ハーフソウル外伝・帝都動乱
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一 ・ 帝都行

 

 今は誰も通らない、砂埃にまみれた街道を男は進んでいた。

 

 統一王フラスニエルの御世に整備された大陸公路。帝都ガレリオンから八方へ延びる石畳の街道は、千年近く経った今でも、人々の生活道路としてその大半が、交易や旅行に使用されている。

 

 初夏の昼下がりだというのに、男は全身を濃青のマントで包み、頭部に巻き付けた布に隠れて、その表情すら伺い知ることができない。

 ただ、巻布の隙間からこぼれ落ちている白金の長い髪が、男の風体を殊更異様なものにさせていた。

 

 彼は黙々と歩き続けていたが、ふと顔を上げ、街道のはるか向こうにある城塞都市を見やった。

 

「……帝都、か」

 

 その青い瞳に一瞬哀しそうな色を浮かべ、彼はまた歩き続けた。遥か頭上に、自分を見下ろしているものがいることを、彼はまだ知らなかった。

 

 

 

 

「もう限界じゃ」

 

 質素な木製の寝台の上に、一人の少年が眠っていた。あどけなさの残る十二、三歳くらいの子供でありながら、彼の四肢は銀の鎖で繋がれ、まるで虜囚のようだ。

 だがその衣服や身体にも、傷や汚れは見当たらない。彼のいるこの部屋も牢獄ではなく、小奇麗な屋敷の一室だった。

 

 生気のない青白い少年の顔を見下ろし、老人は呟いた。

 

「あの血月以来、この子は普通の生活すら出来ぬようになってしまった。昼に眠り、夜は起き続け、感情すら出さぬように生きる。『あれ』に付け込まれないようにするためとはいえ、こんな事がいつまでも続くわけがない」

 

 老人は深く溜息をつき、かたわらの青年を見やった。

 

「サレオス。わしはこの子の祖父として、もうこれ以上苦しませたくはない。『あれ』がセアルの内にいる以上、わしらに出来ることは何も無い」

 

「……この子を殺せ、とおっしゃるのですか」

 

 老人の言葉に間髪いれず、サレオスは答えた。抑揚のない声だったが、押し殺した怒りが老人には感じられた。

 

「わかっておる。お前に弟が殺せるわけもない……。生後すぐ母親を失ってからというもの、お前が親代わりになって育ててきたのだ。生命を奪う権利も、誰にもありはしない」

 

 じっとセアルを見下ろす祖父に、サレオスは自らの決意を口にした。

 

「帝都に参ります」

 

 彼のその言葉に、老人は表情を曇らせた。

 

 帝都とは、千年近く前に初代皇帝・フラスニエルの建国した統一帝国の首都、ガレリオンのことだ。

 

 彼らの棲む封印の森から、大陸公路を経て十日以上の距離があり、往復にはおおよそひと月かかる。大戦の頃には公路半ばに、十以上の村や町があったが、今では交易商の姿も減り、公路なかほどに古びた街がいくつかあるだけだった。

 

 また、長旅以上に彼らにはひとつ憂いがあるのだった。

 

「……あの大戦以降、人間と我ら精霊人との交流は全くない。人間たちは、我々をお伽話の住人とすら思っているだろう。皇帝陛下の御前に出るまで、精霊人の生き残りであると知られては危険なのだ。それでも行くというのか」

 

「この子のためなら、私は奈落の底へでも参りましょう。皇帝家に伝わりし王器なら、セアルの呪縛も解くことが出来るかも知れません」

 

 サレオスの揺るぎない決意に、老人は承諾した。

 

「覚悟してゆくがよい。場合によっては、お前もセアルも生命の危険を伴うぞ。王器は王権の証。あれを巡って、今までどれだけの血が流れたか。見も知らぬ者に、すんなり貸与するとは思えぬ」

 

 老人はゆっくりと立ち上がり、寝台のそばを離れると、静かに部屋を後にした。

 

「もとより、覚悟の上です」

 

 部屋から遠ざかる祖父の足音に、彼は一人呟いた。

 

「……邪神が再び現れるとなれば、帝国もただでは済みますまい。『深淵の大帝』の陰には、必ずあの男がいるのですから」

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二 ・ 隠者マルファス

 

 サレオスが帝都の門前に辿りついたのは、故郷を発ってから十二日後の夕刻すぎだった。

 

 帝都は皇宮区、神殿区、商業区、工業区、居住区の五つの区画から構成されており、それぞれが城壁と城門、そして警備兵を有していた。なかでも皇宮区は、他の四つの区画に囲まれるように造られているため、人知れず忍び入ることは不可能であった。

 

 彼が着いたのは、神殿区の門であっが、警備兵の姿が見当たらない上に、灯りとなる松明すら灯されていない。門も堅く閉ざされ、叩いても反応すらなかった。

 

「……どういうことだ」

 

 不審に思い、サレオスは懐に手を入れ、するりと術符を引き出した。符は掌に収まる程度の小さな紙片で、表には複雑な幾何学図形が描かれており、裏には細かく古代文字が書き込まれている。

 

「門をぶち破るつもりかい? 意外に大胆だね」

 

 ふいに声をかけられ、精神集中が途絶える。背後に気配を感じたサレオスは、俊敏な獣のように、真横の木陰に滑り込んだ。

 

「……そんなに驚かなくてもいいじゃないか」

 

 彼の前に突然姿を現したその影は、軍服を思わせる黒いコートに身を包んだ、若い男だった。編んだ黒髪を下げ、黒い輝きを放つ両手剣を背負っている。暗菫色の瞳は、昏く深い闇の底を感じさせた。

 

「お前は……マルファス! なぜここにいる?」

 

 驚きを隠せず、サレオスは身構えた。

 

 彼の弟セアルに初めて内なる深淵が顕現した夜。この世の理を定めた神の、圧倒的な力に耐えられず、初めて弟を手にかけようとした時。偶然現れたこの男が、邪神を深淵へと追い返し、無傷なままの弟を取り戻す事が出来た。

 

 帝都へ赴いたのも、マルファスが去り際に残した「帝都の王器なら護符に出来る」との言葉に、藁にもすがる思いだったのだ。

 

 だがそれは、本当に偶然だったのか。ただの人間に、神を追い返す程の力が何故あるのか。微かな違和感を感じながら、サレオスは素早く新しい術符を引き出した。

 

「やめておいたほうがいいって忠告してるのに」

 

 軽い口調の中にも氷のような冷たさを含ませて、マルファスはゆっくりと城壁の上を指さした。

 

「見ていてごらん。僕の忠告の意味がすぐにわかる」

 

 マルファスは懐から炎の図形が描かれている符を取り出すと、鳥の形に折り、城の上空へと飛ばした。紙で出来た鳥は、ふらふらと飛びながら小さなカラスの姿となり、まっすぐに城の真上へと降り立った。

 

 その瞬間凄まじい轟音と共に、赤々と燃え立つ炎の塊が、城の上空で炸裂した。城に降り立ったように見えたはずなのに、炎は城へは到達していなかった。そしてその炎もすぐに収まり、赤く染まった夜空は再び、元の闇に返った。

 

「……どういうことだ? あれほどの炎が発生する術なら、帝都の一区画を、一瞬で吹き飛ばす程の威力があるはず。いくらなんでも炎の収束が早すぎる」

 

「そう」

 

 マルファスは城門に歩み寄りながら言った。

 

「放射状に張り巡らされた結界によって、符を使った術はすべて防御されるんだ。張った本人以外は破ることが出来ないし、内部での符術は発動すらしない。いわば侵入する者を絡めとるための結界だよ」

 

「……何故こんな仕掛けをしてあるんだ帝都は」

 

 サレオスの動揺ぶりにマルファスは微笑み、城門の正面に立った。

 

「結界を張った本人が、恐ろしく小心者なのさ。さて、門を開けようか」

 

「……貴様、何を企んでいる?」

 

 サレオスは鋭くマルファスを睨み付け、懐に忍ばせた聖銀製の短刀を、堅く握りしめた。返答によっては、この場で彼を殺すつもりだった。

 

「何故私に協力する」

 

 その言葉が余程面白かったのか、マルファスは小さく笑いだした。

 

「別にキミに協力してるつもりはないよ。僕にも用向きがあるのさ。まあ元はと言えば、帝都の王器を借りるよう焚きつけたのは僕だしね」

 

 軽い口調の中に、凄絶な笑みを見たような気がして、サレオスは思わずぞっとした。数年前に初めて出会った夜よりも、彼に纏わりついている闇が、より一層濃くなっている気がした。

 

 マルファスが触れると、主人を待ちかねていたかのように、音もなく城門が開く。二つの影は内部へと滑り込み、消えていった。

 

 彼らが入ると同時に、門は再び音もなく閉じ、開くことは無かった。

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三 ・ 大きな影

 

 男は、夢を見ていた。

 

 貧しい寒村で育った彼は、少しでも両親に楽をさせてやりたいと、子供の頃から、自分に出来ることは何でも覚えた。

 

 火の起こし方、魚の釣り方、家事から野良仕事に、数学や天文学、果ては武器の扱い方まで、両親が教えてくれることは、彼にとってどれも役に立つことばかりだった。また生まれ持った器用さで、彼に出来ないことは無いくらいだった。

 

「ねえ、ラストール」

 

 台所で昼食の用意をしながら、母が嬉しげに彼に振り返った。

 

「明日は五年ぶりに、叔父さんが帝都からいらっしゃるのよ。お前の父さんが国を出た頃は、兄弟喧嘩ばかりだったようだけど、お祖父様が亡くなられてからは、たった二人の兄弟だもの」

 

 まだほんの子供で、兄弟もいない彼には分からなかったが、兄弟というものは、何か深い繋がりがあるのだろうと思った。

 

「オレ、叔父さんが来たらエルン川で一緒に魚釣りするんだ」

 

「そうね」

 

 母親はにっこり微笑んだ。

 

「母さん、お弁当つくってあげるわ。明日が楽しみね」

 

 平和なひと時を打ち消すように突如、村中に爆音が轟いた。家の外からは逃げまどう村人の悲鳴が木霊し、思わずラストールは外に飛び出した。血と炎と煙とで、辺りは赤黒く染まり、呻き声ひとつない死体の山が、そこにはあった。

 

 驚いて振り返ったがそこにはもう、母親の姿はなかった。

 

「母さん! 父さん!」

 

