地平線だ。それは、たかだか二里にも満たない先にあるいわゆるそれではない。

 あらゆる情報は、光や電磁波によって伝達されるものであり、当然それは現在広く知られている物理学の範囲では光速を超えることができない。しかるに、現在広く知られる物理学に支配される私たち人間には、光速を超えた先にある事象を観測することはできない。この観測することができる、できないの境界面を差す事象の地平線と呼ばれるものこそが、今私が見ているものだ。

「航行中にあまりフロントディスプレイを見ない方がいいわよ。あなたが狂いでもしたら、私までここに置き去りにされるんだし」

 操縦席をめいっぱいにリクライニングさせて腰掛け、アイマスクを着けている赤マントの同行者が、私に向かって言う。彼女の名は岡崎夢美。今私たちが乗っている『可能性空間移動船』の設計者であり開発者でもある女性だ。彼女は世間からは天才だと持て囃されている。

 しかし、私から見ればただの狂人に過ぎない。例えば、この船には本来不要なはずの『外が見える』窓を設けるあたりがそうだ。この船は因果の隙間、分かりやすく言えば何者も存在しない時間を移動する船であり、目的地の時間と場所さえ正確に指定することができれば障害物などは存在しないのと同じだからだ。反水素エンジンの制御こそ岡崎と、他の同行者のうちの一人の力を必要としているが、それだって自動化することは不可能ではない。「宇宙船的なものには窓が付き物なのよ」この一言で、完全には理にかなっていない窓が船に設置されることになった。天才の発想は常人の合理性を踏み躙るというが、これを始めとする数々のエピソードによって、私は彼女が狂っていると断言する。そして、この窓を割らないことに私がどれだけ腐心しているか、彼女はまったく興味がない。天才は常人を踏み躙る。

「心配はいらん。お前と同じで、狂うことには慣れているんだ」

 視線の先を変えず、皮肉で返す。窓には船の計測している、私には無意味な零と壱が並ぶ。その外も魔力の補助がなければ、ただの無の世界だ。そして、魔力の補助があったとしても地平線から溢れ出す黒と白だけが延々と行き交う、まるで無数の目玉に蹂躙されるかのような景色。だが、岡崎が狂っていたおかげで、私は自分の原点とも言えるこの景色を観ることができた。私は、この先から来たのだ。

「私はこれが観たかった。いや、観なきゃいけないんだ」

 窓の外に向かって呟く。不意に、涙が零れた。

「あ、そう。私には理解できないわね」

 リクライニングに腰掛けたまま、少しだけアイマスクを上げ岡崎は言う。そう、私の感傷は彼女にはまったく関係がない。だが、それと謝意を述べないこととはまったく別だ。

「いや、あんたの狂った浪漫とやらのおかげで、この景色が観れたんだ。感謝する」

「……魔理沙の頼みでなかったら、こんなことしないわ。感謝されても足りないくらいよ。あとお言葉だけど、私にはそんなものを見て喜ぶあなたの方がよっぽど狂ってると思うし、ここはまだ通過点にしか過ぎないんだけど?」

 その通りだ。私の目的はこの景色を見て感傷に浸ることではない。だが、具体的な目的が決まっているわけでもない。この景色を超えた先にある事象で、私が何を見るのか。真実を知った上で、私が何をするのか。それは、今の私には分からない。

「ああ、そんなことは分かってるさ。でも、今から考えたってしょうがない。それまで感傷に浸るくらい、別にいいだろ」

「修論のテーマが決まってるならね。あなただけよ、まだ決まってないの」

「仕方ないだろ。私が初で唯一の非統一魔法物理学の専攻なんだ。基礎研ってのが一番難しいことくらい分かってるだろ。大体、お前も少しは考えたらどうなんだ。それでも担当教授か」

 ちなみに、非統一魔法物理学は正式には開設されていない専攻科であり、非統一魔法世界論そのものが世間からは胡散臭い学説だと扱われているため、表向きには私の肩書きは岡崎の助手ということになっている。非公式と嘘で塗り固められた私の肩書きは、まさに私に相応しいものであった。

「私、魔法のことはよく分からないから。私の役目は成績優秀者でもないあなたを、推薦で院に入れた所で終わってるのよ。感謝されこそすれ、批難される謂れはないわ」

 岡崎は上げていたアイマスクを指先でぱちんと弾き、狸寝入りを始めた。こんなのが世間から天才と呼ばれ、しかも私の担当教官だなど、まったく納得が行かない。学説の提唱者がこの調子なのだから、研究など進むはずもない。そもそも魔法を体系的に研究するためには魔法を伝達する粒子である魔力子の観測が不可欠なのだが、重力子やヒッグス粒子ですら発見に至った現在でさえ、これを観測する方法は見つかっていない。それもそのはずで、魔力子は現在広く知られた物理学の法則に囚われない。それがゆえに、広く知られた物理学に従う装置では観測することはできないし、この可能性空間移動船も物理学の範囲を超え、光の速さを越え、事象を超えることに成功したのだ。そうして実用化に成功し、私の目には普通に見ることができ、操ることができるくせに、観測不可能で一定の法則に従わない(ように見えるだけかもしれないが)のだから始末が悪い。

「くそ、魔法はパワーなんだよ」

 呪いの言葉を吐き捨てても、それは誰にも届かない。

「なら、修論もパワーでなんとかして頂戴」もちろん岡崎にも。「それにしても、不思議なものね。この船に光速を超えさせるなんて芸当ができるっていうのに。目の当たりにしても少し信じられないわ」

 リクライニングに体重をかけ、ギシギシと嫌な音を立てながら岡崎は言う。

「まあ、大したことはやってないさ。光速付近まで加速した船を、ちょっとだけ後押ししてるだけだからな。以前にも言ったが、やってるのはイメージだけだ。で、魔力子で絵を描くと、その通りのことが起きる。想像を、創造に変える。私がやってるのはその程度のことだぜ」

「そういえばあなた、絵はメチャクチャ上手かったわね。今からでも美術科に転属したら? いい画家になれると思うわよ」

 冗談めいた口調で。だが、その言葉の半分は本気だろう。そのくらい、私の絵は売れた。

「あんなのはただの小遣い稼ぎだ。美術でもなんでもない。そもそも、旧時代から写真にデジカメなんて便利なものがあって今はアイカム(iCam―眼球埋込型写真機)なんてものまであるのに、金持ちの奴らがあんなものを喜ぶのは未だもって分からん」

「ああ、あなたはアナログだらけで生きてきたんだっけ。それなら分からなくても無理はないわ」

 一拍置いて、私は答える。

「ああ、母に色々、仕込まれたからな」

 家事に絵や踊り、書道や詩歌のような習い事、武道、それに魔法……。お前が成長し、いつか役に立つ時が来るかもしれない。だが、そんな時はいつまでも来ない方が良いと言いながら。しかし、いずれも高度に文明化された社会ではさほど役に立つとは思えないものではあった。

「……今思えば、不便な生活だった。だが、あの頃の方が楽しかったとも思うかな」

 魔法も使わずスイッチひとつで何でも食べられてしまうというのは、やはりどこか味気ない。高度に発達しすぎた科学は、因さえあれば、あらゆる果を創りだしてしまう。例えば、炭素と酸素と窒素さえあれば、大抵の食物を合成できてしまうようになった。この岡崎が、世界にもたらした恩恵の一つだ。だが、そんな世の中に一番退屈しているのが岡崎本人であることを、私は知っている。

