垂水百済はマイナスである ――172回目の【僕】―― BOX―5 百済、十一歳 別れと誓い |
絆。縁。誓い。約束。
守るべきもの。尊ぶべきもの。
時には楔となって胸を穿ち、鎖となって絞め殺す。
――81回目の『俺』――
◆ ◆ ◆
『私、この家を出ることにした』
「……そうかい。遅かれ早かれそうするだろうなとは思ってたけどよ…………めだかちゃんや、真黒さんには?」
『言うわけないだろ? あいつらなら絶対止めるだろうし。この日のために五年以上準備を重ねてきたんだ。例え百済くんが説得しても中止はしない』
「めだかちゃんが泣くぜ?」
『手紙も残したし、間違いなく泣くだろうな。その時は百済くんが慰めてやってくれ』
「そういうのあんま得意じゃねぇんだよなぁ」
『百済くんなら大丈夫さ。この私をここまで変えたんだからな』
「買い被り過ぎだって。ついでに真黒さんの足止めもしなきゃなんねぇんだろ? 間違いなく発狂して暴走すんぞあの人。考えただけで胃が痛ぇよ」
『…………前に、百済くんは言ったよな。私の求めている不幸は不幸ですらないって。だったら私はそれでもいい。黒神くじらではない新しい環境、新しい立場、新しい姿、新しい視点で私なりの不幸を探し出してみせる』
「何もかもまっさらにして、か?」
『ああ。家族の記憶も消す。大切だからこそ、幸福だからこそ、兄貴も妹も善吉も、もちろん百済くんとの思い出も――初めて会ったあの日のことも動物園に行ったことも全て消去する。それが今の私に思いつく最高の……最悪の不幸だから』
「………………そうかよ」
『幻滅したか? 百済くんからすれば見苦しいよな。記憶が無くなったところで、《私》が消えて不幸好きの《誰か》が残るだけなのに』
「どーして僕が幻滅しなきゃならねぇんだ? お前が必要だと思ったから、そうしたいと思ったからそうするんだろ? だったら僕は肯定してやるよ。せいぜい不幸((もどき|・・・))を追いかけて、お前の言う素晴らしいものを生み出して、高笑いでもしながら僕に見せつけてみろ」
『言われるまでもないさ。私は不幸を求め続ける。けど決して悲惨じゃないし、孤独じゃない。どうしようもなく厳しくて、どうしようもなく優しい((理解者|くだらくん))がいるとわかっているから』
「………………」
『だから、だから一つだけ約束してくれ』
「僕に守れるような約束なんてそうそうないぜ?」
『もし、この先いつか《私》じゃない《誰か》に会った時、その《誰か》がとてつもない愚か者で、《私》が望んだ結果とは違っていたとしても、絶対に《私》を好きでいてほしい』
「……………………」
『《私》も百済くんが好きだ。友達としてではなく、異性として。それは《私》が《私》じゃなくなっても絶対に変わったりはしない。愛なんて理解できない不確かなものに賭けるのは研究者として失格なんだろうけど、それでもそう信じずにはいられないんだ………………お願いだから、私を嫌いにならないで……』
「………………ハァ、守るのに苦労しそうな約束だなぁおい」
『ごめん』
「謝るくらいなら最初から言うんじゃねぇよ。わかったわかりました、誓ってやるよ。お前が誰で、どうなっていたとしても、僕はお前を肯定して受け入れて助けて護ってやる。記憶を失ってようが知ったことか。約束したからには嫌だっつっても助けるからな?」
『……ありがとう』
「それと、お前も一つ約束しろ」
『?』
「何があっても、僕を信じろ」
『……うん約束する。今も、これからもずっと信じてるから』
じゃあ……。
さよなら、百済くん。
ああ……((またな|・・・))、くじらちゃん。
◆ ◆ ◆
時が経つのは早い。
それは大人であろうと子どもであろうと変わることはない。
深々と降る雪の中を、少年が歩いている。
垂水百済、十一歳。小学六年生。
同年代の子供よりも頭一つ高い痩躯。薄く雪の積もったウルフヘア。傷だらけのランドセルを背負い、真紅のマフラーを首に巻き、両手はコートのポケットに突っ込んでいる。
「…………ハァ」
マフラーの隙間から白い息が漏れ、曇天の空に消えてゆく。
くじらも、この空の下を歩いているのだろうか。
電話を受けてから、十時間ほど経っていた。
どこへ行ったのかは百済にもわからない。
彼女が探究する不幸。彼女の言う素晴らしいもの。
それらは決して自分とは((相容れないだろう|・・・・・・・・))。
確信にも似た予感があった。
それでも。
「受け入れてやるさ」
ふと視線を感じ、足を止めた。
道の向こうに、見覚えのある黒塗りのリムジンが停まっていた。
その前にめだかが立っている。自信に満ち溢れている凛とした仁王立ちではない。俯いてスカートの裾を握り、涙を堪えているようにも見える。
「どうした? めだかちゃん」
聞かずともわかっているが。
「……お姉さまが、家を出て行った」
『幸せになるくらいなら死んだ方がマシだ』
「…………いや、いやいやいやいや!」
いくら何でも他に書き方あるでしょくじらちゃん!
