スナックの恋(新八×パンデモニウムさん) |
――私は、餌として生まれた。
バームシェル・パンデモニウム種。
ヒトと呼ばれる生物が使役するために飼っている、雑多な生き物。
それらに、餌として消費されるべく生まれた存在が私だった。
私たちは、家蟲として分類されている。
数千年の単位を遡る時代から、私たちは食料として利用され、飼育されていた。
安定した生産ラインが整備された工場では、各種のパンデモニウム種の雌が産卵用に確保されている。
パンデモニウムは自然状態では本来、雄と雌の一対がつがいとなり、相手を変えることなく生涯を過ごす性質を持つ。
幼虫期を経て蛹となり、成虫に変態すると妖精と呼ばれる姿になる。
栄養状態や環境の条件によって幼虫時の姿で成長を留めることが出来、さらに幼虫期の姿での繁殖も可能である。
模様や体色によって呼び名は変わるが、基本的には一つの種であり、脚の数や体長が違っても、パンデモニウム間での交配が可能である。
どの種も元来、多産卵傾向であり、一回の交尾で数個の卵を産み落とす。
しかし家蟲として飼われ、品種改良が重ねられた過程で、単独生殖が可能だと判明した。
雄と接触させずに雌を飼育し続けると、己の遺伝子だけを受け継ぐ卵を産む。
産卵雌のコピーである無精卵の一度の産卵数は、数十個〜数百個にもなる。
交尾を経て、雄の遺伝子と組み合わせて新たな性質を持つ生き物として創られる有精卵のおよそ数十倍である。
種としての生存戦略だ。
孤立した環境でも、世代を繋ぐための。
結果、現在の生産システムが確立された。
一匹の産卵用の雌の無精卵から、雌のクローンである安定した品質の幼虫を孵化させ、約60日飼育、成長させたのちに出荷される。
産卵用の雌は、卵殻を食い破り出てから干からびるまでのその一生を、柵の中で給餌される飼料と水分を食みながら、雄と交わることなく、独り卵を産み続けて死んでいく。
薄い卵殻から這い出た時、私はすでに、いつか噛み砕かれるための餌だった。
長い間一匹で、世代を繋がず食べられるための卵を産み続けてきた母の顔も、色も、形も見たことはない。
だが、知っている。母は私と同じ顔をし、同じ殻の色を持っていたはずだ。
私は、彼女が一人で産んだ卵から生まれたのだから。
私が一つ幸福だと思ったことは、私の母虫のように、いずれ事切れるまで狭い箱のなかで卵を産み続ける役目を負わずにすんだことだった。
約60日を、おが屑と飼料と湿気に満ちた飼育スペースで過ごし、私は出荷された。
一般的に知られていないが、パンデモニウムには言語を解する知能がある。
気が付かれていないのは、私たちが長く餌として存在しすぎたせいだろう。
きっと、ヒトは知りたくなどないのだ。
ペットに与えるスナック菓子の一つ一つが、噛み砕かれるときに恐怖と苦痛を身体中に満たして意識を途切れさせていくことなどは。
私は出荷された先で、あるヒトの個体に購入され、大きな部屋で取り出されると縄で縛られ、高いところに渡した棒に吊るされた。
周囲には、私達を餌とする獣と、それらを使役するヒトが集まっていた。
どうやら、獣を駆り立て、私達を先に食べさせた組が勝ちとなる遊びらしい。
恐怖で粘液が分泌され、吊るされた身体から床に滴り落ちる。
私はヒトに解されぬ鳴き声をあげて、8本の脚をもがかせたが、縛られた縄を揺らすことさえも難しかった。
生まれた時から自分の躰が餌として存在することは分かっていたが、本能的に恐怖に叫ばずにいられなかった。
私達の種の間違いは、そうと判断されぬ姿の中に、鋭敏な五感と、客観性を獲得するほどの知性と精神を宿してしまったことだろう。
無力に吊るされた私の前に立ったのは、奇怪な飾り物を被っていたが、ヒトの形に酷似した獣だった。
おそらく雄だろう。
主人らしきヒトの雌に私を食べるよう指示されてたが、不思議と拒んでいるようだった。
私達を餌とする雑多な生き物と、ヒトと呼ばれる生き物の住む世界の階層は違うらしい。
そのため、特異な力を持つヒトだけが、パンデモニウムや式神として使役される雑多な生き物の存在する階層と干渉することができる。
