吸血巫女の復讐 二章
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二章 小人姫の見せる夢

 

 

 

 翌朝、願衣達は町を出て北へと出発した。

 旅人達の噂によると目的地である父の居城は、この地域より寒冷な北の地にあるという。

 北へ北へと、補給と観光のために町を渡り歩けば、それだけで目的地へと辿り着ける簡単な旅程だ。

 どうやらラルフの剣も悪魔に通用するようだし、願衣の神楽と暗器も絶大な効果を発揮している。依頼をこなして旅の資金を稼ぐのもそう難しいことではないだろう。

 問題があるとすれば、果たしたい目的の方になる。

「はぁ……。あの後すぐに洗ったのは良いけど、白い服に付いた血の染みなんて、取れないわよねぇ」

 しかし、当面の願衣の心配事といえば、汚れてしまった服についてだ。

 普通の服よりも布地の量が多い巫女の装束は、たくさん持ち運ぶとなると大荷物になってしまうので、替えを用意していない。

 一応、普通の着替えは一着だけあるものの、神楽は巫女装束で踊らなければ効果を発揮しないし、夏を考慮しての半袖の服なので、短剣を隠して携行することも出来ない。寝巻にでもしようと思っていた服だ。

「どうせこれからの旅で汚れるんだし、仕方がないと思うけどなぁ……」

「でもショックなのよ……。うぅ、こうなったら真っ赤な染料でも買って、全部赤くしちゃおうかしら」

「かなり危ない奴っぽいぞ……?それ」

 着ているのが貴族が着るような赤いドレスなら良いが、見慣れない形の服で、しかも真っ赤となると、いくらそれを身にまとうのが美少女でも不審がられてしまうのが落ちだ。

 町を渡り歩く以上、多少の汚れには目をつぶってでも、人当たりの良い服装をしておく必要はある。

「そういえば、自分で布を買って作る、ってのは無理なのか?裁縫とかも出来た覚えがあるけど」

「うーん、出来るとは思うけどね。それってなんか、嫌じゃない?折角、お母さんが作ってくれたんだから。お母さんが作ってくれたこの服を着続けるわ」

 さも当然のようにそう言うと、もうそれ以上この話をやめてしまった。

 願衣は本当に母のことを深く愛し、尊敬している。だからこそこんな言葉が出て来たのだろう。

 結局、服が汚れてしまったことには相変わらず不服の表情だが、今日も陽が暮れるまで歩き続け、夜。

「……はぁ。ごちそう様」

 旅に出て三度目の吸血。伝承によっては、吸血鬼に血を吸われた者は吸血鬼の眷属になると語られているし、それは事実だという。

 ただし、願衣はあくまで人と吸血鬼の混血。眷属を作る力はなく、こう何度もラルフに血を吸っていても、悪い影響を与えることはない。

「ところで、血って美味いのか?喉鳴らして、結構美味そうに飲んでるけど」

「……えっ?そ、そんなこと訊くの?」

 みるみる内に顔が真っ赤になり、全力で後ずさって行く。

「変な質問だったか?」

「そりゃあそうよ!大体、女の子が食事……みたいなことしてる時の音をじっくり聴いたりする時点で変態的よ!」

「いや、それは、おれの首に口を当てて飲んでるんだし……」

「……じゃあ言うけど、なんというか……すごく濃くがあって美味しいわ。それで十分でしょ?」

「お、おぅ……」

 今までは当然の生理現象だし、唯一の旅仲間がラルフだから、と何も意識していなかったが、改めてラルフに何もかも聞かれてしまっているのだということを意識すると、考えなくても良い様々なことまで頭に浮かんで来た。

「と、とりあえず、その話はこれ以降禁止!さっさと野営の準備するから、どいてどいて!」

 いつもよりかなり乱暴に、そして異様に素早く、火の準備、寝床の確保がされて行く。

 初夏といっても夜は冷えるのに、願衣は顔も体も熱く、真夏の太陽をずっと浴びていたかのようだった。

「はい!食べたらとっとと寝る!私はしばらく踊ってから寝るから!」

「わ、わかった。……なんでそんなに怒ってるんだ」

 突き付けるように干し肉がラルフに渡され、願衣は食事を摂ることもなく神楽を舞い始める。

 あれだけ心は乱れていても、いざ踊る段になると袖の動きは清流のようで、顔つきは自然ときっ、と引き締まったものになった。

 神楽の基本の動きはしなやかでゆるやかなもの。それを踊るには当然ながら静まりきった心と、並外れた集中力が必要となる。

 ゆっくりとした踊りは見た目には簡単に見えるかもしれないが、一挙動ごとに間の取り方、呼吸の仕方まで決まっており、生半可な気持ちでは一フレーズもまともに踊り切ることは出来ない。

 だからこそ、神楽には神秘的な魅力があり、踊る者も、それを見る者も心を動かされる。

 一度切り替えて舞い始めれば、願衣の心もすっかり落ち着き、一時間休むことなく踊り続けた後は、安らかに床に就いた。

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 それから二日行き、辿り着いた新たな街。

 前のものよりも更に大きく、この地方の物流の中心ともいえる交易都市だ。

 商人が大量の荷物を積んだ馬車や、馬を引いた旅人の姿も多く見られる。

 街を行き交う人々の服装も、住む地方が全く違うのか特徴的なものが多い。中にはどことなく願衣の服と似た作りの服もあった。

 基本的に大通りの道幅は馬車が二台通れるほど広く取られ、かなりの人間がいるというのに、それをあまり感じさせないところから、規模が段違いだというのが明らかだ。

 広場に行けば、食べ物の屋台や、大道芸人がたくさんいて、各々の芸を見せたり、旅の画家が絵を広げたりしていた。

 夕方に訪れたため、オレンジ色の光に照らされる古城の絵が願衣の目に留まって、しばらくその画家と話し込む。

 願衣達とは逆に、北から南へと歩んで来たらしく、北方の悪魔の王とされている願衣の父の城の近くも通ったと言うのだから、話は長引き、陽は落ち、月が出てしまった。

「……さすがに、人目は気にするべきだよなぁ」

「ご、ごめん。ついつい、ね?」

 慌ててラルフは崩れ落ちた願衣を抱えて立ち去り、緊急なので路地裏で血を吸わせた。

 宿は街に来て一番で取っているものの、ぐったりとした願衣を連れ込めば事が大きくなりかねない。

「それじゃあ、宿に行くか。ほとんど雑談ばっかりだったけど、それなりに情報は手に入ったし」

「またまた。ラルフも結構楽しんでたじゃない。やっぱり、絵を描いてる人って感性が独特ね。それに、世界を広く細かく、よく見れてる。私とは真逆だわ」

「……そうか?」

「私が見ているのは、興味が持てるものだけ。汚いものは見ようとしないもの」

 その点、芸術家というものは現実の全てを直視し、真理を覗こうとしているのだろうか。

 良くも悪くも、自分に素直に生きている願衣には旅の画家のような生き方は難しいし、共鳴も出来ないのかもしれない。

「――おれはそれでも良いと思うけどなぁ。奇麗なトコから汚いトコまで、全部見るなんてそうそう出来ることじゃない」

「別に、今から意識を変えようなんて思ってないわ。けど、そういう人がいるんだな、ってことは覚えておこうと思ったの」

 画家は美しいものを写し取るが、その裏には無限の直視に堪えかねる景色もある。

 今まで願衣は、絵でしか外の世界を知ることはなかった。これからの旅の中で、凄惨な現実が目に触れるのかと思うと、旅を楽しんでばかりもいられないかもしれない。

 それでも、願衣は暗い顔をすることはなく、大胆不敵な笑みで未来を見て、口を開く。

「折角大きな街に来たんだし、明日はもう少し観光して回りましょ?出発は明後日になっても良いじゃない」

 今更ラルフが反対意見を出す訳もなく、その日は宿の共有スペースでしばらく神楽を踊った後就寝し、次の朝を迎えた。

 ちなみに、神楽はかなりの人気を博し、街の踊り子以上だと絶賛されたほどだ。

「よく見ると、石畳に使われている石も通りごとに微妙に違うわね」

 様々な商店や露店を渡り歩いて、今度は住宅街にも足を伸ばす。

 建てることの出来る住居には、ある一定の規格があるのか、美しく並んだ家々は圧巻の限りだ。

 白い石畳は掃除が徹底されており、よく見ると微妙にそれぞれの模様が違っていて、どうやら違う種類の石のようだ。

「細かいことによく気付くなぁ」

「足元一面に広がってるんだから、細かいことじゃないでしょ?建物も良いけど、こうも同じようなのばっかりじゃ、一つ一つ見るのは楽しくないもの。別な見どころを探さないとね」

