恋姫†無双 外史『無銘伝』第9話 前編
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 孫策伝 死生の旗色

 

 

 その日、俺はまた夢を見た。

 あの悪夢ではなく、また、あの悪夢へと繋がるのかどうかもわからない夢だった。

 けれど。

 色だけは、あの悪夢と同じだった。

 ――真っ赤に、ただただ真っ赤に染まった視界。

 血。

 血だ。

 自分の血じゃない。

 誰かの鮮血。

 それを浴びて、俺は座り込んでいた。

 それは、俺が斬り捨てた敵の血だったのか……それとも。

「……っ、か……、一刀……っ」

 俺の目の前に、一人の女性が倒れていた。

 彼女の体もまた真っ赤に染まっていて――

「雪蓮……っ」

 俺は、彼女の体を抱え起し、抱き寄せた。

 ボロボロで傷だらけの彼女を、治療できる場所へ運ぼうと動きだした瞬間、彼女の小さな声が、悲しく、響いた。

 もう、いいわ、と。

 そして雪蓮は、最後の力で、声を絞り出した。

「あ、あの子を…………お願い……!」

 言葉の端に血を滲ませ、雪蓮が俺に縋りつく。

 力無く、俺の腕をつかみ、声を震わせて……。

「……もう……あなたしか……、頼める人がいないの……っ!」

 咳き込み息を詰まらせながら、それでも言葉を止めずに続ける。

「蓮華は……まだ……、ひとりにできない……あの子は……」

 そして彼女は、愛しい妹の、君主として足らないところを挙げていった。

 多くは、優しさや、思慮の深さ、情の厚さの裏面としての、欠点だった。

「……まだ……あの子は、人のどうしようもなく暗い面を知らないから……、このままだと……まわりを守ることしか、できなくなる……」

 そう言って、気丈な彼女が、つぅっ、と涙をこぼした。

「っ……大丈夫だ」

 孫策の紅涙に胸を締め付けられて、俺は彼女の手を握り、誓う。

「俺が、支えてみせる。呉も、蓮華も……」

 ずしり、と何か重い物が肩に乗った気がした。それは雪蓮が今まで背負っていたものだったのだろうか。つぶれないように、大きく息をついて、呼吸をととのえる。

 苦しかった。

 背中の重圧だけじゃない。体の奥からわき上がる怒りや哀しみの感情が、そこかしこから溢れ出ようとしていて、じっとしているのがつらかった。

 ――なのに。

 涙が出てくれなかった。

 夢の中の俺は、もしかしたら、壊れてしまっているのかもしれなかった。

「…………ありがとう……一刀」

 その遺言を最後に、彼女は小覇王ではなくなった。

 ただ一人の女性として、俺の腕の中にいた。

「雪蓮……」

 強く彼女をかき抱いた。

 力をこめたら壊れてしまいそうな彼女の体が悲しかった。

「もう少しだけ、一緒に………」

 最後の希望が口からこぼれる。

 手を重ね、肌を重ね、頷く。

 今、2人の心は一つだった。

 なのに、体だけが、ずれて、離れていこうとしている。

 一方は熱く……一方は冷たく。

 そして。

 雪蓮の体から全ての力が失われたとき、俺の体は、炎のような熱を発した。

「っっ、ああああああああああ!!!」

 激情が四肢を突き動かし、俺は、彼女の亡骸を傍らに、咆哮した。

 血にまみれた赤い世界からの出口を求めて空を見上げても、そこには同じ色の黄昏があるだけだった。

 血の赤よりは優しい茜色ではあったが、そこに何の救いもなかった。

 だから俺は叫び続けた。

 悪夢が、終わるまで。

 

 

「ああああああああっっ!!!」

 俺はベッドから跳ね起きた。

「っ!! はっ、……はっ、はぁ……! はぁああああっ」

 肩で息をしながら、左右を見て、現状を把握すると、長く口から息を吐いた。

「ゆ、夢……か」

 ほっとした。

「今までで一番……きつかったな」

 顔も名前もわからない女の子を自分の手で殺してしまう、あの悪夢。

 その夢へと続く、大切な人たちと敵味方に分かれて、争い、戦ってしまう悪夢。

 そして今日の夢は……。

「雪蓮……」

 ぎゅっ、と布団の端を握る。

 初めて、親しい人の死を間近に見た。

「……と、今更……涙が……」

 夢の中では最後まで出ようとしなかった悲涙が流れた。

 少しの間、俺は、目を閉じ、静かに泣いた。

 袖で涙を拭う。涙は、熱かった。

 堅い寝台から抜け出して、身支度を調える。

 部屋を出ようとした時、背中に、夢の中の自分の叫びが、届いた気がした。

「……わかったよ」

 泣けなかった俺のかわりに。

 救えなかった俺のかわりに。

「今度こそ、雪蓮を死なせたりしない――!」

 無銘刀を手に、部屋を出る。

 

 