「そういうものよ。テクノロジーにまみれた現代だからこそ、ああいうものの方がありがたがられる。本物の風景を撮していない、絵の方がありがたがられるのよ」

「食べ物にはRealを求めるってのに、風景にはFakeを求めるのか? それもよく分からんが、私にしてみれば、写真だって本物の風景を撮しちゃいない。あれは風景から切り取った、ただの事実だ。刻々と変化する風景を、記憶と時間軸に沿ってカンバスに描き写す絵の方が、よほど真実に近い」

「あ、そう。なら人間ってのは意外と現実主義者ばかりなのかもね。私、そこらへんの機微はよく分からないから」

 そう言って岡崎は再び黙る。手持ち無沙汰になり、手首のリボンを見つめたあと懐から手のひら大の火炉を取り出し、カチャカチャと弄ぶ。どちらも母の形見だ。火炉は淡く光り輝いている。この船を動かしている、私の魔法の源だ。この船は、私の指定した地点に向かって航行している。目的地は、まだ遠い。近くなれば、火炉にも何らかの反応があるはずなのだ。それは、魔力子の密度による。私の、そしてこの岡崎の目的地は、この魔力子が濃密に残る世界。本当の風景の残る世界。夢、幻が未だ生きる世界。私にとっての現のある世界。

 人はそこを、幻想郷と呼んだ。

「目的の事象に漸近しています。自動航行を終了してください」

 ややあって船内に電子音声が響く。気づけば火炉の輝きがかなり強くなっており、それが確かに目的地に近づいているという証明になった。慌てて出力を引き絞り、船の航行を停止する。幻想郷から漏れ出る魔力子の影響がここまで強力だとは。私は、これから待つであろう冒険と世界に身を震わせた。

 船への魔力の供給を止めると、白黒の世界は静かに色を取り戻した。その色は黒にも程近い暗緑色。夜だった。しかし、窓の外に見える景色は、近頃私のよく見た軽くて明るい賑やかなそれではなくて、すべてを塗り潰し、音や光ですら地面に頭を垂れる程に重く、暗い夜だった。そしてその質量を更に増すのは生い茂る鬱蒼とした森。

「小さい頃を、思い出すな」

 呟く。このような景色は、もはや私の暮らす世界には残っていない。残っているのは、こうした景色を映す窓や壁だけだ。岡崎の功績によって酸素も食料も植物に頼らなくても良くなってしまった人間は、ここぞとばかりに申し訳程度に残っていた山林を切り崩し、これまた申し訳程度にそれらを映す遺影を建造したのだ。だが、この船の窓には遺影を映す機能はない。岡崎は世界に退屈してはいたが、自らに免罪符を立てるようなことはしない。きっと、彼女も私と同じで重い十字架を背負って生きているのだろう。ともあれ、私たちは確かに時間と事象の壁を超えたらしい。それを確かにするため、私は同行者を起こすことにした。操作盤から通信機を手に取り、船内にチャイムと放送を流す。

「おい、宇佐見、ハーン、起きろ。岡崎は起きなくても良い」

 岡崎が起きていると面倒だからというのもあるが、ここからの作業では岡崎は役に立たない。それならば、いざという時のためにしっかりと休眠を取って貰っておいた方が助かる。幻想郷は危険な所なのだ。

 私の暮らす世界では優秀な科学者は何者にも勝る資源であるため、危険なアナキストや自然主義者に身柄や命を狙われることがままある。そのため、国連から銃火器の携行が許可されているのだが、岡崎は幼い頃から科学技術分野で功績を残してきたという生い立ちのためもあるのだろう。なよっとしたそこらの研究者とは違い格別に腕が立って、魔法こそ使えないものの、戦力として期待できるレベルだった。だが、睡眠不足ではまったく役に立たないのだ。

 それはつまり、これまで睡眠不足になることを必要としなかった彼女の天才性を示すのだが、それについては悔しいだけなのでここでは伏せる。私は、親譲りの負けず嫌いなのだ。

 岡崎はチャイムに反応して身体を動かしたが、しばらくすると再び寝息を立て始めた。だが、宇佐見とハーンは待てども待てども船橋まで上がってこない。もしかしたら起きていないのかもしれないし、そういえば、宇佐見には遅刻癖があった。事情あって彼女たちの寝室に行くことは憚られたが、致し方ないと向かおうとしたところ、向こうから船橋のドアが開いた。

「遅くなってごめんなさいね。蓮子ったら、まったく起きようとしないんだもの」

「待ちくたびれてこのまま溶けるかとおもったぜ」

 ドアを開けたのはマエリベリー・ハーン。そして、その後ろから寝ぼけた顔の宇佐見蓮子が付いてきている。どちらも私と同じ大学の友人であり、秘密を共有する仲でもある。そういった縁があって私たちはサークルを組んでよくつるんでいた。そのサークルの目的と、また彼女たちの持つ秘密がこれから必要となることもあって、この危険な旅にまで同行してもらったわけだが、そういった理由がなくてもこの二人はよくつるんでいた。今とて薄紫色のワンピースを上品に着こなして、自慢の金髪にさらりを指を通しているハーンに対し、宇佐見は顔くらいは洗ってあるだろうが、どことなくパサっとした黒髪は寝癖で所々髪が跳ね、ワイシャツの襟も曲っておりネクタイの結び目も様になっていない。その上、まったく悪びれもせず大口を開けてあくびをした。専攻も性格もまったく違う二人が何故いつもつるんでいるのか私にはまったく理解できなかった。

「おい、宇佐見。なんか釈明はないのか」

「ふわあ……っと。そうね、一つあるとすればそれは私が遅刻することを見越してもっと前の時間に降りなかったあなたの落ち度よ。釈明して時間が戻るならそうするけど、長々と反省の言葉を述べてどんどん時間が後ろになるのがいいかしら。どうする?」

「くっ、この……!」

 苛立ちで出そうになる手を堪え、頭を掻き毟る。宇佐見は岡崎と同じ類の人間だ。合理的で、嫌味で、遅刻癖と出で立ち以外には隙がない。学部三年の頃には院への推薦を決め、見事岡崎研の一席をもぎ取った時には誰もがやはりと呻きを漏らしたものだ。

「分かったみたいね。さ、早速外に出ましょう! 秘封倶楽部の活動開始よ!」

 そういうと宇佐見は満面の笑みで拳を高く上げ、私たちに掛け声を要求した。これが、私たちのサークル『秘封倶楽部』活動開始の合図である。

「「「おー!!」」」

 私は今時古いと反対したのだが、宇佐見によると古ければ古い程よいのだそうだ。そういう気持ちには感じ入らないこともないので、私もこの掛け声はいうほど嫌いではない。

 揃って船橋から甲板に出る。そこで私の目に最初に飛び込んできたのは、光の雨だった。私たちは一様に感嘆の声を漏らす。船の中から見た景色は先の見通しが効かない暗緑色の闇であったが、外は月や星が降ってきそうなくらいに明るく、その光が森を幻想的に照らしていた。森全体が淡く輝いているようで、ほんのりと肌寒い空気と、涼やかな虫の声がその神秘性をさらに際立たせている。触ると溶けてしまいそうなその淡い輝きは、しかしどこか不思議な暖かさをもって私たちを出迎えた。

 と、宇佐見の足元がふらつく。慌てて肩を抱き止めると、「ありがと、ナイトさん」などと言って片目を閉じながら、こめかみを押さえて頭を振った。急に起きたことが原因での貧血だろうか。顔色を見る限りは大丈夫そうだが、変なことを言うものだから少し恥ずかしくなって、肩から手を離し、空を見るふりをして慌てて目を逸らす。