 住宅街の次は、飲食店や酒場の多い歓楽街にも向かった。

 こちらもやはり、大都市だからこそ美しい外観が保たれており、酒場一つ見ても、美しい白い壁で清潔感に溢れている。

 中で飲んでいる男達も、少し上品な身なりに見えるのだから不思議だ。

「依頼は別にこなさくて良いわよね?」

「あぁ。まだまだ金に余裕はあるし、意外と宿代も安かったしなぁ」

 以前の依頼の報酬額が破格だったのも大きな助けになっているが、実はといえば悪魔の毛皮を納品する必要はなく、そのまま売却してしまったのが大きい。

 悪魔の毛皮が美しく、加工に耐え得る状態で手に入るのは珍しいらしく、中々の高値が付いた。ここでラルフの技が大きな成果を出している。

 その甲斐もあり、当面は資金繰りに苦労することもなく、多少の散財も許される。尤も、願衣もラルフも酒は飲まないし、見た目を色々と飾り立てる趣味もないので、あまりお金を使う機会もないのだが。

「……あら。見て、ラルフ」

「ん?」

「珍しい、男女の二人連れよ。あんたぐらいの男の人と、十歳ぐらいの女の子。兄妹かしら」

 そろそろ昼食にしようと店を見繕っていると、向かいに旅人らしい二人の男女の姿が見えた。

 淡い水色の長髪の幼い少女と、薄い黄緑の短髪の青年だ。

 どちらもどことなく高貴そうな身なりをしていて、願衣達と同じく昼食を摂る店を探しているらしい。

「話しかけてみましょうか。良かったら、ご飯も一緒に食べてみたいし」

「ほんと、行動力あるなぁ」

 いつもこんな感じのフットワークの軽さだと、いつか痛い目に遭わない気がしないでもない。

 もちろん、願衣も人を見て行動は決めているのだが、人は見た目に寄らないとも言う。今回は果たして……。

「こんにちは。あなた達も旅の人?」

「やや、見ず知らずの方に声をかけられてしまいました。レイナとしましては緊張をしまくりなのですが、挨拶をさせてもらいます。こんにちはー」

「……い、色々と独特な子ね」

 優しく声をかけると、気が付いた二人の内少女の方が挨拶を返す。後ろの青年も会釈をするが、少女の喋り方のインパクトが凄まじい。

「緊張してしまうと口数が多くなってしまうのは、レイナの癖ですのでお気になさらず。レイナ達はある崇高な目的のため、旅をしているのです。見たところ、貴女方も旅をされているようですが」

「ええ。ひたすら北に行っているの。と言っても、まだ旅を始めて一週間も経ってないんだけどね」

「なるほどなるほど。旅人としてはレイナ達が先輩ですね。あちこちと旅をして来て、もう一年になります」

「へぇ、すごいわね。一年前なんて、まだほんの子どもだったでしょうに」

「ふっふっふ。やはり、そう思われますか」

 自分のことをレイナと呼ぶ少女は、なぜか得意気になって、不敵に微笑んだ。

 する人がすれば、威厳たっぷりにも見える表情だが、愛らしい少女がすると精いっぱいの強がりに見えて逆に微笑ましい。

「何を隠そう、レイナはここより遥か南方に住まう小人族のプリンセス!人間の方からすればほんの少女に見えますが、今年の誕生日で二十五歳になりました。もう立派な大人なのですよ。ふふん」

「え、ええ?」

「ほ、ほんとですよー!?その証拠にこちらのサイラスは人間ですがレイナの従者であり、護衛なのです。それにわかりませんか?レイナから感じる、この王族っぽいオーラを!」

「そう言われてみれば、服装なんかも高級だし、ね。そんな変な嘘を吐く理由もなさそうだし、信じるわ」

「ありがとうございます!やったー!サイラス、レイナにもいよいよ王族としてのカリスマが出て来たことがこれで証明されましたよ!もうそろそろ、旅を終える頃合ではないでしょうか!?」

 信用されたことがそんなに嬉しかったのか、レイナは従者だと言う青年と盛り上がりまくる。

 一方、願衣としても初めて見る小人族に大興奮だ。

「小人族って、そうそう出会えない種族って話なのに、まさかこんなところで会えるなんて。それにしても、本当に小さくて、色白なのねー」

「あぁ。可愛いなぁ。……そういう意味じゃなくて」

「わかってるわよ。でも、年上なのよね。不思議な感じ」

 小人族は背丈が小さいだけではなく、顔や体型も子どものままで成人する種族だという。

 そのため荒事には向かないが、手先の器用さや魔法の才能は人間よりずっと優れており、美形も多いと言われている。

「いえ、しかしレイナ様。やはりもう少しだけ世界を見て回った方が……」

「そ、そうですか……。で、でも、王族としての貫禄が出て来たのは本当ですよね?」

「……どうでしょう」

「貫禄とか格好良さって、ありますよね!?」

 雲行きが怪しくなって、慌てて願衣に縋り付いて来る。

 遠慮なく腰にしがみ付くものだから、同性といっても恥ずかしくなってしまう。

「え、ええ?貫禄とかはわからないけど、可愛いし、王族っぽい高貴さはあるんじゃないかしら」

「ですよね!ほら、サイラス。レイナにはロイヤルなオーラがあるんです。旅の意味はあったのですよ」

「は、はあ。……申し訳ありません。レイナ様のわがままに付き合わせてしまって」

「ううん。なんか役に立てたみたいだし、私は良いんだけどね」

 どうやら、レイナの言う「崇高な理由の旅」とは、王族としての修行のようなものらしい。

 王族に生まれたゆえの苦労というものは、願衣にも他人事には思えない。

 尤も、願衣にとっての神楽の修行は辛く苦しくも、それ以上に楽しく、誇りに思えることだったので、義務感は薄かったのだが。

「ところで、貴女は北に進んでいるという話でしたね?今まではなんとなく北の地に行くのは気が進まなかったのですが、丁度良いです。よろしければ、レイナ達も同行させてもらえませんか?」

「え、えーと。私は良いけど……お連れの人は大丈夫?」

「良いですよね。サイラス」

「……それが、レイナ様の決められたことでしたら、僕には拒む権利はありません」

「決まりですね!詳しいお話は、食事を摂りながらにしましょう。レイナ達では決めかねていたので、お二人の好きなお店で良いですよ」

 半ば強引に、レイナの言葉で着々と話が進んで行く。

 普段は我を通して行く願衣も押され気味で、ついつい受け手に回ってしまう辺りは、確かに王族として持っているものがあるようにも感じられるだろう。

 適当にあまり混んでいない店に入り、これまた適当に無難なメニューを頼む。願衣とラルフが注文をすると、何故かものすごく嬉しそうにレイナも同じ物を頼んだ。

「えへへ。同じお皿のご飯を食べると、仲の良い間柄って言いますよね。お皿こそ違いますが、同じ物を食べるのだからレイナ達はマブダチです!」

「そ、そう。……私達、まだ自己紹介もしてない気がするけどね。まだ全然、私達のことは話せていないし」

「お名前なんて、些末な問題ですよ。それに、レイナは貴女の人柄とお姿が好みだったからこそ、同行させて頂くお話を持ちかけたのです。そんなことはないとわかっていますが、貴女方がたとえ盗賊でも、お付き合いさせて頂きます」

