時川の船頭 二話 |
二 侵食する闇。流された血
七月三十一日。今日は日曜日だ。
といっても、学生はもう夏休みに入っているから、毎日が日曜日みたいなもの。渚沙は今日、朝から友達の家まで出かけて行った。
午前中は一緒に宿題をして、午後には隣町まで遊びに行くらしい。
僕はと言えば、自由研究だ。テーマはこの町に伝わる伝説について。
……という訳で、今日もまた、あの川まで行く。
今度は何かを検証する訳でもなく、ただひたすら川を観察するだけだ。そして、ユヅルが現れるのを待つ。
暑さ対策にうちわとジュースも用意して、暇潰しに携帯ゲーム機も持って行く。
我ながらちょっと必死過ぎて、自分に対してストーカーの嫌疑をかけたくなって来るけど、この行動の原動力は、純粋な愛だ。
その愛が純粋である限り、ストーカーではないと思う。……そう思いたい。
それに、今日会うことが出来なかったら、その時はもう、諦めるつもりだ。
いつかまた、過去を変えたいと思うほど辛いことが僕の身に起こった時、再会出来るかもしれない。それに賭けるのも、悪くはないと思っていた。
*
「何これ、ここの土地神ってば、自殺願望でもあるの?出来過ぎてるってぐらい、出来過ぎてるんだけど!」
家を出る永を、監視する目が二対。
片方の赤い目の持ち主は、今にも踊り出さんばかりのテンションで相方に話しかけた。
「天に神はいないが……正に天恵というものだろうな。――ハルカ、追え。俺は不測の事態に備えておく」
興奮する金髪の巫女装束とは逆に、洋装の男は冷静さを失わずに淡々と指示を出す。
一度はそれに面白くなさそうに半眼になった少女だが、発言力では男の方が上らしい。不承不承の体で頷いた。
それから、口の中で何かを唱えて拍手を打つ。すると、少女の体は光に包まれ、次の瞬間、光が消えると共に身にまとっていた巫女装束は消え失せ、代わりにその辺りの同じ年頃の少女が着ていてもおかしくない洋服姿の少女が現れた。
「やっぱり、こっちの服も悪くないわね。じゃあ行くけど、多分アンタの出番はないわよ」
一方的に言って、少女は永の言った方向……川へと小走りに去って行く。
「……あの慢心さえなければ、俺の気苦労も少しは減るのだがな」
男は、少女の後ろ姿に向かって吐き捨て、それとは逆の方角へと向かった。
*
あの川は、今日も昨日と同じように微風と共にあった。
まず心配はないと思うけど、人に見つかるとややこしくなるので、草むらに身を隠す。全身は隠れていないけど、こうしていれば言い逃れ方はいくらでもあるだろう。
……昆虫採集とか、熱中症で倒れそうになって、休んでいるとか。……苦しいか。
待っている時間は長いもので、数時間にも感じる速度で、やっと三十分が過ぎ去った。
一応ゲームはやっているけど、あまり熱中し過ぎてもいけないので、アクションゲームではなく、自分のペースで出来る戦略シミュレーションゲームをしている。
いつもはそれでも、時間が流れるのを早く感じるものだけど、気が急いているのだろうか。
「やあ、少年。こんな所で待ち合わせかな?」
初め僕は、それをゲームの音声と間違えた。
あまりにその発言主の気配がなさ過ぎて、後ろにいるのだと気付かなかったからだ。
けど、ゲームの音量は最低にしているので、こんなにはっきりと聞こえる筈がない。
左右を見渡し、顔を上げて遠くまで見て、それでも相手が見つからないので、最後に後ろを振り返ると彼を見付けられた。
「あ、あなたは?」
見ると、二十代前半だろうか。優しそうな朗らか顔のお兄さんだ。髪を茶色に染めているけど、不思議とチャラチャラとした感じや、悪い印象は受けない。
顔や雰囲気から、誠実さがにじみ出ているから、そう感じ取れるのだろうか。正に「好青年」という感じだ。
