ハーフソウル 第六話・ウルヴァヌスの血月
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一 ・ 始まりの夜

 

 皇宮内の一室に、老人がいた。人目を避けるためにあつらえた小部屋は、目張りを施すように黒く塗りこめられ、窓という窓は、すべてカーテンで覆われている。

 質素な木製のテーブルには、黒いビロードの掛け布が敷かれ、その上には、鏡のように磨き上げられた銀盤が、据えられていた。

 

「……面倒な。『狂』まで現れおったか」

 

 しきりに銀盤を覗き込み、老人はぶつぶつと独り言を呟いた。

 

「だがこれは、わしにとっても好機。逃す手は無い。今宵は、王器の集う祭りとなろうぞ」

 

 しわがれた含み笑いをし、老人は銀盤に覆いをした。椅子から立ち上がると、音も立てず、掻き消えるように部屋を後にした。

 

 

 

 

 大陸東部のレニレウス、北部ダルダンの領境にある森に、彼らはいた。レニレウス公爵の領内で騒ぎを起こしたために、あまり目立つ行動は出来なくなっていた。

 

「悪かったって! 反省してる!」

 

「……反省も何も、違法賭博なら、警備兵呼ばれても文句言えないだろ……」

 

 必死に謝るラストに、セアルは呆気に取られた。

 

「ちょっと懐が寂しかったんで……。この件で面倒が起きても、ちゃんと処理するからよ。それよりも今は、ダルダン領へ入った方がいいとは思うぜ」

 

 街を離れてすぐ、警備兵が追跡して来なくなったのは、上部組織に報告をするため戻ったと考えても、おかしくはない。

 

「ダルダン領に入れば安全なのか?」

 

「まあ、レニレウス公爵を知っているんだが、恐ろしいまでの合理主義かつ、守銭奴なんだアイツは……。ダルダン領まで逃げ込めば、逆に面倒と手間が減ったと、喜ぶような男だ」

 

 ラストの言葉に、セアルは驚いた。

 

「公爵と知り合いなんて、お前一体どんな犯罪者だったんだ……」

 

「犯罪者じゃないっつーの! 言っておくが、十年前までは帝都で、軍のお偉いさんやってたんだよ、オレは」

 

「そんな風に見えないね」

 

 それまでおとなしく聞いていたレンも、合いの手を入れる。

 

「レン、お前まで……。まあ、今日はもう日が落ちたし、夜が明けたらダルダン領に移動しようぜ。薪でも拾ってくるわ……」

 

 仲間たちから見た、自分の印象に打ちのめされたのか、ラストは半ば放心しながら、森の奥へと消えていった。

 

「……言いすぎちゃったかな?」

 

「そうかも知れないね」

 

 セアルとレンも、少し反省しながら、夕食の準備を始めた。

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二 ・ ウルヴァヌスの血月

 

 宵の明星が西の空に現れる頃、一人の女が姿を現した。

 黒革の衣装からは素肌がこぼれ、引き締まった細い腰が、女の妖艶さを更に引き立たせている。彼女の目線は、その先にいるセアルに注がれていた。セアルとレンは、女には気付かず、夕飯の準備をしているようだった。

 

「血月が来るわ」

 

 女の薄い唇から、呟きが漏れた。陽の余韻が残る、紅い西の空には、未だ夕星しか見えない。

 

「おや。今日は王冠は無いんだね」

 

 油断していたところに、ふいに声をかけられ、女は驚き振り向いた。

 

「お前は、マルファス!」

 

「キミは……イブリスだったかな。今夜は全ての王器が、一堂に会するかと思っていたのに、残念だ」

 

 ひとごとのように笑うマルファスを、イブリスは睨み付けた。

 

「お前に王冠は渡さない。狙っているのだろう? 全ての王器を手にする事を」

 

「僕だけじゃないさ。もうすぐ現れる骸骨も、王器を全て手許に集めようとしている。あれには、それだけの魅力があるんだよ」

 

 徐々に西の赤みは失せ、天空には黒く垂れ込めたベールが覆い始める。見上げると、東の空が血のようにどす黒く染まっていた。

 

「セアル……。僕がキミを殺さずに済む理由を、その身で証明してくれ」

 

 

 

 

 手ごろな薪を拾いに来たラストは、森の最奥まで入り込んでいた。一晩中寝ずの番をするなら、多めにあった方がいいだろうと思っての事だった。

 

