真・恋姫無双〜君を忘れない〜 九十六話
[全4ページ]
-1ページ-

 

 雪蓮たちの戦い、それは対江東軍部隊の戦術を一手に任された風が繰り出した最初の策――華琳から預かり受けた虎豹騎、そして季衣と流琉を中心にした虎士による急襲から幕を開けたのであった。

 

 自分の目論見、すなわち部隊を二分することで敵の動きを妨げるという狙いを看破され、見事なまでに逆を突かれたことで、冥琳の心中の穏やかでないと思うのだが、冥琳はそれでも焦りを浮かべることはなかった。

 

 ――ならば、こちらも仕掛けるまでよっ!

 

 冥琳が困惑したのは虎豹騎と虎士の参戦にのみであり、自分自身の目論見が把握されていることは想定内であった。ならば、こちらはそれを想定した上で策を練り、敵を撃破出来る状況に持ち込めば良い。

 

 先の軍議では前もった戦術などないと言ったものの、それは飽く迄も戦略に沿った動きをするとは限らないという意味であり、何の対抗策も準備せずに敵軍に向かうなどという蛮勇を持ち合わせているわけではない。

 

 敵の策謀家、風の実力を考えると、こちらはどのような状況でも対応出来るようにしておかなければ、将兵の錬度は等しいかもしれないが、戦いの場数という点では魏の将兵に決して及ばないのだから、対等以上の戦いなど出来ないのだ。

 

 すぐに冥琳は部下に旗を振らせた。

 

 その旗を合図に動き出すのは、後詰に控える祭の部隊である。

 

 祭は速やかに部隊を後方から前へと進めると、思春と明命が率いる部隊に攻め寄せる季、衣の部隊に向けて一斉射をする。祭は江東軍――否、大陸全土で考えても弓の扱いは指折りの実力であろう。

 

 しかし、それ以上に彼女が、例えば益州の桔梗や紫苑、魏軍の秋蘭にも勝るものが、兵士への指導力である。長年の間、戦場で培ったその技術を彼女ほど部下に教えることに長けた人材もいないであろう。

 

 戦歴のみで語れば紫苑や桔梗も同等の経験値はあるが、それも指導という観点になると話は別である。紫苑と桔梗は、これまでかつての主である劉焉への反乱を意図していたので、反乱軍の育成と狭い範囲の指導は誰よりも上手くこなせるかもしれない。

 

 だが、祭は先代の王である孫堅が存命のときから常にその軍の弓兵の指導を一手に任されていたのである。紫苑と桔梗とでは規模が異なり、広範囲の指導とは次元が違うのである。それ故に彼女は部下から絶大的な信頼を得ている。

 

「敵を見るなっ! 常に敵の進む空間を狙うのじゃっ! 気負うなっ! 無駄な力を入れず、調練のときをしっかり思い出すのじゃっ!」

 

 祭の激励を受け、その瞳に爛々と闘志を宿らせた弓兵たちは弓に矢を番えた。おそらくその成功如何によって、戦況も動くことになる。失敗は許されないという圧力は相当なものかもしれないが、その恐怖を意志で抑えつける。

 

 歴史に名を刻むことなどない、一人の兵卒が、それでも自分たちの力で孫呉の王を勝利へ導いたという誇りを手に入れるために。その武勇伝を息子、孫くらいにまでは自慢することが出来る名誉を得るために。

 

「放てぇっ!」

 

 その声と共に一斉に矢が空へと飛んだ。

 

 祭の部隊が己の全てを懸けて放った矢の雨は正確に季衣の部隊に襲い掛かった。

 

 彼らにとって幸いであったことが二つ。

 

 まず一つ目が、季衣が騎馬隊の扱いがまだ完成されていなかったということである。

 

 彼女自身の本来の役割は王を守護することであり、それは部隊を率いて敵軍を切り裂くことではない。勿論、将として春蘭からその技術は教えられているものの、それでもその経験は多くなく、稚拙とまでは言わないが、それでも雨霰と降りかかる矢を防がせることは出来なかった。

 

 そして、二つ目が率いているのが季衣であるということだ。

 

 彼女は弓による迎撃が自分の部隊に対して多大ではないが、確実に損害を与えていることに苛立ちを覚えた。そして、その苛立ちは短慮に繋がるのだ。それで自分たちの部隊の士気が下げられたのでは堪ったものではない、そう感じた彼女はすぐに行動を開始した。

 

