垂水百済はマイナスである ――172回目の【僕】―― BOX−7 誰でもない |
ただそこにあるだけで。
人を傷つけ、人を喰らう。
ただそこに立つだけで。
自分を傷つけ、自分を喰らう。
其は絶対不変。永久不滅の凶つ星。
――106回目の〔僕〕――
◆ ◆ ◆
顔面を剥がされた彼女は、一体なにを考えているのだろう。
無残に横たわるなじみを冷静に観察しながら、百済はふと思った。
駆けつけたときには既に顔を剥がされた後であったため、彼女がなにを言い、どんな表情をしたのかは加害者である球磨川にしか分からない。
いつものような軽口も叩かずに沈黙している。
まさか、死んでいるわけではないだろう。
死ぬほどの傷ではない。死にたくなるような傷ではあるが。
どうしたというのか。
気絶するなんて、彼女らしくもない。
たかだか((面の皮|・・・))((を剥がされた|・・・・・・))((だけだろうに|・・・・・・))。
彼女の顔に手を伸ばす。
ぬちゃり、と粘着質な水音。
指には赤よりも黒に近い血と、わずかな肉片。
「……かは」
思わず自嘲めいた笑いが漏れる。
何故だろう。酷く懐かしい――というより、血に塗れた自分の指と錆びた鉄のような臭いを、ごく最近見て、嗅いだような気がするのだ。
近くにあった椅子に腰かけ、ゆらりゆらりと傾けながら天井を仰いで記憶を探るが、どうにも思い出すことができない。
けれど、決して記憶違いなどではない。
知っているはずなのに。経験したことがあるはずなのに。
ぽっかりと欠落しているのだ。
まるで記憶に虫食いがあるような――
首を捻っていると、重厚な破砕音が聞こえ、足元がわずかに揺れた。
それが二度、三度と連続する。
((あっち|・・・))は((あっち|・・・))で、まだやっているらしい。
「……で、結局どこまでがあんたの企みなんだ? なじみ先輩」
天井を見たまま、独り言を虚空にぽつりと投げかける。
そう、百済にとってそれはあくまで独り言のつもりだった。
返答など期待してはいなかった。
だが――
「企みだなんて人聞きの悪い。僕はなにもしちゃあいないぜ?」
聞き慣れた、飄々とした口調。
相も変わらず親しげで、けれど人を見下しているような話し方。
――ああ。やはりこの女は。
瞑目し、百済は確信する。
たとえ顔を剥がされても、この女は微塵も変わることはない。
少女の顔をした化生。人の身体をもつ人外。
ゆっくりと椅子を戻し、後ろを――教室の前方を見やる。
教卓に片膝を立てて腰かけている彼女が、口端をつり上げて嗤っていた。
優雅といえるほど華麗に。
高慢と呼べるほど冷然に。
剛毅と思えるほど不敵に。
安心院なじみはそこに存在していた。
「どうしたんだい百済くん、顔がマジになってるぜ?」
問いかけに構わず床に視線を移すが、なにも残ってはいなかった。
先ほどまでは確かにあった血痕も肉片も、まるで白昼夢であったかのように綺麗さっぱり消え去ってしまっている。
それだけではない。
机もロッカーも、教室にあったほとんど全てのものが跡形もなく掻き消され、残っているのは百済となじみが座っている椅子と教卓のみだった。
更には、窓の外も一変してしまっている。
見慣れた街並みではない。
一面の黒。
暗闇、というわけではない。
空も地面も草木も建物も。
なにもかもが真っ黒に塗りつぶされている。
明らかに現実ではない。
その暗澹とした風景と推測に、百済は首を擦りながら大きくため息を吐いた。
「…………化けて出るのは億歩譲って良いとしてもよ、僕を巻き込むのはやめて欲しいもんだ。あんたと心中なんざ死んでもゴメンだっつの。だからさぁ――」
そう言って椅子を蹴り倒し、一足飛びでなじみに接近する。白く柔らかな首筋に、袖口から取り出したノコギリの切っ先を突きつけた。
「さっさと((ここ|・・))から出しやがれ。さっきからなんか知らねぇけど気分が最ッ高に悪ぃんだよ」
「くく、あっはははははは!!」
鋭く光る無数の刃にも動じず、なじみは声高らかに笑う。
