冷たい雨の降る夜に
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その女は、たいそう美しかった。

 

署内でも綺麗所と言われる圭子が、見た瞬間固まってしまうほどである。同性が溜息を漏らすほど、その雰囲気は儚く楚々としていて、近くの男たちを魅了する。

 

外は激しい雨が降っていた。濡れた赤い傘を傘立てに置くと、赤いコートについた雫を多少払って、署内に入っていく。大きな赤い帽子から覗くのは栗色の髪と、少し朝黒い肌、そして薄茶の瞳。彫りの深い顔立ちをしている。明らかに日本人ではない。東南アジア系の顔だろうか? 

 

赤く統一されたその服装は一見派手なようで、彼女に一番に合う色に見える――現実味の無い、美女だった。

 

それまでボーッと突っ立っていた立ち番の緒方と受付の森下が、慌てて声をかける。

 

「あ、あの、被害届でしょうか?」

 

「それだったら俺、いや私に任せて下さいよ。ご案内しますから……」

 

するりと奥に行こうとした森下を、慌てて引き寄せる緒方。険しい顔をさせながら、小声で囁く。

 

「こら、お前! 何勝手に自分だけいい思いしようとしてんだよっ」

 

「な、なに言ってるんだ! 俺はただ、ご婦人に道案内を」

 

ごちゃごちゃと言い争いをし出したかと思えば、お互いの肩で小競り合いを始める二人。それを全く動じずに見つめながら、その女性は赤い唇を動かした。

 

「ワク、という方はいらっしゃいますか?」

 

一瞬、その場の空気が止まる。

 

その名前は、この場で――特にこの美女から発せられる言葉としては、一番相応しくないものだった。

 

「わ……和久さんですか?」

 

「いらっしゃるのですね?」

 

流暢な日本語で女は顔をあげた。薄茶の光彩に、少しだけ感情が見えた気がした。

 

「ワク様にお会いしたいのですが、どちらに?」

 

顔を見合わせる森下と緒方。その後ろで、場違いな声が上がった。

 

「なに、二人とも仕事サボってんのよ」

 

「どうしたんだ、お前ら?」

 

雰囲気を察して様子を見に来たのか、奥の刑事課から青島とすみれが歩いてきている。そして、青島の足が止まった。

 

下から上までじぃっと女性を見つめたと思うと、だんだん顔が緩んでくる。

 

「……刑事やってて、良かった」

 

「青島君、よだれ」

 

慌てて口の周りを拭く青島の事は気にも止めず、すみれは緒方と森下の近くまで歩いてきた。

 

「彼女、英語喋ってるの? あいにく今日は雪乃さん非番よ」

 

「違いますよ。この人日本語うまいですよ、すごく」

 

「ですよね?」と緒方が見ると、女性は少しだけ微笑んだ。

 

「昔から日本に住んでいましたから」

 

妖艶なのに、少し寂しげな笑顔だった。

 

「彼女、和久さんに会いにきたらしいんですよ」

 

「和久さんとォ!?」

 

森下の言葉に、青島が愕然として叫んだ。

 

「に、似合わねぇなぁ」

 

「というより、釣り合わないわ……彼女、もしかして和久さんのコレ?」

 

ひょい、と後ろでこっそり小指を立てるすみれ。やや小声で、青島も唸る。

 

「嘘だろ? 彼女、どう見たって和久さんの娘さんと同じくらいにしか……」

 

「青島君もまだまだ青いわね。愛に歳の差なんて関係無いのよ」

 

すみれがニヤリと笑う。

 

まだ納得のいかない青島だったが、ふと思い出したように刑事課を見た。

 

「あ、でも和久さん、今現場に行ってるよ。確か」

 

「あ、そっか。そういえば、真下君連れて行っちゃったわよね。雨は腰に響くんだとか言って」

 

「……そうですか。ここには、いないのですね」

 

彼女の言葉に、慌てて青島が答えた。

 

