小石の頃 第02章(テスト版)
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 マスターの喫茶店にアルバイトに入つてから僅か數日、那之は仕事を器用にこなしてゐた。マスターの店舗兼住宅の一室を空けてもらひ、那之はそこに住み込むことになつた。朝早く起きた那之は輕くシャワーを浴び、女の子のやうな姿をこしらへた上で、店に出てきて、掃除等をする。那之のゐる店の風景を見渡して、マスターは、何年も切り盛りしてきたこの店が急に別なものになつたやうな氣がして、戸惑つたものだつた。

「伯父さん、洗ひ物するね」

 流しを見て、那之が言ふ。もともと家事には慣れてゐるので、那之は店でもくるくると良く働いた。那之は流しにかかつてゐた細長い黒いブラシを取り上げて、マスターに訊ねた。

「伯父さん、このブラシ使つていいのかな?」

「ああ」

「ふふ、何だか理科室のブラシみたい」

「へえ、今でも理科室で實驗とかやるのか?」

「うん、やるよー」

 那之はブラシでグラスを洗ひ始めた。カタカタと、流しから小氣味良い音が聽こえる。マスターはそちらのはうを見た。ショートパンツに包まれたナノの小振りのお尻がリズミカルに搖れてゐる。腰に結はへたエプロンの紐のせゐで、その可愛らしい丸みが強調されてゐる感じだ。

 マスターは暫くそれを眺めてゐたが、ふと我に歸つた。

(いかんいかん。何考へてゐるんだ、俺は)

 マスターは、水出し珈琲の裝置を調整するふりをして、その場をごまかさうとした。

 マスターの店は海水浴場の近くにあり、夏はそこに來る客で賑はふが、逆にその他の季節は客が激減する。夏の收入だけで何とかしなければならない店、と笙子が言つてゐたのはさういふことだ。海水浴客相手の店だから、お客は大體流動的なのだが、今年は例年と違つて、何度も顏を出すお客さんが數名現れた。それはやはり、那之を見ようとしてのことらしい。笙子が電話で言つてゐたことが本當になつたな……さうマスターは思つた。

 例へば、テーブルを狹んで座つてゐる大學生風の男子二人。このところ、毎日のやうにやつて來てゐる。背の高い天然パーマのはうはギターケースを、平均的身長で短髮のはうは何らかの箱を必ず携へて來る。雰圍氣や話の内容から察するに、どうやら二人は音樂をやつてゐるやうだ。

 その日も二人は、それぞれコーヒーを前に置いて、話し合つてゐる樣子だ。

「だからさ。俺達には花が無いんだよ、花が」

「花?」

「可愛い女の子のボーカルとかさ。例へば……この子みたいな」

 さう言つて天然パーマの方が、通りがかつた那之の腕を突然つかんだ。

「えつ?」

 マスターが血相を變へて近づいてきた。

「あのー、お客さん、從業員に手を觸れないでいただけませんかね?」

 しかし天然パーマは涼しい顏で言ふ。

「マスター、ムーンゲイトスタジオご存知でせう?」

「ああ、驛前の練習スタジオだな。それがどうした?」

「あそこのスタジオ付屬のホールのオーディションを受けようと思ふんです。でもご覽の通り、俺はギター、こいつはカホーン、男ばかりではどうも花が無い。マスター、この子、ヴォーカルに貸してはもらへませんかね?」

「何だ、人にものを頼むなら、禮儀といふものがあるだらう?貸してくれとは、恐れ入つた言種だな。それにこの子はうちの大事なバイトだ……」

 二人の言ひ爭ひに、那之が入つてきた。

「伯父さん。僕、ちよつとやつてみたいな」

「おい、ナノ!」

「お店が終つた後とかならいいでせう?」

「い……いや!駄目だ!」

「伯父さん!?」

「まづは、こいつらの音樂を聽いてからだ。次はいつ練習する?」

「明日もやるつもりでしたが……お店の閉まつた後のはうがいいなら、俺達、合はせますよ」

「よし、ぢやあそれを聴いてやる」

 