 混乱して、彼は何処へともなく走り出した。走りながら両親の姿を捜したが、彼らの姿どころか、そこにあったはずの水車や粉挽小屋、畑も納屋も何もかもが、まるで切り取ってしまったかのように、消え失せていた。

 

 呆然と、ただ立ちつくすラストールの前に、大きな影が現れる。

 

「愛しき我が王よ」

 

 聞きなれない、くぐもった声に、ラストールはそれを見上げずにはいられなかった。ゆっくりと、顔を上げて見たそれは……。

 

 

 

 

 声にならない自分の悲鳴に、ラストールは目を覚ました。冷え切った石の床が、彼を急速に現実へと引き戻す。

 

「……くそっ」

 

 悪態をつきながら、彼は重い身体を引き摺り起こした。ひどく殴られたのか、身体のあちこちがズキズキと痛んだ。

 

「ガキの頃の夢か……。縁起でもねえな」

 

 ゆっくりと辺りを見回すと、どうやら石造りの地下牢のようだった。粗末な造りと、石壁に彫られたレリーフからみると、皇宮地下の牢ではなく、神殿区の地下牢のようだった。

 

 ふと天井を見上げると、大柄な彼の背よりも頭二つ分ほどのところに、通気孔の役目を果たす小さな窓が開いていた。だがとても抜け出せるような大きさでは無い。鉄製の扉は頑丈に鋲で打ち付けられ、両手足には鉄鎖の錠前がはめられていた。

 

「……随分と念入りなことだな。まあ、相手が皇帝陛下暗殺の容疑者なら、当たり前か」

 

 まるで他人事の様に、ラストールは呟いた。窓から漏れる月光の位置からみると、まだ夜半は回っていないようだった。

 

「こんな処、さっさと抜け出さないとな……。じゃないと父上や姉上がお咎めを受けちまう」

 

 故郷の村を焼かれ、ただ一人生き残った彼は、翌日訪ねてきた叔父に助けられた。どうして自分だけが助かってしまったのか、気を失う直前に見た、大きな影は何だったのか。彼には全く分からなかった。

 

 その後彼は叔父の従兄の家に預けられ、そこで六年間過ごした。その家――セトラ侯爵家は帝国有数の名家で、初代フラスニエル帝の御代から続く、忠臣の一族であった。

 叔父が帝国の現皇帝と知ったのも、この時だった。

 

 ラストールはセトラ家で養子として迎えられ、養父から貴族としての教育を受けた。砂が水を吸い込むように、彼は教師に教えられた全てを吸収し、学問も武術も、一族で彼に敵う者はいなくなった。

 三ヶ月前には、弱冠十八歳で将軍職をも拝命したが、そんな彼を、快く思っていない者も多かった。

 

「……はめられたな」

 

 雲に隠れた月を仰ぎ、ラストールは今は亡き叔父に、思いを馳せた。どことなく父に似て、それでいて物静かだった父とは正反対の行動的な叔父に、自分に近い何かを感じていた。

 

「くそっ……」

 

 彼の瞳から、暖かいものが流れ落ちる。

 

「オレはまた、護れなかった……」

 

 何も出来なかった子供の頃を思い出し、ラストールは泣いた。彼は今夜、皇帝である叔父カディル帝に、内密に召し出されたのだが、彼が控えの間に着いた時には、すでに叔父は殺されていた。

 

「……あの時、俺が見たあの大きな影は、陛下の亡骸の傍に立っていた奴だ。あれは、宰相が術で使役してたモノ……」

 

 風が雲を吹き払うように、思考が鮮明になっていく。だがそうなるにつれ、押さえ切れない怒りが、腹の底から込み上げて来た。

 

 ラストールは軍服の肩口から、短い針金を素早く引き抜き、枷の錠前に差し込んで、四肢の縛めを解いた。次に鉄扉に耳をあて、気配がないことを知ると、鍵穴に針金を差し込み器用に解錠する。

 

「……待ってな、クソ宰相」

 

 地上に姿を現した彼に気づいた、入り口の衛兵を気絶させ、長柄を奪うと彼は小さく呟いた。

 

「すぐに引導を渡してやるぜ」

 

 彼のすぐ後ろで兵士の怒号が聞こえたが、構わず宵闇の中、皇宮へと走り出した。

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四 ・ 人ならざるもの

 

 時は、サレオスとマルファスが、神殿区の門をくぐり抜けた頃に遡る。

 

 それは、ラストールが皇帝の召し出しを受けて控えの間に向かっている、ちょうどその頃だった。

 

 神殿区から皇宮区に向かう間、しきりに辺りを気にしていたマルファスに、サレオスは問いかけた。

 

「何を気にしている?」

 

 周囲に人影は全く無く、辻には煌々と篝火が焚かれ、時折薪の爆ぜる音が響いているだけだった。

 

「……おかしい。警備兵が全くいない」

 

 先程までの余裕はなく、落ち着かなさげに石畳を急ぐマルファスに、サレオスは言った。

 

「確かに誰もいないのはおかしいが……。どこかに集められているのではないか」

 

「多分、そうだと思う」

 

 マルファスは、サレオスの方も見ずに応えた。

 

「今では軍の掌握権は、将軍たちよりも宰相の方にあると聞く。夜間に召集する理由は、ひとつしかない」

 

 サレオスには、マルファスが焦っている理由が分からず、ただ彼の後について走り出した。

 

 

 

 

 程なく神殿区側の、皇宮区門前まで二人は来たが、何故かそこにも衛兵の姿は無かった。だが門の向こう側、皇宮区では、多数のざわめきが起きている。

 

「……そういうことか」

 

 マルファスはうつむき呟いた。

 

「恐らく宰相が外ではなく、内に兵を固めさせているんだ。あいつは狡猾だから、宮殿内で何かやっているに違いない。ここにいては危険だ。すぐに陛下のもとに向かおう」

 

 すぐに向かう、の意味がサレオスには飲み込めなかった。

 

「移動するから、ちょっと掴まってて」

 

 一体何を始めるのかよく分からなかったが、彼は恐る恐るマルファスの裾を握りしめる。

 

 その、瞬間。

 

 マルファスが言葉を二、三小節ほど口にするや否や、ぐっと内臓を持ち上げられるような不快感を覚えた。足許の地面が消え失せ、視界は無く、眼を開けているのか、閉じているのかさえわからなかった。

 

 経験のない何かに対する恐怖が、大きなあぎとを開けてサレオスを喰らいそうになる。次の瞬間、再び地面が現れ、もといた場所とは明らかに異なる、どこかの建物内に彼らはいた。

 

「……これは……今は失われた、古代禁術……」

 

 膝を折り、ひどい吐き気に耐えながら、サレオスはようやくそれだけ口にした。

 

 現存する術体系は、その大半が符を触媒とし、術式の図印を描いて、炎や使い魔などを顕現させるものだった。人の体内には、練り込める呪力の限界がある。それを増幅させる符があるからこそ、人は術を行使できる。それを必要としないのは。

 

 ――人外のモノでしかない。

 

「経験のないキミには、空間転移術はちょっとキツかったかな」

 

 何事も無かったかのように、マルファスは笑いながらサレオスに言った。ようやく悪心の収まってきた彼の眼に飛び込んできたのは、御影石で造られた豪奢な床、古代建築様式を残すアラバスターの主柱、そして人の背丈の何倍もある、観音開きの真鍮大扉であった。

 

「ここは……」

 

 サレオスには、にわかには信じ難かった。

 

「まさか……。皇宮の中心部なのか? 結界が張ってあるのに、何故入り込める?」

 

「そうだね、いい質問だよ」

 

 まるで生徒に教鞭を垂れる教師のように、マルファスは眼を細めた。

 

「ここの宰相の張った結界はね、術符を触媒にした術にのみ効力を発するんだよ。丁度蜘蛛の巣に、哀れな生贄がかかってしまうようにね」

 

「……貴様は、符を使わないのか? 触媒無しで、術を行使できるというのか」

 

 サレオスの率直な質問に、マルファスは小さく笑う。

 

「昔、まだ人だった頃は使ってたよ。今でもたまには使うかな。……そのほうが、人間みたいに見えるからね」

 

 サレオスはようやく、立ち上がることが出来た。悪心が収まったのもあったが、扉の向こうからじわじわと滲み出す異様な気配に、立ち上がらずにはいられなかった。

 

 その時、観音大扉の向こう側から地響きが轟いた。続いて衝撃が襲い、石床が激しく振動する。

 

「玉座の間からだ」

 

 マルファスの言葉に、サレオスは頷いた。明らかに扉の向こうから気配がする。だがそれは玉座の厳かな空気ではなく、鼻を突く血の臭いだ。

 

 彼らは扉を開くと同時に、室内に飛び込んだ。

 

 ――そこに、いたものは。

 

 血の海に横たわる三十代半ばの男と、傍らに立つ、昏く、巨大な影。

 

「……タケハヤ」

 

 マルファスはそう呟くと、唇を噛む。

 

 タケハヤと呼ばれたそれは、おおよそ人の三倍はある怪物だった。人の形こそしてはいたが、とても人と呼べるものではない。

 ぼろぼろの黒衣にささくれた荒縄を帯とし、無造作に垂れる赤髪の奥に爛々と光る眼は、まるで血の色だ。

 

 マルファスに遅れて足を踏み入れたサレオスは、見たこともない陰氣の正体に驚愕した。

 

「あれは……。使い魔なのか……?」

 

「そう。式神といってね。東アドナ大陸の神を模ったものだ。宰相・クルゴス風に呼べば『式鬼』といったところかな」

 

 そう言い放つと、マルファスはドーム型の高天井を仰ぎ、大声で呼ばわった。

 

「クルゴス! そこにいるんだろう? 出てくるがいい」

 

 程なく、タケハヤの右肩あたりに光ひとつない闇が凝縮し始め、それは徐々に人型を模っていく。みるみるうちに、それは骸骨にも似た面をした、老人となっていった。

 

「お久しゅうございまする、マルファス様」

 

 宰相はうやうやしく、こうべを垂れた。

 

「最後にお会いしたのはいつでしたかな? 最近は物忘れがひどくてかないませぬ」

 

「……また殺したのか」

 

 冷たい瞳の中に強い怒気の色を含ませて、マルファスは淡々と言葉を続けた。

 

「六年前に言ったはずだ。再び皇帝の一族を殺せば、次はないと」

 

 彼のその言葉に、宰相は皺がれた喉の奥で、カエルのようにくぐもった笑いを見せる。

 

