真・恋姫的ムダ知識 リアルムダ知識編
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 その一、萌将伝で一番やってはいけないこと

 

 

 萌将伝で一番やってはいけないこと、それは後宮制度の導入ではないでしょうか。

 

 役人に階級があるように、当然後宮の女性にも階級がありました。

 

 時代によってちがいますが、一番古い礼式とされる『周礼』では、一皇后・三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一御妻の百二十一人で、ほとんどの時代でこの階級をベースに組織されていました(ただし後漢や魏ではちょっと違う制度をとっていたのですが、ここでは割愛します)。

 

 一応ためしに恋姫のメンバーを当てはめてみると、

 

 皇后……空位(さもないと戦争になります)

 

 三夫人……三国の君主(これは妥当かと思いますが、唐代には一人増えて四夫人になるので、雪蓮を加えてもいいかもしれません)

 

 九嬪……各国の主力武将。それに元領主クラス(麗羽・美羽・白蓮など)の人物も、ここに入れてもいいかもしれません。

 

 二十七世婦……その他の将軍・軍師。

 

 そして八十一御妻ですが、唐の制度によるとこれ以下の身分は宮中で働く女官も兼ねていたそうですから、その筆頭は女官長(メイド長)である月、それに詠、あと宮中で料理をしているとすれば流琉、それに各武将のお付きの女官のような立場になる、斗詩・猪々子・七乃・ねねなどもここに入ることになるでしょう。

 

 こうみると、本来君主であるはずの月の地位が低すぎるようにも見えますが、萌将伝の世界では宦官は使っていないようですから(かわりに貂蝉達がいますが)、女官のトップである月が後宮を管理する、非常に重要な地位になります(名を捨てて実をとった感じですね)。

 

 ちなみに役職としては百二十一人(四夫人とすると百二十二人)ですが、もちろんその下にも多くの女官達がいました(もちろんお手つきオッケー)。

 

 しかもその数は、後漢末には二万人に達していたらしいです。

 

 恋姫に出てくる女性キャラは五十人ちょっとですから、まだまだ二万人中の五十人……。

 

 北郷一刀の戦いは、まだはじまったばかりですね(笑)。

 

 

 

 

 その二、影の支配者? 月 

 

 

 前回は後宮での月(董卓)の地位について触れたので、そこのところをもう少し掘り下げてみたいと思います。

 

 萌将伝における月の地位は、北郷一刀(皇帝)のメイド長兼秘書兼政務補佐、ということになるかと思います。

 

 これを当時の役職に当てはめてみると、

 

 メイド長は内宮(後宮)に出入りし、内宮の庶事をとりしきり、顧問・応対・給事に当るとされた中常侍(ちゅうじょうじ)に、

 

 秘書は天子(皇帝)の側近にあり、下問に備え、その落ち度をおぎなうとされた侍中に、

 

 政務補佐は、元は秘書官で、上奏(家臣から皇帝に進言すること)の取次ぎや行政の実務を担当していた尚書令か、やはり元秘書官で、皇室の機密文書の管理や詔勅(皇帝の命令)の起草を担当した中書令(もしくは中書監)あたりになるかと思います(中書令は魏で新設された官で、それ以前は尚書令が機密文書の取り扱いもしていました)。

 

 

 このうち中常侍といえば、本来宦官の実質的な最高職で(この上に大長秋という役職がありましたが、どちらかというと名誉職でした)、朝廷を裏から牛耳ることもできるほどの権力を持っていました(アニメ版の表向きのボスである張譲も中常侍でした)。

 

 侍中も皇帝の側近中の側近で、その役目柄政治の枢密にも参加していました。

 

 そして尚書令や中書令は、後には宰相職になる非常な顕官で、行政の実務や詔勅の権限を握っているぶん三公などよりある意味重要な役職でした。

 

 *実際史実では、曹操は献帝を自分の勢力圏内に迎え入れたとき、腹心の荀ケを侍中兼尚書令に任命させて、朝廷(皇帝)が勝手に命令を出せないようにしていました。

 