 明らかに願衣を圧倒しているレイナに、内心ラルフは驚いていた。

 願衣ほどのじゃじゃ馬を抑え付けることは、果てしなく恐ろしげで屈強な男でも不可能な気がしていた。それを、可憐な少女が成し遂げてしまっている。

 夢か何かとしか思えない光景で、感動すら生まれていた。

「ええっ、と。私は願衣。巫女をしてるんだけど、わからないよね。魔法みたいな力を持った踊りを踊る職業、って感じ」

「つまりは、踊り子さんですか!素晴らしいスタイルをされてますものね。種族特有のものだから仕方ないとはいえ、ずっと幼児体型なレイナからすれば羨ましい限りです」

「そんなそんな……。レイナも可愛いわよ?って、様付けじゃないといけないかな」

「いえ、どうか気軽に呼び捨てでお願いします。レイナは、このレイナという名前そのままの響きがすごく好きですから」

 だからこそ、自分のことを名前で呼ぶのだろう。

 見た目もあいまって幼さを感じる一人称だが、それなりの理由があるのだということを知ると、また印象が変わって来る。

 実は、突飛で子どもっぽいレイナの行動には常に何かしら、裏の意味が隠されているのかもしれない。

「ところで願衣さん。お胸を軽く触らせて頂いても良いですか?小人族は全体的に小さいので、憧れだったのです」

「ええ?もっと人の目がないところなら良いけど、今は駄目」

 ……意味が隠されてないかもしれない。

「それは良いとして、こっちが幼馴染のラルフね。ぼさーっとしているように見えて、剣士としての腕はすごいのよ。毛皮を剥ぐのも得意だったりして、猟師としても中々みたい」

「お姫様を守る騎士様、ということですね。サイラスは理屈ばかりでいまいち頼りにならないので、羨ましいです」

「別に、ラルフもそんな頼りにならないと思うけどね。そういえば、サイラスはレイナとどんな関係なの?ただの傭兵とかじゃないわよね。身なりも良いし」

「サイラスは、レイナの乳母兄妹、というものです。伝統的に小人族の王族は、人間の乳母を雇い、人の母乳を頂いて成長するのです。その方が強く育つという、お呪いみたいなものですね」

「へぇ……ということは、家族みたいに仲が良いのね。なんか良いな、そういうのって」

 兄妹同然のラルフはいても、願衣は一人っ子だ。親以外の家族というものには、やはり憧れがある。

 そもそも、実は巫女の家系は子どもを一人しか作らない。神楽が一子相伝という決まりになっているため、第二子以降が悲しい思いをしないためとも、一人の子どもを大事に大事に育て上げるためとも言われているのだが、当事者にしてみれば寂しいことだ。

「ちなみにサイラスは、弓を使うんですよ。レイナは魔法が得意ですし、悪魔と戦うことになった時の後衛は、どうかレイナ達に任せて下さい」

「そうなんだ。ラルフだけじゃなく、私も前で戦えるから丁度良いわね。ぱっと見ではわからないけど、この服の中に色々と武器を隠しているのよ」

「わあ、格好良いです!願衣さんの服、独特ですごく奇麗ですよね。こう……ばふぁー!って感じで」

「……ばふぁー?」

「はい!ばふぁー!」

「そ、袖のこと、かな。袴……えっと、スカートみたいな部分もひらひらしてるよね」

「そうです。その辺りがばふぁー!です。踊る時に踏まれたりはしないんですか?そのばふぁー!」

「ばふぁーって名前じゃないんだけど……。まあ、小さい頃からずっと練習して来たから、さすがに今はもうそんなドジ踏まないわね。丁度良いぐらいの大きさで足を動かしていれば、ちゃんと邪魔にならないように踊りの型は決められているし」

 願衣がレイナのペースに押し負けるどころか、完全にその世界に飲み込まれて行っている。

 わがままで、他人を振り回すことはしても、逆はありえないと思われていた願衣が、レイナの不思議なネーミングも受け入れざるを得ない状況にまで追い込まれていた。

 いよいよ願衣の天敵の登場をラルフも、願衣自身も認め、サイラスはそれを悼むような、何ともいえない表情を見せ、ただレイナ当人だけが自分の好きなようにワールドを広げ続けて行く。

「ところで願衣さん。お話したくないことでしたら、無理にとは言わないのですがお訊きしたいことが」

「何?どうしたの。改まって」

「願衣さんって、純血の人ではありませんよね。レイナが思うに、悪魔の血が混じっているかと」

「……すごいわね。私の出生を知らないと、絶対にわからないことと思ってたのに」

 冷や汗が流れる、というほどではないが、少なくとも血の気は引く。

「レイナのような魔法を扱う者は、人の気というものに敏感ですので、よくわかりました。願衣さんはすごく清くて美しい気配を持っていますが、同時に呪いのような魔の気配も感じられました。……呪いに苦しんでいるという訳ではありませんよね?」

「うーん、苦しんではないけど、ちょっと嫌かな。吸血鬼の親父を持ったせいで、月を見ると人の血を吸わないといけない体なのよ」

 もちろん、声は潜めている。もし悪魔の血を持っているなどと知られれば、理解のない人間に蔑まれるのが落ちだろう。

 しかし、レイナは差別の対象とまでは行かないが、奇異の目で見られる小人族だ。

 恐ろしく天然でも、気遣いは出来るようだし、信用して願衣は話した。それに、旅を共にするならいつか話さなければならない。

「わあ、格好良いですね!もしかして、レイナも血を吸ってもらえたりしちゃいますか?」

「か、かっこいい?一応、血は悪魔じゃなかったら良いと思うけど、結構な量をもらうことになるし、レイナは難しいと思うわ」

 そう言われると、露骨にレイナはしゅんとする。

 そこまで願衣に血を吸われたかったのだろうか。興味本位にしても、相当変わっているとしか言えない。

「ねぇ、そんなややこしい体なんだけど、本当に良いの?」

「はい!むしろ、願衣さんの色々なお話を聞いて、もっと願衣さんのことが好きになりました。第一印象の通り、とっても優しくて思いやりがあって、可愛らしい方です。是非、一緒に旅をしてもっと願衣さんのことをよく知りたいと思います」

「本当、レイナって変わり者ね……。王族ってやっぱり、どこか庶民とずれたセンスを持ってるのかしら」

 その言葉には、サイラスも無言で首を縦に振る。今まで、相当の苦労があったのだろうか。

「それと、私達は最終的に親父の城まで行くんだけどね。間違いなく危ないだろうし、レイナ達は適当なところで別れて」

「お父様に会いに行かれるだけなのに、危険なんですか?」

「向こうは歓迎していないだろうし、レイナは完全な部外者だもの。相手は私の親でも、基本的には人と敵対している悪魔なんだから、何をするかわからないわ」

「そうですか……。わかりました。では、そのお城の手前まで一緒に行かせてもらいます。それからは解散、ですね」

「ぎりぎりまで一緒にいるの?……もう、なんでこんなに懐かれちゃったのかしら」

 苦笑しながらも、願衣の顔は満更でもなさそうだ。

 実際の年齢ではレイナが上だが、見た目と精神年齢では願衣の方がお姉さんのように見える。

 自分より小さな女の子に懐かれるという、村でもあまりなかった経験が何だかくすぐったくて、迷惑には全く思わなかった。

「では、願衣さん。改めて旅のお仲間にして頂いた証として、お胸を触らせてもらっても良いですか?」

「……意地でも触りたいのね」

 少しは、迷惑かもしれない。

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 予測不可能なことが起きるのもまた、旅の醍醐味ということだろうか。

 二人も新たな旅仲間を加え、一行は更に騒がしくなった。

 男性陣はどちらも寡黙な方だが、女性陣が二人してお喋り好きで、押され気味だった願衣もレイナのふんわり不思議な世界観に慣れたのか、本当の姉妹のように楽しげに話し続けている。現在進行形で。

 結局、この街でもう一泊することになり、どうせなら、とレイナ達は宿を願衣と同じものに変えた。

 今夜はこれから宿に戻り、一度願衣が神楽を披露することになっている。

 吸血はいつも通り、ラルフの血を使ったが、レイナがどうしてもと言うので初めて人前で吸血する姿を見せた。かなり恥ずかしいことだが、すっかり妹ポジションに収まっているレイナの頼みとなれば、むげに断ることも出来ない。

