ハーフソウル 第一話・黒曜石の剣 |
一 ・ 夜の闇
夜の闇に、ひとつの黒い影がいた。森の中、樹上にいるそれは、細いながらも人の形をしており、太い枝の上に悠然と立っていた。
黒い影のように見えたのは、その女が黒衣を纏っていただけではない。その髪も肌も、闇に溶け込むほど黒かった。ただ、彼女の頭上に輝く銀の冠だけは月光に照らされて、青白い光を放っている。
「イブリス様」
女の背後で声がした。人とは似ても似つかない、カエルが無理やり発したような声だ。その声に振り向きもせず、イブリスと呼ばれた女は「報告を」と応えた。
「目的となる少年を発見致しました。日中は封印の森から出てくる気配はありませんが、夜毎森から出て行動しているようです」
「そうか。では明晩仕掛ける」
「承知致しました」
声の主が消えた後も、イブリスが樹上から動くことは無かった。天を仰ぎ月を見つめ、ただ一言
「見つけたくは無かった」とだけ呟いた。
麗らかな昼の日差しの中、少年が森の小川で釣りをしていた。家から持参したと思われる金属製のバケツにはすでに三匹ほどの川魚が泳ぎ、傍らにある麻袋には、森で獲れた黒スグリや蜂の巣の塊が入っている。
春の柔らかい陽光は、彼の蜂蜜色の髪を更に輝かせ、深森色の瞳には水面の乱反射が映っている。体格から年の頃は十六、七と思われるのに、表情は不思議と幼げだ。
夕刻近くなり、バケツに魚が一杯になった頃、少年はようやく腰を上げた。竿を上げて釣り糸を仕舞い、バケツと麻袋を手に取って、家路へと緩やかな丘を登る。
「結構獲れたな。兄さん喜んでくれるかな」
程なく森の奥、開けた土地へと出た。がっしりとした木造の屋敷の庭には、小さな菜園と井戸、薪小屋の横には鶏小屋も備え付けられていた。
少年は真っ直ぐに門をくぐり、屋敷の玄関扉を開けた。一昨年祖父が他界してからというもの、父と兄の三人で暮らす屋敷は広く感じ、玄関ホールに入ってもすぐには家人は現れない程だった。
だがこの日は偶然父にばったり会った。出かけるつもりなのか、春用の薄手の外套を羽織り、枝打ち用の鉈を携えている。
「セアル。帰ったか」
気の優しい父親は、息子を見ると微笑んだ。
「ただいま。父さんはこれから出かけるの?」
「ああ、焚きつけ用の小枝が足りなくなっていたから、少し採ってくるだけだよ」
「それなら、俺が採ってくるよ」
父親にバケツと麻袋を押し付け、代わりに鉈をひったくって、セアルは勢いよく外へと飛び出した。
「おいセアル! もうすぐ夕食だから早く戻って来いよ! あと、生木じゃなく枯れ枝にするんだぞ」
父の呼びかけも遠く、すでにセアルは門の向こうへと走り去った後だった。
「変に元気がいいのは、一体誰に似たのか……」
押し付けられた釣り道具と袋を見て、父は嘆息した。食材を保管するため貯蔵庫へ向かうと、丁度夕食の準備をしていた上の息子と鉢合わせた。
「サレオス。焚きつけ採りにはセアルが行ったよ。多分すぐ戻ってくるだろう」
「大丈夫。今晩の分は足りたよ」
父から食材を受け取ったサレオスは、すぐに魚の加工を始めた。肉や魚などは乾燥させるか、塩蔵して保存食に加工しないと、長期間保たないからだ。
「あの子は外が好きなんだな。日がな一日外にいるかと思うと、面倒がらずに夜にも外へ出て。本ばかり読んで、外に出ない子だったお前とは大違いだ」
「セアルは外に出られない時期があったからからね。あの頃はお祖父様の言いつけで、何年もあの子を外へ出さなかった。誰もいない部屋の隅で、外へ出たいと泣いてた事もあったよ」
「……そうだな。あの頃のことは、父さんもあまり思い出したくない」
