こんな夢の話
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どことも知れない、暗の暗。

営々と闇が空を覆い、星は一つの瞬きすら見せない。空を隔する地平線からは、建造物や人影

等も全く見当たらず、ただただ砂漠だけが大地を支配していた。この暗闇の中で、そのことを

知り得たのは砂がボンヤリと光っているからだ。一粒一粒が青みがかった乳白色を私と空に投

げかけている。

そしてもう一人、彼にもだ。

風はそよとも感じられず、不思議と暑さも寒さも感じなかった。私達の腰の下にはその辺りだ

け、申し訳程度に草が繁り、私と彼はその上に一尺も離れぬ距離で、腰を下ろしていた。

彼はいつからそこに座っているのか、体の所々には砂粒が積もり、それが青色の光を点点と燈

し、彼を幻想的なものに仕立てていた。

私は彼の横顔を盗み見る。輪郭は大袈裟に角張り、頬も人とは思えない程の厚みと硬さを持っ

てるように思えた。彼の貌は横から見ただけでも美しいと思える程、目鼻口が精巧に、そして

端整に造られていた。青光りは彼の頬に鈍く反射し、どこか造り物めいた色艶をその表面から

弾いている。それもその筈であった。彼の一糸纏わぬ姿は、体中に連なる夥しい数の歯車を露

わにしており、彼が人間でないことを主張していた。歯車は流暢に、円滑に、滑らかに廻り、

キシリとも音を立てなかった。

私は彼に耳を澄ます。

風もない中、静謐だけが空気を震わしていた。そんな中で、時折鳴る、低い「ブーン」という

電子音。その小さな音の唸りだけが私と、そして彼の間の空間を震わしていた。

 

私にはここが何処であって、どういった所であるか、さっぱり解からなかった。また、彼が何

者であるのか、ということもだ。

けれど、何の為に私はここに居るのか、そのことだけは在り在りと目前に文字が浮かぶごとく

、見知っていた。目的だけは、はっきりと見えている。

私は彼の言葉を待っているのだ。彼の紡ぐそれを、身を縮め、息を潜ませ、耳を澄まし、今か

今かと待ち望んでいる。その為だけに私はここへ来たのだ。

 

そして恐らくは、それを紡ぐ為だけに、彼はここに居るのだ。

 

 

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「はじめまして、とでも言うべきかな?」

如何ほどの時間が経ったのだろう、彼がふいに口を開いた。

その口の動きは柔らかで、まったく淀みというものが感じられなかった。言葉はゆっくりと丁

寧に、そして丹念に紡がれ、一種独特のリズムをその内に宿していた。私はふと、祖母の機織

を思い出した。祖母はゆったりとした動作で「カタン、シュル、カッタン」と、リズムを奏で

、一糸、一糸、何かを込めるように糸を紡いでゆく。私はそれが好きで、祖母が織物を始める

と、決まって機の置かれた部屋へ駆けつけたものだった。

 

似ている・・・。

 