 そして、レイナはそのことでなぜか盛り上がっていて、今も話題は主にそのことだ。

「もしよければ明日は、ちょっとだけレイナの血を飲んでもらっても良いですか?で、残りの不足分はラルフさんのもので補うということで」

「どれだけ血を吸われたいのよ……。吸血している時の私は、自分でも抑えが利かないところがあるから無理よ。あらかじめ血を抜いておいてくれるなら別だけど」

「麻酔なしで、自分の体を傷付けて血を流させる訳ですか……。そ、それはさすがに出来ませんね」

 レイナのこの吸血に関する執着心は、単純に物珍しさから来ているのだろうか。吸血の瞬間は痛くないと説明しているとはいえ、自らそれを志願するとは。

「何事にも興味津々なのは良いけど、私としては折角なんだから神楽を見てもらいたいわ。きっと他では絶対に見たことのない踊りだし、気に入ってくれると思うから」

「そうですね!ばふぁー!がどう踊りに活かされるか楽しみです!」

「……ば、ばふぁー」

 この半日でレイナのたまにする不可解な言動にも慣れたものの、このばふぁー!に対する耐性を作り上げることは、願衣には不可能なことだった。

 巫女の装束の袖や袴にはふんだんに布地が使われていて、それを表現する上で確かにこの擬音は適しているかもしれない。

 だが、原因不明の笑いが込み上げて来て、どうしても耐えられない。しかもレイナは無邪気にその言葉を連呼するのだから、腹筋が壊れないか心配だ。

「ばふぁー……」

「はい、ばふぁー!です!」

「ちょっ、も、もうやめてっ。このままじゃ笑い死んじゃう……。というか、こんな公衆の面前で馬鹿笑いしそうっ……」

 見事にツボに入り、必死に笑い声を押し殺している願衣も見ても、いまいちレイナは意味がわかっていない。

 本人は大真面目で言っているのだから、笑いどころがあるかどうかすらわからないのだろう。

「と、とりあえず、宿帰ろっ。私のお腹がよじれる前に!」

 レイナの腕を掴んで走り出し、強引に会話を終わらせる。

 宿に着くと、昨晩踊ったのと同じ場所に願衣は立ち、準備運動がてらに神楽とは別の簡単な踊りを始めた。

 神楽の動きを踏襲しているが、本来の型とはかけ離れた創作ダンスだ。

 ベースはゆっくりとした神楽独特のものながら、自作したパートは頻繁に跳躍や一本足立ちからの回転など、袖を激しく振り乱す動きがある。

 神聖な神楽とはまた違う、もっと大衆向けの俗っぽさを意識したもので、酒の肴に見るのに適しているかもしれない。

「……よし。じゃあ、本番行くわね」

「今ので肩慣らしなんて……願衣さんって、本当に踊りがお上手なんですね!」

「あはは、まあ、生まれてからずっとしてるからね」

 最後に一つ大きな呼吸をして、最初のステップを踏み出す。足を大きくは上げない静かな足の運びは、袴の紅を小さくはためかせる。

 続く腕の動きは風を起こし、それに白い袖を舞わせた。

 伴奏も歌もない神楽を踊る間、聞こえるのは衣擦れの音のみ。

 世界が止まったような静けさ。その中でただ、紅と白の舞が空気を、心を、時を震わせる。

 全ての踊りが終わり、ぴたりと願衣が静止した時、世界の静寂は打ち破られた。

 昨晩よりずっと大きな拍手が鳴り響き、宿屋の中の時は再び動き出したようだ。

「これが、神楽…………」

 レイナも言葉を失い、サイラスもまた、どこか呆けたような顔をしていて、感慨にひたっているのがわかる。

 もちろん、もう何百回と願衣の踊りを見るラルフにも感動はあり、凛とした表情で踊る願衣には毎回心を惹かれてしまう。

「満足してもらえたかしら」

「は、はいっ!とってもすてきで……えっ、と。奇麗で、色っぽくて……」

「無理して言葉にしなくても良いわよ。お母さんの神楽を見ると、私もなんてコメントして良いのかわからないから。

 でも、間違いなく大きな感動があるのよね。言葉に出来ない、言葉が見つからない。だけどすごく良い……。きっと、この神楽というものは人が言葉を作る前から、踊られていたものなんじゃないのかな、って思うの。そして、まだこの神楽を言い表すには、言葉が足りていない……。そんな気がする」

 だからこそ、願衣は自分が巫女であることを誇りに思っている。神楽が大好きで、その練習を苦に思ったことは一度もない。

 この一子相伝の踊りを絶やさず、永遠に未来へと受け継いで行く。ただそれだけが願いだった。

「はい……。――実際に踊ってる訳でもないレイナが言うと変ですが、もっと、色んな人に見てもらいたいと思います」

「ありがと。そうね、この旅が終わってもまた、世界中で踊るための旅に出てみても良いかも」

 母親も、決してもう若くはない。願衣がどれだけ望んでも、再び長い旅に出るのは難しいだろう。

 それでも、レイナの言葉には魅力があって、願衣に新たな夢を抱かせるのに十分だ。

「でも、レイナ達を意識して踊ってたら、いつもより疲れちゃったわ。汗びっしょりで、服が肌にくっ付いて気持ち悪いかも」

「そういうことでしたら、是非、汗をふかせて下さい!このレイナに!なんでしたら、お着物も心をこめて洗わせてもらいます!」

「ええ?……洗濯してもらうのはさすがに悪いから遠慮しとくけど、じゃあ背中の汗ぐらいふいてくれる?」

「はい!背中だけとは言わず、前も!」

「……本当に意地でも胸に触れたいのね。部屋は男女で分けてるし、別に良いわよ」

「やったー!遂に念願が叶いました!」

 神楽を見たこと以上に感動している様子のレイナに呆れながら、願衣は部屋に向けて歩き出した。

 その後ろをちょろちょろとレイナはついて行き、そのまま扉の向こうへと消えて行く。

「あんた、今まであの子の世話をして来たなんて、大変だっただろうなぁ……」

「はい……。僕の言葉はまるで聞いてくれませんし。……そう思うと、願衣さんに出会えたことは幸運でした」

 ラルフも、願衣との旅は気苦労が絶えないものと思っていた。

 しかし、レイナというそれ以上に扱いの大変そうな人物に会ってしまうと、そんな気持ちも薄れる。

 となると、乳母兄妹として長年傍にいたサイラスの心配をしたくなって来るものだ。

「そういや、あんたも見た目若いよなぁ。あの子と同い年ってことは、二十五だっけ」

「はい。そんなに若く見えますか?」

「あぁ。おれと同じぐらいに思える」

「そうですか。ずっと若いままの小人族の方々と一緒にいたから、自分の容姿が若く見えるなんて、考えたこともありませんでした。童顔は父や母もそうでしたから、遺伝でしょうね」

 小人族が皆レイナのように人間でいう十歳ほどの見た目で成長が止まるのなら、二十にも満たないように見えるサイラスでも、大人の印象を受けるだろう。

 人間が彼等の国に入ることは滅多に出来ないため、その様子が伝わることはないが、子どもしかいないように見える国に行ければ、面白そうではある。

「小人族か……。もうおれ達、普通の旅人には出来ない経験を結構してるなぁ」

 高等な悪魔である人狼の撃退、夜狼の毛皮で大儲け、そして小人の姫との出会い、なぜか懐かれる願衣。

 この非日常の連続も、巫女でしかも吸血鬼の血を持つ願衣がいるからこそなのだろうか。

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 翌日。にわかに騒がしくなった旅路。

 朝から雲が立ち込め、強い雨が昼まで続いたので、出発は午後まで延びた。

 あちこちに水たまりが残り、足元が不安定ながらも、さすが旅慣れているだけあってかレイナは、にこにこと笑顔で願衣と並んで歩く。

 驚くべきはその持久力で、華奢でひ弱そうな外見からは想像も出来ないほど体力がある。

 自分から休憩を求めることはなく、歩く速度が落ちることもない。

 こんなところを見せ付けられてしまっては、子ども扱いする訳にも行かないだろう。しばらくの間はまともな補給を出来る町もないため、この意外な逞しさは嬉しい。

 また、ラルフにとってはもう一つ、喜ぶべきことがあった。

「願衣さん。よろしければ、レイナと一緒に寝てくれませんか?」

 今まで願衣は、相変わらずラルフの腕枕で眠っていた。下手をすると敷布団にされるのも同じで、それで何度も夜中目が覚めたこともある。

 悪魔や凶暴な野生動物が近寄って来ないか見張るのには役立つかもしれないが、それではラルフの身が持たない。

 願衣も快諾したことだし、とりあえずラルフの安眠は守られたことになる。……と、その時は誰もが思っていた。

「えへへ。抱き付いちゃっても良いですか?」

「ええ。その方が温かいしね」

 二枚の毛布を組み合わせて、その中で少女二人が体を密着させる。願衣の体が肉感的でどこもかしこもふわふわなのは見た目にわかるが、幼い少女の体を持つレイナも、触感の優しさでは負けていない。