「驚かせてしまったみたいだね。ぼくは野宮。この川が好きでちょくちょく来るんだけど、君を見るのは初めてだったから、つい声をかけてしまったんだ」
青年――野宮さんは、申し訳なさそうに眉を落として、軽く頭を下げてしまった。
これじゃまるで、野宮さんに謝らせたみたいで逆に申し訳ない。
「い、いえ。僕の気が小さいだけですから。気になさらないで下さい」
ゲームを置いて、慌てて姿勢を正し、深々と頭を下げる。
よくよく考えてみれば、ゲームしながら年上の見知らぬ男性を見上げて、いきなり自己紹介させたんだ。態度がデカいにも程がある。
「いやいや、ぼくにも責任は……って、このままだと堂々巡りになってしまうね。この辺りにしておこう」
「あ、はい。えっと、僕は朝見です。ここに居る理由は、その……」
まさか、伝説が本当なのか確認するため……なんて言えない。確実にひかれるだろう。
変な出会い方をしてしまったのだから、せめてこれ以上野宮さんに悪い印象を抱かせたくない。すごく良い人っぽいし。
「言いにくいなら、無理に言わなくて良いよ。大事そうな用事だというのは、君の真剣さでわかるから」
「えっ……別にそんな、大した用では……。ただ、人を待っている感じです。向こうはどうも思っていないだろうけど、僕にとっては大事な人を……」
言い終えてから、かなり誤解を生みそうな言い方だと気付いた。
というかこれ、ストーカーか、好きな人を呼び出して告白しようとしている思春期男子Y君の図にしか思えないっ。盛大な自爆だっ。
「ははは、ごめんね。誘導尋問みたいになってしまって。……しかし、そうか。やっぱり君は」
「えっ……?」
何かを悟ったように野宮さんは声のトーンを落として小声で呟く。
その顔には、今まで通りの朗らかさは残っているけど、どこか別人のように感じる。
いつもは明るいキャラクターを作っている役者さんが、楽屋裏ですごく暗い本性を明かしているのを見てしまった時のような、見てはいけないものを見てしまった気がして来た。
「唐突だけど、君の待っている女の子は、地に付きそうなほど長い白髪の……いや、まだるっこしいのは良いや。ユヅルという名前の娘だろう?安心して打ち明けて欲しい。ぼくは全て知っているから」
次に野宮さんが僕を見た時、彼はさっきまでと同じ、穏やかで柔らかい声でそう言った。
顔も朗らかで、さっきまでの野宮さんと寸分変わらない。それなのに、その声には見えない強制力があった。命令されている訳でもないのに、彼に真実を全て打ち明けなければ、いけない。そんな強迫観念にも似た力が働く。
「……はい。僕は一週間前の七月三十日、彼女にここで会いました。それで、もう一度会いたいと思ってここに…………」
おかしな言い回しにも、疑問を抱くことなく野宮さんは僕の言葉を受け止めた。
ということは、本当に全てを知っているのだろう。この川の船頭の存在や、この川を彼女の小船で溯ることの意味を。
「やっぱり、そうなんだ。この川に人が寄り付くなんて、何事かと思ったけど、それなら納得も行く。……じゃあ、そうだな。ユヅルも交えて、少し話をしようか」
ユヅル?その名前を聞いて、胸がどくん、と高鳴った。
野宮さんは、まるで友達の名前を挙げるかのように、その名前を呼んだ。
僕が会いたいと願いながらも、きっともう会えないだろうと思っていた、その人の名前を。
その事実が野宮さんもまた、人知を超えた存在であることを知らせてくれる。
「……野宮さん、もう一度、訊いても良いですか?」
「うん。ぼくは、きちんと答える必要がありそうだね」
「あなたは……あなた達は、何ですか?」