「すごいわね、情報が多すぎて頭が痛いわ」

「そうか……星が」

 宇佐見は目を閉じ黙って首を横に振る。星を見て時間が分かる程度の能力。宇佐見の持つ秘密の一つだ。星が見えすぎてそのための情報が多すぎるのかと思ったが、違ったようだ。

「いいえ、それがそうでもないみたい。眼を閉じてもハッキリと時刻が分かるの。

 西暦二〇一二年 十月三十日 午前二時 三十七分 四十二秒」

 目を閉じ、宇佐見はハッキリとそう諳んじた。日付は、私たちの暮らす時間から十五年ほど前。私たちが生まれて間もない頃だ。私は宇佐見の能力を、星が発する魔力波を人間の持つ感覚器の中でもとりわけ鋭敏な目が感知しているのだと見ていたが、濃厚に漂う魔力子のために、目を開く必要がなくなっているのかもしれない。それを確認するために私は口を開いた。

「ってことは、もしかして……場所も分かるのか?」

 目を閉じたまま、今度は黙って首を縦に振る。大当たりだ。月を見て場所が分かる程度の能力。宇佐見のもう一つの秘密だ。これも、目を閉じていても分かるという。

「北緯三五.八九七九五度、東経一三七.四八〇一六四度。

 長野から岐阜にまたがる山中。目的地に間違いないわ」

 そう言ってから、宇佐見は光の中でそうするように、眩しげにゆっくりと目を開く。

 目的地は、御嶽山という霊山であった。この山を選んだ理由はその霊山と呼ばれる所以となる山岳信仰にある。

 霊的に強力な場というのは、魔法や結界にも縁が深く、幻想郷への足掛かりとなると考えたのだ。もちろん、この時代であればこの山以外にも霊山と呼ばれる山は残っている。少なくとも、この山よりも大きな霊山が三つはあるはずだ。しかし、私たちにそれらを知る術はなかった。

 修験道の開祖によって開山され、それ以降も数々の行者によって歩まれたこの山は、霊山と呼ばれる場所の中でもとりわけ幅広く根強い信仰を持ちながらも日本三霊山に含まれることはなく、数々のオカルトが排斥された私の暮らす時代においてもその歴史と残骸をわずかながらに垣間見ることができたのだ。つまり、私たちが知ることができた最も大きな霊山がここだったというわけだ。

「しばらくは頭の中が五月蝿そうだけど、慣れるしかなさそうね。メリー、あなたの調子はどう?」

 そうだ。宇佐見がこの調子なのだから、ハーンも同じような状態なのかもしれない。ちなみにメリーというのはマエリベリーという呼びづらい名前に代わる彼女の愛称だ。私は女友達を名前で、ましてや愛称で呼ぶということには慣れていなかったので今でも彼女達のことは苗字で呼んでいる。名前で呼べばいいと彼女達は言うが、こればかりはどうしようもない。

「ええ、周りの灯りがないだけでこんなに夜の森がきれいだなんて。もう幻想の中に来てしまったようですわ」

 そして呼ばれたハーンは、空を見上げ、眼を輝かせたまま頓珍漢な答えを返した。

 宇佐見と私は揃って足元を滑らせた。

「そ、そうじゃなくてだな」

 隙のない宇佐見に対し、ハーンにはどこか天然っぽさがあって偶についていけないことがある。非常識ながらも常識的な会話の通用する宇佐見よりもむしろ厄介かもしれず、普通の人間たる私には非常に辛い。

「ああ、目のこと? もう船の中にいる時から目が騒がしいから慣れてしまいましたわ。結界だけではなくて、色々なものの境目が分かるみたい。蓮子が夢から覚める様子もはっきりと分かったわ」

「ってことは見えないはずのものが見えてるってことか?」

「そうみたい。まだよく分からないけど。蓮子とは少し違うのかしら。同じなのは、頭の中がすごくザワザワするということね。今も……」そう言って、ハーンは星空を見上げる。「このあたり全体が何かの境目になっているみたい。多分これがあなたの言っていた結界なんだと思う。ただ、残念ながら結界そのものの境目はこのあたりにはないみたい」

「そう……じゃあ、あんたの出番みたいね。いつも魔法を使ってるあんたなら大丈夫だと思うけど、どう?」

 宇佐見が私に目を向ける。そう。いくら幻想郷に近づいて彼女たちの能力が強くなっているとは言え、彼女たちだけの力では綻びのない結界を通り抜けることはできない。そこで私の出番だというわけだ。どう、というのは先程のハーンに対する問と同じ類のものだろう。

「そうだな……頭の中がザワザワするのは同じだ。まるで頭の中に魔力が通る血管ができたんじゃないかって思うくらいにな。でも、悪い気分じゃない。身体が軽いし、世界がすごく明るく感じる。暗い深海から、陸地に出たような気分だ」

「それって死ぬんじゃないの?」

「縁起でもないことを言うな、馬鹿」

「言っておきますが、成績であんたよりも下だったことはあらゆる科目でついぞありません」

「口の減らない女だな。だからモテないんだ」

「あんたみたいな男女に言われる筋合いはないわ。髪もそんなにバッサリやっちゃって、それでその言葉遣いなんだから、中途半端ったらありゃしない。アンタのその喪服みたく白黒つけなさいっての!」

「なにを。汚部屋住まいで料理もできないお前の方がよほど男女だろうが。それに服のセンスに関しちゃ不本意ながらお前も私と大して変わらん」

「私はネクタイがワンポイントになってるから良いのよ!」

「私だってリボンくらいは着けている!」

 宇佐見と私の間で火花が散る。だが、そんな様子をハーンはニコニコと眺めるばかりだ。

「本当に仲が良くて、羨ましいわ」

「「だれが!」」

 声をハモらせて、顔を見合わせたあと、背ける。負けず嫌いなのは私も宇佐見も同じだが、そんなタイミングまで同じなのは少し勘弁していただきたい。

「まあ、絶好調なようで何よりだわ。それで、どうするの?」

 宇佐見は首だけこちらにチラリと向け、問う。

「ん。そうだな、ちょっとその辺の様子を見てくるよ」

「その辺って、どうすんのよ。こんなに広いとこ、一人で回れるわけないでしょ」

 それには答えず、私はつま先でトントンと地面と叩いた。ふわりと身体が浮く。

「お、できたできた」

 それを見て、宇佐見もハーンも目を丸くする。

「え、何よそれ。あんた、箒がないと飛べないんじゃなかったの?」

 今の私は箒を持っていない。それどころか、火炉で魔力を集めることすらしていない。

「分からん。でもなんか、できるような気がしたんだ」

 ふわりと空中で一回転。身体にまとう魔力が、イメージ通りに身体についてくる。短く切った髪も邪魔にならない。夜の冷たい空気が髪と顔を流れていき気持ちがいい。逆さになったまま見下ろす星空はどこまでも続く光の海のよう。不思議な高揚感を覚え、海に飛び込みたくなった私は、そのまま空に身を躍らせた。

「ねえ、ちょっと待ちなさいよ! ―り―」

 風を切る音が気持ちよくて、宇佐見の言葉は後半がまったく聞き取れなかった。地上が小さくなる。空が近づくにつれ高揚感が増す。眼の奥が熱い。耳鳴りが酷い。ただ身を切る風を感じ、空を飛ぶ。手首に巻いたリボンが、風に煽られはたはたと揺れた。