「君がここまで来るのに、随分とかかった。僕は少し待ち草臥れてしまったよ」

欲したものが与えられる喜びを諸手で押さえつけ、一言も聞き漏らすまいと、一層肩を強張ら

せていた私は、がんじがらめになった糸玉のようだった。しかし、彼の声が、そのリズムが、

私の緊張をゆっくりと丁寧に解きほぐしてゆく。

「さて、君はどうしてここに来ることになったのか分かってるかい?」

彼は初めてこちらに顔を向け、更に私に微笑んでさえみせた。歯車に構成される彼の、人間と

見紛う程の自然な仕草は、私を心底驚かしたが、彼の話がどういったことを指すのか、それを

考える事に私は気を専念させた。

自分がここへ来た目的のことかしら、と見当をつける。

「それは、あなたの話を聞きに・・・」

「そうじゃない」

強い語調が私の言葉を遮った。彼の表情は穏やかな儘であったが、瞳には強い色が宿っている

「そうじゃないんだ、君の此処へ来た目的の話ではなく、どうして此処に来たのか・・・」

彼は少し視線を落とし、一寸思考を巡らすと、

「・・・どうして、君は私の話が必要なんだい?」

私はドキリとした。彼の強い視線に射竦められたからではない。私には分からなかったのだ。

何の事を言われているのか判然としなかった。私は何故彼の話を・・・?胸の中で疑問を反芻

してみても、やはり答えは出なかった。けれど、そこに大切な何かを忘れているようで、歯痒

かった。いや、むしろそれは痛みに近い苦しみとなって、私の四肢を駆け抜けた。鼓動は太鼓

のように高らかに打ち鳴らされ、自分の血流がこめかみにテンポ良く響いた。私はこの時どん

な顔をしていたのだろうか?彼は私の苦しみが移ったかのように苦い顔をし、目を伏せると前

方を向いた。再び、私の目には彼の横顔が映った。

「いや・・・いいんだ」

淡青色にぼやける世界のなかを彼の声がゆっくりと浸透してゆく。消え入りそうな声色だった

「まだ、時間はあるんだ、ゆっくりと話をしよう」

私の心臓は、その言葉に押さえ込まれたかのように段々と落ち着きを取り戻していった。一度

大きく深呼吸すると、私は彼が言葉を継ぐのを、再度、耳を澄ませて待つことに気を注いだ

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「君は大事な人を失う苦しみというモノを知っているかな?」

私は一寸過去に思いを馳せ、ないと判断した。その判断に小さなしこりみたいなものを感じた

が、別段気に止める程大きなものではなかった。私はかぶりを振る。

彼はそれが当たり前のように、うん、と一つ頷くと、言葉を繋いだ。

「それは手足に杭を打ち付けられ、抗う事も出来ずにジワジワと嬲り殺されるようなものだ。

到底言葉には言い表せぬ痛みだ。しかも、終わりがないのだ。永遠に続く苦しみ、僕にはそう

思えた」

「あなたは誰か大切な人を・・・?」

私は彼の沈痛な横顔が気になって尋ねていた。

「・・・うん。少し違うのだけれど・・・僕はその悲しみだけを味わったんだ」

彼はこちらを向いて苦笑した。私は彼の言葉の意味が解らず、疑問を付した眼差しで彼を見つ

めた。

「なんと説明すれば良いかな。僕は少し特別でね、いや、これはもちろん君たちの立場で考え

たとしてだ。僕は僕の当たり前で、今ここに存在している。それで、先程言った悲しみという

のは本来僕自身のものではないんだ。いわば、共有するんだよ。感情を。僕らは君たち人間を

共有者として選び、その選んだ人間の心を住処として、あらわれる感情を共に苦しんだり、悩

んだり、喜んだりする。というのも、そうしなければ僕らは存在を保てないからなんだ。それ

故に、僕は悲しみという感情だけを宿主から味わった。過程となる思考も、原因もなく、ね」

 

私はこの少々突飛に過ぎた話を、意外と苦もなくあっさりと飲み込んだ。たぶん私の脳内首相

が「まぁ、こんな事もあるだろう」と独断で通行を許可したのだろうか、しかし、飲み込めは

したが暫く呆けてる必要があった。私の頭の中は今、首相の批判や擁護でドタバタとしている

。彼は私の顔を見、控えめにだけれど、可笑しそうに笑って遥か前方を見遣る。そこには相変

わらず、黒々とした闇と淡青色の光が、境目も怪しくにじりあっている。彼は言葉を次ぐ。

「本当は・・・僕らにとって悲哀の感情は宿主を変えてまでしても、避けたいと思うものなん

だ。誰だって、喜びや快楽に身を浸していたいと願うものだからね。けれど、悲しみだってや

はり、生きる為には必要なものに違いないのだろう?それは、僕らだけでなく人間たちにおい

てもそのように言える筈なんだ。・・・ううん、なにより僕は此処を離れたくない。此処が、

この世界がとても気に入ってしまったんだ」

それは、彼において歓喜の言葉であったに違いない。私は羨望をもって彼を見た。しかし、言

葉の響きとは反対に、彼の表情に浮かんでいたのは憂いであった。彼の視線が私のそれと交わ

る。

「少し、昔話をしようか」

彼は微笑む。その笑顔はどこまでも優しく、そして柔らかなものだった。

 

