よるのそこ |
俺たちは小ぢんまりとした、少し古いけどその分瀟洒で味のある赤煉瓦造りのアッパルタメントにみんなで住んでいた。
1階にはガレージと物置があって、201には堅物リーダーのリゾット、その隣にミスターシルバニア・ホルマジオ、そして203には理詰め引き籠り野郎イルーゾォ。 3階には端からソルベとジェラート(この二人に関しては隣室にするのがあまりにも自然だった)(まあ言うに及ばないな)、そしてそんな二人と組み合わされて割を食ったのが短気な重箱の隅の住人、ギアッチョ。4階に上がって、401に存外にずぼらな面のあるプロシュート、隣が金魚の糞野郎ペッシ、そして最後、403号室に俺。
経済的に豊かとは言い難いからひとつのアッパルタメントを全室借りきって、その分家賃やなんかを優遇して貰っていた、らしい。俺はそこらへん、よく関与してなかったから詳しくはないんだが。
仕事でもプライベートでも一緒で嫌になるかと思うかもしれないが、そんな心配はなかった。と言い切るにはいささかの誤謬があるものの、俺たちはまあそれなりに仲が良くて、毎日面白おかしく楽しく慎ましく健やかに、喋り、笑い、そして殺っていた。
そんな生活、あるいは日常が一変したのは、ソルベとジェラートが物言わぬ姿で帰ってきてからだ。
俺たちは(胸の裡はどうあれ)組織に尽くしてきた。少なくとも俺はそう思っているし、きっとあいつらだってそうだろうよ。
薄給だろうが疎まれようが、与えられた任務をきちんと、時には求められた水準以上に熟してきた。それなのに、組織は俺たちを裏切った。
ああ、否。
裏切ったという表現は適当じゃあないかもしれない。最初っから、俺たちは信用されていなかったんだからな。軽んじられていた、あるいは侮辱されていた、という方が正しいと思う。こういうときにギアッチョの野郎がいたらもう少し、語彙は豊富だったかもしれないな。
もちろん、俺たちだって仕事の面で尽くしたとはいえ、組織に心の底からの忠誠を誓ったわけじゃあない。そもそも俺たちに「忠誠」なんか無かった。「しかし忠烈、素晴らしきかな!」と叫んだのはハムレットだったか、リア王だったか。こういうのはイルーゾォの守備範囲だ。俺の知ったことじゃあない。
また話が逸れたな。いずれにせよこれは、あってはならない『裏切り』だった。恩を仇で返す、という言葉が極東の国にはあるらしいが、まさにそれだ。
俺たちはごぽごぽと沸騰し、胸の内側を爛れさせる怒りをそのままに、組織――パッショーネへの復讐を誓う。
そこからの経緯は割愛することにする。これまで散々人を殺めておいて今更だけれど、仲間が死んでいく様子を子細に描写できるまでには、俺はまだ冷静になっていない。
けれど結論だけ言えば、まずは先陣を切ったホルマジオが、つぎに物静かな分感情を秘めたイルーゾォが、そして誰より仲間想いなプロシュート、それを追う様にみんなに懐いていたペッシが、その後に世界一の間抜け、無益に生き残っただけの俺が、そしていきりたったギアッチョが、最後に、有能で無骨で部下想いのリゾットが、揃って俺の前から居なくなり、そしてこれから永劫に再開することは無い(いや、永久の旅路の途中であるいは)(それなら俺は迷わずそちらへ歩き出す)。
思い出すのは任務のことより、なんでもない日常のことが多い。 猫を相手に喋り立てるホルマジオ、その言葉遣いが気に入らなくて暴れるギアッチョ、鏡の世界でシエスタでも決め込もうと退散するイルーゾォに、おろおろと展開を見ているペッシと、我関せずで爪の手入れをしているプロシュート、俺はそんな言い争い、あるいはそれを超えたじゃれ合いを煽り立て、リゾットは大概自室で難しい書面と闘っていて、そしてキッチンからソルベとジェラートの焼くクッキーの良い匂いがしてきて、結局なんだかんだでみんなそれに群がる。
そんな当たり前で、もうここにはない、そしてこれからも再び見えることは無い光景。
意識が急激に浮上する。いや、駆け上がると言った方が正解に近いのかもしれない。どちらにせよ俺が目を醒ましたそこは夜の底だった。
肌触りの良いシーツに包まれて、俺は横たわっている。さっきまで脳裡を走っていた光景が、断片的に弾けては消えた。ああ、俺の愛おしく面白おかしい仲間たち。 みんなみんな居なくなってしまったのに、俺はまだここに居た。ここ、というのは、つまりそう、此岸に。
「………はぁ」
無意識に呼吸を止めていたことに気が付いて、不器用に息を吐いた。感傷? 俺らしくもない!