大抵のヒトは、私達パンデモニウムを目にすると不快気に眉を顰める。
彼らの感性では、私たちはひどくグロテスクな醜貌として捉えられるようだ。
式神の中には、私達に近い姿の肉塊のような生き物から、ヒトに似た知性の高い生き物まで数多く存在する。
私達の階層の生き物は、パンデモニウムを見ると大抵、食欲をそそられた目付きになる。
どれほどヒトに似た姿のものでも、私達が彼らの餌だという事実は変わらない。
私を屠る役目を負った“彼”は前に立つと、不快さと恐怖を表す表情を見せた。
珍しい。
彼の目に宿るのは食欲ではなかった。
そのおかげで食われる恐怖がほのかに和らいだせいか、興味が湧いた。
彼は式神ではなく、ヒトなのだろうか。
ヒトでありながらヒトに従属し、式神として使役されているのか。
彼は使役する雌のヒトに命じられ、覚悟を決めたように私に向き直った。
私が吊るされていたのは、彼の頭よりも少し高い位置だった。
彼は数度飛び跳ね、私に食らいつこうとした。
その姿に、ふとおかしくなった。
きっと、私に食欲をそそられてはいないにもかかわらず、使役されて頑張って食らいつこうとしている彼が。
餌としての短い生を終えることが恐ろしくはあったが、私の躰を捉えようと必死で頑張る彼の姿に、こんな終わり方も悪くないのではないかと思えたのだ。
私に食らいつこうと飛び跳ねていた彼の口が、回を重ねるごとに私の頭に近づいてくる。
――喰われる。
予感に、怯えと恐怖と、少しの期待があった。
大きく開けられた彼の口の中に並ぶ歯は白く清潔そうで、臼状の奥歯までがよく見えた。
牙といえるほど鋭く尖った歯はなく、私の躰に突き刺さる際に訪れるだろう痛みは想像しにくかった。
彼の足が床を蹴る。
撥ねた勢いで彼の身体が持ち上がり、その額が私の身体にかすめて吊るされている縄が揺れる。
彼の頭と私の体が並び、飛び上がった勢いのまま近づいてきた彼の口が――私の、唇に触れた。
やわらかな音が、後頭部と側頭部に2つずつある耳孔の奥に響いた。
初めての感触だった。
餌を食み、水をすすり、脚先を手入れがてら舐める。
そして脱出を阻む狭い檻と敷き詰められたおが屑の他には、私の唇は触れたことがなかった。
私の過ごした60日の飼育期間に知ることは出来なかったが、何世代も繰り返して母虫から受け継がれた記憶があった。
色あせた古い記憶の中には、正しく自由に生きる私達の生で起こる様々な喜びも埋め込まれていた。
餌として決められた泥の生の中に埋まった、自分のものではない記憶でだけ見る宝石の輝き。
とりわけ鮮やかさを保ってきらめく感情の一つが、恋だった。
たった今、私が初めて感じた柔らかな感触から、鮮やかな記憶の一つの色が瞬く。
飛び跳ねていた彼は床に足を下ろすと、消沈したように俯く。
隣の主人らしき雌がどうしたのかと問う。
「……ファースト、キス。」
彼の呟いた声に、胸郭が震えた。
伝えたい。
訳も分からず、胸が震えた。
緑色の心臓が、腹に等間隔にある気門から吸い込まれる酸素で高鳴る。
「わ、私も……初めて、だった。」
鳴き声でなく、言葉が口からこぼれ出た。
けれど、私達の言語が理解できる種族は少ない。
現在では、ほとんど解されないと言っても過言ではない。
そもそも、餌と意思の疎通を図ろうとする生き物はいない。
しかし、なぜだか彼には私の言葉が伝わったようだった。
彼が顔を上げ、慌てた表情で謝罪を口にする。
「す、すいません、そういうつもりじゃ、なかったんですっ……!」
彼が私に話しかける。
餌ではなく、唇が触れた相手として言葉を向けられる。
「べ、別にっ、気にして、ないから。」
心臓が震えて、胸が潰れそうだった。
つい先程触れた唇の感触が何度も頭の中で繰り返す。
彼が、私を見ていた。
食欲の対象でも商品でもない目で見られるのは初めてで、恐怖ではない感情で鼓動が早くなる。
頬が、唇が、全身が熱くなっていく。
主人の雌が、彼を急かす。
隣の組の式神と主人が追いつく。
立ち止まっていては、試合に負けてしまう。
私は餌で、この遊びの通過点だった。
主人の雌の指示で気を取り戻した彼が、再び床を蹴る。
彼の被り物の先が、私の胸をかすめる。