 

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「僕は様々な人間の心を旅してきた」

彼がゆっくりと丹念に言葉を紡ぐ。その語りは、彼の中で祖母が機でも織っているんじゃない

かと思う程、やはり似ていた。私は彼の声に耳を澄ませ、瞼を落とす。

「君は知っているかな?僕らは君たち人間の心にある扉を渡るんだ。その扉は、想いの強さに

よって出来る。愛情、憎悪、崇拝、なんでもいい。深い感情が、人と人を繋いでいるんだ」

私は話を聞きながら、この心はどこと繋がっているんだろう?誰と繋がりを求めているのかな

?なんてことを、ぼんやりと考えていた。

「旅の途中、僕は或る女の内に辿り着いた。そこが僕の初めての住処となったんだ」

 

「彼女の世界は簡素なものだった。いや、何もなかったと言った方が正しいのかもしれない。

ただ、雑草ばかりが膝元丈に生い茂る、それだけの世界だったんだ。」

最初見た時、寂しい所だなって思った。彼は小さく、そう漏らすと、懐かしそうに目を細めた

「すぐに出て行こうと思ったんだ。新天地へ赴こうと、扉の前に立ち、ノブに手をかけようと

した途端・・・音が聞こえた。カタン、シュル、カッタン、そんな音色が彼女の世界に響き渡

ったんだ。ただ、それだけのことだった。別段、それに特別なモノを感じた訳でもなかった。

けれど、うん、本当に、あの時のことは今でも僕は不思議に思っているよ。以来、彼女の世界

から立ち去ろうなんて考えは、さっぱりと失せてしまったんだからね。理由は良くわからない

が、とにかく、僕はそこに残ることに決めたんだ」

語る彼の横顔からは、今までは見られなかったあどけなさのようなものが、その表情から滲ん

でいたが、私はそれに気付くこともなかった。頭の中では、先程彼の話した音色が、風車のご

とく旋転している。

 

カタン、シュル、カッタン、カタン、シュル、カッタン・・・機織・・・。

 

私に一つの予感が過る。

彼はゆっくりと言葉を続ける。

「彼女の感情の波は小さくてね、僕の存在に必要な分を保つのにはとても苦労をした。あらゆ

る感情を選り好みせず彼女と共有しながら、僕は細々と在り続けた。そんな折、彼女の心内は

突然の揺らぎに見舞われることになる。その時、僕が彼女から共有したものは、酷く悲哀に満

ちた感情だった。僕はとても驚いたよ、彼女にこんな強烈な感情が宿るなんて信じられなかっ

た。その日からだ、彼女の心にいつも悲しみが居座るようになったのは。そして、それと同時

に草ばかりだった世界に変化が起こり始めたんだ」

私は先の予感が胸内でグルグルと廻り、鼓動を急かしているように感じた。そういえば、彼は

人の心内を旅するとも言った。では、彼と私が今居る此処は誰の心だ?何故、私は彼と共に居

られる?疑問が駆ける。答えがすぐそこにあるのを感じるがら、辿り着けない。酷くもどかし

い。

「感情の断片から、僕は、彼女が長年の連合いを亡くした事を知った。それからだ、植物達が

肥大し、瞬く間に藪畳とまでなったのは。そして、彼女の世界に毎日、あの音色が響くように

なったのもだ。僕が彼女の世界を出てゆこうとして、それを留まらせた、あの響き。あれ以来

、とんと聞くことはなかったのだけれど、あれは機織の音だったんだね。いつの間にか、草藪

の中には織機があらわれていて、そこに、ぽつねんと佇んでいたんだ。その日から、彼女と感

情を共にする時は決まって織機が音を奏でるようになった。共有する感情は悲しみにばかり溢

れていたけれど、僕は彼女の紡ぐ音が、どうしようもなく好きになってしまっていた。いつも

傍らに腰を下ろして、その音に、リズムに耳を澄ませていたんだ」

ああ、だから彼の声は似ているのだ。私がそう納得すると共に、自分の中で何かを塞いでいた

ものがゴトリ、と大きな音を立てて動いた気がした。

「その時、外の世界でも僕と同様に、彼女の音に聞き惚れている人間がいたんだ・・・」

私は目の前がチカチカと、白く瞬いた気がした。

彼はゆっくりと顔をこちらに向ける。その表情からは何も読みとれない。そして、彼は告げる

 