 夕焼けの赤い空の下で、急に手許が暗くなった気がして、彼はふと空を見上げる。

 そこには、見覚えのある青白い月は跡形も無く、赤黒く巨大な満月が、天頂から睨め付けていた。

 

「何だ……あの月は」

 

 尋常ではない雰囲気に、ラストはぞっとした。とにかく、仲間たちの許へ戻らねば。

 走り出そうとする彼の前に、巨大な黒い影が立ちはだかる。赤と黒の歪んだ世界で、黒く大きい影は、ひときわ異様に映る。

 

「どけ!」

 

 小剣を抜き放ち、ラストは影を斬り払った。だが影は、まるで意思でもあるかのように、なお大きく、膨張していく。

 

「この日を待ちかねておりました。我が王よ」

 

 悪寒の正体が口を開いた。影の背後から現れたそれは、骸骨を思わせる顔の、文字通り骨ばかりの老人だ。その怨念に満ちた双眸は爛々と輝き、顎からは煙のように吐息が立ち込める。

 

「宰相……」

 

 ラストは言葉を継げなかった。まさか帝都に到着する前に、直々に本人が出張ってくるとは、思ってもいなかったのだ。

 

「さあラストール様。貴方様の王器と指輪を、お渡し下さいませ」

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三 ・ 王器を持つ者

 

 セアルが川から水を汲んで戻って来ると、空全体が漆黒のとばりに覆われ、鮮血のような月だけが浮かび上がっていた。

 

「まさか、これが血月……」

 

 汲んだ水を放り出し、セアルはレンを探した。「血月は、獣人族に多大な影響を与える」と言ったソウの言葉を思い出す。幸い、レンはすぐに発見できた。ただ、野営地そばの草むらにうずくまって、震えていた。

 

「レン! 平気か? どこも痛くないか?」

 

「セアル……!」

 

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、レンはセアルにしがみついた。

 

「ラストが……。ラストが変なおじいちゃんに殺されちゃうよお! 助けて……。怖いよ……」

 

 その言葉に、セアルは辺りを見回した。特に敵の影も無く、ラストが戻ってくる気配も無い。

 

「わかった。ラストを探してくるから、ここでじっとしているんだ。誰か来ても、絶対に出たらダメだ」

 

 レンの涙をぬぐってやると、彼女は少し落ち着いた。だが震えは止まることがなかった。

 

「大丈夫、ラストを見つけてすぐ戻ってくるから」

 

 レンを優しく抱きしめ、木陰に身を隠させると、セアルは帯剣して森の奥へと駆け出した。

 

 

 

 

「如何なさいました、ラストール様。その程度の力では、大切な皇子と皇女を護るなど、出来ませぬぞ」

 

 高らかに嘲笑う宰相に、ラストはまるで歯が立たなかった。手許に小剣しか無かったのもあるが、斬ろうが突こうが、宰相には全く攻撃が通らないのだ。

 

「そんなモノでは、このクルゴスには、傷ひとつ付けられませぬ。さあ、まずは指輪をお出し下さい」

 

「誰がてめえなんかにやるかよ」

 

 ラストは剣を構えながら、少しずつ後ずさった。だが宰相に狙われている状態では、このまま野営地へ戻ることもできない。

 

「ご安心召されよ。指輪を返還頂いた後は、貴方様のお仲間がいる場所へ、わたくし自ら王器を頂きに参上致します故」

 

 骸骨は黒く穿たれた眼窩を、愉快そうに細める。

 

 その時。

 

 宰相があらぬ方向を向いたまま、ぴたりと動きを止めた。それは、野営地のある方角だ。

 

「来たか……。王器を持つ者よ」

 

 身の毛のよだつ声を上げ、宰相は笑った。

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四 ・ 対峙

 

 黒く影を落とす森の中を、セアルは疾走した。ラストがどこにいるのか分からなかったが、重苦しい雰囲気が辺りを支配している。

 ふいに、開けた場所へと出た。鮮血のような月光は、変わらず煌々と降り注ぎ、見る者を狂気へと駆り立てる。

 

 動く何かの気配に、セアルは目を向けた。剣の柄を握り締め、ゆっくりと辺りを窺う。

 

「……お初にお目にかかる。王器を持つ者よ」

 

 聞き慣れぬしわがれた声に、セアルは振り返った。小柄な老人が目に入る。頭部をすっぽりと覆うフードに隠れて顔は見えないが、明らかに人ではない。その面妖な風貌に、彼は剣を抜き構えた。その様子に、老人が嘲笑う。

 