「あ、いや。たぶん、すぐ帰ってくると思いますから。こんな雨ですし、うちで待ってたらどうです? 暖かいコーヒー出しますよ」

 

しかし彼女はまた寂しそうに笑って、首を振った。

 

「いいえ、もし会っても――ワク様を困らせるだけかもしれません。ご迷惑をおかけしました」

 

かなり謎の多い発言を残して、彼女が立ち去ろうと足を動かし、不意に止まる。

 

「すみません、申し訳ないのですが。私の代わりに、ワク様にこれを」

 

高級そうなハンカチに包まれた何かを、青島に差し出す。長方形の軽い物だったが、中が何なのかは判別できない。

 

「……? ま、待って下さい、あなたのお名前は?」

 

「申し上げるほどの名ではありません。でも、昔……」

 

微笑んで、彼女は笑った。今までの寂しい微笑とは違う、素敵な笑顔で――

 

「昔、ワク様に助けていただいた者です」

 

赤い傘を差し、雨の中をゆっくりと歩いていく。

 

その赤い幻影が消えるまで、湾岸署の誰もが動かなかった。

 

 

 

「なんなんだ、あの人」

 

ハンカチで包まれた何かを弄びながら、青島は呟いた。隣の和久の席を見て、和久の顔を思い出す。が、どうしてもあの美女との接点が分からない。

 

「やっぱりコレよ、会ったら困るなんて言うんだから。間違いないわ……やるわね、和久さん」

 

「彼女、アンジェラより美人だったしなぁ」

 

すみれと魚住が、好き勝手な事を言っている。青島はタバコを咥えながら、

 

「和久さんにゃ、やっぱ似合わねぇなぁ。不倫なんて」

 

と笑った。何かの間違いだろう。きっと。マッチに火をつけて、タバコに近づけ――

 

「何が似合わねぇって? 青島ぁ」

 

「ぅあちゃっ!? あちあちあちっ!」

 

そのマッチを取り落として、指を火傷した。いつの間に後ろにいたのか、ずぶ濡れのコートを脱ぐ和久が立っている。その後ろでは、同じくずぶ濡れになってガクガク震えている真下がいた。

 

「わ、和久さん!」

 

「ん? どうした。皆揃って、俺に何か言いたい事でもあんのか?」

 

怪訝な顔で問う和久に、なぜかウキウキとした表情ですみれが答える。

 

「ええ、もちろん。全部自供して貰いますよ、和久さん」

 

「和久さんもやりますねぇ」

 

口々に刑事課の皆が、和久に詰め寄る。なんだなんだとますます困り果てる和久に、青島はやっと火をつけたタバコを咥えて、

 

「隠したってダメです。証拠は挙がってるんすよ、証拠は」

 

と、先ほど預かった物を机に置いた。

 

「なんだ、こりゃあ」

 

「さっき、すごい美人が来たんですよ。和久さんに会いに」

 

「えっ。僕も見たかったなぁ」

 

と、悔しそうに真下が言うのが聞こえたが、青島は構わず続けた。

 

「和久さんがいないって言ったら、これ渡してくれって。俺に」

 

「名前は」

 

「言わずに言っちゃいましたよ。会ったら和久さん困らせるって。和久さん、心当たり無いんすか?」

 

「心当たり……ねぇ。見当もつかねぇよ」

 

溜息をつくと、和久はそのハンカチを一枚一枚取り始めた。徐々に見えてくるその形は、どうやら紙のようである。

 

「こりゃ……お札? 一万円札だ」

 

「ひーふーみー……6枚。ちょっと大金だな」

 

その6万円は確かに札ではあったが、その割には妙に古い。しみや無数の皺でくしゃくしゃになったものを、しっかり伸ばして畳んであるようだった。しかもポケットに入れたまま洗濯でもしたのか、やたら湿気を含んでボロボロと崩れやすい。とてもこの高級なハンカチにくるむ代物ではないだろう。