「・・・そう、君の事だ」

 

 

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今の今まで静かだった世界が、矢庭に騒ぎ始めている。

いや、コレは私の血流の音だ。こめかみで耳に煩く脈拍をがなり立てている。縄で括られたみ

たいに、胸が締め付けられたようで息苦しい。嘔吐の際の胃液のように、苦いものが口の中に

広がってゆく。私の両眼は見開かれ、じぃっと足元を見ている。じわじわと全身へ勢力を拡大

しようとする痛みに、私は歯を食いしばり耐えようとする。足元を見つめる瞳は、ただ、乳青

色の光に視線を這わせているだけで、焦点は定まらない。その為か、私の視界はゆっくりと滲

むように、その色をぼやかしてゆく。

 

このまま、何も見えなくなってしまえばいい。

そう強く願って、私は目をつむる。凄まじい自己嫌悪に吐いてしまいそうなのを何とか堪えて

いた。

 

なぜ!なぜ、忘れていた!

 

思いが強大な叫びとなって、体中に木霊する。

なぜ、私は・・・。

「君のおばあさんは機織女だったのだろう?君ととても似た世界をしていた」

彼はゆっくりと語る。彼の視線はこちらに向いていた気配があったが、私は俯いた侭だ。私は

私の思いが外へと飛び出し、全身を這いながら、そのままギチギチと鎖の様に絡み付いてくる

のを感じる程に、自分の思索の中に深く飲み込まれていた。

なぜ、私は此処へきたのだろう?なぜ、私は彼の話を聞きたかったのだろう?

ああ、そうか・・・。

冷たい、氷のように冷え切ったモノが、思考の中に拡がる。

私は逃げ出そうとしたのだ・・・かなこ・・・君から私は逃げ出そうとしたのだ。

自分だけ救われようとした。苦しみに耐えられなくて此処へ来た。誰かに救いを求めていた。

だから、彼の話が聞きたかった。だから、私は此処へ一人で逃げ込んだ。苦しみにもがき死ん

でしまった、愛する君までを置いて・・・。

一寸前まで熱くたぎっていた血潮も、いつの間にかに引いている。平静を取り戻した訳ではな

い。ただ、凍りつくような寒さが、少しづつ、少しづつ、私のあらゆる営みを止めてゆくのだ

 

・・・かなこ、私は君を裏切ったんだ・・・。

 

もう良いだろう。このまま何も感じず、何も喋らず、時が過ぎれば良い。私は私の世界でこの

まま朽ちてゆくのだ。彼女のいない苦しみにもがくこともなく、私はこのまま塵となるのだ。

ああ、それがどんなにか魅力的であろうか。

私は相変わらず、ぼんやりと足元の砂地に視線を這わす。焦点は浮き足だったようにフワフワ

ッと定まらず、視界を惑わす。

「・・・そうだな、確かに君はあの少女を裏切っているに違いない」

私はハッとして彼の方を見る。彼の言葉に対して何かしらの感情が私の中を駆け抜け、ボンヤ

リと霞がかった思考に半鐘を鳴らす。

それは怒りであったろうか、悲しみであったろうか、私は反発を覚え、その衝動に突き動かさ

れる侭に彼を向き、口を開こうとした。しかし、彼の視線が、感情がそれをさせなかった。私

は振り向いた先の彼の瞳に、怒りの色が浮かんでいるのをはっきりと読み取った。私は彼の瞳

に怒の感情を認めた途端、何を言いたかったのか分からなくなってしまい、開きかけた口をい

つの間にかつぐんで、俯いていた。彼はそんな私を暫く見つめているようだった。

「少女の死後、君は一体彼女の為に何をしたんだい?」

彼は語る。その言葉は只淡々と発せられる。そこに責める調子はなかったが、私は自分を責め

なければならなかった。

 

