垂水百済はマイナスである ――172回目の【僕】―― EXTRA―2 水槽狂騒曲 |
支配する者、される者。
王がいるから下僕なのか。
下僕がいるから王なのか。
――5回目の『私』――
◆ ◆ ◆
水槽学園は日本屈指の名門校だ。
いや、より正確に言うならば、日本屈指の名門校((だった|・・・))。
なぜなら水槽学園は既に廃校になり、この地上から消え去ってしまっているからだ。
一体なにがあったのか。それは誰にも分からない。
球磨川禊。
安心院不和。
彼らと数名の生徒を除いては。
◆ ◆ ◆
水槽学園の廊下を、一組の男女が歩いている。
先を歩いているのはマスクで口元を隠した女子生徒。その後を追うように、学ランを着た男子生徒が続く。
女子生徒はどこか困ったような――途方に暮れているような表情をしていた。もっとも、マスクのせいでハの字に下げられた眉と泳ぐ瞳でしか表情を窺うことはできなかったが。
「……ゴメンね不和くん。後輩にこんなことさせちゃって」
男子生徒を振り返りながら、女子生徒は言った。
不和と呼ばれた男子生徒は特に気にした様子もなく、
「まあ暇だったからいいですけどね。でも転校生を生徒会室に案内するだけなのに、どうしてわざわざ僕まで行かなきゃならねぇんです? いくらウチの生徒会の連中が((アレ|・・))でも、別に須木奈佐木先輩一人で大丈夫でしょうに」
「うん、私も最初はそう思ったんだけど、なんていうか……危ないっていうかなるべく関わり合いになりたくないっていうか」
「……要するに、少しの間だけでも二人きりになるのが嫌だから一緒に来てほしいと」
どんな転校生だよ。
須木奈佐木咲の要領を得ない説明に、やれやれと肩を竦める。
重い空気を漂わせながら、二人は転校生がいる3年4組に到着した。休み時間だというのにそこだけやけに澱んだ雰囲気で、しんと静まり返っている。
とても嫌な予感がした。しかし同時に、心の中で欠けていた『何か』がぴたりと嵌まったような、奇妙な充実感もあった。
須木奈佐木が扉を開けると、教室の中は奇妙な光景が広がっていた。
生徒たちが教室の片隅で一塊になり、まるで怯えているかのように一人の少年を注視していたのだ。
眉を顰め、訝しみながら、生徒たちの視線の先に目を向ける。
窓際の一番奥に位置する席で、少年がジャンプを読んでいた。
「禊……」
不和は、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
見間違いや他人の空似などではない。そこにいたのは紛れもなく球磨川禊本人だった。自分と同じく、水槽学園の制服を着ている。不和よりは低いが背も伸びたようだ。おしゃれに目覚めたのか、髪型も中学時代より幾分まともだった。
混沌より這い寄るマイナス。
負完全。
元箱舟中学生徒会長にして黒神めだかの天敵。
なじみの顔を剥いだことでめだかの逆鱗に触れ、箱舟中学を追放された男。
そして、自分のかつての友人。
思わず過去を懐かしむが、首を振って気持ちを切り替える。自分は既に垂水百済ではなく、安心院不和なのだと言い聞かせた。
気を取り直し、先輩たちの会話に聞き耳を立てた。ざわざわと『でかい螺子が』だの『記録がなかった』だのと物騒な単語が聞こえてくる。
……どうやら球磨川は、転校初日からやらかしてくれたようだ。
基本的に人懐っこい性格の球磨川だが、不和でも偶に引きたくなるような言動・奇行をするのだから、初対面であり免疫を全く持たない水槽学園の生徒たちには衝撃が大きかったのだろう。
やれやれと溜め息を吐く不和を置いて、須木奈佐木は球磨川におっかなびっくり近づいていく。
そして恐る恐る声を掛けた。
「ねえあの、球磨川くん。悪いんだけど、よければその……少しだけ、お話させてもらってもいい、かな……?」
「………………」
焦りながら話す須木奈佐木。
けれど球磨川は黙って、須木奈佐木をじっと見たまま動かない。
「あの……球磨川くん?」
不審に思った不和も球磨川の席に向かう。
「――っ!?」
「……おいおい」
不和は呆れて声を上げた。
ぶわっ、と球磨川はいきなり大粒の涙を流し始めたのだ。
「『ああごめんね』『いきなり泣いたりなんかして』『ただとっても嬉しかったんだ』『きみがそうやって僕に話しかけてくれたことが』」