「全くヒトどもは、このわしが何であるかすら、理解しようともせぬ。この『執』、代行者では下位とはいえ、有限生命に遅れを取るほど非力でも無いわ。左様でございますな? ラストール様」

 

 その言葉に、セアルは老人の背後を見る。そこには血を流し、気を失っているラストがいた。よく見ると、ラストの左掌には、彼の小剣が突き立てられており、樹に縫い留められた格好になっている。

 

「ラスト!」

 

 セアルは驚き駆け寄ろうとした。だが老人に阻まれる。

 

「どけ!」

 

 老人を払いのけようと、剣を真横に薙いだ。だが切っ先が老人に当たった瞬間、まるで布を斬ったような感覚に陥る。

 

「そんなモノでは、わしは斬れぬぞ。さあ抜くが良い! その黒い王器を」

 

 言われるまま、セアルは黒い両手剣を抜き放った。深紅の月に照らされて、黒曜石の抜き身は、血糊にも似た輝きを湛える。

 

「……美しい。これぞ『罪』の王器。旧ダルダン王国から接収された後、目の当たりにするのはこれが二度目よ」

 

 老人は感嘆のため息を漏らした。

 

「あのカラスめが持っておった頃は、どれだけ欲しても、手出しすら出来なかったわ。だがこれで、我が許に全ての王器が揃う」

 

「この剣は、マルファスから預かってるものだ。貴様には渡さない」

 

「預かった、だと? お前は我々代行者をおびき寄せる、エサに使われただけよ。世界を覆す駒であるお前に、王器を持たせる意味は、そのくらいしかなかろう」

 

 老人の嘲笑に、有無を言わせずセアルは斬りかかった。重みのある両手剣は隙が大きく、扱い慣れないために、老人に軽くあしらわれる。

 

「今から、お前がいかに優秀な駒なのか、教えてやろうぞ。……出でよ、三鬼祇!」

 

 老人が大声で呼ばわると、闇の中から巨大な人影が現れた。人の三倍はあるそれは、燃える様な赤い髪を後ろでひっつめ、黒いぼろ布にささくれた荒縄を帯としていた。

 

「何だ、これは……」

 

 見たこともない巨大なものに、セアルは動揺した。

 

「タケハヤよ。その男から指輪を奪え。隠していても分かるぞ。首から下げておる」

 

 タケハヤと呼ばれた巨大な影は、足を踏み鳴らし、狂った咆哮を上げる。老人の嗤い声と影の雄叫びとが、森中に木霊した。

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五 ・ 顕現

 

 痛みと咆哮で、ラストは目を覚ました。大樹に寄りかかるように、彼は失神していた。見れば左掌は剣で貫かれ、幹に繋ぎ留められている。

 

「クソが……」

 

 出血は見た目よりひどくなかったが、傷が深く、しばらくは左手を使えそうにない。痛みをこらえて剣を引き抜き、左手を確かめる。

 

「あの野郎、指輪持っていきやがったな」

 

 中指にあったはずの指輪が無くなっている。だが、これはラストにとっては、想定内だった。

 

「もうひとつの指輪が手に入らなけりゃ、アイツの思い通りにはならないはずだ。あの時に手放しておいて正解だな」

 

 十年前に、帝都で出会った男にラストは指輪を託していた。見知らぬ者同士が持っていれば、宰相には見つけ出せないだろうと踏んでの事だった。

 

「……あの時の精霊人が、今でも持っていてくれていれば、問題ない」

 

 傷口を、あり合わせの布で縛りながら、横目で宰相を探す。目の端に巨大な影が映るのも、時間の問題であった。影の横には宰相。そして、影の前にいるのは……。

 

「……セアル!? あいつ、何でこんなところに」

 

 ラストはふらふらと立ち上がると、痛みをこらえながら、影たちの方へ進み出した。

 

 

 

 

 タケハヤの攻撃は熾烈を極めた。丸太よりも太い豪腕から繰り出す拳は、巨大な戦鎚を思わせた。そしてその腕は、確実にセアルの胸元を狙ってきている。

 

「何故護符が『指輪』だと知っている? 今まで誰にも、見せたことなど無いのに」

 

「我が王器に、映せぬものなどないわ。指輪が持ち出された頃は『眠らされていた』から気付かなかっただけよ。お前の事も全て知っておるぞ。幼い頃、何故鎖に繋がれていたのか。……実の父親が誰なのかもな」

 