「どうなさるおつもりかな? よもや不死人たる私めを、消滅せしめるとでもおっしゃるので?」

 

「いいだろう」

 

 マルファスはひどく冷たい微笑を、その端正な顔に湛えた。陰惨なその表情もこの場にあっては、月の光に照らされて、例えようもなく美しく見えた。それは、太陽の許では決して垣間見ることのない、闇の美しさだった。

 

「それがキミの『望み』ならば、僕が叶えてあげよう」

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五 ・ 懺悔

 

「……一体、何の話だろう」

 

 ラストールは突然の叔父の召呼に見当もつかず、誰もいない皇宮の渡り廊下を一人歩いていた。

 

 皇帝からの使者がやってきた時、彼は自宅で、家族と夕食を終えたばかりだった。召呼の理由を、養父と義姉はすでに心得ているらしく、にこにこしながら「いってらっしゃい」と彼を送り出した。

 

 屋敷は皇宮区内にあるのだが、皇帝の居城は彼の足でも半刻ほどかかる距離にあった。

 

「三日前の定例会議をサボったのがバレたか……。それとも書類に目を通さないで、サインしてたのが悪かったとか」

 

 最近やらかした事をあれこれ思い出しながら、ラストールは皇宮内の中庭にさしかかった。

 

 ……その時。

 

 彼の頭上で、奇怪な鳥のような声と、ガラスの割れる音、夜空に何かの影がふたつ、踊り出るのが見えた。影は遠く小さく、判別はし難かったが、大きな翼をもったモノと、人型をした何かに見えた。

 

「鳥?」

 

 もっとよく見ようと、それらが飛び出してきた辺りを捜す。ふたつの影はそれっきり消え失せてしまったが、それ以上にラストールを驚かせたのは、影たちが出てきたのは、叔父が待っているはずの皇帝の間にあたる、大広間に違いないことだった。

 

「……叔父上!」

 

 胸騒ぎがして、ラストールは次の瞬間、全速力で駆け出した。静まり返った城内に、彼の靴音だけが木霊した。

 

 

 

 

 皇帝の間では、いまだサレオスの体験したことの無いような戦いが、繰り広げられていた。

 

 符を使うことのない、人外の者たちの死闘は、おおよそ有限生命であるサレオスには、想像すら出来なかった。骸骨じみた宰相は次々と巨大な式鬼を召喚し、対するマルファスは、背負っている黒曜石の大剣を抜き放ち、斬り捌く。

 

 どれだけ傷を負おうとも死ぬことの無い、死なずの人。神の代行者たちの戦いがそこにはあった。

 

 戦場となっている皇帝の間がドーム型の高天井、五百人は収容できる大広間だったせいもあって、天井が崩れてくることは無かったが、この場に留まれば、否応なしに被害を被るのは必至だった。

 

 その時、サレオスの視界に皇帝の遺骸が映った。広間の中心近くにあるため、このまま戦闘が続けば、遺体を損傷する可能性があった。

 

 サレオスは機を見て素早く亡骸に近づき、自分の羽織っていた青いマントでくるんで抱え上げた。そして引きずるように入って来た扉付近まで後退し、清潔な布に水筒の水を含ませて、皇帝の血塗れた顔をそっと拭いた。

 

 次の瞬間、皇帝のまぶたが微かに動き、紫色だった唇に赤みがさした。

 

「生きている!」

 

 サレオスは驚いて、彼が頭部に巻いていた布をたたみ、皇帝の頭の下に置いて枕代わりにした。脈を測りベルトに下げていた革製のポーチから、止血薬と消毒薬、包帯を取り出す。

 

「……わた……し、は……、いったい……」

 

「しゃべってはなりません」

 

 サレオスは布に薬をしみこませ、深くえぐられている脇腹にそっと当てた。

 

「貴方は、宰相の操る使い魔に襲われたのです」

 

 未だ戦い続けている不死人たちにチラリと目をやり、すぐに皇帝へと視線を戻した。

 

「そなた……。精霊人、というものだな? 見たことがあるぞ……」

 

 頭部の布を取り去ったサレオスの姿を見て、カディルは言った。精霊人は人間とよく似ているが、ひとつだけ人間とは異なる特徴があった。耳の先が、人より長く尖っているのだ。

 

「我が種族をご存知なのですか?」

 

 カディルの意外な言葉にサレオスは驚いて、つい言葉を交わしてしまった。

 

「子供の頃、地下の廟でな……。シェイローエと銘打った、まこと美しい女性の肖像画であった。そなたに、どことなく似ておる」

 

「それは、我が一族の祖、シェイローエのことですね」

 

 一瞬サレオスはふと目を伏せたが、すぐにカディルに微笑みかける。

 

「千年前の八英雄の一人『弑神』エレナスは、シェイローエの末弟で、私はその直系にあたります」

 

「……そうか、八英雄の末裔……。似ていても不思議はない。この医術も、遠く先祖から伝わりしものなのだな」

 

 カディルは何故か、ふと遠くを見つめた。

 

「そうです。ですからもうしゃべらないで下さい。せっかく生命を取り留められたのです。お話は後ほど聞かせて下さい」

 

「いや、自分のことは、自分で分かるのだ。私は、もうもつまい……」

 

 彼はサレオスにふっと笑いかけ、言葉を続けた。

 

「最期に、私の懺悔と遺言を聞き届けてくれぬか」

 

 サレオスは、カディルのスミレ色の瞳を覗き込み、目を伏せて、小さく頷いた。

 

 

 

 

 カディルの兄メルフィルは、弱冠五歳で立太子し、その頃から皇太子としての厳しい教育を受け、育った。

 

 第二皇子のカディルに父皇は余り構うことがなく、彼は父の愛のかわりに、小さな自由を得ることができた。幼い頃に母親を亡くし、父親にも振り向かれないカディルに、乳母や宮女、教育係だけが変わらぬ愛を注いでくれた。

 

 だがそれも、兄メルフィルの十六歳の誕生日までだった。その日執り行われた生誕パレードで、メルフィルは自らの運命を見つけた。

 

 ……馬車の中からチラリと見えたそれは、一人の美しい娘だった。互いに目が合い、一瞬だけ、刻が止まって見える。

 

 城に戻ると、メルフィルは側近達に、娘のことをすぐに調べさせた。翌日の昼には報告を受け、豪商の一人娘だということを知らされた。

 

 その夜、メルフィルは父親に、その娘を妻に迎えたいと申し出た。だが、すでに皇太子の妃を自ら決めていた皇帝には、彼の申し出は一言も通ることはなかった。

 

 それでも彼は諦めず、夜中に城をこっそり抜けだし、娘に会いに行った。それが毎晩のように続き、半年以上も経った。

 

 カディルにしてみれば、おとなしく、父親に反抗などすることのなかった兄が、初めて自分の意思で歩いているように感じられた。

 ただ彼にも、この状態がいつまでも続かないという事だけは分かっていた。

 

 ある新月の夜、忽然と皇太子の姿が消え失せた。父親と弟宛ての二通の書簡だけを残して、彼は城を出奔した。

 

 書簡にはただ、『カディルを皇太子とし、自分のことは忘れてほしい』とだけあった。

 

 その同じ夜、豪商の娘も行方知れずになっていたのをカディルが知ったのは、二ヶ月も後のことだった。

 

 兄が、自分に何も相談しなかったことを、カディルは恨んだ。メルフィルが出ていって一年後、兄に男の子が産まれたことを、側近からの報告で知る。

 

 その五年後、病のため第四十八代ガンドール帝が崩御し、カディルはわずか二十歳で、西アドナ大陸の四分の三を領地とする、統一帝国皇帝となった。

 

 

 

 

「私は、うらやんでいたのだ」

 

 カディルは苦しい息の下で、そう言った。

 

「自分の意志のままに、自由に歩き出した兄に、嫉妬していた……。国を捨て、臣民を捨て、家族を捨てた兄に憤りを感じた私なのに、本当は――私もそうしたかったのだ」

 

 帝位に就いて二年後、カディルは秘密裏に、兄夫婦の住む小さな寒村へと出向いた。七年前、兄に男児が産まれたことを知って以来、彼は密かに考えていることがあった。

 

 カディルはすでに妃を迎えていたが、後宮に出向くことは殆どなかった。それは、世継ぎが産まれることを恐れていたからだ。

 

「……ラストールを、我が世継ぎにいただきたい」

 

 八年振りに会った兄弟は、抱擁を交わす間もなく、ラストールの話を切りだした。

 

「……どうするかは本人次第だが、私はあの子を皇帝にはしたくない。第一、あの子は叔父が皇帝などとは、全く知らないのだよ」

 

「いいえ、兄上」

 

 カディルには、確信があった。それはラストールに会って感じた『何か』だった。

 

「あの子が鳥を射るのを見ましたが、手製の弓だというのに、一本もはずすことも無く驚きました。試しに木剣を与えて手合わせをしてみたところ、私のほうが負かされそうになった程です。あれだけの才能をもって、皇帝の器と言わずに、何だとおっしゃるのですか」

 

 弟のその言葉に、メルフィルは言い返すことが出来なかった。剣のみならず、息子には一通りの武器を扱わせてみたが、ナイフでも槍でも弓でも、一度でも見て触れたものは、すぐに使いこなした。

 

 器用な手先で大道芸人の真似をして、空中からコインを出したり、野花を消してみせたりなどで、母親を驚かすことなども、日常茶飯事だった。

 

 弟の熱意に負け、兄は一つの条件を出した。五年後にもう一度ここに来て、ラストールの意志を尊重する、ということだった。

 本人に自らの道を選ばせる。これがメルフィルの出した条件だった。

 

「その条件、謹んでお受け致しましょう」

 

 カディルは兄の申し出を喜んで受けた。自らの運命を信じて歩んだ、兄らしい申し出に彼は嬉しく思った。

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六 ・ 最期の言葉

 

 ステンドグラスの丸天井から漏れる月の光で、皇帝の間は冷たく、青白い空気に満たされていた。不死人たちが互いを消滅せしめようと戦い続ける中、皇帝の懺悔は細々と続いていた。

 

「私は、気づかなかったのだ……」

 

 ぽつりと、カディルは呟いた。

 

「あの時の兄と私の密談を、宰相が遠見の術で覗いていようとは……知らなかったのだ」

 

 

 

 

 五年後、兄との約束を果たすべく、カディルは秘密裏に出立の用意を始めた。側近や近衛にも気づかれないよう、密かに進めていたのだが、彼の腹心である従兄のセトラ卿には感づかれていた。

