垂水百済はマイナスである ――172回目の【僕】――  BOX―8 正しいこととは
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 平凡な世界。

 

 退屈な未来。

 

 適当な現実。

 

 それでも人生は劇的だというのなら。

 

 その((物語|じんせい))はどうしようもない駄作だ。

 

 ――20回目の「俺」――

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 箱庭学園。

 

 創立100年を超える、知名度・敷地面積ともに世界でも屈指のマンモス校である。

 クラス数は驚くなかれ、1学年につき1組から13組まで存在し、その原形は数百年前に存在した黒箱塾と呼ばれる寺子屋であった。理事長である不知火袴の教育理念から、奨学生制度にも力を入れ、多くの才能あふれる特待生も抱えている。

 あくまで表向きは、だが。

 

『世界は平凡か? 未来は退屈か? 現実は適当か? 安心しろ。それでも、生きることは劇的だ!』

 

 体育館の壇上で、箱庭学園第98代生徒会長――黒神めだかは尊大な態度を崩すことなく、所信表明と呼ぶにはあまりにも型破りな挨拶を宣った。彼女の背後には巨大なスクリーンが設置され、目の覚めるような美貌を余すところなく映し出している。

 凛とした表情と口調は、絶対的な自信を感じさせるものであり、目にした者に言いようのない高揚感と情熱を嫌でも滾らせた。

 

『そんなわけで本日、今この時より、この私――黒神めだかが貴様たちの生徒会長だ。学業・恋愛・家庭・労働・私生活に至るまで、悩みごとがあらば大小問わず目安箱に投書するがよい。24時間365日、年中無休で私は誰からの相談でも受けつけてやろう!!』

 

「……ご立派、正に生徒会長の鑑」

 

 整列している生徒たちから離れた位置で、日陰に隠れるようにして壁に身を預けながら、不和は侮蔑とも賛辞ともつかない声音で呟いた。

 箱庭学園の制服をネクタイも着けずに前を開けて羽織り、その下にパーカーを着こんでいる。

 

 箱舟中学での一件の後、めだかや善吉とは奇妙な親交が続いていた。

 あの時のことは忘れない。

 球磨川の凶行の責任は自分にあると、不和は進んで二人に告白した。しかし、二人は怪訝な顔をして問うてきたのだ。

 お前は誰だ、と。

 ある程度の予想はしていた。思ったよりも衝撃は少なかった。

 ただ、涙を堪えることは出来なかった。

 

(我ながら黒歴史だぜ、っと)

 

 総会も終わり、不和は教室へ戻る生徒たちの流れに紛れて外に出た。

 陽光に目がくらみ、フードで顔を隠す。

 既に面倒な転校手続きやら不知火理事長との対面やらは終えており、不和は弐年12組――特別芸術科に所属することが決まっている。更に言えば、((とある理由|・・・・・))から登校義務も免除されていた。本来は((異常者|アブノーマル))の集まる13組の生徒にのみ適用される制度だが、協力の見返りとして不和が要求した『ご褒美』の一つでもあった。

 つまり、このまま帰っても問題はなく、理事会公認でもあるため文句を言われる筋合いもないのだが。

 高くそびえる時計塔に目をやり、しばし悩む。

 

「……ついでだし、善吉っちゃんの顔でも覗いてくか」

 

 1年の教室が入っている校舎に足を延ばすことにした。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 一年生で溢れる廊下でも、先ほどの会長演説の話題で持ちきりだった。

 無理もない。あれほどの大言壮語と圧倒的な存在感は嫌でも目立つ。自分たちと同学年であるというのだから尚更だろう。

 ゆえに、見知らぬ痩身長躯の二年生が我が物顔で歩いていても、注目する者は誰もいなかった。

 

「さて、どのクラスだったか」

 

 立ち止まり、壱ノ1、壱ノ2と並ぶ表札を見上げる。

 よくよく考えてみてみれば、善吉の所属するクラスを知らない。

 この学園に入学したことは確かだ。それは入手した新入生から13組まで網羅した在籍生徒の名簿で確認している。

 つまり、知らないのではなく、覚えていないといった方が正しい。

 

