時川の船頭 五話 |
五 本当にきみに恋した瞬間
屋上から逃げ出した僕は、また保健室に駆け込んだ。
途中、担任の先生に会って、僕は何かしら話したと思う。話の内容なんてとても覚えていない。
二日連続でやって来た僕を見て先生は早退ではなく、しばらくベッドで休むことを勧めてくれたけど、丁重に断って早退させてもらった。
そうして向かうのはあの川。井波川という名前で、時川、時の川と呼ばれるユヅルの川だ。
野宮さんを頼ったのか、ユヅルの残り香を求めるようにそこに惹かれたのかはわからない。
いずれにせよ、僕は夢中で真昼の往来を走り抜け、一秒でも早く川に辿り着こうとしていた。
「野宮さんっ!ユヅルが…………」
町全体の土地神である神様の姿はない。僕は川に向かって話しかけ、言葉に詰まる。
ユヅルは……どうした?
最期を見届けてないとか、そんなんじゃない。僕の好きな人で、野宮さんにとっても大事な存在であるユヅルが死んだ。そんなことを僕の口から言って良いのか?
彼女の死を、言葉にしてしまって良いのか?唯一彼女のことを知っていて、唯一恋心を抱いている僕が。
僕のことを好きになってくれるかもしれないと言った彼女の死を認めても良いのか?
それ以上言葉を紡げるはずもなかった。
ユヅルの死を認めるなんて、とても出来ない。それが彼女の選んだ最後のあり方だったとしても、僕はそれを肯定出来ない。
全て夏の真昼に見た悪い夢だと言ってしまいたい。現実から目を背けたい。僕は、そんな弱い人間なのだから……。
川岸に僕はしゃがみ込み、いっそこのまま川に身を投げてしまえば……そう思って川面を見つめた。
自然の目線になると、土や草の匂いが鼻に入って来て、なぜだかいつも吹いている夏なのに冷たい風が、より一層強く感じられる。
七月の末、こうしているとユヅルの櫂で水をかく音が聞こえて来たのを思い出す。
生まれて初めての不思議な体験は、同時に僕の初恋で、それは一度永遠とも思えた別れによって終わりを迎えた。
春香の転入によって、再び僕とユヅルは出会えたと思ったのに……また春香が原因で今度こそ完全に僕の恋は終わった……。
すっかり打ちひしがれてしまって、何をする気力も湧かない。
ただ流れる川の水を眺めていると、背後に人の気配が生まれた。野宮さんだ。
「――永君。まずはこれだけ聞いて欲しい。ユヅルは死んでいない」
あまりに急で、その言葉の意味の理解に時間がかかる。
けど、今までの絶望を一気に希望へと塗り替えてくれるその言葉を、僕は望んでいたのかもしれない。
「本当ですか?」
「嘘でこんなことは言わないよ。まさか初日にしてこんなことになるとは思わなかったから、君には言ってなかっただけで、実はぼくとしてはこうなるかもしれないと思っていた事態なんだ。
――ぼく達八百万の神々は決して全能ではない。けど、何度か言って来たようにユヅルはかなり高い神格を持った神だ。ぼくや春香とは出来ることがまるで違う。簡単に違いを言えば、そう易々と死なないし、多少はこの人間の世界を、自分の都合良く変化させることも出来る」
「それで、助かったと?」
野宮さんは首を縦に振る……が、その表情はユヅルが助かったというのに、いまいち浮かないものだった。
それで僕が無邪気に喜べるほど良い状況ではないのがすぐにわかる。
そもそも、まだユヅル本人の姿が見えない。最低でもそれが確認出来るまで安心する訳にもいかないだろう。
「ユヅルが死ななかったのは、もちろん彼女の強さもある。けど、彼女は致命傷を負う前に春香の前から姿を消したんだ。ぼく達土地神は、こうして姿を現している時以外は、自分の土地と完全に同化しているものだからね。彼女も君を逃がして、すぐに川と同化した。それが少々厄介なことなんだ」
一度言葉を区切ると、野宮さんは唐突に空を仰ぎ見た。雲は少ししかない、快晴と言える青空だ。
「血は穢れ、という考えは君も知っているだろう?まあ、それは平安時代から生まれたもので、人間達が言い始めたことだ。ぼく達みたいな神の持つ『穢れ』の考えは少し違う。自分達で言うには少しおかしいけど、神は聖なるもの。だけど、その神が流す血は人のそれとは比べ物にならないほど悪質な『穢れ』なんだ。
君達人間のアイドルが何か不正をしたりすると、もしそれが一般人なら大した事件じゃないんだけど、有名人だからということで異様に大きく取り上げられたりするよね。それと同じと考えれば良い。聖なる神の汚点とも言える出血と、それによって流れた血はどんな毒よりも神々に有害で、傷を負った土地神がその姿を消して、自身が有する土地と同化すれば多大な悪影響を及ぼす」
そこまで説明されると、つまり、どういうことなのか、僕にも合点が行く。
ユヅルは僕を逃がした時点でかなりの出血をしていた。そしてそのまま人の姿を消して、この川と一体化した。
ナイフが突き刺さったままなのだから、止血なんて出来ないはずだ。かなりの血、つまりは穢れを自分の川に持ち込んでしまったことになる。
「それで、ユヅルやこの川は?」
「本来ならば信仰を失くした神のように、神としての力を失う。この川で過去と今を行き来することだって出来なくなるだろうね。でも、それは僕や春香クラスの神の場合だよ。
ちょっと格好を付けて横文字を使うと、神が土地と同化した時の『穢れ』のフィードバック、これは僕達なら自身と同じだけの穢れを与えてしまうけど、ユヅルぐらいの神格になればその量は三分の一程度まで削減される。この理屈は土地の力を使って自分の穢れを癒す、というものだと前に聞いたかな。
だから結果として、この川はナイフで刺された三分の一だけの量の穢れを被った。それはそのままユヅルの神格が下がり、その管理を受ける川の時を操る力も少し弱まったことを意味する。そうなると、ユヅルはぼく達より少し上程度の神格になり、時を遡れるのは十五日程度になったってところだろう」
「――正確には十四日。神格はあなたとほぼ同じ。恐らく、あの子とは互角より厳しい戦いしか出来なくなっている」
野宮さんが説明を終えるのを見計らったように、ユヅルがその姿を現した。
十数分前に見た時と同じ長い白髪、小柄な背丈、抑揚の少ない澄み切った声。服装は着物ではなく学校の制服で、自身の血で汚れてしまったはずのスカートは染み一つなかった。
「ユヅル……」
同じ学校に通い始めたことで、内心ありがたみが薄れてしまっていたその姿。
失ってしまったという思いが、新鮮な感動を思い出させていた。
きっと、誰もが彼女を美しいと言うだろう。
でも、僕はそんな一般的な感動とは違う、特別な感銘を彼女と再会出来たことに受けている。
彼女と「再会」という形で会うのはこれが三回目。回を増すごとにその嬉しさは倍々になって行くみたいだ。
「永。そんな悲しい顔はしなくて良い。私は私の意思であなたを守ることを決めたのだから」
……僕は、心配されるぐらい酷い顔をしていたのだろうか?