 部屋を出た時、外はまだ暗く、夜に近かった。

「あ、ご主人様……!」

 朱里が燭を手に廊下を横切り、俺の前に歩み寄ってきた。

「ちょうど起こしに行こうと思ってたのですが」

「ああ。そろそろ時間だよね。こんなに早い時間に動き出すなんて……孫策らしいな」

 今俺たちのいる場所は、荊州の樊城だ。

 昨日この城を孫呉が開城させ、今日は、長江の支流である漢水を渡った先にある、劉表の本拠地、襄陽を包囲する予定になっている。

「夜に近ければ、渡河も妨害されにくいということでしょうね」

「気持ちとしては、昨日の夜の内に襄陽を攻撃したかったんだろうけど」

「さすがに、それでは兵士達がもちませんから……」

「だよね……この時間でも、眠くてつらいし」

 あの夢が無ければ、まだ俺は寝ていただろう。

「河を渡れば完全な敵地です。孫策さんの護衛も重要ですが、どうかご主人様もお気をつけて」

「ああ」

 自分が死んだら元も子もないもんな。

 朱里と一緒に北郷軍の営所に入る。

「葉雄、桔梗、準備はできた?」

 俺たちより先に来ていた2人の武将に声を掛ける。

「ああ。兵一人一人はともかく、私は暖まっているぞ」

 と、葉雄が戦斧を肩に担ぐ。

「こちらも十分。なあに、兵士どもは渡河する時には嫌でも目を覚ましましょう」

 厳顔が、豪天砲を背負い、頷く。

「じゃあ、行こうか……俺たちの背後は公孫越が守ってくれるんだっけ?」

「はい。武装が重すぎて小舸では運びきれないそうで……」

「…………なるほど」

 公孫越は、白蓮――公孫賛の従妹にあたる少女だ。

 なにやら最近、護衛任務に目覚めたらしく、部下にまで重武装させて要塞の如き部隊を指揮している。

「でも、なんで、小さな船で行くんだろうね?」

「大型船をまだ用意できていないということもありますが、高速の船で一気に渡るほうが、危険度が低いからではないでしょうか」

「ふうん……そっか。快適な船旅とはいかないみたいだね」

 その俺の言葉通り、渡河は激しいものとなった。

 確かに敵には見つからなかったが、孫呉が用意した漕手たちの操船が荒々しすぎて、対岸にたどりつくまでに、俺たちはヘロヘロになってしまっていた。

「うっ……ぷ、は、吐きそ……」

「め、目の前がぐるぐるします……」

「………………っ、うぇ」

 俺、朱里、葉雄はダウン気味。

「お館様っ! 早く御命令を! 敵に補足されますぞ!」

 厳顔は元気。

「くっ……と、とにかく陣をととのえて……」

 なんとか立ち上がる。

「軍馬や兵糧がまだ輸送できてないから、しばらくここを堅守しないと」

 例え馬が同時に着いていたとしても、今騎乗することは出来ないだろうが。

「孫呉の軍とだいぶ離れちゃったかな……?」

「周囲の地形から考えて、予定した上陸地点から東に数里離れてしまったようです」

「そっか……」

 地勢図が頭に入っているところは、さすが孔明だと思った。

「伝令っ! 付近の林道に哨戒中と思われる敵兵数十を確認っ!!」

「っ! ……桔梗さん……! 動ける兵をまとめて前へ!」

 朱里が青ざめた表情のまま指示を飛ばす。

「心得たっ!」

 厳顔が動く。

 今即応できる兵は千前後だった。

「槍を地面に固定! 柵を作って下さい! 動きの鈍い兵士さんたちは崖の陰に!」

 今俺たちがいる場所は陸地が扇状になっていて、その円弧が川に接している。左右は崖になっていて、扇の要に当たるところから林へと道が続いている。

「まずは林道の入り口で迎撃か……」

 嘔吐きそうな胸を押さえて、どうにか頭を働かせる。

「はい。敵の第一陣は、とりあえず凌げると思います……ただ」

「なにか問題が?」

「第二陣がどの程度の規模で、どのように動くかが、問題になると思います。もしかしたら、上陸地点を変えた方がいいかも……」

「予定していた場所が近いなら、俺たちは陸からいったほうがいいと思うよ」

「…………それはそうですね」

 吐いたりするところご主人様に見られたくないし……、と朱里は小さく呟いた。

「敵部隊接近中! 数は約百!」

「俺たちの十分の一か……良し、半包囲してこれを叩くぞ!」

「御意っ!」

 林道への入り口、敵から見れば出口を囲むように展開する。

 軍靴、馬蹄の音が響きわたる。

 軍と軍が相対し、接触の時が来る。

「兵ども、構えよ! 豪天砲の一撃に続き、十字斉射! 狙いは騎馬に絞れ!」

 敵の先頭が顔を見せ、包囲のただ中に入った瞬間、大音が轟いた。

「とくと味わえっ!!」

 厳顔が構えた兵器、豪天砲がうなりを上げ、巨大な杭を発射する。

 それが悲鳴と共に敵部隊の前衛を薙いだとほぼ同時に、

「撃てっ!!」

 北郷軍の弓兵が射撃を開始した。

「ぐわっ!」

「ひぃっ!!」

 悲鳴が上がり、敵部隊の動きが止まる。

 矢の一群をなんとかかいくぐってきた騎兵も、柵に足を止められ、討ち取られる。

 そして騎兵がほぼ姿を消した段階で、

「歩兵の皆さんっ! 目の前の柵を引き抜き、前進して下さい!」

 待機していた歩兵達が攻勢に入る。

 馬の前進を阻む拒馬柵を抜いて、歩兵が崩れた敵の陣を波濤のように襲う。

 敵の足並みがバラバラだったこともあって、じりじりと敵が後退をはじめる。

「後退する敵は弓で撃つだけにして下さい! 追撃は厳禁ですっ!」

 敵が背中を見せて逃げるに至り、追い撃つ構えを見せる兵を朱里がとどめる。

「細作をまわして敵部隊の動きを監視、また前進してくるようならこの場でもう一度迎撃すれば良いですが……もし、さらに後退するようなら」

「後退するなら?」

「林を迂回して崖の上から来るかもしれません。上をとられると、さすがに無傷では済まないでしょう」

 岸の両側に広がる崖は、降るのはともかく登るのは難しい傾斜になっている。

「やはり、船に戻って別のところから孫策軍に合流するべきでしょうか……?」

 朱里がちら、と俺を見る。

「うーん……また船に乗せると、戦う前に皆消耗しちゃいそうだな……」

 と、思案していると伝令が届いた。

「敵兵はさらに後退するようです!」

「林の出口から先へは追わないように伝えてください。平野が開けすぎていて隠れての追跡は不可能です」

 細作の追跡任務をキャンセルし、孔明が俺の指示を待つ。

「ううん……兵を選りすぐって、追ってみようか」

「では、ここを確保しておく部隊と、追撃する部隊に分けます」

 上陸した部隊、船酔いから回復した兵たちから選り抜く。

 揚陸地点を維持する部隊を率いるのは厳顔に任せた。

 崖上をとられたとしても、弓部隊である程度反撃が可能だからだ。

 追撃部隊は、俺と朱里、そして――

「……ようやく復活したぞ」

 まだ少し顔色が悪いが、戦闘不能から復帰した葉雄だ。

 3人を中心に、精鋭部隊が林道に突入する。

 ぐねぐねと捻くれた道を進むと、やがて樹の列が少なくなってきた。

「出口が見えました! 後方旗色よし、敵は崖上には来ていないようです」

 林を進むにあたり、連絡部隊を後方要所に配置し、厳顔たちの状況を伝えられるようにしていた。

「あっちには騎兵がいるのに、まだ回り込まれていないってことは……敵は正面から戦おうとしているのかな?」

「……そうですね。だとしたら、こちらの数を見誤っているのでしょう。先程の戦いでは、具合の悪い兵を隠していましたから」

「あっちの数はどれぐらいかな?」

「千に届かない程度ではないかと思います」

 朱里は即答した。そして、少し眉をひそめた。

「もし、それ以上の兵力なら、こちらの揚陸地点を読んで動いているとしか考えられません」

「それが可能な将は劉表軍にいるの?」

「文官が多い勢力ですから、細かい地勢を知悉している武官がいるかどうか……」

 朱里が語尾を濁して、言葉の陰を濃くした時、

「敵影が見えましたっ!!」

 林が途切れ、目の前に広大な平野が出現した。

 そして、その平野に布陣し、待ち構える敵軍の姿――。

「!!?」

「っ!?」

 俺たちは息を呑んだ。

 敵は、まるで今通り抜けた林の木のように、ぐるりと俺たちを囲んでいた。

 その数、約三千――

 

「ようこそ、我が縄張りへ」

 迎撃部隊を率いる将、劉磐が唇に笑みを浮かべた。

 

「敵騎兵部隊接近!!」

「ちっ、おい、こっちはまだ陣列が縦に伸びてて隙だらけだぞ!」

 葉雄が舌打ちする。

「後退すれば背中を突かれるし、柵を築く時間がない……! どうする!? 朱里!」

「……葉雄さん! 例のアレをばら撒いて時間を稼いで下さい!」

 刹那の間に孔明は作戦を決め、命を発した。

「アレか……! 了解だ! 鹵獲した馬を借りていくぞ!」

 葉雄が、前戦で捕まえた馬に兵を乗せて、駆けていく。

「アレって?」

 俺が首を傾げると、

「これです」

 と、朱里は何かを取り出し、手のひらに載せてこちらに示した。

「これは……なるほど」

 俺はそれを見て、すぐに得心した。

「放てっ!」

 葉雄が叫び、投擲する。

 黒い影が幾筋も放物線を描き飛んでいくが、敵に届くことはなく、むなしく地面に落ち、転がった。

 しかし、それで良かったのだ。

 それらは敵に直接ぶつける武器ではなく、地にばらまかれてこそ意味があるものだからだ。

「!? ちっ! 止まれ!!」

 こちらの意図に気づいた劉磐が部隊の突貫を制止するが、前曲が減速しきれず、危険地帯に踏み込んでしまう。

「ぐおっ!!?」

 馬の脚がくずおれ、馬上の兵達が振り落とされる。

「おのれ小癪なものを……!」

 劉磐は舌打ちした。

 葉雄が大地にばらまいたものは、鋭利な突起が大量についた鉄製の球だった。

「マキビシか」

 俺は孔明が示した現物を受け取り、トゲをつまんで持ち上げた。

「ご主人様の世界にもあるのですか?」

「実物は見たこと無いけどね。時間稼ぎにはなるのかな?」

「はい。回り込むか掃討するか……さすがに踏み越えては来ないかと――」

 

「雄魂と鉄脚を持つ者のみ突撃しろっ!!」

 

 叫声とともに、その劉磐が先陣を切って茨の道へと突入した。

「な!?」

 多くマキビシをばらまいたとはいえ、隙間はある。あるが、徒歩でなければ避けるのは難しく、馬の脚が触れれば棘の上に落馬する可能性が高い。

 その荊棘の道を、劉磐は構わず駆ける。

「うおおおおおおっ!! 姐御に続けぇえ!!」

 そしてその猪突猛進に突き動かされて、旗下の兵達が突撃を開始する。

 その無謀に、多くの者は崩れ頽れ倒れるが、それでもなお突進は止まらない。先頭をゆく劉磐がいる限り!

「くっ……! まずいぞ、本陣に届く……!」

 マキビシ工作を終えて反転した葉雄は、咄嗟に本陣へと馬首を向けるが、間に合わない。

「ご主人様!」

 俺はまっしぐらに駆けてくる敵将の姿を見て、朱里を背中に、盾持ちの兵を集めた。

「朱里は一旦引いて後方指揮を! 俺は葉雄が戻るまで守るから!」

 考えている暇はない。

 もう目の前に敵の姿が――

「はぁ!!」

 頭上から襲ってくる殺気に、慌てて体をずらす。

 すぐ近くを巨大な質量が通過した。

 敵将が乗った馬による突進と、武器による一閃をギリギリでかわした。

 錘。棒の先に球形の重りを付けた、いわゆるメイスと同種の打撃武器だ。

 一発目を回避できた安堵に冷や汗を感じる間もなく、

「ふっ!」

 すれ違いざまに二撃目、狙いは俺の背中!