 高揚感にも慣れた頃、見上げると、遙か高くに山頂があった。私たちの船は灯りがあったから辛うじて認識することができたが、もう小さな点にしか見えない。逆さのままであったことを思い出し、飛ぶのをやめて上下を正す。もっと空に近づけば、地平の先から太陽が拝めるかもしれないが、恐らくその時私は生きてはいまい。見渡すと、闇しかない世界。そこで私を包むのは星と月、そして濃密な魔力子のみ。それはこの山を中心に集まっているようだった。見込みの通り、霊山と呼ばれるに相応しい。そして、妙なことに気づいた。地上よりも魔力が濃い。これが、不思議な高揚感の秘密か。母から、魔力酔いという現象があるということは聞いていた。これが恐らくそうなのだろう。さらに、上空の方が魔力が濃いという事実はもう一つ別のことも指し示していた。

「そうか……もしかして」

 私はそれを確認すべく地上に戻る。ずっと飛んでいたくなるくらい気持ちが良いが、あまりそうしていると魔力酔いから帰って来られなくなるかもしれないし、馬鹿と煙はなんとやらと宇佐見に揶揄されそうでならない。

 地上に戻ると、呆れた顔の宇佐見と、好奇心に顔を輝かせるハーンが待っていた。私はゆっくりと呼吸を整える。まだ、心臓は早鐘を打ち続けており高揚感も収まっていなかった。

「まったく、人の話を聞かないんだから」

 腰に手を当て、目を尖らせながら宇佐見が文句を言う。

「別にお前が倶楽部のリーダーってわけじゃないんだ。魔法の領域は私の領域。それでいいだろ」

「……ったく。それで何かわかったの?」

「ああ。もちろんだ」

 私はハーンに目配せし、相変わらずの眩しい星空を見上げる。ハーンもつられて上を見る。

「分かるか? ハーン。ずっと、ずっと高くだ」

「……ええ……そういうことでしたのね」

 ハーンは一度目を閉じ、ゆっくり謳うように呟いた。

「ちょっと、私にも分かるように説明なさいよ」

「飛んでみたら、空の方が魔力子が濃かった。もしやと思ってハーンに確認した。結界の境界だ。空にあったんだよ。ここいらの魔力子はそこから降ってきて、この山に集まっていたんだ。ずっとずっと高い、成層圏よりもさらに上空かもしれないが……さすがにそこまで飛んだら私も死んでしまう」

「ええ、言うとおり。普段の私ならきっと気づかないくらいに高いところにあるみたい」ハーンが私の言葉を肯定する。「岡崎先生の出番ね」

「ああ。面倒だから、できれば岡崎はおいていきたかったんだが」

 私はちらりと船の方を見た。いくら天才で、さらに重火器の腕が立つとはいえ、岡崎は普通の人間だ。幻想郷の妖怪どもに敵うとは思えない。そうなると、私が魔法で守らなくてはいけなくなるのだ。仮に守る必要がなかったとしても、岡崎が面倒であることに変わりはないが……

「あら、あっちのこともちゃんと知ってもらった方が修論書くのに助かるんじゃないかしら」

 その様子を見た宇佐見は口元に手をあて、ニヤニヤとした表情でわざとらしく吹き出した。

「あのなあ、守る人間が増えるほど私が大変だということを忘れるなよ」

「ええ、期待してるわ。頭の方には期待しないけど」

「ああ、そうしてくれ。たった今、何かあっても助ける優先度はハーンの方が高いということに決まった。日頃の行いを悔いながら死んでくれ」

「あら、レディを守るナイトさんは平等主義じゃないのかしら」

「お前がレディならな、男女」売り言葉に買い言葉。私は意外と根に持つタイプなのだ。「まあ、それはともかくとして、私は、お前たちなら私が守る必要がないくらいには魔法が使えるようになるって踏んでいるんだがな」

 そう。彼女たちはその不思議な能力からも分かるとおり存在そのものが幻想に近い。そして訓練さえ積めば、私を超える魔法使いになることができるだろう。これは半ば確信だ。幻想を感じることができるものであれば、訓練さえすれば誰でも魔法は使えるようになる。魔法は能力じゃない、ただの技術だ。それは、母の受け売りでもあった。幻想郷では魔法が使えることが大前提。それに加え、個々人の異能を駆使して戦う世界なのだ。私にはそういった異能は何一つない。ゆえに、私は普通の魔法使いである。

「今更って気もするけど」

「一朝一夕には大した期待はしていないさ。それでも霊撃やスペルの一つも使えりゃ、いざって時に時間稼ぎくらいにはなる。幻想郷くらい魔力の濃密な世界なら感覚を掴むのも容易いだろ。上達だって早いはずだ」

「分かんないわね。なんでドンパチやるのが前提なのよ。それに、そんな生兵法、大した役に立つとは思えないわ。あんただって、一夜漬けじゃ単位が取れないことくらい身に染みてるでしょ」

 痛いところをついてくるが、そこは無視だ。

「馬鹿だな。誰も戦えなんて言いやしないさ。逃げるんだよ」

「あっ、また馬鹿って」

「三十六計逃げるにしかず。逃げる力は別に戦闘がなくたって役に立つ。向こうの人間にはあまり接触しない方が良いんだからな」

 特に、幻想郷と所縁の深い私などは。自分にも言い聞かせるため、そう口に出す。ハーンはそれに大きく頷き口を開いた。いいタイミングで口を挟んでくれたと心の中で感謝する。

「そうね。じゃあ、あっちに着いたら『ちゆり』の言うとおり、魔法の勉強をしてみようかしら。どうせ、教科書も論文も持ってきていないのだし」

 ちゆり、フルネームで『北白川ちゆり』。それは正式な戸籍を持たない私が、岡崎に用意してもらい本名に代わって使用している偽名だ。

「おい、大学じゃないんだから、偽名で呼ばなくたっていいだろ。それにその名前は女々しくて敵わん」

「じゃあ、どう呼べばいいのよ。今は良いけど、あっちに行ったって本名が知れたらヤバイでしょうが」

「そうだな……」思いを馳せる。一人前の魔法使いにもなれない私、男女と言われる私、自分自身にすらなれない私、赤いリボンを巻いて完全な白黒にもなれない私、そんな中途半端な私は

「―M、エムでいい。何者にもなれない、これから何かを探しに行く私にはお似合いの名前だ」

 

 船内に戻ると、岡崎はまだ寝ていた。熟睡だ。口元にはよだれが垂れている。赤マントを毛布がわりにしているが、胸元がはだけて下着が覗き、リクライニングの下には服が脱ぎ捨てられていた。あまりの痴態に私は目を逸らす。

「おい、岡崎。起きろ」

 反応はない。船橋の入り口から声をかけた私をよそに、おもむろにハーンが岡崎の元に歩み寄る。嫌な予感がした。

「そんなんじゃだめですわ。毛布剥ぎ取って揺すらないと」

「わーっ、馬鹿! やめんか!!」

 私は慌てて部屋の外に目を向ける。男友達からも、女友達からも馬鹿にされるが、私はこういった光景は苦手なのだ。直後、バサっと布をはためかせる音がし、ギシギシとリクライニングの揺れる音が続く。それを追いかけるように、岡崎の呻き声がした。

「う……うぅん……」

 普段の岡崎からは想像できないような、桃色めいた声に思わずどきりとさせられる。違う、これは魔力酔いの残滓であって、私にそういう趣味はない。目を硬く閉じると、残った耳がやけに敏感で、まるで耳元で岡崎が呻いているようにすら聞こえる。

