アンドロイド・パンクシティ〜ビーナスを貴方に
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 ビーナスを貴方に

 

 

 

 

 

 

 おっぱい星人の朝はティツィアーノで始まる。

 見上げるほどの壁にかけられた一枚の絵画に対して、それを習慣として見上げる女性型アンドロイドの姿。

 すっきりとした目鼻立ちに描かれた裸婦に対して、まだ寝ぼけ眼ながらトウ・ラスチックは絵画に描かれた女神に意識を奪われる。それは夢から夢へと誘われたかのような快感だった。

 誘うようでいて、突き放すようでもある女神の視線。透き通った表情を浮き上がらせるような神秘的な裸体は、白雲のような不安定な曲線を思わせながらもその内に艶かしい肉感を密に詰まらせている。

 美しい、とトウは思う。

 毎朝、このティツィアーノ作、ウルビーノのビーナスを見上げる度に、トウは、ほうと溜息をつかずにはいられない。

 人間になりたい。

 その願いは、禁忌だ。だから、あるいは、と思う。せめて、瞬生<ショーター>になりたい、と思う。

 

 トウ・ラスチックは十四歳の女性型アンドロイドだ。

 百万人のアンドロイドが暮らすこの神立都市メタメリックには、三十を越える美術館がある。その内の一つ、東部美術館の常勤管理者が、トウの役目だった。館内には宿直用の部屋もあるが、人のいなくなった美術館内の、ビーナスの前で眠るのがトウの習慣だった。

 午前五時。トウは立ち上がると伸びをした。記憶の中の体操の項目をそれとなくなぞって、休息によって凝り固まった筋肉をほぐすと、広くない美術館内を見て回る。二時間かけて細部まで異常のないことを確かめると、宿直室にある冷蔵保管庫からエナジードリンクを取り出した。二人分。

 その間に、外注警備システムは自動的に解除され、登録されているトウ以外のスタッフも出入りできるようになる。

 いつもどおり、やってきた者がいた。

 アンドロイドの、リィン・ノウルだ。

「おはよう、トウ」

「おはようリィン」言いながら、トウは、リィンの豊満な胸を鷲掴みにした。

「おはよう、リィン」

 その乳房に向かって会釈する。手は、掴んだ柔らかな肉を離さずに。

「どこに話しかけてるの」

「今日も良い乳してるねえ」

「人の話を聞け、このおっぱい星人め」

 リィンの加減のない拳を受けて、トウはようやくその手を名残惜しそうに離した。

 トウがエナジードリンクを渡すと、リィンはそのパックを加えてごくごくと飲み干す。

 美学の塊のような表情、唸りを上げながら生命力の脈動を感じさせる首筋、喉元、そこから鎖骨の渓谷を越えて、ふっくらと大きすぎるほどの乳房が膨らみ、腰を経て、脚へと落つる曲線は一生かけて見つめ続けても飽きることはないのではないかと思う。

 ショートカットを揺らしながら、リィンは微笑む。ティツィアーノに描かれたかのように。

 同い年のリィンは同じ女性型アンドロイドであるが、しかし、根源的にトウと生命起源を違えている。

 

 およそ五百年前、隆盛を極めていたかに見えた人類を、パンデミックが襲った。

 百億いた人々は絶滅寸前まで追い詰められ、残ったわずかな人々は、ある決断をした。

 それは、アンドロイドたちに地上の占有権を明け渡すことだった。絶滅を超現実的な未来として受け入れた人類は、自らが作り上げたアンドロイドという生命を第二世代生命体と名付け、文化を、技術を、発展を、隆盛を、彼らに託した。

 それは、宇宙を創造した神々が、人類に世界を与えたのと全く等しい所業だった。

 人類は、絶滅を恐れコールドスリープに入り、世界を与えた人類を、アンドロイドは崇拝対象とした。

 ここに、人=神、アンドロイド=人、という新たな世界、新たな定義が誕生した。

 