父は釣り道具を片付けるため、台所を後にした。残されたサレオスは黙々と手を動かした。台所の窓から月が顔を見せ始め、月光が室内に差し掛かった時、彼はランプを灯そうと手を止めた。そしてふと思い出したかのように、ぽつりと呟いた。
「もしかしたらセアルには、この家が檻のように見えているのかも知れないよ」
二 ・ 封印の森
家を飛び出してから、半刻ほど過ぎただろうか。父の言いつけ通り、セアルは枯れた枝と芝を集め、数週間は使える程の量を蓄えた。
ふと顔を上げると、枯れ枝を探すことに夢中になっていたせいか、森のはずれまで来ていたことに気づいた。
「遠くまで来すぎたかな……」
まとめた焚きつけを、一番目立つ樫の根元に置き、代わりに隠しておいた鉄剣を手に取って、セアルは森と草原の境界まで進んだ。見た目には森と草原には境界など無いが、向こう側、草原からこちらを見ると違いがはっきりする。
それは、草原からは『森など無く、果てしなく草原が広がっている』からだ。
西アドナ大陸。母なる創世神アドナが、自らの箱庭として創ったとされるこの大陸は、すでに神の恩寵など失い、滅びた種も決して少なくはなかった。大陸の人口約九割を占める人間は、ただ我欲のためだけに争い続けた。アドナが自らの代行者と共に、神賜の王権の証、王器を創ってからというものは、それを巡って人間同士の戦争を幾度も繰り返した。
『完全なる人類』として創造された精霊人は、人間の数倍の長寿を誇り、故に自ら争いを求める事も無く、また争いを鎮めるでも無く、森に誰にも見えない境界を作り、その中へと逃げ込んだ。
それがこの『封印の森』の成り立ちだった。外部からは見える者も無く、森の位置を知っている者だけが、この森へと入ることが出来た。
この森で育ったセアルも精霊人には違いなかったが、純血種の父や兄とは全く異なっている。
――それは、彼の母親が人間だったからだ。
母が人間であるがために、村の者からは存在しないものと扱われ、産後間もなく母が亡くなった時も、墓は屋敷の裏手に造るしかなかった。それだけ精霊人の人間に対する憎悪は強かったのだろう。
精霊人の中で育ってきたセアルは、母方の種族である人間を、生まれてこの方見たことが無かった。森の存在を知る者も無く、通りかかったとしても自らの姿を晒すなど、戒律を破る行為に等しかった。
ただ一度だけ、セアルにとっては一人だけ、姿を見た人間はいた。
「マルファス先生!」
森の向こうに黒い人影を見つけ、セアルは夢中で森から踏み出した。何もないはずの空間から突然現れたセアルにも驚かず、男はそちらを向いて微笑んだ。
「セアル! 久し振りだね」
マルファスと呼ばれた若い男は、嬉しそうに手を振った。黒い軍服のような、ぼろぼろのコートに大剣を背負い、長い黒髪を編んで下げている様は、遠目からは巨大なカラスのように見える。
「近くに寄ったから、こっちまで足を運んだんだ。元気だったかい? 少しは上達したかな」
「実戦経験はまだ無いから、上達してるかどうかはわからないな。でも毎晩練習はしてたよ」
刃こぼれしている細身の剣を半分抜き、セアルは得意げに見せた。父や兄に剣の練習をしているなどと知られたら、どんな心配をかけるか分からないと思った彼は、練習用にマルファスからもらった剣を、樫の木の根元にこっそり隠していた。夜、森はずれに来る精霊人などいるはずも無く、人知れず練習をするにはうってつけの場所だった。
「もし時間があるなら、少しだけ練習に付き合ってよ」
弟子にせがまれ、やれやれとマルファスは近くの木の枝を拾った。
「その背負ってる黒い剣は使わないの? その剣が使われているところを見てみたいのに」
