垂水百済はマイナスである ――172回目の【僕】―― BOX―1 何よりも異常な普通 |
幸福である人間は不幸を知っている。
不幸である人間は幸福を知っている。
幸福でも不幸でもない人間は、どちらも偽物であることを知っている。
――58回目の(私)――
◆ ◆ ◆
((垂水|たるみず))((百済|くだら))は((不幸|マイナス))であり((冷酷|マイナス))であり((最凶|マイナス))であった。
それは穢れに穢れた事実であり、歪みに歪んだ真実であり、壊れに壊れた現実であった。
本来、過負荷として膿み落とされた者の境遇は、もはや語るまでもなく最低で最悪なものとなる。
しかし、百済は愛された。
憎しみとともに愛された。
悲しみとともに喜ばれた。
孤独とも虐待とも縁遠く、普通の子どもたちと同じように生活することが出来るのも、偏に彼の母親の愛情の賜物なのだろう。
けれど、過負荷は消えたわけではない。
与えられる異常な愛と過負荷ゆえの信念の狭間で、百済の精神と肉体はゆっくりと、けれども確実に濁り、澱重なり、過負荷とすら呼べない『モノ』へと変貌していった。
箱庭総合病院。
検査入院という名目で連れて来られた百済は、検査の順番がやってくるまで託児室で時間を潰すように言いつかった。
百済は幼いながらも自覚していた。
遊具で遊ぶ『友達』と自分とでは、どこか決定的で壊滅的な違いがあるのだと。
人形の手足を分解して無邪気に笑う女の子。
人形は悲鳴を上げないが、彼女の四肢を解体したらどんな声を上げるのだろう。
喜色満面の顏で、他の子が作った積み木の家を破壊する男の子。
彼の家を家族ごと焼いたら、どんな顔をするのだろう。
プラスチック製のすべり台の頂上で、頬杖を突きながらぼんやりと考える。
不幸というものを考える。自分に当て嵌めて考える。
百済には不幸というものが解らない。幸せというものが解らない。
結局のところは人の価値観によるものなのだから答えなど無に等しいのだろうが。
母親に聞くという手も残ってはいるが「じゃあアンタは今幸せなの? 不幸なの?」と逆に質問されてしまいそうだ。解らないから聞いているというのに。
お菓子をもらった。幸せ。
食べたせいで虫歯が出来た。不幸。
歯医者に行ったらシールをもらった。幸せ。
テレビに貼ったら怒られた。不幸。
死んだ。不幸?
生き返った。幸せ?
化物と呼ばれた。不幸?
強く抱きしめられた。幸せ?
それがどうした。
幸せだ不幸だと一喜一憂するのが人間だというのなら、自分はとても平坦な『ナニカ』なのか。
解らない分からない判らないわからないワカラナイ。
「ねー、早くすべってよー」
唐突に思考は遮られた。
後ろを振り返れば、黄色に近い茶髪の男の子が順番を待っていた。
「ああゴメン」
するするとすべり落ちる。
すぐに男の子も降りてきた。
「えへへ、ぼく、ひとよしぜんきち!」
男の子はその名の通り人のよさそうな笑顔で名乗った。
「ふぅん」
知っている。というか名札がついている。
だが服装から見て、検査を待っているわけではなさそうだ。
「ん」
胸に着けた名札を、善吉に見えるように差し出す。
書いたのは百済の母親だ。平仮名ではなく漢字で書いてあるのは誰に対する嫌がらせなのか。
善吉はしばらく名札を見ていたが、
「読めないよぉ」
『ぜんきち』 が たすけ を もとめてきた
「『たるみずくだら』と読むの」
『くだら』 は 答え を 教えた
用は済んだとばかりに、百済はその場を離れようとするも、
「一緒にあそぼーよー、くだらちゃん」
右袖を善吉に掴まれる。
「何で?」
「一緒に遊ぶと楽しいから!」
どうしたものか、と壁に掛けられた時計をちらりと見やる。
看護師が呼びに来ると言っていた時間までは、まだ大分余裕があった。
「……何して遊ぶ?」
「すべり台!」
「今さっきやったばかりだよね」
「面白いよねすべり台!」
百済のツッコミを華麗に無視し、手を繋いだまま上ろうとする。人の話をあまり聞かない性格らしい。百済は何故か、傍若無人を地で行く自分の母親を連想してしまった。
「……まあ、いいけどね」
ため息を吐きつつも、どこか嫌いになれない不思議な少年に、百済は付き合うことにした。
◆ ◆ ◆
――これが、人吉善吉と垂水百済の((最初の出会い|ファーストコンタクト))。
後に、一人の異常と、一人の過負荷の陰に立つこの少年たちは、この時互いの運命が噛み合い、軋み始めたことなど知る由もなかった。
説明 | ||
垂水百済はマイナスである。それは変えようのない現実だった。けれど不幸は望まない。幸福も望まない。無い無い、無い尽くし。凶悪な過負荷を携えながら、それでも狂気に満ちた信念を貫こうとする。これは喜劇かはたまた悲劇か。綻びだらけの人形劇の開幕です。 ……なーんてなんて、結局みんな僕たちに騙されるんだ。 |
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