「ねぇ、先生……岡崎先生ってばぁ……」

 ギシギシギシギシ

「ぁん……うぅん……」

 だめだ、耐えられない。薄目を開けると、宇佐見がニヤニヤとこちらを見ていた。

「ねぇ、まるで岡崎先生とメリーがセックス―

「わー!!」

 宇佐見の後半の言葉を私の叫びでかき消す。冗談じゃない。

「船室に戻ってるから、岡崎が起きたら呼んでくれ」

 返事を待たずに自分の船室に戻り、ベッドに仰向けに倒れて深呼吸する。でも、胸一杯に空気を吸い込むと外から船内に入り込んできている魔力子も一緒に肺の中に入ってきて、余計に胸がドキドキと高鳴った。どうにも息苦しくなり、ベッドから立ち上がる。なんとか収まらないものかな、とベルトの留め具を外してズボンを降ろそうとした。と、プシュっと空気の抜ける音がし、船室のドアが開いた。

「―っっっ!!」

 声にならない悲鳴をあげる。

「ったく、今時ウブなんだから。別にあんたの下着なんか見たってなんとも思わないわよ」

 動転して固まる私を無視し、宇佐見はベッドに腰掛けた。

 どうやら私の後を追ってきたらしい。部屋に戻るや否やベッドに倒れこんだせいで、鍵をかけるのを忘れていた。

「ずっと船操縦してたんでしょ? シャワーくらい浴びてきたら? どうせしばらく岡崎先生、起きないと思うし」

 つまり、そういうことだと勘違いしたらしい。立ったまま固まっている私に上目遣いの視線を向け、気遣いの言葉をかける。その様子が存外に可愛らしく、またもや私はどきりとさせられる。宇佐見は無遠慮で図々しいが、こういった気遣いのできるところもあり、そういうところは私も好ましいと思っていた。ともあれ、そのように勘違いしてくれたことは幸いだ。ホッとして、サイドテーブルに置いてあった水を飲み干す。

「それともなに? 興奮しちゃって、オナニーでもしようとしてたの?」

  ―ぶっ

 汚い音を立てて思わず水を吹き出してしまった。

「しょうがないわよね。こんな船の中じゃオカズもないし、溜まっちゃうものは溜まっちゃうもんねえ。私はメリーがいるから良いけど」さらりととんでもないことを言う。「ねえ、なんだったら私とセックスしてみる?」

 しかし、後に続いたのはもっととんでもないことだった。

「ばっ」

「あ、また馬鹿って言おうとした。割と本気で言ってるのよ。魔法使いがどんな風に感じるのかとかさ、あんたの身体にも興味ないわけじゃないし。あんただって、別に初めてってわけじゃないんでしょ?」

「そ、そりゃ……まあ、ないわけじゃあないけどさ」

 言葉を濁す。でも、それはこんな興味本位の、ちょっとしてみようか、なんて言うんじゃなくて、私の根本にも関わるもっと大切なものだった。

「ふーん。聞かせて欲しいわね」

「言えるかよ、ばーか」

「ふーん」宇佐見はそのままベッドに倒れ、ネクタイの結び目を緩めて胸元のボタンを一つ外す。「今時、貞操観念とかふるーい。きょうび子どもなんて女同士でも男同士でも作れるんだし、精子も卵子も合法的に売ったり買ったり、投資の対象になったりしてんだるし、どこで自分の子供が生まれてるかだって知れたもんじゃないんだし」現に、宇佐見はそうして学費を稼いでいると聞いたことがある。奨学金は学力や信用などと言う脆弱なものに対して支払われる時代ではないのだ。能力あるものの精子や卵子は春よりもはるかに高額で取り引きされ、リスクも少ない。非常に合理的だとは思う。「私はまったく意味がないって思うんだけど、初めてかどうかって問題だったらさ、外科手術でどうにだって誤魔化せるわけだしさ。確か、今来ている時代でもそのくらいできたはずよ」

 だが、そう言う問題じゃない。と、私は思っている。

「古ければ古いほどいいんじゃないのかよ」

 この点について、宇佐見と私が理解し合えることはないとは思うが、それでも言葉を投げかけずにはいられなかった。

「まあ、そういう考え方があったってことは知ってるし、嫌いじゃあないけどさ。理に敵ってないのよね。セックスって気持ち良いじゃない。溜まるものは溜まるんだし、それならやった方が色々と捗るでしょ?」

 宇佐見が特別性に奔放だというわけではない。私たちの生きる時代ではこうした感性の方が普通で、むしろ私が異常なのだ。生殖にすら性別の概念が不要となり、性病や望まぬ妊娠への対策も万全。近親者同士の交配による遺伝病ですら今では未然に防ぐことができる。そんな世の中で性交に対するある種の忌避感や神聖さは当然のように失われ、性欲はただ溜まったら発散されるだけの、睡眠と変わらないものとなってしまったのだ。

「ああ。宇佐見の考え方は極めて普通だ。それでもさ、肌を重ねて、恥ずかしい部分を見せあって……、やっぱり怖いよ。私にはそんなふうには考えられない……」

「その辺もあんたのお母さんの影響?」

 そうかもしれないと頷く。

「一回しちゃえばあんたの耐性のなさも少しは変わると思ったんだけどな。私もちょっと溜まってたし」艶のある目で宇佐見は人差し指を咥える。指に舌を這わせ、深く咥え込んだかと思うとちゅぽんと音を立てて引き抜く。「私、結構上手だって評判なのよ」

「ばーか」

 私は思いっ切り舌を出した。

「ちぇ、振られちゃった。ね、ここでシていい?」

「勝手にしろ。私はシャワーを浴びてくる」踵を返し、備え付けのユニットバスのドアを開け、顔を向けずに宇佐見に言う。「するのは構わんが、汚すなよ」

「はいはい。エムちゃんは潔癖ね。あ、あんたのシャワーの音オカズにしてもいい?」

「死ね」

 

 大きな鏡に自分の姿を映しながらシャワーを浴びる。同じ年頃の他の奴らに比べると、随分と発育が悪い。母も体格が小さかったし、私は母親似だったからある程度覚悟はしていたが、やはり多少は悔しい。こう言った部分も宇佐見にからかわれる一因となっているのだ。

 シャワーから出た湯が玉になって肌の上を流れて行く。その肌はハーンとタメを張れるくらいには色白で、水を弾くほどに張りがあるのに、その体格は多少ごつごつしており、そういった点も男女だとか言わせる原因だろう。それでも私はこの身体のことが好きだった。

 母を、感じられる。

 鏡を見ながら自分の身体をそっと抱く。母の身体ほどではないが、柔らかくしっとりとした触感が手から伝わってくる。暖かい。母を抱き、母に抱かれる記憶が蘇る。それは、私が魔法使いになる前のことだった。記憶の中の母に身体が反応しそうになるのを、頭から冷水をかぶって抑えた。

 部屋に戻ると宇佐見の姿は消えていた。私がシャワーを浴びに行く前と比べ、シーツの乱れは特にない。宇佐見の腰掛けていた部分に少し皺が寄っているだけだ。だったらなんであんなことを言ったんだと首を傾げながら、何となく気になったその皺を伸ばす。その時、ふと、私のものでない体臭が感じられた。女性特有の匂いで悪い気分ではないが、自分のものでないそれはどことなく気分を落ち着かなくさせた。魔力子でないものが私の心臓を加速する。思い当たって部屋の鍵を確認すると、当然開いたままだった。