「これは秘密兵器だから、今は使わないよ。キミにはこれで十分さ」
くるくると木切れを手元で回し、マルファスは構えた。それに応え、セアルも剣を抜き放ち、構えを取る。
それを合図に、セアルが斬りかかった。マルファスはその斬撃を枝で柔らかく受け流し、返し手で真横に薙ぐ。想定内だったのか、俊敏に後方へ飛び退くセアルに対し、突きを繰り出した。
体勢を崩しながらも剣で払い、セアルは横へ飛んで地を蹴ると、更に斬りかかる。
払われた事で、大振りな突きには隙が生まれ、マルファスは斬撃を枝で正面から受けた。刃こぼれしているとはいえ、鉄製の剣は枝を易々と両断し、そこで決着はついた。
「うん、一本取られた」
両手を挙げ、マルファスは降参の意思表示をした。
「強くなったなあ。これなら多少の敵なら、負けることもないんじゃないかな」
「勝つ事よりも、負けないほうが大事?」
「勝つほうがそりゃいいけど……。負けないって事は、叩きのめされても、立ち上がる力があるって事だと、僕は思ってる。今にも死にそうになって相手を倒すよりも、何度でも立ち上がる力のほうが強いんじゃないかなって話」
マルファスの言葉に、セアルは頷いた。思えばマルファスとの出会いは、数年前、セアルが大切にしていた護符を無くした日の事だった。
森の中で落とした護符を探しているうちに、うっかり境界の外へと出てしまい、身を護るすべを持たなかった彼を、狼の群れから救ったのがマルファスだった。
護符も無事見つかり、事なきを得たが、それ以来セアルはマルファスに師事し、護身のすべだけでも身に着けようとした。全ては父と兄を心配させないためだ。
その時、背後から異様な気配があった。セアルが振り向くよりも早く、マルファスが立ち上がり、木切れを握り締める。
「あら、勘がいいのね」
見知らぬ女の声がした。驚いて声の方を凝視すると、すでに暗くなっている東の方角からひとつの影が近づいてくるのが見えた。
影と見えたのは、女が身体に密着した黒い衣装を纏っていただけではなく、その髪も肌も、暗闇に溶け込む程に黒かったからだった。その細い腰には束ねた黒革の鞭を下げ、髪飾りと思しき銀の冠だけが、青白く光を放っている。
何よりもセアルを驚かせたのは、精霊人では有り得ない髪と肌の色を有していながら、人間よりも尖った耳が、精霊人そのものの形だった事だ。
身構えるよりも早く、女は二人の前へ歩み出た。その背後には人の二倍程もある巨大な牛が見えた。正確には頭部が牛を模したものであり、上半身は人間、下半身は鶏の異様な風体であった。
「初めまして……かしら、セアル。私はイブリス。あなたを殺しに来たの」
三 ・ 王冠の所有者
その頃自宅では、父と兄が今か今かと、セアルの帰宅を待っていた。すでに食卓には豆スープの鍋にリンゴのワイン、川魚と鶏卵のパイや野イチゴの蜂蜜漬けなど、多くの料理が盛り付けられていた。
「セアルはどうしたんだ。飛び出して行ってからもう一刻半にはなる」
「探して来るよ」とサレオスは席を立とうとしたが、父に制止された。
「いや、私が行こう。元はと言えば、私が行くはずだったのだからね」
外套を羽織り、フードを目深に被ると、父はカンテラに油を足し火を灯した。見知った森とはいえ、日没後に歩き回るのは危険を伴う。
「念のために何か武器を持って行った方がいいんじゃないか? 魔銀の剣ならすぐに出せるよ」
「あれはセアルの母親の、唯一の形見だから……。私が使うのも気が引けるな」
「なら、尚更持って行った方がいいよ。きっとあの剣がセアルを護ってくれる」