「ひゃっ……。」
思わず、声が出てしまう。
パンデモニウムは卵生だが、自然状態で産んだ卵が孵れば独り立ちできる状態になるまでつがいの親虫が保護をし面倒をみる。
母虫は、幼虫が自力で固形物を摂取できるようになるまで、胸部にある分泌腺から栄養分を含んだ体液を分泌して幼虫に与え育てる。
分泌孔の周囲は鋭敏な感覚を持ち、触れられると、全身がすくむような感覚が走ってしまう。
特に私は、餌として飼育されたパンデモニウムは、他者に触れられる機会など袋詰にされる時くらいしかなかったものだから。
「っ、すいませんっ!どっか、変なとこに当たりましたっ?」
彼が訊く。
「いや、っ胸に……。」
私の答えに、彼はひどく動揺した。
狼狽えながら謝罪を繰り返す彼の姿に、ますます体温が上がっていく。
私は餌なのに。
「……っ、分かってるから。」
彼に餌として食べられなくてはならない。
どうもがいても、変えようがない。
私は餌として生まれたのだ。
「次は、声、出さないように我慢するからっ。」
彼が戸惑う。
葛藤で揺れながら私を見つめる目には、食欲なんてない。
初めてだった。
私を餌としてでなく扱ってくれる生き物なんて。
生まれ出てから死ぬまでの間で、餌以外の存在になる時間なんて思いもしなかった。
私はこの瞬間、餌ではなかった。
食べられる間際になって、私は恋を知った。
「どんどんっ、君を、食べ辛くなっていく……!」
彼が苦しげに呻く。
悩んでくれている。苦しんでくれている。
その姿と声だけで、この恋を抱いて覚悟を決めるのには十分だった。
「……遠慮、しないでいいのよ。どうぞ、私を食べて。」
彼が拒んで叫ぶ。
必死で抗う姿に、胸が苦しくて、嬉しくなる。
「初めて、だったけど。私にとっては、最後のキスだった。」
受け継がれることもない、私だけの恋の記憶。
雌として卵を生むこともないけれど、この恋ごと彼に噛み砕かれるならこの上ない“餌”としての最期じゃないんだろうか。
「もう、心残りはないわ。ありがとう、最期に私を、女の子にしてくれて。」
遠い遠い何世代も前の“私”の記憶を掘り起こす。
とっくに色褪せるほど何世代も前の私の遺伝子を持つ女の子が、産卵用の雌として捕獲されるまでに過ごした恋の記憶。
その、餌として受け継がれてきた記憶の中の恋じゃない。
餌として生まれた私は、彼に出会って恋をした。
だから、せめて。
「食べられるなら、あなたがいいですっ!」
彼の記憶とともに、その身の一部になりたい。
「そうだ、食べやすいように、私を床に落としてっ。」
何度も床を蹴って私を捉えるのに苦心していた姿を思い出す。
牙も尖っていなくて口の小さい彼は、きっと私の粘液で滑ってしまうから、吊られた状態では食べにくいに違いない。
「……っ、そういう問題じゃないんです!あなたの、そういう優しいところが……っ!」
彼が絞り出す言葉を聞き終わらないうちに、主人の雌が彼を押しのけ、飛んだ。
繰り出された蹴り足が、私の胴を的確に捉える。
衝撃とともに、吊られていた縄がちぎれる音を聞いた。
襲った衝撃のまま身体が宙に放り出される。
コントロールを失った身体は、なすすべもなく物理法則に翻弄される。
自分の喉からあがる甲高い叫び声が遠い。
遠心力で体液が頭に集まリ、思考が白くなる。
「パンデモニウムさんっ!」
彼の、声がした。
「しん、ぱ……っ。」
彼の名前。
主人の雌が読んでいた彼の名前。
私が恋をした人の名前。
私にキスを知らせてくれた人の名前。
遠ざかる意識の中、回転する景色の中で彼の姿を探す。
彼は身を乗り出し、必死の形相で私に向かって手を伸ばして――。
身を揺らす衝撃とともに受け止められたのは、生臭い口臭に満ちた、鋭く大きな牙のある口。
何重にも全身を貫く太い円筒形の牙と、口蓋で押しつぶされる感触。
強烈な痛覚、膨大な恐怖に包まれる意識の暗転の間際、私は恋の素晴らしさを思い出していた。
私は餌として生まれて、餌として死んだ。
だけど、短い生の間で、確かに恋を知ったのだった。
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