「北郷さま!!」

 周りを固めていた護衛たちが盾を構えて割って入り、メイスの打撃を受け止める。

「ぐわっ!?」

「うおっ!?」

 しかし、その護衛ごと吹っ飛ばされ、地面に転がされる。

「っ……つぅ、みんな! 固まらずに動き回るんだ!」

 急いで立ち上がり、周りにいる転んだ兵たちを支えおこす。

 その隙に劉磐を追ってきた手下たちが迫ってくる。

「大将を守れっ!!」

 こっちの兵も俺の周りに集まってくる。

「だあああああっ!!」

「っ、うおおおおおっ!!」

 あちらは馬上から一方的に攻撃を加え、こちらはただただ防御し、受け流す。

 馬群をいなし、負傷者を逃がし、隊列を組み直す。

 騎兵と歩兵、最初の激突が終わり、次の交差に向けて、それぞれが戦列を整える時間が流れる。

 そして、俺は敵の将の顔を初めて視界の中央にとらえた。

 煌めく銀色の髪と、黒い甲冑。

 長身痩躯は馬上にあって一際凛々しく、茨の道をくぐり抜けた精兵を背に、堂々としているその少女。

「旗印は劉か……正直、劉表の部下ってよく知らないんだよな……」

 俺のそのつぶやきが聞こえたはずもないが、少女が錘を掲げ、声を上げる。

「私の名は劉磐。その旗印、同族の劉氏とお見受けする。こちらに従うなら、将兵全ての命を保証するぞ」

 後ろの兵達がざわめく。

 それはそうだ。強襲にたじろいだとはいえ、突破してきたのは百前後。

 数ではこちらが上回っているのだ。

 それでも、あっちは優勢だと確信している。

(でも、たしかにこのままだと危険かも。あっちがマキビシを迂回している間に態勢をととのえるはずが、それができなくなってる……。迂回してくる敵も、葉雄のいる側は防げるかもしれないけど、逆側は……朱里がどうにかしてくれるのを期待するしかない)

「……残念ながら、ここに劉備はいないんだ」

「ふむ。では、噂の北郷とかいう天の御使いか……なるほど、たしかに奇抜な恰好――?」

 と、劉磐が俺をまじまじと見る。

 彼女も俺を初めてまともに視認したのか、物珍しそうな目でこちらを眺めている。

 今日の俺は、例のフランチェスカの制服を着ている。見たこともない素材、デザインの服装がよほど目新しいのだろう。

 それこそ珍獣を見る目で……という割には、目がキラキラしているような?

「………………か、っ……!」

「?」

 劉磐の口が動いたのは見えたが、何を言ったかは聞こえなかった。

 

「……カッコイイっ……!」

「あ、姐御!?」

 周りの腹心たちがざわつく。

「あの服……っ」」

「あ、服っすか……おどかさないで下さいよ……」

 手下連中の声も聞こえないのか、じっと一刀を見つめる劉磐。

「お頭の言葉で言うなら、いかしてる……」

 ぽうっと、目には光を頬には赤みを浮かべて、年相応の少女に戻る劉磐。

「姐御っ、左翼別働隊が迂回攻勢の合図出してますぜっ!」

「敵の弓隊が後ろに集まってるようですっ、そろそろ動かないと押し返されますっ!」

「っ、駄目だ! 姐御がこれじゃ敵将の首はとれねぇ! お前ら! いざとなったら姐御を抱えて逃げろっ!」

 

「なんだかよくわかんないけど、敵が動かないぞ?」

 敵将がなんの動きも見せなくなった。

「と、とにかく今の内に態勢を……」

「そうだね。じゃあみんな、あまり密集しない形で布陣! 敵が来たら受けるんじゃなくていなすように防御を!」

「了解です。では、北郷さまは後ろに下がって下さい。前に出ては護衛のために固まらざるを得ません」

「わかった……と、なると、この服も脱いでおくか、目立つもんな……」

 後方へ下がりながら、服を脱ぐ。

 一応、鎖帷子を着込んではいたが、やっぱりちゃんと防具を着けた方が良さそうだな、と思った。

 いくらフランチェスカの制服が象徴として有用だとしても、いざというとき危ないし。

「敵軍、再び動き出しました!」

「東より葉雄将軍の部隊が接近中!」

 凶報と吉報が同時に来た。

「よし、敵を東側に受け流す! 葉雄の部隊と挟み撃ちにするぞ!」

 歩兵部隊を動かし、敵騎兵の突進を横から押し、葉雄隊と挟撃する。

「っおおお!」

 盾を壁に、騎馬の腹を体を使って押し出す。

「雑兵が、調子に、のるなっ!」

 体勢を崩されかけていた劉磐がメイスで横殴りに振る。

 木製の盾はその衝撃を受けきれず、まっぷたつに破壊される。

「盾を壊された兵は弓隊のところへ! 盾隊は一息以上押し続けないで、敵の呼吸にあわせるんだ!」

「ぐっ、この……っ!」

 力任せに叩き潰そうとする騎兵に、歩兵は細かな動きで対応する。

 そこに、

「葉雄隊! 敵をかきまわせ!」

 今まで一方的にこちらを攻撃していた敵に、葉雄が横槍を入れる。

 

「ちっ……! こっちが見とれている間に……!」

 劉磐は歯がみし、一方に攻撃を加え、一方の攻撃を受ける。

「この様子だと、右翼……東側の迂回部隊はかなり大回りになってしまっているのか……だが、西の迂回部隊がそろそろ……いや」

 と劉磐が西の方を見る。

 北郷、劉備軍の旗翻る空の奥のほうに、特徴的な旗がぽつんと立っていた。

 『天上天下唯我独尊』という文字を意匠化した背景に、黄。

 その一字に、劉磐は再び笑みを浮かべた。

 

「て、敵の援軍が西から現れました!」

「マキビシを迂回してきた部隊じゃないのか!?」

「旗印は黄! 急速接近中です!」

「黄祖の軍!? よりにもよってこんな時に……!」

 やはり渡河地点を予測していた、ということか。

「……くっ、何にしても、これじゃ俺たちが挟まれる……!」

 状況的には、東側から順に、葉雄、劉磐、俺、黄祖という状態。北側には孔明指揮する弓隊。南側はマキビシ地帯だ。

 騎馬が乏しいことを考えると、攻撃力に欠け、じり貧になるのはこっちだ。

「……」

 俺は抜刀し、窮境を間近にして、こちらも覚悟を決めるか、と、どこか冷静に思考していた。

「北郷さま?」

 傍らの兵たちが心配そうに、いや、不安そうにこちらをみている。

 はっきりいって、今俺たちは大ピンチだ。

 不意の遭遇、対症療法じみた作戦の失敗、敵の援軍。

 兵たちが不安に思うのは当たり前だろう。

 (こんな状態で、戦えないか。俺一人が覚悟すれば戦えるってわけじゃないんだから……)

 俺は、刀を握る手の力を緩めた。

「弓隊のところへ転進する! でも、背中は見せちゃだめだ。盾をかまえたまま、斜めに後退!」

 俺の命令に、兵たちのあいだに安堵した空気が流れた。

(そうだよな。たった一人戦意をもって戦いに挑んだとして、兵士がそんな簡単についてくるわけがない。それこそ、あの敵……劉磐みたいな豪勇をもった英雄でない限り……)

 でも、俺は、そんな奴にならなきゃならないんじゃないか?

 脳裏に、夢の中の、軍を率いる俺自身の姿が浮かんだ。

「北郷さま! 弓隊に接触します! 陣立てはどういたしますか?」

「それは孔明に…………あれ? 孔明はどこにいるんだ?」

 見当たらなかった。

 いくら朱里が小柄でも、部隊を指揮している人間がいる方向はなんとなくわかるものだが、まったく感じられない。孔明ほどの軍師となればその気配を消すように用兵することも可能だろうが、今それをする必要があるとは思えない。

「もしかして、後方の部隊を監督してるのか?」

 俺たちの軍は長細い林道を抜けてきたため、かなり縦に長い陣になってしまっている。

 そのため、前線でいま戦っている兵たちもいれば、いまだ林道の出口付近で詰まっている兵もいる。

 だからそれを解消するために指示を出しに行ったのかも――

「でも今孔明がいないと……!」

 マズい。

 数は少ないが勢いのある劉磐。そして数が多く目の前に迫りつつある黄祖。

 その対応を俺一人でやるのは難しい。

 ちょっと前の俺なら即座に無理だと判断して朱里や雛里に一任するところだ。

 この世界に来てそれなりにいろいろ学んで、自分でも考えられるようにはなったが、それでもこのシチュエーションでは戦える知識も経験もない。

「あ、あの、北郷さま? 指示を――」

 兵がおずおずと指示を求める。

「……」

 やらなきゃならない。

 不安が心の底からわき上がるのを飲み込む。顔に出さないように。

「葉雄と合流しよう。黄祖の方へ誘導するように劉磐への包囲を緩めるんだ。弓隊は黄祖の迎撃準備!」

 背中を盾部隊に守らせ、弓隊の陣列をととのえる。

 整列して一斉に射撃して弾幕を張る組と、馬上の将を狙撃する組に分け、いざとなったら林の中に飛び込んで逃げられるように、樹影に重なるように布陣する。

「細作の皆は林の中を調べておいて。いざとなったら逃げる兵の皆を先導できるように、あ、あと――」

 最悪散り散りに逃げるための算段をつけ、あらためて、敵と対峙する。

 敵勢、黄祖の部隊はおおよそ千。おそらく選りすぐられた精鋭騎兵。

 こちらの手兵も精鋭であるが、ほぼ歩兵のみ。

 そして兵数も、劉磐の小勢とあわせて、こちらの兵力に迫りつつある。いや、後続に劉磐の迂回部隊が合わさればその差は完全に覆る。

(今からでも桔梗たちをこっちに――いや、今でも林道の出口がぎゅうぎゅう詰めなのにそれは無理だ。むしろ逆……ここからさっきの上陸地点に兵を戻すか。敵を狭い林道に誘い込んで……でも、それだと一番後ろの殿が危険だな……)