サレオスは廊下脇の小部屋へ入り、すぐに戻って来た。その手には、革のがっしりした鞘に銀の縁取りが施された、見事な一振りの片手剣があった。常に手入れされていたのか、錆ひとつ無く、鈍色の輝きを放っている。
「わかった。行ってくる」
剣を受け取り、父はカンテラを掲げて門をくぐって行った。後姿を見送るサレオスには、何故か胸騒ぎがしてならなかった。
イブリスと名乗った女は、近くで見るとセアルとそう年の頃が違うわけではなかった。蠱惑的な黒い睫毛の下に紅色の瞳を宿し、並みの男ならその容姿に騙され、息つく暇もなく殺されているだろう。
マルファスは、イブリスを一目見た瞬間に彼女に釘付けになっていた。それは篭絡されたというわけではなく、彼女が戴く銀の王冠に驚いていたという方が正しい。
「黒衣の男は私が殺るわ。お前はセアルを殺しなさい」
イブリスは背後の悪鬼に命令を下した。巨体に似合わず、悪鬼は音も無くセアルへとにじり寄る。セアルも自らの鉄剣を構えた。悪鬼は人の丈よりも更に長い戦斧を担ぎ、セアルへと対峙した。
一方、イブリスは黒革の鞭をぴしりとしごき、マルファスへと向き直る。
「あなたが誰だか知らないけど、邪魔をする者は一人残らず死んでもらうわ」
言うより速く鞭がしなり、マルファス目掛けて飛んで来る。すんでのところで身を翻し、彼は体勢を整えた。
「そんな木切れでは私には勝てないわよ。死にたくなければここを去りなさい」
「嫌だね」
「そう。そんなに死にたいなら、望み通りにしてあげる」
イブリスの鞭がうねりを上げて襲いかかる。躱し切れずに枝を絡め取られ、文字通り小枝を折るように真っ二つになった。
「その背中の大剣、よもや飾りではないでしょう? 女だと思って嘗めていると死ぬわよ」
「この剣は、キミのような『有限生命』に使うものではないんだ」
「有限生命? 何を言っているの」
「その聖銀の王冠……。それをキミに与えた男は今どこにいる?」
唐突に王冠の出自を問われ、イブリスは動揺した。
「僕はずっとその王冠を探していたんだ。僕の事も、この剣の事も『分からない』なら、キミはその王冠の、正式な所有者ではない」
真実を衝かれ、動揺を隠し切れないイブリスは、これまでの正確さを失い、闇雲に鞭を放った。その虚を衝き、マルファスは一気に間合いを詰める。
鞭の動きを読み、イブリスの右腕を掴むと、彼女の手から鞭を叩き落した。そのまま王冠へと手を伸ばすが、トケイソウの花を模った王冠は刺々しく、彼女の頭上から離れる事を拒んだ。
「王冠は渡さないわ!」
イブリスは地を蹴って後ろへ跳躍した。すでに武器も奪われ、彼女には勝ち目は無かった。
四 ・ 咎人
その時、マルファスの眼に苦戦しているセアルが映った。相手が巨大である事もさながら、長柄戦斧と剣では、実戦経験を積んだ者でも、戦いにくいものだ。
致命的な攻撃こそ食らっていないが、悪鬼にじわじわと押され、セアルには起死回生の一撃を与える事すら困難な状況だった。
「いつまで遊んでいるの! 早く殺すのよ!」
イブリスが金切り声を上げて、悪鬼に命じた。その声を受け、牛頭の化物は得物を大きく振りかぶり、闇雲に攻撃を与え続ける。
セアルは鈍重な斧の一撃を避けながら反撃の機会を窺っていたが、撒き上がる砂煙に視界を奪われ、次第に追い詰められていた。
攻撃を回避する位置を模索していると、ふいに悪鬼の背後に、よく見知った人影が見えた。
「父さん……?」
一瞬気が反れ、悪鬼の攻撃を避ける機会を失う。
「終わりだ」
カエルが無理やり発するような、くぐもった声が頭上から聞こえる。攻撃を避ける余裕もなく、重い斧の一撃をセアルは剣で耐えようとした。だが何年も使い込まれた鉄の剣には、体重を乗せた鉄の塊を受け切る余力は残っていなかった。
