狙撃 |
バブル期に立てられたであろう築二十年強の雑居ビルの屋上の縁に短い金髪の男がうつ伏せになって、狙撃銃を構えていた。
その男、波城は殺し屋であった。狙撃による殺しを得意とし、それによって生計を立てており、その界隈ではそれなりに名の売れた人間であった。
彼はスコープを覗いてレンズの向うに標的、桐野という男の部屋の窓を捉える。がしかし、カーテンで遮られていた。
今日は日曜であるため桐野の仕事場は休みである。さらに無趣味といえる人間らしく賭け事はしないし、パチンコもしない。そのため朝から部屋を出た形跡はない。
じっと構えて、カーテンの向うにある人の気配を波城は探った。
状況からして間違いなくいるはずだ。そう確信を持ちつつ、その体制のまま三十分経過したころであろうか、なんと桐野の方からカーテンを開き、窓を開けたのだ。
額から伝い頬を流れる汗にさえ意識の外に置いて、波城は息を止めた。周りの喧騒は遠ざかり、世界には自分と相手の二人だけとなる。
これ以上ないチャンスである。恋人もいない一人暮らしの桐野が発見されるまで少なくとも月曜となるだろう。
波城は確実にしっかりと引き金を引こうとした。しかし、その時どういうタイミングだろうか、頭上から鳩が糞を落としてきた。その糞は波城の頭へと直撃した。
こんな体験をしたのは彼は始めてであった。そうであるが故に、彼の研ぎ澄まされた集中は有耶無耶になってしまった。
「クソッ」
定まった狙いが揺れ動き、タイミングを見失う。ついには桐野が窓の向こうへ姿を消してしまうことを許してしまった。
舌打ちをしながら、スコープから目を離し、ハンカチを取り出して頭の糞を払った。洗面上に行きたいと思ったが、次のチャンスがまたいつ巡ってくるかわからない上に、ビルの人間に顔を覚えられたら冗談ではすまない。
なんと幸先の悪い仕事だろうか。幸先が悪いという意味では、そもそもの依頼の時点から言いものではなかったかもしれない。彼はそう思いながら、一呼吸置いて、波城は再び元の狙撃姿勢へと戻った。
都内の高級ホテルの一室。中には三人の男がいた。一人は波城であり、二人掛けのソファーにどかりとすわり込んでいる。その対面には机を挟んで、黒と白がない交ぜになった初老すぎの男が一人用のソファーに足を組んで座り、その横に髪を短く刈り込んだ男が微動にせず立っていた。
「波城さん、でしたかな。来て頂いて早々なのですが、依頼についてよろしいでしょうかな」
初老の男は波城を正面に見据えて言った。
「話が早くてありがたいですね知名さん。それで依頼……標的は誰です?」
波城は見据えられた目を見返し答える。物怖じしない態度とそもそもの座り方も気に食わなかったのか、立っている男が首を動かさずに波城を睨む。が「後藤、構わんよ」知名は後藤の様子を見もせず知覚したように即座に言ってのけた。
波城は、二人は相当な付き合いのようだと感じながら知名の言葉を待った。
「標的は、この桐野という男だ」
そう言いながら彼はスッと写真を机の上に置いた。写真には髪の短い二十歳そこそこの若い男のバストアップ姿が映っていた。
「なんで、この男を?」
波城には、何の変哲もないただの男にしか見えなかった。だからこそ眉をひそめて尋ねた。
彼が今までその標的にしてきたのは、財界や暴力団、何かしら重要なポストに付いた人間ばかりであり、こんな見るからに普通の男を相手にするのは初めてで不可思議に思えたのだ。
知名はふっと笑って「殺し屋が、人を殺すのに依頼以上の理由がいるのかね?」と顎を上げていう。
頭の位置はそう変わらないはずなのだが、波城は高所から見下ろされるような感覚を味わった。
「ごもっともです」
そしてそれ以上の言葉を何故かひねり出すことが出来なかった。
交渉は数分で終わり、部屋を後にした波城は地下においていた車の中にいた。あの後、彼は知名のペースに乗せられる形で依頼を引き受けた。元々断る理由もなかったのだが、得体の知れなさに圧倒されてしまった感もある。そしてその標的に対しては信じられない額の依頼料と、さらに高額の前金が支払われたことも引き受ける要因であった。
しかし、何であっても引き受けた以上は全力を出すつもりだった。標的である桐野の経歴から居場所、行動パターンなど、ほとんどあの後藤という男が調べ上げていたようで、後は最適のポイントを見つけて、引き金を引けばそれで終わりであるが、波城はこんなに疑問を感じられる依頼を受けたのは初めてのため、どこかに戸惑いがあった。
こんなにもいたせりつくせりであるのに対して、その標的はなんでもない男は不思議でしかない。
なんでもない男であるのは後藤が調べたデータから見て明らかだ。非正規雇用の派遣社員、それが桐野という男だった。
だが、むしろなんでもない男だからこそガードが甘く身辺調査が楽だという考え方もできるが、それでは報酬が高すぎる。