 恥ずかしさも、遠慮もあまりなく、好きなように体を絡み合わせる。男子禁制の乙女の園、といったところだろうか。

「願衣さんの体、あったかくてふわふわで、どんな布団より気持ち良いです……」

「もう、何言ってるのよ。レイナの方が気持ち良くてぬくぬくよ」

 和気あいあいとしたじゃれ合いを横目に、男はかなり距離を取って寝そべる。

 いつもは願衣と一緒に寝ているラルフでも、女子二人が固まっているとなると近寄りづらい。二人旅の間はレイナと付かず離れずの距離で寝ていたサイラスも同様だ。

 特に会話もなく、そのまま眠りに就く。一方、願衣達はそれからも喋り続けた。

「願衣さんの髪は、黒くて長くて、奇麗ですねー。神楽を踊っている時も、ずっと素敵だと思ってました」

「ありがと。私も、お母さんの髪が羨ましくてここまで伸ばしたの。レイナの髪の色も奇麗で、手入れもちゃんとしてそうね」

「はい!髪は女の命ですから。でも、あんまり伸ばすと大変なので、腰に付くぐらいまでは伸ばせないんですよ。でも、願衣さんはそんなに長くて手入れもちゃんと出来てて、すごいです」

「これも、神楽と同じで慣れのものかしらね。十歳ぐらいの時に伸ばし出して、今が十八だから……もう何年続けて来たかわからないわ」

 旅の身でも、願衣は髪の手入れを決して怠っていない。毎晩どんなに面倒でも洗い、きちんと乾かして、櫛を入れてから眠るようにしている。

 レイナも世間的に見れば長い髪を持つが、願衣ほど髪の手入れへの覚悟はないようだ。

「本当、願衣さんは女性として憧れることばっかりで、一緒に旅が出来るのがたまらなく嬉しいです。本当はレイナの方がお姉さんなのに、女性らしさでも立派さでも負けちゃってますね」

「そんなことないわよ。レイナは私よりずっと立ち居振る舞いが女の子らしいし、ちょっと抜けてたりするところも、男から見ればきっと魅力よ。見た目もすごく可愛いんだから」

「うーん……ですけど、レイナの旅の目的は王族としての貫禄を身に付けることでもありますし、出来ればもっとこう、頼りがいとか、芯の強さを身に付けたいんです。お父様もお母様も、見た目はレイナと変わりませんけど、本当にすごい方なんだ、っていうオーラを持っているんですよ」

 常にぽややんと天然なレイナが、今は真剣な顔つきで悩んでいる様子だった。

 小人族の寿命は、人間のそれとほとんど変わらず、わずかに長寿なだけだという。

 二十五歳ということは、親も相応に年を取っている訳で、今すぐに亡くなる訳ではなくても、そろそろ王位を継いでいても悪くない時期だろう。

 レイナも焦っているのかもしれない。だから強引に女らしい、大人っぽいと思った願衣について来たのだろうか。

 しかし、願衣もまた今の自分が他の誰かに頼られるような人物とは思っていないし、少しも自立出来ている気はしなかった。

「そう。私がレイナと一緒にいられるのはそう長い期間じゃないかもしれないけど、あなたにとっても、私にとっても、成長出来るような時間に出来れば良いわね」

「はい。改めて、お願いしますね。お姉様っ」

「お、おねっ!?」

「そう呼ばせてもらっても良いですか?なんだか、願衣さんと呼ぶのも他人行儀な気がしますし」

「え、えーと、レイナは王族らしい立派な人になりたいのよね?なのに、年下の私を姉呼ばわりっていうのは、不味いんじゃ……」

「いえいえ。お姉様はレイナの師匠なのですから、お姉様なんです」

「は、はあ。断ることはしないけど、ちょっとくすぐったいわね……それ」

 勝手に師匠にされてしまったらしい。

 可愛らしく、本当に妹っぽいレイナに言われるのだから、悪い気はしないが……本当にこれで良いのだろうか。

 そのまま願衣はお姉様と呼ばれ続け、違和感がなくなった頃には二人とも夢の中だった。

 

 この日、不思議なことに願衣は見たこともない小人族の国を夢に見た。いや、夢というには生々し過ぎて、現実と錯覚したほどだ。

 気が付くと、願衣は城の一室にいる。

 城だとわかったのは、あまりに部屋の作りが豪華で、同時に洗練されていて、なんとも落ち着いた空間だったからだ。

 部屋の中には他に誰もいなくて、様々な意匠を施された異国の調度品達が目を惹く。

 しっかりとした作りの機能的な椅子に座り、本棚から適当に抜き取った本を読んでしばらくすると、唐突に扉が開いた。

 現れたのは年端も行かない少年執事。あるいは奴隷かもしれない。

 彼に導かれるままに部屋を出て少し歩くと、大きな食堂が見えて、思わず圧倒されてしまう。

 やはり子どもの給仕が控えていて、晩餐を共にする相手も、少年と少女。ただ、この二人は他の子どもたちとは明らかに雰囲気が違った。

 身なりも良いが、それは他の使用人達も粗末な服を着ている訳ではない。何よりの違いは、その威風堂々とした佇まいだ。

 何かものを言うでなく、過剰に偉ぶることもしない。ただ、そこにいるだけで庶民との格の違いを感じさせる。

 そこに彼等がいる。それだけでこの空間の印象は変わり、全てがありがたく見えた。

 これが、レイナの言っていた両親のオーラ、貫禄というものだと、魂の震えでわかる。

 この感情は、祈里の神楽を見た時に感じるそれと全く同じかもしれない。そして、まともに見たことのない父親も、こんな雰囲気を持っていたのだと、なんとなく予想が出来てしまう。

 恐らくこれは、子どもが親に対して感じる尊敬と、同時にある畏怖。真の王というものは、全ての見る人間にその感情を与えるのだろう。

 夢のためか、味のはっきりとしないごちそうを食べるだけの夢なのに、願衣はなぜだか満たされていた。

 そして、朝の訪れと共に夢から覚めると、不思議ともったいない気がした。

 

「……ごめんなさい。変なものを見せてしまって」

 願衣が初めて味わった魔法の片鱗は、お喋りなのに、肝心なところで少しシャイな少女の心だった。

-5ページ-

 一週間半という、今まで願衣とラルフが経験したこともない長い間の移動。ふかふかの布団が恋しくなった願衣は、またもやラルフを布団にするという行動に出た。

 しかも、今度はレイナという自称義妹も加わっており、ラルフは美少女二人に踏み潰されるという、もはや喜びの欠片も感じられない事態に直面。真剣に生命の危機に晒されることとなり、あの世を何回見たか知れない。

「あ、おはようラルフ」

「おはようございます。ラルフさん」

「あぁ。おはよう……」

 幼馴染と他種族の姫君が気持ち良さそうに眠っているとなると、文句を言う訳にも行かず、ラルフはただ耐え忍ぶだけだ。

 唯一の同性であるサイラスが同情してくれるが、願衣に遠慮があるのでそちらが被害に遭うことはなく、寝る位置を交代するという策を試しても、なぜか願衣達は奇麗にサイラスを回避し、ラルフを布団にする。

 そうしている内にラルフも完全に諦め、名誉ある巫女と姫の布団という役目の全うを決意した。

 ――願衣が旅に出てから半月経った今日、辿り着いた町は最北端の町とされている。

 もちろん、もう大陸の端に来てしまったのではなく、この町の先にある山を越えた向こうは一般に北の大地と呼ばれ、冬は極寒の豪雪地帯だからだ。

 登山を控えているのだから、この町での補給は念入りにして、しっかりと英気も養っておかないといけない。

 レイナ達も登山の経験はほとんどなく、生半可な覚悟では乗り越えることも、中途で後戻りすることも難しいだろう。

 唯一の救いは、今が春や秋、ましてや冬でないことだ。山の標高が高くなると気温は下がり、体力を奪われやすくなる。逆に夏ならば、きちんと上着さえ用意していれば平地より過ごしやすいぐらいになる。