骨が砕ける鈍い音が響き、セアルは背中を強打した。痛みを堪え目を開けると、父が悪鬼との間に割って入り、その背で斧の攻撃を受け止めていた。背骨は砕け、肉が飛び出し、セアルの衣服は父の血で真っ赤に染まっている。
「父さん……。父さん……!?」
「セアル……すまない、本当にすまない……」
血を吐き出しながら、うわ言のように謝罪を繰り返す父に、セアルは眼前の敵の事も忘れ、彼を抱き起こした。
「お前の本当の父親は、私ではないんだ……。ずっと、黙っていた。お前を身篭った母さんがこの森で行き倒れていたのを助けたところから、全て始まった……。本当の事を知ったら、お前が出て行ってしまう気がして……。言えなかった」
父の、いまわの際の告白に、セアルは涙した。近寄り難かった祖父に対して、父と兄サレオスは、本当に彼を愛してくれていた。人間でいえば十歳くらいの頃、セアルは鎖に繋がれ、外へも出してもらえない時期があった。何故そんな仕打ちをされるのかも分からなかったが、その戒めを解くために、兄は危険を冒してまで護符を、人間の世界から持ち帰って来てくれたのだ。
「父さん……! 俺のせいで……ごめん……俺……」
「お前のせいじゃない……。お前は、本当に私の家族だった。きっと……お前の母さんを愛してしまった私が、一番の咎人なんだよ」
父は震える手で、魔銀の剣を指した。
「お前の母さんの、唯一の形見だ……。持って行きなさい。そして……胸を張って生きるんだ」
それだけ告げると、彼は満足そうな笑みを浮かべて事切れた。セアルには未だ現実が信じられず、呆然とした。
だが、急速に冷たくなっていく亡骸を抱え、それがようやく現実だと認識すると、誰へ向けたものかも分からない怒りの炎が、腹の底から湧き上がり始めた。
亡骸の鞘から素早く魔銀の剣を引き抜くと、地面にめり込んだ斧を振り上げようとしている、悪鬼の脇腹に斬りかかった。隕鉄とも呼ばれる鍛えられた刃は、易々と肉を切り裂き、悪鬼はどす黒い血飛沫を上げてのたうちまわる。
返す刃で、セアルは倒れこんだ悪鬼へ馬乗りになり、逆手に構えた剣を、心臓目掛けて突き下ろした。
断末魔の叫び声を上げ、血の泡を噴き上げもがいた末に、体内の血を流しきった悪鬼は絶命した。黒い血溜まりが父の遺骸を汚し、自責と虚しさに、セアルは再び涙を落とした。
五 ・ 黒曜石の剣
「何てザマなの……。役に立たないわね」
部下である悪鬼の死に様に、イブリスは毛程の憐憫すら表わさなかった。化物とはいえ、彼女にとって悪鬼は、道具以外の何者でもなかったのだ。死者に対する弔いの情すら無いイブリスに、セアルは怒りと同時に哀しみを憶えた。
「セアル。私が憎い?」
イブリスの唐突な問いに、セアルは答える代わりに彼女を睨み付ける。
「私が憎いなら、私を殺したいなら追ってきなさい。『首輪の男』を捜せば、私を見つけ出せるわ」
そしてマルファスへとちらりと目をやる。
「王冠の所有者は私よ。欲しければ私を殺すことね」
そう言い捨てると、イブリスは鞭を拾い上げ、大きくしならせて地面に叩き付けた。それが合図となっているのか、北の空から大きな翼を有した、獅子のような魔獣が姿を見せた。
鞍も手綱も無い魔獣の背に飛び乗り、イブリスはゆっくりと夜空へと舞い上がった。彼女の唇が何かを呟いているように見えたが、魔獣の羽音に掻き消され、セアルには聴き取ることが出来なかった。
後に残されたのはセアルとマルファス、そして父の遺骸と悪鬼の屍だった。
セアルは父の亡骸へと近づき、すでに血の気もないその顔を撫でた。ふと背後に気配を感じ振り返ると、自宅にいたはずの兄、サレオスが立ち尽くしていた。