 

「何をなさるおつもりかは存知ませぬが、どうぞおやめ下さい」

 

 セトラ卿は皇帝に懇願した。

 

「……最近、宰相の動きがおかしいのです。近衛に密かに見張らせておりますが、陛下に何かあれば帝国は終わりです。どうぞ思い留まって下さい」

 

「終わりではない」

 

 カディルは従兄に向かって微笑みかけた。

 

「私などよりも、もっと皇帝としての資質を持つ者を連れ帰ってくる。その子こそが、帝国を導いてくれるだろう」

 

「何をおっしゃるのです。陛下にはすでにお世継ぎがおられるのです。そんなことをなされば、国全体が混乱してしまいますぞ」

 

 従兄のその言葉に、カディルは答えなかった。昨年、妃との間に双子の兄妹を彼はもうけていた。一歳になる子供たちは臣民に愛され、世継ぎの誕生に国は沸いていた。

 

「……それでも私は、ラストールを跡継ぎにしたいのだ。あの子は皇帝になるべく生を受けた。初代フラスニエル帝の再来とさえ私は思っている」

 

 皇帝の堅い意志に、セトラ卿は折れざるを得なかった。

 

「では、こうしましょう」

 

 セトラ卿は皇帝に提案した。

 

「元皇太子の子とはいえ、急に皇帝家に迎えたのでは、臣民も混乱します。ですから、一度我がセトラ家に迎え入れ、折を見て皇帝家に養子縁組という形ではどうでしょう」

 

 従兄の賢明な提案を、カディルは快く承諾した。実際どこの者ともわからぬ少年を、突然皇帝家に迎え入れるなど、常識では考えられぬことではあった。

 

「ありがとう、ボリス」

 

 カディルは心優しい従兄に感謝した。皇帝家からセトラ家に婿入りしたこの男は、一族のため、皇帝のため、文字通り身も心も砕いて、今まで尽くしてきてくれたのだ。セトラ家は代々女性が当主となり、その夫となる者は、皇帝家から選出される。

 

 そのため、セトラ侯爵家当主の夫は、皇帝家の男性になるのが慣わしであった。いわば子を成すために、ボリスは伝統の犠牲になったようなものだった。

 

 誰よりも国を愛し、皇帝家を愛した男だからこそ出来ることなのだろう。

 

「お前の気持ち、無駄にはしない。必ずラストールを連れて帰る」

 

 カディルはその夜、ラストールの住む寒村へと旅立った。

 

 宰相の操る影が追っているとも気付かずに。

 

 

 

 

 突如大きな音がして、天井のステンドグラスが粉々に砕け散った。サレオスが驚き見上げると、宰相の操る式鬼が、三体にまで増えていた。

 

「ツクヨミ! マルファス様を射落とせ!」

 

 自らは翼のある、美しい女性を模った式鬼に乗る。ステンドグラスを破って夜空へと舞い上がりながら、ツクヨミと呼ばれた式鬼はつがえた矢を引き絞った。

 

「逃がさない」

 

 マルファスも自分の使い魔である、巨大なカラスの背に乗り、宰相を追いかける。だが、タケハヤとツクヨミの二体の式鬼に阻まれ、舞い上がった夜空から、広間に戻らざるを得なかった。その間に、宰相は嘲笑だけを残して飛び去った。

 

「またお会いしましょうぞ、マルファス様」

 

 昏い夜空から、宰相の声だけが響く。

 

「もうすぐ私の『愛しい王』が到着される。お迎えの準備をせねばなりませぬ」

 

 

 

 

 宰相が足止めのため広間に残した、タケハヤとツクヨミの二体を倒し、マルファスもすぐにカディルとサレオスの許へとやってきた。膝を折り、マルファスは皇帝の顔を覗き込む。

 

「……おお、貴方は……」

 

 カディルは懐かしそうに、マルファスを見上げた。

 

「六年前、ラストールの村が焼かれた時、あの子を忌々しい影から護って下さったお方……。貴方がおられなければ、今頃はあの子も……」

 

 そこまで言うと、カディルは激しく咳き込んだ。大量に吐血し、呼吸が乱れる。

 

「もうしゃべらないで」

 

 マルファスは優しくカディルの黒髪をなでた。その仕草を見てサレオスは、まるで彼が、自分の幼子に接しているように思えた。

 

「最期に……。あの子に伝えて下さい」

 

 カディルは、呼吸もままならない状態で、見守る二人に告げた。

 

「私の我が儘に、お前を巻き込んで済まなかったと……。お前の両親も、私も、お前をとても愛していると。これからは、自分の大切なもののために、お前の思うままに、自由に生きなさいと……」

 

 第四十九代カディル帝は、三十三年の短い生涯を閉じた。彼の手からは一対の指輪が滑り落ち、石造りの床に澄んだ音を立てて転がった。

 

 サレオスは目を伏せ、自らのマントで皇帝の亡骸を覆い、冥福を祈った。カディルの魂はその肉体を離れ、廻り来る魂の円環の中へと還っていく。彼は肉の檻から解き放たれることで、ようやく魂の自由を得ることが出来た。

 

 ふと、マルファスの方を見やると、彼は哀しそうな、羨んでいるような複雑な表情を見せていた。だがすぐにいつもの表情に戻り、カディルの落とした二つの指輪を拾い上げた。

 

「もう、ここを離れた方がいい」

 

 マルファスが告げる。

 

「クルゴスが言っていたことも気になるし、必ず奴は何かを仕掛けてくる。すぐにでも追わなくては」

 

 サレオスも頷いて、カディルの亡骸から離れたその時。

 

 倒されたはずのタケハヤが、突如起きあがり、サレオスめがけてその太い剛腕を繰り出した。

 

 咄嗟のことで反応が出来ず、サレオスは自分に振り下ろされる巨槌に、身動きすら出来なかった。

 

 覚悟を決め目を閉じたサレオスの耳に、骨が折れ、肉が引き裂かれる音が聞こえてくる。そっと眼を開けると、彼の前にはマルファスが立ち塞がり、剣で式鬼の胸部を貫いていた。そのまま引き抜くと式鬼は倒れもせず、直立したまま、動かなくなった。

 

 よく見ると、マルファスの左腕が折れて、壊れた人形のように根元から千切れている。式鬼の攻撃を、左腕で直に受け止めたせいで、肩口から腕が落ちていたのだ。

 

「平気だよ。すぐに元通りになるから」

 

 すたすたと落ちている自分の左腕に近づき、残った右腕でそれを拾い上げた。よく見ると、その傷口からは、血が一滴も出ていない。

 また傷付いたはずの本人も、まるで痛みがないかのように振る舞っていた。

 

「とりあえずここを離れて、どこか落ち着ける場所を探そう」

 

 呆然とするサレオスを尻目に、マルファスは足早に広間を出て行った。

 

 

 

 

 一方、長い螺旋階段を駆け上り、ラストールはようやく皇帝の間に辿りついた。

 

「叔父上……」

 

 胸騒ぎを抑えきれず、彼はすぐさま観音開きの扉を押し開けた。

 

 ――そこで、待っていたのは。

 

 暖かく出迎えてくれるはずの叔父ではなく、粉々に飛び散ったガラスと残骸、叔父の遺骸とその側に佇む黒い影だった。

 

 思いもよらぬ出来事に、ラストールは動転した。亡骸に布がかけられていることや、黒い影がすでに機能を停止していることなど、いつもなら的確に判断出来ることも、すでに出来なくなっていた。

 

「馬鹿な……そんな馬鹿な!」

 

 叔父の亡骸に走り寄ろうとする彼を留まらせたのは、ふいに後ろからかけられた号令だった。

 

「捕らえよ! 将軍は乱心され、陛下を弑せしめたのじゃ! 逆賊を捕らえよ!」

 

 驚いて振りかえると、そこには宰相の姿があった。おおよそ五十人の兵を従え、ラストールの退路を断っている。

 

「オレじゃない! オレは陛下を殺したりしない!」

 

 まるで現実味がないこの場所から、彼は逃げ出したくなった。兵の波を掻き分け、宰相の方へ向かう。

 

「貴様だな宰相! 何故だ! 何故叔父上を殺した!」

 

 ふいに後頭部に強い衝撃を受け、ラストールは昏倒し床に落ちた。意識を失う前、自分の上にかがみ込み、ぞっとする微笑を宰相が投げかけた気がした。

 

「……お帰りなさいませ。我が『愛しい王』よ」

 

 皺がれた喉の奥で蠢く、宰相の不気味な笑みも、すでに意識の無いラストールには、届かなかった。

-7ページ-

七 ・ 王器を継ぐ者

 

「そろそろ行かなくては」

 

 天頂にさしかかる満月を仰ぎ、マルファスは呟いた。彼らが皇帝の間を後にして、渡り廊下向こうのバルコニーに入ったのは、ラストールが皇帝の間に着く直前だった。

 

「……左腕はもう良いのか?」

 

 努めて冷静にサレオスは言った。彼を庇ったために落ちた、マルファスの左腕を気にしていたのだ。だが当のマルファス自身は、そのことを全く気にしていないようだった。

 

「平気だよ。止めを刺しそこなった僕が甘かったのさ。それにもう元に戻ってるし」

 

 式鬼の一撃を正面から受け止めたその左腕は、引き裂かれて吹き飛ぶほどの衝撃を受けたというのに、今は全くそんな様子は見て取れなかった。痛みも出血すらなかったそのさまに、サレオスは強烈な違和感を覚えた。

 

 実際、落ちた腕を傷口に近付けただけで、何事もなかったかのように、腕は文字通り肩に吸いついたのだ。

 

「僕はね、バケモノなんだよ」

 

 サレオスの怪訝な表情に、マルファスは笑って言った。

 

「……死体は、斬っても突いても血を流さないでしょ? それと同じだよ。痛覚すらない」

 

 サレオスは子供の頃に本で読んだ、代行者の言い伝えを思い出した。彼らは創世神によって人間を監視する役目を負い、不死となってただひたすら、この世に存在し続けるのだと言う。彼らが己の『望み』を叶えることが出来れば、塵となって消え失せ、永遠の呪縛から解き放たれるのだ。

 

「……お前も『望み』を叶えるために、永い刻をさまよっているのか?」

 

 ぽつりと問うサレオスに、マルファスは立ち上がり、微かに笑った。

 