 とまあ、この辺りの知識は全て今夜泊まる宿で得たものだ。

 お喋り好きで積極的、しかも容姿端麗な女性二人は、簡単に他の旅人や町の住人と仲良くなれる。しかも、願衣には神楽という最強のコミュニティツールまであるのだから、人付き合いの上で苦労はない。

 練習と体力の消費を兼ねて人目に付くところで踊れば、それだけで魅了されるファンが出来てしまう。普通の踊り子のように蠱惑的なダンスではないから、怪しげな雰囲気にならないのも良い。素直に感動させるだけだ。

「……本当に、お姉様の神楽は今まで見たことのない最高のダンスだと思います」

 そして、レイナもまた魅せられた者の一人。

 願衣が踊り終えると、一番に駆け寄って笑顔を振りまいた。

「ありがと。あなたにそんな幸せそうな顔をしてもらえると、もっと頑張れそうな気がするわ」

「レイナに踊りについて何かアドバイスすることは出来ませんが、一人のファンとして、めいっぱい応援させてもらいますね」

 旅を共にするようになってから、レイナはいつも、と言っても良いほど願衣の傍ばかりにいる。

 その様子を見ながらラルフは、幼馴染に同性の友人が出来たことを素直に喜びながら、寂しい感じもしていた。

 ある意味でこれは、やきもちなのかもしれない。お互いに恋愛の対象ではないのだから、友達としての、だ。

 異性であるラルフよりも付き合いやすいのだろう。願衣は驚くほどの早さでレイナに気を許して行っている。既にラルフと同じぐらいレイナのことを受け入れ、逆に最近はラルフと話す機会は半減していた。

 決して人見知りをしない願衣だが、本当の親友といえる相手は、今までラルフだけだった。それをよく知っているからこそ、嫉妬をしてしまうのだろう。

「何考えてるんだろうなぁ、おれ」

 大人げない。男の嫉妬は見苦しい。そんなに大事なら自分から話しに行け。

 色々な反論が自分の中から聞こえて来て、ラルフは大きく首を振ってそれ等をかき消した。

 結局のところ、全ては願衣次第だ。

 願衣が望むのであればラルフは傍にいるし、願衣が望むのであればラルフは陰から見守るだけの存在にもなる。

 ラルフにとっての願衣とは、心身の護衛の対象であって、庇護する対象ではない。金で雇われた用心棒ではなく、自分の意思で守ることを決めたのだから。

 そう思いながら、ラルフは幼馴染であり親友の姿を遠くから見ていた。

 気が長いとよく言われるだけあり、本当にラルフは辛抱強いし、どんなことだって我慢出来る。待ち続けることに苦痛はない。

 誰もが。本人までも、そうだと信じていた。

 しかし、十八歳の青年の心は、二十五歳の成熟したそれよりもずっと繊細で、微妙で、揺らぎやすい。

 この山越えの段になって、それに気付くのだった。

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 登山の支度とは、具体的には寒さに備えての上着、出来るだけ軽く栄養価の高い食糧の確保だ。

 他にも杖などがあれば良いかもしれないが、悪魔の血を持つ願衣には無用だし、レイナにも必要はない。男性二人も同様で、武器を携行する以上、荷物をそれ以上増やしたくない。

 空も明るく、当面は雨も降らないと思われる。願衣とラルフにとっては初となる登山が始まった。

 順当に行けば二日で山は越えられる。平地に下りれば、一日もかからない距離にやはり町があり、骨を休めることが出来る。

 しかも、北の大地は各地で温泉が湧いており、その町もまた例外ではないという。

 温かいお湯が溢れ出している温泉というものは、主として南を旅していたレイナ達も見たことのないものだ。

 恐ろしく疲れるであろう登山も、その後にご褒美があると思えば頑張れる。

 美容にも良いらしい温泉に想いを馳せながら女性陣が先に歩き出し、それに男二人が追従するという形で町を出発した。

 といっても、これは特別なパターンではなく、いつも通りのことで、ラルフはただ願衣の後ろ姿を追い続ける。

 すぐ近くにある、手を伸ばせば届く距離にある背中。

 飽きるほど見て来たそれが、今では酷く遠いものに。そして、憧れるもののように見えた。

 いよいよ山に差し掛かっても、それほど速度に影響は出なくて、順調に坂を歩んで行く。

 願衣が神楽で足腰を鍛えられているのは当然だし、他の三人も山道ぐらいなんとかなるほどには鍛えられている。

 疑問が湧くのはレイナだが、どうやら小人族は見た目が人間の子どものようでも、体の内部の構造は大きく違い、華奢に見えても筋肉は付けようと思えば付くものらしい。

 つまり、同じ小人族から見れば、レイナが一年の旅路でかなり鍛えられていることがわかるようだ。

「……でも、本当に結構肌寒いのね。これだけ汗流して熱いはずなのに、気温が低いのがはっきりとわかるもの」

「そうですねー。冬がほとんどない地域で育っただけに、レイナはもう限界ですよ」

 小さく笑いながら言うと、サイラスから上着を受け取り、それを羽織る。

 レイナの防寒具は、自前のかなりしっかりとしたローブだ。色は白で、なんとなく高級感が漂う。実際に高価なものなのだろう。

 男性二人はコートで、直前に町で買ったもの。そして、願衣はなんと上着ではなく、内に着込むことになった。

 理由は簡単で、そうしないと神楽を踊っても効果がないからだ。

 もし踊る必要があれば、上着を脱いでしまえば良いかもしれないが、瞬発力を上着によって奪われるのを願衣は嫌った。

 そこで、下着の上に寝巻用だった半袖の服を着て、その上にセーターを重ね、そこでやっと巫女装束を着ることになり、既に着替えは済ませてある。

 セーターといっても、袖のないものだし、服は半袖。胴体はこんもりと服で膨れてしまうが腕の動きは制限されず、これでも十分に踊ることは出来る。装束もかなりゆったりとした作りなので、きちんと着ることが出来た。

「お姉様。思うんですけど、今までは幸運にも悪魔とも、賊とも戦わずに済んでいますよね」

「ええ、そうね。積極的に悪魔と戦いに行く必要はなかったし、レイナみたいな子がいるとはいえ、四人組ともなれば賊もあまり来ないんだと思う」

「そうです。ですから、その……あんまりレイナの魔法って、お見せ出来てませんよね」

「まあ、そうなるわね」

「うーん……それだと、ちょっと悲しいです」

 レイナは急に悲しそうな顔をして、語調も弱々しいものになった。

 今まで旅をして来てわかったことだが、レイナは基本的に喜怒哀楽がはっきりとしている。

 中でも、にこにこ笑顔から悲しみの表情になる時が一番わかりやすい。

「……悲しい?」

「はい。だって、北の地に辿り着くということは、レイナとお姉様の旅の終わりが近い、ということです。お姉様には素晴らしい神楽を毎晩見せてもらっていますが、レイナはまるで良いところを見せられていませんし」

「そんなこと、あんまり気にしなくても良いと思うけど」

「いいえ。レイナ的には由々しき問題ですよー。こうなったら、最後までお供させてもらいたいぐらいです」

「そ、それはさすがに無理かな」

「ですよね……」

 肩を落とすレイナには気の毒だが、今のところ願衣にレイナやサイラスと最後まで共にいるという選択肢はない。

 願衣は本気で父親に喧嘩を売りに行く。話し合いをするつもりはなく、ただ実力行使で倒して連れ帰り、母に謝罪させて、村から出ることを禁止する。

 強引で、単純。それが願衣の最終目的で、それには危険が付きまとう。

 仲良くなったからこそ、部外者であるレイナ達を巻き込みたくはなかった。

「まあ、この山を越えたからって、目的地まで一直線じゃないわよ。色々と観光して回りたいし、そうなればお金も欲しくなる。悪魔退治になると思うから、その時に力を見せてもらうわ」

「は、はい!レイナに全てお任せ下さい!」

 レイナ一人が落ち込んでいただけで、どんよりと沈んでいた空気が、一気に明るくなって行く。

 この一行のムードメーカーが誰なのか、一目見てわかる瞬間だ。

 無邪気で、純粋で、同時に健気で一生懸命なレイナは、子どもの美徳というものを全て集めた存在のように思える。

 本当は年上だというのに、まるで幼少期の自分を見ているようで、だからこそこんなにも心を癒されると同時に、時の流れを感じてしまうのだろうか。

「不思議な子よね、本当」

 

