わたしのしこう、かのじょのしこう
[全1ページ]

 三か月前に二十歳になった。社会的におとなになったって、怖いものも面倒なものも苦手なものも嫌いなものも変わらずある。幽霊だとか、自炊だとか、きつい香水だとか、ルーズソックスだとか。特定の日の零時を迎えたからと言って、何かが劇的に変わることなんてないのだ、と知った。

 外から聞こえる救急車のサイレン。迫る。重なる。追い越す。ドップラー効果、だっけ? 紫煙のたちこめるアルバイト先の喫煙室で、ぼんやりと考える。不思議だ。煙草の匂いは大好きなのにあの香水がどうしても苦手だなんて。

 更に、と思う。困ったことに、どうしても好きで仕方ないものも、変わりはしなかった。

晶(あき)菜(な)さんの足首。きゅっと締まったシルエットに、形がはっきりと解るくるぶし、浮いたアキレス腱、ふくらはぎとの対比。晶菜さんの足首。

 思えば早熟で生意気なこども時代、周りが色恋の真似ごとにざわざわし始めたころから、たくさんの男のひとと付き合った。あるひとはスポーツマンで、あるひとはインテリ眼鏡で、あるひとは冴えないけれどどこまでも優しかった。わたしが求めた条件なんてほとんどない。足首が綺麗なにんげんだったら誰だってよかった。

 でも駄目だったのだ、ぜんぶ。わたしが求めるものと彼らが求めるものは食い違いすぎた。

 自分がおかしいんだろうな、くらいの自覚はあった。大多数の人間が求める規格だとか条件だとか基準だとかがずれている。もしくは、ずれていく。

 足首。足首。足首。

 キスをしたり手を繋いだり抱き合ったり、そんな通り一遍のれんあいにもちゃんと取り合ってあげた。けれど隙あらば足首ばかりを愛でようとするわたしを、最終的に彼らは気味悪がった。

 とにかく足首が、顔よりも声よりも性格よりも優先すべき基準なのだ。

無駄な肉を削いで皿の浮き上がる膝から、硬めに締まった筋肉がふくらはぎが輪郭を作って、下に向かって一気に細くなるような足首がいい。くるぶしは少し大げさなくらい存在を主張していて、アキレス腱との間には靭帯の集まった深い窪み。足そのものも美しい形をしていて、かつ適度に厚みがなければいけない。五本分の骨が指に繋がるようにきちんと張っていて、土踏まずからかかとにかけて緩やかな曲線が走っている。わたしの理想の足首。

顔と名前が一致しないけれど、足首と名前が一致するひとなんていっぱいいる。

 そんななかで出逢った、最高の足首を持つうつくしいひと。それが晶菜さんだった。久遠(くどう)晶(あき)菜(な)。セミロングの髪を最近茶色に染めた、バイト先の先輩。彼女を思い浮かべながら、ゆっくりと瞳を閉じた。いや、思い浮かべたのは彼女の足首だったけれど。

 手に入れたい、と心底願った。

 まず彼女には腰かけてもらう。ベッドでも椅子でもテーブルでも、なんだっていい。そしてわたしは跪いて、晶菜さんの膝と目線を同じにする。最初から足首をむさぼってはいけない。膝から、柔らかに伸びる足の曲線をゆっくりなぞって、ようやく求めていたものに触れられるのだ。指先でそっと撫でて、掌で握って、爪でひっかいて、頬擦りをして、舌を這わせて、そうだ、ありったけの力を込めて壊そうと試みるのもいいかもしれない。

 晶菜さんはどんな表情をするだろう。どんな反応を示すだろう。心底嫌がるかもしれないし、逆にすべてを受け入れて微笑むのかもしれない。泣きわめく彼女も見てみたいし、もしかしたら歌いだすかもしれない。

 果てのない夢想。

 肺の細胞に煙をしつこくなすりつけてから、思い切り息を吐いて眼を開けた。そういえばライターのオイルが無くなりそうだな。緩慢な動きで腕時計を見る。休憩時間はあと四分を切ったあたりだった。トイレにも行きたいし、そろそろここを引かないと。ああ、あと二時間も残ってる。やだな面倒くさい。