また会えたことに嬉し涙を流しそうになっていたとしたら、それは当然だろうけど。
「――ありがとう。ユヅルが守ってくれてなかったら、間違いなく僕は死んでいた、よね」
「わからない。あの狙いなら、少なくともあの子はあの攻撃であなたを殺そうとは思っていなかった。それに、私はあなたを目の前で傷付けられていれば、とても平静を保って手加減することは出来なかったと思う。けど、あなたが怪我を負うことは我慢出来なかった」
ほとんど反射的に、僕は苦笑いを漏らしていた。
ユヅルは本当、とんでもないことをさらっと言うけど、その伝え方がわかりにくい。
「僕のこと、大切に思ってくれてたんだね。……ありがとう」
その後も、僕は何回同じ言葉を繰り返していただろう。
何度言っても言い足りない気がして、ユヅルがわかりやすく溜め息を吐くまで同じ言葉を言っていた。
「永君。横槍を入れるようで悪いけどちょっと良いかな」
「は、はい」
「これからのこと?」
真面目な顔を崩していない野宮さんは、声も優しげないつものとは違って、ぴんと張り詰めたものがある。
問題は、弱まってしまったというユヅルの力に違いない。
「どうするか、だね。こうなってしまった以上、もう永君の生活についてどうこう言ってられないよ。この川の穢れはいつか時が清めるといっても、数百年は必要だ。目先の問題を考えないといけない」
「当初の予定通りで良い。永と学校に通いながら、機を見て決着を付ける。まだ相手も手の内を全て晒していそうにはない以上、積極的に攻めるのも得策とは言えない」
「また同じことをされたらどうするんだ?今度は永君を遠ざければ、彼への被害は防げるとして、これ以上ユヅルが傷付けられることはぼくも承知出来ない」
「自分一人の身なら十分守り切れる」
野宮さんの目は、異常なほどの熱を帯びていた。その目には僕自身心当たりがある。
友情が恋慕に変わるのは、きっとそう珍しいことじゃないのだろう。
「……ユヅルがそうまで言うなら、ぼくは君の意見を尊重するよ。でも、お願いだ。無茶だけはしないで欲しい。君がもし更に穢れを帯びて全ての力を失くしても、ぼくは」
「そうはならない。私はあなたの分も、あなたの町の人を守る。そして、私のことを好きでいてくれる人の愛情に報いたい」
最後は僕のことをじっと見つめて言ってくれた。
胸がじんわりと温かくなって、また「ありがとう」と繰り返しそうになる。
僕はまだユヅルのことをほとんど知らない。でも、ユヅルがここまではっきりと自分の意思を伝えてくれるなんて、相当珍しいことなんだろうと思った。
「永。学校に戻りましょう。今ならまだ間に合うと思う」
「う、うん。それじゃ、野宮さん。いってきます」
早退してすぐに戻るなんて、確実に不審に思われるだろうけど、ユヅルは僕の学生としての生活を守るために全てを投げ出す覚悟で頑張ってくれている。先生に説明する苦労ぐらい、僕が買ってやるべきだ。
それぐらいしないと、ユヅルに申し訳が立たない。
終わりのホームルーム。先生は普通に教室にやって来て、春香も相変わらずのお嬢様キャラを貫いていた。
屋上から僕が逃げ出す時に先生とは会っていたから、きっと屋上に何かあると感じて先生は春香に会っていただろう。
まるで先生を実験台にするみたいで心が痛むけど、先生が無事ということは、春香が暗示なり何なりでやり過ごしたというのがわかる。口封じのために軽々しく殺すようなことはしないみたいで良かった。
「さすがに、確実に私を殺せるような状況でないと、学校にいられなくなるようなことはしないみたい。これで少しは監視を休める」
学校に生徒として通うというのは、春香にとってもかなりリスクのある賭けなのだろう。
自分の姿を大勢の人の前に晒し、その美貌のせいで嫌でも目立ってしまうのだから、それもそうだろうか。
学校で殺人事件なんて起きたら、まず間違いなくしばらくは学校が休みになるだろうし、春香が何かしているのを誰かが見ていたら、印象に残ってしまうのは必至。ともなれば、自然と行動も慎重になって来る。
「そうだね。あんまり春香に近付き過ぎるのは危険だろうし……」
春香は土地神ではないから、今回のことでユヅルの神格が下がったことは知らないと考えられる。そもそも、ユヅルほどの神格を持つ神自体が少ないから、土地神でも普通は知らない情報らしい。