「本日都合により、夜は閉店いたします」

 マスターが毆り書きの貼り紙をドアに貼つてゐるところへ、那之がやつてきた。

「お待たせ。伯父さん、車持つてたんだね」

 店の前に停められた小型バンを見て、那之が言つた。

「ああ、買ひ物とかに使ふからな。何だ?變か?」

「ううん、ただ、うちのパパつて免許ない人だから」

「さうか。シートベルト締めろよ」

 二人は小型バンに乘り込んだ。マスターの喫茶店から、驛を取り圍む街の中心部にあるムーンゲイトスタジオ迄は車で十分程だ。マスターは小型バンを器用に運轉し、やがてスタジオ近くのコインパーキングに車を停めた。

 那之は、キャミソールワンピースの裾を氣にし乍ら車から降りた。マスターが聲をかける。

「忘れ物はないか?」

「うん。てか、ヴォーカルだから別に僕だけ行けばいいんぢや?」

「それもさうだな」

 マスターは那之を聯れてムーンゲイトスタジオの扉を開けた。莨と溶劑の混ざつたやうな匂ひが鼻をつく。相變らずこんな感じなんだな、とマスターは思つた。

 見渡すと、ロビーの奧のテーブルに、例の二人組がゐた。

「おー、待つてゐましたよ。それにしても可愛いねえ、……あれ?さういへば、名前何でしたつけ?」

「縞田ナノです」

 赤くなつて那之は答へた。マスターは譯もなくはらはらした。

「自己紹介しておきませう。俺は新發田克己」

「新發田つていふと、もしかして、新發田鐵工所の息子か何かか?」

「おお、ご明察。そしてこいつが畑範和」

「よろしく!」

「よし、それぢや、行きませう」

 新發田がギターケースを持つて立ち上がり、四人は彼に續いてスタジオビルの階段を上つた。新發田は貸しスタジオの一室のドアを開け、慣れた素振りで空調を點け、ケースからアコースティックギターを取り出した。畑は、いつも携へてゐる穴の開いた木箱に、妙に愼重に腰かけた。那之とマスターはその樣子を見てゐた。那之は興味津々に、マスターはどこか冷めた態度で。

「新發田、チューニングいいか?」

「ああ、良し、オッケー……お待たせしました!新發田と」

「畑です」

「二人合せて、ザ・タテバンコスです!」

 二人がさう言つた瞬間、マスターが噴き出した。

「あ、何で笑ふんです?」

「立版古つたら、江戸時代の紙玩具だらう?ただ突つ立つてゐるだけのバンドなのかと思つてさ」

「トリビアルな侮辱ですねえ。聽いて驚かないでくださいよ!」

「ねえねえ、ちよつと待つて!畑さん……でしたつけ?」

「ん?何、ナノちやん」

「樂器ないけどいいの?」

「え?……ああ、樂器はこれさ。カホーン」

 畑は腰掛けてゐる木の箱を指差した。

「え、それつて椅子ぢやないの?」

「うん、木で出來てゐる、一種の打樂器なんだ。準備いいな新發田?」

「ああ、いつでもオッケー」

「よし、ワン・ツー・スリー・フォー!」

 カホーンとギターが同時に鳴らされた。強烈なビートがスタジオに充滿した。二人は歌ひ始めた……樂器を激しく演奏してゐるといふのに、二人の聲は長く伸び、完璧なハーモニーを作り出した。

 マスターと那之は、驚き乍ら、その樣子を見てゐた。

「ビュー……ポイント!」

 叫ぶやうに二人は歌ひ終へ、演奏が突然止んだ。那之はふうつと息を漏らし、小さく拍手をした。

 呆氣にとられた態だつたマスターが言つた。

「あんたら、キザイア・ジョーンズか!?」

「誰が氣障ですつて?」

「あ、いや、その……」

「さてと、ナノちやん。言ひ忘れてゐたけど、今の曲は……」

「コーネリアスの曲だね。僕、知つてる!」

「おお、知つてゐるとは、ナノちやん澁い!そしてボクつ子なのもポイント高い!」

「ぢや、ナノちやん、こつち來て。一緒に歌はう」

「うん!」

 畑が那之を差し招いた。那之は小走りに前に出て、適當なマイクを手に取つた。

「畑さん、準備オッケーだよ」

「よし、それぢやもう一丁行くか!」

 畑がカウントを入れ、演奏が始まつた。ナノは歌つた。即興なのだらうが、振り迄付けて。ワンピースがひらひらと搖れ、白く細い足が見え隱れする。しかし二人の男達は、演奏に集中してゐるのか、そちらのはうを氣にもしない。初めて合せる筈なのに、三人のハーモニーは完璧だつた。