なんとなく、返って来る言葉は予想が付いている。
妖怪、幽霊、精霊、神、人を超えた人……それぐらいしかない候補の内、どれかであるのは間違いない。
そして、ゆっくりと野宮さんは最初の音を出す為、口を動かした。
――その時だった。視界の端に、鉄色の何かがちらりと映り、その一瞬後、温かい水が僕の体を濡らし、野宮さんが地面に倒れたのは。
「その質問には、アタシが答えてあげるわ。アタシ達は神。人が生まれる前からこの国を支配していた古の王よ」
鼓膜ではなく、脳を直接振動させるかのような声の発信主である女の子は、野宮さんの脇腹に突き刺さったものと同じ凶器を手に、僕達のすぐ傍に現れていた。
容易に抜けないように、エッジに返しの付いた大型のナイフが、陽の照り返しでぎらり、と不気味に輝く。
女の子は、声も出せずに苦しむ野宮さんを一瞥すると、満足気に僕の方へ、ゆっくりと歩いて来た。
その様子は隙だらけで、逃げ出すのは簡単に思える。けど、僕の足はぴくりとも動かすことが出来ない。
地面に根が生えたみたい、という比喩では物足りない。地面に無理矢理縫い付けられて、しかも氷付けにされたかのような、絶対的な金縛りに遭っていた。
「アハハ、惜しかったわね。後もう少し発見が早ければ、その子を守れていたのかもしれないのに。ほんっとノロマ。ねぇ知ってる?アタシ達は昨日からその子に目を付けてたのよ。ここの土地神をブッ殺すのに利用出来るかも、ってね」
女の子は僕の前で静止すると、襟元を掴んで一気に地面に引き倒した。
どう見ても僕より華奢なのに、その力は軽く人間を凌駕しているのが、肺を地面に打った時の衝撃でわかった。
一時的に肺の中が空っぽになり、胸の中をかきむしられるような痛みが襲ってくる。
自然と涙が流れて、さっきの金縛りの時の緊張から一転、全身から力が抜けて、立ち上がるどころか、指も動かせそうにない。
「ぐっ……が…………彼に、乱暴するなっ……」
「アハハ、死にかけてる自分より、こんな人の子の心配?アンタ達って、ほんとクソが付くぐらい真面目で、お人好しね。この土地にはもう神社も祠もなくて、伝説を信じる人間も一人もいないって言うのに。――ほんとウザい。死ね」
傷口を真っ赤な手で押さえ、口から血反吐を吐きながら、蚊の鳴くような声で話す野宮さんを襲撃者である女の子は、言葉でも、そして体でも踏みにじった。
靴のヒールが野宮さんの背中に食い込み、そこからまた新たな鮮血が滲み出て来る。はいているのは極当たり前のミュールなのに、さながらそれは武器のように野宮さんを傷付けた。
次に太腿、次に二の腕、手の甲と、わざと急所を外して女の子は野宮さんをいたぶり続ける。
「さあ、早くこの川の神を呼びなさいよ。でないと、アンタの脳天踏み抜いて、ほんとに殺すわよ?それとも、こっちの子を殺した方が手っ取り早い?」
言いながら女の子は、爪先で胸を、腹を、脇腹の傷口をと、容赦なく蹴り付けた。
その度に傷口は新たな血を流して、野宮さんの顔はどんどん青褪めて行く。
人間なら、もう間違いなく生きてはいないほどの重症だ。それなのに、人じゃない野宮さんは苦しみながら、生きている。
これが「拷問」という行為なのだと気付いた時には、大分僕の体も調子を取り戻して来ていた。でも、どうすることも出来ない。
「はぁ……反応を返してくれないと、いくら痛め付けても面白くないわ。――その点、アンタは面白い声を出してくれそうね?」
最後にもう一度、ナイフを食い込ませるために傷口を踏み付けた女の子は、凄絶な笑顔を僕に向けた。
またあの、金縛りにも似た悪寒が体中を走る。
一刻も早く逃げ出したいのに、体は自由に動いてくれない。言葉すら出ない恐怖が体を縛り付けていた。
