垂水百済はマイナスである ――172回目の【僕】――  EXTRA―1 百済、十歳 看病
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 風邪も恋も変わらない。

 

 こじらせると厄介で、確実な薬がない点は特に。

 

 ――28回目の{私}――

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 それは木枯らしの吹く十一月の、とある一日の出来事。

 

 

 

 

 

 惰眠を貪っていた百済は、夜も明けきらないうちから鳴り響いた電話によって叩き起こされた。

 

「…………はい、垂水ですが」

 

『百済くぅううううううんんんっ!!』

 

 耳を突き刺す大音声に、寝起きの頭がぐわんぐわんと揺れる。

 電話の主に殺意を覚えるがぐっと堪え、努めて冷静に話す。

 

「耳障りなんでとりあえず黙るか、じゃなきゃくたばってください。くじらちゃんたちの平穏のためにも」

 

 多少、言葉が荒くなってしまうのは仕方がない。うん、仕方がないのだ。

 掛けてきたのは真黒だった。

 妹絡みになると目の色を変える変態は、今日はいつにもまして騒がしく、切羽詰まっているようだった。

 

「また秘蔵してたお手製くじらちゃんフィギュアとめだかちゃんフィギュアを没収でもされましたか? 先に言っときますけど、もう作るの手伝ったりしませんからね。一度二人に見つかって殺されかけたの忘れたんすか?」

 

 あのときの二人の顔は怖かった。

 情熱を間違った方に向けた真黒の監督の下、百済自身の手先の器用さも相まって、細部までやけにこだわったせいか、めだかフィギュアとくじらフィギュアは男として直視するのを躊躇ってしまうほど精巧な出来になったのだ。

 なにが悲しくて、幼馴染たちの全裸の人形を最終チェックと称して矯めつ眇めつしなければならんのか。

 ちなみにコスチュームは着崩したお揃いのパジャマ(テディベア付属)だったりする。

 心の底からどうでもいい。

 

 ……どうして自分は寒い廊下で黒歴史を思い返しているのだろう。

 

 吐いた溜め息が白く染まる。

 抜け出た布団はとっくに冷たくなっているだろうなーと考えると、余計に虚しくなってくる。

 

 電話の向こうでは、わけのわからん呻き声のような悶え声のようなものが聞こえている。

 

「で、ご用件はなんでしょうかね? これで大した理由じゃなかったらその口縫いますよ?」

 

『くじらちゃんが、くじらちゃんがぁ……』

 

 朝っぱらから男のすすり泣く声など聞きたくはなかったが、どうにも様子がおかしい。

 くじらに関することでなにか問題でも生じたのだろうか。

 

 真っ先に予想したのは家出だ。

 

 異常性である『((禁欲さ|ストイック))』に駆られるのか、常日頃から家を出たいと言っていたくじらはたびたび百済に相談を持ちかけてくるのだ。

 とうとう決行したかと感心する一方で、出ていく前に連絡の一つでもしてほしかったと寂しくも思う。

 

 だが、事態は百済の予想のはるか下をいっていた。

 

『くじらちゃんが、風邪を引いちゃったんだぁああああああああああっ!!』

 

 はあ?

 

「………………………………はあ、そうですか」

 

 それはそれで大変なことなのだろうが、この人のテンションに付き合っているとそうでもないように感じるから不思議だ。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

「仮にも人体科学の((専門家|スペシャリスト))が風邪とか。これも医者の不養生って言うのかねー」

 

 陽も出て二時間が経った頃。

 百済はフルーツの入ったカゴを片手に、黒神邸を訪れていた。

 

「…………連絡すんなっつったのにあのクソ兄貴」

 

 氷嚢を頭に載せ、体温計を咥えたくじらは憎々しげにそう言った。

 いつもの強気な態度はどこへやら、頬はうっすらと上気し、両手は羽毛布団から力なく投げ出されている。

 

「じっとしてるお前ってのも珍しいもんだなー」

 

「うっせー」

 

 最近のくじらは、男のような口調を好んで使うようになっていた。

 理由を聞くと「同じに見られるのが嫌だ」と言うことであるらしい。

 そして、普段はその異常性に目が行きがちだが、黒神兄妹は美形揃いで、もちろんくじらも自信をもって美少女と言えるほどに整っている。

 ゆえに、

 

「いや褒めてんだぜ? こうして見るとお前も普通の可愛い女の子じゃん」

 

「かっ――――」

 

 くじらは耳まで真っ赤になり、口もわなわなと震わせる。と思ったら布団を被り顔を隠してしまった。

 それを見た百済の中で嗜虐心が湧き上がる。

 

「おんやー? おやおやおや? どーしたのかなくじらちゃん。まさか? まさかまさか、学究に魂を売り渡したと豪語するあの黒神くじらさんが、もーしかしてもしかしなくても照れていらっしゃんるんですかぁー? うわー、くじらちゃんったらかーわいー」