 新立都市メタメリックの中央、皇族殿と呼ばれる園には、現在コールドスリープから目覚めた三百人程度の人=神が暮らしている。

 アンドロイドたちは、彼らを二十世紀の天皇のような存在として祀り上げている。一方で、生き残った人類は、その将来をアンドロイドに託す代わりに、そこに住まうことをアンドロイドから許されているのだった。

 

 十時になり、東部美術館が開館すると、多くの人々=アンドロイドたちが訪れる。

 彼らの多くは、人々=アンドロイドの中でも特別勉強熱心な部類だ。多くのアンドロイドたちは、自らを創りあげた人々を崇拝しているし、その人々が創りあげた叡智の数々を尊んでいる。その中でもさらに、我こそは人類に続く開拓者となろう、と考える人々=アンドロイドたちが、美術館や博物館、あるいは図書館や、大学と呼ばれる機関に集い、日夜、思考的研鑽を積んでゆく。

 

 トウは、そんな中、ぼうっと、座って一日を漫然と過ごす。目の前にあるのは、一つの芸術だ。ティツィアーノの作ではない。しかし、そこにはティツィアーノが生きている。

 そこにあるのは一つの立体映像だ。高さ一メートルほどのショウケースの中には擬似定常流体が満たされており、その中を及び廻る超濃度ナノマシンが、ティツィアーノのビーナスを感じさせる超自然的人体曲線を艶やかに描き出している。一人の女神が、そこに立ち、燦然と、憂いにも似た微笑を浮かべている。

 五百五十年ほど前に生まれた立体映像芸術である。

 これだけ時間の経過した今でもそれを邪道だと罵る人々=アンドロイドは後を絶たないが、トウは、そうは思わない。

 これもまた芸術だ、と思う。

 少なくとも、世界中でその立体像はここにしかない。文化遺産として登録された立体映像ソースコードはいかなる理由においても複製を禁止されているし、美しいものを美しいと呼ばないのは、間違いだとトウは思う。

 トウは、その女神が特別好きだった。

 あえてその女神の前で眠らないのは、あまりにも好きすぎるからなのだった。

 

「あんたも好きねえ」

 リィンが隣に並ぶ。座っているトウの目線よりも少し上に、積乱雲のように豊満な胸が主張する。

「悪い? ……私が、永遠に手に入れられないものよ、あれは」

 言わずともリィンはトウの身の上を知っていたが、それでも言わずにはいられなかった。今日は、なんとなく。

 身の上というほどでもないかもしれないが、それが、現在のトウの人生における最大の命題だった。

 

 トウは、永生<ロンガ>である。

 リィンは、瞬生<ショーター>だ。

 五百年以上の昔、現在の神=人間は、アンドロイドを大別した。

 一つは、男女の分別。雌雄の生物を生み出すことに、人類の至宝の喜びがあったのだろう、と現在では考えられている。

 もう一つが、ロンガとショーターだ。

 これについては、人類の永遠の命題が詰め込まれているのだと考えられており、現在でもその「意味」というものを見いだせた者は存在しない。

 ロンガとショーターの定義の違いは単純だ。それは、寿命の違いである。

 ロンガの寿命が百五十年程度であるのに対して、ショーターの寿命は、どんなに長くてもわずかに三十年にも満たない。平均すると、二十二歳くらいがショーターの寿命だ。

 それは生体構造上の違いから生まれるものだ。ロンガは省エネルギーを目的として造られているのに対して、ショーターは一瞬の大出力を目的として造られている。必然的に、ロンガは歴史を、事実を、記録するための人生を歩む種族とされ、ショーターは一瞬を燃やし尽くして己を世界に刻み付けることを大志とする種族となった。

 その生命機関は見た目にも現れている。

 ロンガのトウは、ショートカットに細く凹凸のない身体、非力な代わりに栄養の摂取をあまり必要とせず、記憶媒体に優れている。

 一方で、ショーターのリィンは、トウから見てあまりにも人間じみた美しい体躯を持っており、ハリのある身体の内に秘めた大出力のエンジン機構と言ったら、言葉も出ない。

 朝目覚める度、あるいはリィンに会う度に、思う。

 人間=神になりたかった、あるいはショーターになりたかった、と。

 