そうだ、私は何もしていない。かなこの死に傷つき、悲しんだ自分を慰める事しか出来なかっ

た。一時などは、彼女を恨んだりもした・・・何故死んだのだ、と。でも、想ってた。彼女の

為にまだ何もしてやれていないけど、いつだって彼女だけを想っていたんだ。

 

「・・・君はいずれにしろ、何らかのカタチでこの事に決着をつけなければならない。君のお

ばあさんがそうしたようにね」

彼の声には何も感情が燈っていないように感じた。そこにあるのは、あの機織のような独特の

リズムだけだ。しかし、そのリズムはやはり温かい。カタン、シュル、カッタンと響く、私の

大好きな音。

祖母がそうしたように・・・?

あの時、祖母は機を織りながら、何を想っていたのだろうか?なんの為に機を織り続けたのだ

ろうか?悲しみを紛らわす為?苦しさから逃げる為?いや、違う。祖母の瞳はいつだって前を

見つめていたのだ。いつだって、足を踏ん張って、背筋を屹立とさせていたのだ。そうだ、祖

母はいつだって・・・

「いつだって、戦っていた」

私はいつの間にか呟いていた。そして、この言葉に目の前が突然に開けた心地がした。驚きの

中、この新たな発見に同意を求めるかのように、私は彼を見る。

彼は微笑んでいた。とても嬉しそうな表情をしている。

 

そうか。私はようやく分かった気がした。どうして、私は彼の話を聞きに此処へ来たのか。

私はずっと逃げていた。彼女の死に傷つき、苦しみ、もがく、それを良しとして、苦しむ自分

に酔っていたかっただけなのだ。私はどちらが楽なのか、分かっていたのだ。立ち向かい、戦

うことから、再び傷つくことから逃げていたのだ。そして、そんな自分が嫌でもあった。

そうだ、私は此処へ戦う勇気を貰いに来たのだ。

どうして気付かなかったのだろう?気付いてみれば、酷く簡単な事に思えた。私の世界がガラ

リと姿を変えた様な心地だ。力が溢れてくる。私は驚きをもってそれを感じた。こんなもの、

私の体のどこに隠れていたのだろうか。それ程、今までの私には感じられなかった生命力が体

に満ちている気がした。

 

私はようやく、最初の一歩を踏み出したのだ。

 

「おめでとう、コレはご褒美だよ」と、彼は言って、ニッコリと笑った。

次の瞬間、ワッっと光が足元から一斉に飛び上がった。それらは小さな点点とした光の粒で、

フワフワと漂いながら、段々と空へ昇る。光の色は柔らかな赤。いつの間にか、私と彼を照ら

す灯りは暖かに生まれ変わっていた。私は足元に視線を送る。

砂地から次から次へと溢れ、転びでる光達。不規則にポンポコと投げ出され、ゆったりと遥か

上空を目指す。

あっ!と私は声をあげた。

視線の先の砂の下から、ポンという軽快な音と共に、草芽が顔をひょっこりと覗かせたのであ

る。それを皮切りに次々と小鼓を打ち鳴す様な音が響いて、砂に覆われていた筈の世界は、一

瞬に草木の織り成す鮮やかな緑の世界に姿を変えていた。瞬く間に成長した若々しげなエネル

ギーを携えた葉肉は、鮮やかな赤をその表面に映し出している。それが地平線まで続いていた

私は驚きに目を見張った。そして、何とも知れない喜びに打ちのめされ、涙がこぼれていた。

「そう、これが本当の君の世界だよ」

いとおしそうに、彼は変わる世界を眺めていた。そして、つと腕を伸ばしすと、浮かび上がる

中途だった光を一粒、両手でそっと捕まえた。私は彼の頸から上以外の動作を始めて目にした

が、やはりその動きは滑らかで、キシリとも音を立てない。彼はその手を胸上まで持ってくる

と、私に向かって言った。

「そして・・・」

彼は蕾が花開くように、両の手を開いた。

「これが、君の色だよ」

光はゆっくりとまた浮上を始め、彼の胸、頸、顎と順々に照らしてゆく。彼は赤に照らす光の

中でぎこちなく笑っていた。きっと自分の台詞に少し照れてしまったのだろう。彼の頬に差し

た赤みは、立ち昇る光のせいだけではなかった筈だ。私は、彼のそんな表情が可笑しくて笑っ

た。天へと昇る蛍火の中で、泣きながら笑っていた。

 