 

「うっせー! 可愛くねー! 俺は色気とは無縁な生活してんだー!」

 

 布団の中で可愛い女の子が叫ぶ。

 まだ十歳の少女なのだから、色気もへったくれもないと思うが。

 

 百済はじたばたと悶える布団少女をひとしきり笑った後、

 

「……けどまあ、実際大したことなくて良かったよ。真黒さんの慌てっぷりは半端じゃなかったんだぜ?」

 

 くじらは布団から目だけ覗かせて、

 

「兄貴が過保護過ぎんだよ。他でもないこの俺が問題ねーっつってんのに、泣くわ叫ぶわ慌てるわ喧しいわ。邪魔だから象用の鎮静剤ブチ込んでもなぜか効かねーし」

 

「感情が肉体を凌駕してたんじゃね?」

 

「……かもなー」

 

 あのアグレッシブな((真黒|へんたい))なら十分あり得る。

 二人は揃って頷いた。

 

『が、ぐっ、くじらちゃぁああああん』

 

 その頃、書庫の前で真黒が身動き一つとれなかったのは、まあ大した話ではないので割愛する。

 

「――にしても、お前もお前だろ? 聞いたぜ? 真黒さんやめだかちゃんがいくら言っても机から離れなかったらしいじゃねぇか」

 

 見舞いも理由の一つだが、百済が呼び出された本来の目的はくじらとの交渉役をするためだった。

 風邪を引いたくらいでくじらがペンを止めるわけもなく、ようこそ不幸、とばかりに学業に邁進する始末。当然、めだかや真黒の忠告にも耳を貸さず、困り果てた兄妹は百済に助けを求めたのだ。

 

 黒神邸に着いた百済は、半狂乱の真黒に書庫へと案内された。

 扉の前には心配そうに中を覗きこんでいるめだかがいて、百済に気付くと涙目で抱きついてきた。軽く頭を撫でて落ち着かせると、凛とした表情で「お姉さまを頼む」と言い残し、どこかへ走り去っていた。

 

 中に入ると、くじらが汗まみれの顔で呻きながらも延々と数式を書き込んでいた。

 

『馬鹿かお前は!』

 

 容赦なく罵倒して、椅子から引きずりおろす。

 始めは熱で錯乱しているのか、ぐずる赤ん坊のように暴れたが、羽交い絞めにして引きずっていると力が抜けて大人しくなり、意識も半ば落ちかけていた。

 すぐに別の部屋に案内され、用意されていたベッドにくじらを寝かせて、今に至る。

 

「――お姉さま、百済、入っても大丈夫だろうか?」

 

 控えめなノックの音とともに、めだかの声が廊下から聞こえてきた。

 

「あー、問題ねーから入っていいぞー」

 

 くじらが返事をすると、めだかが静かに入ってきた。メイドが土鍋を二つ乗せたワゴンを押して後に続く。

 

「お姉さま、シェフにお粥を作らせたのでお食べください。百済には雑炊を用意させた。二人ともまだ朝食を取っていないのだろう?」

 

 土鍋から立ち上る湯気が、二人の鼻と胃を刺激する。

 くぅぅ、と誰かの腹の虫が小さく鳴った。

 百済がくじらの方に振り向くのと、くじらが慌てて布団を被りなおしたのはほぼ同時だった。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

「さあお姉さま、口を開けてください」

 

 メイドを退室させためだかは、自らお粥をお椀に盛り、レンゲで掬ってくじらに差し出した。

 

「ちょっと待て。お前が食べさせんのか?」

 

 予想外の出来事に困惑するくじら。

 ぷっ、と吹き出す声がした方を睨めば、百済が雑炊を啜る手を止めて笑いを堪えていた。

 

「はい、私もお姉さまには早く元気になってもらいたいのです。さあ!」

 

 ずずい、とレンゲが近づく。

 

「……百済くん」

 

「はいはい、わかりましたよっと」

 

 くじらの気持ちを察した百済はくるりと背を向けると、再び雑炊を食べ始めた。

 

「さあ、あーんです、お姉さま」

 

「あ、ああーん」

 

 視界の隅で、百済の肩がぷるぷると震えているのをくじらは見逃さなかった。

 

 くたくたになるまで煮られた白米は余計な味付けはされておらず、本来の甘みのみではあったが、それが空きっ腹に優しく染み渡る。

 

「……美味しい」

 

「それは何よりです。さあお姉さま、もう一口どうぞ」

 

 言われるがままに口を開く。

 もう一口、もう一口とやっているうちに、あることに気がついた。

 この部屋には鏡台が備え付けられている。それは百済が顔を向けている方の壁際に設置されているため、必然的に――

 

「…………ぶっ、くくくく」

 