「全軍っ! 反転して、先に弓兵の部隊から叩くよっ!」

 

 その動きまでも予想していたのか、それとも不幸中の幸いであったのか、それは定かではないが、冥琳は季衣のその動きに対して即座の判断を下した。彼女の脳裏には自分たちの位置、敵の騎馬隊の位置、そして思春、明命の部隊と祭の部隊の位置が正確に図面として浮かび上がる。

 

「雪蓮っ!」

 

「分かっているわっ!」

 

「一刻程で構わん、耐えてくれっ!」

 

「一刻なんて言わないで、二刻位は耐えてみせるわよっ!」

 

 何も言わなくても雪蓮は冥琳が意図を見抜いている。正確に言えば、何をするかまではしらないが、彼女が自分に何を求めているかが分かるのだ。冥琳が口を開く前から、既に部隊に命令を伝えていた。

 

「騎馬隊のみついてきなさいっ! 孫家の騎馬隊が惰弱でないことを知らしめるわよっ!」

 

 雪蓮自らが先頭に立ち、襲い来る流琉の部隊の迎撃に出る。

 

 騎馬隊のみであるから、数の上では雪蓮たちの方が不利である。また、風が彼女たちの弱点が騎馬隊であると指摘しているのだから、質の上でも魏軍よりも劣っているかもしれないと思うのだが、実はそうでもない。

 

 孫呉の王である雪蓮の部隊である。その精強さは充分に魏軍に匹敵する。何故なら、彼らは雪蓮が王となってから自らずっと鍛えてきた古参の部隊なのだから。数こそ少ないが自分の手足の様に動かすことなど造作もない。

 

「敵軍を揉みに揉んで攻め上げろっ! それが ((孫家|わたしたち))の戦いよっ!」

 

 応、と気炎を吐く兵士たちは正面から流琉の部隊にぶつかった。

 

「くっ! これは……っ!?」

 

 事前情報として孫家の騎馬隊はそこまで脅威ではないと聞かされていた流琉は、敵軍と衝突した瞬間にその力を察し、またそれが予想以上であったことに思わず苦悶の声を漏らした。その圧力はまるで巨大な火球が襲い掛かるようである。

 

「敵を侮らないでくださいっ! こちらは数では勝っていますっ! 囲んで殲滅してくださいっ!」

 

 その判断は将として間違いではない。

 

 しかし相手が悪かった。

 

 孫呉の王は決して捕えることは出来ず、戦場を自分の思うが儘に暴れる戦の王である。例え数で上回っていようが、そのようなことは彼女にとって些細なことに過ぎない。それで止められはしないのだ。

 

「私たちを舐めんじゃないわよっ!」

 

 その身が纏うは王の覇気。

 

 その身が行くは王の道。

 

 その身が掴むは勝利の文字。

 

 得物である南海覇王を縦横無尽に振るい、血煙をその身体に浴びながら雪蓮は前へと出る。そしてその後を遅れずに部下が追従し、流琉の部隊の囲みを突破しては突っ込み、それを繰り返して掻き乱す。

 

 そして、その頃、冥琳も行動を始めていた。

 

 その脳裏には信じられない速度で計算式が組み立てられ、この場を切り抜ける――否、この場を勝利へと繋げる方程式へと姿を変える。考えてから実行するのではなく、考えながら実行するのだ。

 

 ――敵の裏を突くのでは勝てない。

 

 風ほどに心理戦に長けた人間に、同じ土俵で戦うのは無謀というもの。

 

 ――ならば、先を取れば良い。

 

 裏を突くという行為はすなわち敵の放つ策略を読み、そして放たれると同時にそれを覆す手を打つことである。しかし、風の思考を読むことは困難なことである以上、冥琳が採るべき策は風よりも素早く手を打ち、こちらの思考を読ませないことである。

 

 敵はこちらの意図を読み取り、騎馬隊での奇襲を仕掛けてきた。

 

 だが、もしも冥琳が敢えて意図を読ませたとしたら。季衣と流琉の参戦は予想外だったとしても、騎馬隊の奇襲をさせるように、冥琳自身が誘導したとしたら。そのこと自体が冥琳の初手だとしたら。

 

 冥琳はその双眸に冷たい知性を湛えたまま、片手を上げて部下に旗を振らせた。先ほどの動きとは微妙に異なるその旗の動きに反応したのは、今度は思春と明命の部隊であった。

 

 ――私は、私たちは負けん……っ!