「そうだね。でもきっと、僕の『望み』は叶わないよ」

 

 バルコニーの手摺から月を仰ぐマルファスの姿に、サレオスは物悲しさを感じずにはいられなかった。

 

「そうそう。忘れないうちにこれを渡しておかないと」

 

 そう言ってマルファスは、手摺の横に来たサレオスに、ふたつの指輪を差し出した。男性用のがっしりした造りのものと、女性用の細い造りの白銀の指輪だった。月光に照らされて、青白く光を放っているところを見ると、どちらも聖銀製のようだった。

 

「これは……。皇帝陛下が握っておられた指輪だな。なぜ私に?」

 

 指輪に触れようともしないサレオスに、マルファスは苦笑した。

 

「これはね、フラスニエルから歴代の皇帝たちによって、連綿と受け継がれてきた意志なんだよ。そもそも、フラスニエルがシェイローエに渡すはずのものだったけれど、彼女は最後の戦で生命を落として、結局渡すことはできなかった」

 

 千年前の大戦は、代行者たちに対する、人間による連合軍との戦争だった。当時カイエ家の女当主であったシェイローエは、深淵に堕ち大戦の首謀者となった双子の弟を倒すべく、男装をして戦地へと赴いた。

 

 その頃はまだ、小国の王に過ぎなかったフラスニエル王の参謀として、彼女は軍を率いて戦い、大きな戦果を上げていった。

 弟を追い詰めた遥か北方の地底で、自らを犠牲にして彼を倒したのだという。

 

「結局、フラスニエルは六十五歳で亡くなるまで、妻を娶らなかった。いつの日かシェイローエの末裔に、皇妃の指輪を渡せる日が来ることを望んで、後継者にこれを託したのさ。永い刻の間に、すっかり忘れ去られてたみたいだけど」

 

 マルファスはそう言って半ば強引に、皇妃の指輪をサレオスに握らせた。

 

「……こっちの皇帝の指輪は、帝位継承に必要だからね。そうだ、キミがラストールに渡してよ」

 

 突然のマルファスの提案に、サレオスは仰天した。

 

「何で、私が……。お前が渡せばいいだろう? 大体、私は陛下の甥御に会った事もないんだぞ。知らないものは、渡せない」

 

「じゃあ、今から会いに行こう! 連れてってあげるからさ」

 

 否が応にも、自分からは渡そうとしないマルファスに、サレオスはふと疑問を抱いた。

 

「何故、お前は自分で渡そうとしない? 渡したいのなら私ではなく、本人に渡せばいい」

 

 そのサレオスの言葉に、彼は柔和に答えた。

 

「……今はまだ、その時じゃないからさ。それに多分ラストールは、僕には入れない一族の聖域を訪れているはずだ」

 

 その時、マルファスの使い魔が偵察から戻って来た。小さなカラスのようなそれに一通り報告を聞くと、彼はサレオスへと振り向く。

 

「彼は牢を脱出して、城内の地下廟に向かっているようだね。行ってみよう」

 

 

 

 

 追ってきた衛兵を振りきり、ラストールは、今は使われていない旧地下水道をひた走っていた。

 

 初代フラスニエル帝の御世に造られ、第二代セレス帝により増築された上下水道は、落成まで実に五十年以上も費やした、帝都の誇るべき建築物のひとつだった。計算し尽された石造りの設計により、浄水と汚水が交じることもなく、病も激減したという。

 

 落成以降、それまで使用されていた地下水道は廃棄され、秘密裏に皇帝家の抜け道として使用されるようになった。市街全体に行き渡り、都の外に排出される水道は、抜け道として大いに役立った。

 

 地下水道が廃棄された頃、それまで使用されていた井戸も全て廃棄され、一部を残して埋め立てられた。残されたのは勿論、抜け道の出入り口として使うためであった。

 

 ラストールが出てきたのは、城内の地下にある皇帝家の墓地だった。神殿の真後ろにある井戸から、縄梯子をよじ登って、彼は出てきた。

 

「私に何かあったら、地下廟の神殿へ行きなさい」

 

 それが叔父の口癖だった。皇帝家の御霊を奉っているこの建物は、豪奢というわけでもなく、また特別な何かがあるようにも見えなかった。

 

「……ここに、一体何があるっていうんだ」

 

 石段を登り、白く重い岩戸を押し開いて、ラストールは内部へ足を踏み入れた。神殿内は聖別されている以外、変わったところは見受けられない。かび臭い室内を見渡し、彼は奥に、埃にまみれた絵が飾られているのに気づいた。

 

 ひとつは美しい女性の絵だった。腰まで垂れる、蜂蜜色の髪を柔らかくまとめ、優しげに微笑んでいる。

 

 もうひとつは木製の額に納められ、縦に長く、人一人をすっぽり覆えそうなくらいの大きさがあった。よく見てみるとそれは、統一王フラスニエルが、王器を天に掲げている様を描いていた。黒鉄の胴に真鍮の蛇が巻き付いた、人の身長ほどもある弓を、天に向かって掲げている。

 

「統一王、ね……」

 

 絵を見やって、ラストールはふと溜息をもらした。

 

「バラバラだった国々を統一した素晴らしい御仁なんだろうが、つまんねえ伝統や慣習で、後々まで縛りつけてくれてありがとよ」

 

 何もない神殿に嫌気がさして、ラストールはここを出ようと絵に背を向けた。

 

 その、瞬間。

 

 何故か、彼はこの絵をよく知っている気がしてきた。急いで絵の前に戻ると、額ごと絵をはずし、かかっていた壁を丹念に調べた。

 そして埃の中に小さな溝を見つけ、懐にあったナイフで、溝を削ってこじ開ける。

 

 思いのほか軽い音を立てて、壁に偽装された蓋が石床に落ちた。内部に、錆付きもせず眠っていたそれは。

 

 黒鉄の柄に真鍮の蛇が巻き付いた、身長ほどもある長い杖だった。

 

 

 

 

「……ここから先は、僕には無理だね」

 

 地下廟の入り口に佇み、マルファスはサレオスに告げた。

 

「聖別の結界が張ってある。僕や宰相のような『人外のモノ』には入れないよ」

 

「……この結界は、宰相の張ったものとは違うのか?」

 

「全然違うよ。しかもかなり昔に張られている。キミなら通れるはずだから、ちょっと行って様子を見て来てくれない?」

 

「何で私が」

 

「だって僕入れないし。ここで待ってるから、見て来てよ」

 

 嫌がるサレオスをなだめて、マルファスは彼を地下廟へと追いやった。

 

「……さて」

 

 今降りてきたばかりの石段を見上げ、マルファスは呟いた。

 

「ラストールが今頃『王器』を手にしているなら、それを狙って宰相も来るはずだ。あれを持ち出すことが出来るのは、正統な後継者のみ。奴には今まで、手も足も出せなかっただろうし」

 

 マルファスは、宰相が厄介払いをした後で、おそらく幼帝をたてるのだろうと予測した。カディルには、御年七歳になる子供達がいる。皇太子を立てていなかったカディル帝には、帝位継承者として、甥であるラストールと、嫡子である皇子アウルティンがいる。ラストールに皇帝暗殺の濡れ衣を着せて始末してしまえば、邪魔になるものは何もない。

 

「……哀れな奴だ」

 

 マルファスはふと遠くを見つめる。

 

「どんなに足掻いても、お前の『愛しい王』は手に入らないのに」

 

 その時、彼は階段上から気配を感じた。それはよく知っている、同属のみが感じる気配だった。

 

「来たか、クルゴス」

 

 どことなく嬉しそうに、マルファスは階段を上っていく。

 

「王器とラストールは渡さない。……どちらも僕には必要なんだ」

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八 ・ 記憶

 

 地下廟の空気は、思いのほか重苦しくは無かった。

 

 マルファスに言われるままに、皇帝家の聖域に足を踏み入れたサレオスだったが、地下とは思えないほど空気が清浄な上、温度も湿度も決して高くはなく、御霊を奉るには最適の御所と思えた。

 

 廟は天然の大洞窟を基礎に造られており、城は後からこの上に建てられたものらしかった。

 

 マルファスが待っている城からの、最後の扉の位置を測ると、聖別の結界は大洞窟全体に張られているとサレオスは推測した。

 

 鏡面のように磨き上げられた石床を進み、長い廊下を抜けると、急に広いホールへと出た。洞窟内の灯り取りは、全て光鉱石を使用していた。暗闇で、ほのかに光る程度のものでしかない光鉱石の純度を極限まで高め、それを何十万個とちりばめることで、廟内は文字も読めるほど明るくなっていた。

 

「素晴らしい技術力だ……」

 

 サレオスは人の持つ技術に、感嘆の言葉をもらした。完全なる人類とされる精霊人には、人間よりも優れた医術や符術、文化があるものだと彼はずっと考えていたのだが、この都を見てからは、人間の技術力に驚かされることが多かった。

 

 精霊人には、石の加工や建造技術は、ほとんど皆無といってよかった。もともと平野に住む人間と違って、彼らの多くは森林や川辺に住んでいたので、石の加工技術は必要なかったのだ。

 

「こんな技術をフラスニエル帝の時代から有しているのなら、私は人間に対する意識を改めなければならないな」

 

 ホールを進むと、中央付近に神殿が見えた。古代建築から成るそれは、アラバスターで造られ、しめやかな中に、威厳と風格とを併せ持っていた。

 

 ふと、神殿の方に人の気配を感じ、サレオスは立ち止まった。広いホールの中には身を隠すものもなく、ただ彼はその場で立ち止まるか、内部へと進むしかなかった。

 

 意を決し神殿へと足を向けると、白い岩戸が音もなく開き、中から眩い光が漏れる。

 

 まるで陽光にも似たそれは、東アドナ大陸の創世神話にある、神の岩戸隠れの逸話によく似ていると彼は思った。

 

 ほどなく漏光は収まり、白い軍服に長柄を携えた、一人の若い男が現れた。その精悍な顔つきも黒髪も、そして何よりも似ていたのは、カディルと同じスミレ色の瞳だった。

 

「貴方がカディル陛下の甥御、ラストール殿下ですか?」

 

 サレオスに気付き、素早く石段を降りて長柄を構えるラストールに、彼は声をかけた。

 

「……アンタ何者だ? オレはもう皇帝陛下の甥でも何でもねえよ。陛下は……」

 

「崩御召された」

 

 ラストールよりも早く、サレオスは言葉を継いだ。そして懐から生成りの布包みを取り出し、ラストールに渡す。

 