「くそ、誰がその手に乗るかよ」

 部屋のドアを開け、確認するとすぐ側に宇佐見が控えていた。

「ちぇ、バレたか。あんたのスるとこ見れるかと思ったのに」

「それならベッドの下にでも潜り込んでおいた方が正解だったな」

「あ、やっぱりスるのね」

「しねーよ!」

「そんなにムキにならなくたって良いじゃない。別に恥ずかしいことじゃないんだし。

 岡崎先生起きたんだってさ、早くいこ?」

 そう言って私の手を取って歩き出す。

「……ったく」

 カンカンと乾いた足音が船内に響く。そんなに広くもない船だが、どこまでも白く続く壁は歩く時間を長く感じさせる。

 ふと、宇佐見の手に少しだけ力がこもる。その指は壁と同じようにすらりと白く伸びていて、吸い付くような瑞々しさと滑らかさでもって私の手を包み込んでいる。先ほどの下世話な言葉を追い払うほどにそれは綺麗で、一片の曇りすら感じられない。幻想に焦がれ、真っ直ぐにそれに向かう宇佐見の在り方がそこにあるようだった。自分のぼろぼろの手を思い出すと、少し恥ずかしくなるほどに、それは無垢に力強く、残酷だ。

「ねえ、あんたの手、綺麗だよね」

 歩きながら、宇佐見が唐突にそんなことを言う。そんなことはない。私の手は年中荒れ放題で指先などはひびが割れて指紋もほとんどなくなっている。それは、魔法実験に使う薬品や、油絵の筆を洗う筆洗油のせいであったりするが、このような生き方を選んでいる以上仕方のないものだ。だからそれを隠す気はないけど、正直綺麗だと言われるようなものではない。でも、こういう時、宇佐見がどんな話をするか私には大体分かっていた。だから、答えず無言で歩く。

「どれだけボロボロになっても無様でも、それを隠さずに、いつまでも真っ直ぐでさ。あんなに素敵な魔法や、絵を生み出すんだもの。その手が綺麗じゃないわけない」

 無言で歩く。踵が船を叩く音だけが響く。

「私、あんたのそういうとこ、好きなんだけどな。こんなにアピールしてるのに、やっぱりダメなの?」その声は、いつもの自信満々な宇佐見とは違って少し震えていて、そんな風にさせてなおも答えられない自分がひどく情けない存在に思えた。ややあって、宇佐見の発した声はいつもの意地の悪い彼女の声だった。「いくじなし」

「……その意気地なしを好きになっちまった馬鹿はどこのどいつだよ、まったく」

 憮然と答える。だが、そうやって罵ってもらった方が私には気が楽だ。宇佐見もそれが分かってやっている。

「ふーんだ」

「そう言う態度をとるなら、あっちに行ったあと宇佐見は特訓メニュー倍だな」

「げ、マジで? エムのくせにあんたSなの?」

 言葉とは裏腹に、宇佐見の顔は存外に嬉しそうで。人のことは言えないかもしれないが、女というのはどいつもこいつも面倒臭い。

 

 船橋に戻ると、今度こそ岡崎は身支度を整えていた。寝起きで機嫌が悪いだろうなと思っていたが、眠そうにしながらもそれなりの風体を保っており、ハーンとともに操縦席で紙のカップを傾けていた。香りからすると紅茶だと思うが、生憎合成品のようであり何処の何のお茶なのかはさっぱり想像がつかなかった。要するに眠気覚ましにさえなれば十分なのだろう。こちらに気づくと席から立ち上がり、カップを丸めてダストボックスに放ると話を始める。

「さて、メリーから話は聞いたわ。いよいよ、結界破りだというわけね」私と宇佐見は頷く。「これから船を、空に向かって飛ばすわ。全員操縦席について、揺れに備えて頂戴。あと―」私の方を見る。再び頷く。「あんたの役目だけど、加速は第二宇宙速度程度なら船の力で十二分だから良いわ。スペルカードで重力をなるべく打ち消して、結界の隙間が狭いようだったらこじ開けること。メリーは結界の様子をなるべく細かく。蓮子は私の補助。以上よ」

 そう言って岡崎は再び操縦席に着く。そういえば岡崎にはまだ名前のことを伝えていない。私も岡崎の隣の自席に着きシートベルトを掛けながら、声をかける。

「ああ、岡崎。ここから先の世界では、私の名前はエムで通すことにしたんだ。せっかく用意してくれたのに申し訳ないが、ちゆりって名前はあまり好きじゃないしな」

「へえ」岡崎が興味深そうに私を見て小さく鼻を鳴らす。「石鹸の香り……確かに、蓮子はSっぽいものね。ようやくあの子と寝たってことかしら」

「先生、どちらかと言うとメリーの方がSですよ」

「こら、蓮子!」

 きゃいきゃいと痴話喧嘩を始める二人。さっき私を好きだといったのはどの口だろうか。

「どいつもこいつも……」

 暗澹たる思いに頭を掻き毟りながら、懐から火炉を取り出す。さらに、普通に魔法を使う時と異なり、火炉にゼリーの容器に似た魔法燃料のカプセルを投入する。私はまだ未熟だから、このような燃料の補助なくしてはスペルカードのような大魔法を扱うことができないのだ。そして、二枚の札を取り出す。「星符『エスケープベロシティ』」。星に焦がれ、すべての重力を引き千切る魔法。そして、「恋符『マスタースパーク』」。恋に焦がれ、すべてを焼き尽くさんばかりの炎の幻想を具象化する大魔法。母から受け継いだ、私の切り札だ。

「準備は良いようね。さっきはごめんなさい。思い詰めた顔してるから、ちょっと茶化しちゃった。あんたがそういう事しないってのはちゃんと分かってるわよ」

 そう言うと、岡崎はシートにかけ直し操縦桿を握る。

「さ、雑談は御辞めなさい。舌噛んでも知らないわよ」

 岡崎が一喝すると雑談はぴたりと止み、電子音と、徐々にオクターブを上げる反水素エンジンの唸りが船橋に響き始める。正面の窓に追い切れないほどの様々なデータが表示される。これらの情報を操縦やエンジンの制御にフィードバックさせるのが岡崎と宇佐見だ。曰く、高度に最適化された頭脳は量子コンピュータよりも処理が早く、即応性や安定性も高いらしい。しかし、岡崎と宇佐見以外にこれらの情報を御し切れる人間はいるのだろうか。そもそも本領を発揮するには私の魔法が必要だし、汎用機ではないから問題ないのだろうが。

「離陸します。10、9、8……」

 電子音声が私たちに警戒を促す。それぞれが離陸の衝撃に備える中、私は炉に火をくべてスペルの詠唱に移る。

「星焦がれ、解かんとするもまた星の枷。然れば、我、真に解かんと欲するは己が枷に如かず。焦がれること、即ち縛らるること能わず……」

 詠唱とは私のイメージを具体化し、魔法を描くための手続きだ。魔力が渦を巻き、私たちの服や髪をはためかせ、ついには船を包み込み、星が物を縛る鎖を引き千切る。

「2、1……」

「0」

 離陸―電子音声と同時に、船内にまで伝わる轟音と凄まじい圧力が私たちにかかる。重力による失神こそしないものの、宇宙飛行士でない私たちに耐えられる荷重ではない。何倍にも重く感じる手足に逆らい、私はスペルを解き放った。

「星符『エスケープベロシティ』!」

 窓の外が魔力の光に包まれ、襲い来る圧力から解放される。もはや地上を確認することはできない。地上から見たら、コミカルな星をばら撒きながら打ち上がる花火のように見えるだろうか。

