一度鍋を食べたことがある |
独り身とは寂しいものだ。冬だというのに鍋を作れない。なぜなら大勢で囲めないから。鍋とは囲んでつつくもの、僕の常識ではそうなっている。あいにく、家に呼べるくらいに深い仲の知り合いはいない。ゆえに僕は鍋を食べれない。
胡坐を崩して立ち上がり、窓越しに外を眺める。寒さのせいか、心なし空気が澄んでいるように思える。おかげで遠くの町並みまではっきりと見えた。視線を巡らせていると、近くの道路に淡い街灯で照らされる、小柄な影が目に留まった。
影を注視すると、それが蹲った人であることが分かる。服装までは分からないが、たとえ厚着だったとしても、この季節に外で蹲るとは命知らずな輩だと思った。蹲っている人から視線を外し、その人がいる道路の辺りを見渡す。蹲っている人以外に人影は見当たらない。
一旦窓から離れて、点けっ放しにしておいたテレビに目を向けた。手を伸ばして床に置いてあるリモコンを握り、二三度ボタンを押してテレビに天気予報を映す。タイミング良く、今夜からの天気を予報していた。予報によると、今夜は雪が降り寒くなるらしい。寝るときは暖房が必要なほどとも、テレビに映る予報師は言っていた。
もう一度、窓から道路辺りに視線をやる。相変わらず小柄な影は見てとれた。
溜息を吐いて玄関へ向かう。ふと、上着もいるかと思い踵を返した。
小柄な人影に近づくが、大きな反応は見られない。声をかけても反応が無い。今一度反応の無い人影の姿を観察すると、蹲って顔こそ分からないが、歳は高く見積もっても中学生ほど、低く見ればそれこそ小学生にも見える。着ている服は薄汚れているが、そう何日も着続けているようには思えない。せいぜい二日か三日、それくらい日数しか着ていないはずだ。性別の判断はつかないが、着ている服は男物だし、ともかく少年とは呼べるだろう。
家出かそれ以外か、僕には判断がつかなかったが、声をかけて反応が無いから見捨てる――というのは、少しばかり心苦しかった。僕は片膝を突いて少年の背丈に合わせると、腫れ物に触るように慎重に、少年の肩に片手を置いた。そのまま手加減しつつ肩を揺さぶる。
すると、少年が蚊の鳴くような細い声で呻いた。呻き声の内容は分からないが反応は見れた。僕は少しだけ力を加え、また肩を揺さぶる。少年が緩慢な動作で頭を上げた。少年の顔は中性的な印象を受ける美顔だが、頬や鼻頭が脂で照かり、その美顔を台無しにしていた。どうやら風呂に入っていないらしい。
「ご飯」
小さな囁きが聞こえた。搾り出した声を出したのは少年で、内容はあまりにも率直な要求である。僕は苦笑を浮かべると、少年の腕を自分の肩に回して体ごと抱え上げた。少年の体が浮かないように膝を曲げ、自宅へと足を向ける。
肩を貸すなんて本当にすることがあるのだな、などと心中で呟き、少年の軽い体を半ば引きずって一歩踏み出した。
年中出しっぱなしの炬燵机の上には、炎を吐き出してくれるか心配のあったカセットコンロが、野良猫の寝床にでもしようかと思いもした土鍋の底を、青い火でチリチリと焦がしていた。土鍋の中には鰹と昆布でとった出汁が注がれ、冷蔵庫に詰めてあった具材が程良く煮込まれている。
左手に持った取り皿に、箸で火の通った豚肉と白菜を放り込む。さらにお玉で鍋から出汁をすくい、同じ取り皿に注ぐ。その取り皿を、対面に座る少年の前に置いてやった。箸はすでに渡してあるため、少年は作法など無視して口を取り皿に持っていく。犬食いである。
しかし、いくら腹が減っていても熱い物は熱かったらしい。少年は跳ねるように上半身を後ろに倒し、口に両手をやり身悶えた。僕は冷水をコップに注ぎ、取り皿の近くに置く。しばらくして少年は起き上がり、コップに気付くと浴びるように冷水を飲み干した。勢いそのままに空いたコップを片手に持ち、俺に向けてコップを差し出す。薬缶からコップに水を注ぐと、それを置いて、少年はまた取り皿に食らいついた。
その食べっぷりに呆れつつ、僕も自分の取り皿に入れてある具材を口に運ぶ。じんわりと口の中に熱が広がり、舌に豚肉の味が伝わった。
少年は取り皿の中身を空にすると、自分の箸を鍋に突っ込み、荒い動作で具材を掻っ攫っていく。取り皿には入れず、そのまま口へ放り込み、熱に耐えつつ具を噛み締める。飲み込めば、また一連の動作を繰り返した。
彼は顔にそぐわぬ野性味を、酷く溢れさせていた。
食事が終わると、少年は僕に対しお辞儀を繰り返した。その時に自己紹介をされ、彼の名前と年齢、性別を知ることができた。名前は朝美、年齢は今年で十四、性別は女らしかった。彼ではなく彼女だったのだ。
僕は朝美の性別を知ると、彼女に性別を勘違いしていたことを深く詫びた。恩義もあるし気にしない、と彼女は笑って許してくれた。ついでに警戒心も解いてくれたようで、雑談に興じることとなった。
結論から言うと、朝美は家出少女らしい。思い当たる理由もなく学校で虐めを受け、転校の意志を両親に告げるも、理解を得られず衝動的に飛び出したのだそうだ。
「お兄さんに拾ってもらえて、本当に助かりました。寒くてひもじくて、本当に死んでしまうかと思ったのです」
彼女はどうやら、僕のことをお兄さんと呼称することにしたようだ。
「拾ってもらえてなんて、まるで自分を動物みたく言うんだな」