 痛いぐらい鼓動が速くなった心臓と同じように、脳が懸命のスピードで策を探り始める。

「むぅ……」

 考えすぎて頭が痛い。

「おい! 北郷!」

 そこに、聞きなじんだ声が届いて、ぐちゃぐちゃになった頭が真っ白になった。

「え、あ、なに? あれ? 葉雄?」

 目の前に、別働隊を指揮していたはずの葉雄がいた。

 敵勢、劉磐を挟んで近くにいたとはいえ、まさかここにいるとは思いもよらなかった。

「合流してたの?」

 まだ本隊と葉雄隊の間には劉磐の兵が残っているように見えたが。

「いや、私だけ無理矢理道を切り開いて先に来た」

「……すごいね」

 劉磐といい、猛将というのはこういうのを言うんだろうな。

「それで、そこまでして何かあったの?」

「命令……もとい進言だ。黄祖の隊と戦端を開いたあとでは遅くなりそうだからな」

 華雄は俺の目をまっすぐに見て、

「もしもの時は私が殿をやるから、おまえはとっとと退け」

「……え」

 直前の俺の思考を読んだかのような言葉に俺は驚いた。

 でも、まともな将なら勝勢敗勢は推測できるだろうし、敗勢となれば撤退行動に入るのは当然のことだ。そして敵を目の前にした状態で撤退となれば必ず大損害を出すであろう殿部隊が必要になる。

「俺も、戦えるよ?」

「馬鹿か。総大将は最後まで生き延びねばならんだろ」

「最後まで……」

 嫌な想像が脳裏をよぎった。

 唇をかみ、その過慮を振り払う。

「撤退しないように、戦えばいいんだろ?」

 その俺の言葉に華雄はきょとんとして、そして、にやりと笑った。

「そうだな。やってみせろ北郷。背中は守ってやる」

 呵々と声をあげ、華雄は自分の隊の指揮に戻った。

「敵将劉磐、黄祖と思われる部隊の方向へ後退を始めました!」

 華雄が去ってすぐ、伝令が飛んできた。

「わかった。追撃はしなくていい。陣列を組み替える! 盾隊、弓隊の前方に展開!」

 先刻配置した弓隊の前に盾隊を置く。

 長槍隊は二つに分ける。盾隊の後ろに備え敵の前進を阻む部隊と、攻勢に入ったとき敵に切り込む部隊だ。

「切り込み隊は合図まで待機して、好機となったら俺と華雄と一緒に敵をたたく! 壁になる部隊は、敵が前進してくるならゆっくり後退しながら受け止め、敵が下がるなら前進する!」

 将兵慌ただしく隊伍、戦列を整え、槍の穂先をそろえ、敵と対陣する。

 敵はもはや顔かたちが見える位置まで来た。

「弓兵隊! 射撃開始!」

 発射態勢に入っていた弓兵たちが、一息の間に次々と矢を撃ち始める。

「ッ!」

「ぐおっ……!」

 騎兵中心の黄祖軍は、その弾幕にたちまち足並みが乱れ、落馬する物が現れる。

「今だ!!」

 次の瞬間、先ほどの一斉射撃部隊とは逆に息を殺し続けた狙撃部隊が、急減速した馬上の黄祖兵を狙い撃つ。

 悲鳴があがり、騎兵が崩れ落ちる。

「敵の足が乱れたぞ! 切り込み隊!!」

 軍鼓が鳴り響き、全軍へ通達が行き渡る。

「突撃!!」

 命令の下達とともに、周囲の切り込み隊が駆け出す。

「葉雄隊! 続いて突撃だ!!」

 葉雄もまた数少ない騎兵を引き連れて参戦する。

「うおおおおおおおっ!!」

 通常の槍より短い手槍を持った突撃兵が次々に敵に襲いかかる。

 こちらの兵の薄い弾幕射撃を前に平気で前進してきた敵が、正確な狙撃を前に浮き足立ち、歩兵の突撃に切り崩される。

「我が武の力の前に、地を抱き、天を仰ぐがいい!」

 さらに、華雄が一撃で数人を吹き飛ばし、それを数撃繰り返して、数十、百に届く単位の敵を屠る。

「はっ! とっ……!」

 俺も地味に何人か倒す。

 白刃煌めき、血風流る。

 北郷軍と黄祖軍の交戦は、最初こっちの一方的な優勢で進められた。

 しかし、誤算というべきか、黄祖軍はすぐに反撃を開始した。

「だああああっ!! やっぱり私らに集団戦法は無理だぁっ! てめぇら、勝手にやれ!! なんでもいいから目の前の奴らを蹴散らせ!!」

「おっしゃああ!!」

 黄祖叫び、兵が動く。

 足並みどころか隊列もばらばらに、黄祖兵個人個人が剣を抜き弓を構え反攻する。

「ちっ! 呼吸が読みにくい……!」

 葉雄が舌打ちする。

 軍勢が相手であれば、大抵攻撃にはリズムがある。

 統制がとれている人間の集団こそが軍であるし、それが軍の強みでもあるからだ。

 しかし、そうなるとパターンにはまり、歴戦の将に読み切られる。

 故に、曹操のような兵法を知り尽くした将であれば、あえて基本から外れた戦法戦型をとることもある。孫策のような本能で軍を動かす将は、それを即興の発想で行う。

 だが、黄祖の軍はそのどちらでもない。

 兵士一人一人の個人戦術。統制なき、ただの暴徒、ただの賊徒の集まりのような――

「なんというか、気色の悪い、っ……!」

 唐突に飛んでくる矢をかわし、不意に来る剣戟をはじき返す。

 局地的な攻防に、形勢判断に困る。一歩踏み込むか、退くか。

 一気呵成に攻め寄せられる気もするし、しかし、どこか嫌な雰囲気を感じもする。

「そうか――!」

 はっ、と俺は息をのんだ。

「ここで踏み込んで、孫策はやられたのか?」

 ありそうな話だ。

 俺は即座に決断し、刀を天にかざした。

「切り込み隊!!」

 前進をとどめる。

「壁隊のところまで全速後退!!」

 兵たちは一瞬戸惑うが、さすが精兵、直ちに反転し後退を開始した。

「なんなんだ? まだいけるだろうに――!?」

 葉雄は不満げに敵に対し数合たたみかけるが、やがて馬首を返した。

「お、おし! 何だか知らんが追い返せたな! よし、お前ら! この調子で追いかけるぞ!!」

 黄祖は小さな体躯を馬上で揺らし、大きな声で軍には足りない群を指揮した。

「ひゃっはーーっ!!」

 そして彼らはそれに応じて暴走を開始した。

 俺たちは全力で後退し、少しずつ前進していた壁部隊の後方へ回った。

 そして再び弓射撃からの、精兵突進というパターンを繰り返す。

 ただし、今回はほとんど黄祖側に被害はなく、攻撃、防御、反撃までの間隔も短かった。

「時間の問題だな……」

 葉雄は北郷軍の中でも随一の働きを示しながらも、引き時を考えていた。

 その言葉の通り、数回同じ押し引きを繰り返すうち、北郷軍は緒戦のアドバンテージを失っていた。

「あと少し下がったら、林の出口が目の前……!」

 そしてこれ以上下がれば出口を通り過ぎ撤退路を失う。

「……壁部隊の半分に、撤退の準備を伝えて。残りの壁隊と弓隊には――」

 伝令に耳打ちして、最後の切り込みに移る。

「敵兵一人を狙いすぎないように。戦列を意識して、線で圧することを考えるんだ! 葉雄たち騎兵隊は厄介な連中をまとめて蹴散らしてくれ!」

 その命令通り、北郷軍はよく戦い、敵をある程度まで退けた。

 しかし、それもついに終わる。

「北郷っ! とっとと逃げろ!! あとは私が――!」

「うぉらあああああ!!」

 本陣に、黄祖軍の兵が侵入した。

「ふっっ!!」

 葉雄は戦槌でそれをなぎ払う。

「さすがにもうもたんぞ!」

「あと1回だ、少しでも時間を稼がないと」

「そんなことを言っていられる余裕はないだろう!」

「大丈夫。伝令さん! 壁隊、弓隊の残兵に例の合図を!」

 雪崩を起こしかけている本陣から合図が飛び、それに呼応して咆哮が上がった。

 平野の、南側から。

「あっちはマキビシを撒いた方角……?」

「あそこに半数、残しておいたんだ。盾を敷いてそこに伏せさせてね」

 黄祖は劉磐に聞いて南側にマキビシが散らばっていることは知っているはずだ。となれば、あっちには行こうと思わないだろうし、俺たちの軍がそこにいるとも思っていないだろう。

「葉雄、これで最後だから、派手にいこう! 敵の戦意を挫くぐらいに!」

「まかせろ!!」

 葉雄が雄叫びとともに敵中へ躍り込む。

 俺もそれに続く。さすがに葉雄のように単騎ではなく、護衛隊数人を引き連れて。

 それに残存部隊が足され、猛勢となる。

 三百に満たない兵が敵群を食い止め、防ぎ、逆撃をかける。

 奇しくも、敵が個々の武力で挑みかかってくるのと同じく、数少ない俺たちも、個人として敵と相対する。

「だああああっ!!」

 気づけば俺も刀を振り、敵陣を切り裂いていた。

「いくら敵兵が強いって言っても、愛紗や鈴々ほどじゃないからな……」

 つまり普段の訓練ほどきつくない。

「この程度なら、いくらでもやってやる――!」

 本気でそう思った。

 華雄ほどじゃなくても俺だって――!