「居心地が悪くて当然さ。ここは夢の中、そして、きみの心の中の世界。きみが溜めこんできた『モノ』でここは満ち溢れて今にもはち切れそうなんだよ。まあもっとも、((まだきみには|・・・・・・))((見えてすらいない|・・・・・・・・))((だろうけど|・・・・・))」
「………………」
どうやら、とてつもなく面倒なことになったらしい。
そもそもこうなった原因はなんだったのか。
◆ ◆ ◆
好きな人が出来たんだけどどうしよう、と球磨川に相談されたのは夏休みに突入する前日のことだった。
その日、生徒会室には球磨川と百済しかいなかった。
めだかに改心させられた阿久根は言うに及ばず。副会長であるなじみは球磨川の代わりに生徒会業務を取り仕切っているため不在。書記の真黒は妹のところへ飛んで行き、会計に至っては登校しているかどうかすらわからない。
……一人を除いて誰も仕事してねぇし。
それでいいのか生徒会と思わなくもないが、役員でもない百済が我が物顔でくつろぐにはその方がいいのかもしれない。
球磨川の衝撃発言を聞いた百済は、読んでいたジャンプから目を離すことなくただ一言、
「諦めろ馬鹿」
あまりといえばあまりの暴言である。
だが球磨川と百済からしてみればこの程度、挨拶代わりにもなりはしない。
「『ひっどいなー百済ちゃん』『僕がこんなにも悩んでるのに馬鹿って』『それでも友達かよ』」
「都合のいい時だけ友人面してんじゃねぇよ」
ジャンプを長机に置き、定位置に座る生徒会長様を見据える。
カチャカチャと知恵の輪を弄る手は淀みなく動き、そこには恋の悩みといった年相応の少年らしい動揺は見られない。
これは全ての過負荷に共通することだが、彼らはどうにも惚れっぽい一面がある。
それは百済にも言えることなのだが、幸か不幸か、今のところ恋した相手は一人しかいない。
以前、なにが発端かは忘れてしまったが、過負荷で集まって初恋の人を言い合うという馬鹿げた状況に陥った時も、この負完全は堂々と臆面もなく言ってのけた。
『人吉先生』と。
彼女を知らぬ者は首を傾げ、彼女を知る者はなんともいえない微妙な表情をした。
もちろん百済は後者であり、その場に突っ伏してしまった覚えがある。
「『でも百済ちゃんも無関係ってわけじゃないんだぜ?』『だって彼女は百済ちゃんも知ってる子だし』」
「考えうる限り最悪の展開だなぁおい! それじゃなにか? その子を顔を合わせるたびに僕は『ああ、この子は球磨川に惚れられてしまった哀れな子なんだなぁ』と同情の目で見なきゃならんのか?」
それは嫌すぎる。知人であるなら尚更。
「……その子の名前を教えろ」
「『んー?』『やっぱり手伝ってくれるの?』」
「違ぇよ阿呆。お前がなにかを『しようとする』だけで周りがとんでもねぇことになるだろーが。ましてや今のお前に好かれたなんてトラウマでしかねぇし」
どうにかして球磨川の恋心を止めなければ、色々と――主に百済にとって――面倒なことになる。
徹頭徹尾、裏から表から、力の限りを尽くして邪魔をしなければ。
そんな外道な考えをしている時点で既に面倒事ではあるのだが。
「……で? 相手は誰なんだよ」
できればあまり身近ではない人間であればいいのだが。
「『うん』『安心院さんだよ?』」
百済の動きが止まった。しかしやがてふらりと立ち上がり、ゆっくりとした歩調で球磨川に歩み寄ると、怪訝な顔をする彼の肩に軽く手を乗せて、
「全力で応援してやる! 是が非でもその恋を実らせてやろうじゃねぇか!!」
その時の百済の表情は、とても悪役じみた笑顔だったと後に球磨川は語る。
……………………………。
「悪ぃ。取り乱した」
「『うん』『さすがの僕もちょっと引いた』」
椅子に座り直した百済は、改めて球磨川に問う。
「好きになったっつってもお前はどうしたいんだよ。このまま片思いでいるか、それともコクッて玉砕するか」
「『あれー?』『応援するって言ってる割に僕がフラれるの前提で話してない?』」
そこは気にせずに話を進めよう。というか、どう予測してもまともな結果にはならないのだから仕方がない。