「興味のねぇことはホント駄目だな僕は」

 

 昔からこうなのだ。

 どうにも、関心のないものは路傍の石以下に扱ってしまう癖がある。悪平等の資質がある、とあの人外はにやけた面で言っていたが、日常生活を送るには些か不便な特性だ。

 最終的には一クラスずつ見て回っていけばいいかと結論付け、とりあえず手近にあった教室の扉を開けようとした。

 

 だが。

 

「ギャアアアアァァァァッ――――」

 

 耳障りな断末魔が木霊する。

 すわ何事かと視線を巡らせれば、左腕にいくつも腕章をつけた紺色長髪の女子が、失敗したプリンのような髪色の男子の頭部を鷲掴みにして何処かへ引きずってゆくのが見えた。

 人一人引きずっているというのに、女子の足取りは力を感じさせる悠然としたもので、対して男子の方は四肢を投げ出してぐったりとしている。

 見覚えのありすぎる二人だった。

 

「……何やってんだかねーあいつらは」

 

 なんとなく声を掛けづらい――というより近寄りがたい雰囲気だったのでそのまま見送ってしまったが、まあとにかく、一年ぶりだが二人とも元気そうで何よりだ。

 さて、顔も見たことだし飯でも食って帰ろうかと考えたところで、

 

「あれー? ひょっとして不和兄ぃ?」

 

 どこかで聞いたような声。

 開けっ放しだった扉から教室の中を覗いてみれば、水色の髪とアホ毛が印象的な不知火半袖が、机の上でゴロゴロ寝転がりながらこちらに手を振っていた。

 気まぐれな猫のような態度の彼女に、不和はやれやれと肩を竦め、

 

「半袖。机の上に寝っ転がるなんてお兄さん感心しねぇぞーっと」

 

 不知火に近寄り、後ろ襟を掴み、それこそ猫のように持ち上げて床に降ろした。

 

「あひゃひゃ♪ 変なところで真面目だねー。不真面目の塊みたいな性格してんのに」

 

「かははは。いやいや半袖、お前の人を人とも思わねぇ底意地の悪さにゃ敵わねぇさ」

 

 あひゃひゃ、かははと周囲が引くような他愛もない挨拶を交わした後、不知火が尋ねてくる。

 

「ところで人吉に何か用でもあったの? 見てのとーり、こわーい生徒会長さんに連れてかれちゃってここにはいないんですけどー」

 

 そう言って不知火が指さした善吉のものと思しき机には、猫のような熊のような――どこか不知火にも似た不可思議なぬいぐるみが載せてあった。

 

「あー、さっき引きずられてくのを見たよ。用ってほどでもねぇから別にいいっちゃいいんだけどな。どこ行ったのかも見当ついてるし」

 

 大方、『生徒会になんて入らねぇ』とでも言ったのをめだかに聞かれて拉致されたのだろう。

 どうせ最終的には自分から巻き込まれるのを望むのに、往生際の悪い奴だ。そんなに関わるのが嫌なら別の学校に進学すればよかっただろうに。

 とにかく、クラスがわかっただけでも良しとしよう。

 と、そこで空腹であることを思い出し、

 

「ときに半袖、腹減ってねぇか? せっかくだし奢ってやんよ?」

 

 その言葉に、不知火が――正確には不知火のアホ毛がピコンと反応を示した。

 

「えーいいんですかー? あたし結構食べますよ?」

 

「おいおい、お前一人の飯代も出せないほどお兄さんは((やわ|・・))じゃねぇぜ? それにヤバくなったらお前のじーさんにツケりゃいいんだし。金なんて持ってる奴から出させりゃいいんだ」

 

「あひゃひゃひゃ♪ すごい鬼畜! 外道! そんな不和兄ぃが大好き!」

 

「おー、僕もお前が大好きだぜー」

 

 不知火を小脇に抱えて、不和は教室を出ていく。

 笑いながら去ってゆく二人を見て、教室に残された生徒たちは言いようのない気味の悪さを味わうのだった。

 

 その後、剣道場の方から微かに悲鳴が聞こえてきたのは別の話。

 