「私はサレオス・アルバ・カイエと申します。遥か南の封印の森から、陛下に御用が有り参上致しましたが、私が陛下にお目通り叶った時にはもう……」

 

 ラストールが布包みを開くと、そこには見覚えのある一対の指輪があった。

 

「……陛下は、私が看取りました。最期に、貴方へのお言葉も受け賜りました」

 

 サレオスはラストールに、カディルの最期の言葉を正確に伝えた。その言葉に、指輪に触れたラストールの指先が震える。

 

「見も知らぬ私を、どこまで信用なさるかは殿下次第ですが、その指輪はお返しすべきだと存知ますので」

 

「陛下は、これをオレに渡せとおっしゃったのか?」

 

「いいえ」

 

 指輪を布ごと握り締めるラストールに、サレオスはそっと応えた。

 

「陛下は、指輪については一言も……」

 

「……なら、アンタがひとつ持っていてくれないか」

 

 ラストールの言葉に、サレオスは驚いた。

 

「オレがこれを持ってる訳にはいかないんだ。帝位なんて欲しくも無いし、これだって本当はオレが持ってていい物じゃない。だが、宰相はコレを、喉から手が出るほど欲しがってやがる。アイツにだけは、渡すわけにはいかない」

 

 ラストールはサレオスを見据え、言葉を続ける。

 

「バラバラに持っててりゃ、帝位継承なんざクソくらえさ。指輪は帝位継承のために必要な王器の一つだからな」

 

「王器!?」

 

 ラストールの言葉に、サレオスは驚きを隠せなかった。もともと、彼が故郷を離れたのは、王器を借り受けることが目的であったし、彼自身帝都には、王器がひとつしかないものだと思っていたからだった。

 

「王器とは、統一王フラスニエルが神より賜った宝弓のことだと、私は思っていました」

 

 サレオスのその言葉に対し、何かを思い出したかのように、ラストールは応えた。

 

「指輪は、フラスニエルが戦時中に聖銀で鋳造させたものだ。そこにシェイローエが禁術に対する保護の術をかけたのさ。まあ護符みたいなモンなんだろ」

 

 サレオスは、マルファスが言っていた、指輪にまつわる話を思い出した。その話とラストールの話は合致する点が多い上、皇帝家の末裔であるとはいえ、カディルすら語らなかった事を、何故この男は知っているのか。

 

「貴方は、何故指輪の出自を知っておられるのです? そのことは、代々の皇帝すら知り得なかったこと。誰かからお聞きになったのですか?」

 

「……そうだな。よくわからねえが、『そんな気がした』」

 

 自分自身のあやふやな記憶に戸惑うラストールに、サレオスの脳裏をある言葉がかすめた。

 

「殿下……。もしかして、既視感にかられることがあるのではないですか?」

 

「既視感?」

 

 混乱している最中に、さらに理解しがたいことを言われ、ラストールは思わずサレオスを睨み付ける。

 

「……いえ。そういうことも、まれにあるのではないかと」

 

 サレオスは、そっと微笑んだ。

 

「私にも、似たような既視感があると言っても……。殿下には、信じ難いかも知れません」

 

 

 

 

「隠しても無駄だよ」

 

 バルコニーで月を眺めながら、マルファスはサレオスに呟いた。

 

「……何のことだ」

 

 使い魔を再び放ち、宰相の動向を探らせに行かせた後、彼らは城の地下に下りる事にした。サレオスに背を向けたまま、マルファスは続けた。

 

「キミには、『あの時』の記憶があるんだろう? 千年前の大戦の記憶が」

 

 ゆっくりサレオスの方に振り向きながら、マルファスは彼の心の中を探るように、じっと視線を注いだ。

 

「お前には、関係ない」

 

「関係あるさ。僕はあの大戦で、他の代行者たちを裏切ってまで、キミたち『ヒト』の手助けをしたんだ。不死人たちが相手じゃ、どう考えてもキミたちには勝機が無かったからね。僕自身の『望み』のためには、その方法しか無かったのもあるけど」

 

 含み笑いをするマルファスに、サレオスは憮然として応えなかった。

 

 今から数年前、初めてウルヴァヌスの血月を見てしまった夜に、セアルの肉体に潜んでいた邪神がこの世に顕現した。

 

 二十年もの間、可愛がって育ててきた弟に邪神が身を潜めているなど、サレオスは考えたことすら無かった。血月を収める方法も、弟を元に戻す手段もわからず呆然としていたところに、偶然マルファスが助力したことで事なきを得た経緯があった。

 

 今となっては、それは『偶然』ではなかっただろう。こうして帝都へ王器を求めて足を運んだのも、マルファスの助言があっての事だからだ。

 

 そして彼との出会いが、サレオスにとっては奇しくも、既視感を呼び起こす結果となっているのだから。

 

「仮に私にその記憶があったとして、どうだというのだ? どうにもなるまい」

 

「確かに。どうにもならないけどね」

 

 平然とマルファスは続けた。

 

「誰かに覚えていてもらえるのは、嬉しいことだよ。僕の名を呼んでくれるのは、代行者以外では、もうキミしかいないから」

 

 マルファスはバルコニーから離れ、ガラス扉を開けて、部屋を後にした。遅れないよう、サレオスもそれに続いた。

 

「僕が死ねなくなって二千年以上経つ。今では、妻や娘の顔すら思い出せないんだ。多くの友が出来て、死んでいった。多くの死を見過ぎて、いつしか僕の心は、死をみても何も感じなくなっていった。……肉体だけじゃなく、心まで『ヒト』では無いと気づいた時、僕の中で何かが壊れていたんだ」

 

 マルファスの告白に、サレオスはかける言葉を失っていた。

 

「……いつか」

 

 マルファスは、廊下を進みながら呟いた。背を向け、顔も合わさずに彼は続ける。

 

「いつか、僕の犯した大罪を……。キミに話せる日が来るかも知れないね。世界が滅びるその日まで、叶うことのない望みを選択した僕を、哀れだとキミは思うだろうか」

 

 月だけが変わらず彼らを照らし続け、言葉も交わさず、二人は地下へと続く階段を降りて行った。

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九 ・ 代行者たち

 

 同属の発する妖気に導かれ、マルファスは今降りてきたばかりの階段を、再び昇り始めた。おおよそ三フロア分ほど昇り、城の一階と地階とを連結する、衛兵の集合フロアまで上がって来た。ただがらんとしているだけで、人影も気配すら感じとることが出来なかった。

 

「……出ておいで」

 

 小さな子供を呼ぶように、マルファスは優しく声をかけた。

 

「僕と遊びたいんだろう? 遊んであげるよ……」

 

 程なく、松明の炎が揺らめいたかと思うと、突如大きく燃えあがった。松明の影が大きく揺らぎ、そこから闇色の何かが這い出した。『それ』は、ゆっくりと人型を取り始め、次第に骸骨の面をした、老人へと変貌していく。

 

「先程の余興、楽しませて頂きましたぞ」

 

 肉薄い骸骨の顎がゆっくりと開き、冷たい笑いを湛えながら、人の言葉でそう発音した。

 

「余興? 何のことを言っている」

 

「おとぼけになるおつもりかな」

 

 骸骨は剥き出しの歯を大きく開き、気味の悪い声で大笑いした。

 

「精霊人を庇い立てしておられたではありませぬか。わざわざ御身を挺して護るほど大切ですかな? あの男が」

 

「別に。護ったわけじゃないよ」

 

 クルゴスの挑発には乗らず、マルファスはゆっくりと彼の方へと歩み出した。

 

「そもそも、痛みも何も感じない死なずの者が、誰かを護れるわけもないだろう? それが出来るのは『ヒト』だけだよ。あの勇敢なカディルのように」

 

「……これはまた、異なことを」

 

 近づいてくるマルファスを警戒し、クルゴスはふわりと宙へ舞い上がり、三鬼祇・タケハヤを召喚した。

 

 鬼神は、大気をも震わす咆哮とともに、影の中からその姿を現した。爛々と燃え立つ双眸は、怒りと苦痛に満ちている。

 

「ヒトというモノは、他人が苦しもうとも、自らが被らなければそれで良いと思うイキモノですぞ? 痛みを伴うから護ることが出来る? ……馬鹿馬鹿しいにも程がありましょうぞ」

 

「お前には、永遠に分からないさ」

 

 歩みを止め、マルファスは客を迎えるようにゆっくりと両腕を広げながら、不敵にクルゴスを見据えた。

 

「……さあ、始めよう」

 

 

 

 

 サレオスとラストールの会話は、突如頭上で鳴り響いた地割れのような轟音にかき消された。結界の作用なのか、洞窟の天井が落ちてくる気配は無かったが、頭を抑え込まれるような振動に、二人は膝をついた。

 

「……始まったか」

 

 マルファスが城に残ると言い出した時に、サレオスはこうなるであろう事を、心のどこかで気づいていた。宰相の狙いが何なのか。

 

 カディルの告白を基に考えてみると、ひとつのことがわかる。……それは、正統な王への捻じ曲がった執着だ。

 

 正統な世継ぎのラストールを都へと手繰り寄せ、王器を持たせ、自らの許へと進ませる。叔父の仇を討つべく歩み出た彼を力で捻じ伏せ、弄り殺し、王器を奪い取る。……恐らくは、これが宰相が自ら書いた筋書きなのかも知れない。

 

 宰相が『ヒト』であった頃のことは、何一つ分かりはしないが、皇帝家に対して異常に執着しているのは確かだろう。

 

 ふと気がつくと、地割れのような音は、すでに止んでいた。サレオスが見上げると、ラストールは長柄を手に、すでに立ち上がっていた。

 

「……オレは行く」

 

 サレオスが立ち上がるのに手を貸し、彼はそう告げた。

 

「宰相の息の根を止めてやる……。両親も叔父上も……村の皆も、アイツが殺った……。だったらオレの生きている意味は、ヤツを地獄に送ることだ!」

 

「違う! ……それは違う!」

 

 一瞬、彼の姿が故郷の弟に重なって、サレオスは必死に否定した。

 

「陛下の最期のお言葉を忘れたのですか? ご両親も陛下も、そんなことは望まれていない……。貴方が復讐に生きることなど、望むはずがない! 私にも、幼い頃から育ててきた年の離れた弟がおります。だから、私には陛下のお気持ちが、痛いほどわかります……」

 