それでも、今二人が戦うことになれば、どちらが有利かはわかっている。尤も、ユヅルが何も気兼ねなく戦えれば、再び春香を打ち負かすこともそう難しいことではないと思うけど……。
「お互い、しばらくは様子見をすることになりそう。あの子は私を捉えられないと思っているだろうし」
ユヅルの、人としての姿を消してしまう、という単純にして究極とも言える危機回避法を、当然相手は警戒して来る。そのデメリットを知らないのだから、何度でも、どんな時でも使えるものと想定して、対策を練りに練って来るだろう。
そうして手をこまねいている内に、何かこちらで相手に関して掴めることがあれば、こちらから打って出て決着を付けることも出来る。
とりあえずわかっていることとして、ユヅルや野宮さんは、春香に神の協力者はいないだろうと考えている。その気配がないからだ。
ただ、何らかの理由で神と手を組んでいる人間がいても、それは大して珍しいことではないという。
現に僕はユヅル達と親密な関係になっているし、春香が求めるのは時間を操る力だ。正直、僕だってそんな力が手に入ると言われたら、協力したがるかもしれない。
もしそんな協力者がいて、春香と戦う際に介入して来たら、一気にこちらが不利になってしまう。
何らかの罠をしかけているかもしれないし、ユヅルは人間を殺すことなんて出来ない。春香の盾になるだけで十分過ぎる効果がある。
勝負に出る前に、それ等全てを見極めておく必要があった。
「ユヅル。放課後、春香が住んでいるっていう団地に行ってみたいって思うんだ。妹の友達がいるから、色々と話が聞けると思う」
団地に新しい入居者がやって来ると言ったのは渚沙で、その情報の発信源は友達のカナちゃんだ。
とりあえず一日、適当な理由を付けて家に帰らない旨を伝えたけど、これから長時間ユヅルとの生活が続くのなら、ちゃんとした説明もしておかないとならない。その説得がてらに、友達のカナちゃんを紹介してもらおうという考えだ。
確か春香は、大学生だという兄と一緒にやって来たと聞いた。その兄という人物が怪しいというのは明らかだし、もしかすると時期をずらして、別な協力者も潜り込んでいたかもしれない。
どちらにせよ実際に団地で暮らしている、しかも信頼出来る人物から色々と訊いておくのは、かなり重要なことだ。
「わかった」
渚沙や家族の納得行く理由を考えておかないといけない。場合によっては、野宮さんにも登場してもらわなければならないだろう。
ホームルームの間中、簡単に僕はストーリーを考えてみた。
やっぱり、丸っきり嘘を考えるのは難しい。ある程度は実際に起こったことを下敷きにして、そこから神だとか、人に話すべきじゃない要素を抜いて、当たり障りのない嘘を詰めて行く。
ユヅルが転入生だという設定、これは是非とも盛り込むべきだろう。僕が一人でちょっと家から離れたくなったなんて、信じられる訳がない。何とかユヅルを絡ませるべきだ。
――そうして、帰り道にユヅルと話を練り上げて、僕は自分の家のインターホンを鳴らした。
「はーい……って、お兄。どうしたの?自分の家なのにピンポン鳴らして」
「いや、友達を待たす訳にもいかないから。ちょっと、しばらく家に帰れない用事が出来ちゃったんだ」
「ふーん?どうしたの」
いつも通りの渚沙の様子を見るに、昨晩は何もなかったらしい。春香の方も僕が自分の家にいないことは知っていただろうけど、安心した。
「ウチの高校に転入生が入って来たんだけど……あ、これは団地の子とは別件ね。その子の親がしばらく家を空けなきゃならないんだけど、娘を一人にするのは心配だし、誰かに来てもらいたいって。それで僕が行くことになったんだ。偶然、席も隣同士になったし、すぐ友達になれたから」
「えっ。何でよりによってお兄に頼んじゃったかなぁ、その人のご両親」
「……どういうことだよ」
「確かに、娘さんに手を出されないって面ではベストチョイスだと思うけどねー。でも、お兄って頼りになる?」
「なっ……」
それってつまり、僕のことがヘタレだと……?
い、いや、強く否定出来ないけども、改めて渚沙に言われると……中々にクるものがある。
「ま、わかったよ。引っ越して来たんなら、心細いだろうしね。お兄ってヘタレだけど優しいし、丁度良いんじゃないかな。じゃあ、お母さんにも伝えて来るね」
「う、うん」
……優しい、か。
そういえば夏休み、僕は自分の取り柄、誇れるものについて考えていた。
その時はぱっと思い付くものがなかったけど、優しさが僕の長所なのだろうか?