夜の底。真夜中。俺は緩慢に上半身を起こした。
真っ暗な部屋の中で、俺の手と白いシーツがぼんやりと浮かんでいる。こめかみを伝う汗の感触が気持ち悪い。感傷に浸り昔を顧みる俺などもっともっと気持ち悪い。
顔を歪めながらゆっくりと隣を見る。俺の手や白いシーツなんかより、ずっとずうっと綺麗に夜闇に浮かび上がっている、黄金の髪。伏せられた睫毛は腹が立つほどに長く、薄らと開いた唇はギリシア彫刻よりも美しい。
17歳とはとても思えない、凄味のある眸は今は見えない。それでいい。
俺はこれまたゆっくりと、身体の重心を傾ける。最上級のスプリングはまったく音を立てない。
しなやかで筋肉質の痩躯、その腹の部分に跨った。どことなく体温の低いおとこだ。 ゆっくりゆっくり、世界が静止したかのような遅さで、俺は腕を動かした。喉仏の形がくっきりと綺麗に浮き出している首に、ゆっくり掌を合わせる。指をすうっと精一杯伸ばして、両手の指がきっちり触れ合う程度の太さ。
息を大きく吸って、そして詰める。これまでのゆっくりとした動作から一転、今度は一瞬で、その手に全霊の力を込める。
ネアポリスはおろかイタリア全土に勢力を広めるパッショーネ。この組織はここ数年で大きく舵を切った。麻薬とのつながりを切り、市民との共存を果たし、ある種警察よりも健全な機構になりつつある、その功労者たる若きボスが眼を開いた。
その瞳の中に焦りの色が微塵もないことに俺はどうしようもなく苛立つ。
「……メローネ」
僅かに掠れた声が俺の名を模った。俺がこれだけ力と重みを掛けて締めているにも関わらず、彼は平然としてその唇には薄い笑みさえ浮かんでいる。
ジョルノ・ジョバァーナ、あるいは汐華初流乃。
圧政を布いた先のボスであるディアボロを倒し、新たなボスとして君臨して組織の方向を転換し、その過程で俺の、家族同然の(あるいはそれ以上の)仲間たちを次々と屠ったおとこ。
そしてなぜか、なぜか生き残ってしまった俺をなぜか手元に置き、なぜか愛を囁くおとこ。
「僕が憎いですか」
今度はしっかりとした声がそう問うた。
憎い。
殺したいほど、そう、いまこの瞬間手に掛けているほど憎い。
俺はこれまでたくさんの人間を殺してきた。それが生業だった。
けれどこうして、俺自信の憎しみで対象を消したことなんてない。こんな感情とそれに伴う行動に囚われたのは初めてのことで、俺はどうしたらいいか解らない。俺は「データ不足」に弱いんだ。
そう、どうしたらいいか解らない。俺から総てを奪って、そしてその空虚にあふれるほどの愛を注ぎ、首を絞められたまま笑うこのおとこを。そしてそのおとこに絆されそうになっている俺を……いや、これは嘘だ。ほんとうはもうとっくのとうに。
「憎い。憎くて憎くて堪らない」
俺の涙がジョルノの頬に、ぽたぽたと数滴落ちた。……涙? 俺の?
馬鹿げている。ああ、馬鹿げているさ、こんな世界、こんな人生、こんな夜!
ジョルノは困ったように笑ってそれを拭うと、そのまま腕を上げて俺の眦に触れた。
「泣かないでください、メローネ」
最早俺は、自分がこのおとこの首を絞めているという動作を忘れそうだった。それくらいにジョルノは平然としていて、たぶん俺の手はもう力を殆ど失っている。
「返してよ、ねえ俺の仲間を、みんなを、返して」
かえして、と繰り返しながらその双眸から眼を逸らした。その瞳が放つ覚悟を、気概を、黄金の輝きを、直視することなんて出来ない。そうするにはあまりにも後ろめたくて、そして俺じゃあ役不足だ。くそッ、こんな精通来たてみたいな糞餓鬼に、そんな。
「……すみません、メローネ、それは出来ません」
ジョルノは困ったような笑みを保ったまま、静かな声で続けた。
「メローネ、あんたの仲間を殺したことを、僕は謝罪することが出来ません。それは僕がそのことを、悔いても恥じても居ないからです。あれは必要な過程だった」
「……殺してやる。どれだけ時間が掛かろうと、俺がおまえを殺してやるよ、ボス」
「メローネ」
このおとこは、いつだってひどく優しい声で俺を呼ぶ。それが例え、首を絞められている最中であれ。
「良いですよ、メローネ。なら僕はいつだってそれを躱して見せましょう」
ゆっくりと、その力強い両腕が俺の両手を首から外した。彼の白い首には俺の指の痕が醜く残っていて、けれどそれはやっぱり今夜も、彼を絶命には至らしめなかった。
その痕をじっと見ていると、また馬鹿げた液体が瞳から溢れてきて、それは素直に憎い仇の頬まで滴り落ちた。
俺はプロのアサシーノ。仲間の誰もがそれを認めていたし、俺だってそれを自負していた。狙ったターゲットを殺し損ねたことなんてない……いや、これは嘘だ、解っている。だが見逃してくれ、精一杯の矜持と虚勢なんだから。
いずれにせよ、なのに俺は、このおとこ、俺から仲間を奪い俺を愛するこのおとこを、そう、とどのつまり俺が愛してしまったこのおとこを殺せずに二年も経っている。
「メローネ、僕のことをいつまでだって、いくらだって恨んで憎んでくれても構いません。だからその分、生きてください。僕は絶対にあんたに殺されたりしません」
ジョルノはその、お綺麗なツラに落ちて弾けた俺の涙を拭うことなく笑った。
「泣かないで、メローネ」
俺の涙は止まる気配はない。身体中の水分が目から出てるんじゃあないかってくらい、大粒のそれが次々と滴る。非力な自分を呪う涙か、仇をいつまでも討つことが出来ないことへの贖罪の涙か、あるいは。
あるいは、あるいはこのおとこを確かに愛し始めていることへの、自己嫌悪と贖罪と慈しみがないまぜになったそれなのか。
嗚呼、馬鹿げている!
「メローネ」
いつも通りのひどく慈愛に満ちた声で俺を呼んで、ジョルノは微笑んだ。
「愛しています、メローネ」
馬鹿げている。
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暗くて、らしくなくて、馬鹿げたメロジョル。ジョルメロ……? | ||
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