 

「クソぉっ、しぶといっ! おい! 劉磐! 肩車しろ!!」

「了解ですっ!」

 馬上の黄祖が、劉磐に抱え上げられる。黄祖が元々小柄であることもあって、上半身だけなんとか軍勢の海から抜け出る。

「こ、れ、でぇえええ!!」

 足場がぐらつくのをこらえ、黄祖が弓を引く。

 標的は――

 

「北郷ぉおおおっ!!!

 最初に気づいたのは華雄だった。

 その声にあたりを見渡した俺が、何かの光を見た次の刹那、

 その光が空を裂いた。

 そして光は俺の元へと真っ直ぐに届いた。

「ぐっ! っつぅ……」

 幸いだったのは、光をもろに直視したとき思わず刀を持っていた手で目を覆ったこと。それにより、矢が刀の峰に当たったこと。

 だが、それでも手を強烈にしびれさせる一撃。かなりの強弓であることを感じさせた。

「護衛兵! 北郷さまを囲えっ!」

 数人が俺を中心に円陣を組む。

「今動きを止めたら……」

 俺は唇をかんだ。

 懸念通り、さっきまで気圧されていた黄祖軍が、一旦の傍観の後、俺たちの方へ殺到してきていた。

 華雄が即座に動き、俺と黄祖兵の間に割って入った。

「下がれ!!」

 その一喝は、敵にでは無く俺に言っているのだと瞬時に理解した。

 いや、違う。北郷軍全体に言っているのだ。

「全軍撤退……! 伝令を!」

 本陣の動揺により混乱に陥りつつある全隊に指示し、退却を始める。

 華雄を除くほぼ全員が退き始めている中で、俺は少しためらった。

 殿はさっきの宣言通り華雄だ。

 今他に任せられる人はいないし、能力的にも問題ないと思う。

 でも、華雄は、元の三国志演義では既に死んでいる人間だ。

 だから、これからどうなるか、という保証が無い。

 どうしてもそれが、不安の種になった。。

(まだ、俺が、俺自身の力で、華雄を守る事なんてできないから……)

 不甲斐なさに、怒りがわいてくる。

「北郷っ! 何をやっている! とっとと退け!」

 敵の一陣をしのぎきって、華雄がこちらに駆けてくる。

 肩で息をしてはいるが、傷は一つも無い。

「彼奴ら、まだ個人戦法でかかってくるから、どうとでもなる。……兵のことは心配するな。精兵の中でも勘の鋭い奴だけ残せば、被害は少なくてすむ」

「……わかってる」

 わかってはいるんだ。

 最善は尽くした。

 そして、それでも。たとえ少なくても、被害は出てしまうことを。

 で、その少ない被害の中に、もしかしたら……。

「やっぱり、一緒に逃げよう」

 ぐいっ、と二陣に備えて準備している華雄の服を引っ張った。

「わっ、ちょっ、ば、ばか、やめ、下着が見えるっ……!」

 慌てて裾を直す華雄。

 そして、馬の鞍に座り直し、ため息をついた。

「……ここで私まで逃げたら兵の多くが失われるだろうが!」

「わかってる。だから、林道出口周辺にもう一回マキビシを使う」

「マキビシ……? そうか、撒いた物を回収したのか」

「うん。それと林の中に細作を忍ばせてあるから、俺たちはそっちから逃げるんだ」

「なら、お前は先に行け。なんにしても、私は最後まで残る」

「……駄目だって」

 もう一回服の裾を引く。

 ちらりとのぞく下着の色。黒。

「っ、お、おまっ、わざとやってるだろ!! いい加減にしろ! もう敵が目の前に――?」

 俺との漫才を中断して、視線を前方に戻した華雄が、首をかしげた。

「敵が……止まってる?」

 その言葉に俺も敵の方を見る。

 確かに、華雄の言うとおり敵が止まっていた。

 しかもただ止まっているだけではない。

 敵の視線が――

「後ろに何かあるのか? ほとんどの奴がそっちを見てるが」

「こっちからじゃ見えないけど……」

 戦場に訪れた不思議な静寂は、すぐに破られた。

 盛大な銅鑼の音と共に――!

 

 ジャーン!! ジャーン!! ジャーン!!!

「はわわ……お、遅れました! 弩兵さんたち、交代集中射撃! 騎兵隊は威嚇しつつ、ご主人様までの道を開いてください!!」

「さぁ、船酔いも醒めた今、憂さを晴らす時ぞ!! 厳顔隊進撃せい!!」

 黄祖軍の後方に、突如、北郷軍の新手が出現していた。

 

「諸葛亮だとっ!?」

 劉磐はぎょっとして眉をひそめた。

「劉備軍の軍師……だったか?」

 劉磐に肩車された黄祖は、日差しを手で遮り、遠くの北郷軍旗を睨んだ。何を隠そう、一番最初に異変に気づいたのは彼女である。

「はい。黄巾党討伐戦、董卓包囲網にも参戦した、劉備の頭脳です」

「つえぇのか?」

「…………ある意味、最強かと。荊州に居留していたので、数回、伯母の所に招かれたことがあったのですが……」

「そういや、お前の伯母さんのところ、頭良い奴多いよな」

 黄祖は腕を組み眉間にしわを寄せ、ううん、と唸った。

「その中でも頭一つ……いえ、二つは飛び抜けていた人物です。あ、いや、体つきは小っちゃかったですけど」

「そりゃやべぇな……でも、小っちゃいって所はなんだか親近感」

「で、どうします? 兵力差はこっちがまだ優勢ですが」

「頭良いだけの奴ならいけそーだが……だけ、って奴の中でも異常なんだろ?」

「そりゃもう……」

「気にくわねぇが……だが確かに、あそこの渡し場から林の中を通って軍を動かすなんて、並じゃねぇな。地元の奴が多い私らでもすんなりとはいかないぜ」

 と、黄祖はちらり、と視線を逆側に移した。

「それに、あっちにいつの間にか孫策軍の旗があがってるのがな……目の上のたんこぶ二つ目ってところか」

 北郷軍のいる反対側、南西方向にポツンと花咲く紅の旗。

「私、あっちから来たんですが、索敵には引っかかりませんでしたけどねぇ?」

 劉磐が訝しむ。

「まぁ、私たちの哨戒索敵が粗いってだけの話かもしれんが、孫策だからな……さすがに大兵力を見逃すことはないだろうから小勢の可能性が高いが……しかし、不気味だぜ……」

「帰りましょうか。わざわざ私たちだけで戦うことは無いですよ。城にはもう劉表軍主力が到着している頃ですし」

「ちっ!」

 黄祖が舌打ちした。

「見せ場が全然ねぇ……! このままじゃ、本当に劉表様に殺されるっ……!」

「賊から足を洗った人間を殺すほど、うちの伯母は冷酷じゃありませんって……」

「いっそこのままどっかばっくれちまうか……」

 ふと見ると、劉備軍の孔明率いる部隊に、黄祖軍左翼が崩れつつあった。

「はぁ……まーたあいつら逃げ出し始めやがった」

 前日、孫策軍と正面衝突したときもそうだった。そして、少し前、北郷の部隊に迫られたときも、簡単にバラバラになっていたのを思いだし、黄祖は金色の髪を掻く。

「逃げるのはうまいから、死んだり大けがしたりは無いんですけどね」

「自慢にならねぇええええ!! もういい! 帰る!」

 じたばたと劉磐の上で身じろぎし、自分の馬の上に降りる。

 そして部下に指示も出さずに馬首をめぐらして襄陽方面に駆けだした。

「あらら……、じゃあ、私らも帰還だ! 全軍襄陽に向けて転進! 進路は任意! ただし、帰ってこなかったらうちの伯母が殺しに来るぞ!」

 劉磐は伝令を平野の南方に残した軍や迂回させた部隊にも飛ばし、黄祖の背中を追った。

 こうして、劉表軍所属の黄祖軍団は四散した。

 

「後退……いや、撤退だな。命拾いしたか……互いに」

 華雄は臨戦態勢を解いた。

 俺も長く息をついた。

「ご主人さま〜!」

「お屋形様ー!!