「実際、拾われるまで動物みたいな生活でしたので。三日間だけですが、それでも私にはとても長く感じました」
朝美は家出してから現在に至るまでを、まるで武勇伝でも語っているかの如く活き活きと話してくる。しかし、朝美に家へ帰る気はあるのかと訊くと、俯いて黙り込んでしまうため、僕はその話題に触れないよう心がけた。
しばらく話を続けて、僕は朝美にちょっとした情を感じてしまったので、頃合を計って彼女に今日はここに泊まれば良いと提案した。彼女は最初こそ遠慮し断っていたが、寝床の誘惑に耐え切れず、すぐに折れて僕の提案を受けてくれたのだった。
朝日の眩しさから目を覚ますと、布団の上で三角座りをした朝美の姿が視界に入った。彼女は至極ぼんやりと、こちらを眺めているようである。
僕は朝美と視線を交わすだけで、体を起こさないようにした。しばし見詰め合うと、彼女は視線を逸らして頬を朱に染め、それを隠すようにそっぽを向く。幼く愛らしい感性を持っているようだ。
寝起きの靄がかかった頭のせいか、僕は深く思考せずに朝美に声をかける。間を置かずに彼女は「なんでしょう」と返事をした。
「家に帰りたくないんだよな」
「まあ、そうです」
昨晩よりは幾分かましだが、やはりこの話題での朝美の反応は芳しくない。それでも僕は言葉を続ける。
「僕もな、家にいたくないんだ。大学を卒業できる目途が立たなくてな、両親が実家に帰ってこいって、うるさくて仕方無い」
代返をしてくれる知り合いがいないのに、一人で遊び呆けていると、いつの間にか大量に単位を落としてしまっていた。朝美を助けたのも、何か同属意識を感じたのかもしれない。
「お兄さん、私と似たような状況だったのですね」
「うん。だから、僕と旅に出ないか」
僕の台詞に朝美はいたく驚いたのか、目を丸くして呆然としてしまう。彼女は数秒で我に帰り、慌しく口を開いた。
「旅、旅とはいったい」
「ふらふらと、どこかに行こうってことだ。旅費は僕が持とう」
「でも、そんな突然言われましても」
「僕も寝起きで突然言いたくなったんだ。君が両親から逃げてるのを見て、僕も逃げたくなった」
「それは逃げてるのは分かっていますが」
「責めてるわけじゃない。僕も逃げるから、ついでに誘ってるんだ」
ここで、朝美は僕との会話を止めた。この日の夜まで彼女はだんまりを決め込み、寝る直前に「私も連れて行ってください」と一言囁かれた。
こうして、僕と朝美は旅に出ることになったのである。
自宅に鍵をかけ、僕と朝美は並んで歩き出した。お互い服装は簡素なもので、大きなリュックサックを背負っている。リュックの中身は主に着替えで、この日ために買い込んだ物だった。
「私にはこのリュック、少し重いかもしれません」
隣を歩く朝美が不満を漏らした。
「その内慣れる。さて、どこに行こうか」
「疲れたら持ってもらいますよ。私は電車に乗りたいです」
「電車か、良いな。旅っていう感じがしてくる」
「そうでしょう。早速、駅に行きましょう。リュックが軽く感じてきました」
近くの駅で青春十八切符を買い、僕と朝美は電車に乗り込んだ。昼過ぎなので、他の乗客はちらほらとしか見えない。僕が空いた席に座ると、隣に朝美が腰を下ろす。そこから他愛のない雑談が始まった。どうしてこうも話の種が尽きないのか、自分でも不思議に思うくらいに話し続けた。その時の彼女は家出少女とは思えないほど、明るい顔をしていた。
その内疲れて寝てしまい、終点で車掌に起こされて電車を降りた。そんな時でも、朝美は明るく笑っていた。
半月の間、僕と朝美の旅は続いた。海を眺め、山に登り、星を見て。季節はずれの花火をしてみたり、ネットカフェで一晩遊んでみたり、デートと称して街を歩いたり、色々なことをした。逃避行とういうより、思い出作りになっていたのかもしれない。
そして、旅の終わりは呆気のないものだった。旅費が尽きたのである。所詮は貧乏大学生の財布だった。むしろ、半月もよくもったものだと思う。
朝美に家に帰るよう言った。彼女は嫌だと言うが、最後には渋々ながら納得してくれた。
朝美の両親はそこまで悪印象を抱く人ではなかった。彼女から聞き出した電話番号に発信し、迎えにきてもらったのである。朝美の両親は僕が娘を保護してくれた好青年だと判断したのか、終始感謝の言葉を口にした。だが、両親に連れられて別れる直前まで、朝美は僕に何も言わなかった。ただただ僕に何かを懇願するような、期待するような、そんな視線を向けるばかりだった。僕はなんとなしにその視線の真意を汲み取れてはいたが、それを口にすることはなく「朝美ちゃん、元気でな」と無難な台詞しか言えなかった。
「お兄さんも、お元気で」
最後に聞いた朝美の言葉は、落胆を隠さない暗い声だった。
それから二年経って、大学はなんとか卒業できたものの、僕には鍋を囲む知り合いはいないままだ。肌寒くても、炬燵に潜り込むことしかできない。土鍋を野良猫にやる日も、そう遠くはないかもしれない。
不意に窓の外に視線をやる。窓から見える街灯の下には、もう蹲る人影などありはしない。
説明 | ||
深夜のテンションで書き上げたもの。ビターエンド気味なのはテンションが続かず尻すぼみになったせいさ | ||
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