嘆息してから喫煙室を後にした。この扉を閉めた直後はいつだって、自分がいかに汚い空気の中で快楽を得ていたかを実感する。この感覚が嫌いじゃないからわたしは煙草を吸うのかな。

馬鹿らしい。

「おつかれさま」

いつでも不自然なくらい清潔な化粧室に入ると同時に声を掛けられた。晶菜さん。右手にはパールピンクのグロスが握られている。

ああ、今日はダークグレーのパンプスなんですね。低めのヒールがとてもお似合い。

晶菜さん、晶菜さんは知らないところでわたしにその足首を玩ばれているんですよ。

「おつかれさまです」

足元に気を取られて、返事が数拍遅れた。きっと普通に笑えていたと思う。特にそれ以上の会話も無く、晶菜さんは鏡に向き直って唇を尖らせ、わたしは個室に入った。

ジッ、とポーチの口を閉める音。ヒールが規則的に鳴って、扉の閉まる様子がわかった。壁を隔てて遠ざかっていく靴音がひとつふたつみっつよっつ、たくさん。ああこれもドップラー効果って言うのかな。多分言わないんだろうな。今度覚えていたら調べてみよう。

晶菜さん。交互に動く足首がまざまざと浮かんだ。白くて肌理(きめ)の細かい肌が腱と血管と骨に張り付いてるさま。すてきだ。すてきすてきすてき、美しい。

個室を出て、手を洗う。冷たい水が、べたついていた指の股を伝って落ちていく。晶菜さんの足首が欲しい。晶菜さんの足首を手に入れたい。晶菜さんの足首を存分に愛でてみたい。晶菜さんごと、わたしの好きにしたい。

けれど、それは出来ないのだ。

わたしは彼女に近寄れない。思うように会話も出来ない。隣の席に座ることも出来ない。舌打ちをしたら、思いのほかそれは大きく響いた。

ルチアノソプラーニ、ソロ。わたしの最も苦手な類の香水。晶菜さんの匂い。彼女はいつだって、それをきつくまとわせていた。

それに色を付けるのならわたしは数分迷った後にディープピンクを選ぶだろう。きれいで優しげな輪郭をしているけれど、実際に触ってみればそれは張りぼてで、内側にある尖ったものが指に刺さる。規格化された可愛らしさ。最大公約数的な良さ。いつでも笑顔を浮かべているけれど、本当に心から笑っている訳じゃないことがはっきりとわかるような嫌な感じ。

わたしはどうしても近寄れない。あんなに素敵な足首が近くで動いているのに、どうしてこんなにも吐き気を誘うんだろう。まるで熟した桃から生ごみの臭いがするみたいに。いや、生ごみの臭いだったらまだ耐えられたかもしれないのに。

晶菜さんの周りをゆらゆらとたゆたう香りが、恣意的にわたしを拒む生き物のようにすら思えた。わたしは彼女と言葉を交わすこともできない。どうしたって呼吸をしなくちゃいけないから。

悔しい。

「指宿(いぶすき)さん!」

背後から名を呼ばれてはっとした。同期の女の子が立っている。

「休憩時間終わりでしょ? 早く戻ってもらわないと、あたし休憩取れないんだけど」

焦って腕時計を見た。もう三分も過ぎている。

「ごめんなさい!」

急いで頭を下げてから、廊下を走った。

 

 

 ブラインドの隙間から見えるストライプの空はすっかり暗い。夜の緞帳(どんちょう)。タイムカードを押す。お疲れ様でした、と全体に声を掛けてから部屋を出た。今日のアルバイトもやっと終わりだ。喫煙室で一服してから帰ろう。人気のない廊下を歩きながらバッグに手を突っ込んで、煙草を求めてまさぐった。

 喫煙室の扉を開けると、先客が居た。社員の男と、アルバイトの女。どっちも足首が綺麗じゃないから名前までは覚えていない。軽く会釈をして、ごうんごうんと低く唸る換気扇の音を聞きながら煙草に火をつけた。