 

 中常侍と侍中と尚書令。この三つを兼ねているということは、その気になれば朝廷を裏と表から支配することもできたわけで、月は相国(史実の董卓がついていた地位)もビックリの影の権力者だった、ということになります。

 

 

 ……ただし萌将伝の世界では、皇帝(北郷一刀)にほとんど実権がないので、支配したところで全然意味はないんですけどね(笑)。

 

 

 

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 その三、正しい? 字(あざな)のつけ方

 

 

 *注 この話の例に出てくる名前の意味の解釈はあくまでも推測です。人によってはまったく違う解釈をしている場合もありますのでご注意ください。

 

 このtinami内でも多くの恋姫や三国志の小説が書かれており、中にはオリジナルのキャラクターを出されていらっしゃる方もいるかと思います。

 

 そこで今回はオリジナル、もしくは字(あざな)がわからないキャラクターのための、わりとポピュラーな字のつけ方を書いてみたいと思います。

 

 

 その前に、一応字の意味を簡単に説明させていただきますと、中国では名前は姓・名・字の三つに分かれていますが(恋姫の場合はそれに真名の四つですが)、名というのは非常に大事なもので、一族の目上の人や、自分より位の高い人物、それによほど親しい間柄でもないかぎり、おいそれと呼んでいいものではありませんでした(このあたりは恋姫の真名と同じです)。

 

 そこで一般的な通称として名乗っていたのが字でした。

 

 

 では、よくある字のつけ方を書かせていただくと、

 

 1、名と関連した字をつける。

 

 2、兄弟・世代の生まれ順に字をつける。

 

 3、よく使われる文字を加える。

 

 の三つです。

 

 

 その中でも、1の場合だといくつかパターンがあり、

 

 @ 中国の古典に出てくる言葉を引用する。

 

  例:曹操孟徳……古典にある『徳操』という言葉をもじっているといわれています。

 

 A 名とあわせてひとつの意味を作る。

 

  例:劉備玄徳…… 名とあわせて玄徳(奥深い、大きな徳)を備える、という意味になります。

 

 B 名と似たような意味の文字を加える。

 

  例:諸葛亮孔明 黄蓋公覆……亮と孔明はともに明るい(大いに明るい)という意味、蓋と覆もそのままふたをする、おおうといった同じような意味になります。

 

 C 逆に反対の意味の言葉を加える。

 

  例:甘寧興覇 呂蒙子明……寧はやすんじる、興はおこす・はじめるの意。覇をくわえると戦いをおこすというような意味にもとれます。また蒙は暗い、明は明るいでそのまま対義語になります。

 

 D 名と関連した文字を加える。

 

  例:関羽雲長 趙雲子龍……羽に雲、雲に龍という関係のある文字を使っています。

 

 それとこれはBやDの変形なのですが、

 E BやDとともに、へんやつくりなど、似たような文字を合わせる。

 

  例:周瑜公瑾 馬超孟起……瑜と瑾はともに美しい玉という意味。超と起はのぼるとおきるという近い意味の言葉で、ともに部首を合わせてあります。

 

 そして一応、

 F 名と韻を踏むような字をつける。

 

  というのもあるようなのですが、私は中国語の発音がわからないのでよくわかりません(陸遜伯言などがそれにあたるのでしょうか)。

 

 

 また2の場合でも一番上から伯・仲・叔・季(正確には季は四番目というより最後という意味)という順につけるのが一般的ですが、その他にも、

  孟(世代・兄弟間で一番上の人物につける 曹操孟徳など)、

  元(一番最初に生まれた人物につける 夏侯惇元譲など)、

  公(二番目に生まれた人物につける 周瑜公瑾など)、

 といった文字もあり、逆に、

  幼(一番下の子供につける。すでに季を使った後に生まれた場合も多い 周泰幼平など)、

 のような文字もありました。

 