 サレオスのその言葉に、ラストールは唇を噛み、言葉を失った。まるで自分のことのように、必死に訴えかけるその姿に、彼の、弟に対する深い愛情を見たからだった。

 

「どうかこの場はお退き下さい。いずれ都は宰相の兵に包囲されるでしょう。そうなってからでは遅すぎます。貴方がこの『帝都』という檻から解き放たれることが、陛下のお望みなのだと私は思います」

 

「叔父上の、望み……」

 

 自らの怒りにまかせた感情と、叔父の気持ちを理解しようという理性とが、ラストールの中でせめぎあった。

 

「オレは……また何も出来ずに、誰かに護られて……。死も選べずに生かされるなんざ、ごめんだ!」

 

 その瞬間、サレオスは彼の頬を打った。広いホールに木霊して、乾いた音がそこかしこで鳴り響く。

 

「……甘ったれるんじゃない」

 

 怒りを抑えながら、サレオスは静かに言葉を続けた。

 

「我々『ヒト』というものは、いつだって何かに生かされている。自らの進むべき道すら見出せない者は、死すら選べはしない!」

 

 サレオスの剣幕に、ラストールはようやく理性を取り戻した。そして感情のままに、死に急いだ己を恥じる。

 

「貴方はまだ若い。これから学ぶことも、出会いも数多くあるでしょう。苦楽を共に出来る人も、きっとあるはずです」

 

 俯いたまま顔を上げようとしないラストールに、サレオスは小さく呟いた。

 

「それに……。貴方を死なせでもしたら、私が『友人』に怒られてしまうのでね」

 

 ラストールに微笑みかけ、彼は天井を仰いだ。轟音も振動も、もう鳴り響くことは無かったが、得体の知れぬ戦いが、彼らの頭上で繰り広げられているのは、薄ら寒い冷気で感じ取れた。

 

 ふとサレオスは、自分がマルファスの無事を祈っていることに気づき、苦笑した。

 

 

 

 

「……どうやらラストールは、王器を手にしたようだ」

 

 代行者同士の戦いは、城を都ごと壊さんばかりの凄まじさで続いていた。石柱は瓦解し、或いは崩れ落ち、三フロア分ほどある天井も、自らの重量を支えきれずに、落ちてくるのも時間の問題だった。

 

 クルゴスは持てる全ての三鬼祇を繰り出し、対するマルファスは、黒の大剣を振るいながら、古代禁術を詠唱のみで行使していた。

 

「王器だと……。はっ、そんなもの、とうに興味も失せたわ」

 

 悠々と攻撃をかわしてくるマルファスに対し、クルゴスには、すでにそれほどの余裕は保てなかった。彼の持てる力全てを出し切っても、マルファスに傷一つ負わせることが出来なかったからだ。例え手足をもがれようとも、すぐに再生してしまう代行者だが、それでも完全な再生には、数十分ほどかかることもある。

 

 自らの再生時間をつくることすら出来ないクルゴスは、焦りを隠しきれなかった。

 

「王器といえば、貴兄のその剣も王器でしたな。千年前の大戦の折に、人間の王から奪い取っておられたが、如何なさるおつもりかな」

 

 動揺を誘おうと、クルゴスは自ら話を振る。

 

「お前が王器を集めているようだから、自分の王器だけは手許に置いているのさ。一人の代行者の許に、複数の王器があるのは何かと面倒だろう?」

 

 世間話でもしているかのように、マルファスは顔色も変えず応えた。

 

「未だ『死』の王器だけ見つからないけど、『執』の王器はもらい受けるよ。……そのためにここへ来たのだから」

 

 何のためらいもなく、マルファスは禁術を発動する。放物線を描く炎の槍はクルゴスを僅かに逸れ、手前にいたツクヨミの胸部に当たり、激しく燃え上がる。

 

「惜しゅうございましたな、マルファス様」

 

 骸骨の嘲笑にも呼気を乱さず、彼は次の詠唱に入る。

 

「お前と僕とは『望み』こそ違えど、『必要なモノ』が同じだからね。そろそろ、消えてもらわないと」

 

「……そう簡単には、ゆきませぬぞ」

 

 主に命じられるまま、タケハヤはマルファスに襲いかかった。脚を踏み鳴らし、剛腕を振り上げ、的めがけて振り下ろす。

 

 その瞬間、マルファスは素早く飛び退き、横に構えた大剣を薙いだ。振り下ろした両腕と共にタケハヤの胴体もろとも切断し、轟音を立てながら式鬼は崩れ落ちる。

 

「お前の負けだ、クルゴス」

 

 すでに符に戻ってしまっていたアマテラスを合わせ、三体全てを倒され、両脚をもがれたクルゴスは逃げるすべを失っていた。

 

「……最期に、教えてあげるよ」

 

 クルゴスへと歩みだしながら、マルファスは言った。

 

「フラスニエルはお前のことなんて、とうに忘れていたよ。お前を重用しなかったのは、優れた部下が多かったからで、主人やシェイローエを恨んだって意味の無い事さ。己の無能さを呪うんだね」

 

 俯くクルゴスを見下ろしながら、マルファスはその掌に、青白い炎を灯した。炎がクルゴスを包み込み、激しく燃えがるにつれ、骸骨の貌が醜く歪む。次第にそれは、恐怖の表情から苦悶の表情へと変わっていった。

 地獄の亡者にも似たその叫びは、夜明けに白みかけた都中を震わせた。

 

 その身を焼き尽くし、無惨に転がる骸骨を尻目に、マルファスは階段へと向かった。

 

「……ゆっくりとおやすみ」

 

 彼は今は動かぬ、宰相だったモノに声をかけた。

 

「また会う、その日まで」

-10ページ-

十 ・ 黎明の女神

 

「……何か、あったのかしら」

 

 何刻も前に出て行ったきりの弟を心配して、アーシェラはなかなか寝つけなかった。すでに明け方が近く、床に入っても眠れないのならと、夜着を羽織って居間へと向かった。

 

 居間には父親もすでにいて、彼もやはり眠れず、ずっとラストールを待っていた。

 

「立太子の拝命に、こんなに時間のかかるものではない……」

 

 セトラ卿は、ソファに腰を下ろすのも忘れて、うろうろと室内を歩き回った。ここ最近、宰相の動きがぴたりと無くなったせいで、嵐の前の静けさなのではないかと、ずっと心のどこかにひっかかっていたのだった。

 

「私が、様子を見てきます」

 

 当主だった母親が昨年他界してから、わずか二十歳で当主となったアーシェラは、父親にそう申し出た。

 だが父親は夜遅くに娘が出歩くものではないと、自らがその役を買って出た。

 

「……もしラストールに何かあったのなら、お前では太刀打ちできんかも知れんぞ。あの子は武才もさることながら、機転のきく子だ。女の身で、なんとかなるものでもあるまい」

 

 アーシェラ自身も武術には長けていたが、いざという時の男女の力量の差は、はっきりしていた。

 

「……わかりました。父上にお任せします。お気をつけて」

 

 セトラ卿は黙ってうなずき、二人は玄関ホールへと向かった。

 

 ――その時。

 

 突然玄関のドアが大きく開き、ラストールが飛び込んできた。彼の後ろにはもう一人、白金の長い髪を束ね、一羽のカラスを伴っている男がいた。人とは思えないその美しさに、セトラ卿は、思わず息を呑んだ。

 

「……精霊人……」

 

 伝説や御伽話の中にしか存在しないはずの滅びかかった種族を、彼はこの時初めて目の当たりにした。

 

「父上! 時間がないが、オレの話を聞いてくれ」

 

 普段の彼とは違う様子に、セトラ卿はひしひしと迫る危機を感じ取った。そしてラストールは、これまでのいきさつを語り始めた。

 

 

 

 

 マルファスが宰相をしばしの眠りにつけてから間もなく、城の地下層がゆっくりと崩れ始めた。その時まだ、サレオスとラストールは地下廟にとどまっていた。

 

「……上層が崩れ始めている!」

 

 突然の事態に、サレオスは唇を噛んだ。上層が崩れてしまえば、いかに地下廟が堅固であっても、地上へ戻ることは出来ない。

 

 結界によって術を封じられている今、彼には地下からの脱出方法が見つからなかった。

 

「……大丈夫だ」

 

 落ち着きを取り戻したラストールが、サレオスに告げる。

 

「オレが通ってきた抜け道が、神殿の裏手にある。そこからなら、帝都の外にも直接出ることができる」

 

 そこで二人は急いで神殿の裏へと回り、縄梯子を伝って古井戸の底へと降り立った。そこからは広い横穴が延々と続き、光鉱石がその道順を照らしていた。

 

「都から出る前に、寄りたい所があるんだが」

 

 旧地下水道を進みながら、ラストールは言った。

 

「……何か心残りでも? いつ宰相の手の者が襲ってくるともわかりませんし、あまり時間はかけられませんよ」

 

「わかっている」

 

 ラストールはうなずいた。

 

「大切なものだから……。ここには、置いていけないんだ」

 

 半刻分ほど進み、ラストールに言われるまま、サレオスは右手にある縄梯子を上った。古井戸から出た先は、どこかの屋敷の敷地内だった。脇には高い石塀があり、すぐには気付かれにくい場所にあった。

 

「こっちだ」

 

 ラストールに導かれて来たのは彼の家、セトラ卿の中屋敷だった。広大な中庭には人影もなく、まだ宰相の追っ手がかかっているようには思えなかった。

 

 その時突然、頭上で鳥のはばたきが聞こえ、二人はとっさに身構えた。見ると、それはマルファスがバルコニーで放った、使い魔のカラスだった。

 

「やあ、やっと見つけた」

 

 マルファスの声で、それは人の言葉を話した。人語を解するカラスを見て、ラストールは仰天する。

 

「なっ、なんだコレ……。鳥がしゃべってるぞ!」

 

「初めまして、ラストール。僕はマルファス。言移しの術で、このカラスの口を借りて話している」

 

 カラスは驚くラストールに手早く自己紹介をし、サレオスに近況を告げた。

 

「さっき城の地下で宰相を眠らせたんだけど、かなり早めに復活しそうなんだ。一応僕が食い止めるから、二人とも早くここから逃げてほしい」

 

「お前……。大丈夫なのか?」

 

 思わず心配するサレオスに、マルファスは笑い声をあげた。

 

「僕の心配なんていらないさ。そもそも僕は死なないんだから。さあ行こう。僕のカラスが、旧地下水道を先導するから」

 