「あ、加東さん知ってました?」

女が媚びるように高い声で喋るのが聞こえる。ああ、あの男の人は加東って言うのか。

「久遠さんってぇ、来週で二十七になるらしいんですよぉ。見えないですよね」

もうちょっと歳食ってるのかと思ってましたぁ、と悪意を孕んで笑う声。

「あの」

思わず振り返っていた。二人が少し驚いたような様子でこっちを見る。日頃喋らない人間がいきなり会話に割り込んできたら確かにそんな反応をするだろう。自明の理だ。

「それって、あの、久遠さんの誕生日って、いつなんですか?」

 

 

 風呂上がりに濡れた髪のまま、紅茶を淹れて、座椅子に腰を据えた。自室の壁掛け時計はもう、日付を変えている。暖かくて甘い液体をゆっくりと飲み下した。目の前のテーブルの上には、たくさんの写真が散らばっている。

晶菜さんの足首、晶菜さんの足首、あきなさんのあしくび。被写体は全部、晶菜さんの足首。

 携帯電話のカメラのシャッター音を消すときには随分と手間取った。電波法違反だから、ばれたら捕まっちゃうけど。いや、それ以前にもっと別なところで捕まる気もする。

 けれど欲しかったのだ。どうしても。本物に近寄れないのなら、せめて映像だけでも。

「……あきなさん」

の、足首。

 もう一口、紅茶を嚥下してから頬杖をついた。誕生日は来週の金曜日らしい。

晶菜さん晶菜さん、わたしのいま一番手に入れたいもの。近寄りたいもの。せめて近くに居ることが出来たら。せめて言葉を交わすことが出来たら。

 写真の中で美しく形をとどめた足首たちをひとつひとつ眺めながら、溜息をつく。欲しい。欲しい。欲しい。

 わたしには名案があった。

 

 

「いらっしゃいませ」

小さな小瓶が無数に並んでいる。最近流行りの、内容なんて欠片もない曲が流れていた。愛してるだの永遠だの逢いたいだの、戯言ばっかり。

スカートの丈が異様に短い女子高生たち、金髪で目の周りが真っ黒の女たち、その他もろもろ。高級感のない香水屋。分厚いガーゼマスクをしたわたしはさぞかし浮いていることだろう。

頭痛がする。吐き気がする。噎せ帰るようなアルコールと香料と蒸留水の塊。女たちの甲高い笑い声。足元が覚束ない。たくさんのテスター。たくさんの空箱。しゃれたガラス瓶。

わたしには名案があった。晶菜さんの誕生日に、香水をプレゼントすればいいのだ。傍に居ても苦しくないような、比較的わたし好みのものを。それを彼女につけてもらえば、すべてが上手くいく。わたしは晶菜さんに近寄って、喋りかけて、そしてあの足首を存分に味わえる。はずだ。

だからこんな、嫌悪の対象を具現化してぎゅっと凝縮したような場所にわざわざ足を踏みいれた。

まるで不快な風味の巨大なゼリーの中に居るみたいだ。動きが阻まれる。どろりとした感触の中で、それでも必死に動く。重たい四肢で周囲を掻いた。気持ち悪い。胸のあたりを内側から紙やすりで擦られる気分。

テスターを手にとって恐る恐る嗅いでは戻す。何回繰り返しただろう。真綿で首を締める感覚、って言葉はこういうときに使うのかな。まるで遅効性の毒をそれと知りながら一口ずつ飲み干すみたい。

きもちわるいきもちわるいきもちわるい。心の中で繰り返す。もしかしたら口に出ていたかもしれない。よく解らない。自信がない。けれどどっちだっていいのだ、そんなこと。

鼻から眼の裏側を通って、脳髄へと悪寒が走る。嗅細胞が悲鳴を上げながら次々と壊死していく感覚。いくつ嗅いでも、条件にあうものは見つからない。噎せ返る無間地獄。くらくらして、その場に座り込んだ。

恐ろしいほどのエネルギーを費やして、ポケットから携帯電話をとり出した。ぼんやりとした頭。視界。

メインメニュー、データフォルダ、ピクチャー、シークレット設定一時解除、暗証番号を入力してください、910#。ぱっと切り替わった画面に、ずらりと並ぶ画像。晶菜さんの足首たち。ふう、と息を吐いた。諦めるわけにはいかないのだ。これを手に入れるために。日頃の何倍にも感じる重力に抵抗しながら立ち上がって、次のテスターに手を伸ばした。