 *また確証はありませんが妙(夏侯淵妙才など)の文字も、若い、おさないという意味があることから、後のほうに生まれた子供につけていた可能性があります。

 

 

 そして3のよく使われる文字としては、

 

  子(趙雲子龍、呂蒙子明など)、若(荀ケ文若など)、才(夏侯淵妙才など)、文(賈ク文和など)、台(陳宮公台など)、達、常、

 

 といったものがありましたが、同姓の一族の中でもどの家のものか、またはどの世代の人間かわかりやすくするために、この文字を兄弟間、世代間で統一することもありました。

 

 *たとえば荀ケの場合、兄弟の字にはみな若がついていたようですし、孫堅(文台)の兄弟にも、みな字に台の文字が使われていました。

  

 

 大体この三つのどれか、もしくはこの中から二つぐらいを組み合わせて字を作るのですが、典型的な例としてあげられるのは孫家でしょう。

 

 恋姫的にいえば長女は孫策ですが、策には一義的にムチを打つ(馬を責める、指揮をとる)という武人的な意味がるのですが、一方でお札という意味もあり、長女であるという伯に同じお札という意味を持つ符をつけて伯符という字になりました。

 

 そして次女の孫権は、権にははかりごとを立てるという意味があり、二番目の仲に、権謀術数と同じ意味を持つ謀を加えて仲謀となりました。

 

 

 また恋姫には出てきませんが、この下に孫翊叔弼(そんよくしゅくひつ)、孫匡季佐(そんきょうきさ)という兄弟がおり、翊と弼、匡と佐にはそれぞれ助けるという意味があり、そこに三番目の叔と四番目の季という文字がつけられました。

 

 つまり孫策が武を、孫権が文を担当し、あとの二人がそれを助けるという名前になっています。

 

 *ただし孫翊は元々孫儼(そんげん 儼はおごそかという意味)という名前だったという話もあり、改名したときにあらためて字も付け直したのかもしれません。

 

 

 あともう一人、気になる名前なのが麗羽(袁紹本初)様。

 

 紹にはうけつぐ、とかつながる、という意味があり、本には大本や根本、初にも根本やはじまりという意味があります。 

 一応1のCとして対義語に近いものと見ることもできますが、1のAと見た場合、根本、はじまりを受け継ぐもの、つまり

 

『オーッホッホッホ わたくしこそ三国一の名門袁家を受け継いだ当主ですわ!!』

 

 というかなり濃ゆいですが、麗羽らしいものになります。

 

 

 

 *追記 

 

 ちなみにここまで書いたのはあくまでも武将や士大夫階級の字であって、生涯ほとんど自分の生まれ育った村から出ないような、一般的な庶民の中には李三(そのまま李さんのところの三番目の息子の意味)、張一(同じく張さんのところの長男)のような単純な字も多く見られました。

 

 また元々の身分の低い人や山賊などでは、大目や飛燕といった、身体的特徴や異名のような字も見られています。

 

 

 

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 その四、飛将 呂布奉先最強説の理由

 

 

 弓術と馬術にすぐれ、抜群の腕力を有していたため『飛将』とよばれたという呂布(恋)ですが、正史の呂布は個人的な武勇には非常にすぐれていたものの、実際の将(司令官)としての戦績は意外と負けることも多く、そこまで突出したものであはありませんでした。

 

 ではなぜ呂布=最強というイメージが作られるようになったのでしょうか。

 

 その理由としては、もちろんあの董卓を殺した、というのもありますが、もうひとつ、三国志(正史)の主役である曹操(華琳)を一番追い詰めたのが呂布であった、ということも大きいかと思います。

 

 

 反董卓連合が崩壊してからおよそ二、三年後、曹操はエン州というところを支配していたのですが、隣の徐州への遠征中、留守を任せた陳宮(音々々)や古くからの曹操の友人で陳留郡(エン州の中の一郡)の太守だった張バク(恋姫登場せず)などが曹操を裏切り、董卓殺害後各地を放浪していた呂布を招き入れてエン州を支配させ、濮陽(ぼくよう エン州の都市のひとつ)の守備を任されていた夏侯惇(春蘭)が一時捕らえられるほどの大ピンチに陥ってしまいました。