 さらに後日、覚えはないが心当たりのある請求書に、理事長が呆れるのはまた更に別の話。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 翌日。

 

「本日の昼飯はトンカツ定食とチャーシューメンと親子丼ですよーっと」

 

 今日も今日とて不和は授業にも出ず、屋上で最近出来た昼寝仲間と惰眠を貪り、腹が減ったら食堂にのっそり現れるという野生の獣のような生活を送っていた。

 丼と皿の乗ったトレイを持ち、さてどこで食べようかと思案していると、少し向こうの席に善吉と不知火が座っているのが見えた。

 もっしゅもっしゅと休むことなく食べ続ける不知火の前には食い荒らされた空の器がいくつも並び、善吉はどういうわけか青痣擦り傷だらけで満身創痍の出で立ちだ。

 近づいてゆくと、二人の会話が届いてきた。

 

「前々から思ってはいたんだけどさー、人吉ってひょっとして馬鹿? なんで毎回毎回お嬢様のシゴキに付き合ってるんだよ」

 

「うるせぇ。昔からどっかズレてやがんだよあいつは。自分の優秀さとか非常識ぶりとかにまるで自覚がなくて、そのくせ周りの奴らには自分と同じレベルを強要しやがる。だからあいつには一生かかってもわかんねーんだよ。努力が実らねー奴の気持ちとか、わけもなくへこんじまう奴の気持ちはな」

 

「……仮に、本当にそうだったとしても幼馴染をそういう風に言うもんじゃねぇよ善吉くん」

 

 善吉の頭にトレイを載せて窘める。

 

「――っ! 不和、さん!? あんた何時((箱庭|こっち))に!?」

 

「んな事ぁどうでもいいさね。それよりも今の話だ」

 

 空いていた不知火の隣に座り、トンカツを口に運びながら不和は続ける。

 

「確かにめだかちゃんは他の――僕やお前やその他大勢の凡才の気持ちなんかわかんねぇかも知れねぇ。けどな、だからと言ってめだかちゃんだけが間違ってるってことにゃならねぇだろ。努力が報われねぇと思った時点で今までの努力を全否定したそいつ自身が悪いわけだし、理由もなくへこんじまった奴の気持ちなんかそもそも誰にもわかりゃしねぇ」

 

 そこまで言って、善吉を見据えた。

 善吉は、苦虫を噛み潰したような表情ではあったが、食って掛かることもなく黙って不和の言葉を聞いている。

 不知火も珍しく、何も言わずに食事を続けていた。

 

「何が正しいとか間違ってるとか、そんなこと本当は誰かが一方的に決めつけるもんじゃねぇんだ。けど実際には認められりゃ正しい、受け入れられなきゃ間違いで、世の中結局はそんなもんだ。……でもな善吉。お前は、お前だけは変わってくれるな。お前が諦めて見放したら、めだかちゃんは本当に独りぼっちになっちまうぜ?」

 

 そうなると分かっていて見過ごせるほど、僕は大人じゃねぇ。

 そう締めくくり、不和は食べ終えた食器を退けて茶を啜った。

 

「………………」

 

 善吉は黙って席を立ち、そのまま食堂を出て行ってしまった。

 不和はしばらく茶を啜り続けていたが、

 

「……っだー! 一年ぶりに再会していきなり説教とか何してんだ僕ぁ。そこんとこどう思ったよ半袖ぇ」

 

「あひゃひゃひゃ♪ 確かに不和兄ぃのキャラじゃなかった感じだったねー」

 

「だぁよなー」

 

 テーブルに突っ伏して唸る。

 誰だあれはと自問自答したくなるような醜態だ。

 

「んで、善吉はなーんであんなボロボロだったんよ。無知なお兄さんに教えておくれ、物知りな半袖ちゃん」

 

「それはですねー♪ 目安箱に投書があったからなんですよー♪」

 

「投書ぉ?」

 

 目安箱については頭に入っている。

 選挙戦においてめだかが公約したもののひとつだ。生徒の悩みは自分のものだと、間違ったジャイアン理論に基づいて設置されたと聞く。めだかが選出された大きな理由の一つでもある。

 