 

完璧に疑問顔になっている皆の中で、和久だけは食い入ったようにその札を見つめている。やがてその口から――穏やかな声が聞こえてきた。

 

「そうかぁ……あいつ、使わなかったのか……」にやっと笑って、「妙な意地、出しやがって」

 

「和久さん。やっぱり、心当たりが?」

 

青島の言葉に、笑いながら頷く。

 

「ああ、やっと思い出したよ。情けねぇ……刑事が物忘れとは、俺も歳を取ったもんだ」

 

6万円を大事そうに机に置くと、和久はそれを指差して、告げる。

 

「こいつはな。俺が20年前刑事やってて、ある事件を追ってた時の忘れ形見だよ」

 

「忘れ形見……?」

 

「これとあの人とその事件と、どういう関係があるんすか?」

 

さっぱり理解できない。そんな彼に、和久は懐かしそうな顔で話し出した。

 

「お前らが、まだガキだった頃の話だ。俺は八王子署で、恐喝事件を追っていた」

 

 

 

冬の夜空に降る雨。それにひたすら凍えながら、和久たちはとある店の裏口を張り込んでいた。いかにも如何わしい様相で、どこぞから集めてきた女たちをここで住まわせ、恐喝し、強制的に風俗嬢として働かせる。明らかに違法な店だった。

 

「動かないですねぇ、和久さん。寒いな……車ぐらい使わせてくれればいいのに」

 

同僚の刑事が寒そうに手を震わせている。自分もとっくに熱が無いホッカイロを弄びながら、裏口をじっと睨んでいた。

 

「車は全部本店が持っていっちまったからなぁ。所轄は見張りだけしてろってお達しだしよ」

 

彼らが逮捕のために動く事は無い。この裏口の張り込みも、万が一を考えてのことだった。要するに、無駄な仕事なのだ。

 

自分たちは兵隊だと、常日頃から和久は考える。しかし、この待遇の差はやはり納得できないものだった。雨にぐっしょりと濡れた我が身の健康など、上は知りもしないのである。

 

白い溜息をつきながら、彼らはじっと待つ。捜査が終るまで。本店が一斉に動き、店長を逮捕し、検挙するまで――

 

その時だった。

 

「和久さん」

 

緊張した同僚の声。それに頷く。

 

裏口の戸が、静かに開けられようとしていた。白い手が見える。女だ。ここの従業員だろうか。

 

彼女は見られているとも知らずに、恐る恐る裏口から歩き始めていた。よろめき、雨に打たれ、それでも店を離れようとしている。

 

「……本店に知らせよう」

 

「待て」

 

思わず、和久はその言葉を口にしていた。彼の直感が、「待った」を告げていたのだ。

 

「和久さん!」

 

「見て変だと思わねぇのか? 様子がおかしい――行ってくる」

 

「和久さん! あんた、いっつもこれだ。捜査乱してどうするよ? 規律守る警官なのに」

 

もう慣れたのだろう、呆れ果てた顔で彼は言うが、和久はニヤっと笑って見せた。

 

「規則は破るためにあるんだよ。お前はそこで待ってろ、すぐ戻る」

 

和久さん! と叫ぶ彼の声は聞かなかった事にして、和久はひょいひょいと店の近くまで歩き出した。

 

ここは本店から死角に位置する。皆がここを重要視していないので当然ではあったが、実に都合が良い。それでも回りに目を配りながら、和久は彼女の近くまでやってきた。

 

「ちょっと、君――」

 

言いかけて。

 

彼女の身体が、突然くず折れた。慌てて上半身を支え、なんとか泥まみれになるのを防いでやる。

 

「ど、どうした! しっかりしろっ」

 

彼女――まだ少女だ――は、完璧に気絶していた。ここにいると体温を奪われる。そう判断した和久は、先ほどまでいた見張り場所にまで彼女を運ぶ。

 