 

 このとき、呂布側になびかなかったのは荀ケ(桂花)・程c(風)が留守をまもっていケン城(けんじょう ここには曹操の家族もいました)と范(はん)・東阿(とうあ)の三県(三城)のみ。

 

 記録によると後漢の時代、エン州には八十の城があったそうですから、そのほとんどが呂布側についたことがわかります。

 

 曹操は帰還後さっそくエン州奪回のために兵を動かしたのですが、なかなかうまくいかなかったらしく(曹操の記録である『武帝記』や『呂布伝』では、一度濮陽で敗れたあと再び攻撃を開始し、百日以上対峙した、となっていますが、『程c伝』には「太祖(曹操)は呂布と濮陽で戦いたびたび負けた」と書かれています)、結局イナゴの大量発生により呂布軍の食料が尽きてかろうじて引き分けることができたのですが、戦後「オーッホッホッホ! ひざまづいてお願いすれば(本当は家族を人質に出せば。つまり臣従すれば)、助けてあげないこともなくってよ」 という袁紹(麗羽)のいっちょ噛みのさそいにのりかけるほどの大ピンチでした(程cの説得により、かろうじて思いとどまりました)。

 

 その後曹操は少しずつ失地を回復していき、二年がかりでようやくエン州を取り戻すことができたのですが、曹操軍がここまで追い込まれたのは、後にも先にもこれが初めてでした(曹操軍は基本的に攻めるほうですからね)。

 

 もしかしたら、このピンチが曹操達のトラウマとなって、呂布最強説が生まれたのかもしれません(逆に言えば、正史において呂布の活躍があまり書かれていないのは、曹操が呂布にボコボコにされていたのを、筆者の陳寿が気を使ってあまり書かなかったからかもしれませんね)。  

 

 

 

 

 その五 コストカッター華琳

 

 

 『恋姫』の中でも、徹底した合理主義者として描かれている華琳様ですが、史実での曹操もかなりの合理主義者……というか倹約家でした。

 

 というのもこの時代、中原にあった魏は、政治の腐敗や度重なる戦乱によってとくに財政や食糧が逼迫し、それを立て直すためにもコストカットが必要だったのです。

 

 曹操がとった倹約策として有名なのが屯田制(駐留中の兵士達に農耕をさせる制度)や、食糧不足になったときの禁酒令が有名ですが、その他にも名号侯(爵位だけで領土を与えられない諸侯)の設置や、当時流行していた高価な絹の頭巾による司令官の軍装を、より安価な皮の冠に代えるといったこまかいことまでしていました。

 

 また無印の恋姫でも造っていましたが、曹操が世に広めた(発明したわけではない)ことで知られる、九ウン春酒法(きゅううんしゅんしゅほう? 麹を九回に分けて投入し、少しずつ発酵させる方法)も、味のよい酒をつくる方法として知られていますが、この方法だと従来の醸造法より過発酵や発酵不足を防ぐこともでき、腐造による酒米のムダ遣いを抑えることもできました。

 

 そしてもうひとつ、曹操がおこなったこととして知られているのが後宮のコストカットでした。

 

 後漢時代、今回のその一で書いたように二万人もの女官を抱えていた後宮は最大の浪費元であり、なおかつ陰ながら強い権力を持っていたために、何進のような外戚や、張譲のような宦官が台頭する要因となっていました。

 

 そこで曹操はそれまで非常に高かった女官達の待遇を落とし、調度品や食事、それに装飾品なども簡素化して、経費の削減に努めました(これには倹約家だったという正夫人の卞氏=べんしの意向もあったようです)。

 

 *結果として、魏では外戚が力を持つようなことはなかったのですが、他の曹家の王族と同様、押さえられすぎたために司馬氏が台頭してきたときに何の力にもなれず、そのまま魏を滅亡させてしまいました。

 

 

 これらの中でも、屯田制と後宮の簡素化はかなりの効果があったようなのですが、そう考えると華琳の「武将を愛人にする」というやり方は、一番のコストカットになっていたかもしれませんね(それなら後宮をつくる必要もありませんから……笑)。

 

 

 

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 その六 蜀の南征と南蛮王孟獲の正体?