「実際問題、なじみ先輩のどこに惚れたんよ?」
そう尋ねると、球磨川にしては珍しく困ったように、
「『うーん』『どこって言われるとなー』『彼女は人気あるし魅力的だし優しいし……』」
腕を組んで唸る球磨川。
「『……どうしよう百済ちゃん』『本当に彼女のことが好きなのかどうか分からなくなってきちゃった』」
「おい」
まあ言っている意味は分からなくもない。
本当に異性として好きなのか、それとも一時的な――アイドル的なものとして好きなのか、ということだろう。
だが、どうしようもなにも、これは当事者ではない百済に解決できるような問題ではない。
「……じゃあまずは、その気持ちが本物なのかどうか確かめてからにするこったな。それがわかんねぇことには僕にも手は打てねぇよ」
「『うーん』『そっかー』『やっぱり相談してよかったよ!』『持つべきものは親友だね!』」
「虫唾が走る関係だなぁおい」
球磨川がなじみの顔を剥がすという凶行に及んだのは、その数日後のことだった。
◆ ◆ ◆
結局のところ、この事態は自分が引き起こしたもののようにも思える。
軽はずみな発言ほど自身を苛むものはないが、しかし垂水百済は((過負荷|マイナス))である。
後悔も自責の念も、百済にはもっとも縁遠い言葉であった。
「……ホント、((球磨川|あいつ))のために動くとロクなことにならねぇ」
だが、ここまでとなると自分の愚かさに呆れてしまう。
さてどうするべきかと悩んでいると、
「まあとにかく、こっちに来るなんて僕も予定外ではあったんだけどね。球磨川くんのせいでどうにも身動き取れなくなっちゃててさ、仕方がないからしばらくの間『保険』を使っちゃおうと思うんだ」
「は?」
どういう意味だ、と問う暇もなかった。
百済が視線を離した一瞬の隙を突き、なじみは素早く百済の頭部を抱え、微塵の躊躇なく唇に唇を重ねた。
突然のことにバランスを崩した百済は、なじみに半ば押し倒される形となる。
「ぐっ、むっ……」
馬乗りになった状態で、なじみの舌が百済の口腔内を蹂躙する。
当然百済は引き剥がそうとする。しかし、頭をしっかりと固定されているため上手くいかない。
数秒とも数分ともつかない時間が経ち、ようやくなじみが離れて立ち上がったときには息も絶え絶えで、酸欠で死にそうになっていた。
過負荷だろうが夢の中だろうが、キスはキス。
百済自身、決して堅物というわけではないが、だからといって身持ちが軽いわけでもない。
つまり、なにが言いたいのかというと。
垂水百済、ファーストキスであった。
「ふふ、ごちそうさま」
百済は口を押えてうずくまっている。肩がぶるぶる震えていた。
「ふっ――ざけんな! いきなりキスとかなにを考えているんですかあなたは!」
「そう怒るなよ、僕なりの愛情表現ってやつさ。それで? ((お母さん|・・・・))とおおよそ十年ぶりの再会だけどご機嫌いかがかな、((ふーくん|・・・・))?」
「いいわけないでしょう! 育ての親とキスとか悪夢でしかありませんよ! というかふーくん言うな!」
「えー良いじゃん。きみの本名は安心院不和。だからふーくん」
「呼ぶなっつってんでしょ! ああもう思い出した思い出しましたよ! ((悪平等|あなた))たちに育ててもらったことも実の親にされたこともクソッタレな僕の過去もなにもかも全部! それで!? あなたは一体なにがしたいんですか!? どうして十年も僕の記憶を封印する必要があったんです!?」
百済はまくし立てる。
全てを思い出したのだ。
本当の名も、自分の過去も、彼女が何者であるのかも。
素肌に触れた対象の記憶を弄り回し、思うがままに改変する――それが安心院なじみの一京分の一のスキルである『((媚暴録|メモリーダスト))』。
それによって、百済の記憶はある時期を境に、一部を除いて意識の奥底に封印されていた。
その記憶とは今言ったように、なじみとの関係や自分の生い立ちに深く根付いたものであり、出来れば一生思い出したくないものであった。