 

 冥琳はそう固く己に言い聞かせた。

 

-2ページ-

 

 季衣は騎馬隊の先頭に位置しながら、降りかかる矢を彼女の得物である岩打武反魔で弾き返す。彼女のその重量武器は頭上で振り回すだけで多くの矢を撃ち落とすことが出来るが、それでも兵士の被害を全てなくすことは出来ない。

 

 それで守れるのはせいぜい自分の近くにいる先頭集団のみで、中盤から以降にかけての兵士は己で自分の身を守らなくてはいけないのだ。彼女が率いている虎豹騎に矢の雨を怖がる軟弱者はなどいない。しかし、それでもそれによる士気の低下は免れないだろう。

 

 故に彼女が選択したことがその厄介な弓兵を操る祭の部隊への突撃である。

 

 虎豹騎は曹操軍内においても、霞の率いる屈強な騎馬隊にも負けない精強な部隊である。これまでも華琳自らの外征においてその強さを他に見せつけてきた。重装騎兵による突撃を受け止められる部隊などそうはいないのだ。

 

「行くよっ! 一気に踏み潰すからねっ!」

 

 鎧袖一触。

 

 これまで戦ってきた敵部隊は木の葉の如くに散っていった。

 

 そうならなかった敵など、季衣が知っているだけで西涼の狼たちくらいなものだ。目の前にいる孫呉の軍勢も、彼らに劣るとは言わないまでも、騎馬隊との戦いの経験という点から言わせてもらえば、敵ではないのだ。

 

 が、しかしである。

 

「しょ、将軍っ! 後方より敵軍が接近っ! 旗印は周、おそらくは周瑜であると思われますっ!」

 

「もうっ! 邪魔だなぁ!」

 

 さすがの虎豹騎とて今の数で前後から挟まれたら苦戦は必須だろう。

 

 季衣はすぐに部下に指示を出すべく頭を巡らせる――といっても、彼女は春蘭を自分の師として仰いでいるため、頭を使って戦術を組み上げることなど得意どころか不可能と言っても差し支えはないだろう。

 

 この場で彼女が頭を巡らせるのは、効率よく敵を撃破する方法を思考するためでなく、どちらから撃破した方が、被害が少ないかを見積もるくらいのことである。背後にいる冥琳が何を狙っているかなど考えてもいない。

 

「このまま弓兵の部隊に突撃するよっ!」

 

 結果、彼女は方向転換することなく、祭の部隊へと進んだ。

 

 やはり彼女にとってもっとも煩わしかったのは弓兵の存在であったのだろう。

 

 しかし、勿論それは冥琳の想定通りであった。

 

 仮に後ろに部隊が迫っていようとも、反転という動作をするために生じる空白の時間は矢の格好の的になり兼ねないと判断したのだろう。敵の部隊の気勢を考えれば、将が猪突猛進であることは容易に想像出来た。

 

 ――だが、私は放置出来る程に易い相手ではないぞっ!

 

 冥琳はすぐに合図を送る。

 

 その合図を見たのは祭である。

 

 ――ふむ、この合図は……後退、か。

 

 冥琳が予め将たちに授けてある合図は相当の数に上る。歴戦の猛者である祭ですら、それを全て暗記しなくてはいけないことに辟易としたのだ。だが、それは冥琳がこの戦にかける情熱が尋常ではないことも示している。

 

「全軍、速やかに後退じゃっ! だが、決して足並みを崩すなっ! 敵に隙を見せれば、そこで我らの命運は尽きると心得よっ!」

 

 祭の部隊はすぐに後退を始めた。

 

 季衣はその動きを見て、てっきり敵が自分たちの騎馬隊から逃れようとしていると思ったのだ。整然とした動きが気になったものの、孫呉の軍勢が精強であるということは当然知っていたので、単純に統率がとれているだけだと判断した。

 

 従って、彼女はますます部隊の速度を上げながら、祭の部隊に猛進した。既に矢も降りかかっては来ない。自分たちの進撃を止めることなど出来ず、このままただ前進すれば敵を壊滅させることも容易いのだ。

 

 彼女の脳裏には敵兵が無残にも散っていく姿しかない。

 

 彼女の視線は祭の部隊に釘付けになっているのだ。

 

 そこへ……。

 

「右方向に敵兵ありっ! こちらに向かって突撃してきますっ!」

 

「えっ!? そんな……っ!」

 