――いや、わからない。ユヅルの優しさ、思いやり深さはそれこそ超人的なほどだ。
対して、僕はまだ全然それに報いられていない。彼女に心を砕かせてばかりで……屋上での春香の言葉が甦って来る。
僕はユヅルが好きで、大切にしたい。そう思ってはいるのに、結局迷惑をかけるだけかけて、気が付いたら全てが終わってしまっているのかもしれない。
口だけの臆病者。それが僕の本質?それを否定する材料は、一体どれだけある――きっと、何もない。
「ただいまー……って、どうしたのお兄。すっごい疲れたみたいな顔してるけど……」
「え?い、いや、今日も一日学校で疲れたな、って」
「そっか。えっとね、今そのお友達が来てるんだよね?お母さん、子どもを二人っきりにするぐらいなら、一人分の部屋ぐらい、何とかするって言い出したんだけど……。ちょっと入ってもらって良いかな」
つくづく僕はポーカーフェイスが苦手らしい。ユヅルに続いて、渚沙まで心配させてしまった。
と、それよりも今はお母さんが言い出したことについてだ。
てっきりこのまま上手く行くと思ったのに、これは予想外過ぎる。まさか、ユヅルの方を僕の家に上げると言い出すなんて。
「……由弦。とりあえず上がってもらって良いかな」
「うん」
けど、一度こういう話になってしまった以上、子供がどうごねてもお母さんは意見を変えようとしないだろう。
最悪、ユヅルに暗示をかけてもらえれば良いかもしれないけど……家族の心を操作するなんて、あまりして欲しいことじゃない。
「うわっ。すごい美人さんだねー。お兄にもったいないなー」
「渚沙。どういうことだよ。大体、僕と由弦は何もな……」
「あ、もう名前で呼び合う関係なんだ?」
くっ、何を言っても墓穴な気がする。これ以上渚沙には何も言わないでおこう。
今まで女友達を作ったことのない僕が女の子を連れて来ただけに、絶好の弄りネタだと思っているんだろう。……渚沙め。
それからお母さんと話したことは、大体こうだ。
まず、ユヅルは客間(なぜかあったらしい。いつもは物置として使っていた)に寝泊まりしてもらう。
当然学校への登下校もウチからで、ご飯もウチで食べる。完全な居候状態だ。
ユヅルがお金について言い出したけど、そこは僕の友達なんだし、ということでとりあえずユヅルから取るようなことはしない。
親(野宮さんに演じてもらうことになるだろう)が帰ってから要相談、という感じになった。
お母さんは完全にこちらの負担で良いと言ってたものの、きっと野宮さんは払うと言って聞かないだろう。いまいちそのお金の出所がわからないけど、もしかすると人に紛れて働いていたりするのだろうか。
そして、今からユヅルには着替えを取りに一度家に戻る、という名目で野宮さんに洋服を調達して来てもらうお願いをしに行くところだ。
ユヅル一人で行くのが自然だけど、もし僕の方に春香が来るようなことがあったらどうしようもない。荷物持ちをするから、と僕も一緒に家を出た。
「まさか、こんなことになるなんてね」
「私もびっくりした。永は……迷惑?」
「えっ?そっ、そんなことはないよ」
本当のところを言えば、かなり嬉しい。早く起きなくて済むのもそうだし、何より……。
遊びでこんなことをしているんじゃないとわかっていても、やっぱり胸は躍り、心臓が高鳴った。
しかも、今度はユヅルが無理して人間の姿を現しているんだという罪悪感も、かなり削減されている。
というのも、結果として彼女の神格は下がり、野宮さんと同じぐらい気軽に人の姿を取ることが出来るようになった。それと同じように長く人の姿でいても疲労は少なく、皆が寝ている時間にだけ姿を消せば十分だという。
ユヅルの戦う力は弱まってしまったし、川自体の力も弱まってしまった。そのことには僕も責任を感じるけど、そう悪い事ばかりではなかったということだ。
「そういえば、ユヅルは洋服って着たことあるの?」
「ううん。この制服が初めて。数百年前からあの着物をずっと着ていて、その前は死に装束みたいな白小袖だった。井波がそれだと三途の川の船頭みたいだって、あの黒い着物をくれた」
「野宮さんとは、その時からの付き合い?」
「もっと長い。覚えていないぐらい昔から会っていたけど、私の伝説が歪んで伝わりそうになっていたから、イメージを良くしようとしたんだと聞いた」
時を遡るどころか、死の川とでも呼ばれ始めていたのだろうか。
そういえば、きちんとユヅルは記憶を消すように暗示をかけているのに、伝説が今もこうして残っているのは、僕みたいに記憶を失わない人がいたからかもしれない。
そんなイレギュラーがいるからこそ、ユヅルが今まで伝説の中で生きて来たのだと思うと、何だか感慨深い。偶然も必然なのだと思えて来る。
「そうだ。野宮さんばっかりに面倒をかけるのも悪いし、僕達で服は選びに行かない?」
「……井波もあれで現代のことには疎いところがあるし、あなたに見てもらうのは良いかもしれない。私に今の時代まであんな服を着せていたぐらいだもの」
あの黒い着物のことを言っているみたいだ。
僕にしてみればあの服装は本当によく似合っていたと思うけど、ユヅルはもっと皆と同じ格好が良いんだろう。
「具体的には、どんな服が良いの?」
「この……スカートだっけ。これが良い。見た目が好み」
「そ、そう。今の季節だと、夏物と秋物両方あると思うけど、どうする?まだ残暑はしばらく続くだろうし……」
「夏物は半袖で、秋物は長袖ということ?なら、秋物が良い。暑いかもしれないけど、腕を人に見せるのは嫌」
言いながら、今着ている夏用の半袖ブラウスを示して少し恥ずかしそうにした。
和装が長いせいか、肌を見せるのには照れがあるみたいだ。
「それなら、長袖のブラウスとブレザーも頼んでおこうか?ブレザーが必要な季節までユヅルが学校にいるかはわからないけどね」
「うん。お願い。もし必要なくても、川で着ていればこの時代の人にも親しみやすいでしょう?」
「あ、ああ。なるほど」
ユヅルが現代風の格好にこだわるのは、これが理由なのだろうか。
そんな変な生真面目さがおかしくて、だけどそれもまた可愛らしく感じた。
……やっぱり、僕はこの子が大好きだと思う。
*
「秋穂。ちょっとこれ、どういうことなの!?」