「剣道場を不良が溜まり場にしてたらしくて。それをあのお嬢様は何を勘違いしたのか、全員を真っ当な剣道少年にしてやろうと頑張ってるそうですよー♪」

 

「((善吉|あいつ))はそれに巻き込まれた――っつーより首突っ込んだクチってわけか……」

 

「でもま、いーんじゃないの? もうすぐ人吉もお役御免だし」

 

「んあ?」

 

「実は今日の放課後、二、三年の特待生を集めて役員募集会が開くんだって」

 

「めだかちゃんにしちゃあ、((らしくない|・・・・・))方法だな」

 

「そりゃそうだよ。学園側主催だもん」

 

 いくら特待生と言っても、めだかに釣り合うような奴がそうそういるとは思えないが。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 放課後。

 

「よう。生きてるか?」

 

 頭部から血を流した善吉が倒れている。

 返事はない。

 傍らにしゃがみ込み、首筋に手を当てる。呼吸も脈拍も正常。少なくとも致命傷ではない。

 

「まあ確かに? 廃部になって大分経つ剣道場をどうして誰かが必要とするのか不思議でたまらなかったわけだけど? それをお前やめだかちゃんに言わなかった僕にも非はある」

 

 適当に止血を施し、その場に寝かせる。

 保健室に連れて行くことも考えたが、目が覚めたときそのまま大人しく安静にしているとも思えない。何より不和自身、この学園の保健室にはあまり近づきたくはなかった。

 

「あの人の端末がいるしなぁ」

 

 本当に面倒事ばかり起きる。

 この後処理をさせたくてあの人外はここに呼び寄せたのだろうか?

 

「……考えすぎだな」

 

 あの人外にしてみれば、不和もめだかも球磨川さえも、等しく同じで消しゴムと同価値しかない。

 それはそうと。

 

「剣道場か」

 

 善吉は覚えていない。

 だが不和は、百済は――僕は覚えている。

 過負荷でも、否、過負荷だからこそ、手を差し伸べてくれた相手には多大な愛をもって接するのだ。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 剣道場では一方的な暴虐が繰り広げられていた。

 肉を殴る音が響き、骨を殴る音が木霊する。

 

「いやもう聞いてくださいよ。僕、団体行動とか上下関係とか苦手でしてね。うっとうしい先輩とか怒鳴るだけの顧問とかと揉めていっつもボコッちゃうんですよ。だから剣道部が休部中の((箱庭|ここ))に来たんですけどね」

 

 木刀を肩に担ぎながら、眼鏡の男子生徒――日向は言う。

 足元にはめだかによって改心させかけられていた八人の不良が血まみれで倒れている。最早立ち上がることもできないのか、浅く呼吸を繰り返し、呻いているだけだった。

 

「でも計算外! 歴史ある大変立派な剣道場には生い茂った雑草どもが!! だから生徒会長に草むしりをお願いしたんですけど、いやいやうまく運ばねーもんですねえ!」

 

「……それが理由かよ。ホントくっだらねぇ」

 

 心底呆れたような声が日向の背後から投げかけられる。

 いつの間にか、見知らぬ二年生が入口の壁際に立っていた。

 前を開けた制服の下にパーカーを着こみ、フードを目深にかぶっている。

 日向は勿論、不良たちも突然の闖入者に呆気にとられている。

 

「何なんですかあんたは? ひょっとしてこの雑草さんたちのお仲間ですかぁ?」

 

 全国クラスの実力を持っている日向は、余裕綽々の態度を崩すことはない。

 

「いんや? 今初めて会った赤の他人だけど? そいつらがどうなろうが知ったこっちゃねぇし」

 

「だったらさっさと消えてもらえませんかねぇ? 見ての通り、僕は草むしりの真っ最中なんですよ」

 

「僕だって出来りゃあそうしたいけどな。……お前、善吉潰したろ?」

 

 言葉とともに放たれた殺意に日向はたじろぐ。そして愚かにも――哀れにも、相手が丸腰であることにかろうじて優位に立っていると錯覚してしまった。

 

「つ、つまり、人吉の敵討ちに来たってわけですか?」

 

「まあ最初はそのつもりだったけどな? お前見てたら止めたくなってきたわ」

 