「重力計測値1G付近で安定したわ。エム、お疲れさま」

 しばらくした後、安堵の声で宇佐見が私に声をかける。宇佐見が声を出したということは、航行が安定したということだ。あとは自動操縦でも、結界の隙間に辿りつけるはず。はずなのだが、岡崎が念を押したせいもあるのか、私には嫌な予感がしていた。なにか、異質なものが近づいている。そんなイメージだ。そしてそれは、幻想の気配というよりももっと禍々しい何かだ。

「ああ、そっちこそお疲れさま」そんな様子に気づかれないよう、なるべく平静を装って応える。「今、どの辺なんだ?」

「計測値によると熱圏を超えた辺りかしら。そろそろ地球の大気の層を突破するわよ。境界ってくらいだから、大気圏と外気圏の境界面がその結界の境目になっているのかしらね」

 宇佐見がハーンに声を掛ける。

「ええ、感じるわ。もう少し外側みたい、でも……」

 何らかを続けようとするメリーの言葉を遮って宇佐見が続ける。いつになく饒舌だ。

「それにしても、境界を超えるのがまさかこんな力技だったとは思わなかったわ。そりゃ私たちがあちこち歩き回っても見つからないわけね」

「歩き回って結界暴きができるんなら、今頃世の中は神隠しだらけだぜ。むしろ私はそんな原始的な方法で結界暴きができるって思ってたお前の方が不思議だ」

 そう、宇佐見は半ば確信めいたものを持って秘封倶楽部としてフィールドワークを行っていたように思う。宇佐見は、目の前の岡崎が書いた論文や一般的に出回る書籍にですら疑問を抱き、自分で考える目で確かめるまでは信用しない程、根っからの理系頭なのだ。というように、少なくとも私には見える。

「なんか、そう思った理由でもあるのか?」

 何の気なしに私が尋ねると、宇佐見は言葉を濁した。

「いやね、何と言うか、前例? あるじゃない、色々」

 確かに、今の世に至っても、というより、近年になってより不可解な行方不明者というのは増えていた。増え過ぎた人口がある程度減少し、さらに文明の利器と法律の整備によって、物的にも人的にも万全のトレーサビリティが保証されるようになったにも関わらず、ある時を境にぷっつりと消息が途絶える物、者が時折あった。政府の発表によると、システムの不具合によるものであり原因究明に務めているとのことだが、それを神隠しだとか、何らかの陰謀と呼ぶ向きは確かにあった。

「らしくないな。お前がそんな非科学的な話に耳を傾けるなんて」

「色々あるのよ、色々。それに、非科学の塊みたいなあんたがそれを言ってもあまり説得力がないわよ」

「ふふ、蓮子の言うとおりね」

 ハーンが相槌を打つ。

「お前らな……。いいさ、この旅で魔法は科学できるもんだって証明してやるよ」

 不貞腐れた振りをして正面を向く。

 色々、というところには少し気になるものがあったが、上手くはぐらかされてしまった。もしかすると、ハーンも共犯なのかもしれない。これほど饒舌な宇佐見を持ってしても色々、と濁すのだから、話すには心の準備が必要なことなのかもしれない。そういうことであれば、今の私にはそれを聞く準備もできていないし、資格もなかろう。何故なら私もすべてを話している訳ではないし、宇佐見の身体すらも受け止められない意気地なしであるからだ。

 ふと妙なことに気づく。火炉の火が十分なのにもかかわらず、魔法の手応えがない。会話をやめると、先ほど覚えた違和感が強くなっている。

「ちょっと、何よこれ……」

 岡崎が窓のある一点を凝視しながら、絞り出すように呟く。その一点は地上からの高度を表す値が表示される場所だ。その値が、高度100キロを境に行ったり来たりを繰り返している。一般的に宇宙空間と大気圏の境界とされている高度だ。直観し、ハーンに声を掛ける。

「ハーン!」

「メリー! どうしたの!?」

 私と宇佐見が声をあげたのはほぼ同時だった。振り返り、後部座席を見ると、ハーンは蒼白な顔で身体を抱え、震えていた。

「いや、やめて……こないで」

「どうした!」「メリー!?」

 私はシートベルトを外し、ハーンに駆け寄る。船の制御をしている岡崎と宇佐見は席を離れることができない。駆け寄って肩を揺すっても、ハーンは震えるばかりでその目は窓の外を焦点なく見つめたままだ。

「妖怪が……紫色の妖怪が……」

 脱力。呟きとともに、ハーンの身体から一気に力が抜ける。気を失ったようだ。しかし、次の瞬間、再び力が篭る。目を開き、大きく伸びをし、欠伸。

「あーあ、もう、五月蝿くてかなわないわ」

 だが、見開いたその目の色がハーンのものではない。どこを見ているとも知れない、紫色の瞳がぽっかりと開いていた。

「ひっ」

 私は情けなくも腰を抜かす。この気配は人間のものではない。事態を察したのか自動操縦に切り替え、宇佐見と岡崎が私に駆け寄る。

「メリー……なの?」

 問いかける宇佐見に、ハーンはうーんと首を傾げる。

「パトリック・ラフカディオ・ハーンってご存知かしら? 幻想の日本を描いて妖怪を復活させ、最期には日本に失望して幻想の中に姿を消した人物よ。小泉八雲といった方が通りが良いかしら。その八雲の妖怪が私。はじめまして。名前のない、八雲の紫の妖怪よ。紫でいいわ」

「ゆかり……すきま妖怪の八雲紫か!」

 境界を操る程度の能力を持つ妖怪。その力は私たちが四人がかりでなんとかなし得た因果の壁すらもあっさり超えてしまう。ありていに言ってしまえば、私の力ではこいつの足元にすら及ばない。しかしそれでも戦う力がある以上、私が立ち向かうしかない。おそらく、外の世界から結界を超えようとする私たちを追い返しに来たのだろう。だが、ここで追い返されるわけにはいかない。私はなんとか立ち上がって震える手を鼓舞し、炉をハーンに向けて構える。どうやらコイツはハーンの身体を乗っ取っているらしい。それならば、その身体は人間のはずであり私の力が及ぶ可能性だってある。

「あら、あなたよく見たら……へぇ。姿格好はだいぶ違うけど、ようやく帰ってくる気になったのね。それにあなたは……。これは面白いゲームになりそうね」

 紫と名乗ったハーンは私と蓮子を交互に目線で舐め回し、銃口を向けている私など意にも介さずシートベルトを外して立ち上がろうとする。

「動くな! どうやったか知らんが、ハーンの身体を返してもらおうか」

「ダメよ、そんな安いハッタリ。私がメリーちゃんだっていうなら、あなたは私を撃ちぬけないんだもの。私が私である時点で、すでに私は人質をとっているのよ? ねえ―」

 私の名を呼び掛けようとしているのだと察し、私はそれを遮る。

「やめろ! 私の名前はエムだ。お前と同じで名前を失った、普通の魔法使いだ」

「? ……まあ良いわ。とりあえず、幻想郷にはご招待するから、この五月蝿い船を止めて貰えないかしら。家の側でこんなもの動かされたら、昼寝もできやしない」

「ひ、昼寝?」

 宇佐見が裏声で頓狂な声をだし、すきま妖怪につっかかる。

「っていうか、あんたなんなのよ! メリーだったら悪ふざけはやめて―」

 それを私は手で制する。

「やめておけ。こいつは今正真正銘にハーンじゃないし、幻想郷には連れて行ってくれるっていうんだ。下手に刺激するな。こいつは私が逆立ちしたって敵う相手じゃないし、魔法を使うにも場所が悪い」