これまでも隠された部分の多い依頼はなくはなかったが、こうも腑に落ちないと自分自身が試されているような気さえしてくるのであった。
だが、そんなことを気にしていても依頼は完遂できない。今は依頼に専念する。波城はそう自分に言い聞かせて、エンジンをスタートさせ車を発進させた。
「なんなんだこりゃあ……」
波城は思わずそう零した。彼は何度となく狙撃のチャンスを得て、その度に引き金を引こうとしたのだが、その度に鳥が遮り、ゴキブリ服の裾に入り、くしゃみなどの生理現象が襲ってきたのだ。
単なる偶然とは思えない。しかし、鳥や虫、あまつさえ己の生理現象に手を出せるものなどこの世にいるはずがない。
不気味を通り越して、意味不明の恐怖が波城の心に湧いてくる。
だが前金を受け取っており、またこれが生業である以上、波城は依頼を完遂させなければなかった。そうでなければ自分のスナイパーとしての名誉が損なわれてしまう。
故に波城は再びやってくるだろうチャンスに全てを集中させることにした。
そしてチャンスはすぐに巡ってくる。さらに気を引き締めて、引き金を引こうとする。極限まで高められた集中力が何か微細な空気の揺れを感じ取った。だが、やめるという言葉はなかった。そして彼は引き金を引いた。それと同時に大地が揺れた。
地震がそのビルを、桐野のアパートを揺らした。
波城は息を飲んで窓の向こうの標的を見た。バランスを崩して尻餅をついたようだが、ピンピンとしている様子だ。
だが波城はそれもチャンスと捉えた。尻餅をついているということは動きは止まっているも同然だからだ。弾を装填して再び引き金を引く。だが、標的は同時に上体を下げた。
刹那、波城の横で何かが弾けた。波城はどこか愕然とした表情で、その弾けた何かを見た。
穿たれたコンクリートにこびり付いているのは、明らかに自身が使ったライフルの弾丸と同じ口径のものだ。
そうそれは超奇跡的に兆弾し、跳ね返ってきた波城の銃弾であった。波城は理解に苦しんだ。まるで、次に放った銃弾は自分に返ってくるぞと言われているような気がした。
バタン。勢い良く車のドアが閉められた。波城はライフルを納めたトランクケースを後部席に投げ入れると有料パーキングから車を発進させた。
「意味わからねえよこんなの」
悲鳴にも近い言葉を口走りながら道路に出る。彼はもう仕事の続行を諦めたのだ。高額な前金ごと依頼は付き返すつもりだった。無理なら自分から金を積んででもやめる覚悟だった。
波城は早くこの場を離れたい思いに駆られ、アクセルを気持ち強く踏んでいた。
数十メートル先の信号が赤から青に変わり、さらにアクセルを強く踏む。交差点に差し掛かったそのときである。目の前を猫が走った。反射的にハンドルを切る。左に大きく逸れた車の先には、先ほどまで良く見ていた一人の男と、なんとそれを轢きそうになっている軽自動車がいた。
ガシャンと大きな音を立てて、波城の車は軽自動車にぶつかった。
意識は一瞬途切れたものの、直に回復し、波城は体の節々に痛みを感じながら広がったエアバックから顔を上げた。
目の前にあるのは、前部分がひしゃげた自分の車と、形の崩れた軽自動車があり、その近くには無傷の桐野が立っていた。状況が飲み込めないらしく呆然としている。
殺そうとした男を助けてしまったのか。いや違う。恐らく、この男は死なないのだ。絶対に。そして知名は試したのだ。この俺を使って本当にこの男が死なないかどうかを試したのだ。試されているという考えは間違いではなかったのだ。いったい知名とはなんなのだ。いやそんなことはどうでもいい。もう関わりたくない。早くこの場から逃げ出したい。
波城はそう思いながら車から這い出て、痛む体を押しながら車から離れようとした。
その時、なんと漏れ出していたガソリンが千切れた配線から出ていたスパークによって引火し、勢い良く燃え始めた。
それに気が付いた波城は立ち止まり、振り返った。痛みに思考を邪魔されながら、一つのことを思い出した。銃を仕舞ったトランクケース。そしてその中にまだ弾丸が残っている。熱で暴発したら冗談ではすまない。むしろ事故で暴発しなかったのは幸運か。そんなことが彼の頭に過ぎりつつ、早く回収せねばと体を引き摺るように車へと戻った。しかし、そのとき弾丸は暴発し、トランクケースを突き抜け波城の額を貫いた。即死である。
そしてその弾道はもし波城がトランクケースへ向わなければ桐野に一直線へ向う弾道を描いていた。
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練習作。どこかで見た聞いたような話ですが、その通りです。 | ||
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