苦労して背負ってくると、同僚がやきもきしながらこっちを見ている所だった。

 

「わ、和久さん! もう、俺死ぬかと思ったよ。本店に見つかりやしないかと――」

 

「そのことなんだが」

 

和久は、少し言いにくそうに呟いた。

 

「俺、この子連れて署に戻ってるわ」

 

「……なっ…」

 

開いた口が塞がらない、といった同僚を置き去りにして、和久は歩き出す。

 

「和久さんっ――いくらなんでも、そりゃまずい……」

 

「ばかやろう、この子の身体を見てみろ!」

 

前に出ようとした彼に、和久は声を張り上げた。幸い、雨音に紛れて本店には聞こえなかっただろうが――同僚の眼が、大きく見開かれる。

 

彼女のやせ細った身体には、いくつもの痣と血が、無数に付いていた。

 

 

 

「ん……う」

 

「気が付いたか」

 

和久の声が聞こえて、少女はがばっと起き上がった。そのまま、無我夢中で出口のドアを目指す。慌てて、和久はその前に立ちふさがった。

 

何語なのか聞き取れないが、必死でかぶりを振って抵抗する少女。その腕を掴みながら、和久はできるだけ安心させるようにその小さい肩を持った。

 

「落ち着け! 言葉はわかんねぇかもしんねぇけど、落ち着くんだ。ここは警察だ。お前さんを保護した。もう、安心していいんだぞ」

 

何度も、何度も、安心しろと言い聞かせる。やがてそれが通じたのか、発作のような声が収まった。たどたどしく、言葉が聞こえてくる。

 

「あん…しん。わたし、もう、危険ではないですか?」

 

「ああ。危険じゃない。警察は、日本で一番安全な場所だ」

 

「! 警察……?」

 

途端に、彼女の顔が落胆に変わる。

 

「ここ、警察……つかまるの? わたし」

 

「いや、ちがう。捕まりはしねぇよ。ただ、たぶん調書は取らせて貰うと思うがな」

 

「うそ……うそです。わたしたちはつかまるわ」

 

泣きそうになりながら、彼女は身体に巻かれていた毛布をぎゅっと掴んだ。

 

「わたしたちは、パスポートで来ていない。密入国で捕まって、追いだされる。あんな国なんかに、かえりたくない」

 

「それは……」

 

彼女たちは無理矢理連れてこられたのだから、むしろ被害者なのである。手荒な事は無いだろうが、それでも不法滞在は不法滞在だ。本国への帰国は止むを得ないだろう。

 

しかし彼女の頼みも、分からないわけではなかった。例の店長は天涯孤独の娘を狙い、紛争地域の苦しい場所から甘い言葉で誘い込むのが手口なのだ。この国の生活を知った今、本国に帰りたいと願う者などいない。

 

和久は、言葉に迷った。

 

「……そうだ。あんたたちは、帰らなきゃならん。それは仕方無い事だ」

 

「いや! いやよ……あんな所にかえっても、死ににいくだけ。ここにいたい。ここで、働きたい。もう、おなかを空かして歩きたくないの……そうよ、あなた、お願い。わたしを逃がして」

 

「な……なんだと?」

 

唐突な言葉に、目を丸くする彼だったが、構わず少女は詰め寄った。栗色の髪を振り乱して、こっちに詰め寄ってくる。傷だらけの白い腕が、自分の身体をきつく抱きしめた。

 

「お願い! 助けてくれたのも、逃がしてくれるためでしょう!? 何でもやるわ、あなたの女になったって良い。だからお願い、私を逃――」

 

 

 

ぱん、と乾いた音が響いた。

 

 

 

その音を聞いて、和久はようやく、自分が少女の頬をひっぱたいたのだと気付く。

 

そのまま――ぐい、と少女の胸元をつかんで引き寄せた。

 

「甘ったれたこと言うな。お前だけじゃない、他にも大勢苦しんだ女がいるんだ! 逃げる事ばかり考えるんじゃねぇぞ……ちったぁ生き延びようと思わねぇのか、ええっ!?」

 