 

 

 蜀の南征……といえば、史実では孔明が(恋姫では一刀達が)蜀への物資供給を安定させるために南方へと出兵したものですが、この南方というのは現代の雲南省のことで、決してミャンマーやラオスといった、現在の国境を越えるようなものではありませんでした。

 

 *実際に孔明が行ったのは、現在の雲南省の省都・昆明にほど近い、テン池(テンはさんずいに眞という文字)というところまでです。

 

 その距離は直線にしておおよそ七百キロ。大体後漢の首都である洛陽から呉の首都建業までと同じ距離です。

 

 というのも雲南省は、およそ二、三百年ほど前に前漢によって征服されるまでは『中国』ではなく、テン国や夜郎国といった、それぞれが『南蛮』とよばれる雑多な異民族と少数の漢民族が混在する別の国でした。

 

 そして『中国』の中に組み込まれたあとも、とくに大きな開発をされることもなく、独自の文化を持った未開の地域だったのです。 

 

 *ちなみ雲南省は、五胡による騒乱の後再び『中国』から独立し、十四世紀に明によって併合されるまでは別の国として発展しました。

 

 

 ……ところで孟獲(美以)ですが、史実では漢民族とタイ人のハーフだったとされています(当時タイ人も、『南蛮』の一種としてこの地域に普通に定着していました)。

 

 しかし『恋姫』の美以はタイ人ではなく、三苗と言われた民族の末裔の気がします。

 

 三苗とは、古代の苗族(ミャオ族。現代のミャオ族との関連性はないとも言われています)のことで、かつては長江の中流域(荊州のあたり)に住んでいたのですが、漢民族に圧迫され、紀元前10世紀のころには、雲南の地域に移り住んでいたとても古い民族です。

 

 そして中国でも中華思想が激しかった時代には、そういった少数民族の名前にわざと『けものへん』をつけて書くことがありました。

 

 『けものへん』に『苗』といえば……、もうおわかりですね?

 

 

 明命:『こっ、これはっ!? お猫さま〜〜っ♪♪♪』

 

 

 

 

 その七、五胡について

 

 

 これまで何度か五胡の話をしてきましたが、今回はもう少しくわしく書いてみたいと思います。

 

 恋姫の世界では、五胡といえば謎の異民族として、すべて同じようなあつかいを受けていますが、実際はかなり違うものでした。

 

 大ざっぱにその違いをあげてみますと、

 

 

 匈奴(きょうど)……トルコ系ともモンゴル系とも言われる遊牧異民族。紀元前二世紀ごろには今のモンゴルを中心に、中国(当時は前漢の時代でした)をしのぐほどの勢力をほこりましたが、後漢末のころには内紛から南北に分裂し、北匈奴は他民族に圧迫されてそのまま行方不明に(一説には、ヨーロッパのほうまで移動して、民族大移動の原因となったともされています)、南匈奴は南下して後漢王朝の支配下に入り、のちに曹操(華琳)の統制下に置かれました。

 その後晋の時代になると、司馬氏の内紛に戦力としてかり出され、それに反旗を翻して晋王朝(西晋)を倒してしまいました。

 

 羯(けつ)……匈奴から分派した同系の氏族。後漢の支配下に入ったあと分派したようなので、この時代までは特筆すべきものはありません。

 

 鮮卑(せんび)……中国東北部に住んでいたモンゴル系の異民族。匈奴の南北分裂後モンゴルで勢力を拡大し、魏とは朝貢関係にありました。のちにこの部族から出た李氏一族が唐を建国し、この戦乱の時代の最終的な勝者となります。