「で、まだ決まらないわけ?」

 ロンガの命題は、記録にある。

 トウは学校に通ったり、美術館の管理に従事したりする中で、世界を記録することに人生を見出さなくてはならない身の上にある。

 一方で、ショーターの真髄は「燃やし尽くすこと」にある。人=アンドロイドにもよるが、ショーターは命を燃やし尽くすことを前提に造られているため、彼ら、彼女らが夢を抱き、その未来へ突進を始めた瞬間が、そのまま死期の決定となる。夢の形や大きさにもよるが、十四歳になったリィンが、未だになんのビジョンも抱いていないというのは、少々特殊な状況だった。

 本来ならば、漠然とでも方向性を見定めているべきである。

 あるショーターなどは、皇族=人間の料理を作ることに己の生涯を捧げることを決意した、とニュースデバイスに載っていた。

 他にも、人生を捧げて新規プログラムを組むものや、科学の発展に貢献しようとするものなど様々だが、いずれの場合にもショーターの共通点としては、それが短距離走的な行動となる点にある。ショーターは、ロンガのように積み重ねを求めない。そもそものエンジンが、そのような使い捨てのために造られたものなのだ。

 その方向性を決めなくても良い環境にリィンがいるのは、彼女が特待と呼ばれる存在だからだろう。

 

 メタメリックに在住しているアンドロイドは、義務として労働を課せられている。

 それはトウもそうであるし、生まれた瞬間から神=人で言うところの成人レベルの肉体を持っているアンドロイドは、年齢に関係なく労働の義務を課せられる。

 しかし、特待だけは別なのである。

 特待は、ショーターだけに与えられる特権だ。

 特権を持つショーターは、労働しなくて良い。学習も必要ないし、どう生きても構わない。いわば、限りなく皇族殿に住まう神々=人々に近い存在だ。

 しかし、そこはショーターだ。

 そもそも、特権を与えられるショーターというのは、「偉業を成し遂げ死んだショーターの遺伝子」を持つショーターに与えられるのだ。そのかわり、特権を持っていながら最後まで燃やし尽くせずに死んだ場合は、あらゆる権利を奪われて野に流されてしまう。競りでその遺伝子を買おうとするものもいれば、一部の邪な人=アンドロイドに買われたり、メタメリック以外の、全く法律の違う都市に流されてしまったりする。

 大抵のショーターは何らかの夢を見つけて己を燃やし尽くすため、滅多にそんなことは起こらない。

 しかし、リィンは、未だに自らの夢をはかりかねているのだった。

 

「どうしよっかねえ」

「やーい、neetめ」

 リィンがきょとんとする。

「なにそれ」

「大雑把に言って、千年近くまえに生まれた言葉よ。怠惰な者を指してあざ笑う悪口」

「物知りねえ」

「当たり前でしょ」

 ロンガなんだから、その言葉を、飲み込んだ。

 トウは、自分が嫌いだった。

 夢に自らを燃やし尽くすことのできないのは、ロンガだけだ。ロンガは、過程に全てを求められる。人にしろ、ショーターにしろ、彼らは燃やし尽くすことができる。しかし、ロンガにとって、一瞬に価値を見出すことは、罪なのだ。

 ロンガは、積み重ねにこそ価値を見出す。

 なぜなら、情報を、歴史を、経験を積むために、長寿な個体として生み出された存在だからだ。

「難しい顔ですなあ」

 リィンが覗きこんでくる。

 リィンの美しい顔で、立体のビーナスが遮られる。

 むしゃくしゃした。

「うるさい」

「ひゃあ!」

 トウは、苛立ちを隠そうともせずに、リィンの張り出す胸部を掴んだ。

 あー、ずっと何にも考えずにおっぱいだけ揉んでいられたら、どれだけ楽だろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日は、一年に一度、コールドスリープしていた神=人間が新たに十人、目覚める日だ。