取り出したハンカチで涙を拭う。
「『今まで色んな学校に転校してきたけどさ』『女の子の方から声をかけてもらえたのは初めてだったから……』『それで』『たぶん罰ゲームかなにかだと思うんだけど』『なんの用?』」
球磨川はけろりとした顔で須木奈佐木に尋ねた。
コロコロと変わる態度に呆気にとられて何も言えない須木奈佐木と、ああやっぱりコイツは変わってない、と苦笑する不和。
この男は昔から、悪い意味で他人を自分のペースに引き込むのだ。
だが、慣れてしまっている不和に通用するわけもなく。
「転校したてで忙しいでしょうが、会って欲しい人がいるんですよ球磨川先輩」
このまま突っ立っていても仕方がないので、硬直している須木奈佐木の代わりに用件を伝えた。
「『んー?』『あれ?』」
不和の顔を見て、球磨川は首を傾げた。
……まさか覚えているのだろうか。
目を細めて内心驚くが、それはありえないと否定し、表情には出さないように努める。
別に声や顏を変えたわけではない。
ただ単純に、安心院不和としての記憶が蘇ったあの日、安心院なじみという存在がめだかや善吉の記憶から消え去ったように、垂水百済という存在もまた、皆の記憶から抹消されただけのことだ。
そのことに気付いた当初は発狂しそうになった。だが、時間が経つにつれて、それでもいいと思った。
今までの思い出が用意された作り物で、自分が自分ではないと否定されるくらいなら、いっそのこと全部忘れてくれた方がマシだったからだ。
だから、
「なんです?」
球磨川に対しても、めだかや善吉と顔を合わせた時のように、あたかも初対面であるかのように振る舞った。
「『…………』『なんでもないよ』『僕の気のせいだったみたいだし』『それで』『会って欲しい人って?』」
「須木奈佐木先輩」
「あっ、うん……その、この学園の生徒会長さんなんだけど」
不和に促され、須木奈佐木が説明を始めた。
蛇籠飽。
水槽学園現生徒会長にして事実上の支配者。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、実際彼女の機嫌を損ねて学校を辞めていった者も少なくない。
「『……ふぅん』『でも所詮は高校生でしょ?』」
球磨川の言うことにも一理あった。
永久なんてものは存在しない。ましてや生徒会長という立場にいるのなら留年なども考えられない。三年――いや、任期から考えればあと数ヶ月待てば終わってしまうような脆弱な支配体制だ。
しかしそれでも、水槽学園に通っている生徒たちからしてみればたまったものじゃない。
それに、彼女には恐れられる確固たる理由があるのだから。
「……皆最初はそう言うんだよね。でもすぐにそんなこと言えなくなる。あの人の――蛇籠会長の固有スキル『((遊酸素運動|エアロバイカー))』、『酸素を操るスキル』を目の当たりにしたら」
「『…………』『酸素を操るって……?』」
球磨川は、いまいちピンと来ていないようだ。
それは不和も同様だった。
蛇籠の噂を聞いてはいたのだが、なるべく目立たず、波風を立てないように過ごしていたために、彼女の粛清という名の教育を実際に目にしたことは一度もなく、姿も集会時に壇上に立っているのを何度か見たことがある程度だったのだ。
まあ単純に、興味がなかったからでもあるのだが。
須木奈佐木に頼まれたのも、彼女と同じ委員会に所属している先輩後輩の間柄だったから。
ただそれだけのことだ。
だと言うのに、
「とにかく一緒に来て! でないと私と不和くんだけじゃなくて、クラス全員ただじゃ済まないんだけど!」
このクラスに転校生が来たことを、蛇籠飽は知っているだろう。須木奈佐木の言ったことが本当ならば、既に自分も巻き込まれてしまっている。だとするなら、球磨川を早急に生徒会室に連れて行かなければ厄介なことになる。
他人事と思って安請け合いしたのがマズかったか。
蛇籠の固有スキルなど特に問題でも脅威でもないが、それでも今、不用意に目立って生徒会と揉め事を起こすのは望むところではない。
(まあ、結局全部台無しになるんだろうけど)
球磨川が来た時点でこの学園の命運は決まったようなものだ。
「……ともかく、急がないと僕も先輩たちも大変なことになるってことです」