 

 

「プレゼント用にして下さい」

疲労と気持ち悪さで細かく震えた自分の声は、マスクのせいでくぐもって更に聞き取りにくくなっていたと思う。けれどそんなことにはもう構っていられなかった。わたしでも受け入れられる香水をやっと見つけることが出来たという喜びと、早くこのゼリーの中から抜け出したいという思いだけ。

ギラロッシュのドラッガー。晶菜さんに贈る、新しい香り。わたしと彼女を隔てない香り。

また色を付けるなら、今度は迷わずにコーラルピンクを選ぶ。恥ずかしげに形のぼかされた風合いが優しい。むやみやたらに咬みついて喜んだりはしない。むしろ無表情で、だけど時々、綻ぶように笑うのが深く深く印象に残る。

アルバイトらしきレジの女性は、慣れた手つきでそれにラッピングを施していく。ピンクの包装が形を変えていくのを、ぼんやりと眺めていた。

「ありがとうございましたー」

 店員の声は、女たちの嬌声やらヴィジュアル系バンドの歌うわけのわからない歌やら不快な香りやらゼリーの残滓やらと一緒に、閉まる自動ドアによってフェードアウトしていった。自動ドアを考えだした人にお礼を言いたくなる。今のわたしに、自力でドアを開け閉めする気力も体力も残っていないのだ。

 外。自分がいかに不快な空気の中で不快感を得ていたかを実感する。マスクを外すと同時に、けほ、と小さく咳き込んだ。

 ギラロッシュ、ドラッガー。なんだか、濁音が多くてざらざらした感じの名前。もう一度小さく咳き込んだ。一拍置いて、大きく息を吸う。肺の中の空気が早く入れ替わりますように。

 唐突に、すうっと気分が高揚するのを感じた。頬が熱くなる。やった。やり遂げた。これで晶菜さんを、晶菜さんの足首を。

 小さく笑みが漏れた。通りがかりのサラリーマンが怪訝そうな顔でこちらを一瞥して、そのままどこかへ歩いていく。

 よし、煙草を吸ってから帰ろう。数少ない喫煙所を探して、さっきまでの疲労も忘れてのしのしと歩き始める。ああ、喫煙者はどんどん隅に追いやられていくんだなあ。

 

 

 緊張していた、のだと思う。柄にもなく。

 バッグに忍ばせた紙袋を何度も見直しながら、蛍光灯を反射するリノリウムの廊下を歩く。金曜日、今日この日に、わたしと彼女の休憩時間が重なっているのも確認済みだ。抜かりはない、と思う。

 思っていたよりもずいぶん早くバイト先に到着してしまったわたしは、ロッカールームに荷物を仕舞ってから喫煙室に向かった。今回は一人だ。煙草を取り出して、火をつける。ああ、そういえばオイルが無くなりそうなんだった。

 携帯電話を取り出して、小さな液晶に映し出される晶菜さんの足首を眺めた。綺麗だな。欲しいな。いや、もうすぐ。もうすぐ手に入るはずなんだ。大丈夫。

 煙が満ち始めるのと同時に、不思議な幸福に包まれるのを感じた。煙が換気扇の向こうに消えていっても、ぬるい粘性の幸福感はわたしの皮膚を捉えて離さない。溜息をつくと、その表面はさざ波のように揺れた。

 晶菜さんの足首が画面を跨いで、わたしを誘う。もうすぐだよ、もうすぐ。

 まだ半分ほど残っている煙草をもみ消して、ちいさく声を出して笑った。

 そろそろ仕事に入ろう、と立ち上がる。休憩時間は二時間後の予定だ。

 

 

 ぎゅっと瞳を閉じて、それから開いて、大きく息を吸った。

 やっと訪れた休憩時間、晶菜さんの背中を追いかけて入った休憩室。自動販売機とテーブルセットが四つほどの部屋。わたしはあまり来ることが無いけど、彼女がいつもここで同僚たちと歓談しているのは知っていた。

