六月の告白
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 男の子の名札には、桐生と書かれていた。

 私は無性におきりこみが食べたくなった。

 ウェイターの男の子が「えっ」と声をあげた。声に出てしまったらしい。

 恥ずかしい。ジャズかかった都会のオシャレな喫茶店で、こんな注文をするのは私くらいだろう。私は直ぐに珈琲を注文した。

 携帯には、彼からの着信が何十件も来ていた。ベッドで女と寝ていたところまで見せておいて、一体どんな言い訳をするつもりだろう。

 鞄に入っている水着が目をチクチクと刺激した。せっかく買った水着が無駄になってしまった。

「お待たせしました」さっきの男の子が珈琲を持って来た。私はメニューに視線を落とした。文字がうまく読めない。

「こちら珈琲になります。それと、合席良いっすか」男の子は私の許可も取らずに椅子に座った。唖然とする私に「あぁ気にしないで下さい。俺もう休憩なんで」と人懐っこい笑顔を見せた。そういう事じゃない。

「おきりこみって群馬とかの郷土料理なんすね。ほうとうみたいな、幅広の平たいうどん」

「……わざわざ調べたの?」

「謎な単語だったから気になって。でもわざわざ声をかけたのは貴女が俺の好みだったから。っという訳で世間話しましょう」

「は?」

「はーい。深く考えないで、会話しよう」男の子が手をたたく。ふざけているのか、それともこれが最近の若者のノリなのだろうか。そのノリに乗れるほど、私は若くない。

「ねぇ、お姉さんって群馬の人?」

「……そう、群馬の桐生市」

「あぁそれで」男の子は自身の名札を見る。「てか、訛りないですね」

「こっち来て長いから」私は珈琲で口を塞いだ。男の子は一向に席を立つ気配がない。

 マスターらしき人に目を向ける。黙々と作業しており、男の子に注意する気配はない。店内にちらほらいるお客も特に気にしてないようだった。

「幼少期に海がないとこいると、海が恋しくなるってホントなんですね」男の子は私の鞄を指差した。「もう水着買ったんだ」

「でもこの辺の海って汚くないですか」

「そうなの、知らなかった」

「普段はどこへ?」

「どこでもない」私は鞄のチャックを閉めた。「海、一度も行った事ないの。今度彼と行く予定だったんだけど……それも消えたわ」

 男の子は目をしばたたかせた。海に行った事がないと言った時、彼も同じ反応をした。

 だってしょうがないじゃない。海とは縁のない土地に生まれ、厳しい家だったから遊びに行く事も満足にできなかった。東京の大学に来たものの、タイミングを窺っていたら、ずるずると年月だけが過ぎてしまった。

「もぅいいでしょ」私は珈琲を飲み干すと、席を立った。「お会計お願いします」

「あ、いいですよ。俺が出しときます」

財布を出そうとする手を、男の子は両手で制した。

「ナンパ代です――……あっそだ、今度海に行きましょう」

 がんっと、鈍い音が響いた。カウンターにいたマスターが何か落としたようだ。

「おいおい、そりゃ早すぎだろ」

「ちょっ、マスターは黙って下さいよ!」

「ごめんねぇ」マスターが私に向かって軽く頭を下げた。「そいつずっと君に声かけるタイミングずーと窺っててさぁ。キモイよね」

「マスター、それじゃ俺ストーカーみたいじゃん」男の子は焦ったように私に向き合う。「違うかんね。前からおねーさんこの店に彼氏と来てたじゃん。その頃からいいなって思ってただけで」

 彼氏持ちだから諦めていたが、その彼氏が別の女と店を来るのを見て「何時か女同士がはち合わせて修羅場になるな。そこがチャンスだぜ」――と、マスターが言い、男の子が慌てて口を塞ぎに行った――などと思っていたらしい。

「でも君、彼氏しか目がいってなかったし。コイツどうにか名前覚えてもらおうと名札書いたりしてさ」

「マスター!」

 男の子が声を荒げる。なんだこの甘酸っぱいやり取りは。

「ちょっと」男の子に背を押され、店の外出る。さっきまで余裕ぶって笑顔は今や真っ赤だ。

「なんか、いろいろとスイマセン。えっと、あの……よかったらこれ」男の子はポッケットから一枚の紙を取り出した。名前とメアドが書いてあった。

 鞄の中でまた携帯が鳴った。きっと彼からだ。どうするべきか迷って、私は携帯に出た。

「海へは別の人と行くわ」彼が喋る前に宣言し、電話を切った。もやもやしていた気持ちがすっと楽になった。私は男の子と向き合った。

「海、行ってもいいよ。ただし夏が終わるまでに私を口説き落としたらね」

「は、はい!」

 男の子から紙を受け取った。熱い夏が、直ぐそこまで来ていた。

 

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