 

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私は淡い光に目を覚ました。カーテンからこぼれてくる陽光。薄暗い部屋には、衣服や物が乱

雑に嵩張り、あるいは積み上げられていて、そこここには、何週間も換気していない纏わりつ

くような陰気な空気が漂っている。私はふと左手にあった硬い感触に視線を遣る。そこには小

振りな写真立てが握り締められていた。裏返すと、写っているのは一組の男女が青々とした空

の下、咲き誇るラベンダー達を背景に楽しそうに手を繋いで微笑んでいる姿だ。これは自然公

園に二人で遊びに行った時のものだ。男は照れているのか、少し恥ずかしそうに頭を垂れてい

る。そんな男をよそに、女は花開いたような笑顔を見せている。とても晴れ晴れとした、好ま

しい笑顔だ。ポタタと、写真に重なるアクリル板の上に雫が落ちる。

 

そういえば、現像したこの写真を見て、かなこは随分と可笑しそうに笑っていたっけ。

彼女の笑顔が頭一杯に浮かんでは、それが幻だと言わんばかりに、すぐ立ち消える。けれど、

今度はかなこの声が、仕草が、言葉が次々と甦ってくる。両目から溢れる涙がまた音を立てて

こぼれる。止まらない。

私は声をあげて泣き出していた。赤ん坊のように思い切り泣きじゃくった。嗚咽の中で、濁り

のようのモノが涙と共に流れ落ち、段々と胸の内がスッキリしていくように感じた。そして、

かわりに溢れてくる不思議な力。

 

「君はいずれにしろ、何らかのカタチでこの事に決着をつけなければならない」

 

誰かの言葉が頭に響く。それは、私の好きだった祖母の機織の音に似ていた。

そうだ、私は立ち向かわなきゃならない。いつまでも泣いてばかりはいられないんだ。私はむ

せびながらも気を落ち着ける。胸に力が満ちると共に涙も枯れてしまった。私は写真の上に落

ちた涙を袖で拭くと、写真の中の女性に「ごめんな、かなこ」と、告げるとベッドから降り、

すっくと立ち上がった。心内にはある決意があった。それは立ち向かうこと、戦うことだ。

 

私はかなこの家をもう一度、訪ねなければならない。

 