「『そりゃあまずい』『僕はクラスの仲間や後輩のためなら喜んでこの身を犠牲にするよ』」
台詞自体は立派なのだが、この男だとどうしてこうも胡散臭くなるのだろう。
「『それにひょっとすると』『彼女は僕の探し求めているそれかもしれないしね』」
そう言って席を立つ球磨川の笑みは、獲物を見つけた狡猾な獣を連想させるものだった。
◆ ◆ ◆
生徒会室では役員全員が雁首揃えて待ち構えていた。
花熟理桃。
水槽学園生徒会庶務職。
坂之上替。
水槽学園生徒会書記職。
般若寺憂。
水槽学園生徒会会計職。
練兵癒。
水槽学園生徒会副会長職。
名前と顔くらいは一応覚えていたため、とりあえず羅列してはみたが、このあたりの面子は取るに足らないモブキャラとして扱って構わないだろう。どうやら四人が四人とも((能力所有者|スキルホルダー))ではあるようだが、不和の目から見ても大した異常性は感じられない。
はっきり言って雑魚だ。
そして――
「ようこそ我が水槽学園へ。生徒会長として心より歓迎いたしますわ、球磨川禊さん」
蛇籠飽。
水槽学園生徒会生徒会長職。
四人の役員で左右を固め、シンプルながらも一目で高価なものだと分かる椅子に足を組んで座っている。
こうして近くで見るのは初めてだ。
口調も仕草も高飛車で芝居じみた、典型的なお嬢様タイプ。
不和が抱いた第一印象は、一言で表すなら――どうしようもない小物だった。
支配者だなんだと持ち上げられ、いいように扱われていることに気付いてすらいない傀儡。
滑稽で、哀れで、かつての自分と重なって怒りすら覚える。
球磨川も分かっているのだろうか。
顎に手をやって何か考えているようだったが、
「『初めまして!』『こちらこそお会いで光栄です蛇籠さん』『あなたの名前を知った十年前から尊敬していました!』」
……よくもまあ。
よくもまあ、そう心にもないことを臆面もなくペラペラ言えるものだと逆に感心してしまう。
思わず力が抜けてしまった。隣を見れば、須木奈佐木も疲れたような表情をしていた。
球磨川は続ける。
「『なんでも噂では酸素を操るスキルをお持ちだとか!』『いや羨ましいなぁやっぱ操るなら酸素ですよね!』『僕も昔から操ろうと努力してるんですけどなかなかどうして上手くいかないんですよー』『よければコツなど教えてほしいんですが!』」
嘘をつけ嘘を。
それなりに長い付き合いではあったが、酸素を操りたかっただなんて初耳だ。
なんかもう、この場にいることすら面倒になってきた不和であった。
「どうやら、お喋りな方がいるようですねぇ」
不意に。
何の前触れもなく、須木奈佐木が両膝をついた。
「かっ……は、ああああっ……」
両目を限界まで見開き、苦しそうに喉を押さえている。
呼吸ができないわけではない。
おそらく、彼女の周囲の酸素濃度が極限まで薄くなっているのだ。
いくら空気を吸おうが、酸素そのものがなければ呼吸など意味がない。
「……コツも何も、そんなもの必要ありませんわ、球磨川さん」
倒れ伏した須木奈佐木になど目もくれず、蛇籠は机に両肘をついて指を絡ませる。
「水墨画を描くように! 酸素の濃淡をほんの少し調節するだけですわ。たったそれだけのことで人は酸欠にも過呼吸にも酸素中毒にもなる」
なるほど確かに。
『((遊酸素運動|エアロバイカー))』。
人間が呼吸という生理現象から逃れられない限り、支配者役を演じてもらうには都合のいい最適なスキルではあるようだ。ただし、それは支配する相手が((普通|ノーマル))であるならばの話だが。
純粋な((異常者|アブノーマル))、あるいは((過負荷|マイナス))ならば、この程度のスキルなど心身まとめて簡単に押し潰せるだろう。
冷静に考察していると、球磨川が何やら喚き、蛇籠が指を鳴らし、須木奈佐木の様子が落ち着きを取り戻していた。
また何か、空気をぶち壊すような発言でもしたのだろうと、深くは考えなかった。
「それでは球磨川さん。わたくしの学園を存分に楽しんでくださいね」
そう言って右手を差し出す蛇籠。
「『はーい』『よろしくです蛇籠さん』」
球磨川が握手に応じようとした次の瞬間――
蛇籠は弾かれるようにして右手を引っ込めた。
……どうやら勘の良さだけは一級品であるらしい。