――団地の一室。学校から帰ってから、春香は昼休みにあったことの一部始終を同居人に話し、最後には半眼になって食ってかかった。
大事な協力者だと、頭では理解しているが、そのまま刀を召喚して斬殺しそうなほど怒り狂っている。
「俺に訊かれても知らん。今まで殺して来た神には見られなかった行動だ。相手の神格が高いからこそ出来る特殊技能だと考えるのが妥当だろう」
「で、どうすんのよ!?あんな風に逃げ回られたら、殺しようがないじゃない!……本当、意味わかんないし、ふざけやがって」
「高位の神がどれだけ高い能力を持っているかは俺達にはわからん。仮に好きな時に好きなだけその力が使えるとして、相手が逃げられない状況を作る必要がある」
「だから、人質を取れって言うんでしょ?でも、あいつがいつもいるからそれが出来ないんじゃない!」
「ハルカ。少し落ち着け」
秋穂の理性的な言葉は春香の怒りを煽り立てるだけで、まともな話し合いにはならないらしい。
尤も、彼にとってはこれもいつものことだ。溜め息を一つ吐いて続ける。
「我慢がお前の性に合わんのは理解しているが、ここはとにかく待て。相手はお前を見張っているのかもしれんが、こちらも相手をじっと観察するんだ」
「何よそれ。そんなことしてて、ほんとにらちが明くの?」
「俺達の計画は、じっくりと時間をかけてやる価値のあることだ。焦るのもわかるが、お前も俺もすぐに死ぬような身ではない。もう少しお前の時間を分けてくれ」
「……アンタのこと、別に疑ってる訳じゃないから良いけど。でもアタシ、怖いのよ」
「怖い?お前が死以外に何を恐れるんだ」
ついさっきまでの怒りが冷めたのか、急に春香は弱気な表情を見せる。
自分の信頼している相手にしか見せない、見た目相応の少女の不安そうな一面だ。
「あいつに、勝てない気がするのよ……。あいつは今まで戦って来た相手とは絶対的に違う。良い意味で言えば手ごたえがあるんだけど、もっと嫌な感じがするの。アタシなんかがどんなに頑張っても殺せない、そんな恐ろしさを感じるのよ」
「ハルカ、本当にどうした。お前はお前の力を信用していないのか?お前は奴の腰巾着を半殺しにしたし、今度は奴自身に傷を負わせた。後少しじゃないか」
「けど、まだあいつは殺せてないじゃない。あの人間の子に至っては、傷一つ付けられてない。あたしはあの子を狙って動いているのに、完全に守り切られているのよ?……こんなの、嫌でも自信失くすわよ」
今まで二人が殺害して来たのは、自分と同じか格下の神ばかりだ。全盛期の力を失っていても、戦神は身体能力に優れる。その戦いは常に危うげないものだった。
だが今こうして、初めて春香は楽に殺せない相手と対峙している。
増長し続けて、急に突き当たった壁は、長年連れ添った秋穂にも予想出来なかったほど春香の自信を奪い、敗北感を植え付けていた。
可愛らしい顔に似合わず、猟奇的で強気な発言を繰り返す彼女がここまで弱る姿は、彼にとっても初めて見るものだ。
「俺が、お前に背負わせ過ぎたのかもしれないな。ハルカ、お前は少し休め。学校には通い続けてもらうが、無理することはない。今度は俺が攻めてみよう」
「えっ……?でも、アンタの存在がバレるのは……」
「お前にこれ以上無理をさせる訳にはいかない。それに、向こうも馬鹿じゃない。俺に行き着くのは時間の問題だ。もう頃合だろう」
最後に春香の頭を撫で、青年の形をした神は立ち上がる。
*
「似合ってる?」
試着室から出て来たユヅルは、少し嬉しそうにその場で一回転して見せた。
ロングスカートがひるがえり、長い白髪が雪のように流れる。これに目を奪われない男なんていないだろう。
――ここは家から徒歩でも十数分で行けるスーパーの、レディース服売り場。
小さな町なのだから、女の子の服がたくさんある店なんて、町一番のスーパーぐらいしかない。
渚沙がよく行くようなお洒落なブティックは電車に乗れば探せるけど、近場で揃えるならここだ。
「うん……なんというか、すごく大人っぽいよ。よく似合ってると思う」
秋物で、ユヅルのお眼鏡に適うものというと、落ち着いた茶系統の色のものばかりで、あまり若々しい感じはしない。
だけど、着る人が良いのかユヅルが着ると、深窓のお嬢様のような落ち着いた可愛らしさがあった。
着物姿だとすごく日本的な美少女に見えるのに、着るものが西洋のものになるとここまで外国人的な可愛さがあるなんて、なんだか不思議で、改めてユヅルが超人的な魅力を持っていることを認識させられる。
「そう。それなら、余所行き用の服はこれにする。普段着はこの辺りから適当に……お金は大丈夫?」
「大丈夫だと思うよ。その服の値段も……うん、案外安いね。女の子の服って、もっと高いと思ってた」
渚沙は服ですぐにお小遣いを使い果たしているイメージだけど、あれは気に入った服を何でも買いまくっているからだろうか。
実際、一回も着ないまま季節が終わったり、身長が伸びて不格好になってしまった衣装も多いと聞いた。でも、それを無駄遣いだと笑い飛ばせない理由が僕にもある。
……新作ゲームや世間の評判の良いゲームを買うだけ買って、ついつい溜めてしまう。
僕は一つのゲームをやりこむタイプだから、中々次のゲームに移って行かないし、常にいくつか積みゲーが部屋にはある状態だ。
そう考えると、買い物で失敗してしまうのは家系的なものなのかもしれない。お母さんは野菜とか結構腐らせるし。
「それじゃ、これだけ。三着もあれば十分?」
「良いと思うよ。えっと、パジャマはいらないんだよね。……それから、変な話かもしれないけど、下着がいくつかいる、よね」
「下着……」
そういえば、ユヅルの制服は野宮さんが学校指定のお店まで買いに走ってくれた。多分、そのついでに下着も買いに行ってくれたんだろうけど……野宮さん、すごい勇気だな。
僕には女性の下着売り場なんて、とても行けそうにない。
「え、えっと、会計の後、ユヅルに財布を渡すから自分で買ってもらって良い、かな」
「わかった。下着というと、パンツだけで良かった?」
「えっ……?そ、その、上もいると思う、けど」
「上?さらしじゃなくて?」
「……今まで、さらし巻いてたの!?というか、現在進行形?」
「うん」
野宮さんが案外現代のことに疎いって、こういうことか……!
