記憶録「夢ヲ想モウ」B |
「あ……」
どのくらい恥ずかしさのあまり黙っていただろうか。
微妙な沈黙の中で、ぽつりと言葉を落としたのはアヤツだ。
火照った頬から汗を垂らし、俯いていた顔を上げた。
「あの……その……一息入れませんか? 暑いですし、冷たい飲み物ご用意してきますね」
「そ、そうだな。ああ、よろしく……」
どこか上の空で、間の抜けた相鎚を打つとアヤツはささっと立ち上がると、そとくさと部屋から出て行った。
一人残され、博識はようやく解放されたと大きく息を吐く。気恥ずかしさと緊張が解けたからだろう。一気に汗が噴き出し、シャツに滲んでいく。あっという間にべったりと張り付いたシャツを摘み、パタパタと服の中に風を送り込む。
「夏だもんなぁ。喉だって渇くし、汗も掻くって」
外を見れば、自己主張の激しい蝉と太陽。ミンミンシュワシュワと昼間の演奏会が行われ、空からは天然のライトが照らされる、木々と青天と入道雲で装飾された夏のオーケストラ。
風物詩だと言えなくもないが、今が働き時だと言わんばかりに力強く夏を強調させる双方に愚痴の一つや二つは言いたくもなる。
「……暑いか」
だが本当に、この熱さは夏の所為だろうかとふと思う博識だった。
太陽が熱かったから、と記した小説が出回ったのはもう半世紀も前の話。
そう呟いた主人公はとある犯罪を犯し、茶番劇によって盛り上げられた裁判は有罪を言い渡されていた。主人公に自意識と呼べるものはなく、外部から流れ込んでくる情報や情報諸々を受けてただ達観するだけの存在だった。
もし彼が言葉を漏らすとすれば、そのとおりが合っているだろう。
「…っ、はぁ」
息を切らすように肺の空気を吐き出した彼は、汗ばんだ額や頬を拭おうとはしない。
膨れに膨れた脂肪をに包まれた盛り上がる身体を壁にもたれ掛け、何も見ようとしない虚ろな眼を泳がせている。金もなく、ここしばらくは食事もまともに取っていない。なのに減っていかない体重に苛立ちだけが積もる。
さらにこの暑さで熱中症寸前だ。まだ汗が出ている分、身体は機能しているがそれも時間の問題だろう。
ピクリもしない。汗ばんだ豚が一匹、薄暗い部屋で佇んでいた。
朝は当に過ぎ、入り込んでくる日差しは強い。けれど、部屋の薄暗さは平然とそのままだ。
木造の、隙間風が激しい古い部屋の中だか涼しさの欠片もない。徐々に温まり始めた夏の風が肌を撫でては汗を呼び出す。呼吸をすればその熱が身体に入ってなお更だ。
「冬は荒れれば雪が降って政治が乱れ、夏は荒れれば太陽で人が狂うらしいぜ。しかも春には変質者が出るって。まったくクソッタレな国だよなここは。でもさ、雪で政治が乱れればそこで暮らす人が狂うのは必然と思わないか。つまり、春だから夏だから狂うどころじゃなくて、このご時勢じゃ春夏秋冬関係なく何か起きるってもんだ。そうなれば、こんなド田舎でも賽銭泥棒が出ても仕方ないとは思わないか」
そんな環境の部屋にある唯一の戸が乱暴に開けられた。
大きい物音だったが彼にあった動きは死んだ眼と横暴な口だけ。暑さと空腹による消耗で、これ以上動く気すら起きない。
立っていたのは青年だった。田舎には似合わない、若者受けする衣類に身を包んでいることから外の人間だろう。面白いものを見つけたと双眸をギラギラと輝かせ、顔に不気味な三日月を浮かべている。男とはまた違った、暴力的な危険を孕んでいた。
「人が事やらかすのに政治も季節も関係ねえって。そいつはやっちまった奴の言い訳に過ぎないって、いい歳なんだから子供に説教させるなよ」
「いい歳だから余計に口と頭が働くものだ。どいつもこいつもペラペラと無神経に言ってるだろお偉いさんたち。自分の言動がどういう影響を及ぼすかもわからないのにな」
「それこそ無関係だって。あいつらが上っ面でどんなこと垂れても、俺らがどれだけ言っても他人は他人。全部を聞く耳なんて持ってる奴なんて、ふるいで持ち上げて振るっても米粒一つあれば十分なほうだろ」
でだ、と青年は言葉を続ける。
「俺、政治とか興味ないし、話聞いても苛立つだけだからテレビも見てないんだよね。どんだけ言ってもお兄さんがやっちまったことはやっちまったんだって理解したら?」