自分の拳が震えた。怒りのせいじゃない。これは、悲しみのせいだ。憐憫などかけるような性ではなかったが、それほどに彼女の声は痛々しく――余計、自分の声が荒くなる。

 

彼女は泣いていた。今度は同情を誘うものではない、自分のために涙を流している。ぽたぽたと流れる雫が、和久の両拳を濡らす。

 

ようやく、彼は手を解いた。

 

へたり込むようにして座る彼女は、まるで糸の切れた操り人形だった。

 

和久の瞳が、一瞬迷う。するべきか否か、迷った挙句に……「くそっ」とつぶやいて、自分の懐をまさぐる。取り出したその手には、先ほどの雨でぐっしょりと湿り気を帯びた財布が握られていた。

 

その中から適当に数枚、これも雨で濡れてしまったのだろう、ぐしゃぐしゃの紙幣を取り出すと、少女の眼前に置く。

 

「……6万だ。調書取る時に見つかるなよ。これを持って、故郷に帰れ。一から出直せ」

 

驚いたように、少女は顔を上げた。涙で曇った顔の前に置かれる一万円札は、彼女の国では途方も無い大金なのだ。

 

彼はしゃがみこみ、少女の薄茶の瞳をじっと覗き込んだ。

 

「いいか、同情したわけじゃねぇぞ。俺にお前の意地、見せてみろ」

 

彼女は、一瞬手を止めたが――再び涙を溜めて、うん、うんと頷いた。大事そうに、ぐしゃぐしゃの万札を握り締める。その時、部屋のドアが勢いよく開いた。本庁の人間が、こちらを睨んでいる。

 

「……和久刑事。お前は本当に何をやってるんだ。本庁の捜査を無視するとは……これは服務規程違反だぞ」

 

しかし、和久は涼しげにその視線を見返した。

 

「目の前に、倒れた人がいる。そいつを助け、保護してやる。人を救う事に、理由なんざ必要ない。そうでしょう? 本店さんよ」

 

しばらく無言のまま、対峙する二人だったが。本庁の刑事は嘆息すると、後ろについていた刑事に命令した。

 

「そこの女を任意同行しろ。調書を取る」

 

その言葉に、素早く反応する二人の刑事。腕を捕まれた彼女は不安そうに和久を見たが、彼はにっこりと笑って見せた。

 

「大丈夫だ、行け。もう二度とここに連れてこられるんじゃねぇぞ」

 

「あの……教えてください。あなたの、お名前は……?」

 

「和久だ――和久平八郎。お前さんは?」

 

「……リタ…」

 

「リタか。いい名前だな」

 

彼らに許された時間は、そこまでだった。無情にも連れられる彼女は、しきりに言葉を繰り返していた――日本語ではないのでよく分からないが、たぶん「ありがとう」と言っているのだろう。

 

静かになった部屋に、先ほどの本庁の人間が佇んでいる。彼は疲れた顔をしながら、呟いた。

 

「金など渡すとは、どういう了見だ」

 

「見てやがったのか」

 

和久の声に、彼は頷いた。渋い顔で机に置かれた財布を睨んでいる。

 

「和久さん、あんたらしくもない。あの子一人だけ助けても、何も解決はしないだろう」

 

「確かに、俺らしくねぇやな。自己満足もいいとこだ」

 

へっと笑って、和久は椅子に座った。

 

「でもな……一人だけ救う事しかできなくても、そいつの人生をほんの少し変える事ぐれぇしかできなくても。それでも、いいんじゃねぇかな。そいつに何か光を与えてやる事が、俺たちの仕事だと――そう思う」

 

床を見つめ、自分に言い聞かせるように、彼は言った。

 

それを見ながら、もう一人の男――吉田管理官は、諦めたように笑った。

 

「和久さんらしいな。また始末書の毎日だ」

 