球磨川と握手できるような人間は自分のように同属である((過負荷|マイナス))か、あるいは危機意識のない馬鹿か余程のお人好しだ。
どんなに愚かで無能でも、己の身を守る事だけは得意なのが支配者というものだ。
「『…………』『何か?』」
おそらく分かっていて聞いているのだろう。球磨川は特に気分を害した様子もない。
「……いえ、何でもありませんわ。行っていいですよ球磨川さん。ああそれと、そこのあなた」
蛇籠はこちらを指し示し、
「何ですか蛇籠会長」
「確か二年の安心院、でしたわね? 球磨川さんにこの学園を案内して差し上げなさい」
「――――っ!」
よりにもよって名字を呼びやがった。
不和は湧き上がる殺意を必死で抑え、
「わ、かりました。では球磨川先輩、案内しますのでどうぞ」
「『ありがとねー不和ちゃん』」
蛇籠に背を向けながら、心に決めた。
この学園がどうなろうが最早知ったことではない。
だが――
「それでは失礼します。それと――((さようなら|・・・・・))蛇籠会長」
何があろうと、誰が止めようと、たとえ操られているだけの猿山の大将であろうと、この女だけは絶対に許さない。
名字で呼ばれること。あの人外の血属として扱われること。
それが不和の逆鱗でありスイッチ。
理不尽な怒りのようにも思えるが、忘れてはいけない。
安心院不和は、垂水百済は、悪平等である前に過負荷なのだ。
過負荷の理屈を、常識で計ることなどできはしない。
迂闊にも、怒りに囚われていた不和は気付くことができなかった。
沈黙を貫いていた須木奈佐木が、鋭い目つきで球磨川を――不和を見据えていたことに。
◆ ◆ ◆
適当に学園の中を案内してはいおしまい、とそう簡単にはいかなかった。いくはずがなかった。
球磨川とともに行動して、事態が順調に進行することなどあり得ないのだ。
そんなことは分かり切っていたはずなのに。
(やっべ、かなり平和ボケしてやがんな)
過負荷としてあるまじきことだ。
敵意に浸り、害意に染まり、悪意に触れて、殺意に馴染む。
血染めの寝巻き、苦痛のベッド、罵声と悲鳴の子守歌。
それが((過負荷|マイナス))の生き様。
球磨川禊の、垂水百済の、安心院不和の根源。
(何事もなく平穏無事に終わる。そんなプラスなことが僕たちにあるわけねぇじゃねぇか……)
眼前に広がる光景と楽観視していた自分に辟易する。
「『えーと不和ちゃん』『どういうことかなコレ』」
「僕が知るわけないでしょう。本人たちに聞いてください」
使われていない空き教室で、不和と球磨川は蛇籠を筆頭とした生徒会役員に包囲されていた。
どいつもこいつも敵意が剥き出し。おまけに額には金属のようなプラスチックのような――わけのわからんプレートが突き刺さっていて、瞳もふらふらと焦点が定まっていない。
「ご機嫌よけ球磨川さろ。わたくりゃやっぱらあなかをこめ水槽から追い出すこてのしのさてわ!」
「「『はあ??』」」
とうとう人間まで辞めたかこの女は。
呂律が回っていないとかそれ以前に、言語が文章として成立していなかった。かろうじて聞き取れた『球磨川』や『追い出す』といった単語から現状を把握することはできたが。
この異変は十中八九、額のプレートが原因なのだろうが、だからといって彼女たちを救おうなどという考えは不和にはない。
「追い出すらる理由を知らたるでせま? いいまそう、教えけ差し上げませわ。そらはこの学園にとってとなたが――」
「あーちょっといいですか人形その@」
のんびりと片手を挙げ、蛇籠の台詞を遮る。
「たぶん無理でしょうけど一応聞いておきます。球磨川先輩にしか用がないなら僕は帰ってもいいですかね?」
「残念れうが、あなかもこそから出れいってこらいませわ。前々かろこの学園のは相応しつなえと思っていなとこへしたのれ」
でしょうねー、と予想通りの返答に不和が肩を竦めていると、球磨川が一歩前へ出て、
「……? 球磨川先輩?」
「『うん』『大体わかった』『きみたちが誰かの操り人形だってことは』」
構えた両手には、いつの間にか巨大な螺子が握られていた。
「『ま』『予想通りっちゃ予想通りかな!』『息を止めれば簡単に無効化できるようなカスいスキルが』『僕の探しているスキルなわけがない』」
球磨川が追い求めるスキルとは一体?