「兄さん……」
兄のたった一人の血縁である父を、自分の過失で奪った事実に、セアルは罪悪感で押し潰されそうだった。どんなになじられ、殺されたとしても、仕方が無いとすら思った。
事実この惨状にサレオスは言葉を失い、呆然としている。ようやく状況を見渡せるようになると、彼はマルファスに目を留めた。
「お前……」
サレオスは足早にマルファスへ詰め寄り、胸倉を掴む。
「お前か? お前がこれをやったのか!?」
「違う! その人じゃない……。マルファスがいなかったら、俺も殺されていた」
胸の苦しさに、セアルはそれだけ言うのがやっとだった。
「俺のせいなんだ……。俺が森を出たりしたから、こんな事になった。俺が弱いから、父さんを護れなかったんだ」
苦しそうに心情を吐露する弟に、サレオスは掴んだ右手を、力無く放した。父が出かけた後、胸騒ぎに自らも後をつけたが、まさか森の外に出ているとは思わず、気付くのが遅れた。
「兄さん。俺はこの森を出ようと思う」
「セアル……」
「父さんを葬ってから、夜が明けないうちに発つよ。あいつを、追わなくては……」
セアルの言う『あいつ』が誰なのか、サレオスには分からなかったが、もう後戻り出来ないところまで来ていると彼は悟った。
「セアル」
マルファスはそれまで肩から下げていた革ベルトをはずし、背負っていた剣の鞘ごと、どさりとセアルの目の前に置いた。
「ここに王器がある。神代の昔に、所有者である神の代行者と共に創られた、王権の証だ。例え相手が人外の者でも、この剣で傷を付けられた者は、傷を塞ぐことが出来なくなる。必要なら持って行くといい」
セアルは剣の柄を握り、ゆっくりと鞘から引き抜いた。黒い硝子質の輝きに、彼の顔が映り込む。両手剣ならではの重量ながら、その両刃は鋭く、叩き斬るだけの武器では無い事を示していた。
マルファスから黒曜石の剣を譲り受け、父の遺骸を彼の外套で包むと、セアルは家へと戻った。屋敷の裏手にある、母の墓の隣に父を埋葬すると、支度を整え夜明け前に森を出た。
「この森から北は、帝国三公爵の一人、アレリア公爵家の領地になっている。東から迂回すれば、レニレウス公爵家の領地に入るけど、こちらの方が人の往来が盛んで紛れ込みやすいし、何より石敷された大陸公路があるから、東から行ったほうがいいと思うよ」
マルファスの提案に、セアルは感謝した。初めて足を踏み出す外界は、彼には分からない事ばかりであり、情報をくれる存在は貴重だった。
一方、兄は最後まで、セアルとの別れを惜しんだ。帝国領内で使用できる貨幣や携行食糧、衣類などを用意してくれ、二言目には「護符だけは、何があってもはずすな」と念を押された。
枯草色のインバネスに濃赤のマフラーを纏わせ、背に大剣、腰に片手剣を下げている風体は、他人から見れば不可思議であったに違いない。
白みがかった故郷の空を振り返りながら、セアルは父と兄へと思いを馳せた。そして自らが進むべき道へと向き直ると、もう二度と振り向くことは無かった。
説明 | ||
創作歴史と創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。武器戦闘をメインにしてあり、魔術はあまり描いていません。 たまに人が死んだりします。男主人公。獣耳少女と男二人で旅をします。9218字。 【ご注意下さい】 このシリーズにはフェイタルルーラーの結末に関するネタバレが含まれています。 |
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