「ちょっと待ってくれ」

 

 今にも先導しそうなマルファスの勢いに、ラストールは口を挟んだ。

 

「オレは家族を助けに、ここまで帰って来たんだ。俺にとっては大切な……かけがえのないものなんだ」

 

「……そうだね」

 

 ラストールの言葉に、マルファスはどことなく嬉しそうに応えた。

 

「じゃ、まずはキミの家族を助けて、それからにしよう」

 

 

 

 

 ――ラストールからこれまでのいきさつを聞き、セトラ卿は決断を下した。

 

「すぐに都を出よう。生まれ育ったこの街を離れるのは辛いが、家族を危険な目に遭わせるわけにはいかん」

 

 彼らは手早く仕度を整え、屋敷を後にした。屋敷裏の古井戸まで辿り着いたその時、ふいにカラスが声を上げた。

 

「……宰相の追っ手だ!」

 

 サレオスが気づいた時には、すでに彼らは塀を乗り越え、続々と敷地内へ入りこんでいた。古井戸を中心に、ぐるりと包囲され、その兵の数は、三十人を下らなかった。

 

「しまった……遅かったか」

 

 サレオスは何とか古井戸へ逃げ込めないかと思案したが、敵はこちらの十倍近くいる上、槍や弓を構えている者もいた。一人二人は何とかなっても、全員無事というわけにはいかないようだった。

 

「……私が、囮になろう」

 

 セトラ卿が、小声でサレオスに耳打ちした。

 

「しかし、それでは卿のお命が危うい。……そのようなこと、承服致しかねます」

 

「だから、貴方にお願いしておるのだ。ラストールにでも言おうものなら、殴り倒されかねん」

 

 卿はにっこり笑った。それは愛する子供達を護る、誇らしげな父親の顔だった。セトラ卿が死をも覚悟の上だと気づいて、サレオスはそれ以上何も言うことが出来なかった。

 

「……子供達を、お願いします」

 

 サレオスの方を見ずにそう言い残すと、セトラ卿は腰に帯びていた剣を抜き放った。鈍く光る鋼鉄の剣に一瞬、彼の顔が映り込む。

 

「セトラ卿、貴方を皇帝に仇なす謀反人として処罰致する」

 

 宰相の腹心であるガイザック将軍がそう言い放ち、右手を振り下ろすと、兵達が次々と抜刀した。

 

「父上!? 何を……」

 

 父親の所業に驚き、慌てて駆け寄ろうとするラストールに、アーシェラが背後から体当たりをした。

 

 ふいの衝撃で態勢を崩し、ラストールは頭から井戸底へと転落した。

 

「……ちょっとやり方が大味すぎたかしら?」

 

 愛らしい姿とは裏腹の、アーシェラの大胆な行動にサレオスは驚いた。気がつくと、彼女はサレオスのすぐそばまで来ていた。

 

「ごめんなさいね」

 

 その言葉を聞き取るよりも早く、視界が歪み、サレオスの身体は宙に浮いていた。そしてそのまま仰向けに、井戸底へと墜落していった。

 

「馬鹿者! 何故彼らと一緒に行かなかった!」

 

 誰も使用出来ないよう、縄梯子を剣で斬り落とした娘に、セトラ卿は兵を斬り倒しながら怒鳴った。

 

「ごめんなさい、父上」

 

 悪びれもなく、彼女は微笑した。

 

「私はセトラの当主であるとともに、父上の娘。父上だけを置いて行くなど出来ないわ」

 

「馬鹿者が……」

 

 娘の想いに、セトラ卿は嬉しくも哀しい、複雑な気持ちを隠せなかった。父と娘は互いに背を合わせ、自分達の何倍もの敵に対峙した。

 

「さっさと片付けて、ラスのところへ向かいましょう」

 

 その言葉を合図に、父娘は宰相の兵達に斬りかかった。

 

 

 

 

 サレオスが墜落したのは、丁度立ちあがろうとしたラストールの真上だった。彼が持ち前の反射神経で、咄嗟に受けとめてくれたおかげで、サレオスは怪我ひとつ負う事なく、降り立つことが出来た。

 

「すまない……」

 

 ラストールに礼を言い、すぐに上を見上げると、そこにはアーシェラの顔があった。

 

「姉上!」

 

 ラストールの呼びかけにも応えず、彼女は抜き放った剣で、縄梯子を素早く斬り落とした。

 

「何を……」

 

「行きなさい! ラストール」

 

 アーシェラはそう告げる。

 

「ここは父上と私とでしんがりを務めるわ。行きなさい。私達もすぐに追いかける」

 

 優しげに微笑むその顔に、長く緩やかな亜麻色の髪がかかり、昇りつつある太陽に照らされるその姿は、まるで黎明の女神のように見えた。

 

 サレオスは父と娘の想いを察し、何も出来ない自分を腹立たしく思った。ラストールにかける言葉すら見つからず、ただ見守ることしか出来なかった。

 

「……わかった」

 

 それまでうつむいていたラストールが、口を開く。

 

「先に行く。けど、父上も姉上も、絶対、生きていてくれ……!」

 

「もちろんよ」

 

 アーシェラは優しく笑った。

 

「貴方にチェスで勝つまでは、死んでも死に切れないもの」

 

 その言葉にラストールも思わず笑った。そして数秒間見つめ合った後、彼は旧地下水道へと走りだした。

 

「……弟を、宜しくお願いします」

 

 アーシェラはサレオスに言った。

 

「冷静なようで無茶ばかりするし、ああ見えても、結構繊細なところもあるんです」

 

「承りました」

 

 自分の無力さに苛まれ、これが家族の今生の別れと知りながら、サレオスは努めて冷静に応えた。

 

「御武運を」

 

「ありがとう……。貴方にも、ご加護がありますように」

 

 サレオスはすぐに背を向け、ラストールの後を追った。それにカラスが続き、足音だけが古井戸の石壁に木霊した。

 

「ラストール……元気でね」

 

 もう聞こえぬ呟きを残し、彼女はすでに兵と斬り結んでいる父親の許へと戻った。

 

 

 

 

 サレオスが暗渠から抜け出ると、すでに陽は昇りきっていた。枯れた小川を越え、木陰まで進むと、一本の果樹の根元で、ラストールがうずくまっていた。

 

 ……彼は、泣いていた。

 

 声すら出さず、歯をくいしばって、ただ涙を流していた。

 

 一夜のうちに愛する家族を全て失い、彼の手に残ったのは、ただ一本の杖と指輪、そして底冷えのする虚しさだけだった。

 

 ラストールを気遣い、サレオスはカラスを連れて、そっとその場を離れようとした。

 

「待ってくれ」

 

 ふいに呼びとめられ、サレオスは振り向かずにそのまま立ち止まった。

 

「……精霊人のアンタは、俺の何倍も長く生きているんだろう? 教えてくれ……。生きる時間が長いということは、それだけ苦しみが長引くということなのか?」

 

 ラストールのその問いに、サレオスはそっと話し始めた。

 

「生きている間、誰もが苦しみ、悲しみを背負います。でも時間がその苦しみや悲しみを洗い流し、人がそれを癒してくれる。私は、それが答えだと思っています」

 

 サレオスはそれだけ言うと、故郷へと足を向けた。

 

「また、会えるかもな」

 

 背後から、ラストールが声をかけた。

 

「また、会えますよ」

 

 サレオスもつぶやいた。

 

「……黎明の女神は、全てを見通しておられるから」

-11ページ-

十一 ・ 大切なもの

 

 往復に二十六日を費やして、サレオスは久しぶりの故郷へと戻った。帰路の途中、マルファスのカラスとは別れたが、彼はどうやら未だに帝都にいるらしかった。皇帝暗殺の混乱に乗じて去るつもりだと、彼は語った。

 

「……あの父娘には、可哀相なことをした」

 

 ボリスとアーシェラのことを指し、マルファスは言った。

 

「宰相をもう一度眠らせてから、僕も捜したんだ。父親の遺体は発見されたようなんだけど、娘は行方不明のままだそうだよ。生きていてくれるといいんだけど」

 

 マルファスの話を聞きながら、サレオスはやりきれない思いに押し潰されそうだった。術を封じられていたとはいえ、何も出来なかったことの辛さは堪え難かった。

 

 夕刻に家へ帰りつき、すぐに出迎えてくれたのは、弟のセアルだった。

 

「お帰り兄さん。……よかった、帰ってきてくれて」

 

 まだあどけなさの残る少年に対し、四肢に縛めを施されている様が、サレオスの心を締め付けた。

 

「お前のいるところが私の家だよ。どこにいても、必ず帰ってくる」

 

 そして父と祖父が外出していることを知ると、サレオスは弟を部屋へと呼んだ。懐から布包みを取り出し、ゆっくりと開く。

 

 セアルが嬉しそうに目を輝かせた。兄の掌には、美しい指輪に細い銀鎖を通したものが乗っていた。

 

「綺麗だね……。外には、こんなに綺麗なものがたくさんあるんだね」

 

 故郷の森から一度たりとも出たことのないセアルは、世界というものを知らなかった。どんなに美しいものも、どんなに醜いものすら知り得なかったのだ。彼が唯一知っているのは、村の者にとっては、半人の自分は忌むべき存在だということだけだった。

 

「これが、今日からお前を護ってくれる」

 

 サレオスはそっと弟の首にその鎖をかけた。彼の胸でその輝きは失われず、なお一層輝きを増した。

 

「その護符がお前の許にある限り、こんな縛めはもう必要ない。お祖父様には、私から言っておこう」

 

 弟の縛めを全てはずし、サレオスは微笑んだ。

 

「指輪のことは、誰にも言ってはいけない。私とお前だけの秘密だよ」

 

「うん、秘密」

 

 嬉しそうに、セアルは繰り返した。

 

 森の夜は深けゆき、月が緩やかに星々を従える。運命の輪は静かに廻り始め、やがて音も無く彼らを絡め取っていった。

説明
ハーフソウル本編の、十年前に当たる話です。セアルの兄、サレオス目線。戦闘描写はあまり無いですが、マルファス先生が一人で無双しています。男性キャラ多め。本編自体は、この外伝1(十年前)と外伝2(千年前)を元に書いています。32279字。

あらすじ・弟セアルを救うために、危険を冒して帝都へと赴くサレオスの前に、一人の男が現れた……。

【ご注意下さい】フェイタルルーラーの結末に関する記述がありますのでご注意下さい。
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