声韻
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◆ 声韻

 

 

 初めて独り暮らしをして三年目、大学三回生の夏のことだ。

 実家の父が倒れて間もなく、わたしは大学生生活にいくらかの猶予を残して、家業を継ぐことが決まっていた。

 実家を出て大学を卒業し、なんらかの職業に就いてしまえば言い訳が聞くかと思ったが、その前に父が体を悪くしてしまったので、結果として私の抵抗はあえなく水泡に帰したのだ。

 私は家業を継ぎたくはなかった。少なくとも若いころは、そう思っていたのである。

 

 抗う意味を無くしたわたしは、最後の夏季休業の真っただ中、無気力な日々を送っていた。

 四回生になる前には退学し、実家に帰らなければならない。わたしはここへ何のためにやってきたのかと、ゴミ箱のような部屋の中で日がな決着のつかない問答を繰り返していた。

 朝から夕方までは何もすることがなく、窓の外が少しずつ暗くなり始めたころ、ようやく思い立って外に散歩に行く。

 目的はない。ただ昏れていく空を見上げながら、ぼちぼちと周囲を歩きまわるだけだ。時間にして数十分で終わった。住処に戻る頃、空はまだ夕方と宵の間をさ迷っている。

 わたしはこのたった数十分間の散歩の時間で、大義を成したような気分になった。しかしその充実感の種は、散歩自体にあったわけではない。

 

 わたしがその頃住んでいた地方の都市は、住宅街にたくさんの平屋が残っていた。迷路のような路地をのらりくらりと歩きまわるうち、ひと夏のうちにわたしだけの「道」が出来あがっていた。

 わたしは機械のように毎日その道を辿っていたが、あるとき偶然「それ」に気付き、邂逅した。

 最初は蝉の鳴き声にまみれていて、聞き分けるのに苦労した。だが、糸を手繰り寄せるようにひとつだけでも言葉を掴むと、あとはその「声」だけが、わたしの耳の中にするすると滑り込んでくる。

 みずみずしい、張りのある女性の声だ。わたしは立ち止まって、耳を済ませた。それはわたしのすぐ右手の、垣根の隙間から聞こえてくる。小気味よく途切れる抑揚の利いた言葉の並びは、私の知らない詩であった。古い詩なのだろう。流麗な響きを持っていて、まだ蒸し暑い夏の夕暮れの路地に心地良い涼風のようだ。

 誰かが詩を朗読している―― 顔も知らない誰かの声を聞きながら、私は足を動かすことを忘れているのに気がついた。しかし、気がついただけで、足は一向に動かない。

 わたしはぼうっとしていた。動揺した時にも似ている。一瞬あたまが白く染まり、いったいどっちに歩いていけば良かったのか、さっぱりわからなくなった。

 その間にも耳を通り抜けて頭の中に滑り込んでくる詩の朗読だけが、白くなった頭の中に積み重なっていく。私の頭が「保存」を選んだのだ。

 わたしは路地に立ち尽くしたまま、ヒトガタのテープ・レコーダになっていた。ひとつの朗読が終わるまで、わたしは何も考えられない。ただ「聞くだけ」の存在であった。

 朗読が終わると、途端に蝉の鳴き声がやかましくなる。わたしはそれに気付けされて、慌てて足を動かし始めた。ほんの数分の間立ち尽くしていただけなのに、身体は眠り過ぎた日の朝のように凝っていて、軋る。

 頭がくらくらとしていた。

 なぜか、自分が自分ではないように感じられた。

 奇妙な感覚に戸惑いながら、わたしは垣根の角を曲がる。それから自分の「道」を辿って住処に戻る前には、せっかく保存に努めたはずの詩をすっかり忘れているのである。

「彼女」が読み上げる言葉を確かに頭の中に積み重ねたはずなのに、ことごとく、わたしは内容を忘れ去っていた。

 ただひとつ頭に残っているのは、「彼女」の声韻ばかりである。

 みずみずしく女らしい、果実の表面を滑り降りるような声が、わたしの頭蓋の中でいつまでも響いている。わたしはその残響に吸い寄せられるように、ほとんど毎日散歩を続けて、毎回同じ感覚を味わうことになった。

「彼女」のことは何一つわからない。私より若かったろうか。それとも、年上だったろうか。偶然にも時間がかちあって、「彼女」がその時間に詩を朗読するのが日課である、と知ったに過ぎないわたしは、その偶然を自分の日課のうちに組み込んでしまった。

 ただ聞くだけで、わたしは何も知ろうとはしなかった。相変わらず詩のことは何もわからなかったし、そもそもわたしにはわからない言葉もあった。

 それでも満足だった。充足感があった。散歩から帰って来て寝るまで、「彼女」の声韻が響いている間、わたしは幸せだった。

 

 未だにその感覚が心のどこで生まれ、どうわたしを満たしていたのか、よくわからない。

 夏が終わり、わたしは間もなく実家に帰った。家業を継ぎ、嫁をもらい、もう数えるのが億劫になるほどの時間が過ぎた。

 詩を嗜むことは私の趣味となったが、いくら探してもあの時「彼女」が読んでいた詩は見つからない。見つけられない。少しも覚えていないのだから、当たり前だ。

 それでも夏宵、縁側で蝉の声を聞くたびに思い出す声韻がある。

 わたしの頭蓋に染みついた声韻は、未だみずみずしく甘い。

 蝉の声を消して「彼女」の声がわたしの頭を満たすたびに、ふっと物悲しくなる。

 

 これはきっと後悔なのだと、そう思った。

 

 

 

 

 

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