山の神 |
「ねえ〜ぇえ、ちょっとぉ〜ん」
女性が出し抜けにしおらしい声で話しかけてきた時ほど、男は気を引き締めなければ
ならない。
「友達がねぇ、韓国旅行に誘ってくれたんやけどぉ〜、行ってきてもかまへんやろか。
2泊だけやしぃ〜」
夫婦ならなおさらである。そして・・・逆らってはいけない。
「ああ、行ってきたらええがな。3日間ぐらいなんとかなる」
この『なんとかなる』というのはただ、食事のことを意味している。
食事ができるならなんにも問題は、ない。
むしろ私にとっても、この3日間は貴重な日々となる。
小言に付き合わされることなく、のびのびと好きなテレビ番組を見ながらビールが飲
める。
眠くなればそのままゴロッ、となればよい。
そして、妻が帰って来る直前に散らかった物を片づけておけば、すべてうまく治まる
のである。
結婚当初からそうしていたわけではない。
30年かけて得た知恵である。少々の家事をこなすのは、『ぬれ落ち葉』といわれな
いための知恵でもある。
しかし、しかし私は、妻が電話で話している言葉を聞いてしまった。
嫁いだ娘が夫婦喧嘩をしたらしい、というのは妻の話しぶりから推察した。
そして、そして私は、妻が電話に向かって話している言葉を聞いてしまった。
「男なんかプライドだけで生きてるもんや。プライド傷つけられるんをいっちばん嫌が
る。気位の高い男ほど、おだててやったらええねん」
そう、確かにそうかもしれない。
プライドを打ち砕かれたら、気力も、品性も、優しさも、失ってしまう。
私はフラッと家を出た。
こんな女と今まで一緒に暮らしてたんや、と思うと悔しかった。
まるで自分が『おだてりゃ木に登る豚』のような気がして・・・。
★ ☆ ★
公園の花壇の石組に腰をかけて、草叢の虫に目をやっていた。
カマキリである。
オスであろう。前脚をあげてメスにとっかかろうとしているようだ。何度か前脚をあ
げて・・・、
ついにメスにつかまり(?)頭をかじられて、それからオスは自分の卵鞘をメスに差
し入れた。
メスは、オスを食べ尽くそうとしている。
前に本で読んだことがある。
カマキリは触れるものにすばやく襲いかかるが、オスは決してメスを食べない、とあ
った。
メスは、DNAを残さなければならないからである。
究極の愛とは、そのようなものかもしれない。
愛欲に理由を付けたがるのは、人間だけだ。
私とて、愛と・・・欲望を感じて結婚したのだ。
★
「ただいま」
「あっ、お帰り、散歩してきたん? すぐに食事の支度するわ」
いつもと変わらぬ・・歳老いてはいるが・・妻の姿。
やはりここが、私の居場所。
山の神に仕える私が、いる。
説明 | ||
『山の神』とは妻帯者が自分の妻のことを謙遜していう言い方。 | ||
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