 山頂にほど近いところで夜を迎え、いつも通りにラルフの血を吸う。相変わらず、レイナはその様子を羨ましそうに見つめていて、どうしようもなくそれが恥ずかしい。

 気を紛らわせるように野営の準備をして、普通の食事も済ませて神楽を踊ろうとすると、毛が逆立つような感覚が走った。

「悪魔、ですね」

 魔法を使う者は、気配を察知する力に優れているという話だったか。レイナも悪魔の接近に気付き、身構える。

「数は一、二……五ってところかしら。こんな山奥まで、ご苦労なことね」

「山に住む悪魔なんだろうな……。願衣、とりあえず神楽を頼む」

「ええ。初めからそうするつもりだったもの」

 ラルフに前を任せて、火のすぐ傍で神楽を舞い始める。防寒の服装でもキレが鈍ることはなく、悠然と、しかし毅然と美しく踏むステップと腕の振りつけが、悪魔の力を奪って行く。

「やっと、レイナの出番が出来ましたね。お姉様、ラルフさん、ちゃんと見てて下さいね!」

 嬉しそうに振り上げられたレイナの腕が振り下ろされると、周囲が突然淡い緑色の光に包まれ、夜だというのに昼間のような視界が確保された。ただ、景色全てが光と同じ色に染まっているので、まるで夢の世界の出来事のように思えてしまう。

「レイナの魔法は、光と幻想の力です。物理的な破壊力の高いものはそんなにありませんが、灯りの確保と惑わすことにおいては超一流ですよ!」

 当然ながら緑の閃光は悪魔の姿も映し出し、はっきりとその姿が確認出来るようになった。このような地域に住むためか、鷲のような猛禽の姿をした悪魔だ。ただしその足は大型の四足獣のそれが二本だけあり、山岳を自由自在に走り回るだけの機動力を持っていることだろう。

 大きさは二メートルほどとかなり大型だが、それが弱点ともなっている。神楽のために力を奪われ、羽ばたいても自分の体を浮かすことはできないようだ。

「飛べない鳥なんて、ただのカモだな」

 先頭の一体へとラルフが斬りかかる。冴えきった刃は過たずに悪魔を捉え、一振りでその体を二分した。

 それに続くのは、正確無比に目を狙うサイラスの射撃だ。その得物はただの弓ではなく、大型のクロスボウ。射程、威力に優れる分、命中精度に劣るとされる武器だが、サイラスは見事にそれを使いこなしている。

 初弾で視界を潰されると同時に大きく頭を揺さぶられ、続く次弾で急所を射抜かれれば、人よりずっと生命力溢れる悪魔といえど、一たまりもない。

 あっという間に二体が駆逐され、三体目もラルフの剣が素早く首を切り落とし、撃退。飛ぶ力を奪われた鳥の悪魔は本当に良い的になるだけで、四体目もサイラスの矢に射抜かれて、残りは一体だけになる。

「では、最後はこのレイナが決めさせてもらいますね!」

 鮮烈な光が突き出された手から放たれ、それは空中を走り抜けるように悪魔の向かうと、一気に爆散し、再び光が周囲を包む。その光が消えた時、悪魔は一枚の羽すら残さず、完全に消滅していた。

「発動までに時間はかかりますが、低級な悪魔は絶対にこれで倒せます。でも夜に使うには、ちょっと眩し過ぎましたね」

 最初から最後まで活躍出来たからか、レイナは上機嫌で、願衣に駆け寄って来た。

 それを受け止め、しかしすぐに軽く押し戻して、願衣は後ろを振り返った。

「ごめんねレイナ。最後はやっぱり私になっちゃうわ」

 左手を思い切り振り被り、袖に隠されたその武器を取り出す。

 銀色に輝く鎖は夜の闇を切り裂きながら、先端に付いた分銅で敵の頭を叩いてその動きを鈍らせる。手元に引き戻してからのもう一撃で頭は完全に吹き飛ばされ、その鎖は奇麗に願衣の腕に絡め取られた。

「遠くにいたから、数え間違ったみたい。今ので本当に最後ね」

 腕に巻き付く鎖を巻き取って、再び袖の中に隠し直す。

「お姉様。その武器は……」

「分銅鎖、隠し持ってる武器の内の一つね。まだもう少しあるわよ」

 願衣の着る巫女装束には服として必要以上の布が使われていて、武器を隠し持つのに丁度良いスペースがいくらでもある。そこにいくつも暗器を仕込んだのは願衣がきっと初だろうが、母もちょっとした小物は入れていたようだ。

 もちろん、余計なものを入れる分服は重くなるし、踊るのが大変になるが、そこは人並み以上の力を持つ願衣なら問題ない。多少袖が重かったりしても、なんとかなってしまう。

「ふぁぁ……お姉様、めちゃくちゃ格好良いです!」

「そ、そう?私に一番合ってるスタイルを追求した結果がこれなんだけど。武器も村にやってくる人に教えてもらった遠くの国のものを、知り合いの鍛冶屋に再現してもらっただけだから、そこまで独創的って訳でもないし」

「でも、それを使いこなせるのがすごいですよ」

「あ、あはははは……」

 褒められることは嫌いじゃないが、あんまりにレイナは無邪気に称えてくれるので、こそばゆくなってしまう。

 そして、願衣自身も自分の技がかなり大型の悪魔に対しても通用したことに、満足していた。

 人型の悪魔であれば、短剣を用いた暗殺術の真似事のような速効で勝負を決められるが、巨大な敵に対してあくまで対人を意識して作られた分銅鎖は効果が薄い可能性もあった。一応、保険として頭を狙ったのだが、それもまた功を奏したのだろうか。人であればどこにぶつけても骨を砕くほどのダメージは通ったはずだが。

「親父に会う前のウォーミングアップは完了したって感じね。私の全部をぶつけて、絶対に倒してやるんだから」

 静かな決意表明と共に、山での夜は更けて行った。

-7ページ-

 登山二日目。起きてすぐに軽く食べ物を腹に入れて、一気に山頂まで登る。

 朝の空気に包まれながらの登山は快適なもので、頂から北の地を一望すると、改めて遠くまで来たことの実感が湧いて来た。

 しかし、これでやっと村から出て半月旅をしたことになる。それだけでここまで見える景色が変わるのだから、世界は本当に広大で、多種多様だ。

 土地の高さが違うだけでも、こんなに世界は違って見える。低地にあった大きな町も小石のように見えて、それが当たり前だと頭ではわかっていても、不思議なことに思える。

 こんな山に登ることも、町を遥か高い場所から見下ろすことも、村にいては絶対に出来なかったことだ。村の見張り台の上からでは、大人が子どもに見えるぐらいの変化しかない。

「ここからは下山ね。一気に下りてしまいましょう」

 感動を覚えながらも、願衣の目的はもっと先に進むこと。一しきり休み、景色を楽しんだ後、すぐに山を下り始めた。

 下山は、登ることを思えば労力は必要ないが、万が一足を踏み外せばそのままどこまでも転げ落ちて行きかねたいため、精神を擦り減らす道のりとなる。

 足にかかる負担も大きく、登りに比べて極端に楽という訳でもなかった。

 加えて、障害となって来るのが悪魔の存在だ。

 基本的に夜行性であり、昼間に人を襲うことはまずないと言い切れる悪魔だが、この山岳地帯に住む鷹のような姿をした悪魔はその限りではないらしい。

 山頂近くに住処でもあったのか、下山を始めてから定期的に姿を現し、その度にサイラスの狙撃で撃ち落とされるか、ぎりぎりまで引き付けてから願衣やラルフに切り捨てられているが、途絶える気配すら見えない。

 ここまで執拗に狙って来るということは、昨晩の悪魔の敵討ちとでも言うのだろうか。服は着替えていないので、あの悪魔達の血の臭いが残っているのかもしれない。

 高速で飛びながら嘴や爪を向ける悪魔を避け、すれ違い際に袖口から飛び出した短剣で翼を斬り付け、動きが鈍ったところで必殺の一撃を突き出す。回避をしやすくなるように、服は再び巫女装束一枚になった。