 その言葉に、セアルは動揺を隠せなかった。だが今冷静さを失えば、勝てる見込みは無い。実際タケハヤの容赦ない攻撃に、彼は追い詰められつつあった。目的が護符である分、攻撃自体は単調で避けやすい。ただ、どれだけ斬りつけても、ひるむ事のないタケハヤに対して、焦りを感じた。

 

「このタケハヤは、我が召喚鬼神でも随一の剛力よ。ヒトなどに倒せる道理は無い」

 

 次の瞬間タケハヤは、鋭く弧を描いた拳を打ち付けてきた。上空から叩きつけるような攻撃に織り交ぜてきた事によって、意表をつかれる。

 

「……しまっ……!」

 

 間一髪で拳を躱すも、細い銀の鎖はその風圧に耐え切れず、千切れ飛んだ。衝撃で、鎖に通された小さな指輪が、転がり落ちる。

 その時、セアルの頭の中で、何かがガンガンと木霊した。すでに躯は重力に逆らえず膝をつき、両腕で必死に地面を掴む。

 

「なん……だ、これ……」

 

 吹き飛びそうな意識を繋ぎ止めようと、セアルは粘った。だがそれも虚しく、最後に見えたのはカタカタと嗤う骸骨と、怪我を押して駆け寄るラストの姿だだった。

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六 ・ 深淵

 

 傷の痛みをこらえ、ラストが影たちの傍へ寄った時には、すでにセアルの意識は途絶えていた。彼の傍らに転がる指輪を見て、ラストは驚愕した。それは、十年前に手放したはずの指輪だったからだ。

 

「……バカな、何でこの指輪がここに」

 

 よく見ると、指輪には鎖を通されていた痕跡があった。セアルの右手は、それを掴もうとしている。

 

「宰相! てめえこいつに何をした!」

 

 怪我の事も忘れ、ラストは右手で剣を引き抜く。

 

「何もしておりませぬ。ですが、ここからが余興にございますぞ。ほれ、ご覧下され」

 

 言われるままセアルに目を移すと、彼の姿は明らかに別人へと変異していく。蜂蜜色の髪は漆黒へ、白い肌は褐色へ。そしてその眼は血色へと変貌していた。まるで、頭上から煌々と照らす、あの血月のように。

 

 幽霊のようにゆらりと立ち上がるその男に、ラストは息を呑んだ。かつての仲間の面影は微塵も無い。そこにはただ、冷たい眼をした『何か』がいた。

 

「――幾久しい時を眠っていた」

 

 セアルだったモノは、口を開いた。そこから漏れ出る声は、やはりセアルではなく、地獄の底から響き渡る、亡者の声を思わせる。

 

「我を召喚した者は誰か。この肉体を与えた者よ。千年前のように、契約を交わしてやろう」

 

 その言葉に、ラストは何かを思い出しそうになる。薄ぼんやりとした。夢の中の、女の言葉。

 

「深淵の……」

 

 ふいにそんな言葉が、口をついて出た。その声に、男がラストへと振り向く。

 

「ヒトよ。お前が此度の召喚者か? ならばこの肉体と引き換えに、我に従属の印を与えよ」

 

「違う……。オレじゃない。お前など、誰も召喚していない」

 

「誰も? 召喚者が不在ならば、我はいかなる制約も受け付けぬ」

 

 ふと男は、じっとラストを見据えた。

 

「不思議なものだな、ヒトよ。お前には縁を感じるぞ。千年前に、我が依り代となった男は、実にお前によく似ておる」

 

 ぞっとする微笑を湛え、喉の奥で笑うと、男は宰相へと向き直る。

 

「久しいな、代行者『執』。千年来か」

 

「お久しゅうございます。深淵の大帝よ。先の大戦は、誠に惜しゅうございました」

 

「ただのヒトに、我を排する力など無いと、侮っておったわ。我は何処にでも、誰にでも存在する。此度こそは、この箱庭の全てを蹂躙し尽そうぞ」

 

 そう言うと、男は黒曜石の剣を拾い上げた。重量のある両手剣を片手で軽々と扱い、その切っ先をラストへと向ける。

 

「まずはお前の血をもって、審判の狼煙にするとしよう」

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七 ・ 夜明け

 マルファスとイブリスは、それまでの経緯を、少し離れた森の中から窺っていた。深淵の大帝が顕現したあたりで、イブリスは、悔しそうな、哀しそうな表情を見せた。

 

「何故、キミがそんな顔をするんだ」

 

「お前には、関係ない」

 

