それでは、もう一つの外史の開幕です―――――――――。

　青年は、ただ静かに、そこに座していた。

　純白の上着に蒼色の袴。光の下であれば、白銀にも見えるその、灰色がかった黒髪。その端整なマスクに並ぶ、二つの閉じられた双眸は少しつり上がり気味。真一文字に結ばれたその唇からは、時折白い息がこぼれる。

　季節は、冬。

　もう年明けも間近というその日、暖房も無いそこでかれこれ一時間ほどに渡り、彼は正座を続けていた。

　「…………」

　それでも青年は、身震い一つせず、ぴくりとも動かずにいた。

　明鏡止水、という言葉がある。

　一点の曇りも無い鏡のごとく明らかで、静止した水面のように穏やかな心境、という意味である。青年は、その境地をわずか数年前、十三のときに会得した。

　天才。

　彼を鍛えた青年の祖父が、自分の孫をそう評価した。それも、百年に一人の武才だと。事実、彼が学校で所属している剣道部においても、また、全国大会などにおいても、彼の右に出るものは、すでに存在していなかった。

　もし今後真剣を持ち、実戦すらも経験することになれば、彼はまさに、万夫不当と呼ばれる存在になるだろう、とも。

　「……一刀」

　正座を続ける青年の、その背を見つめ続けていた祖父が、静かに孫の名を呼んだ。

　「……何、じいちゃん」

　振り向くことなく、その背を向けたまま、青年は祖父の呼びかけに答えた。

　「……正直な。わしはおぬしが空恐ろしい。齢十八にして、わが北郷家に伝わる示現流のすべてを、その身に体得してしまったおぬしが」

　「……」

　祖父のその、畏れをも含んでいるような声を、青年――北郷一刀は、ただ静かに聞いていた。

　「しかもじゃ。おぬしの才は武のみにとどまらぬ。政治、経済、農業。その他、ほとんどの学問においても、その才を発揮しておる」

　「……そっちの方は、それこそ学校の知識程度だけどね」

　「ふん。それでも十分じゃわい。……まったく、生まれてくる時代を間違えたとしか思えんな、おぬしは」

　嘆息してそう言い放つ祖父。だが、その顔は優しい笑顔。

　「……もう、わしからお前に教えられることは、後一つしか残っておらん。じゃから、これが最後の教授になる。……一刀、こちらを向け」

　「はい」

　しゅるり、と。

　正座をしたまま、一刀は祖父のほうへと体を回す。その、限りなく蒼に近い瞳で、正面に座る祖父の顔を真っ直ぐに見据える。

　「……わが孫ながら、とても澄み切った目をしておる。……祖母さんの血が出おったかの？時折深い蒼に見えることがある」

　「祖母ちゃんって、確か、モンゴルの人だっけ？」

　「うむ。……さてと。余談はこれくらいでよかろう。一刀よ、心して聞け」

　「はい」

　一刀の正面に座り、じっとその顔を見つめる祖父。やがて、意を決したかのように、その口を開いた。

　「よいか。もしもこの先の人生において、その命を賭してでも、守らねばならぬ者ができたなら、その時は」

　「その時は？」

　「お前の全てを賭けて守りぬけ。例えその結果、他の命を奪うことになっても、じゃ」

　「……！！」

　命を賭けてでも守るべきもの。そんなものが、いつか自分に出来るのだろうか。そしてそのために、人を、生き物を殺すことになる時など、来ることがあるのだろうか。

　一刀はそんな自問自答をしつつ、祖父のその言葉を黙って聞いていた。

　「……これで、わしからお前に伝えられることは、全て伝えた。……明日はまた学園に戻るのじゃろう？今日は早めに寝ておけ」

　「……はい」

　立ち上がり、そこから退出していく祖父の背を、一刀は静かに、そして礼をとって見送った。

　その日の夜。

　「う……く……」

　ベッドの中で眠る一刀は、ここ数年来、毎晩の様に見る夢に、今夜もまたうなされていた。

　「みん、な……！俺は……！！」