 

 羌(きょう)……はるか昔から中国北西部に暮らしていたといわれるチベット系の遊牧民族。匈奴などと違ってどこかの支配下にはいるわけではなく、状況によって蜀に手を貸したり、魏に帰順したりしました。翠(馬超はここのクォーターで、よく彼らの兵を率いていました。また実は辺境の女である月(董卓)も、彼らと親しかったとされています。

 

 テイ……羌と同じく古くから中国内の北西部に暮らしていたチベット系の遊牧民族。羌族と同じく馬超の肩を持つものも多く、馬超にしたがって反曹操の兵を挙げたり、その曹操に敗れて逃げてきた馬超を自分達の居留地域にかくまったりしていました。また彼らの一部は中国から南下し、ミャンマー人の祖先になったともいわれています。

 

 

 一応このような感じになるのですが、ここからさらにいくつかのちいさな部族に分かれて行動していたので、同じ民族だからといって必ずしも同じような行動をとっていたとはかぎりません(たとえばテイ族の場合、馬超に手を貸していた部族もいれば、はやくから魏に帰順していた部族もいました)。

 

 

 そして五胡達は、中国北部を支配したものの、そこにある当時最先端であった中国の文化の影響を受けて次第に中国人化(漢化)していき、また異民族(主に漢民族)との混血を繰り返すことで民族としての主体性を失い、中国のなかに国を建てた五胡達は、漢民族の中に吸収されていってしまいました(唐を建てた李氏一族も、血統としては鮮卑族とはなっていますが、代々漢民族の女性と結婚してその子が後を継いでいったので、実質的にはほぼ漢民族でした)。

 

 国としては負けましたが、民族としては漢民族の判定勝ち……といったところでしょうか。

 

 

 

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 その八、三国○○化計画?

 

 

 さて前回は五胡の話をしましたが、今度は他の外国人については書いて見たいと思います。

 

 元々漢代の中国は周辺民族以外の外国との行き来も盛んで、首都であった長安や洛陽では、近い地域の外国出身者に同じ区画内の土地を与えて、その地域の文化や習慣を色濃くのこした、一種の外国人街のようなものを形成させていました。

 

 しかし後漢末になるとシルクロードにある都市国家は騒乱をおそれて中国との交流を途絶し、住んでいた外国人達も逃げ帰ってしまったのか、その記録は残っていません。

 

 それが三国が鼎立し、一応の安定を見るようになると(恋姫でいえば『萌将伝』の時代あたりでしょうか)シルクロードの都市国家とも交流を再開し、また魏が東方をも平定させたことで、日本(卑弥呼)からも使節が来るようになりました。

 

 そしてこのころになると、中国内にも再び外国の人も住むようになったらしいのですが、中でも間違いなく中国に住み着いて後世に大きな影響を与えた人達がいます。

 

 それは仏教の僧侶達です。

 

 

 当時洛陽には竺高座(じくこうざ)というインド人の高僧が居て、あらたに仏教を中国に広めていました。

 

 元々仏教は一世紀半ばごろに中国に伝わったとされていますが、それはあくまで伝来であって、一般の人々にはあまりなじみのないものでした。

 

 そこで竺高座は、弟子の竺法護(じくほうご。この人はインド人ではなく大月氏といわれる異民族でした。歴史的にはこちらのほうが有名です)などとともに、それまでサンスクリット語だった仏教の経典を、はじめて本格的に中国語に翻訳し、特別な言語の知識がなくてもわかるようにしました。

 

 これによって仏教の教えは多くの人に広まり、後の中国での仏教の隆盛、ひいては日本への仏教伝来の基盤がつくられることになったのです。

 

 

 *ちなみに、このころの翻訳にされた経典は、まだ仏教になじみのなかった人達のためにわかりやすくなるよう、当時中国で人気のあったの老荘思想などを組み込んだ、独自にアレンジしたものがほとんどでした。

 