 毎年十人が目覚め、そして毎年何人かが死んでゆく。たまに皇族殿の中で子供を生み出す神=人間がいるが、コールドスリープ中の神=人間を入れると、世界的に神=人間は減少傾向にある。

 どうにかしなければという問題意識は、うっすらとアンドロイド政府、世界に浸透してはいるが、未だになんの打開策も見出すことはできずにいる。

 目覚めた十人は、まず皇族殿の人間たちと再会し、三日かけて現状認識する。すなわち、これまでに起きた出来事をロンガがまとめた報告書を読んだり、話を聞いたり、若干変化している大気などの環境変化に順応するのだ。必要ならば、メディカルデバイスやナノマシンを用いる。

 そこから一週間かけて、メタメリック都市内を巡礼し、あらかた世界を把握し終えると、皇族殿に引っ込む。

 

 しかし、その年、事件は起きた。

「これは、おかしい」

 ある神=青年が、東部美術館巡礼の折、一つの展示品の前で立ち止まった。

 それは、トウが最も愛して止まなかった立体映像芸術のビーナスだった。

「どこがおかしいのでしょうか」

 トウが尋ねる。青年は、自らの脳の奥深くを探るように目を細めて、言う。

「全く、違うんだ。この立体映像芸術は、明らかに劣化している」

「そんなはずはありません。立体映像芸術は、そもそも、」

「ああ、知ってるよ。芸術作品保全のために生まれた、半恒久的な文化だと言いたいんだろう」

 トウは、しずしず頷いた。

 立体映像芸術は、芸術作品を如何にして永久的に保存するかという命題から生まれたものだ。

 古代の、耐候性に優れた顔料などで描かれた絵画が、カビなどの腐食で失われたことがあった。どんな芸術も、人の手によって修復しなければ、恒久的に保存することは難しい。

 ならば、その自動補修能力も一緒くたにしてしまえばいいのではないか、と考えた者がいた。それが結果として邪道だと罵られる原因になってはいたが、少なからず賛同者を得られたのは事実だった。

 すなわち、こうだ。

 色彩、角度、曲線、などなどあらゆる情報を詰め込んだナノマシンによって、ショウケース内の自動流体を固定し、像を再現することで、光の劣化などをその場で検知しナノマシンによって自動修復させる。いわば、擬似的な生体のように芸術作品を形作ることで、像を半永久的に保たせる。

 それが、立体映像芸術だ。

 だから、劣化などするはずがないのだ。なぜなら、劣化は即座に修復されるはずなのだから。

 しかし、

「間違いない。このティツィアーノを源流とした芸術家、ジャスロのビーナス像は、劣化している」

 トウは、胸の内の言葉を飲み込んだ。

 自分の最も愛する像がまがい物であると言われるのは、辛かった。しかも、尊敬するべき神=人間の言葉だ。

「分析します。……ご助力、お願いいたします」

 それが、精一杯のつよがりだった。

 

 

 

「ガン?」

 ティツィアーノのビーナス、その裸体の上に乗せられたふっくらとした乳房を見つめながら、冷たい床に座り込んで就寝しようとしていたトウに、リィンが問いかけた。

 トウ自身落ち込みを隠せた自信はなく、案の定、リィンが宿泊を申し出てきた。

 神=人類の生体に限りなく近い構造をとるアンドロイドであるトウたちだが、体内搭載エンジンと、エナジードリンクやナノマシンによる生命合理化によって、布団を敷いて横になる文化を必要とはしていない。

 リィンが隣で膝を畳んで座る。トウはなんとなく、隣に現れた豊満な実物の乳を鷲掴んだが、リィンはいつものことなので顔色を変えなかった。いや、ただ単に眠いだけかもしれない。

「ええ、そう」

 事件の原因は、すぐに分かった。

 と言うよりも、消去法でそれしかなかった。

 許可を取り、目覚めたばかりの神=青年の記憶にアクセスしたところ、本当に、像が劣化していたことが分かった。ナノマシンによる自動修復が正しく行われているのならば、そんなことは起こるわけがない。