そうか。パンツは男性もはくからわかるけど、ブラジャーは付けない。普通、女性がブラジャーを付けているところを見る訳がないし、野宮さんは現代の女性がブラジャーを付けるものだというのを知らないのか。
ユヅルのパンツを見に行った時にも、ブラジャーを見てファッションアイテムの一つかな、程度にしか思えなかったのだろう。
「それじゃあ、サイズなんかも測ってもらわないとだね……。頑張って、売り場について行くよ」
「ありがとう」
そうして、服を買ってから向かった下着売り場。
見ようとは思わないのに、嫌でもブラジャーやパンツが目に入って来てしまう。
女の子を連れているから変に思う人はいない。それはわかっている。でもどうしても他の人の目が気になる。
なるべく下を見ながら、店員さんに話しかけた。
「あの、すみません。彼女に会う下着が欲しいのですが」
「はい。サイズはおいくつですか?」
「そ、それがわからないので、測ってもらえますでしょうか。ぼ、僕はあっち行ってますのでっ。ユヅル、それじゃお金は適当に渡しておくから」
「うん」
今までに一度もブラジャーを付けたことがないのはなぜなのか、とか色々とツッコミどころはあったと思うけど、店員さんだしあんまり立ち入ったことは訊いたりしないだろう。
もし訊かれてしまっても、そこはユヅルの年の功を活かした絶妙な切り返しに期待だ。
一刻も早く立ち去りたい、それが男性の人情というものだろう。そうに決まっている。
大きく売り場から離れて耳に触れてみると、かなり熱かった。頬も同じ。血液が沸騰しそう、というのはこういう時のことを言うんだ。間違いない。
――それにしても、ユヅルは今までさらしを巻いていたのか。
そりゃあ、つい昨日まで着物だったんだからそれは当然かもしれない。日本人の普段着が着物であることが当たり前の時代には、ブラジャーなんてなかったし。
でも、なあ……一日中ユヅルは制服の下にさらしだった訳だ。違和感なかったから良いけど、すごい。何がすごいって、とにかくすごい。
「永。買い終わった」
「えっ?ああ、早かったね。迷ったりしなかった?」
「うん。店員が親切に教えてくれた。私はBカップだって」
「ばっ!?そ、そう。ちゃんと買えたなら良いよ」
……そうなのか。
Bと言うと、渚沙もそれぐらいか?いや、渚沙はもうワンサイズぐらいは上かも知れない。
って、そういう話じゃない。何を僕は冷静に解析しているんだっ。
「ユヅル、一応言わせてもらうと、そういうのはあんまり人に言うことじゃないからね」
「なんとなくわかってた。でも、永には私のことをちゃんと知ってて欲しかった」
「……そ、そう」
「私はあなたを守り、あなたは私を信用して守られてくれている。お互い秘密は少ない方が良い」
当然のことのようにユヅルがそう言うから、僕は黙ることしか出来なかった。
守られてくれる。そんな考え方があったのか。
僕は今まで、自分が彼女の足枷になっているのだとばかり思っていたし、逆に言えばそうとしか思えなかった。事実、今までの結果がそうだったからだ。
それなのに、ユヅル本人は僕を対等のパートナーだと見なしてくれていて、人に知られて恥ずかしい情報まで伝えてくれる。
今までの自分が、嫌になるぐらいショックだ。僕の目に映る景色と、ユヅルに見えるそれは全く違う風にさえ思う。
「ユヅルは――すごく、純粋なんだね。ありがとう」
「感謝されるようなこと、言った?」
「うん。僕、卑屈になり過ぎてたみたいだ。それをきみが正してくれた。
これから、僕はたくさん迷惑をかけてしまうかもしれない。だけど、僕はどんな時もユヅルを信じて、応援し続けたいと思う。改めて、僕や渚沙達のこと、きみに任せても良いかな」
「私達が一番嬉しいのは、人に信じてもらうこと。そして、人に愛してもらうこと。あなたが信じてくれるなら、私はいくらでもあなた達を守ることが出来る。喜んでこの力を振るいたい」
まっすぐ見つめ合って、しばらく目と目で握手をしていた。
それだけじゃ足りなくて、本当に手を差し出すと、おずおずとユヅルもそれに手を重ねてくれる。
「ユヅル。こうやって、手を握り合うんだ。西洋の風習だけど、この国でもよくすることだよ」
「わかった。……でも、ちょっと恥ずかしい」
こっちの方が驚くぐらいわかりやすく、急激にユヅルの顔が赤く染まって行った。
「え、えっと。なんかごめんっ」
数秒ほど握手を交わして、すぐにこちらから手を引いてしまった。……やっぱり僕、ヘタレなのかな。
「それじゃ、買うものも買ったし、そろそろ帰ろうかっ」
「……うん」
胸が高鳴り、顔が熱い。きっと僕も赤面しているんだと思う。
初めて、ちゃんとユヅルの手に触れた。柔らかくて、人よりちょっと冷たい気がして、すごく気持ちの良い感触だった。
それに、この感覚は緊張だけじゃない。
僕は改めて、彼女に恋をしてしまったんだと思う。なんとなく好きだと思うだけの幼い恋ではなく、心から想った本当の恋。
信じてくれて、信じさせてくれる彼女の気持ちが、たまらなく嬉しくて、愛おしかった。
愛とか恋とか、僕は全然わかってない。でも、今は少しだけわかる気がする。
信じ合うこと。お互いに秘密がなく、全てを話せる関係。それが恋人同士というものなんだと思う。
ちゃんとまだ告白出来ていない。だからまだこの恋は一方通行。だから、きっとこの想いを伝えたい。
そう思って、今度は出来るだけ自然な形で優しく彼女の手を取り、歩き出した。
もう、僕にはユヅルのどんなに些細な感情の変化でもわかる気がする。今は小さく驚いて、だけど嬉しそうに黙ってされるがままにしてくれた。そうして、そのままゆっくり、ゆっくりと歩いて行く。
なんということだろう。
気が付いたら僕は、よく利用する洋食店にやって来てしまっていた。あの、ナポリタンが美味いと有名な店だ。
……いや、スーパーの近くだったから、なんとなく足が向いてしまったんだけど。
「永。お腹空いたの?」
「そんなことも……あれ、すっごくある、かな……」
色々とあり過ぎてすっかり忘れていた。僕、結局お昼ご飯は食べてないぞ?