 おかげで仏教はさほど抵抗なく多くの人達に受け入れられたのですが、仏教が定着すると、今度は正確な仏教の教えを知りたいという欲求が僧侶達から生まれ、実際に仏教の原典を求めてインド行ってしまう人まで出てきました。

 

 そしてその代表ともいえるのが玄奘三蔵、西遊記の三蔵法師になります。

 

 つまり西遊記が生まれたのも、竺高座達が独自のアレンジをした結果、ともいえるわけです。

 

 

 

 と、まあ難しい話は置いておいて……。

 

 インド人が来ていたということになれば、もしかしたら洛陽にはインドやその周辺諸国の人達の街もあったかもしれません。

 

 となれば、インド独自の文化も当然あったわけで……。

 

 もしかしたら、このころの魏にはカレーがあった、かも?

 

 

 

 

 その九、実際の婚期はどのくらい?

 

 

 恋姫のマンガなどでよく使われるネタとして、熟女ネタ、ロリネタなど、年齢にかかわるものがありますが、当時の実際の結婚適齢期……というか女性としての盛りはどのくらいだったのでしょうか?

 

 当時は結婚の年齢について明確な法律があったわけではないようですが、たとえば前漢の初期(三国の時代からおよそ四百年前)には、秦末漢初の動乱で減ってしまった人口を増やすために、十五歳から三十歳までの未婚の女性がいる家には罰金を課したために、それ以前に結婚するのが普通でした(三十歳というのは、おそらく当時の出産年齢の上限だったのではと思われます)。

 

 また前漢中期の宮女の選定の年齢基準は十四歳から十八歳まで、そして三国の時代、末期の呉では、有力者の子女は全員後宮に入れる選別を受けなくてはいけなかったのですが、その選別を受ける年齢が十五、六歳でした。

 

 まあ、後宮に入れられる年齢は、その目的上ほぼ婚期と同じと見ていいでしょうから、おおまかな婚期は十四歳から十八歳ぐらい、中でもピークは前半の十四から十六歳ぐらいとみてもいいのではないでしょうか。

 

 *ただしこれはあくまでも結婚の適齢期であり、実際には十二、三歳で結婚した女性や、二十歳になってから結婚した女性も普通にいました。

 

 

 

 そしてこの当時、ロリコンや熟女趣味といったようなものが実際にあったかというと、気になる人物が一人だけ……。

 

 それは曹操(華琳)の三番目の息子にして魏の後継者となった曹丕(そうひ。恋姫登場せず)です。

 

 曹丕には甄皇后(しんこうごう)と郭皇后という二人の正夫人がいたのですが、甄皇后は生年はわかりませんが、十四歳のときにはまだ実家にいたことがわかっており、それから一度袁紹の次男である袁煕(えんき)に嫁ぎ、これも正確な年数はわかりませんが、少なくとも五年以上は袁煕の妻として暮らしていることから、曹丕と結婚したときは最低でも二十歳以上であったことが推定できます(このとき曹丕は十七歳でした)。

 

 また郭皇后のほうは生年がはっきりしており(西暦一八四年)、曹操の推薦で東宮(皇子の後宮)の室になった年代もわかっているので(西暦二一三年)、曹丕と結ばれたのが、当時としてはかなりの高齢である二十九歳であることがはっきりしています(このとき曹丕は二十六歳でした)。

 

 

 二人とも当時としては非常にめずらしい年上の奥さんで、しかも一人は人妻、そしてもう一人は熟女(当時の二十九歳は、現代でいえば四十歳前後くらいでしょうか)ですから、かなりマニアックな趣味といえるかもしれません。

 

 

 まあ恋姫的に解釈すれば、母親(華琳)にないものを年上の女性に求めていった結果、なのかもしれませんが(おもに乳的な意味で……笑)。

 

 

 

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 おまけ、簡単! ごま団子のつくり方

 

 

 材料

 市販の白玉粉……適量(おおよそ10gで一個分)