「……ああ?」

 

「あのめだかちゃんを利用するくらいだから、どんな骨のある奴かと思えば。そこに寝っ転がってる先輩たちがお前の言う通りの雑草なら、お前はさしずめそれを食い散らかして調子に乗ってる虫だ。なーんか殴るのもアホらしくなってきた」

 

 それにほら、虫を殴り潰すと変な汁出て手に付くじゃん? あれ嫌なんだよ。

 トドメとばかりに突き刺さった言葉に、日向は激昂した。

 

「上等だよコラァ!!」

 

 横薙ぎの一閃が、不和の頭部を正確に打ち抜いた。

 不和の身体は勢いのままに床を滑り、壁にぶつかって止まる。

 

「僕が!! 調子に!! 乗ってるって!? 雑草!! 以下の!! 虫だって!?」

 

 それだけでは飽き足らず、日向は木刀で滅多打ちにした。

 

「待てよ……そいつは関係ねーだろ」

 

 振り返った日向は目を疑った。

 それまで瀕死の状態だった不良たちが足を震わせ、竹刀を杖代わりにしながらも立ち上がったのだ。

 

「――ったく、後輩に発破かけられてちゃ世話ねーよ。たった今思い出したわ。俺は昔剣道少年だったんだよ!!」

 

 不良たちのリーダー格――門司は、日向に竹刀の切っ先を向けて言い切った。

 他の不良たちも続く。

 

「あー俺もそうだった」「そーいや俺も」「俺も」「俺なんか日本一の剣士目指してた、気がする」

 

 何が門司たちを突き動かすのか。

 それは彼らにしか分からない。

 

「ナメんなクソガキ! 俺たちみてーなろくでなしでも、それなりの意地はあんだよ!」

 

 しかし、応援されることの、努力を認められることの嬉しさと誇りが、彼らの心には確かに存在した。

 それが日向には理解出来ない。出来るわけもない。

 

「……うっぜ! 実力も無くてドロップアウトした奴が、簡単に改心して立ち直ろうとしてんじゃねーよ! 剣道三倍段って知ってるか!? 僕はあんたらの3倍強いって意味だ!!」

 

「なら、僕にゃあ意味ねぇな」

 

 日向は再び驚愕することとなる。

 あれだけ痛めつけたはずの不和が平然と起き上がり、入口に立ち塞がっているのだ。

 頭部からおびただしい量の血が流れているが、口元に垂れたそれを、まるでソースのように舌で舐め取る。

 

「簡単な算数だろ。0×3は0だ。元々ゼロの奴より三倍強かろうがなんだろうがゼロのまま。要するに今のお前は、逃げることしか出来ない僕並みに弱ぇってことだ。だろ、善吉?」

 

 日向が振りかぶった木刀を、後ろから掴む者がいる。

 それは言うまでもなく。

 

「ひっ……人吉!」

 

 善吉はぶつぶつと「無刀取り」などと呟いている。

 

「おいおい頭カチ割れてんだぞ? ちったあ大人しく寝てろよ」

 

「……あんただって似たようなもんじゃねーか。それに俺だってそこの連中が立ち上がらなきゃほっとくつもりでしたよ」

 

「……だったらスッこんでろよ! 学園施設を不当に占拠してる雑草どもをむしってやってんだ、僕は正しいだろうが!!」

 

 日向は喚き散らして虚勢を張るが、その口調からは動揺がにじみ出ていた。

 

「ああ……日向、お前は正しい」

 

 そんな日向を、善吉は肯定する。

 だが。

 

「だけど、めだかちゃんはもっと正しい」

 

 深く、静かな声で、しかしはっきりと己の本心を述べた。

 

「不和さんに言われるまでもねーんだ。あいつのことは俺が一番よくわかってる。あいつの正しさは俺が一番よく知ってる! 他人のためとか人助けとか高尚な気持ちは俺にはねーが、めだかちゃんのやることはいつだって正しいと信じてる! もしお前がめだかちゃんの正しさを否定しようってんなら――そいつは俺が許さねえ!!」

 

 大好きな幼馴染のため。

 それこそが善吉の行動原理。

 子供染みた、しかしそれゆえに強固で純粋な意志。

 