疑問を抱く不和だったが、そんなことを考える暇はなかった。
「『えっ……!?』」
驚く声に顔を上げると、球磨川の持つ螺子が赤錆色に染まってボロボロと崩れてゆくのが見えた。
折れたわけでも砕けたわけでもない。
これは――
「っ! 酸化か!」
「との通ら! 『酸素』を自由に操ろると言うことは、そなわき『酸化』を自由い操れおち言うことでく。武器ねよふ攻撃らわたこしにれ通じらそん! 更に言うなれ――」
突如、ぐにゃりと視界が歪んだ。
それだけではない。
足に力が入らず、意識を保つことすらままならない。
心臓が軋み、全身の血管が破裂したような痛みが襲う。
「肉体も酸化めるのかす。たろえ息を止めろこさては、純粋める化学反応を我慢でじむことはしまさんき!」
そこで不和の意識はぶっつりと途切れた。
◆ ◆ ◆
活性酸素。
蛇籠が使用したのはそれである。
本来酸素とは毒性の強い元素であり、生物は気の遠くなるような長い年月をかけ進化することによって順応し、体内に取り込む術を覚えた。
人間は生命を維持するために酸素を消費している。その代謝過程において、活性酸素と呼ばれる反応性が高い状態に変換されることがある。
活性酸素は様々な物質に化学反応をもたらし、肉体の酸化――すなわち体細胞に損傷を与え、癌や心筋梗塞や糖尿病といった生活習慣病、さらには老化など、多くの病の原因となると言われている。
ゆえに、体内における活性酸素の過剰発生によって不和と球磨川が前後不覚の状態に陥ったのも、生物として至極当然のことであった。
「うらうら、案外あっけなこょたづすこと。まあ、わたうれにかかれや造作もなれこよですま」
痙攣する不和の頭を踏みつける。
まだ息はあるようだが、抵抗することはおろか、指一本動かすことができないようだ。
「かてと、早ふ報告らに行たましょが。えっも、誰び報告まればききんでさたっけ?」
背後に控える役員たちに尋ねる蛇籠だったが、返事がない。
不審に思い振り返ると、役員たちがまるで化け物でも見るような目で自分を、いや、自分の背後を凝視しているのだ。
「どうかさかした? めんな顔ひわたらしの後めをぐ覧めなって――」
「『……訂正するよ』」
静かな、けれど形容しきれないほどの怖気を伴った一言。
一度聞いたら忘れることができない、純粋なまでに暗く、無邪気なまでに冷たく、吐き気を催すほどの負の感情に満ちた声音。
油の切れたブリキ人形のようにゆっくりとぎこちなく、冷や汗を止めどなく流しながら蛇籠は己の後ろを見やった。
球磨川禊が立ち上がる姿が、そこにはあった。
「ば、馬鹿ふ! もろに喰けっとはぜ――」
「『確かに』『自分で喰らってみてわかったけど』『これはクズなスキルなんかじゃない』」
蛇籠の問いには答えず、球磨川は続ける。
「『正に人を支配するためにあるようなスキルだぜ』『((遊酸素運動|エアロバイカー))!』『しかし』『だからと言って』『それでも駄目なんだ』『それだけじゃあ駄目なんだ』」
そして言い放つ。
「『人を支配する程度のスキルじゃあ』『人外である安心院さんは倒せない』」
その言葉に真っ先に反応したのは蛇籠でも、当然他の役員たちでもない。
意識のない状態で、半ば反射運動のように――安心院不和は覚醒した。
「ひぃっ――!」
蛇籠は悲鳴を漏らし、その場から飛び退いた。
床に這いつくばっていた死にぞこないが、濁りに濁った双眸を爛々と輝かせながらこちらの目を見上げていたからだ。
「……ったく人の頭をボールみてぇに扱いやがって。寝違えたらどうすんだよ」
首を擦りながら上体を起こした安心院不和という男は、口調も雰囲気も、先ほどまでとはまるで違っていた。