「じゃあさっさと本題に入るとしようかい、愛する息子のふーくんや。実はちょいとばかしお母さんの頼みを聞いてほしいんだよねぇ」
「……もはや怒鳴る気も起きません」
諦めの境地に達した百済は大の字に倒れる。ヒンヤリとした床の冷気が心地よい。
「箱庭学園、もちろん覚えてるよね? いの一番に僕が教えてあげたことだし」
「……あなたが創ったという学校でしょう? 異常性の高い者を集めて、完全な人間を生み出すことを最終目的とするイカレた研究機関」
百済の答えに、なじみは満足げに頷き、
「うーん、乱暴な口調の百済くんも良いけど、やっぱり敬語を話すふーくんは格別だね。思わず惚れ直しちゃいそうだぜ」
「心にもないことを言ってないで、早く続きを話してください」
せっかちさんだねぇ、となじみは笑いながら続ける。
「別に今すぐって訳じゃないんだけどさー、機会があったら僕の代わりに行ってもらいたいんだよねえ。まあ代わりといっても時間はたっぷりあるから強制じゃないし? 本当の過負荷も思い出したはずだから、時期が来るまでリハビリも兼ねて自由にやっててくれればそれでいいんだけどね?」
「……はあ」
どういう意図があるのかさっぱりわからないが、彼女の命令には従わなければならない。
そう『((教育|プログラム))』されたから。
「わかりました。卒業したら機を見て箱庭学園に通うことにします」
「素直でよろしい。じゃあご褒美にチュウしてあげよう」
「全力でお断りします。……一つだけ聞いても良いですか?」
「んん?」
「僕が、垂水百済として生きてきた今までの十年間は、全部偽物なのでしょうか」
めだかも善吉も球磨川も阿久根も――そして((彼女|・・))も。
本来ならば存在すらしない自分ではない『誰か』と遊び、話し、接していたのではないか。
自分を否定されることが無性に恐ろしかった。
「……どうだろうね。要はきみがどう思うかだよ。けど、これだけは言える」
なじみは真顔で断言する。
「((現実|むこう))に戻ったら、きみに待っているのは地獄だよ」
◆ ◆ ◆
目を覚ますと、そこは見慣れた箱舟中学の校庭だった。
夕日に照らされた校舎には、既に人の気配はない。
めだかも善吉も――そして球磨川もいない。全てが終わったようだ。
「ぎ――――いぃぃぃっ!」
唇を噛み、悲鳴を上げることだけはどうにか堪える。
焼かれ、切られ、砕かれ、裂かれ、十年も徹底的に虐めぬかれた身体が激痛を超えた灼熱を訴え、百済に現実――真実を叩き込む。
『媚暴録』が単なる記憶操作能力と異なる点は、そのスキルの影響が肉体にも及ぶことが挙げられる。つまり『傷を負った』という記憶を消去されれば、身体の傷も消えてしまい、逆に、封印されていた記憶を戻された場合、傷は再び現れることになる。
「………………」
両の手を見る。
醜く焼け爛れ、指先は爪と肉の判別もできないほどグズグズになっていた。
「――――っがああああっ!」
拳を地面に叩きつける。肉の潰れる音が響くが、構わず百済は殴り続けた。何度も何度も、血が飛び散り、肉が裂け、骨が剥き出しになっても止めることはなかった。
行き場のない怒りと憎しみが百済の中で渦を巻く。
自分は垂水百済で、安心院不和。
生まれながらの過負荷であり三人目の悪平等。
どちらでもあり、どちらでもない。
「……かっはははは、確かにこりゃ地獄だわ。上等だよ。これがあなたの望んだことだというなら、僕は従いましょう」
牙を噛み鳴らしながら、幽鬼の如く立ち上がる。
軽く息を吸い、吐き出すに合わせて過負荷を全開にした。
頭上を飛んでいたカラスの群れが屍となって校庭に堕ち、生臭い深紅の雨が降り注ぐ。
「過負荷として、悪平等として、あなたの最高失敗作として、そしてなにより僕としての有り様を貫いてやる」
◆ ◆ ◆
凶星は目覚めた。
舞台は次の幕が上がる。
忘れ去られた操り手と、糸を切られた木偶人形。
笑え、狂え、踊れ、騙れ。
所詮全てが脚本どおりなのだから。
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