 あきなさん、きょうおたんじょうびなんですよね。これ、ぷれぜんとです。

 何度も何度も考えて、結局平凡な言葉しか浮かばなかった。

あきなさん、きょうおたんじょうびなんですよね。さあ、言わなきゃ。渡さなきゃ。これ、ぷれぜんとです。

晶菜さんは椅子に座って缶コーヒーを飲みながら、新しく出来たイタリアンレストランについて数人の同僚と話をしていた。

ゆっくりと近づいていく。鼻につく、ルチアノソプラーニ。

言わなきゃ、言わなきゃ、いわなきゃ。

さあ。

「あ、あの!」

妙に力んでしまった声は、休憩室の壁に大きく反射した。全員の視線がこちらに向けられるのを感じながら、一気に捲し立てる。

「晶菜さんこれ誕生日のプレゼントです!」

ああ予定とはずいぶん違う。けど要点は伝えられた、よね? 数秒の沈黙。

「え? あたし?」

「はい」

彼女は驚いたような顔をして、ピンクの包みを受け取った。やった、と息を詰めたままの状態で思う。

「え、あ、ああ、ありがとう」

晶菜さんは戸惑った表情のまま、それでも笑顔を作ってお礼を言った。

「開けてもいいかな」

「どうぞ」

本当はもっといろんな言葉を並べたいのに、呼吸を最小限に抑えようとするあまりに単語も最小限にしか出てこなかった。眼を伏せる。彼女の足首が見えた。

わたしはいつ立ち去ればいいんだろう。渡すことばかり考えていたせいで、これからどうしたらいいかがよく解らない。

「わあ!」

晶菜さんの高い声が聞こえた。

「ありがとう、指宿さん。本当にいいの?」

笑みを含んだ声音。喜んでもらえたらしい。

「いいん、です。使ってください。じゃあ」

捻り出した言葉は跳ねたりつっかえたり裏返ったり、散々なものだった。ぶっきらぼうに思われたってもういい。早くここから離れたかった。

 わたしはそのまま、休憩室を出た。

 

 

 今日はジャスミン茶を淹れた。赤みがかった透明。茉莉花の香りは好きだ。

 座椅子に座って、いつものように写真を広げた。晶菜さんの足首。素敵な足首。もうすぐわたしのものになる美しい足首。

 写真を手にとって、一枚一枚ゆっくりと眺める。無意識に笑みがこぼれた。

 適度な厚みのある甲から登って、丸く突き出たくるぶし、細く締まった足首に浮き上がるアキレス腱、そしてその間にある窪み。ジャスミン茶の湯気の中に、手で触れられそうなほどリアルに視認できる幻。どこかの国の芸術みたいに整った足首。

 すてき。

写真をテーブルの上において、もう一度笑う。

 明日のバイトが楽しみで、その日わたしは眠れなかった。

 

 

 寝不足のとき独特の、妙に心地好い疲労感を身体にまとわせて、わたしはリノリウムの廊下を歩いていた。喫煙室に向かう。今日は先客が多い。

 おつかれさまです、と小さく会釈をしてから煙草を取り出す。唸る換気扇。あの小さな四角い闇に吸い込まれた空気は、どこをどう通ってどこまで行くんだろう。

「あ」

ライターのオイルが切れている。ぱちんぱちんと音を立てて火花が散るばかりだ。新しいものを買うのをすっかり忘れていた。溜息をついてから煙草を仕舞って、喫煙室を後にした。

 廊下を歩いていると、笑い声が漏れ聞こえた。立ち止まる。晶菜さんの声が交っていたからだ。視線をずらすと、ちょうど休憩室の前だった。

「あれ、晶菜ちゃん香水変えた?」

ぴくりと、からだが先に反応する。香水変えた? こうすいかえた? リフレインする期待。

「うん、昨日もらったんだけど」

「ああ例の、指宿さんから貰ったやつ?」

迷ういとまなんてない。勢いをつけて扉を開ける。

 同時にわたしの耳は、晶菜さんの言葉の続きを正確に捉えていた。

「ううん、あのあと家で彼氏にも香水をプレゼントされて」

そっちをつけてるの、と。

 ばたん、と大きな音がした。扉が壁に当たって跳ね返る音。テーブルを囲む数組の視線が、わたしに的を絞る。晶菜さんが一瞬瞠目してから、気まずそうに顔をそむけるのが解った。彼女以外の人間も、おのおのわざとらしく黙りこむ。