 ということは、答えは一つだ。

「ナノマシンが、劣化していたのよ」

「でもそんなこと……」

「ないわけではないわ。現に、修復サイクルの多いアンドロイド生体ナノマシンが癌化する事例は出ている」

「じゃあ、どうするの」

 直ぐに、答えを出せなかった。

 掌に返ってくる乳房の弾力は、暖かく、柔らかく、涙を蓄えた泉のようだと思った。

 ティツィアーノのビーナスは、目覚めた瞬間の姿だ。覚醒したその瞳で、自らの肢体を眺めたビーナスは、果たして自らを美しいと思っただろうか。

「修復は、難しいことじゃないわ」

 脳内の全てを霧散させるかのごとく、トウはぶっきらぼうに言葉を放つ。

「資料は揃ってるから、それと彼の記憶からダウンロードした情報を照らしあわせて、修正関数をぶつけるだけでいい。それこそ、こういうときのためのデータ取りが、ロンガの仕事ですから」

 何も、サボっていたわけではない。

 ロンガの仕事は、一瞬では現れないことが多い。それこそ、今回の劣化に誰も気が付かなかったのは、ごくごく微細な変化で少しずつ変性していったためだ。コールドスリープから目覚めた神=人間の中で、さらにこういった知識に精通した人間がいなければ、分からなかったことだ。

 

「それで、いいの?」

 リィンの質問。

 思わずビーナスから目をそらし、リィンを見た。もう一人のビーナスが、そこにいる。

「どうして?」

「だって……」

 ためらいながらも、結局、最後は、リィンはその言葉を口にした。

 

 トウが好きだったのは、あのビーナスでしょう?

 

 

 そうだ。

 神=人間にとって劣化していても、私達にとっては、あれが自然体で、美なのだ。

「でも、仕方ないじゃない。だって、皇族の意志なんだよ」

「それは、そうだけど」

 けれど。

「それを決定するのは、政府だったり、皇族殿だったり、あるいは、ショーターだよ」

 諦念。落胆。

 積み重ねを全てとするロンガにとって、若年の者の発言権はない。

 何かを主張したいとは思わないが、窮屈さを感じないかといえば、嘘になる。

「仕方ないんだよ」

 胸から手を離す。

「もう寝よう」

 微笑んだ。頬の筋肉が、少しだけ音もなく軋んだ気がした。

 トウは目を閉じて、膝の上に組んだ腕を枕に頭を乗せた。

 

 ぐい、と。

 その頭を引っ張られた。

 何事かと目を開いた瞬間、優しく、口付けられた。

「んんっ!?」

 躊躇なく大胆に舌を入れられ、驚天動地の思いで目を白黒させている間に、接吻は離れた。乳房の何倍も柔らかく、桁外れに熱かった。息がかかるほどの距離に、リィンの顔があった。紅潮している。暗闇でも、月光で分かる。

「決めた」

「……へ?」

「私の、人生」

 立ち上がったリィンは、美術館の奥へと歩き出す。今日だけは、宿泊申請を出したリィンも、セキュリティにはかからない。展示品に触れなければ、だ。

「どこに……」

 

 

 リィンは、元の展示場所に戻った劣化立体映像芸術――ジェスロ作ビーナスの前に立つと、深呼吸を始めた、二度、三度、そして四度目に、異変は起こった。

 ぴりぴりと、張り詰めた圧力がリィンの周辺に充足していくのが分かる。緊張が頬をたたえていた。にもかかわらず、紅潮は解けず、笑みすら浮かべていた。ビーナスと言うよりは、闘争の神に近い。

 リィンの指先が瑠璃色に染まる。

 ショーターという存在は、無限で、奇跡だ。

 その脳が思い描いた夢を達成するために与えられた大出力のエンジンと、それに応えるための変性可逆生体高分子が、夢を達成するためのあらゆるデバイスに己の身体を進化させる。