意識し出すと急激にお腹は鳴り出して、なんともみっともない。うぅ、僕に色気はまだ早い、それより空腹を満たせってことなのか?
「ここのお店、すっごく美味しいんだけど、ユヅルもどう?」
「私がご飯……?良いの?」
「うん。お昼、食べ物の匂いが良いって言ってたでしょ?なら、実際に食べてみると良いよ」
一緒にここでかなり遅めの昼食にすることを勧めると、少し悩んだ後、案外簡単にユヅルは同意してくれた。
注文するメニューは、僕と同じくナポリタン。他に美味しいメニューはわからなかったし、同じものを食べて欲しかったのもある。……正直言うと、そっちの方が圧倒的に強いかな。
出来上がりを待つ間、何気なくお冷を飲むと、慌ててユヅルもそれを真似してコップを手に取り、滑らせそうになっていた。
必死に僕に合わせようとしてくれるのかな。彼女は何も言わないけど、言葉がなくてもいじらしい心の内が伝わって来るようだ。
料理が運ばれて来て、それがご飯でもパンでもないことを知ると、更にユヅルは戸惑ったように僕に目配せした。どう食べれば良いのか、ちょっとわからないのだろうか。考えてもみれば、箸すら持ったことはないんだろうし、初めて食べるものがパスタというのは、ちょっと可哀相だったかな。
「えっとね。このフォークで、こう……巻き取って食べるんだ」
箸が使えないなら、フォークの方がまだ使いやすいと思う。いつもはパスタを箸で食べる僕も、今回ばかりはフォークで食べる見本を見せる。
「……こう?」
豪快に麺の中へとフォークを突き刺して、ぐるぐる。残念ながらほとんど巻き取れてないし、逆にフォークがソースを麺から剥ぎ取って行ってしまっている。
これじゃちょっと、食べるのは難しいかな……。
「じゃあ、もう僕が巻き取るから、ユヅルはそれを食べてもらう、って感じで良い?」
彼女のフォークを受け取って、小さな口でも食べきれるぐらいの量を巻き取って……。えーと、これをどうする?
後はユヅルに渡して食べてもらっても良いけど、何か違う気がする。
渚沙に言われた通り、僕にあまり度胸はない。それでも、ここでヘタレっぷりを発揮しているようではいけないと、魂が叫んでいる。
「ユヅル。口開けてもらって良い?」
「うん」
僕の真意がわかってないようだけど、とりあえず不思議そうに口を開けてくれる。
うっ、なぜだろう、すごく胸が痛い。どきどきしているのもあるけど、それ以上に良心が悲鳴を……。
「どうぞ」
がくがくと震えながら、なんとかフォークをユヅルの口にまで持って行くことに成功した。
巻き取ったスパゲティをぱくりと口に入れて、嬉しそうにする彼女の顔が眩し過ぎて、目、目が開けていられない。
というか、冷静に考えればこれはどう考えてもバカップルの図。しかもユヅルは、初めて食べる食べ物、しかも洋食にすごく喜んでくれている。夢にみた。けど、実現すると恥ずかしい幸せなシチュエーション……。な、なんだ、このむず痒さ。
「ど、どう?」
「うん……。どう言えば良いの?」
「えっと、良いと思ったら美味しい、悪いと思ったら不味いって言えば良い、かな」
「じゃあ、美味しい……と思う。比べられる対象がないからちゃんとはわからないけど、悪い感じはしない」
食べ終えると、ユヅルはまた口を開いた。
……えっと、これはつまり、そういうことでしょうか。
目を見てみると、明らかにおかわりを欲しそうにしていらっしゃる……。も、もう一度。いや、皿の上に食べ物がなくなるまでずっと、ですね。
「は、はい。どうぞ」
「んっ……美味しい」
また口が開く。巻き取って、食べさせてあげる。
「美味しい……」
どうしよう。すごく嬉しい、喜ぶべきことなのに、公開処刑という言葉が頭をちら付くんだ……。
夕方だけど、他にお客さんは結構いる。なぜか店員さんもこっちを見てる気がする。
もう、この店でナポリタンは注文しない方が良いかな……少なくとも、ユヅルと一緒の時は……。
あんなに好きだったのに、真剣にそう考えた。
「永。ありがとう。すごく美味しかった」
「うん……。どういたしまして。僕も好きなんだ。あの料理」
食事の後、もう手を繋ぐことも忘れて、淡々と家へと向かう。
「私も、すごく好き」
「そ、そっか。なんかありがと。完全に僕の好みで選んじゃったから」
「次に行くまでには、自分で巻き取れるようになりたい」
将来的にまたあの店でナポリタンを食べるのは、確定事項なんですね……。いや、すごく嬉しいけど。
「永」
「う、うん」
「手、握ってくれないの?」
「えっ、手?」
初めは僕の方からユヅルの手を取っていたけど、ユヅルも僕に合わせてくれている、って訳じゃなかったんだ。
僕がそう言われて手を出そうか悩んでいると、彼女の手の方が伸びて来て、下手をすると離れてしまいそうなぐらい優しく、僕の手首を掴んでくれた。
「なんだか、癖になりそう。あなたの体温が伝わって来て、すごく幸せ」
「僕も……」
言おうとして、すぐ近くに彼女の顔があることに気付いた。そっと僕のことを見上げて、本当に嬉しそうにしている。
言葉以上にユヅルの気持ちが伝わって来る気がして、もう何も言わなくて良いかな、なんて思った。
……でも、言葉で伝えないといけないこともあるのはわかっている。
そして、それを伝えるとすれば、きっと今。