 援軍、仲間たちの声が聞こえる。

 俺は大きく手を上げて応え、彼女たちを迎え入れた。

「ご無事でしたか!?」

「ああ。大丈夫だよ」

 その言葉と、たしかに大した傷も無い俺の姿を確認して、朱里は小さな胸をなで下ろした。

「兵の喪失もそれほどじゃない」

 不慮の事態が連続した割に、平野に伏した死体は多くなかった。

「しかし、林を突っ切って軍勢を通すとは、一体どうやったんだ?」

 と、華雄が心底不思議そうに朱里に尋ねた。

「俺も聞きたいな。林道出口付近で詰まってた兵だけならどうにかなりそうだけど、桔梗の軍も来るなんて……」

「渡河に先行して、周辺の地図をかき集めておいたんです。もちろん細密な地形情報までは無かったですが、通れそうな道はつかめました。さらに現地に着いたとき細作を林の中に放ってあったので、それで、大体の通れる道がわかりました」

 一気に説明し、さらに言葉を継いだ。

「敵があそこまで強気に少数で突撃をかけてきたということは、東西どちらかに援軍があるのではと思ったので、遠回りの進路を選択して敵の裏にでたんです」

「ほ〜……」

 俺は戦いの最中に細作を使って林の中を探ったが、朱里はもっと前からやっていたって事か。

 勝つためには色々事前準備しなきゃならないって事だな。

 やっぱり孫子とか読まなきゃならないんだろうか。ちょこっとなら知っているんだけど……実践で生かせなきゃ駄目だよな。

「ふむ、さすがは孔明というところか」

 感心したように華雄と厳顔が何度もうなずいた。

「いえ……」

 と、朱里は首を横に振り、

「敵の数や動きを読み誤り、ご主人様たちを危険にさらしてしまいました」

 朱里は帽子をぎゅっと握りしめた。

「それに、私より数歩速く、そして深く、入り込んでいる人がいるようですし」

 朱里は顔をついっと横に向けた。

 その視線の先には、『孫』と書かれた赤い旗が翻っていた。

 俺たちは目を見開き、そして眉をひそめた。

「いつの間に……?」

「わしらが交戦中と聞いて急行してきたのか?」

「……いや、朱里の言い方からすると、もっと前……もしかしたら昨日から潜んでた、って事?」

「おそらくそうでしょう。速さを身上とするとはいえ速すぎます」

 しばし、俺たちは、そこだけ火がついたような赤旗の揺らめきを眺めた。

「なんにしても、助かったかな。孫策軍との合流地点に向かおう」

 と結論し、俺は朱里が連れてきた馬に乗って、移動を始めた。

「……私たちは露払いに使われた……?」

 朱里がどこか不審げな表情を隠して、俺のすぐ横へと駆け寄った。

 少々傷を負いながらも、俺たちは孫策軍と合流し、戦いの本番、襄陽城の包囲戦へと駒を進めた。

 

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「私が、死ぬ――?」

「はい…………」

 宵闇の中、室内を照らす火が揺らめいた。

 それは北郷軍と劉磐・黄祖の軍との遭遇戦の一日前、漢水を挟んで襄陽城の目の前にある、樊城の城内でのことだった。

 部屋のなかには孫策軍の中枢である将軍、軍師がそろっている。

 孫策はもちろんのこと、軍師の陸遜、魯粛、諸葛瑾、将軍である黄蓋、甘寧、周泰、そして孫堅の旧臣であり、孫策軍への帰参を果たした、韓当、程普らが一堂に会している。

 そのうちの一人である明命……周泰が孫策を前に暗い声で報告をしていた。

 周囲の幕僚たちがざわめきはじめる。

「突然何を言いだすのだ!?」

「道士にでも吹き込まれたか!?」

「ち、違います!」

 明命はふるふると首を横に振った。

「あの……北郷さんたちが、そんな話をしていたんです……」

「かず、……ゴホン、北郷が?」

 孫策は、思わず名前で呼びそうになるのをこらえる。

 ちょっと前まで、一刀と孫策は顔を合わせ、雑談をしていたのだった。

「はい。新野城で私たちに助勢を申し出た後です。穏さんの指示で、部屋の外から、それとなく会話を聞いていたのですが……そこで」

「私が死ぬ、って? どういう脈絡でそんな話になるのかしら?」

 孫策は深くイスに座り、とん、とん、と何度かその肘掛けを指で叩いた。

「私も部屋の中の北郷さんたちに気づかれないよう離れて聞き耳を立てていたので、細かい文脈までは……」

「ふうん…………」

 孫策は目を閉じ、少しの間、沈黙して、首をひねった。

「死ぬ……というのは、劉表軍に殺される、という事……?

 傍らの軍師や、将軍たちに尋ねるというわけでは無く、自問自答してみる孫策。

「劉表ごときに策殿が破れると?」

「先の戦いでも鎧袖一触、こちらに被害といえる被害は無いというのにか?」

 韓当と程普が言う。

「川を渡った先に、何か謀計でも用意されているのか……?」

 と、魯粛。

 ぴく、と孫策の耳が動いた。

「…………そうだとすると、その劉表のはかりごとを、北郷が知っているということにならない?」

 また場がざわつく。

「あの孺子と劉表が通じているということか……!?」

 黄蓋が眉を曇らせる。

「仮定の話よ? しかも仮定に仮定を重ねてるんだから」

「でも、明命ちゃんが不穏な言葉を聞いたということは事実」

 陸遜が、滅多に見ない真面目な顔で断定する。

「そして、私たちは明日、完全なる敵地へ足を踏み入れるわけですから」

「北郷が劉表軍とつながっているかどうかはともかく、何かを知っている前提で事を進めた方が無難、か……」

 孫策はかりっ、と爪をかんだ。

「…………でも、私が死ぬような緊急事態が起きるのだとしたら、一刀はなんで危険を犯して自ら援軍を……」

「あ、あの、北郷さんの態度を見る限り、劉表がどうこうというより、敵将の黄祖に何かあるように見えましたのですが……」

 自分の発言で軍議が紛糾した事を申し訳なく思っているのか、消え入りそうな声で周泰が意見する。

「確かに」

 と、陸遜がまずうなずく。続いて隣の魯粛ら参謀たちも首を縦に振る。

「ふむ」

 黄蓋以下将軍たちも首肯する。

「黄祖の名前が出たとき、一度ならず二度、顔に緊張が走っていました」

 よく反応を観察していたらしい、陸遜が報告する。

「では、黄祖が私に対して致命的な何かを仕掛けてくると、知っているということか」

 腕を組み、視線を床に向けて思考を前に進める孫策。

「おそらく、次の戦いにも黄祖は参戦するでしょう」

「なら、策殿を前に出すわけにはいかぬな」

「それもあるが、北郷軍に信がおけぬ以上、後方に回すべきでは?」

「いや、共謀していると決まったわけではあるまい」

「いやいや、万が一を考えた方が良い――」

「兵力と将の質を見る限り、我らに続く戦力を保持しているのは北郷軍では無いか。それを後方に下げるのは――」

 意見がぶつかり合う。

 孫策の身を案ずる慎重論と、戦力になる北郷軍を利用して一刻も早く孫権たちを救出しようという急戦論。

「とりあえず、様子を見るというか、試してみることにしましょう」

 意見を集約し、孫策が結論を出した。

「漢水を渡るとき、黄祖たちが水際で食い止めに来たら、北郷軍に当たるように仕向ける。こっちはあらかじめ細作を敵後方にばらまいて、敵の動きをつかみ、安全な津(渡し場)を選んで渡河する」