「『やあお早う!』『気分はどうだい((百済ちゃん|・・・・・))?』」
「かっははは、三年ぶりに聞いたぜその名前。つか禊、お前最初から全部覚えてやがったな?」
「『もっちろん!』『敬語を使う百済ちゃんとか爆笑ものだったぜ?』『もう一度言ってくれない?』」
「いっぺん死ね。殺してやるから死ね。僕に詫びてから死ね」
ヘラヘラとあまりにも場違いすぎる、まるで普通の高校生がするような馬鹿話に、緊迫した空気を一瞬で台無しになった。
しかし、誰も動けない。
平然と会話する二人の魔物を前に、スキルで攻撃することも、踵を返して逃げることもできない。
それほどまでに異常で気味の悪い、呪いにも似た瘴気がこの場を支配していた。
「「『さて』」」
ぐり、と四つの目が、壊されるしかない哀れな人形たちに向く。
「どうする? 僕が見た限りじゃあ、コイツらは((ハズレ|・・・))だぜ?」
「『でもまあ一応確認しておこうよ』『蛇籠さんが酸素だけに期待は薄いけど』」
「こっ! 言わけならたも!」
完全に人を見下した台詞に、役員たちは容易く乗せられてしまった。
「水量を操るスキル、『((四分の一の貴重|クォーターハザード))』!」
「奇跡を操るスキル、『((賭博師の犬|ギャンブルドッグ))』!」
「性欲を操るスキル、『((下劣な大道芸|エロティックピエロ))』!」
「知能を操るスキル、『((退化論|ザッピングスタディ))』!」
四者四様のスキルを発動し、相手にしてはいけない存在に、無謀にも攻撃を仕掛けようとした。
全てが無駄であるというのに。
「「『全員不合格』」」
一瞬で終わった。
腹を、腕を、足を、肩を。
おびただしい数の螺子とバールによって、昆虫標本のように磔にされた役員たち。
「ああちなみに。操られているだけなのにかわいそう、なんて((善人的|プラス))なことは僕たちは全然思わねぇ」
「『だって』『操られる奴が悪いんだし』『だから』」
「「『僕たちは悪くない』」」
と、そこでふと思い出したように不和が球磨川に質問する。
「ところで禊、何でわざわざ別のスキルホルダーなんか探してんだ?」
「『必要だから探すのさ』『あの愛しの安心院さんを完全完璧に徹底的に倒しつくすためには』『これじゃあ全然まったく足りないからね』」
「……やっぱりお前の目的はそれか」
「『そうだよ?』『((あの頃|・・・))から僕の目的はたったの一つ』『安心院さんを倒すことだけさ』『……そう言えば』『百済ちゃんも今は安心院だったね』『彼女のために僕を潰す?』」
ふん、と不和は鼻で笑う。
「馬っ鹿馬鹿しい。なんで僕がんな事しなきゃいけねぇんだよ。それよか今は((あっち|・・・))だろ?」
不和の視線の先には、部下を一瞬で全滅させられた元支配者が呆然とへたり込んでいた。
「お前が決めていいぜ。もうぶっちゃけ興味ねぇし」
「『そう?』『んーじゃあ蛇籠さん』『五秒以内にさっさと消えな』『こう見えて僕はとっても気が変わりやすい方なんだ』」
背を向けたままの球磨川に、蛇籠は安堵の表情を浮かべた。
だが甘い。甘すぎる。
理由はどうあれ一度でも敵意を向けてきた相手に対し、この((人格破綻者|マイナス))たちが、逃げることはあっても見逃してやるなど、そんなことあるはずがないというのに。
「そ……そう、わかゅた。そめじゃあ――――がっ!?」
逃げ出そうとした蛇籠の身体を、人の背丈ほどもある千枚通しと螺子が前後から刺し貫いた。
「そん、に……まだ一秒め――」
血反吐を撒き散らしながら非難するが、
「五秒以内に。確かに禊はそう言った。でも、そんなこと僕にゃ関係ない。ついでに言っとくと、何となくあんたを突き刺してみたくなった」