 後方にはまだ冥琳の部隊がある。従って右方向から突如姿を現したのは別の部隊である。しかも、かなり至近距離にまで迫っており、その存在に気付かなかったことへと驚きと同時に、このタイミングでは既に騎馬隊の軌道修正も困難であることにも気付く。

 

「くそぅ! とにかく、一旦離脱するよっ! 横撃に備えて右翼は迎撃態勢っ!」

 

 無理やりに進行方向を転換する季衣であるが、その無茶な動きにも虎豹騎は対応する。それだけでもこの騎馬隊の錬度の高さが窺えるが、しかし、それを見逃す程、祭は甘い将ではない。

 

 季衣の部隊の僅かな変化を見落とすことなく、その動きを妨げるために正確に矢の雨を再び降り注がせる。しかも、それは迎撃態勢へと移行している右翼に集中しているのだ。それが妨げとなり、突如現れた部隊の猛攻に晒される。

 

 その部隊を率いる者――先頭を走る彼女が姿勢をすっと下げると、鈴の音が妖しく鳴り響いた。彼女の姿を目視していた虎豹騎の兵士が、その音色を聞いた瞬間、ついさっきまで見えていたその姿が消えていることに気付く。

 

「…………っ!!」

 

 驚愕に声を失ったのも束の間のことであった。

 

 何故ならば見失ったと認識した直後に、その兵士の喉元に刃が当てられ、音もなく切り裂かれたのだから。周囲に大量の血飛沫を撒き散らしながら、兵士は何が起こったのかも理解することなくこと切れたのだ。

 

「甘寧隊、参るっ! 我が鈴の音は黄泉路へと誘う((導|しるべ))と心得よっ!」

 

 彼女の部隊は素早く騎馬隊へと取り付く。本来高低差のある騎兵と歩兵では戦力差があるとされている。太公望が周の文王、武王に兵学を指南するという設定で書かれた、六韜にもこのことが書かれており、平地においては、騎兵は歩兵八人分に相当すると言われているのだ。

 

 しかし、それは飽く迄も敵に応じて正しい使い方をせねばならぬと説き、そうでなければ歩兵一人にも値しないとも言っている。では、騎兵の正しい使い方とはどのようなものなのか。少なくてもその突破力を充分に活用出来なくてはいけないだろう。

 

 現状、季衣は思春の部隊による奇襲により、祭の部隊へと向けていたベクトルを別方向へ変えようとしており、その動きは一時的停止した状態であった。

 

 従って、機動力を活かすことの出来ていないこの場では騎兵による強みも軽減されているのである。しかも、思春の部隊は速戦に優れており、兵士たちも槍などではなく、それぞれリーチの短いものを使用している。

 

 あっという間に敵兵との距離を詰めると、ある者は思春の様に敵の首を切り裂き、また別の者は馬の脚部を切り落とし、後続の者の援護をする。屈強な虎豹騎の兵士たちを相手に一歩も譲らぬ働きを見せるのだ。

 

 そこに、先駆けとして攻め寄せた思春の部隊の後方からさらに明命の部隊が押し寄せる。

 

 思春の部隊が起こした混乱を、見事なまで己の力に変換させ、魏軍の兵士を蹴散らしていく。どちらも孫呉では密偵として名を馳せる将であり、隠密行動には敵の隙を見抜くスキルが必要とする。一瞬の隙ですら、彼女たちにとっては充分過ぎる程なのだ。

 

 しかし、季衣とてこの大事な決戦で一軍を任せられた身である以上、このまま黙っている筈もない。多少の損害を覚悟の上で、部隊を左方向へと展開させる。動きのとれない右翼は多少喰われるが、部隊全体に響かせるわけにもいかないのだ。

 

 弓兵の煩わしさに気を取られ、祭の部隊に向かったことが間違いだったのか、と多少の後悔を滲ませるが、今はこの場を脱することが最優先である。だからとにかく動く。

 

 春蘭の戦場での活躍は何度も見ている。どんな堅固な布陣も彼女にかかれば無陣を進むが如くなのだ。何度も調練ではその動きをイメージしており、騎馬隊の扱いも褒められることもあった。

 

 季衣のポテンシャルは高い。

 

 しかし、残念なことにそれだけでは冥琳という呉が誇る天才を相手取るには不足であったのだ。この戦いが後数年――否、成長速度に目を瞠るものがある今の季衣を思えば、一年であってもいいのかもしれないが、それだけの期間があればここまで後手に回っていないだろう。