「北郷軍が黄祖と通じているなら、両軍大した衝突無く回避されると」

「そう」

「しかし、北郷軍が黄祖ともし正面から当たったら、不利なのでは?」

「そうね……となると、興覇、幼平」

 孫策が甘寧、周泰の二人を指名する。

「はっ!」

 両名はすぐに応じ、一歩前に出た。

「二人は細作を指揮すると共に、精兵を分散して配置、いざというときには集結させて、敵軍を陽動、攪乱させて、北郷軍を助けなさい」

「了解しました!」

「もし、北郷が敵軍と本気で戦う様子を見せるなら良し。そのまま北郷軍には協力してもらう。だが、劉表軍に肩入れする向きがあれば、後ろに下がってもらう」

 陸遜が代表して、御意のままに、と応じる。

 軍議はそれで終わり、幕僚たちが三々五々退出する。

「…………明命。あと穏、祭、思春」

 孫策は小声で四人を呼び止めた。

「はい……?」

 明日の準備にとりかかろうとしていた四人が雪蓮の元に集う。

「個人的な意見を聞きたいわ。正直、私が死んで、北郷は得をすると思う? そして……その得を確保しようとするような男だと思う?」

「…………」

 雪蓮のその問いに、四人はしばし黙考した。

 そして、一刀を不利な立場に追い込むような報告をしてしまった周泰が、それを挽回するためか、先走って口を開いた。

「え、えっと、北郷さんは、雪蓮様が死ぬことなんて、望んでいないと思います! あの……根拠は、ないんですけど……」

 明命は、しょぼん、と語尾にいくに従って声が小さくなりつつも、断言した。

「ふむふむ。勘は大事よ。特に敏感な前線の将のはね。では逆に軍師として、穏?」

 話を振られた陸遜は即座に、

「もし孫策様が必ず死ぬという確信があるなら、そこから利益を得る手段はいくらでもあるように思えます」

 陸遜が主君の死という凶事を冷徹に計算して見せ、

「であれば、北郷さんが、戦闘の前線、それこそ混乱の渦中に兵と共に飛び込むことは無いのではないか、と」

「そうね。私もそこが不思議に感じたわ」

「逆に、孫策様が死ぬことによって北郷が不利益を被る、というのであれば、彼自ら動くというのもわからなくはないですが……」

「…………そう思ってくれているのかしら」

 ちら、と孫策は甘寧を一瞥した。

「思春はどう思う?」

 尋ねられて、甘寧は、すぐに応じた。

「私個人が北郷の内心についてどうこう言う気はありません。北郷がどう思っていようと、私は雪蓮様をお守りするのみです」

「そーいうと思ったわ」

 クスっ、と雪蓮は笑い、最後に、

「じゃあ、祭、あなたはどう?」

乳房のすぐ下で腕を組んで重そうな二つの果実を支え、口を閉じていた黄蓋が一呼吸の後、口を開く。

「理屈で北郷が信用できるかどうかを計るのは軍師連中でよかろう。儂も直感でいわせてもらうぞ」

「ええ。あなたや韓当、程普に理詰めは要求しないわ。逆に精度が落ちそうだしね。それで、これまでの北郷、そして直近の北郷を合わせて、どう感じた?」

 黄蓋は瞼を下ろし、自身の内奥から絞り出すように、

「…………腹に一物を抱えていそうなのは誰にでも分かりそうなところじゃな。だが、北郷の眼に邪な、漁夫の利を得んとする濁りは無いように、儂には見えた」

「目の濁り、か」

 雪蓮は背もたれにこつんと背中をもたせかけ、記憶をたぐりよせた。

 一刀の目。

 自分を正面から見つめる、真摯な眼差し。

 ドクン、と一つ胸が高鳴った。

 がばっ、と雪蓮は慌てて体を起こした。

「?」

 一同が何事かと目線をやるが、雪蓮はこほんと咳払いし、頬の赤みもなかったことにした。

「……方針はさっきのままでいくわ。思春、悪いけど夜明けを待たず河を渡って準備を」

「はっ」

 その指示を最後に、孫策軍の軍議は終了した。

 それぞれ、微量の苦い疑問を飲み下して、将として軍師としてそれぞれの役割へと戻っていく。

 ただ、孫策一人だけが、胸に抱えたもやもやを、どこの誰にぶつければ良いのか途方に暮れていた。

「ここに冥琳がいたらなぁ……」

 同じ荊州、近くて遠い場所にいる友を想い、雪蓮は嘆息するのだった。

 

 

 

 孫策軍による襄陽城完全包囲直前。

 劉表軍、襄陽守将の一人、黄祖の本陣。

「じゃあ、私は長沙攻めの方に行きますが、良いですね?」

 すっと伸びた長身に、目鼻立ちの整った顔。人間の理想像の一つと言われても納得するだろう姿形を、その理想を背負うのが億劫であるかのように軽く曲げて杖をついて支える美女。

 年以上に年齢を感じる所作と、その美しくもどこか悲しみを覚える銀髪。しかし、優しげな眼差しの奥の奥の火は炯々として、戦闘を前に、彼女なりに若々しさを発露させているようだった。

 劉磐は、劉表……自分の伯母の地の底を這うような殺気を感じて、少し背筋をふるわせた。

「は、はい! だ、大丈夫っす……ですっ!」

 ガチガチに緊張した黄祖が背筋をぴんと伸ばして言う。

「襄陽城の守備には蔡瑁、カイ良を残します。あなたは遊撃として孫策を掻き乱すことだけに注力すればよろしい」

「はいっ!」

 がくん、と音がするぐらい大げさに黄祖はうなずいた。

「今朝の戦いでは敵将狙い撃ちはうまくいかなかったようですが」

 その言葉に黄祖は劉磐を一瞥した。

 劉磐はふるふると首を横に振った。

 いつの間に今日の朝、黄祖が独自の判断で戦いを挑んだ時の詳細を知ったのだろう。

 黄祖の額に嫌な汗が伝う。

「は、はい。矢は当たったように見えたんですが、敵の統率は全然乱れなくて……」

 反撃のきっかけにはなったが。

「ふむ。致命傷にならなかったんでしょうか…………そのおっぱいが邪魔で狙いがずれたんじゃないですか?」

「え、えぅ……?」

 いきなりのセクハラに少女は真っ赤になった。

 たしかに、胸が邪魔になることはある。

 小さな体格の割に大きな乳房は、弦をひくとき、はなすとき、どうしても当たりそうになってしまうのだ。

 親戚である黄忠……紫苑は、黄祖と同じく巨乳ではあっても、身体が比較的大きめなのでうまく撃っているようだが、黄祖は身体が小さいため、かなり工夫しないとひどいことになる。工夫してもたまに当たる。

 射の練習をはじめたとき、どれだけ痛い思いをしたことか……。

「まぁ、遠距離狙撃は尺寸のずれで大きく的を外すでしょうし、無理はないか……ふむん。となると、当たったら確実に命を奪うやりかたでやるしかありませんね」

 涙目になって両手で胸をおさえている黄祖をよそに、劉表は小ビンをどこからか取り出した。

 ビンにはドクロと骨の意匠が刻まれていた。

「毒です。これを矢の先端に塗るとあら不思議」

「え、えげつなっ……」

 どん引きである。

「あとは抉り矢とか……ああそう、たしか小さい弓があったでしょう。狩猟用の」

「ああ、あれですか。たしかにあれならやりやすいし、破壊力もありますけど……。でも、射程短いっすよ?」

「それが狙い目です。遠距離なら弓を、近距離なら剣や槍を警戒する者が多く、中間距離からの攻撃は、想像の死角を突きます。まあ、試してみると良いでしょう」

「了解ですっ!」

 アドバイスを終えると劉表は、

「それと、劉磐」

 己の姪に呼びかけるとほぼ同時に音も無く劉表は劉磐のそばに歩み寄り、呼ばれて顔を上げた少女の頬を両手でつまんだ。

「なーんであなたは勉強もせずにこんなところにいるのかしらぁ?」

「んぁ……もうひわけありまひぇん」

 ふにふに、ほっぺたを引っ張られて、少し涙をうかべて劉磐は謝罪する。

「うふふふふ」

 劉表は楽しげに柔肉をこねまわす。

「…………う、うわぁ……」

 黄祖はそれをみて、がたがたと震えた。

 劉磐も仲間内の中では、背の高さ力の強さ頭の良さで飛び抜けているのに、その劉磐が劉表の手の内では子供扱い。

 体つきは劉磐よりちょっと大きいだけだが、黄祖は、劉表が人外レベルの巨人であるように見えた。

「まったく、あなたのために新しい先生も呼んでいたんですよ? わざわざ蜀から来てもらったのに」

 悲しそうに劉表はため息をつく。

「ふ、ふむむ……」

「あなたは私の子供同然なんですから……いえ、こんな大きな子供がいる年齢じゃ無いですけど……」

「年齢気にしてるんですね伯母上」

「誰がオバサンですか誰が……!」

 ギロッと薄目を開ける劉表。

「そういう意味じゃ無いですっ」

 ぶんぶんと手と首を横に振って必死で否定する。

(結構身内相手だと、人間味あるんだな……)

 二人のやりとりを眺め、黄祖は初めて劉表に出会った時のことを思い出し、意外に思った。

 能面のような笑顔。すべてを見透かすような眼差し。慇懃な口調に通底する、冷たい理知の壁。

 そんな印象のうえに、荊州の強賊半数を殺戮したという噂が重なれば、畏怖以外抱きようが無い存在だった。

 しかし、劉磐という年下の親戚をいじる劉表の姿を見ると、普通の人らしいところもあるのだなと、変に感心するのだった。

「……とはいえ、今の時代、静かに本ばかり読んではいられないようですけど。まったく、静謐を乱す鼠賊の多いこと」

「すみません……」

 黄祖は肩を落とした。

 すると劉表は、劉磐に向けたからかうような笑顔をみせて、

「あなたは改心したからいいですよ」

 と慰めた。

「私たちの目標は荊州の完全制圧です。そのために十万からの兵馬を動かし、短期で決着をつけます。あなたたちもそのつもりでね」

「はいっ!」

 すっ、と裾を翻し、劉表が幕舎から出ようとする。

「あ、護衛は……!?」

 まだ包囲は完成していないが周りは敵だらけである。

「ここは敵陣の外縁ですし、私一人分の隙間などいくらでもありますよ。ま……包囲の外まで歩かなきゃならないのが億劫ですけど……やれやれ」

 杖をついて劉表は出て行く。

 まだ身の危険を案じている黄祖に、劉磐が言う。

「心配いらないですよ。伯母上は体のいろんな所に武器を仕込んで完全武装してますから。ちなみにあの杖も仕込み剣らしいですよ?」

「……や、やっぱりこええええええっ!!!」

 黄祖はぶるぶるとおののいた。

 