　夢の中、彼の視界は余りはっきりとはしていなかった。分かるのは、彼に向かって必死に手を伸ばしている、何人かの人と思しき姿だけ。

　人影たちは、無我夢中で彼の名を叫び、その、遠ざかろうとしている姿へと、何とか辿り着こうとしている。

　だが、結局それは叶うことなく、全ては闇の彼方へと消え去ってしまい、一刀自身もやがて大きな光の中へと飲み込まれて行き、意識もその中へと溶け込んでいく。

　最後に残るのは、たった一つの強い想い。

　『もう一度、今度こそ、皆と』

　ただそれだけを、心の奥深くに強く刻み付けて、彼の意識はそのまま、光の深淵へと落ちて行くのである……。　

　いつものその夢からふと目が覚めた一刀は、これもまた何時もの様に、全身汗だくになった状態で目を覚ました。

　「……また、この夢かよ……。ったく、毎晩同じ夢を見るとか、どこの三文小説の冒頭だってんだ……っ？！」

　ベッドで上半身を起こしたままの状態で、彼は“何か”の気配が自分の部屋にするのを、真冬の冷たい空気と供に感じ取った。

　「……誰だ、そこにいるのは？」

　「あらら、もう気がついたの？……ふむ。今度のご主人様は、随分鋭いようね」

　闇の中。聞こえてきたのは、うら若い女性の声。だが、気配こそあるものの、その姿は一向に見えてこない。

　一刀はその声への警戒を解く事の無いまま、いつでもベッドから飛び出せるよう、布団にそっと手をかけつつ、その声の主へと問いかけを続けていく。

　「……何者かは知らないけど、せめて姿くらい、見せてくれてもいいんじゃないのか？」

　「うふふ。ご主人様ってば、せっかちねえ。……でも、残念ながら、今は貴方に姿を見せることは出来ないの」

　声から判断すれば、二十代ぐらいであろうか。一刀の問いかけに対し、その声の主は少し、寂しげなトーンで答えた。

　「……今は、ね。……まあ、いいさ。とりあえず、声と気配からは、邪気は感じられないし。で、まずは聞きたい。……なんで俺のことを“ご主人様”と？」

　「そりゃ、ご主人様は、ご主人様だから♪」

　「……それじゃ、答えになってない」

　「んもう、細かいわねえ。そんなところは相変わらずなんだから」

　「……どういう意味だよ？」

　相変わらず、と。

　一刀がふと疑問に思ったその問いかけに対し、その声の主は飄々とした調子でそう返してきた。それではまるで、初対面ではないように聞こえるが、一刀自身には思い当たる節がまったく無かった。

　「……じゃあ、一つだけ教えてあ・げ・る。……私はね、ご主人様と何度も何度も会っているの。それこそ、たくさんの”外史”において」

　「何度も会ってる？……それに、『がいし』って……？」

　外史、と聞いて、一刀の脳裏に浮かぶのは、正史として認められなかった、様々な古文書に記された歴史の異説。もしくは、時代に埋もれ、世に伝わるこのの無かった、闇の歴史。それぐらいなものである。

　「残念ながら、ご主人様の考えている外史とは違うわ。私が言う外史ってのはね、人の想念によって生み出された、パラレルワールドのことよ」

　「！？……なんで、俺の考えてることが、判ったんだよ？」

　「それはおとめの、ひ・み・つ♪」

　「……あのな。……で、あんたは俺に何をさせたいんだ？その外史とやらと何か関係でもあるのか？」

　声の主の言葉にあきれつつも、その来訪目的を問いただす一刀。

　「話が早くて助かるわ。……ぶっちゃけて言うとね、ご主人様には、その外史の一つに行ってもらうことになるわ」

　「……随分唐突だな。しかも決定事項かよ。……何のために？」

　「内緒」　

　「……おい」

　秘密主義にもほどがある、と。一刀はだんだんと、その声の主に腹が立って来る。姿を一切見せる事無く、意味深な言葉ばかりを並べ、挙句の果てには拒否権無しの決定事項だけを告げたその声の主に対し、彼は思わずその声を荒げて詰問しようとしたのだが。