 また演奏は突然終了した。那之は自然に、汗ばみ乍ら、決めポーズをとつてゐた。畑が大きな吐息をつき、輕く拍手し乍ら言つた。

「行けるぜ新發田!」

「だな!」

 盛り上がる若者達を見乍ら、マスターは、をかしな苛立を感じてゐた。新發田がマスターに言ひかけた。

「さて、マスター、どうです?」

「ん?ああ、まあいいだらう」

「やつた!伯父さん、ありがたう!」

「こらこら、抱きつくな」

「おおー、うらやましいこつてすね」

 ふざけたやうに言ふ新發田に、たしなめるやうな、念を押すやうな、をかしな口調でマスターは言つた。

「お前ら、本當にこいつで良いのか?」

「いや、こんなに歌も踊りも上手いんだつたらまさに願つたり叶つたりで……」

「でも、こいつ、男だぞ」

「あ!伯父さんシーッ!」

「男!?」

 新發田が頓狂な聲を發したが、そこに畑が入つてきた。

「男だつても、全然かまはないよ。なあ、新發田」

「ああ、さうだな……」

「ナノちゃん、ぢや、メルアド教へてくれる?練習の聯絡するから」

「あ、うん」

 やりとりが終るのを見計らつてマスターが言つた。

「そろそろ歸るか」

「お疲れ樣!ナノちやん、これからもよろしく。マスター、どうもありがたうございました」

 スタジオの扉を開けて、マスターと那之は出て行つた。

「よし新發田、もう少しやらうぜ」

「なあ、畑……」

「ん?何だよ」

「いや、何でもない……」

 

 歸りの車中でも、那之ははしやぎ氣味だつた。顏を少し火照らせて、那之は言つた。

「樂しかつたー」

「ヤスユキ、お前、歌ふの好きか?」

「うん、大好き!やつぱり遺傳だねー」

「ヤスユキ」

「うん?」

「俺は遺傳ぢやないと思ふ」

「え、だつて、おぢいちやんは……」

「ヤスユキ。そんな話は止めろ」

「伯父さん、何か變」

「變でもだ。とにかく止めろ」

「う、うん……」

「それにな、バイトや勉強に差し支へるやうなことがあつたら、すぐに辭めてもらふからな」

「今日の伯父さん、ちよつと怖い……」

「氣に障つたか?」

「そんなことないけど……」

 那之は黙つてしまつた。暫くおいて、マスターが取りなすやうに言つた。

「なあヤスユキ、バイトで金貯めて、一體何が欲しいんだ?」

 那之は赤くなり乍らマスターに耳打ちした。

「……そんなものがあるのか……。驚きだよ」

「『やるからにはつきつめなけぁ』つて、ママも言つてゐるしね」

「だんだん世の中が判らなくなつてくるなあ。ま、しかし、それで世界が變るつていふなら……」

「……伯父さん、何で黙るの?」

「あ、いや、もう着くぞ」

 マスターは店の前に小型バンを停めた。

「車駐車場に入れてくるわ。ヤスユキ、今日は疲れてゐる筈だから早く寢ろよ」

「うん、伯父さん、ありがたうね」

「ああ」

 車から降りた那之は、ワンピースを翻し乍ら、店の奧へと走つていつた。マスターはそれを見送り、莨に火を點けた。

(俺も人の親だつたら、娘を他の男にやりたくない、とか思つたりするんだらうか……)

 マスターはぼんやり考へた。しばらくの後、マスターは吸ひ殻を灰皿に捩ぢ込み、小型バンを駐車場と走らせて行つた。

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