 分銅鎖はこの狭いところでは味方を巻き込みかねないので自重だ。

四足の獣に比べれば、鳥の悪魔の知能はそこまで発達していないのだろう。仲間が易々と退治されるのを目の前で見ても、策を弄すことなくまっすぐに向かって来る。

 何十回と同じことを繰り返して、次第に流れ作業のように武器を振るって行く。命のやりとりをしている意識はあっても、緊張感が抜けてしまうのも半ば仕方がない。

「一気に駆け下りたいところだけど、足場がかなり悪いしな……。レイナ、大丈夫か?」

 長剣を使用している以上、比較的遠くから素早く攻撃を行えるのはラルフだ。自然と悪魔と戦う回数も多くなり、周りをきちんと見ることも出来ない。

「は、はいっ。お姉様とサイラスが……きゃっ!」

 一番狙いやすいと判断したのか、レイナを狙う悪魔の数は多い。今もサイラスに迎撃され、次弾の装填までに襲いかかって来る悪魔は願衣の短剣が捉えた。

 ひっきりなしに連続的に来る訳ではなく、少し下りると次が、また下りると次がと来るのだから、一気にまとめて来られるよりも厄介だ。

「本当、数だけ多くて面倒臭いわね……」

 こちらに狙いを定めて来る前に、鎖を伸ばして遠くの一羽を撃退し、すぐ近くの一羽を斬り捨てる。

 正直な話、武器を隠し持った状態からの奇襲が得意な願衣にとって、多数の悪魔を相手にするような戦闘は向いていない。神楽を踊る時とはまた違った緊張感を保っている訳だし、疲労も溜まって来る。

「お姉様っ、後ろっ!」

「う、うん!」

 正面から悪魔に短剣を突き刺す。純血の人ではちょっと出せないような速度の攻撃で、あまりの風圧に顔面を砕かれた悪魔は遠く吹き飛ばされた。

 刃が短く、かなり軽い短剣でここまでの威力を出せるのだから、ラルフの剣を借りれば全ての悪魔を一人で相手に出来るぐらいの戦闘力が願衣にはある。これで吸血をしていれば、更に倍の力が出せるのだから、自分自身でさえも恐ろしさを感じる。

 これが吸血鬼としての標準値なのか、人間の血と混ざって弱まっているのか、反対に強まっているのか、父の実力を知る者はいないのだからわからない。

 ただ、願衣の自信は確かなものだ。父も本気で倒せると思っている。

「……ったく。あんた達に理性があれば、こんな無意味なことする必要ないのに。わからない?私はあんた達よりずっと優れた魔の血族、ひれ伏してくれても良いのよ?」

 一旦、向かって来る悪魔がいなくなったところで、なんとなくそんなことを言ってみる。

 吸血鬼は悪魔の中でも優れた種族、悪魔の王たる力、カリスマを備えている。父は理性を持つものも、持たないものも、多種多様の悪魔を支配しているという。ならば、と試してみたのだが、人の少女の姿で言っても効果のない言葉らしい。すぐにまた嘴を向けた。

「はぁ……降伏勧告は、素直に受け入れるものよ?」

 結局、悪魔が諦めたのか、もう全て倒してしまったのか、攻撃が止んだのは夕方近く、ほとんど戦闘に時間を喰われてしまい、まだ中頃までしか下りられていない。

 予定は総崩れだが、他の旅人のための道を切り開いたと思えば、まだ報われる。それに悪魔といっても、肉は普通に鳥肉同様食べられるらしい。食糧にも不自由しないので、悪いことばかりではなかった。

「こういうのを見てると、普通の動物と悪魔の違いって、よくわからないよなぁ」

 一羽の悪魔をさばき、ラルフが呟く。

「確かに、悪魔と動物の明確な線引きがされている訳ではありませんね。ただ、人に対して非常に強い攻撃性を持つ、という点でのみ人外は悪魔と分類されています」

 生真面目に答えたのはサイラス。普段はあまり喋らないのだが、実は学者の家系で、特に悪魔については詳しいのだとレイナから聞いている。

 と言っても、それは主に理性を持たない動物型の悪魔の話。吸血鬼や人狼については専門分野外ということだ。

「そうなると、普通の狼なんかも悪魔にならないか?」

「はい。その辺りの猛獣が非常に難しいところです。実際、現在悪魔と呼ばれている獣の中にも普通の動物はいるかもしれませんし、その逆もありえるかもしれません」

「……そもそも、悪魔と動物って、分けるべきものなの?」

 気になったので、そんな質問を振ってみると、サイラスは少し首を捻ってから、口を開いた。

「悪魔と我々を含めた動物は、そもそも発生からして違うと見られています。我々が古代から進化を遂げて来た固有種とするならば、彼等は急に生態系に姿を現した外来種。湧いて出て来たような存在なのですよ」

「そんなの、ありえるの?まるで違う世界からやって来たみたいに現れた、ってことでしょ?」

「今現在存在している、人や獣といった生物は、虫のような下等生物から進化した姿とされています。今日となってはそれを実証出来ませんが、大昔の記録上そうなっています。……しかし、我々が悪魔と区分する生物は、下等生物の段階から一足飛びに今の姿になったと理解するしか、考えようがありません。姿はよく似ていても、完全に別個の種なのです」

 だから、人によく似た容姿の吸血鬼の力が人のそれよりずっと強いのだろう。

 そう考えれば、悪魔という種は既存の生き物より優れていて、人と敵対するのは古い種に成り替わろうとしているのかもしれない、とも言える。

 学者達はとっくにその考えに行き着き、今も様々な議論を交わしているのだろうか。

 サイラスも悪魔の発生については、突然変異という説の他にはオカルティックな学説しか知らないという。

「神の裁きのために遣わされた、人類の抹殺者だとか、何者かが禁忌の魔法で生んだものが大繁殖した結果だとか……。学者が大真面目にこんなことを言うのですから、いかに悪魔がイレギュラーな存在であるかわかります」

 そんなに不可思議な悪魔が人間との間に子どもを作れたというのは、実はかなり大変な出来事ではないだろうか。

 陽が落ちて、月が姿を見せる。慌ててラルフの血を吸いながら、この「呪い」も見る人が見れば、興味深いものなのだろうか、と何の気なしに思った。

「……で、また来たわね。十二時の方角、三羽。それから二時の方角に二羽」

 昨晩の悪魔もそうだが、鳥の姿をしているからといって鳥目ではないらしい。

「くそっ、まだいたのか」

「灯りの確保は、レイナにお任せ下さい」

 魔法の光が闇を照らし、遠くにはっきりと悪魔の姿を照らし出す。片方はサイラスが狙い撃ちに、もう片方は願衣の分銅鎖で全て落とされ、接近戦にもつれ込む前に決着が付いた。昼間中戦っていれば、自然と戦い方のコツも掴む。たとえ光がなくても、目をつぶっていても対処は出来ていただろう。

 ……いや、さすがにそれは無理か。気配がかなり正確に読める願衣はともかく、ただの人であるサイラスに相手を見ないで撃つなんて芸当は不可能だ。それに、願衣の悪魔の気配を探知する能力も、距離によっては上手く発揮されないこともある。

「もう来ないわよね……。でも見張りが必要かしら」

「それなら、おれがずっと起きてるから、おまえ達はゆっくり休んでくれ」

「え?……でも、昼間の戦いで一番疲れてるのはあんたでしょ。私の方が体力あり余ってるんだから、適任よ」

「おまえはいつも通り、神楽の練習をして、寝てくれれば良い。おれはなんか今日、ずっと気が張ってて眠くないんだ」

「そう……?なら、あんたを信じて任せるけど……」

 なんとなく、ラルフが良いところを見せようとしているのもわかった。そんなことをしなくても、間違いなく今日の功労賞だったのだから、無理をしなくても良いのに。そう思っても、本人がそう言うのなら、立ててあげるのが親友というものかもしれない。

「じゃあ、手早くご飯食べて、さっさと寝ましょ」

 今宵も神楽は舞われ、その終わりと共にラルフを残して三人は眠りに就いた。

説明
初の三人称視点の地の文となるのですが、色々と失敗した感があります
私が苦手っぽいのもありますし、やはりラノベには一人称の方が合うのでしょうか?主人公に密着した視点からの方が、わからないことも多くなり、ドラマチックな展開を作りやすいですし
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吸血巫女の復讐

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