かなこの父とは、葬式の日に初めて会った。会ったといっても、一寸視線を交ぜただけで話も

していない。私が逃げるようにして、帰路に着いたせいでもあるのだが。

その日、私は呆然としてその光景を目にしていたと思う。私とかなこの住んでた町には少しば

かり距離があった。二、三日程彼女と全く連絡が取れなくなり、いぶかしんだ私は彼女の家へ

と向かった。電車に揺られながら、過ぎる不安を必死に打ち消した。彼女の家は父と娘の二人

きりで、母は小さい時に亡くなってしまったのだと、彼女が話したことがある。彼女は父親に

私の事はまだ話してはおらず、私は彼女の家には一度も入ったことがなかった。しかし、彼女

の見送りなどで場所だけは見知っていたので、足早にそこを目指した。夕方時、息を切らしつ

つそこへ辿り着いてみると、そこには白と黒を交互に配した垂幕と、橙の光を投げかけるぼん

ぼりがあった。

私はそれを見てからの事をあまり詳しく覚えていない。ただ、夢中だったのだ。

私は玄関先の受付へと駆けつけると、いきなり相手の胸倉を掴んで叫んでいた。誰だ、誰が死

んだのだ、と。狂気の沙汰であったかもしれない。受付の者は目を丸くしながらも、息も絶え

絶えにその名を口にした。私はその瞬間、何も考えられなくなった。目まぐるしく、働きすぎ

た思考がオーバーヒートでも起こしてしまったかのようだ。ネジの切れてしまった人形のごと

く、腕をだらんと力無く垂らし、ぴくりともしない。そこへ、何事だと駆けつけてきた四十程

の男と目があった。すると、私はこの男がかなこの父親だとすぐに分かった。目元がそっくり

だったのだ。

次の瞬間、私は駆け出していた。理由は判然としない。ただ、逃げ出したかった。今在る現実

から、何もかもから逃げ出したくって、宵に沈んだ町を駆け抜けた。どこへ向かっているのか

も分からぬ侭、夢中で走っていた。

その日、這這の体で何とか家まで辿り着くと、数日前の新聞を漁るようにして、隅から隅まで

を確かめた。すると二日前の朝刊に小さな記事で、かなこの名前が記載されていた。

それは、飲酒運転による事故だった。車体は歩道に乗り上げ、電柱に激突。運転手は打ち所が

悪く、病院で治療の甲斐なく死亡。事故発生から五時間後の事だ。

たまたま、そこを歩いていたかなこは即死だったそうだ。大型トラックの勢い衰えぬままに跳

ね飛ばされたらしく、事故現場から十メートルも離れた所に横たわっていたそうだ。

 

それからの私は、一日をしがなくベッドの上で丸くなって過ごした。なるべく何も考えないよ

うに努めた。苦しかったから、泣き出してしまうから、何も考えたくなかった。それから一月

近くもそうして、悲しみに震えていた。

けれどようやく私は立ち向かえそうだった。苦しさと戦えるだけの力がそこに在った。

 

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鏡の前に立って、伸び放題であった髭を剃り落としてゆくと、痩せこけた頬がそこから露にな

った。しかし、その病人の様な容貌の中で瞳だけが爛々と異様に輝いていた。

身支度を整え、家を出ると、いつかと同じ道筋を辿り、彼女の家へと向かった。あの時は底知

れぬ不安に怯えながら向かった道であったが、今は不思議と穏やかな気分だった。

ようやく、辿り着くと私はその家を仰ぎ見た。当然の事ながら、もう白黒の垂幕や、橙に灯る

ぼんぼりは取り払われている。私はゆっくりと歩を進め、玄関の前に立つ。流石に緊張で咽を

コクリと上下させる。私は震える指先をもって、チャイムを鳴らした。

それから、彼が出てくるまでの間、一分ばかしの事だったとは思うけれど、その一分が非常に

長く感じられた。

彼は扉を開けた先に、私の姿を認めると、一寸驚いたように目を見張った。

私は何にも増して、先ず謝ろうと思っていた。あの日出来なかった彼女への手向けを、何とし

てでもやらなければと思っていた。彼女の為、そして自分に決着をつける為にも。

 

私はすぐに頭を下げた。そして、謝罪の言葉を述べようとすると、それを遮るように「遅かっ

たじゃぁないか」という声。私は驚いて顔を上げた。続けて、かなこの父親は喋る。

「君が謝る必要なんかはない。それより、君と過ごしていた時のあの子について教えてはくれ

ないだろうか?」

彼の口調はとても穏やかだった。

「幸せだったんだろう?君も・・・もちろん、かなこもな」

その顔に浮かんだのは、優しげな苦笑だった。私はハッとした。かなこの笑顔が頭一杯に広が

ったからだ。父の目許は、笑うと殊更に、娘のそれに似ていた。

私の一等大好きだった、かなこの笑顔。そうだ、私は幸せだった。かなこもきっと、幸せであ

ったと思える。それ程に、私たちは互いを許しあっていた。

つと、涙が頬を伝うのを感じた。何とか、止めようとしたが儘ならない。みっともなくて下を

俯く。すると、涙が余計に零れた。

私は、ただ首をコクリ、コクリと上下させた。想いが言葉にならないのがもどかしくて、必死

に首を縦に振った。私たちが幸福であったことを伝えたかった。目の前に佇む父親に、死んで

しまった娘の幸福を只只伝えたかったのだ。

 

降り注ぐ陽光は背中に温かく、まるで慰められるかのようだ。けれど、この涙はもう暫くは止

まりそうにない。

熱く火照った瞼の裏では、彼女の花のような笑顔が私に笑いかけてくれていた。

 

 

説明
こんな夢がみれればなぁ・・・と思いつつ書いたものです。楽しんで読んで頂けたら幸いです。
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