 

 季衣は未だに気付いていない。

 

 自分が出撃した直後――流琉と隊を分かちて敵軍に向かった瞬間に、既に冥琳の策略の中にいるということを。あの瞬間、仮に祭の部隊ではなく、そのまま思春と明命に向かっていたとしても、結局のところ彼女が陥る状態が変わることはなかったということを。

 

-3ページ-

 

 思春と明命の部隊が季衣の部隊に攻め掛かったことを確認した冥琳は、再び部下に合図を送らなくてはならない。既に敵はこちらの罠に身を浸らせているが、そもそもこの策略自体が時間との勝負なのである。油断など出来る筈がない。

 

 彼女の脳裏にはこの戦場の地図が明確に浮かんでいる。そこに自分と敵の部隊の位置も刻まれており、その動きを寸分違わずに更新しているのだ。この広い戦場を彼女の((眼|まなこ))は俯瞰しているかのように見逃すものはない。

 

 彼女が何故自ら前線指揮をしているのかという疑問の答えもここにあるのだ。

 

 風を相手にする際の手段として、冥琳が考えたのは先手必勝のルールに則った戦術である。だが、心理戦の得意とする風は普通の速度で手を打ったのでは、平然とそれに対応してくるであろう。普段より素早く――倍以上の速度で手を打ち続けなくてはいけないのだ。

 

 そうするためには冥琳自身が戦況を誰よりも早くそして正確に掴む必要がある。戦場の細部に渡るまでの情報を常に最新の状態にし、将たちへの指示も自分がする。風に思考を読ませる隙を与えないようにするにはそこまでする必要があるのだ。

 

 さらに冥琳の脳裏の地図はただ情報を更新するだけではない。

 

 彼女は呉が誇る神算鬼謀を極めた女性である。目で見て、耳で聞いて得た情報を収集するだけなら彼女にすれば誰にでも出来ることであり、そこから先へ一歩を踏み出せる人間が軍師として自軍を勝利へ導ける者なのだ。

 

 地図上には、前方に祭の部隊、右方に思春、明命の部隊、そして後方を自分の部隊に反包囲網を布かれた敵の部隊がある。定石を投じるならば、そこへ自分と祭の部隊を特攻させ、一気に重囲をもって殲滅するのが良いであろう。

 

 雪蓮は、二刻は保つと言っていたが、それは裏を返せば二刻以上の戦闘行為は敗北を意味し、それも彼女なりの見栄も込みで、二刻という制限時間が迫れば迫る程、彼女の率いる部隊は疲弊するということを意味する。

 

 故に戦を長引かせるわけにはいかず、この場で敵部隊を殲滅出来るのならば、それに越したことはないのである。

 

 が、しかし。

 

 ――出来るだけ早く手は打たねばなるまいが、それ以上に焦りは禁物だな。

 

 逸る気持ちを理性で瀬戸際まで抑えつけ、猛る本能を限界まで引き出す。

 

 その久しい感覚を冥琳は存分に味わっていた。精神が擦り切れる程に思考を鋭くさせ、常に全開の状態で回転させ続ける。ぶすぶすと焦りが燻りを上げる中、何故かそれと同時に冷静さもその隣に居座るのだ。相反する感情がごちゃ混ぜになり、そこから自分の限界を超えた思考が生み出される。

 

 ここが勝負時である、と冥琳は静かに思った。

 

 徐に瞳を閉じる冥琳。脳の奥がちりちりと熱を帯びると、その脳裏には膨大な量の情報が更新される。それは五感で得る情報ではない。全て冥琳がこれから先に起こるかもしれないと思う可能性である。

 

 そして、その可能性の一つ一つが新たな可能性へと派生する。ほんの少しの差異があるだけでも、その違いが生じさせる未来の姿はまるで違うのだ。冥琳はそれを手に取るように吟味し、噛み砕き、それがあるべき姿なのかを議論する。

 

 まるで機械のように正確かつ迅速に可能性を処理する。あまり語られることのない冥琳の軍師としての強み。それが実はこの可能性の取捨選択のスピードなのかもしれない。何万――否、その可能性が別の可能性に派生するのならば、その数は最早数えることすら愚かしいのかもしれない。

 

 それは一瞬のことである。

 