「違いねぇ」

 

二人は、そのまま笑い合った。

 

外の雨は相変わらず降っていたが、取調室の空気だけは、なぜか暖かいような気がした。

 

 

 

「……そうだったんですか」

 

外の雨音が、まだ聞こえてくる。しんとした刑事課に、青島の声が響いた。それに、和久は自嘲した。

 

「いや、あの頃はまだ青かったからなぁ。とんでもねぇ事をしたかと、後で何度も後悔したもんだ。たまたま、あいつが真面目に出直せただけで、大抵の人間はその金で遊んじまうからな」

 

確かにそうだろう。しかしあの女性を見る限り、とてもそんな暗い影など微塵にも感じなかった。いや――

 

影は、あった。その美しい笑顔に憂いを見せていた理由がやっと分かったような気がした。

 

すみれも同じ事を考えていたのか、珍しく神妙な面持ちで聞き入っている。

 

「しかし、そうか。あいつもいい女になったのか。あの時は、こまっしゃくれたガキだと思ったのによ。時が経つのは早ェな、ほんとに」

 

ぽりぽりと鼻の横を掻いて照れながら、和久は6万円を手に取った。それをぼんやりと眺めて、真下は呟く。

 

「でもそれ、使えるんですかねぇ。なんかボロボロですよ。せっかく返してもらったのに」

 

「馬鹿いえ、なんで使う必要があるんだよ。これは気持ちの問題ってやつだ」

 

「そうよ、真下さん。ロマンがないわね」

 

「ええっ? で、でも、雪乃さぁん」

 

まったく、お前って奴はと刑事課の皆に非難を浴びて、困った顔の真下。

 

それと同時に、課長の机で電話が鳴り響いた。二言三言話して受話器を下ろし、袴田が叫ぶ。

 

「よし、皆仕事だ。鶴亀神社で強盗事件発生。殺人事件に切り替わるかもしれん、至急捜査本部の準備をしてくれ」

 

はい、と全員が返事をし、思い出したように部屋の外へと飛び出していく。もちろん青島も後を追おうとして――

 

「おい、青島」

 

「? なんすか、和久さん」

 

「この6万、お前のと交換しねぇか?」

 

「……気持ちの問題じゃなかったんすか?」

 

呆れた顔の青島に、和久はへへ、と笑った。

 

「なぁに、20年も前じゃ時効だよ。地獄の沙汰も金次第、なんてな」

 

 

 

雨は相変わらず降り続けている。

 

彼女は、また湾岸署に来ようか迷っていた。自分の会社を持つ手前、今日のような自由行動のできる日など、もう無いかもしれない。

 

しかし――

 

雨に煙る中、あの時の和久の姿が蘇る。もう二度とここには来るなと、彼は言っていた。もちろん、また誘拐されるなという意味合いだろうが……

 

もう自分は、あの時の自分ではない。日本に会社を持ち、社会的地位も持っている。夫もいるし、子供だっている。だからこそ、ここに来る事はもうできないのだと――憂鬱な気分で、彼女は溜息をついた。

 

それでも。

 

彼はそんな自分を笑い飛ばすだろう。そんな小さい事にいちいちこだわるなと、明るい声で諭すだろう。

 

だから、彼女は歩き続けた。もう過去は振り返らずに、未来を目指すために。

 

 

 

後日、湾岸署の和久の元に、一枚の手紙が届いた。

 

差出人は書いていなかったが、手紙の内容を一通り見て――彼の顔が緩む。

 

その日、やたら張り切って仕事に向かう和久を、青島は首をかしげて見守るのだった。

 

 

 

(冷たい雨の降る夜に・終)

説明
踊る大捜査線の二次創作小説です。和久さんのターン!いぶし銀の爺さんって好きなんです。
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コメント
>鬼子母神遯庵さん 私の中ではずっと織田裕二さんになってしまいますww(雛咲 悠)
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