「そんなに怯えなくて良いわよ。アタシ、人間には優しいから。ちょっと悲鳴を楽しんだら、すぐに殺してあげるわ」
ナイフが振り上げられる。それが狙っているのは、僕の右腕だ。
突き刺すなんて生ぬるい、まず間違いなくそのナイフは胴体から僕の右腕を切り離すのだろう。
想像も出来ない、けど、ただひたすらに恐ろしい痛みが頭の中で再生される。
「じゃ、最ッ高の悲鳴をお願いね?」
凄まじい風圧と共にナイフが振り下ろされる。
次いで、その風に僕の体の一部が吹き飛ばされる……ことはなかった。
凶刃は、一本の木で出来た櫂によって受け止められ、押し返され、更に振るわれる追撃の一撃は、女の子の脇腹……奇しくも野宮さんの傷と同じ場所を打った。
刃の付いていない櫂は、出血こそ伴わないが、見事に入ったカウンターで骨や内臓にまでダメージが響いたのは明らか。女の子の顔が苦痛にゆがむ。
「ぐぅ……!アンタ、よくもこのアタシの体を傷付けたわねっ……。絶対に許さないわ。速攻で殺してやる!」
女の子は口にこみ上げて来た何かしらの消化液を吐き捨て、新たに現れた女の子――ユヅルを鬼の形相で睨み付けた。
「彼等の苦しみに比べればこの程度、痛みにも入らない。そして、私は私の盟友と、その子たるこの町の住人を傷付けたあなたを許さない」
ユヅルは、相変わらずの無表情と、静かな声で……しかし、以前より冷たく言って、静かに相手を見据える。
櫂を腰の高さで持って構えていて、その姿は抜刀した武士を思わせた。
競技化した今の剣道ではない、実践的な剣術の使い手の風格があり、その緊張がすぐ傍にいる僕に伝播して来る。
「ふーん。盟友、ね。でも、このままだとその盟友が死んじゃうわよ?」
女の子のすぐ後ろには野宮さんが居て、今ではもう、まともに息をしているかすら怪しい。
それにトドメを刺すのなんて、女の子の足一本で出来ることだ。
「既に結界は生成している。あなたはもう、彼にも、この子にも触れることは出来ない」
「それぐらい気付いてるわよ。でも、こいつに刺さってるナイフ、これには毒が仕込んであるの。神でも、三十分としない内に死に至るわ。もちろん、解毒薬はアタシしか持ってない。……この意味がわかるわね?」
勝ち誇ったような笑みを見せる女の子。
卑怯だ。
そう叫びたくなった。
こんな状況を作られてしまっては、もうこちらは相手の言いなりになるしかない。
しかも、野宮さんが刺されて、もう十分は経過していて、しかもナイフは女の子の追撃で柄まで野宮さんの体に突き刺さっている。
後数分しか、時間は残されていない。悩む時間すら残されていないなんて。
「……あなたを倒して解毒薬をもらうしかない」
「アハハ、何それ?アタシに土下座して解毒薬を譲ってもらうとか考えない訳?同じ神なのが恥ずかしく思えてくるぐらい馬鹿ね」
声音はとても落ち着いているのに、どこか勇ましく、毅然とユヅルは言い放った。
女の子の挑発めいた嘲笑も無視して、打ち込む隙を見極めるように目を細める。
それに呼応して、相手の女の子も黙り、ナイフを構えたままじっとユヅルを見つめる。
素人の僕でもわかった。多分、次に二人が動いた時に全てが決まる。時間がないからこそ、ユヅルは相手と切り結ぶより一撃必殺を狙っているみたいだ。
対する女の子は、きっとこのまま時間が過ぎ去って、野宮さんの体に毒が回りきってくれても良いと思っているに違いない。
……動かなければ勝負は付かない。けど、睨み合いは続き、数分が経ったのだろうか。突然、強い風が吹き出した。
風上はユヅルの立っている方。彼女の背中を押すような追い風だ。
髪が煽られ、着物の袖がはためき、足元の草がそよぎ、次の瞬間にユヅルが矢のように飛び出す――!