 冥琳が再び目を開けたとき、彼女の計算は終了していたのだ。その刹那の間に彼女の脳はどれだけの速度で機能していたのだろうか。それは定かではないものの、彼女の額から一筋の汗が流れたことを思えば、彼女の精神的疲労も尋常ではないことが分かるだろう。

 

 しかし、彼女の表情には満足感が見て取れた。

 

 そして、彼女はすぐに次の合図を送ったのであった。それは先ほどまでのように一つの部隊だけに送られたのではない。自分の部隊にも、思春と明命の部隊にも、祭の部隊にも同時に複数の旗が振られたのだ。

 

 合図が全て送られた次の瞬間、戦況が動く。

 

 季衣の部隊が犠牲を顧みずに左方向へ展開したのだ。

 

 だが、動いたのは季衣たちだけではない。冥琳の部隊も動いたのだ。

 

 しかも、それは季衣の部隊に呼応したものではない。動きはほぼ同時――否、むしろ冥琳たちの方が少しではあるが速かった。冥琳の頭脳がはじき出した可能性の一つ、冥琳の予想がぴたりと命中したのである。

 

 季衣たちからしてみれば、その動きは予測外のことであり、まるで冥琳たちの部隊が瞬間的に後方から移動したように映ったであろう。空いていると判断した場所に急に部隊が現れたのだから。

 

「くそっ! こっちは読まれていたのかっ! 一当てして更に反転するよっ!」

 

 季衣たちはまだ動き始めた状況であり、騎馬隊の突破力を充分に活かすことが出来ていない。先ほど江東軍の力は認識したので、仮に目の前の敵にぶつかったとしても突破出来るという確信がないのだ。もしも、止められてしまえば、再び後方より喰いつかれてしまうだろう。

 

 だが、季衣のこの判断こそが誤りであったのだ。

 

 冥琳の部隊の脇を逸れるように抜けていく。正面からの突破ではないため、騎馬隊を押し留めることは不可能だ。そのまま反転して、先ほどまで冥琳の部隊がいた方へと離脱する。とにかくこのまま囲まれているのはまずい。

 

「……え?」

 

 季衣の視線の先――そこには何もないはずであった。

 

 季衣とて自軍の位置と敵の位置くらいは当然のように把握している。先ほどの左方向への転換も、そこに敵がいないと判断したからこそ動いたのである。三方向から囲まれているのだから、一方向は敵がいないのは自明の事実であるのだから。

 

 しかし、目の前には今度は祭の部隊が展開されていた。こちらが敵にぶつかった衝撃を利用してさらに速度を上げようとした瞬間に、祭の率いる弓兵部隊がこちらに再び矢の雨を降り注いできたのである。

 

「どうなってるんだよっ!」

 

 まだ無意識ではあったが、徐々に季衣の精神を恐怖という感情が侵食し始めていた。そしてそれは、弓兵から逃れるようにさらに進行方向を変えようとした直後に、意識的なまでに巨大化したのだ。

 

 季衣の目の前には思春と明命の部隊が待ち構えていたのである。

 

 無論、それは季衣の視点には映ってはいない。彼女にとってはまたいるはずのない部隊が突如その牙を剥いたのだ。全方向を伏兵に囲まれているような絶望的な状況に映っているに違いないのである。

 

 季衣はあり得ない包囲網の中に囚われたと錯覚したのである。

 

 その情報はすぐに風の許に届けられる。最前線にいるわけではないから、多少のタイムラグは生じているが、それでも少しでも早く情報を得るために、各部隊に伝令を多く置いており、戦況をすぐに把握出来るようにしているのだ。

 

 ――これは……。

 

 すぐに風は理解した。

 

 冥琳が自身を含めた三部隊を季衣が進むであろう方向に配置することを繰り返し、季衣の行く手を阻んでいるのだ。しかも巧妙なことに、騎馬隊の本来の突破力を引き出させないようにしている。かつそれは、季衣に気付かれないようにしているというのだから驚きである。

 

 ――なるほど。疑似的にではありますが、十面埋伏の計を模しているわけですねー。風がかつてこの計で袁将軍を蹴散らしたことを踏まえて、季衣ちゃんの心を折ると同時に、風の心まで乱そうとしているわけですかー。

 

 どこに向かおうともそれは全て冥琳の予測範囲内の中であり、冥琳が動く前に行った合図がそれを指示しているのだ。しかも、冥琳は季衣の部隊が動き出す度に、その直前にも合図を送っており、より正確な指示まで出しているのだ。

 