 

 

「これで包囲陣完成か」

 襄陽城を望む平野、そこに築かれた孫策軍本陣に立つ孫策、その横に俺は並んだ。

 戦場を広く見渡せる丘の頂に彼女はいて、戦いの算段をたてているようだった。

「ええ……」

 俺を一瞥し、雪蓮は襄陽城を睨んだ。

「劉表軍を長沙から引きずり出すわけだから、この包囲を緩めずに維持するって事だよな?」

「そうね。ただ、敵に見破られないよう、攻勢を続けないといけないけど」

「難しいな。攻め落とせばいいわけじゃない、と」

「ええ。そのへんの行程は陸遜達が考えていてくれてるわ」

 後ろを振り返ると、孫策軍が誇る参謀群が右へ左へ駆け回り、本陣は城攻め前の軍議を控え、慌ただしい感じだった。

「そうだ、俺たちの軍の本陣だけど、孫策の所の脇でいいか? 今はちょっと離れたところに仮本陣を置いてるんだけど」

 孫策は、少し眉をあげ、声を硬くして、

「それは、なんで?」

 軽く許してくれるんじゃないかと思っていた俺は、ちょっと虚を突かれた。

「え、え〜っと、本陣が近ければ、情報が共有できるしさ」

「それだけ?」

 じっと俺を視界の中心にとらえ、孫策が問いかける。

 俺は何を訊かれているのか、雪蓮が何を聞きたいのかわからなくて、戸惑った。

「……?」

 違和感を覚えるが、しかし、黙り込むわけにもいかないので、理由を捻り出そうと頭を回転させる。何だか最近こういう展開が多いなと思いながら。

「ええっと、知ってると思うけど、ここに着く前に、敵と遭遇したんだ」

「ええ。報告を受けているわ」

「その時、敵は一直線に本陣を目指して攻めてきた。もちろん敵は敵で策があって掛かってきたんだろうけど、わりと命知らずなところがあると思ったんだ」

「……それで?」

「だから、本陣は分散させずに固めた方が良いかなって」

「万が一を考えて、ってことね」

「そう。すぐ終わる勝負じゃないし、お互いにリスク……危険は低く抑えて滞陣しなきゃね」

「…………ふむ」

 孫策は、首をあっちこっちに捻った。

 そんなに考えることかな? と俺は怪訝に感じた。

 特に孫策であれば、感覚的に、是非を決めそうな所だけど。

 体調でも悪いのかな?

 と俺は彼女の顔を窺う。

「ううん…………むううう…………あああああ!! もう!!」

 突如、孫策がキレた。

 びくっと、俺は飛び上がる。

「一刀っ!!」

「な、なに!?」

 孫策は真剣を振りかぶるような勢いをつけて、

「私はあなたを信じるわ!」

「へ? あ、うん。うん? どういうこと?」

 わかるようでわからない宣言に、うまく返事ができない。

「さーて、そろそろ城攻めの軍議にいきましょうか!」

 孫策は自己完結していた。

「おーい……」

 取り残される俺を尻目に、孫策は本陣の帷幄の中へと足取り軽やかに。

「……裏切ったら殺しちゃうからね?」

 なんだかすごく物騒なことを言い残した気がするが、それを確認するまもなく孫策の姿は消えていた。

「……信用されたならいいか」

 そういうことにしておいて、俺は孫策の後を追った。

 本陣には全軍の首脳が勢揃いしていた。

 いや、

「馬超軍がいない?」

 俺は北郷軍の席を見つけて座る。

「樊城守備で居残りだそうです」

 隣の朱里が応える。

「そっか。馬超も馬岱もいないし、無理はできないよね」

「そうですね……と」

 視線が動いた。

 朱里含む全員が一点を見た。

 孫策、陸遜、黄蓋ら孫呉の軍を率いるトップ3のうち、陸遜と黄蓋が着席し、孫策が起立したのだ。

 それが軍議の開始を意味していた。

「ひとまず、諸将の無事の渡河を喜びたいと思う。また、河を渡っての城攻めという暴虎馮河の戦いに参じてくれた諸将の義と勇に感謝する」

 俺は朱里に小声で尋ねた

「ぼうこひょうがって?」

「無謀、命知らずということです」

「……なるほど」

 もし、攻めきれなかったら背水の陣だもんな。

「とはいえ、貴軍らの将と兵をいたずらに危険にさらすつもりは無い。この場にいる三軍、北郷軍、曹操軍、公孫賛軍には包囲の補強にのみ尽力してもらい、兵を大きく消耗する城攻めは我が軍が行うものとしたい」

 その提案に各軍異論は無いようだった。

 当たり前と言えば当たり前だ。

 孫策軍の二万という兵の数に対して、北郷軍三千、曹操軍三千、公孫賛軍二千という兵数だ。無理はできない。

 俺もさすがにここで無謀……それこそ暴虎馮河と表現される行動をとるつもりは無い。

「包囲作戦の概要については、陸遜、説明を」

「はい〜」

 孫策に代わり、孫呉の知嚢、陸遜が軍略を説明する。

 まず作戦の前提として、襄陽城という城のデータが示される。

 襄陽城。漢水が北から東にかけて流れ、その豊富な水源から引かれた水堀に囲まれた巨大な城郭都市。

「巨大な分兵糧は豊富と考えられますが、樊城から逃げた兵が合流しているので、消費はかなり早く、一ヶ月以内には食べ尽くしてしまうのでは無いかと」

「ということは、勝敗の要は補給をさせないことということね?」

 と、曹操軍の荀攸……賈駆。

「はい。そのために、西と南は歩兵と騎兵による重囲、東と北は水軍と歩兵による重囲によって補給を断ちます」

「各軍の配置はどうなりますか?」

 と、公孫賛軍の公孫越。

「こちらが考えている配置は――」

 基本的に包囲の第一線は孫策軍が担当。

 西側の開けた平野の包囲に、騎兵の割合が多い曹操軍が加勢。

 東側の漢水が近い難所に、守勢に強い公孫賛軍が加勢。

 そして、荊州を南北に貫通する陸路がある南側。主力が激突するであろう場所に孫策率いる孫策軍主力が陣取り、これに北郷軍が加勢する。

「……ひとまず、良さそうだと思います」

 朱里が含みのある声色で、図示された配陣を承諾した。

「こちらも異論はありません」

「同じく」

 曹操軍、公孫賛軍も同意する。

「では、我が軍の攻城作戦と、想定される反撃、それに対処する案について――」

 軍略はより細かく、密な段階に入る。

(曹操軍の所は荀攸がいるから良いけど、公孫越さんは大丈夫なのかな? 公孫賛が器用……だから、公孫越も結構いけるのか?)

 器用貧乏、という単語が頭をよぎり焦って打ち消す。

「――ということで、襄陽城の内部はここ最近かなり改修が進んでおり、今までの内部構造図は役に立たないと、私たちは判断しています」

「では、速攻はしないと」

「いくら勇名で鳴らす孫呉でも、虎口に徒手空拳でつっこみはしないでしょう」

「……さっき暴虎馮河って言ってませんでした?」

「……ただのたとえ話じゃない?」

 公孫越の微量の皮肉が含まれた言葉に荀攸が肩をすくめる。

「こほん。え〜〜、なので、まずは攻めると見せかけて内部を探る細作を侵入させます。城内部の兵数、食糧庫の位置、糧食の概数なども含めて探れれば勝利はかなり近づくでしょう」

「実行するのは難しそうですね……」

 朱里が難儀そうな顔をする。。

 それに、陸遜がほほえみかけた。

「安心してください〜、策もありますし、こちらの偵察部隊は優秀ですから〜」

 ぽよん、と胸を揺らし、請け負う。

「…………そうですか」

 朱里は棘のある声を漏らした。

「で、その間私たちは包囲を維持しつつ、派手に攻めるフリでもしてればいいの?」

 と荀攸。

「そうしてくれると助かります」

 それから、攻めのタイミングと、守りのタイミング、その合図などの確認を終え、作戦のより細かい部分を詰め、一時間近くかけて、軍議の終わりがみえてきた。

 最後の締めに、孫策が再び立ち上がった。

「前日の会戦と違い、長期の戦いとなる。城の陥落前に士気を落とさぬよう、こちらの補給は万全に」

 居並ぶ将星達を前に、静かに、口火を切る。

「諸将らの健闘を祈る!」

 

-3ページ-

 

 9話前半でした。

 引き続き後半もよろしくお願いします。

 

説明
 えー……大変遅れて申し訳ありません。
 半年以上ぶりの第9話です。
 パソコンが壊れたとかHDDが壊れたとか言い訳はあるのですが、主な原因は自分の怠惰ですほんとすいませんorz
 1話五万文字近くになってしまったので、分割しました。後半を10話としてわけるには区切りといえる区切りがなかったので、全部通して9話ということで。
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