「……やっぱお前も変わってねぇよ善吉」

 

 不和は犬歯を剥き出しにして嗤った。

 こういう奴だからこそ、あの時僕は惹かれたのかもしれない。光に集う蛾のように、自分には無いものを持つ善吉が、あまりに眩しく見えたから。

 

「……ケッ、どいつもこいつも面倒くせぇ奴ばっかだな!」

 

 唾を吐き捨てる日向だったが、内心焦っていた。

 不和と善吉の登場で、形勢は一気に逆転した。

 わけがわからない。正しいのは自分であるはずなのに。

 綺麗事ばかりぬかす善吉も気に入らないし、むしりとったはずの雑草どももしぶとく生き残っているし、何よりあの得体の知れない二年生が腹立たしい。

 

「お前が許さねーからなんだっつーんだよ! 剣道三倍段って知ってっ――」

 

「いやそれさっき聞いたから」

 

 上段に構え、振り抜いたはずの木刀が、日向の手から忽然と消えていた。

 理由は至極単純。

 しっかり握っていたつもりでも、汗や皮脂によって木刀は滑りやすくなっていた。

 視野が狭まった状態で構えた際に、死角から近づいた不和が刀身を掴んで引っこ抜いただけの話。

 

「な、あぁ!?」

 

「じゃあまあ善吉――とりあえずぶっ飛ばせ」

 

 たたらを踏み、バランスを崩した日向の顔面を、善吉の右拳が貫いた。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 日向を殴り飛ばした後、善吉はものの見事にぶっ倒れた。

 それはそうだろう。不和のようなスキルがあるわけでもなし、あれだけ血を流した状態で動き回れば誰だってそうなる。

 とりあえず、今度こそ善吉を――ついでに門司たちもまともて保健室にぶち込み、再び剣道場に戻った。

 血痕や足跡はそのままだが、

 

「……まあ当然逃げるわな」

 

 鼻血を出して気絶していたはずの日向がいなくなっていた。

 ((被害者|ぜんきち))本人が殴り飛ばしたので、不和としても更に痛めつけようとは思ってないが、それでもケジメは着けなければならない。

 剣道場を飛び出し、あてもなく探し回っていると、

 

「ギャアアアアアァァァァァァッ――」

 

 ……この学園ではどうしてこうも悲鳴が響くのだろう。

 駆けつけてみれば、気絶した日向とギニュー特戦隊のポーズを取っためだかがいた。

 何この状況。

 というか、それよりも。

 

「む? 貴様、もしかして不和か?」

 

「げっ……」

 

 めだかに視認された不和はすぐさま反転し、逃走を図った。

 しかしそこは完璧超人黒神めだか。

 容易く追いつき、追い抜き、見事なタックルを決めた。

 二人して土埃を上げてゴロゴロと転がる。

 

「何故逃げる?」

 

「お前がことあるごとに突っ込んでくるからだよ! 僕じゃなかったら死人が出てる威力だってこと忘れんな!」

 

 めだかに押し倒された状態で不和は喚く。

 この娘は人の顔を見るたびに全力でタックルをぶちかましてくる。さすがに手加減はしているのだろうが、それでも普通車並みの威力があるため洒落にならない。何より厄介なのは、実質的な被害を被っているのが不和一人だけであるという点だ。

 いくら言っても聞きやしない。

 

「そんなことより、貴様今まで何処にいた? 私や善吉に内緒で姿を消すとは冷たいではないか」

 

 高校生活を少しの間くらい静かに満喫したかったからだよ、とは口が裂けても言えない。

 

「まあいい。些末なことだ。それよりも、再会の挨拶といこう」

 

 来る。

 不和にとって悪夢のような現実が。

 

 

 

「((お兄ちゃん|・・・・・))、会いたかったぁっ!!」

 

 

 

「…………違うっつーの」

 

 満面の笑みを浮かべて抱き着いてくるめだか。

 渋面を浮かべて受け入れるしかない不和。

 

 剣道場の一件とか善吉の決意とか、今日あったことが忘却の彼方に追いやられてしまいそうだった。

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第八話
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