　「てなわけで、新たな外史にご招待よん。あ、一応今夜の記憶は封印させてもらうわね？……今度は、“向こう”でお会いしましょ♪じゃあね」

　「あ！ちょっと待て！せめて名前ぐらい名乗っていけ！」

　「……ま、すぐ忘れちゃうけど、名乗るぐらいは良いでしょ。……チョウセン」

　「は？」

　「あたしの名前は((貂蝉|ちょうせん))よ。永遠のオトメにして、あなたの愛のど・れ・い。……じゃね、ご主人様。また会う日まで」

　声とともに、その気配も掻き消えていく。そして、パアッ！と。室内が白い光に包まれた。

　「くっ！ま、まぶしっっ……！！」

　その白い光に、瞬く間に包まれていく一刀の体。やがて、光は徐々に小さくなり、そして再び、闇が室内を支配する。

　だが、そこには誰の気配も、残されていなかった。そう、部屋の主である、一刀の姿さえも。

　「……？流れ星……？こんな時間に……？」

　緑が広がる平原の中、蒼空を見上げる一人の少女がいた。その紺碧の瞳の中に、蒼空を切り裂いて飛んでいく、一筋の流星が映りこむ。

　ツインテールにしたその黒髪が、風にたなびいて揺れる。赤いロングコートを羽織り、その下には黄色い地のシャツと、ジーンズのような生地の短パンを黒いストッキングの上に履き、足には皮製の黒いブーツを履いていた。

　「おーい！((輝里|かがり))ー！どーしたー？！」

　「((結|ゆい))。……ねえ、今、流星があっちに落ちていくのが見えたわ。気付いた？」

　「いんや？うちは気づかんかったけど。……こんな真昼間に流星やなんて、もしかして、例の占いの奴やったりして」

　「……天より、流星に乗って御遣いが降りくる。その者、白き光を纏て、大陸に安寧をもたらさん……っていうあれ？」

　「せや。……な、ちと見に行かへんか？」

　何か、新しい玩具を見つけた子供の様に、その少し幼さの残る顔に、満面の笑みを浮かべる、結、と呼ばれたその少女。

　ショートカットにしたその栗色の髪が、傍から見れば少年のようにも見える、その少女によく似合っており。紺色のジャケットに、同じ色の半ズボンといういでたちが、さらに少年ぽさを引き立てていた。

　「……相も変わらず、好奇心の塊ね、貴女は」

　「にはは。そーゆー輝里かて、めっちゃ興味津々なんやろ？お互い様っちゅうこっちゃ」

　「ま、そうなんだけどね。……でも、あんまり((蒔|まき))義姉さんを待たせるわけにも、いかないわよ？」

　「ちょっとぐらい大丈夫やて。姐さんのこっちゃ。ちょっと帰りが遅れたぐらいじゃ、怒らせーへんよ」

　「……そうね。じゃ、星を拾いに行くとしましょうか」

　「そうこなくっちゃやで！」

　馬首をめぐらせ、流星の落ちたほうへと、二人の少女は馬を並べて駆け出す。

　その先に、自分たちの運命を大きく動かすことになる、そんな出会いが待ち受けていることなど、夢想だにもせずに。

　こうして、運命の歯車は、今まさに出会い、そして噛み合おうとしていた。

　新たなる、外史の始まり。

　それは、どのような物語となるのか。

　新たなる世界は、どのように、紡がれていくのか。

　さあ、開きましょう。

　新たなる、外史の扉を。

　さあ、始めましょう。

　数多の恋姫たちが織り成す、この、もう一つの物語を。