「こんな貧相神社の賽銭盗んで誰が訴えるってんだ。犯罪は通報されて初めて確立するものだろ。それとも小僧、探偵か警察気取り? は、やめとけやめとけ。」
「まさか。金にならないし流行でもないって。それでも俺には金になる話だ。俺らからすれば化物退治も指名手配犯探しも、ちょっとしたことでも多少の金にはなるんだよね」
そこまで話して、ようやく男は動いた。
変わらない死んだ視線で値踏みするようにゆっくりと見上げ、何かを思い立ったのか眼を細めた。
「お前、まさか降魔師か」
「だから連盟に入ってるから、どんなことでも金になるってね」
青年――大貴が土足で踏み込んだ。
「ということで、ちょっとお縄になってもらうぜ。嫌なら暴れても構わないけど、ちょっと痛い思いして、ちょっと夢の中に旅立ってもらうことになるぜ」
そんなものに就いていれば今頃こういう状態にはなっていないだろう。
男もそう思い、大貴もそれを分かって言っている。
「……それはちょうどいいな」
「は?」
しかしそれは彼にとって都合の悪いものではなく、ある意味、大貴は歓迎すべき来客だったと云える。
「もう飽き飽きしてたんだ。行きたくて行ってたわけじゃない学校で学んで、社会に出て馬鹿みたいになりふり構わず働いた結果がクビだってよ。上司だった男に失態を擦り付けられてな。どうもこうも有無はなかったよ」
これといった失敗も悪態もなかった。
業務は人よりもこなし、役職に見合わない責任も負わされたがどうにか終わらせた。会社のため社会のためなどという綺麗ごとを思ったことはない。全ては自分とその将来のため。
「踏ん張れだの何だのと世間様は勝手に言うから頑張ってみたけどよ、駄目なものは駄目なんだとよ。参っちゃうよな。路頭に迷えって言ってるようなもんだった」
必死だった。
地元じゃ仕事もなく、自立のため都会に出てみればあるのは歯車としての人手。考えるな。文句は言うな。ただ働け。それだけを言われて朝早くから夜遅くまで十数年働き続けて、わずかな時間の楽しみといえば煙草と酒ぐらいで、それさえあればどうにか生きていけた。
だがそれも仕事と共に終わりを告げた。
――“お前の代わりなんていくらでもいる”
これが全てで、これが彼の今までだった。
自らの半生を思い出して、くく、と鼻を鳴らす。
「……殺せよ。罪人てのは死体でも金にはなるんだろ?」
末路に立ち、身も心も腐り果てた彼が望んだのは死。
中年に差し掛かった男に新たな就職先など見込めるはずもなく、手元に残った心もとない金が持つはずもなく、路頭に迷い行き着いたのがこの慧閑(えひま)村だった。
「いや馬鹿だろおっさん。愚痴るなし。そんな夢も希望もないこと言うなし」
「お前自身だって言ってただろ。“ふるいに振って残るのは米粒一つ”って。要は同じだよ。夢も希望も、掴めるのは一握り以下。他大多数はこうして腐っていくのさ」
「いや勝手に腐らせるなし。死ぬのは勝手だけど、なんで俺が手を汚さないとならないんだよ。まぁ生死問わずってのは間違いないけど」
「金のために殺し殺されやってきた奴と同類のお前が何をいま更ためらってんだよ。早くやれよ」
「あのね。やれって言われて、ハイ喜んでって殺す奴がどこにいるよ。誰だって苦しい時も辛い時もあるよ。俺だってさっき友人に生まれたてほやほやの巫女さん精霊の彼女見せ付けられたんだぜ」
あどけた大貴の言葉に、男の苛立ちが膨れあがった。
「んな話どうでもいいよ! やれって言ってるだろ! もういいだろ言わせるなよ! 飽きたっつてんだろ生きてるのに! あれだけ苦しい思いさせて、まだ苦しめって?! ふざけるなよ楽にさせろよもう考えたくないんだよ! 金のことも生活のことも他人のことも明日のことも自分のことも…どうせ考えたって無駄なんだよ! どうせ、“ああお前のことはどうでもいいから”、“お前には関係ない”って馬鹿にされて遠ざけられて終わるだけなんだからさ! 死ぬ時くらいさっさと苦しまずに終わらせろよ!」
「ご冗談。俺は品行方正かつ健全な学生だぜ。こんな素敵潔癖な俺を悪党の道に誘い込もうとするなよ。これでも将来は警察官が夢なんだぜ」
でも小遣い稼ぎにはあんたを利用させてもらうけど、と思うあたり、大貴も自分が汚れ仕事の中にいることは分かっている。