手を繋ぎながら、ゆっくりと家に向かって歩いて行く途中、僕は近くにある公園に向かった。
家から五分ぐらいの距離にある小さな公園で、特に目を向けるべき遊具もないし、そのせいか子どもにも人気はあまりない。すごく閑散としたところだ。
「懐かしいな……。渚沙とここで遊んだのはどれぐらい前だっけ」
僕が小学校の高学年になる頃には、もうゲームを覚えていた。家の外で遊んでいたのは、ほんの少しの期間だけだ。
その頃の記憶が、僕の一番古い思い出なのかもしれない。それ以前のことは、もう忘れてしまっていた。
特に何も考えていなかったのに、ここに来てしまった理由。それは、無意識の内にここが一番僕にとって大切なところだと記憶してしまっているからかもしれない。
「永の、思い出の場所なの?」
「うん……一応そうなる、かな。ああ、あのブランコなんかすごく懐かしいや。昔は立ちこぎするのが、ちょっとした冒険だったな」
「ブランコ……。そう言えば、乗ったことないと思う」
ユヅルはほとんど川から離れたことがないから、それも当然なのだろうか。この公園が出来たのも、僕からすれば大昔だけど、百年以内だろうから、ユヅルにしてみればつい最近だ。
「じゃあ、乗ってみる?」
僕が提案すると、快く頷いてくれた。なんだか今日は下校してから、ユヅルにとって初めてのことばかりだ。
初めは僕が見本を見せる。危ないからまずは普通に座りながらで、バランスの取り方だけコツを掴んで、それからブランコの上に立ってもらう。
元々の運動神経もバランス感覚も、規格外なほどに良いので、あっという間にユヅルはこぎ方をマスターした。
そして、僕が背中を押してあげていざ本番。
ブランコが風を切り、前後に大きく揺れる。ユヅルの長い髪もそれと一緒に激しく揺れて、見た目にすごく華やかだ。
ちなみに髪が鎖に絡んだりしないように、僕が緊急でポニーテールにしたんだけど、これも中々似合っていて、ユヅルのブランコに乗る姿は本当に美しく見えた。
「はぁ……ありがとう。すごく楽しかった」
危うげなくユヅルが乗りこなしているのを見ると、僕も隣のブランコに乗って、すっかり童心に返って楽しんでしまった。ユヅルも同じだったようで、嬉しそうな顔を見せてくれる。
「小さな公園だけど、楽しめるものだね……。でも、正直僕は疲れたよ」
「……うん。今日は一日、色々なことがあった。私も同じ」
そう。僕より、ずっとユヅルの方が大変だったと思う。慣れない学校に通って、春香と戦い、服を選び、ご飯を食べ、一緒に遊んで……。後半は楽しいことばっかりだった気もするけど、本当に濃い一日だった。
「永……」
「うん?」
「今日はありがとう。あなたのお陰で、たくさん人間のことを知ることが出来た。何かお礼がしたいぐらい」
「そんなの、良いよ。それに、僕達のことを知ってもらえるのは嬉しいことだから」
ブランコに座りながら、お互いに見つめ合う。もう夕日は西の空に沈み、辺りを薄闇が覆っていた。少し冷え込んで来て、半袖でいるのは辛くなって来る。
今日という楽しかった日が、終わろうとしている。それが悲しくて、この時の永遠を願った。
でも、時が流れて、今と未来、そして過去がある以上、全ては瞬間の連続で、その瞬間が永遠になることはない。終わりはすぐそこに待っている。
――だからこそ、今この時しかないと思った。
「ユヅル。そう言えばまだ、言ってなかったよね」
「何を?」
「……僕の気持ち、だよ」
こんな時に座っていたら冗談だ。ブランコから立ち上がってユヅルの前に立つと、彼女もそれに合わせてくれた。
顔がすぐ近くにあって、優しげな瞳が僕を見ている。
改めて僕はその瞳の中を覗くように見つめて、言葉を紡いだ。
「僕は、ユヅルのことが好きです。今までずっと想い続けていて、そして、今日一日一緒にいて、更にこの想いは強まりました。だから、それを伝えたくて……。
その、すごく一方的だし、神と人が全然違うというのも理解しているつもりです。だけど、僕の彼女に……恋人に、なってくれませんか」
返って来るのは、困惑したような沈黙。
狭い公園にいつまでも僕の声が反響しているような気がした。
「……永」
小さな、今ここに何か別の音があればかき消されてしまいそうな声。
「私も。私も、あなたが好き。私のことを好きなあなたが、大好き」
全ての想いをふり絞ったような声は小さかったけど、聞き逃すはずがなかった。
囁くような声なのに、木霊のように僕の心の中で何度も繰り返される。
そして、僕の手は自然と前に伸びた。
「……ありがとう。じゃあ、手を繋いで帰ろう」
ユヅルは無言で手を重ねてくれて、初めて手と手を繋いで、僕達は歩き出した。
もうそれ以上お互いに話すことはなかったけど、ユヅルはずっと僕のことを上目遣いで見つめてくれていた。奇麗な闇色の瞳で、優しさを視線に込めて。
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私はあまり自分の書くキャラクター達に、不幸にはなってもらいたくないのですが……血と女の子の組み合わせというのは大好きです | ||
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