 将からすれば相当な無茶な指示もあるのだが、冥琳は戦いが始まる前にそうなることを告げているため、勿論それを忠実に実行する必要がある。少しでも遅れれば季衣の部隊に突破されて全てが無駄になってしまうのだから。

 

 風は表情こそ静まり返った水面の様に何も映していないが、飴の棒を持つ手に力が入っていることまでは騙すことは出来ないようだ。風とて冥琳の策略がどのようなものなのか、この状況になってまで分からぬ程に鈍くはない。

 

 ――騎馬隊による奇襲が裏目に出ましたねー。すこしまずいかもしれません。

 

 先の荊州戦から一貫していた風の心が揺らめいた瞬間であった。

 

-4ページ-

あとがき

 

 第九十六話の投稿です。

 言い訳のコーナーです。

 

 さて、少し投稿が遅れてしまい申し訳ありません。プライベートの方が少し忙しくなって参りまして、執筆時間を確保することが困難になりつつある状況です。何とか週に一回の更新は守りたいところですが、やや難しくなるかもしれません。

 

 では、本編に対して。

 

 前回は雪蓮たちによる勝利への決意を描きながらも、やはり魏の謀臣たる風による手痛い奇襲を受けたところまでを描きましたが、今回はそこから一転して冥琳の策略について触れました。

 

 相も変わらず戦略描写や構想に多少の無理や粗があるので、読者の皆様には分かりづらいと感じさせてしまったかもしれませんね。冥琳がどのように季衣を追い詰めているのかが伝わっていれば幸いで御座います。

 

 また冥琳の軍師としての強みに関する解釈は作者独自によるものでありますので、適当に流してもらいながら読んで頂ければと思います。風や朱里、雛里などの面々には心理戦が強い、視野が広い、戦術の天才などある程度の強みはあるのですが、冥琳はこれまで描いてこなかったので、ここら辺で描いてみました。

 

 可能性の取捨選択の速度というのは、ある意味では軍師にとってもっとも必要なスキルではないかと。何手先まで読めるかということも大事ですが、そのスピードが遅ければ戦場においてはあまり意味のないことではないかと。

 

 まぁ戯言なのでツッコミはなしということでお願いします。

 

 さてさて、今回の戦いでは季衣には少し可愛そうな目に逢ってもらっていますが、やはり彼女は一人の武人としては優秀でも、将として部隊を率いる者としては絶対的に経験が足りないでしょう。

 

 黄巾からどれくらいの月日が流れているのかは原作でも触れられておりませんので定かではありませんが、それまで普通の農民であった彼女が、仮に才能溢れる少女だとしても、冥琳や祭と対等以上に戦うのは厳しいのかなと。

 

 それにしても以前から思っていたのですが、どう書こうとしても風が焦る描写がうまく浮かびません。どんな台詞を書いても、何故かそれを既に読んでいるように映ってしまうのが非常に物語を進める上で苦労します。

 

 風が「ま、まさか……っ!」なんて台詞を言うとも思えないので、これを描くのが非常に難しいですね。風ちゃん、マジ無敵。

 

 さてさてさて、次回以降も江東編をお送りします。

 

 冥琳はこのまま風に対して優位を保つことが出来るのか、それとも風が冥琳の思考を読み取る方が早いのか。この辺はスピードがテーマとなりますので、臨場感あふれるように描けたらなぁと希望的観測を述べつつ、結局はそうならないのでしょうね。

 

 そして、まだ姿を現さない春蘭はこの戦でどのような役割を果たすのか。妄想を膨らませて次回をゆるゆりとお待ちになって頂ければと思います。

 

 では今回もこの辺で筆を置かせて頂きたいと思います。

 

 相も変わらず駄作ですが、楽しんでくれた方は支援、あるいはコメントをして下さると幸いです。

 

 誰か一人でも面白いと思ってくれたら嬉しいです。

 

説明
第九十六話の投稿です。
雪蓮たちの勝利への覚悟の前に、魏の策謀家、風が立ち塞がる。彼女の巧みな心理戦を前に、かつての荊州での苦戦も記憶に新しい。冥琳は再びこの稀代の謀臣を相手にしてなくてはいけないのだが、どのように戦うのであろうか。

投稿が遅れまして申し訳ありません。何だか最近は小説が大量に投稿されているようですね。まぁこれで小説の方も活性化することを願うばかりです。それではどうぞ。

コメントしてくれた方、支援してくれた方、ありがとうございます!