 ゆっくりと、そのテーブルに向って歩をすすめた。

 胸の悪くなる類の香りが、どんどん濃く密にわたしを拒む。かたちなく揺れて彼女の感触を伝える香り。わたしが贈ったのとは、違う香り。

 椅子に座る晶菜さんの前に立ち、不快な空気を肺いっぱいに詰め込みながら、わたしは唐突に悟った。

わたしはどうしたって、このひとのいちばんには成り得ない。わたしは何を使ったって、この人を手に入れることなど出来ないのだ、と。

 だって晶菜さんはわたしを選ばなかった。現にこうやって柔らかく鋭利な刺(とげ)でわたしを拒むのだ。

 そのときわたしにはなにも無かった。ただ血脈が垂直に、上に向かって鈍い音を立てて、どくんと大きく一回打っただけ。

 何も考えずに、右足に渾身の力を乗せて彼女の一番美しい場所に振り下ろした。肉の少ない部分同士がぶつかり合う感触。ああ、痛い。晶菜さんの方がもっと痛いに違いないけど。

 周りの人間が慌てふためくのが見えた。悲鳴を上げて、彼女が椅子から崩れ落ちる。ずっと思い続けていたひと。ずっと、長い間欲しかったひと。

 傷んだ足首が赤く腫れていくのがわかる。いずれあれは紫色の鬱血に変わるだろう。ああ、それも見てみたい。ぞくぞくした。同時に、自分の両目から涙がこぼれているのも知っていた。

 晶菜さんの額には脂汗で茶色い前髪が貼り付いている。苦しげに眉根を寄せながら、信じられないものを見る目でわたしだけを捉えていた。

 ああ、なんて美しいひとなんだろう。

 今までわたしの想いをさんざん食い荒らして邪魔していたその香りさえ、一瞬だけではあっても、心の底からいとおしいと感じて、そして、わたしはその場に嘔吐した。

 

 

 夜風が冷たい。指先に温度が無い。ああ、手肌の荒れに始終気をとられる季節が来るんだな。

 数十分前に晶菜さんの足首を蹴り飛ばした足で、自転車のペダルをこいでいた。

 当然ながらバイトはクビになり、彼女は病院に運ばれていった。あの加東とかいう男がおぶっていたと思う。治療費は別途請求することになるだろう、と、上司は苦虫をかみつぶしたような表情で告げた。今日はもう帰れ、とも。

 わたしはただぼそぼそと、残っている私物はぜんぶ処分してくださいもう来ませんからそれと後処理なんかは書類を送ってください、と彼の眼を見ずに呟いただけだった。

 頭が痛い。口の中が気持ち悪い。なにより、得体のしれない喪失感が厭で厭で仕方がない。

 救急車のサイレン。迫る。重なる。追い越す。ドップラー効果。

 赤信号がわたしをにらんだ。ブレーキを掛ける。この信号は長いから、どうせ一分は動けないだろう。

 バッグから携帯電話をとり出した。メインメニュー、データフォルダ、ピクチャー、シークレット設定一時解除、暗証番号を入力してください、910#。メニュー、全件一斉削除、すべてのデータを削除してもよろしいですか? はい。

 晶菜さんの足首は、一瞬でぜんぶぜんぶ消え去った。あまりにあっけない。

 とおりゃんせが聞こえた。青信号がわたしに笑い掛けている。すすめ。ぐっとペダルを踏み込んだ。

 ああ、ライターを買わなきゃ、とひび割れた唇で呟いた。その言葉すら冷たい闇に持っていかれる。確かこの通りの少し先にコンビニがあったはずだ。

 愛おしかった足首の写真が、端の方から燃えるさまを想像する。少し笑おうとしたけれど失敗して、わたしは泣いた。

 

説明
私が彼女の一番美しいところに愛を抱いた記録。
総閲覧数 閲覧ユーザー 支援
1407 1404 1
タグ
オリジナル

麻里さんの作品一覧

PC版
MY メニュー
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。

<<戻る
携帯アクセス解析
(c)2018 - tinamini.com