「盗むよ、これ」

「ぬ、盗むっ?」

「任せて。これでも特待ショーターなんだから」

 永久文化財のコピーは違法だ。

 止めたいという気持ちは、しかし生まれてこなかった。

 完全に、トウは気圧されていた。いやそもそも、ショーターの一世一代の燃焼に、細く永くのロンガが太刀打ちできるはずもない。

 リィンがショウケースに触れた瞬間、本来ならば、セキュリティが発動するはずだった。

 しかし、ショーターは、奇跡を起こすための存在なのだ。触れた瞬間、セキュリティが発動するよりも早く、リィンはそれを解除してみせた。

 理論は、分からない。

 理屈ではない。いや、理屈はあるのだが、少なくともトウの理解の範疇を超えていた。

 その瞬間、リィンは電気よりも早い新流体を、体内エンジンによって構築し使用していたのだが、それを説明しきる言葉も定義も、まだ世界には生まれていなかった。

 あるいはアンドロイドを生み出した神=人類の研究者ならばその正体を知っていたかもしれない。

 五百年前のパンデミックに続く勃発した多くの戦争によって、多くの知見が失われた。アンドロイドたちの社会がひとまず目指すのは、かつて人類が隆盛をきわめたあの世界の再構築だ。

 リィンは、奇跡を起こした。

 全身に備えられている感覚器官の全てを解放し、立体映像を己の記憶に刻みつけた。

 その場で生み出した新規情報伝播流体を、口腔内に集積した。

 にっこりと微笑んで、トウを見る。

「へ?」

 再びの、キス。

 今度は舌だけではない。何かを流し込まれる。

 飲んで。

 声が聞こえた気がした。

 それは情報伝播流体だった。飲み込んだトウの中に染みこむと、それはトウの記憶媒体に新たな関数を刻み込んだ。その瞬間、窃盗が完了した。

 劣化した立体映像芸術が、トウの脳裏に刻みついた。記憶などという瑣末なものではない。

 それは、記録だった。

 もちろん違法であったが、あらゆる法的追求を、リィンの生み出した奇跡はクリアしていた。

 

「……り、リィン」

「なに?」

 しゅう、と、蒸気のようなゆらぎがリィンの身体から浮かぶ。リィンの腕に触れた瞬間、灼かれるような熱がトウの掌に走った。

 それが、ショーターの燃焼だ。命を賭けた、燃焼――生産――歴史への刻印――煌き。

「わたし、私、は……」

「トウは、トウだよ。私は私」

 頷く。理解には及ばなかったが、頷く他なかった。リィンの表情から、するすると生気が受け落ちてゆくのだ。

「私はね、ずっと、トウに憧れてた」

「私、に?」

「そう、トウがショーターに憧れたように、私も、ロンガに憧れてた。……一緒だね」

 その瞬間、トウの胸中に強烈な罪悪感が湧いた。

 私が殺した。

「違うよ、トウ」

 表情を読んだように、リィンが首を横に振る。膝が震えている。

「トウに会えたから、私はショーターである自分を誇れた。だから、私の夢は、何も像をコピーすることじゃない」

「じゃあ、なに?」

 リィンが、微笑む。

「私が抱いた夢はね、トウ、あなたの歴史に、私を刻むこと」

 命を賭けて。

「だから、忘れないで。私のことを」

 リィンが抱いたのか、トウが抱いたのかは分からない。お互いの身体を重ねた。灼熱がトウを包んだが、嗚咽と涙が止まらず、それどころではなかった。豊満な胸が、後から後から急き立てるようにトウの胸を押しつぶす。

「リィン、……リィンっ!」

 名前を呼ぶ。答えは返ってこない。すでに、エンジンの鼓動は聞こえない。

 リィン・ノウルは、絶命した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 新規情報伝播流体の存在は翌日にはメタメリックを賑わす一大ニュースとなった。