 市販のねりあん……適量(ねりごまと合わせて白玉粉とほぼ同量になるぐらい)

 市販のねりごま……適量(あんこ100gに対し大さじ2、3杯ぐらい)

 市販の炒りごま(白か金)……適量

 サラダ油……適量

 

 

 1、ごまあんをつくる

 

 @ ねりあんを鍋に入れ、少量の水かお湯を加えて、こげつかないようにへらなどでかきまわしながら弱火であたため、あんを溶かす(うまく溶けないときはさらに水orお湯を足してください)。

 

 A 溶けたあんの中にねりごまを加え、ほどよい固さ(生クリームより少し固いぐらい)になるまで水分をとばす(好みによっては砂糖やごま油を少量加えても大丈夫です)。

 

 B 冷ましたら、おおよそ10g見当に分けて丸める(ただしなれないうちは、10gよりすこし小さめのほうが後で包みやすいです)。

 

 

 2、ごまだんごをつくる

 

 @ 製品の説明に書かれているとおりに白玉粉に水やお湯を加えてしっかりとねり、あんと同じ数に分けて餃子の皮のように丸く伸ばし、1でつくったごまあんを一個ずつ丁寧に包んで団子をつくる(このときしっかり包まないと、揚げるときにあんが流れ出てしまいます)。

 

 A できた団子にごまをまぶしつけ、120〜130度くらいの低温で揚げる(このとき高温で揚げてしまうと、一気に膨張して割れてしまいます)。

 

 B 5、6分揚げれば完成!

 

 

 好みによっては、白玉粉をねるときにラードや砂糖を加えてもおいしいです(分量はその都度調整してください)。

 またあんこがあまった場合は、そのまま衣をつけて天ぷらにして揚げるとおいしいですよ。

 

 *ただし調理は自己責任でお願いしますね(笑)。

 

 

 

説明
今回は魏・呉・蜀編に分けられなかったものや、字数制限でゲームweb恋姫†夢想内に書けなかったもの、そして本当に何の意味のないムダ知識などを書かせていただきました(笑)。
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コメント
この張バクの人望と、呂布の武力が一つになることで、一気にエン州を奪うことができたのだと思います。(うみうしキング)
張バクは、本文でも書いたように曹操や袁紹の古くからの友人で、若いころから名の知られた、(おそらく、当時まだ世に出たばかりであった曹操よりも)非常に人望が厚い人物でした。(うみうしキング)
呂布については、突撃・粉砕・勝利というような、策などを使わない真正面からの戦いにおいては、最強の一角だったと思います。しかし、いきなりほとんどの城が呂布側にまわったのは、実際は呂布を招き入れた張バクの力が大きかった気がします。(うみうしキング)
summon様、ご覧になっていただきありがとうございます。書いている途中、『こんな話書いて、需要なんてあるのか?』と思うこともしばしばでしたので、そう言っていただけるとありがたいです(笑)。(うみうしキング)
こういう豆知識的なものは、自分結構好きなので、楽しかったです。曹操をあんなに追い詰めるとは、呂布すごいですね。(summon)
荒紅様、ご覧になっていただきありがとうございます。本当にムダ知識ばかりですが、お役に立てたのなら幸いです。(うみうしキング)
月については、その気になれば北郷の寵愛を受ける予定だった女性をそっとどこかに出張させたり、お気に入りの女性をしばらく帰ってこられないような任務につけさせることもできたはずです(いわゆる黒月ですね……笑)。(うみうしキング)
ノワール様、ご覧になっていただきありがとうございます。そのうち三夫人の地位をめぐって、天下一品大会をはじめるかもしれませんね(武術・料理・象棋の三部門で……笑)。(うみうしキング)
自分今小説書いているのでとても参考になりました。有難う御座います。(荒紅)
後宮制度……皇后決めなくても、確実に戦争になりますな。 月、凄い重要な仕事貰ってたんですね……萌将伝では本当にメイド長扱いですが。 (ノワール)
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