数歩で二人の距離が縮まり、互いの間合いに入る。そこからの攻防は熾烈を極めた。
初めからユヅルの突撃を待っていたらしく、女の子は信じられないほどの速度でナイフを投擲、それが櫂で迎撃されると、何もない空間から全長二メートルはありそうな日本刀を取り出し、櫂ごと叩き斬るように薙ぐ。
それをユヅルは女の子の身長ほどの高さまで跳躍して避け、刀を踏み台に、後ろに回り込んで空中で一回転。遠心力を付けて櫂を叩き付けるが、相手はユヅルとは逆にしゃがんでこれを回避した。
低い姿勢から女の子は地を這うように蛇行して、ユヅルの懐に飛び込むと一気に斬り上げる。するとユヅルはその刀の腹を櫂で殴り付け、強引に軌道を逸らすと、回し蹴りで迎撃。これが女の子の脇腹……さっきと同じ場所を捉え、彼女の体は羽のように軽々と吹き飛ばされ、地面に後頭部と背を打ち付けて動かなくなった。
尤もこれは、全て後から聞かされた話で、僕にはほとんど何が起きているのかわからなかった。けど、ユヅルが無傷で相手を倒してしまったという結果はわかる。
「あなた。私は彼の傷の治療をするから、彼女の荷物から解毒薬を探し出して。……このままだと、いくら神でも出血が多過ぎて死んでしまう」
「――あ、う、うん」
あんまり鮮やかにユヅルが勝ってしまったので、半ば放心してしまっていた。
言われるがままに慌てて気絶した女の子に駆け寄って、薬を探す……けど、どこを探せば良いのか、ちょっとわからない。
女の子はバッグやポーチみたいなわかりやすい物入れは身に付けていなかった。
となると、スカートにあるらしいポケット?それとも、上着のポケットだろうか。
こういう女の子の服は、家に妹のが大量にあるけど、兄といってもその構造を把握しているはずないし、恥ずかしさもある。
とりあえず当たり障りのない上着のポケットに手を突っ込んでみると、中には何も入っていなくて、ただ指の先が服越しに女の子の体に触れた。
男とは違う、猫のように柔らかい感触がして、慌てて手を引っ込めてしまう。
改めて間近で見てみると、さっきまで「死ね」や「殺す」という発言を繰り返して、ナイフや刀といった刃物を振り回していたとは思えないほど小さくて可愛い女の子だ。
身長は確か、ユヅルより更に小さい。ふんわりとした金髪が特徴で、スレンダーなユヅルとは対照的に、幼い顔に不釣合いなほど大人っぽいスタイルを誇っている。
――見とれている場合ではなかった。さっきより慎重にスカートのポケットに手を入れると、白い薬包紙を小さく折り畳んだものが二つ出て来た。
これが解毒薬でまず間違いないだろう。
「ユヅル、見つかったよ」
言いながら、野宮さんの傍らに膝を突き、目を瞑っているユヅルの元に向かった。
見ると傷の大半は塞がっていて、意識こそないけど怪我の治療はほとんど完全に終わっているみたいだ。
「ありがとう。……けど、最後の最後にもう一つ罠はしかけられていたらしい。二つの包みの内、片方は毒薬と見るべきだと思う」
「えっ……?」
薬を渡しながら、呆気に取られてしまった。
確かに、二つもあるから怪しいとは思ったけど、負けた場合も見越していたのか?