 その発見に関わったリィンの遺伝子、あるいは記憶の処置は、最終的には神=人に委ねられることになるが、その判断材料としてアンドロイド政府の意見は不可欠なものであり、世論を盛大に賑わせることとなった。

 指先で触れるだけで遠方のセキュリティサーバを騙し、肉体接触により情報を伝播するその新流体の正体を掴むためにはリィンの記憶を再生するのが最も近道だったが、しかし、都市の法を犯すショーターの記憶を再生するのには反対の声も多かった。

 ショーターの奇跡は、同時に恐れでもある。強力な出力は、時に世界を滅ぼすかもしれない。議論は慎重に行われた。

 

 あるとき、トウの元にあの神=青年が訪れた。

「君は、どう思う?」

「リィンの処置、ですか」

 青年は頷いた。

 リィンに押し付けられた記録ということもあり、トウは保護観察だけで特別罪を着せられるようなことはなかった。むしろ情報伝播流体の素性を明かすために、トウは消すことのできない存在だった。

 トウは、逡巡したが、胸の内を打ち明けた。

「リィンは、再生を望んでいません」

 アンドロイドは、死後二つの選択を迫られる。記憶を別の肉体に移し替えるか、肉体を構成している遺伝子を用いて、新たなアンドロイドとして生まれ変わるか、だ。

「つまり、転生を望む、と?」

 トウは、頷いた。青年が頬をほころばせようとした瞬間に、言葉を次いだ。

「お願いが、あるんです」

 青年が表情を止める。

「なにかな」

「親権を、買いたいんです」

 アンドロイドは、生殖しない。雌雄は神=人間に与えられたものであり、生殖器官を持たない。したがって、生産工場で生まれたアンドロイドに、基本的に親という概念はない。

 しかし、例外はある。

「それは、リィンの特待を手放す、いや剥奪するということかな?」

 親は、ショーターに夢を与えることができる。

 しかし、生まれながらに夢を与えられたショーターは、自由ではない。従って特待を受けられない。

 リィンは、法を破ったという以外の点において、特待を受ける権利を維持しているのだった。しかし、トウが親権を購入すれば、その特待を奪ってしまうことになる。

「そうです」

 トウの意志は固かった。

 表情を見て、青年は頷いた。

「……少なくとも、僕が意見できる問題ではないな。好きにしたら、いい」

 微笑んで、青年は立ち去った。

 

 ティツィアーノのビーナスを背に、トウは美術館の外、東部美術館公園へと歩み出た。

 青空を見上げる。神立都市メタメリックの空には飛行船が浮かび、鳥が羽ばたいている。

 決まったよ、と囁く。

 リィンの夢は、トウのためにあると言った。

 ならば、トウの夢がリィンのためにあってはいけない道理は、ないはずだ。

 記憶を継いだアンドロイドは名前を継ぎ、遺伝子を継いだアンドロイドは姓を継ぐ。

 リィン・ノウル――ノウルの遺伝子に恥じない名前をあげよう。きっと何世代ものノウルの死を見ることになるだろう、けれど、リィンの意志を伝えよう。共に成長する喜びを、トウは知っている。

 積み重ねよう、この人生を。

 その果てに何が生み出せるのかはまだ分からないけれど。

 自分はショーターでも神=人間でもなくて、けれど、ロンガの誇りと美しさを、きっと持てるはずだ。

 長い道を迷いながら進む、それがロンガの宿命だから。

説明
パンデミックから五百年。人類は世界の全てをアンドロイドたちに明け渡し、コールドスリープによる長い旅に身を沈めた。「人=アンドロイド、神=人類」のSF(?)短編小説集。雌雄の他に、短命、長命の分類を成されたアンドロイドたちは、自らの人生について思案する。一時の煌きに人生を燃やし尽くすことを由とするショーター、記録と積み重ねこそを尊ぶロンガ、そして神となった人類……。 http://ncode.syosetu.com/n6557bi/ こちらでも更新していきます。 同世界観で新作を書き次第順次更新していく予定です。 荒削りかもしれませんが、楽しんでいただければ幸いです。
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