どこまでいっても降魔師とは賞金稼ぎと変わらない。家柄だの歴史だの、様々な因果はあるにしろ、やっていることはそうそう違わない。相手を降して金を得る。この一言に尽きるのだと、大貴はこの道を歩む時から感じていることだ。
さて、と大貴が男の正面に立つ。
「あん?」
と、同時に、男も立ち上がった。
予想外の動きに身構えるが、襲い掛かってくる様子はない。支えるのもやっとの足で弱り果てた重そうな身体を壁にもたれさせて、どうにか起き上がった彼に覇気はない。
というのに、は、とも、ふ、とも区別がつかない声で笑う彼の雰囲気は異様だった。
「なんだよ、なんだよ。死ぬ時くらい自由にって思ったのにさ。殺してくれさえないのかよ。自分が殺めたという罪悪感とか、この手が血に染まったという悪寒とか、殺す側に立ったという後悔とか、そんなの。そうだよ、誰だってそんなことはしたくないだろうさ」
この国では、死刑が執行される時は必ず三人の執行官が行うことになっている。
並ぶボタンは三つ。
そして当たりは一つ。
ただ仕事だとして、誰が、彼が、自分が、殺したことを知らせないための保険。今後も心神健全に生き、自分じゃないと言い聞かせ、また誰かを死へと導くための心の安全バー。
憎しみも悪意もないのに、ヒトがヒトを殺せるはずがない。
「あ〜もういいや。だったら自分でやるさ。さっさと終わらせときゃ良かったよ。馬鹿なことしてたよホント」
そう、手にギラリと鋭く輝く光を携え、
「これでいいんだろ?」
己の首筋に伸ばした。
「おい!」
男は制止など聞かず、包丁を自らの首筋に押し当てグッと力を込めた。
「黙って死ねブタ野郎!」
素早く繰り出した手は、包丁を止めるわけでもなく、男の顔面にめり込んだ。
ブヒィ。
鼻血を盛大に噴き出して倒れた男の悲鳴は、なぜか大貴にはそう聞こえた。
「……俺を惑わす悪は倒れた。うんこれでオッケー」
見事一撃で意識をもぎ取った大貴が腕を組み胸を張った。
散々戯言を垂れ流した男の言葉など、最初から聴く耳など持たなかった。面白さ半分あと適当という感じで始めたやり取りで、途中から飽きていたこともあって包丁が登場した段階で退場願った。その幕引きがあの拳ということだけのことでしかなかった。
だが、このまま放置ということもできない。
このままにしていたら、この男は再び同じようなことを繰り返すだろう。それはそれで後味が悪い。窃盗や暴行には遭わないだろうが、熱中症になる可能性が高い。ただでさえ男の身体からは汗が止め処なく噴き出しているのだ。まず間違いない。
重く肥えた男の身体を持ち上げると、交番にでも放り出すことにした。
と、この村に駐在する警官がいるのかと首を傾げた。
次々に出来上がっていく荷物の山を眺めて、博識は汗を拭った。
荷物の多さに対して、進み具合は順調だった。連れてきた友人が担当していた部屋は散らかり放題。あとでまとめてやろうとしたのだろう。タンスの戸は開いたままで、荷物を出すだけ出してあとは放置されていた。部屋荒しが一仕事終えたような有様だ。
そんな部屋の有様を見て断然やる気を出したのがアヤツである。
見てられない。仕方ない。大丈夫ですよ。一人でやりますから。
よし、と可愛く気合を入れると彼女は一時間と掛からずに終えてしまった。その間、別の部屋で作業していた博識だったが、様子を見に行こうとする前に戻って来られたので呆気に取られたほどだ。
片付けは思いのほか早く終わりそうだ。
「おーい。誰かいないのかー?」
「また客?」
声がした玄関へ博識は向かう。
すでに戸は開けられ、老人が一人荷を降ろして座っていた。今朝もだったが、この村の住人は人様の敷地を勝手に跨ぐことに躊躇いがない。鍵を掛けなかったのも要因の一つだが、それがさも当たり前とされている。
そしておそらく、ここを訪れた理由も同じだろう。
「爺さん、また来たの?」
おお、と声を上げた老人はパンと膝を打つと立ち上がった。
「坊主、元気にやってるか? ほれ、どうせまた昼に食うものがないだろうと思って、うちの畑で取れたのをな」
パンパンと二度、今度は様々な野菜が溢れるほど入った篭を叩いた。