 雛鳥のように口を開けている自分と、鏡越しにばっちり目が合ってしまった。

 

「――――――――っ!」

 

「お姉さま、大丈夫ですか!? 顔が真っ赤ですよ!?」

 

 瞬間沸騰したくじらを見て、慌てふためくめだか。

 

「う、うっせー、問題ねー! つかもういい! 十分、十分食ったから!」

 

「なにを言っているのですかお姉さま! まだ半分も食べてないじゃないですか! さあもっとどうぞ!」

 

 いや無理。無理だから。これ以上続けたら風邪じゃなくて恥で死ぬ。

 差し出されたレンゲを頑として拒むくじらに痺れを切らしたのか、めだかはとんでもないことを言い放った。

 

「ならば百済に食べさせてもらいましょう!」

 

「んなぁ!?」

 

 その提案はくじらにとって死刑宣告に等しいものだった。

 百済の我慢もいよいよ限界らしい。必死に脇腹を掴み、痛みで笑いを紛らわせようとしているが、「ぐふっ」だの「ひぃ」などと声が漏れている。

 

「見ていればどうやら、お姉さまは百済の言うことならば素直に聞き入れてくださるご様子。うむ我ながら名案です!」

 

 これ以上ない愚策だろ馬鹿妹があああああっ!

 くじらは声を大にして叫びたいが、口がうまく動かない。

 ここは百済が断ることを信じて――

 

「おーいいぜいいぜ? 満足するまでいくらでも食べさせてやんよ?」

 

 速攻で裏切られた。

 愕然とするくじらを余所に、めだかからお椀とレンゲを受け取り、ものすごくいい笑顔で、

 

「ほれ、くじらちゃん」

 

「く、あ、あーん」

 

 もう恥ずかしすぎて味などわからなかった。

 

 

 

 

 

 

「いやー、面白いものを見せていただきました」

 

 悪夢のような食事が終わると、くじらはすぐに布団に引きこもった。

 隙間から恨みがましい視線を、けらけら笑っている百済に突き刺す。

 

「……治ったら覚えてろ。改造してやる解剖してやる解体してやる」

 

「そんだけやる気がありゃあすぐに治るさ」

 

 百済が浮かべるのは、さっきまでの底意地の悪い笑みではない。こちらを心の底から心配してくれている苦笑。

 顔の火照りもようやく収まり、布団から顔を出す。

 

「あーべんきょーしてー、化学式書きてー、解剖してー」

 

「病人が無茶言うなって。温かくして寝てろ」

 

「暇なんだからしょーがねーだろー、いいじゃんか少しくらい――」

 

 と、そこでくじらの脳裏に妙案が閃く。

 仕返しにもなる、一石二鳥の企みが。

 

「にひひ。じゃあ温かくなるよう工夫すれば、俺がなにしようと百済くんに文句はねーんだな?」

 

「……まあそうなるけど――嫌な予感しかしねぇのはどうしてだ?」

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

「ん、ちょっと遠いな。百済くん、もーちょい前に来てくれ」

 

「あいよー」

 

 ずりずりと体をずらして前に出る。

 

「……くじらちゃんよー、これはちっとばかし恥ずかしくないかい?」

 

 そう言う百済は現在、布団を頭から被って椅子に座っていた。

 

「温かくて、俺は勉強ができる。百済くんの条件だってクリアーしてんだろ?」

 

「そうだけどよー」

 

 くじらの声は、百済の頭の下から聞こえてくる。

 すっぽりと、足を開いて椅子に座る百済に後ろから包み込まれるような形で、くじらは勉学に勤しんでいた。

 確かにこれならば体を冷やすこともないし、なにかあれば百済が対処できる。

 

「恥っずいなー」

 

「いいじゃねーか、誰かに見られてるわけでもねーんだし」

 

 食事を取って体調も少しは回復したのか、カリカリと淀みなくペンを走らせていく。

 

「そこはそれ、気持ちの問題っすよー。もしかしてさー、さっき笑ったこと怒ってる?」

 

「さーて、どーだろーなー」

 

 あっついー、恥ずいー、おにー、あくまー、しょうわるーと投げやりに唸る百済は気付かない。

 彼に身体を預けているくじらが、頬を染めながら満面の笑みを浮かべていたことに。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 取るに足らない蛇足な話。

 

 

 

 

「く、くじらちゃん…………だっこなら、お兄ちゃんがぁ、して、あげるよぉおおお……ぐふっ」

 

 体力を振り絞り、真黒が這い寄ってくる。

 いまだに鎮静剤が効いているらしく、ほとんど死に体の状態だ。

 

「……あんたのその根性を、もー少し他のなにかに活かせないもんかねー」

 

 愛する妹を目前に力尽きた真黒。

 その哀れな姿に、思わず呟かずにはいられない百済であった。

説明
番外編 その1
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