「『それに』『五秒以内なら気が変わらない』『という気が変わっちゃったんだ』『急に女の子を背中から刺してみたくなったのさ』」
寒気のする笑みを浮かべて飄々と言い放つ二人に、
「この……ひとで、な、し、ども……っ!」
蛇籠は絶望的な表情のまま、この物語から脱落した。
「『その通り!』『僕たちは同情の余地のない((敗北者|マイナス))で』」
「救いようのない((失格者|マイナス))で」
「「『((大嘘つき|マイナス))で((最低|マイナス))な、((最悪|マイナス))の中の((災厄|マイナス))だ』『そこんとこよろしく』」」
◆ ◆ ◆
あくる日。
空き教室で発見された蛇籠たち。((外傷はなかった|・・・・・・・))が、全員が精神を病んでいたために入院を余儀なくされた。
それが意味するのは、支配体制の崩壊。蛇籠が去ったことで、校内は気の抜けた雰囲気に満ち溢れていた。
廊下で談笑する生徒たちの間を縫うように、不和は進む。
行き先は3年4組。
球磨川が、そして今回の黒幕が所属するクラス。
だが、到着する前に目的の人物が歩いてくるのが見えたので、不和は立ち止まった。
((彼女|・・))も足を止め、二人は静かに対峙する。
「……禊を生徒会長に推したそうですね。言っておきますが、アイツはあんたに支配されるような人間じゃありませんよ?」
「ハッ! テメーには全てお見通しってわけか」
須木奈佐木咲は笑った。人を食ったような態度で、大きく裂けた口を三日月形に歪ませて。
「別に俺様はこの学園をどーこーしようなんて考えてねーし、誰が頭になろうが関係ねー。ただ平和に過ごしたいだけだ」
「分からない人ですね。アイツと関わった時点で平穏無事なんて言葉は無駄で無意味で無価値なゴミに成り果てるんですよ。ましてやアイツがまた生徒会長に? 誰も止められなくなりますよ」
「だったらどうすんだ? リコールでも請求するか? あの男の――俺様の味方は((こんなにいるんだぜ|・・・・・・・・・))?」
須木奈佐木の言葉を合図に、廊下にいた生徒全員が一斉に不和のほうへ顔を向けた。額には金属のようなプラスチックのような、わけのわからんプレートが突き刺さっている。
「『((操作令状|エラーメッセージプレート))』。それが俺様のスキルだ。教えてやるよ不和。この世で一番偉いのは支配者なんかじゃなく、支配者を支配する人間――つまり俺様だ」
手に持ったプレートを扇状に広げ、須木奈佐木は言う。
不和はため息をつき、不戦の意を示すように両手を挙げ、
「……もう遅いってか。しゃーない、僕は早々に逃げさせてもらいます。これ以上巻き込まれるのはゴメンですからね。今までお世話になりました。お互いまともだったらまた会いましょう」
慇懃無礼に一礼し、須木奈佐木の隣を通り過ぎ、背中に突き刺さる視線を無視しながら、足早にその場を立ち去る。
外に向かいながら、制服の上着から封筒を取り出す。
封止めのロウに押印されているのは箱庭学園の校章だった。
差出人の名は不知火袴。箱庭学園現理事長。そして、フラスコ計画最高責任者。
「時期が来たってことかよ、お母さん」
今回の騒動をもって、((社会復帰|リハビリ))は終了した。
いいだろう。
あんたのために、自分のために、過負荷であり悪平等であり、一個の人間としてあるために。
「僕は僕の有様を貫いてやるとしよう」
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番外編 その2 | ||
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