あれだけ電話で大切な家族だの幸福だの言っていたのに!
渡された手紙に殴り書きされた文章は非常に簡素で、これでは家族を忌み嫌って家出したと思われても仕方がない。というか、悪意しか感じられない。
不器用すぎでしょ、と呆れ果てる百済だったが、手紙の裏であるものを見つけ、苦笑した。
「百済、お姉さまは私を嫌っていたのか?」
袖をつまんでこちらを見上げているめだかの目には大粒の涙が溜まり、今にも零れ落ちそうになっている。
「私はお姉さまに迷惑をかけていたのか? 勉強の邪魔をしてしまっていたのか? 私は嬉しかった。お姉さまと一緒に遊べることが嬉しかった。お姉さまが笑ってくれることが嬉しかった。だがそのせいでお姉さまが私を疎ましく感じて家を出て行かれてしまったのだとしたら!」
そこまで言って、堪え切れなくなったのだろう。
小さく嗚咽が聞こえ、雫がカーペットに染みを作る。
「……慰めるのも、僕の役目ね」
承ってやるとしますか。
腰を屈めてめだかの目線に合わせ、そっと頭を撫でる。
完全無欠の異常性があって大人びいていたとしても、百済にとってめだかは年下で小柄な少女でしかない。
愛情表現の仕方がわからない彼女が愛した妹。
「心配しなくても、お前のねーちゃんはそんなことで愛想尽かしたりしねぇよ。少しばかり気持ちの伝え方が下手なだけさね。もし嫌いになってたら((こんな絵|・・・・))を残していったりするかよ」
めだかに見せたのは、置き手紙の裏面。
そこに描かれていたのはめだか、くじら、小さく真黒、善吉、そして百済の五人が楽しそうに遊んでいる硬筆画。
紙面の片隅に、隠すように残したのは照れ臭かったからか。
「お姉さま……」
めだかは涙を拭い、手紙を両手で包み込んだ。
「百済、私は待つぞ。お姉さまと再会できる日を、何年、何十年だろうと待ってやる!」
「あー多分、そんなに待たなくてもそのうち会えると思うぜ? 気は晴れたか?」
「うむ! さっきよりは大分マシになった!」
「そいつぁ結構。んで話はぐるっと変わるけどよ、あれは一体何してんだ?」
「――――――っ! ――――――っ! ――――――――――っ!」
「ちょっ、真黒さん! 落ち着いてくれって!」
百済が指差した先では、全身を鎖で縛られ、みの虫状態で猿轡を噛まされた真黒がビッタンビッタンジャランジャランと豪快に飛び跳ねている。それをロデオマシーンさながらに必死で抑えているのは、最近体格とともに男らしい口調になってきた善吉だ。
「私が今朝起きたときには既にこの状態だった。おそらくお姉さまの仕業だとは思うが」
寝込みを襲われたか、はたまた微笑みのひとつでも喰らって悶死した隙を突かれたか。どちらにしろ、あの((真黒|へんたい))を油断させるのは簡単だっただろう。
「……くじらちゃんが家出したことは?」
「手紙を読んだときは気が動転していてな、つい話してしまった。鎖をほどくとどうなるかわからんから、そのままにしている」
「せめて会話にくらい参加させてやれよ。かなり大きな家族問題だろーが」
「言語が支離滅裂で文章として成立していなくてな。鬱陶しいので黙らせた」
……だから、お前ら姉妹の中で真黒の評価ってどうなってんの?
「まあ、縛ったままにしたのは賢明な判断だけどな」
あんな血走った目の真黒など自由にしたが最後、黒神グループの総力を――どんな手を使ってでもくじらを探し出そうとするだろう。
用意周到なくじらのことだから、世界有数の財閥の力をもってしてもそう簡単に見つかるとは思えないが、助けると約束した手前、せめて少しでも身を隠す時間を稼いでやらなければ。
「――――――――――――――っ!」
「二人とも暢気に話してないで手伝ってくれよ、俺だけじゃ無理だってー!」
善吉の悲鳴が木霊する。
「よし、ゆくぞ百済!」
すっかり元の調子に戻っためだかに満足しながら、
「……メンドクセーなぁおい」
今もどこかで不幸を探している少女に、再会したら文句の一つでも言ってやろうと心に誓う百済だった。
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