 イブリスは、吐き捨てるように言った。

 

「私はもう戻らなくてはならない。セアルに深淵の大帝が顕現してしまった以上、一刻の猶予も無い。任務に二度失敗してしまった以上、責は免れまい。お前に会うことも、もう無いだろう。さらばだ」

 

「……三十年以上も昔の事だけど」

 

 マルファスは、突然口を開いた。

 

「ひとりの人間の娘が、魔獣に乗せられて、封印の森へと辿り着いた。女は子を孕んでいて、放っておけば母子ともども死ぬ運命だった。あの魔獣は、キミのものだよね? 先日見たとき気付いたよ」

 

 その言葉にイブリスは、はっとした。だがすぐに冷たい表情に戻る。

 

「デルミナは……。セアルの母親は、私にとって恩人だ。ただ、それだけだ」

 

 ぽつりと応えると、イブリスは溶け込むように、闇の中へと消えていった。その姿を見送り、マルファスは呟く。

 

「巡り合わせは、本当に残酷だ。そしてその運命を弄ぶ、僕たち代行者も――」

 

 

 

 

 男に剣を向けられ、ラストには逃げ場が無かった。一歩、また一歩と近づく男に、なすすべも無い。

 その時ふと、例の指輪が目に入った。圧倒的な状況に、宰相も高を括っているのか、未だ拾われてはいない。ラストは、セアルが指輪を拾おうとしていた事を思い出した。視線は指輪には向けず、男を睨んだまま、彼はつま先で指輪を蹴った。

 

 指輪は音も立てず転がり、男の足元へと滑り込む。男が踏み出し、剣を振り上げた瞬間。足元の指輪を踏みつけ、急に糸の切れた操り人形のように、がくりと躯を折る。

 

 倒れ込んだ男は、無意識なのか、右手を伸ばして指輪を握った。

 

 ――その瞬間。

 

 指輪を握る右手からゆっくりと、黒の侵食が消えてゆく。それは次第に全身へと広がり、ラストの知るセアルへと戻っていった。ただ、その双眸は血のように紅く輝いたままだ。

 

「セアル……なのか?」

 

 剣を手に立ち上がった様を見て、ラストは問う。

 

「……俺が、他の何に見えるって言うんだ」

 

 その言葉に、ラストは安堵のあまり、その場にへたり込んだ。

 

「まだ安心するのは早い。あいつを倒さなければ」

 

 セアルは宰相へと向き直る。

 

「おのれ……。駒のくせに、神の力を手にするとは、許せぬ! この場で殺して、新たなる駒を作ってくれるわ!」

 

 宰相の命に、タケハヤが襲い掛かった。捻りを加えた渾身の一撃を、セアル目掛けて振り下ろす。それを躱しもせず、彼は左手に構えた剣で鋭く薙いだ。拳もろとも胴まで両断され、タケハヤは断末魔すら上げずに消え失せた。

 

「躯を乗っ取られている間、あいつは自分のしている事を、すべて俺に見せ付けてきた。きっと今まで依り代になった奴も、そうやって苦痛と呵責を、与えられていたんだろう。それが『世界を覆す駒』なら、そんなものは全てぶち壊してやる!」

 

 そう言うと、セアルは宰相へと剣を振り下ろす。骨の砕ける鈍い音が響き、一言も応える事なく、宰相は骨の残骸と化した。

 

 宰相が沈黙したのを確認すると、セアルはふっと意識を失い倒れた。ラストが駆け寄ると、ただ眠っているだけのように見えた。東の空を見ると、すでに白みかけており、血月は跡形も無く消えている。優しく射しこむ陽光が、彼らを柔らかく照らした。

 

 セアルを安全な場所へ寝かせると、ラストは宰相の残骸から、自分の指輪を探し出した。セアルの使っていた銀の鎖もあったが、千切れているために、こちらは使えそうにはない。

 

「やはり、思った通りだ」

 

 聞き覚えのある男の声に、ラストは驚いて振り向いた。そこには眠っているレンを抱え、ラストの王器を携えた、一人の若い男が立っている。

 

「アンタ……。まさか」

 

「そう。顔を合わせるのは初めてかな。僕はマルファス。代行者『罪』だ」

説明
創作歴史と創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。武器戦闘をメインにしてあり、魔術はあまり描いていません。男主人公。獣耳少女と男二人で旅をします。8287字。
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ファンタジー 創作 オリジナル 獣耳 ダークファンタジー 異世界 バトル ハーフソウル 

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