「くっ……。ちょっとあんた! メリーの身体は返してくれるんでしょうね!?」

「あら、私だって自と他の境界くらいは弁えてるわ、聡明な蓮子ちゃんにはこの意味が分かるかしら」

「分かんないわね。私は数式で解けない、推論みたいな答えを出すのは大嫌いなのよ」

「気が合いそうね。あ、現に気は合っていたわね」

 軽口を述べるハーンに、宇佐見は蛮勇な姿勢を崩さない。岡崎が口を開く。

「つまり、メリーは私だから手放すようなことはしないって言いたいのかしら?」

「ぶっぶー、外れ。稀代の天才とやらはそんなことも分からないのかしら。それとも科学に毒された未来の民は、みんなそんなに疑り深いのかしら」そう言って妖しく怪しく笑う。まさに妖怪であった。「人の物を勝手に取ったりはしないってことよ、幻想郷に招待する代わりに時々貸してくれるだけでいいですわ。それでこの子が誰の物になるのか、そういうゲーム面白そうじゃない」

 言いながら悠々と歩き、指先で壁を撫でる。すると、バターに熱したナイフを入れたみたいに壁が真っ二つに、いや、空間そのものが割れた。それが分かったのは、そこからまるで嵐のような魔力が吹き出て来ていたからだ。

「ようこそ、この先が忘れられた物が萃まる郷、夢想う郷、幻想郷よ。幻想郷はすべてを受け入れる、それはそれは残酷なこと」空間の裂け目の中にハーンの身体が半分ほど沈む。「そして、あなたたちは忘れられる。幻想に行ったという果によって、そのような因が作られる。あらゆる因から果を作り出す傲慢も、常識も通用しない世界を、どうぞ死ぬまでお楽しみ下さいませ……」

 そして、ハーンは完全に裂け目の中に姿を消した。船の中を静寂が支配する。

「やられたわね」

 苦い顔で岡崎が呟く。

「ああ……」

 ハーンを先に行かせるということによって、私たちから引き返すという戦略を奪う。不意を突かれたとは言え、完全な敗北だ。これで私たちは例え死ぬまで幻想郷にいる羽目になろうと、一縷の望みをかけてハーンを救いに行かねばならなくなった。特に、宇佐見などはそうだろう。

「宇佐見……」

 ハーンはこれまでも、夢の中―もしかしたら、今のように八雲紫に乗っ取られて―幻想の中に行ってしまっていたことがあるようだった。それに対して宇佐見も私も秘封倶楽部としてどうすることもできず、ハーンが帰ってくるのを待つ他なかったのだ。宇佐見はそのままへなへなと座り込んで、うふふ、うふふ、うふふふふと妙な笑い声を上げ始めた。やめろ、その笑い方は、やめるんだ。

「良いじゃん。やってやろうじゃない。ようやく手を伸ばせるチャンスですもんね。蓮子様を見くびったこと、後悔させてあげるわ!」そう言って、すっくと立ち上がる。そのままつかつかと私の元まで歩み寄ると、手首を掴んだ。「ほら! あんたも来るのよ」

「すまん、ちょっと部屋に大事なものがあるんだ」

「ったく、しょうがないわね。先行って待ってるからさっさとしなさいよ」

 どうやらここで私を待っているという選択肢はないらしい。ハーンを取り戻しに行く大義名分とは別に、宇佐見にもやはり幻想に焦がれるものがあるのだろう。それがなんだということを、私は聞いたことがなかった。この幻想の旅の中で、それを聞くことはできるだろうか。そのためには、私はこの旅で何者かになって、きちんと宇佐見の気持ちを受け止められるようになる必要があるだろう。そうでなくては、きっと聞く資格がない。

「ああ、お前にはいつも待たせてばっかりだ。すぐに行くからちゃんと待ってて欲しい」

 その言葉に、宇佐見の顔が赤くなる。

「―っ馬鹿! やっと気づいたの? だから私、わざと遅刻してあんたを待たせてんのよ!!」

 そう言うと宇佐見はくるりと背を向けて、走って裂け目の中に消えて行った。

「いいねぇ。青春してるねぇ」当事者がいなくなったところで岡崎が茶化す。「今の、プロポーズみたいだったわよ」

「直訳すると、約束だな。大正解だ」

 岡崎はやれやれと両手をあげる。

「私も行くわ。あの子たち、丸腰のはずだし。あまり待たせると、向こうで何があるか分からないしね」

 マントを捲る。その下には無数の手榴弾と腰には大ぶりの拳銃が二丁。岡崎の獲物だ。この船と同じく、反物質をその火力として用いており、ちょっとした魔力弾よりは遥かに強力な代物だ。

「そういや、この船どうすんだろうな」

「さあ、自分のものと他人のものの区別くらいはつくって言ってたし、そのうち返してくれるんじゃないかしら。それよりも、メリーを取り返して観光を楽しんだら、どうやって郷の外に出るかって方が問題だと思うわよ?」

 岡崎は笑う。こうして問題を単純化できるのも天才の強みの一つだ。私程度の人間だと、あれこれ考えすぎて混乱し、何もできなくなってしまう。そんな私の手を無理矢理にしろ引っ張ってくれたのが岡崎であり、そして、宇佐見だったわけだ。

「じゃ、先行ってるわよ」

 だが、そう言ったまま岡崎はそこを動かない。

「ん、どうしたんだ?」

 再びやれやれと両手をあげる。

「馬鹿ねぇ。私には見送りの言葉ないの?」

「この先ですぐに会うだろうが。何が見送りだ」

「あら、やっぱり蓮子は特別なのね。先生、嫉妬しちゃう」

「キモッ」

「あ、ちょっと傷ついた。いいもーん。宇佐見にあることないこと吹き込んでやるもーん」

「こら! お前は子どもか!」

 可能であれば、ここで10tハンマーでも振り下ろしてやりたいところだ。

「じゃ、行ってるわね。安心なさい。私はあんたの味方よ?」

「……ああ。任せた。頼りにしてる」

 そうして岡崎も裂け目の向こうに消えた。

 

 私は部屋に戻る。行ったり来たりで、みんな先に行ってしまう。それは今までの私の生き方を表すようでもある。

 サイドテーブルの引き出しを開け、色の褪せ始めた一枚の写真を手に取り、ポケットにそっと仕舞う。田舎で暮らしていた頃の私と母の写真だ。しばし目を閉じ、過去に思いを馳せる。生家は、畑を耕す傍、それなりに大きな古道具屋を営んでいた。この写真はある日店に入った古い写真機で撮ったものだ。母も私も写真があまり好きではなく絵ばかり描いていたが、これは絵だと大きくて持ち歩けないからと無理を言って一緒に撮ってもらったのだ。母の困ったような笑顔と私の満面の笑みが、真実の一瞬を切り取った確かな事実としてそこに残っている。

 再び避け目の前に立つ。高揚感が私を包んでるのは魔力酔いのせいだけではないだろう。服の上からポケットに手を当てる。

「行ってきます」

 小さく呟く。音を立てんばかりに吹き付けて来る魔力に、事象の地平線と同じ類の白黒の目玉がその向こうから覗いている。私はその視線をすべて跳ね返さんばかりに睨み返し、一気にその中に飛び込んだ。

「そして……ただいま!」

 

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C82で頒布する小説のプレビュー版です
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