「またこんなに。助かることは助かるけど、爺さんたちはそれで大丈夫ですか? 別けて実は家の食料が少なくなってますなんてことはないだろうな」
「そんなわけあるかい。今年は収穫がよくての。どうやっても残ってしまうのでな」
「だからってなぁ」
眼が覚め、何を食べようかと困っていた早朝。
突然やってきた老人たちの手にも野菜が積まれていた。ナスにトマトにキュウリ、さらにはとうもろこしまで。朝食といわず昼食夕飯そしてまた朝食。二日ぐらいなら余裕で越せられるほどの量が手渡された。
――うちにはまだあるから。
――有り余ってるくらいだ。
――遠くから来て食べるものなんてないんだろ。
――遠慮するなって。
――どうせ余るんだからあんた達に食べてもらったほうが作り甲斐があるってもんだよ。
そう次々と置いていったこともあり、家には十分過ぎる量が残っている。
「気にするな」
またこの言葉である。
他意のない素朴な笑みに、断るのも申し訳なってしまう表情に困惑するばかりで頬を描いた。
「それともあれか? 飯を作ってくれる女の子すらいないのか最近の若い子は」
と思いきや、口元を意地悪そうに歪めた。
ほのぼのと会話していたのに急にからかいだしたり、妙な方向に進んだりする。同年代の仲間内でよく起きることだが、年配の人はそのあたり容赦がないようだ。
「そういや、あの巫女さんは来んのか? 最初は男二人って話だったのに、朝になったら女の子まで連れてきて。しかも巫女さんの格好までさせて、兄ちゃんはそういう趣味なのか? いやはや、久々に若い女の子を見たもんだ。眼福眼福」
「なに言ってるんだこの爺さん? アヤツは山奥の神社に住んでるんだから巫女服も当然だろうし、久々も何もないだろ?」
「アヤツっていうのかあの巫女ちゃん……え?」
「え?」
そして二人して首を傾げる。
ああ、と先に間違いに気付いたのは博識だ。
見た目が人そのものであるアヤツだが、正体は精霊だと大貴は言っていた。実体化したのは昨晩から今朝にかけてであるため、そのことを知っているのは二人だけで、村民が知らないのは当然である。
「アヤツは神社に祭ってる神様か精霊で、それが肉体を持ったようなもので、だからどこから来たとかじゃなくて――」
「坊主、あの神社に行ったのか? で、そこにあの巫女さんがいたのか?」
老人は目を細め、打って変わった険しい表情で博識を睨みつけた。
「あ、ああ。実際は彼女から聞いた話で、実際にいたとこを見たわけじゃないけど。それと行ったというか、迷い込んだというか」
怒気が入ってるのはではないかと思わせるほど低い声に気圧されてると、老人は数秒目を閉じてからそのまま続けた。
「あんな神社に神様なんて奉ってない。なにも奉ってない。あそこには何も誰も祭ってないし、誰もいない。いいな、いいか。もう廃れたんだアレは」
頷くしかなった。
陽気そうだった老人の鬼気迫る演技では済まされない迫力もさることながら、どこか触れてはいけないことのように感じた。
しかし、博識は妙なことが引っ掛かっていた。
博識の平凡な願いが、神社に奉られていたナニかをアヤツを形作った。それは今朝の大貴との会話で分かっている。
だが、あの神社には何も奉っていないという。
この矛盾。
有るとしたものは、その実、無いものだった。
ならば彼女は何を素にして生まれたのか。
思考を回しても、気圧されてぼんやりとした脳では何も答えは出てこない。もっとも、一般的な知識と持ってごく普通の生活を送っている博識には無理な話である。
「ああ、いたいた!」
そこで思考は止められた。
玄関に別の老人が飛び込んできたからだ。
「滋郎さん、どうしたんだ」
「駐在さんとこが血塗れで、兄ちゃんの友達が巻き込まれたって……!」
息も絶え絶えに走ってきた細身の老人が、膝に手を置いてそう言った。
説明 | ||
博識とアヤツによる妙な桃色ピンク臭に耐え切れず、手伝いを放り出して脱出した大貴は、ナニを思い立ったか友人が迷い込んだという神社に向かった。しかし、そこで待っていたものは――。 | ||
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