でも、あの子の強気な態度と、それを裏付ける実力からして、そもそも負けることを考えていなかった方が自然に思う。
「片方が毒として、その毒がもう片方の薬で治療出来るとしても、弱った彼に更に毒を与えることはそのまま死に繋がりかねない。一発で正解を当てる必要がある」
包みを解いてみると、全く同じに見える白い粉末がほんのひとつまみずつ入っていた。
誰かが実際に飲んで、毒か薬かを見極める、ということも出来なそうだ。勘で正解を引き当てるしかない。
「……井波。もし長年つれ添ったあなたがいなくなるのなら、私もまたこの川を捨てて後を追う。必ず生きて」
ユヅルは野宮さんの腕を握り、包みの内の片方を彼の口に流し込んだ。
そうしてしばらく見守り続けていると、小さな寝息が聞こえて来た。
……毒を飲んでしまって、寝息を立てる人なんていないだろう。解毒されたと考えて良い。
「あなたの時間の流れでは、八日振りということになる。久し振り」
落ち着いて一息吐くと、ユヅルがふと口を開いた。
声と表情から彼女の感情は伝わって来ないけど、それがまた懐かしく感じる。
「うん。久し振り。ユヅル」
僕が名前を覚えているのが意外だったようで、ほんの少しだけユヅルの眉が動く。意図的に感情を押し殺している訳ではなく、単純に感情が顔や声に出にくいだけのようだ。発作的な行動は人と同じに見える。
「一連の騒動で、私達のことはわかったと思う。けど、井波があなたに近寄った理由は話しておく必要がある。彼女については私もわからないけど」
ユヅルの視線は今も気絶している女の子へと流れた。
これ以上何もしないところからすると、もうしばらく彼女は動けないのだろう。
「まず、今のあなたの状態。それが本来あるべきではない、かなり歪で道理に反しているものだというのは、わかっているでしょう」
「一週間分、余分に記憶を持っていること、だよね」
黙って首を縦に振る。
「本来、あなたは目的を達成したところで、記憶の操作が行われるはずだった。つまり、船で川を遡った記憶を失い、過去を改変する前の記憶の修正が行われて、矛盾なく記憶が繋げられる。そうなるべきだった。それなのに、あなたは記憶を失わず、一続きの歪な記憶を持ってしまっている。これが異常事態なのは自覚しておいて」
異常事態。そう言い切られてしまうと、なんだか変な気持ちがして来る。
確かに、僕の記憶は「前の一週間」と「新しい一週間」が一つの線で繋がれていて、なんだかおかしなことになっている。
そして、その二つの七月二十三日からの一週間の間にあるのが、この川。つまり時間を遡った記憶だ。
ユヅルの言う記憶の操作は、一度この二つの一週間の記憶を切り分けて、映画のフィルムを繋ぎ合わせて一本の映像を作るように編集してしまう作業なのだろう。
それが、なぜか僕の場合には行われなかった、ということか。
「私は、確かにあなたに呪をかけた。あなたの記憶にもあるはず。別れ際に私が見せた笑顔が」
「あれが、その、呪なの?」
違和感の正体がわかって、なんとなくほっとした。けど、少し悲しくもある。
彼女は、自分の意思で笑顔を見せてくれた訳じゃなかった。
不自然なことだったとは思っていたけど、やっぱり、胸は痛む。
「ある種の時限性の暗示とも言える。かからなかった訳ではないはずだから、あなたが神の呪に対抗出来る、特殊な能力を持ち合わせているのか、それとも、あなたが過去に戻ってするつもりだったことをまだ果たしていないのか……。どちらかだと思う」
「後の方の理由は、ないと思うな……。過去を覚えているからこそ、今のこの世界が、僕の望んだ形であるのはわかるよ」
「そう。前者の理由というのなら、私にはもうどうしようもない。気持ちが悪いかもしれないけど、あなたには今のまま生きてもらうしかないことになる」
ユヅルは気の毒そうに、眉間に皺を寄せた。
かなり微妙な表情の変化だけど、いつもの無表情以外の顔が見れて嬉しい。
「ううん。気持ち悪くなんてないよ」
君と会えたことも忘れなくて済むし。