一人でもおもしろいと思ってくれたら嬉しいです。
総閲覧数 閲覧ユーザー 支援
6425 4891 33
コメント
オレンジぺぺ様 さすがは冥琳、ペペ様のあそこを濡らすとはさすがです(手だろうが(笑) 本作品では風の可愛らしさよりも無敵っぷりの方が顕著に出てしまい、作者として風の可愛いところも次回作などで書きたいくらいですね。さて、鬼畜極まる冥琳は僕たちの風を涙目にすることが出来るのか、次回までゆるゆりとお待ちください。(マスター)
陸奥守様 季衣としてはこれまでに経験したことのない苦戦であり、精神的にも苦しいところでしょうね。将来的な仮定の話ですが、これから先、春蘭に匹敵するような名将として名を馳せることが出来るかどうかは、この戦いで何を得るか次第ではないかと。許緒の名を冠する彼女がそう簡単に壊れることはないと願います。(マスター)
量産型第一次強化式骸骨様 誤字の指摘に感謝。すぐに修正致します。位置的不利は何とか覆したいところですが、風はどのように動くのでしょうね。そして、対江東軍部隊総指揮官の春蘭が未だに登場しないことがどのように影響するのでしょうか。次回までゆるゆりとお待ちください(マスター)
山県阿波守景勝様 まずは誤字の指摘に感謝を。すぐに修正します。まだ騎馬隊一つしか崩せていない、正しくその通りですね。このまま戦の主導権を握られてしまう風でもないでしょう。冥琳も相当に崖っぷちの戦いを強いられているんですからね。(マスター)
summon様 冥琳とて呉を背負って立つ女性なのですから、いつまでも負けてばかりはいられませんね。今回ばかりは季衣も相手が悪かったのでしょうね。さて、次回以降、彼女たちがどのように戦うのかゆるゆりとお待ちください。(マスター)
アルヤ様 逆に言えば、そこまでのリスクを背負わないと風に勝てないと冥琳は判断したのでしょうね。メガ周瑜砲にそこまで思わせた風ちゃんマジ鬼畜。(マスター)
神木ヒカリ様 史実で考えれば風は相当高齢なはずなのですが、恋姫世界観的に言えば、冥琳の方が経験の点では一枚上でしょうね。まぁそんな冥琳にここまでさせる風も異常なのですが。何とかこのスピード勝負の臨場感をお伝えできるように頑張りたいと思います。(マスター)
田吾作様 とりあえず風の無敵っぷりを崩そうと必死になって考えた手です(笑) 田吾作様のアイディアも多少お借りしてしまいましたが(笑) それはともかく、これに対して風はどのような対抗手段を構築するのか、次回以降をゆるゆりとお待ちくださいませ。(マスター)
この戦が終わる頃まで季衣の心は持つのだろうか。壊れてなきゃいいけど。(陸奥守)
後ろに居ては状況を把握、指示、実行するまでに時間がかかりますから、その分風は不利ですね。この状況を覆すためには、周りの人の制止を振り切って前線に出るしかないか? 1p「攻め寄せる季、衣の部隊」→「攻め寄せる季衣の部隊」では?(量産型第一次強化式骸骨)
3Pのところに袁将軍とあるのですが、袁紹軍では?経験の差はかなり大きいですね。でもまだ騎馬隊の一つしか崩せていない以上まだまだ難しい状況ですね。一つ間違えば全てが覆りますからね……(山県阿波守景勝)
冥琳とんでもないですね。季衣に対しては非常に有利な状況になりましたが、まだまだ始まったばかり。これからどうなるのか楽しみにしています。(summon)
少しの遅れが失敗に繋がる策を実行するって・・・・・・さすがはメガ周瑜砲(アルヤ)
いかに早く相手より先に一手を打つか、まさにスピード勝負ですね。経験で言えば冥琳が有利だな。(神木ヒカリ)
「君を忘れない」九十六話の投稿お疲れ様でした。しかし、冥琳が採った策が擬似十面埋伏の計……更なる高みへと上ったとはいえ、なんつー策をw エグいww ただ、これを実行できたお陰で突破口は開けたようですけれど……これで程cの手を崩せるか。(田吾作)
タグ
真・恋姫無双 君を忘れない 雪蓮 冥琳  思春 明命  季衣 流琉 

マスターさんの作品一覧

PC版
MY メニュー
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。

<<戻る
携帯アクセス解析
(c)2018 - tinamini.com