そんなキザな台詞は、喉の所まで上がって来ていたけど、言えるはずもなかった。
きっと、ユヅルは恥ずかしがったりはしないだろう。でも、あまりに僕のキャラじゃない。寒いだけだ。
「そして、もう一つ。あなたはこの川の神である私、そして井波町の神である彼。それから、どこかからやって来た彼女。三人もの神を目撃した」
「うっ……うん」
見てはいけないものを見てしまった。そんな気はしている。
しかも、途中まで僕は人質に取られていたし、目撃するというよりがっつりと巻き込まれてしまっていると言った方が正しいだろう。
「全て、胸の内にしまっていてくれるのが私と彼の願い。あなたの記憶が消せない以上、それを約束してくれなくても私達に出来ることはないけど、余計な混乱を招きたくないのなら秘匿にしてもらいたい」
「それは、もちろん。僕一人が騒いでも大した影響力はないと思うけど、もしテレビの取材とか来たら大変だし……」
「ありがとう。――なら、もうここから先は私に任せてもらえれば大丈夫。あなたはあなたの生活に戻って」
感謝の言葉と一緒にユヅルは、少し、ほんの少しだけ、顔の筋肉を緩めて笑顔を見せてくれた。
社交辞令みたいなものかもしれない。いや、きっとそうだろう。
でも、それがたまらなく嬉しかった。今度は純粋に、彼女の笑顔が向けられている。それだけで、胸がいっぱいになった。
改めて彼女が好きだという感情が、喉から飛び出しそうになる。
遂にそれは、言葉になることはなく、おかしな苦笑になるだけだったけど。
「――あ」
彼女と、多分一生の別れをする。その段になって、一つ思い出したことがあった。
「どうしたの?」
「彼女は……やっぱり、殺しちゃうの?」
僕が気になるのは、野宮さんに瀕死の重傷を負わせて、僕もまた傷付けようとした女の子だった。
人間でも裁かれて当然のことをしているけど、なんとなく死んで欲しくはない。
「私も井波も、争いを嫌ってこうして隠棲している身。血の流れるような処分はしないつもり」
「良かった……」
本心からの溜め息だ。
そうして、おかしいな、と思う。もしかしたら僕は殺されていたのかもしれないのに、彼女に生き続けてもらいたいと願うなんて。
「あなたなら、安心して町に帰せる。自分を襲った相手を気遣うほどなら、私達のこともばらさないでしょう?」
胸の内をそのまま言ったであろうユヅルの言葉が、じんわりと僕の心に染み渡る。そして、嬉し涙がこぼれそうになった。
最後にこんなことを言ってもらえて、満足だ。これ以上贅沢なんて言わない。
笑顔で別れられる。別れないといけない。
「うん。絶対に裏切らないよ。……じゃあ」
小さく手を振って、僕はユヅルに背を向けた。
彼女はもしかすると、手を振り返してくれたかもしれない。笑顔もまた、見せてくれたかもしれない。
でも、それを絶対に見ない。見たら、この胸の想いを伝えずにはいられなくなってしまう。
だから、僕は走って川を後にした。
それから家に帰って、少しだけ泣いた。
*
「おい、起きろ。ハルカ」
その晩。再び二つの神の姿は、闇の中にあった。
「何よ……。って、どこよ、ここ?アタシ、何を今まで……」
「川の神に返り討ちに遭ったのだろう。普通なら殺されているだろうが、甘い奴め。記憶を消した程度で帰したか」
夕方、男は件の川にほど近い場所に倒れていた少女を発見していた。
それを連れ帰り、しばらくは目が覚めるのを待っていたのだが、痺れを切らして揺さぶり起こしたところだ。
「はぁ?何よその余裕……アタシなんか、殺すまでもないって言うの?くそっ……絶対、絶ッ対に殺す!内臓までぐちゃぐちゃにして、命乞いさせて……」
「キレるな、ハルカ。俺の方の工作は順調に行った。今度はゆっくりとだが、より堅実なやり方で行くぞ」
「どうするのよ?言ってみなさいよ」
「急かされなくとも、全て伝える。お前なしでは成り立たない作戦だからな……」
そして、この夜も更けて行く。
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